イエズスのほかに、もっとすぐれたものを
さがすことはいらない
1.聖書
2.トマス・ア・ケンピス
3.サンダー・シング
4.ヨゼファ・メネンデス
5.マリア・ワルトルタ
6.ヴァッスーラ・・・霊的指導を得させようと あなたを東にも西にも送らず、北にも南にも送らなかった
7.スウェーデンボルグ・・・主の中には無限の凡ゆる幸福が在り、主御自身は神的愛であり、そして愛の本質はその愛する他の者にそれ自身の凡ての善を伝えること
8.ベルナルド
9.浅原才市
10.石井藤吉
イザヤ9・1−6
闇の中を歩む民は、大いなる光を見
死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
あなたは深い喜びと
大きな楽しみをお与えになり
人々は御前に喜び祝った。
刈り入れの時を祝うように
戦利品を分け合って楽しむように。
彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を
あなたはミディアンの日のように
折ってくださった。
地を踏み鳴らした兵士の靴
血にまみれた軍服はことごとく
火に投げ込まれ、焼き尽くされた。
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。
その名は、「驚くべき指導者、力ある神
永遠の父、平和の君」と唱えられる。
ダビデの王座とその王国に権威は増し
平和は絶えることがない。
王国は正義と恵みの業によって
今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。
万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。
イザヤ45・15
まことにあなたは御自分を隠される神
イザヤ65・1−2
わたしに尋ねようとしない者にも わたしは、尋ね出される者となり
わたしを求めようとしない者にも 見出される者となった。
わたしの名を呼ばない民にも わたしはここにいる、ここにいると言った。
反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に 絶えることなく手を差し伸べてきた。
ローマ10・20
イザヤも大胆に、
「わたしは、わたしを探さなかった者たちに見いだされ、
わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」
と言っています。
マタイ13・46
また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
2.トマス・ア・ケンピス
キリストに倣いて1・3・2
私たちには物の種類や区別を論ずる学者の説など、何の関係があろうか! 永遠のみ言葉を聴く人は、さまざまの説に惑わされずにすむのである。
万物は一つのみ言葉によって成り、すべてこの唯一(ひとつ)の創造主(もの)を語っている。これこそ万物の本源(みなもと)であって、いまも私たちにお語りになるのである。
このみ言葉がなければ、だれひとり明らかに悟ることも正しく判断することもできない。
この一つをすべてとし、すべてをこの一つに帰し、またすべてをこの一つのうちに見る人は、決して心を動かされず、神の平安を失わないだろう。
ああ真理である神よ、私を永遠(とこしえ)の愛のうちに、主と一つにして下さい。
多く読んだり聞いたりすることは、しばしば私をウンザリさせます。しかし私の願うもの望むものはみなあなたの中にあるのです。
すべての学者は口を閉じよ、あらゆる被造物はみ前に黙せよ、ただ主だけ私にお語り下さい!
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・25・6
イエズスのほかに、もっとすぐれたものをさがすことはいらないのである。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・25・10
人がその慰めをどんな被造物からも求めないようになれば、その時からようやく神を完全に味わいはじめるので、どんなことに出会っても、よく満足していられるのである。
そうなると、かれは大きいことも喜ばず、小さいことも悲しまない。そして神はかれにとってすべてのすべてでおいでになり、そのみ前には何物も滅びず死なず、万物ことごとく生きて、躊躇せずそのお指図に従うのであるが、かれはその神に安心してまったく自分をお任せするのである。
あなたはキリストさえあれば、富める者で不足がない。主があなたのために用意し、忠実にすべてをして下さるので、あなたは少しも人に頼る必要がなくなるだろう。なんとなれば、人は変わりやすく、すぐに死んでしまうが、キリストは永遠においでになって、終りまであなたを忠実に助けてくださるからである。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・1・6
もしあなたが一度でもキリストのみ心にまったくはいり、少しでもそのもえるようなおん愛を味わったならば、自分の損得などはかえりみず、むしろ恥ずかしめを受けて喜ぶだろう。それはイエズスをお
愛しすると、人は自分を軽んずるようになるからである。
イエズスと真理とを愛し、ほんとうに内的で、乱れた欲情(よく)から逃れた人は、自由に神に向かい、その精神をもって自我を超越し、神を味わい安心することができよう。
イエズスがいっしょにいてくだされば、万事うまく行って、何事も困難とは思われない。しかしイエズスがいっしょにいてくださらないとすべてが困難である。
イエズスが私たちの内心に語りたまわぬ時は、どんな慰めも効力がない。けれどもイエズスがただ一言でもお語りになると、大きい慰めを感ずるのである。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・8・2
イエズスがおいでにならなければ、この世はあなたに何を与えることができよう?
イエズスなしにいるのはひどい地獄である。しかしイエズスとごいっしょにいるのはたのしい楽園である。
イエズスがあなたといっしょにおいでになれば、どんな敵もあなたを害することはできない。
イエズスを見出す者は、よい宝、しかり、あらゆるよいものにまさる善いものを見出すのである。
またイエズスを失う者は、その失うところきわめて大きく、全世界を失うよりもひどい損をするのである。
イエズスなしに暮らす者は最も貧しい人で、イエズスと親しい者はもっとも富める人である。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・8・3
イエズスとの交わり方を知っているのは大した技術(うで)で、イエズスをお引き留めしておく方法(みち)を知っているのは大した知恵である。
謙遜で温和(おとな)しくせよ、そうすればイエズスはあなたとともにおいでになるだろう。
信仰に熱心で静かにせよ、そうすればイエズスはあなたの所にお留まりになるだろう。もし外部(そと)のものに心を傾けると、あなたはすぐにイエズスを去らせ、その恩恵を失ってしまうことがあろう。
そしてかれを去らせかれを失ったならば、あなたはだれの所へ逃れ、だれを自分の友としようとするのか。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・8・4
すべてのものをイエズスのために愛せよ、しかしイエズスをかれご自身のためにお愛しせよ。特別にお愛しすべきは、ただイエズス・キリストだけである。なんとなればかれ独りすべての友にまさって善良忠実でおいでになるからである。
かれのために、かれに在って、友だちをも敵をも愛せよ。そしてすべての人がかれを知り、かれをお愛しするよう、かれら一同のためかれに祈らなければならぬ。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・9・1
わたしの子よ、あなたがもしほんとうに幸福でありたいとねがうならば、わたしをあなたの最高最終の目的としなければならぬ。
あなたの心はしばしば自分と被造物とに傾き、それによって汚れがちであるが、その心も、かようにわたしに向けることによって、浄められるだろう。
なんとなれば、なにごとかについて、自分のためを計ると、たちまち[善を行うのが]大儀になり、おもしろくなくなってしまうからである。
ゆえにあなたはいっさいをその本源なるわたしに帰するがよい、わたしこそはいっさいの与えぬしだからである。
万物はことごとく最高の善から流れ出たものであると思い、それゆえに万物をその本源なるわたしに帰せよ。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・16・2
すべて人から来る慰めは、むなしくて、長続きしない。
けれども真理ご自身から受ける内心(こころ)の慰めは、楽しくかつ真実である。
信心深い人は、どこにいても慰め主のイエズスとごいっしょで、これに向ってこう申し上げるのである。
「主イエズスよ、どこでも、いつでも、私とともにおいでください。」
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・21・5
ほかの人々は自分の好むままに、主以外の何を求めようと勝手ですが、ただ私にとっては、私の神、私の希望、私の永遠の救いである主を除いては、何も心を歓ばせるものがないのであります。また、今後もないでしょう。
3.サンダー・シング
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P182
今のわたしは、富も地位も名誉も望まない。いや、天国さえも望まない。ただ、自分の心を天に変えしめた主のみを必要とする。主の無限の御愛は、それ以外のすべてのものに向けられる愛を一掃した。クリスチャンと呼ばれる人々の中に、主の尊い、生命を与える臨在感を実感できない人々が多いのは、キリストが彼らの頭や聖書の中に生きているだけで、心(ハート)の中に生きていないからである。人は、心を開け渡すときのみ主を見出す。心(ハート)はキリストの王座である。王たるキリストの支配する心(ハート)こそ、天の都である。
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P310
心(ハート)は、この世のどんなものによっても満たすことはできない。心をお創りになった方によってしか満たすことはできないのです。主ただお一人のみが、それを満たすことができるのです。わたしは家と人とを捨てなければなりませんでした。わたしはすべてを失いました。しかし、わたしはキリストの中に、すべてを見出しました。この世の与えることのできなかった、取り去ることもできない、言い知れぬ平和を、キリストの中に見たのです。ただ信仰の友と一緒にいるときだけではなく、困難の最中にあっても、わたしは平和を見出したのです。
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P318
われらが救い主は、こういわれました。「神の国をまず求めなさい。そうすれば他のものも与えられます」。わたしたちは、ものを祈り求めるのではなく、その与え手を祈り求めなければなりません。生命ではなく、生命の与え手を求めなければならないのです。真理を探究した多くの人々が、このことを経験しています。たとえ世界が与えられても、天国さえ与えられても、わたしたちの心(ハート)は満たされることはありません。心は主の中でしか満たされないのです。神は、霊の生命(いのち)を祈り求める方法を知るよう、わたしたちに求められています。わたしたちを造られ、平和への願いをお与えになった方と出会うときに、わたしたちは地上天を見出しているのであり、それ以外のことは何も求めなくなります。
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P319
回心前のわたしは、この世のもので魂を満たそうとしましたが、不可能でした。古い宗教を試しましたが、何にもなりませんでした。キリストについて少しは知っていたものの、主ご自身を知らずにいました。わたしが主を憎んでばかりいたのは、霊的な目が閉ざされていたからです。しかし、キリストを知るにいたって、主を愛し始めました。わたしは「自分が何を求めているのかわからない」状態にありました。そして、神が、何を求めるべきかを教えてくださったのです。神は物をお与えにはなりません。ご自身をお与えになります。こうして、わたしたちは、主の中で満ち足りを憶えるのです。
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P320
十八年前に、わたしは惨めで落ち着かない状態にありました。聖書を取り、そこに油を注いで焼き捨てました。自分の宗教であるヒンドゥー教だけが、唯一真の宗教であると考えていたからです。聖書を焼くことによって、自分は務めを全うしていると考えていました。聖書を焼いてから、わたしはますます落ち着かなくなり、心の平和も歓びもありませんでした。神の意志に逆らうことをしたからであります。それから、自分の頭を線路に載せて命を終わらせたいと思いました。その前に、神がいるのなら救済の道を示さなければならない、さもなければ朝の五時に死にます、と祈り始めました。わたしは、朝の三時に起きて祈り始めましたので、驚くようなことが起こるとは考えもしませんでした。そのようなことを誰からもきかされたことがなかったため、予想だにしておりませんでした。
わたしは、一つの光と、その光の中に輝かしい神の御顔を見ました。そのお方を識別することはできませんでしたが、お声をききました。「あなたはいつまでわたしを迫害するのか。わたしはあなたのためにわが命を捨てたのである」。その方の美しい御顔が、わたしを見つめていました。目がわたしを見つめ、わたしは心の中に驚くべき平和を感じました。それをいい表すことはできません。目に見えないものを感じたのです。わたしは、主の栄光を見、生けるキリストを感じました。二千年昔に死んだキリストではなく、今も生きておられるキリストをです。ヒンディー語でも、英語でも、このときの感覚は表現できません。今、わたしは主を信じています。それは、世界の救い主であると聖書に書かれているからではなく、主の生命と臨在の経験を持ったからであり、二分や三分ではなく、まる十八年にわたって主はその生命を与えてくださっているからです。主が生けるキリストでなかったならば、わたしがここにいることはなかったでありましょう。しかし、主はまさしく生けるキリストなのであります。わたしは、自分が何を求めているかもわからずに祈っていました。しかし、主ご自身が現れてくださってから、わたしは知りました。『あなたご自身をお与えください』―それこそが真の祈りなのであります。願う人は、主の中においてしか、けっして満たされることはありません。
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P338
今日、こんなにも多くの新宗教があるのは、人々が彼らを満たしてくれるイエス・キリストを知らないからであります。人々は、これを信じ、あれを信じ、それでも足りなければ、また別のものを受け入れる。それでも満ち足りてはいません。みなさん、わたしたちを満たせるのは教えでも、倫理でもありません。生けるキリストなのです。わたしは、様々な国々で、キリストを嫌悪する人々を多く見てきました。ところが、主を知るや、彼らは変えられたのであります。彼らは、主の中に強さと力を見たのであります。
われわれの生活が祈りの生活となり、われわれがこの世界において主を知り、主を愛するように、主がわれわれを助けてくださいますように。
4.ヨゼファ・メネンデス
ヨゼファ・メネンデス 『愛の招き』P26
“人々にわたしの聖心(みこころ)を打ち明けるのを手伝ってくれ。わたしはかれらに、”わたし以外に幸福を探そうとも、見出されないだろう。“と言いに来たのである。苦しみ、愛するように・・・我々は霊魂を征服しなければならないのだから・・・。”(1923年6月13日)
ヨゼファ・メネンデス/愛の招き/P184
“わたしは霊魂にとって唯一の幸福なのだ、それなのに人々はどうしてわたしから遠ざかって行くのだろう。”
ヨゼファ・メネンデス/愛の招き/P324
わたしの聖心を焼きつくす熱愛に、心を合わせたいと望む人々が、わたしこそ幸福そのもので、報いであることをよく知るように。
ヨゼファ・メネンデス/愛の招き/P448
それからみ主(あるじ)は行ってしまわれました。ああこのような瞑想が終わったあと、自分一人きり地上に残されているのに気がつくのは、何と悲しいことでしょう。こんなちっぽけな私はこんな幸福に堪えられません。地上のものはどんなにつまらないか、どんなよいものでも、すべて心をひかれることがなくなります。説明できませんが、大へんはっきりした光の下に、すべてから離れて「神のみ」ということがわかりました。今日この聖体拝領後、私は心の底から誓願を新たにして、再び身を全くお任せしました。既にみ主は私の心をとらえていらっしゃいますが、私は一番愛するものすべてを捧げて、奉献いたしました。故国、家族、フィアン(修道院)、すべて・・・み主だけしか望みません。もっと心の苦しみをお望みになるならばその苦しみもお捧げいたします。ああ私はほんとうにみ主に憧れています。
ヨゼファ・メネンデス/愛の招き/P468
すべての人に訴える・・・奉献された人にも、世俗の人にも、善人にも、罪人にも学者にも、無学な者にも命ずる者にも従う者にも、すべての人にわたしはいおう。幸福を捜すならわたしのうちにそれがある。富を求めるならばわたしは無限の富である。平和を願うのならばわたしが平和である。わたしは仁慈と愛である。わたしを王として認めなければならない。
5.マリア・ワルトルタ
わたしに結ばれていなさい。わたしのうちには正義と平和と愛がある。ほかの教説を探し求めてはならない。福音を生きなさい。そうすればあなたたちは幸せになるだろう。わたしによって生き、わたしのうちに生きなさい。あなたたちは肉体的な大きなよろこびは味わわないだろう。わたしはそんなよろこびは与えない。真のよろこびを与える。それは単なる肉のよろこびであるだけでなく、わたしが授け、承認し、共有するのを拒まなかった霊魂のよろこび、誠実で祝福された、聖なるよろこびである。
家族、子供たち、清廉な裕福、穏やかに栄える祖国と、兄弟たちとの国々との好ましい調和。こういったものをわたしは聖なるものと呼び、祝福する。それらによってあなたたちは健康をも享受する。なぜなら誠実に生きられる家庭生活は肉体に健康を与えるからだ。それらによってあなたたちは心の平静を得る。なぜなら誠実に行われた取引や職業は良心の安らぎを与えるからだ。それらによってあなたたちは祖国と国々の平和と繁栄を得る。なぜなら同胞や隣国の人々と好ましい調和のうちに生きることによって、あなたたちは怨恨と戦争を避けるからだ。
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩 上/P164
神との友情、信者の幸福は、他のどんな富にも比べられないもので、その富を持っている人は、いつでも孤独ではなく、絶望、落胆の苦さを感じることがありません。しかし聖なる友情よ、あなたは苦しみを皆無にするのではありません。苦しみは肉体となった神のはからいで、人間の運命でもありうるからです。
ヴァルトルタ/自叙伝/P542
さあ、イエズスのところへ行きましょう。いつも行きましょう。もしも、罪の陰りすら感じないほど純粋無垢であるならば、イエズスのところへ行きましょう。イエズスご自身が純粋さに包まれているからです。もし罪があるならば、イエズスのところへ行きましょう。彼はまさに罪人の贖いのために天から来られたのですから。私たちの弱さにブレーキをかけ、改良するのを助けていただくために、イエズスのところへ行きましょう。「明日は、イエズスを受け取ろう」という思いは、いつも野生の馬のように棒立ちになろうとする私たちの情念を制御するのに最良の馬銜(はみ)ですから。また、「今日はイエズスを喜ばせた」という思いは、一日のしめくくりに最良の餞(はなむけ)です。どんな苦痛をも癒やす香油、天使たちに守られて真に休息するための消憂薬です。魂を自分とも神とも和解させて、深い眠りにふける被造物は、甘美な夢を見るでしょう。その夢は、体を回復させ、魂に翼を与えるでしょう。たとえ夢の中ででも、神へと舞い上がる翼を!
6.霊的指導を得させようと あなたを東にも西にも送らず、北にも南にも送らなかった・・・ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P221
‘ 02・6・1
私は、我がヴァッスーラ、この歳月 あなたの助言者だったが 同時に友でもあった、そして夜の間ですら あなたの内奥の自己を教え導き、あなたの霊魂に 我が現存で限りない歓びを与えた。 ほかの誰でもなく 私の 輝かしい現存だけに絶え間なく目を引き上げるよう 限りない愛をもって訓練してきた。 私が常にただ一人の霊的指導者 助言者であり、英知による指示を霊魂に与えてきた、霊的指導を得させようと あなたを東にも西にも送らず、北にも南にも送らなかった、私にまさる霊的指導を ほかのどこで得られよう? 霊魂をおおう闇をのぞき込み あなたの内奥の自己に真実の判断を下して その病に注意を喚起できるのは 私しかいなかった。 するとどうなったか、私への反抗心を放棄させたであろう? 道を逸れて行かないよう 歩むべき小道をなぞり 我が名をあなたの紋章として 我が足跡を辿らせたであろう?
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P223
あなたが 花よ、花を咲かせ 私にこれからも感謝を捧げていけるよう 直接我が心に近づく手立てを与えた。 私に 感謝を捧げつづけなさい そうするならあなたの犠牲としてそれを受け取る その言葉は私を尊ぶものとなろう・・・
知るように、まこと愛する者よ、我が名を告げることは 私への讃美と誉れになる。 あなたを愛している、ヴァスーラ。 死人は私を讃美できない。 彼らは黙している。 この世は決して 我が三位一体の聖性を祝福できない。 沈黙している。 死の影が あちこちに漂っている。 私は現存し 我が力は癒し救う、だが、今日の世の中を見よ、恵みに応えた人はわずかで 私、ヤハウェのうちに 隠れ家を見いだそうとはしなかった。 私を畏れる者はほんのわずかしかいない、ヴァスーラ。 死が目前に迫っているのに それでも、この世は 我が聖なる名を呼び求めようとはしない。 この世代は私と歩むのを 拒んでいる。
死人の地に あなたを送った、そこは荒廃と絶望が多くの心を支配する地。 今や悪霊のわながはっきりと見えていながら、それでも 無関心なこの世は 私の教えを憎みつづける。 我が掟は絶えず破られている。
7.スウェーデンボルグ・・・主の中には無限の凡ゆる幸福が在り、主御自身は神的愛であり、そして愛の本質はその愛する他の者にそれ自身の凡ての善を伝えること
結婚愛335
この凡ての幸福が真の結婚愛にいる者たちに初めから供えられたのは、主の中には無限の凡ゆる幸福が在り、主御自身は神的愛であり、そして愛の本質はその愛する他の者にそれ自身の凡ての善を伝えることであり、それで主は人間とともにこの愛を創造られて、これらの幸福を受け、認める能力をその上に印刻されたためである。与えられることの出来る凡ゆる祝福、満足、歓喜を主から与えられている或る愛が存在していることを認めることが出来ないまでに心の鈍い、理性を欠いた者があろうか。
ベルナルド/雅歌について/第二巻P56
イエズス・キリストこそ神の善徳だということを知らない者が、どうして世のいわゆる徳と関わり合いを持つことができるのでしょうか。枢要徳である本当の“賢徳”は、イエズス・キリストの教えの中にこそあるのです。本当の“義徳”は、イエズス・キリストのあわれみの中にこそあるのです。本当の“節制”は、イエズス・キリストの生活の中にこそあるのです。本当の“勇気”は、イエズス・キリストの受難の中にこそあるのです。
そんな訳で、キリストの教えに精通している者だけが、賢者と呼ばれる資格があるのです。キリストのあわれみによって、自分の罪の赦しをいただいた者だけが、義人と呼ばれる資格があるのです。キリストの生き方をまねようと努力している者だけが、禁欲者と呼ばれる資格があるのです。逆境にあってキリストの忍耐のひな型をいつも実行している者だけが、勇者と呼ばれる資格があるのです。だから、善徳の主キリスト以外の所に善徳があると信じて、主キリスト以外の所に善徳を探し求めている者は、無駄な努力をしているのです。なぜなら、キリストの教えこそ、賢徳の源だからです。キリストのあわれみこそ、義徳の泉だからです。キリストの生活こそ、節制の鏡だからです。キリストの死こそ、あらゆる勇気の手本だからです。このキリストにこそ誉れと栄光が世々にありますように。アーメン。
8.悪い生命の中にいる者は善を、また主を知ることのみしか許されない
冒涜/
天界の秘義2357
「彼の後で戸を閉じた」。これは、彼らが仁慈の善に暴行を加えないように、また主の神的な人間的なものと発出している聖いものとを否定しないように、を意味していることはすでに言ったことから明白である。現在の場合『その戸を閉じる』ことは、彼らが『家』により意味されている善に入らないように、それで主の神的なものと聖いものとに入らないように、を意味しているのである。
天界の秘義2357[2]
これらの事柄にはさらに深いアルカナが含まれていて、そのアルカナの意義と観念の中へ、天使たちはこれらの言葉が読まれている時、入って来るのである、すなわち悪い生命の中にいる者は善を、また主を知ることのみしか許されないで、善を、また主を承認し、信じることは許されはしないのであり、それは彼らが悪の中にいる限り、それと同時に善の中に入ることが出来ないという理由によっている。たれ一人二人の主人に兼ね仕えることは出来ない。一度承認して、信じる者が悪の生命に帰ると、その者は善い、聖いものを冒涜するが、しかし承認はしないし、信じもしない者は冒涜することは出来ないのである。それで人間は心情の承認と信仰そのものの中へは、その者が後で留め置かれていることが出来る辺りより先へは入れられないように、主の神的な摂理により配慮が払われているが、そのことは冒涜の刑罰のためであって、その刑罰は地獄における最も痛ましいものである。
天界の秘義2357[3]
これが現今愛と仁慈との善は人間における天界であり、神的なものはすべて主の中にあることを心から信じることが極めて僅かな者にしか与えられていない理由となっている、なぜなら現今人間は悪の生命の中にいるからである。それでこのことがロトが彼の後で戸を閉じたことによりさらに内的に意味されていることである。なぜならこの戸は内側の戸であってそこを通って天使たちがいた家そのものに、すなわち、主がその中におられる善の中へ入ることが出来たからである。
「わしらちや 如来さんとおるが いっちええ
お寺いまいるときには つれてまいてもろをて
もどるときには わしについて もどりなさるし
しごとをするときにも はなしをして しごとするし
ありがたいよ」
10.石井藤吉
石井藤吉『天国への死刑囚』P148
第五に、「憂うるに似たれども常に喜び」であります。このおことばは私の今日の境遇を人の目から見れば、彼は死刑の宣告を受けておる身であるから、定めて日々に憂い心でおることであろうとおぼしめすなれども、私は決して憂い心もなく、煩悶苦痛もいたしませぬ。身は獄屋の一間九尺の1室に閉じ込められていても、かえって社会にいて神ということを知らなくて、日々罪を犯して日送りをいたしておった時よりも喜びはあふるるばかりであります。これは日々夜々一分時も絶え間なく、主イエス・キリストとお話しいたしておるからであります。