イエズスのほかに、もっとすぐれたものを

さがすことはいらない

 

心理学

 

 

 

 

1.トマス・ア・ケンピス

2.サンダー・シング

3.ヨゼファ・メネンデス

4.マリア・ワルトルタ

5.ヴァッスーラ・・・霊的指導を得させようと あなたを東にも西にも送らず、北にも南にも送らなかった

6.スウェーデンボルグ・・・主の中には無限の凡ゆる幸福が在り、主御自身は神的愛であり、そして愛の本質はその愛する他の者にそれ自身の凡ての善を伝えること

7.ベルナルド

 

 

 

 

1.トマス・ア・ケンピス

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・25・6

 

イエズスのほかに、もっとすぐれたものをさがすことはいらないのである。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・1・2

 

 あなたはキリストさえあれば、富める者で不足がない。主があなたのために用意し、忠実にすべてをして下さるので、あなたは少しも人に頼る必要がなくなるだろう。なんとなれば、人は変わりやすく、すぐに死んでしまうが、キリストは永遠においでになって、終りまであなたを忠実に助けてくださるからである。

 

 

 

 

2.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P182

 

 今のわたしは、富も地位も名誉も望まない。いや、天国さえも望まない。ただ、自分の心を天に変えしめた主のみを必要とする。主の無限の御愛は、それ以外のすべてのものに向けられる愛を一掃した。クリスチャンと呼ばれる人々の中に、主の尊い、生命を与える臨在感を実感できない人々が多いのは、キリストが彼らの頭や聖書の中に生きているだけで、心(ハート)の中に生きていないからである。人は、心を開け渡すときのみ主を見出す。心(ハート)はキリストの王座である。王たるキリストの支配する心(ハート)こそ、天の都である。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P310

 

心(ハート)は、この世のどんなものによっても満たすことはできない。心をお創りになった方によってしか満たすことはできないのです。主ただお一人のみが、それを満たすことができるのです。わたしは家と人とを捨てなければなりませんでした。わたしはすべてを失いました。しかし、わたしはキリストの中に、すべてを見出しました。この世の与えることのできなかった、取り去ることもできない、言い知れぬ平和を、キリストの中に見たのです。ただ信仰の友と一緒にいるときだけではなく、困難の最中にあっても、わたしは平和を見出したのです。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P318

 

 われらが救い主は、こういわれました。「神の国をまず求めなさい。そうすれば他のものも与えられます」。わたしたちは、ものを祈り求めるのではなく、その与え手を祈り求めなければなりません。生命ではなく、生命の与え手を求めなければならないのです。真理を探究した多くの人々が、このことを経験しています。たとえ世界が与えられても、天国さえ与えられても、わたしたちの心(ハート)は満たされることはありません。心は主の中でしか満たされないのです。神は、霊の生命(いのち)を祈り求める方法を知るよう、わたしたちに求められています。わたしたちを造られ、平和への願いをお与えになった方と出会うときに、わたしたちは地上天を見出しているのであり、それ以外のことは何も求めなくなります。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P319

 

 回心前のわたしは、この世のもので魂を満たそうとしましたが、不可能でした。古い宗教を試しましたが、何にもなりませんでした。キリストについて少しは知っていたものの、主ご自身を知らずにいました。わたしが主を憎んでばかりいたのは、霊的な目が閉ざされていたからです。しかし、キリストを知るにいたって、主を愛し始めました。わたしは「自分が何を求めているのかわからない」状態にありました。そして、神が、何を求めるべきかを教えてくださったのです。神は物をお与えにはなりません。ご自身をお与えになります。こうして、わたしたちは、主の中で満ち足りを憶えるのです。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P320

 

 十八年前に、わたしは惨めで落ち着かない状態にありました。聖書を取り、そこに油を注いで焼き捨てました。自分の宗教であるヒンドゥー教だけが、唯一真の宗教であると考えていたからです。聖書を焼くことによって、自分は務めを全うしていると考えていました。聖書を焼いてから、わたしはますます落ち着かなくなり、心の平和も歓びもありませんでした。神の意志に逆らうことをしたからであります。それから、自分の頭を線路に載せて命を終わらせたいと思いました。その前に、神がいるのなら救済の道を示さなければならない、さもなければ朝の五時に死にます、と祈り始めました。わたしは、朝の三時に起きて祈り始めましたので、驚くようなことが起こるとは考えもしませんでした。そのようなことを誰からもきかされたことがなかったため、予想だにしておりませんでした。

 わたしは、一つの光と、その光の中に輝かしい神の御顔を見ました。そのお方を識別することはできませんでしたが、お声をききました。「あなたはいつまでわたしを迫害するのか。わたしはあなたのためにわが命を捨てたのである」。その方の美しい御顔が、わたしを見つめていました。目がわたしを見つめ、わたしは心の中に驚くべき平和を感じました。それをいい表すことはできません。目に見えないものを感じたのです。わたしは、主の栄光を見、生けるキリストを感じました。二千年昔に死んだキリストではなく、今も生きておられるキリストをです。ヒンディー語でも、英語でも、このときの感覚は表現できません。今、わたしは主を信じています。それは、世界の救い主であると聖書に書かれているからではなく、主の生命と臨在の経験を持ったからであり、二分や三分ではなく、まる十八年にわたって主はその生命を与えてくださっているからです。主が生けるキリストでなかったならば、わたしがここにいることはなかったでありましょう。しかし、主はまさしく生けるキリストなのであります。わたしは、自分が何を求めているかもわからずに祈っていました。しかし、主ご自身が現れてくださってから、わたしは知りました。『あなたご自身をお与えください』―それこそが真の祈りなのであります。願う人は、主の中においてしか、けっして満たされることはありません。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P338

 

今日、こんなにも多くの新宗教があるのは、人々が彼らを満たしてくれるイエス・キリストを知らないからであります。人々は、これを信じ、あれを信じ、それでも足りなければ、また別のものを受け入れる。それでも満ち足りてはいません。みなさん、わたしたちを満たせるのは教えでも、倫理でもありません。生けるキリストなのです。わたしは、様々な国々で、キリストを嫌悪する人々を多く見てきました。ところが、主を知るや、彼らは変えられたのであります。彼らは、主の中に強さと力を見たのであります。

 

われわれの生活が祈りの生活となり、われわれがこの世界において主を知り、主を愛するように、主がわれわれを助けてくださいますように。

 

 

 

 

3.ヨゼファ・メネンデス

 

 

ヨゼファ・メネンデス 『愛の招き』P26

 

“人々にわたしの聖心(みこころ)を打ち明けるのを手伝ってくれ。わたしはかれらに、”わたし以外に幸福を探そうとも、見出されないだろう。“と言いに来たのである。苦しみ、愛するように・・・我々は霊魂を征服しなければならないのだから・・・。”(1923年6月13日)

 

 

 

ヨゼファ・メネンデス/愛の招き/P184

 

 “わたしは霊魂にとって唯一の幸福なのだ、それなのに人々はどうしてわたしから遠ざかって行くのだろう。”

 

 

 

ヨゼファ・メネンデス/愛の招き/P324

 

わたしの聖心を焼きつくす熱愛に、心を合わせたいと望む人々が、わたしこそ幸福そのもので、報いであることをよく知るように。

 

 

 

ヨゼファ・メネンデス/愛の招き/P448

 

それからみ主(あるじ)は行ってしまわれました。ああこのような瞑想が終わったあと、自分一人きり地上に残されているのに気がつくのは、何と悲しいことでしょう。こんなちっぽけな私はこんな幸福に堪えられません。地上のものはどんなにつまらないか、どんなよいものでも、すべて心をひかれることがなくなります。説明できませんが、大へんはっきりした光の下に、すべてから離れて「神のみ」ということがわかりました。今日この聖体拝領後、私は心の底から誓願を新たにして、再び身を全くお任せしました。既にみ主は私の心をとらえていらっしゃいますが、私は一番愛するものすべてを捧げて、奉献いたしました。故国、家族、フィアン(修道院)、すべて・・・み主だけしか望みません。もっと心の苦しみをお望みになるならばその苦しみもお捧げいたします。ああ私はほんとうにみ主に憧れています。

 

 

 

ヨゼファ・メネンデス/愛の招き/P468

 

 すべての人に訴える・・・奉献された人にも、世俗の人にも、善人にも、罪人にも学者にも、無学な者にも命ずる者にも従う者にも、すべての人にわたしはいおう。幸福を捜すならわたしのうちにそれがある。富を求めるならばわたしは無限の富である。平和を願うのならばわたしが平和である。わたしは仁慈と愛である。わたしを王として認めなければならない。

 

 

 

 

4.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩 上/P164

 

神との友情、信者の幸福は、他のどんな富にも比べられないもので、その富を持っている人は、いつでも孤独ではなく、絶望、落胆の苦さを感じることがありません。しかし聖なる友情よ、あなたは苦しみを皆無にするのではありません。苦しみは肉体となった神のはからいで、人間の運命でもありうるからです。

 

 

 

ヴァルトルタ/自叙伝/P542

 

さあ、イエズスのところへ行きましょう。いつも行きましょう。もしも、罪の陰りすら感じないほど純粋無垢であるならば、イエズスのところへ行きましょう。イエズスご自身が純粋さに包まれているからです。もし罪があるならば、イエズスのところへ行きましょう。彼はまさに罪人の贖いのために天から来られたのですから。私たちの弱さにブレーキをかけ、改良するのを助けていただくために、イエズスのところへ行きましょう。「明日は、イエズスを受け取ろう」という思いは、いつも野生の馬のように棒立ちになろうとする私たちの情念を制御するのに最良の馬銜(はみ)ですから。また、「今日はイエズスを喜ばせた」という思いは、一日のしめくくりに最良の餞(はなむけ)です。どんな苦痛をも癒やす香油、天使たちに守られて真に休息するための消憂薬です。魂を自分とも神とも和解させて、深い眠りにふける被造物は、甘美な夢を見るでしょう。その夢は、体を回復させ、魂に翼を与えるでしょう。たとえ夢の中ででも、神へと舞い上がる翼を!

 

 

5.霊的指導を得させようと あなたを東にも西にも送らず、北にも南にも送らなかった・・・ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P221

 

私は、我がヴァッスーラ、この歳月 あなたの助言者だったが 同時に友でもあった、そして夜の間ですら あなたの内奥の自己を教え導き、あなたの霊魂に 我が現存で限りない歓びを与えた。 ほかの誰でもなく 私の 輝かしい現存だけに絶え間なく目を引き上げるよう 限りない愛をもって訓練してきた。 私が常にただ一人の霊的指導者 助言者であり、英知による指示を霊魂に与えてきた、霊的指導を得させようと あなたを東にも西にも送らず、北にも南にも送らなかった、私にまさる霊的指導を ほかのどこで得られよう? 霊魂をおおう闇をのぞき込み あなたの内奥の自己に真実の判断を下して その病に注意を喚起できるのは 私しかいなかった。 するとどうなったか、私への反抗心を放棄させたであろう? 道を逸れて行かないよう 歩むべき小道をなぞり 我が名をあなたの紋章として 我が足跡を辿らせたであろう?

 

 

 

 

6.スウェーデンボルグ・・・主の中には無限の凡ゆる幸福が在り、主御自身は神的愛であり、そして愛の本質はその愛する他の者にそれ自身の凡ての善を伝えること

 

 

結婚愛335

 

この凡ての幸福が真の結婚愛にいる者たちに初めから供えられたのは、主の中には無限の凡ゆる幸福が在り、主御自身は神的愛であり、そして愛の本質はその愛する他の者にそれ自身の凡ての善を伝えることであり、それで主は人間とともにこの愛を創造られて、これらの幸福を受け、認める能力をその上に印刻されたためである。与えられることの出来る凡ゆる祝福、満足、歓喜を主から与えられている或る愛が存在していることを認めることが出来ないまでに心の鈍い、理性を欠いた者があろうか。

 

 

 

 

7.ベルナルド

 

 

ベルナルド/雅歌について/第二巻P56

 

イエズス・キリストこそ神の善徳だということを知らない者が、どうして世のいわゆる徳と関わり合いを持つことができるのでしょうか。枢要徳である本当の“賢徳”は、イエズス・キリストの教えの中にこそあるのです。本当の“義徳”は、イエズス・キリストのあわれみの中にこそあるのです。本当の“節制”は、イエズス・キリストの生活の中にこそあるのです。本当の“勇気”は、イエズス・キリストの受難の中にこそあるのです。

 そんな訳で、キリストの教えに精通している者だけが、賢者と呼ばれる資格があるのです。キリストのあわれみによって、自分の罪の赦しをいただいた者だけが、義人と呼ばれる資格があるのです。キリストの生き方をまねようと努力している者だけが、禁欲者と呼ばれる資格があるのです。逆境にあってキリストの忍耐のひな型をいつも実行している者だけが、勇者と呼ばれる資格があるのです。だから、善徳の主キリスト以外の所に善徳があると信じて、主キリスト以外の所に善徳を探し求めている者は、無駄な努力をしているのです。なぜなら、キリストの教えこそ、賢徳の源だからです。キリストのあわれみこそ、義徳の泉だからです。キリストの生活こそ、節制の鏡だからです。キリストの死こそ、あらゆる勇気の手本だからです。このキリストにこそ誉れと栄光が世々にありますように。アーメン。