冒瀆

 

 

“霊”に対する冒瀆は赦されない(マタイ12・31)

見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである(マタイ13・13)

 

 

 

 

1.冒瀆

2.神の憐れみに限度を設けること

3.永遠の堕地獄

4.ユダヤ民族に信仰の諸々の秘義が啓示されなかった理由

5.基督教徒よりも異邦人が多く救われる理由         

6.聖物冒瀆

7.なんじ、偽証するなかれ

8.ヴァッスーラより

9.マリア・ワルトルタ

10.基督教会に主の人間的なものが神的なものであることを啓示されなかった理由

11.善を不善化する者らは不潔なものを自分自身のものとして、そこから礼拝を汚し、冒涜する

12.『神の御名を冒涜すること』は主の人間的なものの神性を否定し、または承認しないこと

13.最悪の運命がこうしたことがそのもとに起こる人間を待っている

14.それ

15.7種類の冒涜について

16.信仰について、その後で信仰から後退するよりは、不信仰の中に留めおかれる方がまさっている

17.ドレックス教授

18.癩病

19.人間は可能な限り冒涜から遠ざけられる

20.聖言を冒涜すると無神経となり、自分自身から残りのものを剥ぎ取ってしまう

21.聖言を冒涜する、または否定する者ら

22.詐欺

23.幼児洗礼

24.聖言から教会の教義を引き出さないで、それを自分自身の理知から考案することは冒瀆

 

 

 

1.冒瀆

 

 

天界と地獄456注3

 

冒涜は人間のもとに善と悪が、また真理と誤謬とが混合することである、6348。最初善と真理を、または聖言と教会との聖い物を承認し―もしそれに従って生きるならば、尚更のことではあるが―後になってその信仰から後退し、それらを否定し、自分自身と世とのために生きる者以外には何人もそれを冒涜することは出来ない、593、1008、1010、1059、3398、3399、3898、4289、4601、10284、10287。もし人間が悔改めた後以前の悪へ再び帰るならば、彼は冒涜する者となって、その後の状態は前の状態よりは悪くなる、8394。聖い物を承認しなかった者はそれを冒涜することは出来ない、ましてそれを知らなかった者はそれを冒涜するはずはない、1327、1328、2051、2284。そうした理由からユダヤ人には内的な諸真理は明らかにされなかった、もしそれが明らかにされて、承認されたなら、その民族はそれを冒涜したであろう、3398、4289、6963。冒涜者の他生における運命は凡ての中で最悪のものである、なぜなら彼らが承認した善と真理とは存続し、同じく悪と誤謬も存続し、それらはともに密着しているため、その生命は引き裂かれるからである、571、582、6348.それで冒涜を避けるため、主により非常に入念な配慮が為されている、2426、10287。

 

 

 

天界の秘義301

 

人間が転倒した秩序の生命となって、自分自身から、また自分自身のものから生き、または賢明になることを望んで、(主から)生き、賢明になることを願わなくなると、信仰について聞く凡ての事柄についてはそれがそのようなものであるか、ないかと論じるのであり、そしてそうしたことを自分自身と自分自身の感覚と記憶知に属したものから行うため、必然的にそれは否定に陥り、従って涜神と冒涜とに陥らない訳にはいかないのであり、かくて彼らはついには汚れたものと聖いものとを混合することにためらいはしなくなるのである。人間がこのようなものになると、その者は他生では救いの望みが些かも残らない程にも罪に定められるのである。なぜなら冒涜により混合したものはそのように混入したままに止まり、かくて聖いものについて何らかの観念[考え]が現れると必ず、それに連続した汚れたものの観念もまたそこに存在し、その結果その人間は呪われた者[地獄に投げこまれた者]の社会を除いてはいかような社会にもいることが出来なくなるのである。思考の何らかの観念の中に、その観念に連結している結果現存しているものはことごとく、他生では、霊たちの世界の霊たちによってすら極めて精妙に認められており、天使的な霊によっては遥かに精妙に認められており、実に唯一つの観念から人物の性格が知られるほどにも精妙に認められている。汚れた観念[考え]と聖い観念[考え]とがこのように連結しているとき、その二つのものを分離することは奈落の拷問によらなくては―もし人間がそれを知るならば地獄そのものを避けるようにも入念に冒涜を避けるであろうが、そうした奈落の拷問によらなくては―不可能である。

 

 

 

天界の秘義302

 

これが信仰の諸々の秘義がユダヤ人には決して啓示されなかった理由である。

 

 

 

天界の秘義571

 

 人間が信仰の真理をその狂った欲念に惑溺させてしまうような性格のものになると、そのとき彼は真理を冒涜し、自分自身から残りのものを剥ぎ取ってしまうのであり、それは残ってはいるけれども、現れることは出来ないのである、なぜならそれは現れると直ぐに汚れた物により再び汚されてしまうからである、なぜなら聖言を冒涜すると謂わば無神経になり、そのため障害が生まれて、残りのものの善と真理が吸い込まれてしまうからである。それ故人は主の聖言を冒涜しないように警戒しなくてはならない、その中には生命が宿っている永遠の諸真理が含まれているのである、たとえ誤った原理の中にいる者らはそれが真理であることを信じてはいないにしても。

 

 

 

天界の秘義1008

 

 「わたしは人間の魂を求めよう」。これは冒瀆が意味していることは前の節とこの節に言われたことから明白である。なぜなら血を食べることが主題となっていて、そのことにより冒瀆が意味されているからである。冒瀆の何であるかを知っている者はさらに僅かしかいない。冒瀆には色々なものがある。信仰の諸真理を全く否定する者は、教会の外に、また知識の外に住んでいる国民のように、それを冒瀆しないのである。しかし信仰の諸真理を知っている者は、特にそれらを承認し、それらを口に語り、それらを説教し、他の者にそれらを信奉するように説きつけ、しかも憎悪、復讐、残酷、姦淫の中に生き、それを聖言から引き出している多くの物により自分自身の中に確認し、その多くの物を歪曲し、かくてそれらを醜悪な悪の中に浸す者はそれを冒瀆するのである。その者こそ冒瀆するのである。そして人間に死をもたらすものは主としてこうした冒瀆であり、このことは以下のことから、すなわち他生では汚れたものと聖いものとは全く分離してしまい、汚れたものは地獄の中に、聖い物は天界の中に分離されてしまうということから明白となるであろう。こうした人間が他生に入ってくると、その思考の凡ゆる観念の中に、丁度身体の生命の中にいたときのように、聖いものが汚れたものに密着しているのである。彼はそこで聖いものの観念を何か一つでも持ち出すならば、必ずそれには汚れたものが密着していることが、丁度日の光の中に見られるように、明白に見られるのであり、他生では他の者の観念はこのように認められているのである。かくて彼の考える一切の事柄の中に冒瀆が明白に認められ、天界は冒瀆を忌み嫌っているからには、彼は地獄に投げ込まれない訳にはいかないのである。

 

 

 

天界の秘義1010〔2〕

 

憎悪を抱いている者は仁慈を持っていないのみでなく、仁慈に暴行を加えるのである、すなわち、「血を流す」のである。憎悪には事実殺害が存在しており、それは以下のことから明白である。すなわち憎悪を抱いている者はその憎んでいる者が殺されることを何ものにもまさって願っており、もし外的な拘束により抑えられもしないならば、彼を殺そうと欲するのである。こうした理由から『兄弟を殺しその血を流すこと』は憎悪であり、そしてそれが憎悪であるからには、その者に対する彼の観念[考え]の各々の中にはそれが存在しているのである。冒涜も同じである。すでに言ったように聖言を冒涜する者は真理を憎むのみでなく、それを消滅させ、または殺すのである。このことは他生にいる冒涜罪を犯した者らから明白である。彼らはその身体の中で生きていた間は外面的には正しい、賢い、敬虔なものとしていかほど見えたにしても、他生では主に、また愛の諸善と信仰の諸真理の凡てに致死的な憎悪の念を抱いているが、それはこれらのものが彼らの内的な憎悪、強奪、姦通に対立しているという理由に基いていて、彼らはその内的な憎悪、強奪、姦通を聖いものの仮面の下で覆い隠し、また愛の諸善と諸真理と不善化してそれらに自分自身を支持させるためである。

 

 

 

天界の秘義1010[3]

 

 『血』が冒涜を意味することは前に引用した記事から明らかであるのみでなく(374番)、モーセの書の以下の記事からも明らかである―

 

イスラエルの家の者の中で、雄牛を、または子羊を、または山羊を宿営の中で殺し、またはそれを宿営の外で殺して集会の天幕の戸の中へ携えてこないで、それをエホバの幕屋の前でエホバに捧げる献納物として捧げない者はたれであっても、その人に血を帰しなくてはならない、彼は血を流すのである。その人をその民から絶たなくてはならない(レビ記17・3,4)。

 

幕屋の近い辺りにあった祭壇以外の場所で生贄を捧げることは冒涜を表象したのである、なぜなら生贄は聖い物であったが、もしそれが宿営の内に、またその外に行われたならば汚れたものとなったからである。

 

 

 

天界の秘義2357

 

「彼の後で戸を閉じた」。これは、彼らが仁慈の善に暴行を加えないように、また主の神的な人間的なものと発出している聖いものとを否定しないように、を意味していることはすでに言ったことから明白である。現在の場合『その戸を閉じる』ことは、彼らが『家』により意味されている善に入らないように、それで主の神的なものと聖いものとに入らないように、を意味しているのである。

 

 

 

天界の秘義2357[2]

 

 これらの事柄にはさらに深いアルカナが含まれていて、そのアルカナの意義と観念の中へ、天使たちはこれらの言葉が読まれているとき、入って来るのである、すなわち悪い生命の中にいる者は善を、また主を知ることのみしか許されないで、善を、また主を承認し、信じることは許されはしないのであり、それは彼らが悪の中にいる限り、それと同時に善の中に入ることが出来ないという理由によっている。たれ一人二人の主人に兼ね仕えることは出来ない。一度承認して、信じる者が悪の生命に帰ると、その者は善い、聖いものを冒涜するが、しかし承認はしないし、信じもしない者は冒涜することは出来ないのである。それで人間は心情の承認と信仰そのものの中へは、その者が後で留め置かれていることが出来る辺りより先へは入れられないように、主の神的な摂理により配慮が払われているが、そのことは冒涜の刑罰のためであって、その刑罰は地獄における最も痛ましいものである。

 

 

 

天界の秘義2357[3]

 

 これが現今愛と仁慈との善は人間における天界であり、神的なものはすべて主の中にあることを心から信じることが極めて僅かな者にしか与えられていない理由となっている、なぜなら現今人間は悪の生命の中にいるからである。それでこのことがロトが彼の後で戸を閉じたことによりさらに内的に意味されていることである。なぜならこの戸は内側の戸であってそこを通って天使たちがいた家そのものに、すなわち、主がその中におられる善の中へ入ることが出来たからである。

 

 

 

天界の秘義3398[]

 

真理の冒涜にかかわる実情は以下のごとくである、すなわち、神的真理はそれを先ず承認した者以外の者によっては決して冒涜される筈はないのである、なぜなら先ず承認と信仰とにより真理へ入り、かくして真理を教えられた者らが後になってそこから後退する時、絶えず真理の印象が内部に刻みつけられて残り、それが誤謬と悪と同時に思い出され、そこから真理は誤謬と悪とに密着することによって、冒涜されるからである。それ故このことが自分のもとに現実となっている者らはその者らを地獄に落とすものを絶えず自分自身の中に持っており、かくて自分自身の地獄を絶えず自分自身の中に持っているのである、なぜなら奈落の者は善と真理とが存在しているスフィア[領域]に近づくと、彼らが憎悪しているものの中へ入ってくるため、従って彼らを呵責するものの中へ入ってくるため、自分自身の地獄を直ぐさま知覚するからである。それ故真理を冒涜した者らはその者らを苦しめるものとともに絶えず住んでおり、しかもそれはその冒涜の度に応じているのである。そうした理由から神的な善と真理とは冒涜されないように主により極めて特別に配慮されているが、そのことは冒涜しないわけにはいかない人間が真理と善とを承認し信仰しないようにそこから可能な限り遠ざけられるという事情により配慮されているのである、なぜなら前に言ったように先ず承認し、信じた人間を除いてはたれ一人冒瀆することは出来ないからである。

 

 

 

天界の秘義3402[2]

 

 (永遠に地獄に堕ちる危険があるためたれ一人その者が善と真理との中に止まることが出来る程度よりも更に多く善と真理の中に入れられてはならない、即ち、善と真理とに対する承認と情愛の中へ入れられてはならないことが主の摂理によっていることは前の3398番に見ることが出来よう)。善と真理における実情は人間の中では善と真理とは人間が悪と誤謬との中にいるに比例して人間の内部の方へ移行してしまい、従って天界から来て彼と共にいる天使たちはそれに応じて後退し、地獄から来ている悪魔的な霊がそれに応じて近づいて来るということである。そしてその反対のこともまた真である。悪と誤謬の中にいる人間から善と真理とが遠ざかることは、即ち、天使たちが遠ざかることは彼には明らかではない、それは彼はその時悪は善であり、誤謬は真理であると説きつけられており、しかもそれはそれらのものに対する情愛とそこから生まれてくる歓喜から来ており、彼がこうした状態にいる時は、善と真理とが彼から遠ざけられてしまっていることを知ることは彼には不可能であるためである。善と真理とは、また天使たちは、人間がそれらのものにより感動を受けないときは、即ち、それらのものを最早喜ばなくなって、その反対に自己への愛と世への愛とに属しているものにより心を動か去れる時、即ち、これらのもののみが彼を喜ばす時は、人間から遠ざけられると言われている。

 

 

 

天界の秘義3402[3]

 

 善と真理とを知ることは、即ち、それらを記憶に止め、それらについて語ることは、それらを持つことではない、それらを持つことは心からそれらに感動することである、またいかような人間も善と真理とによって名声と富とを得るために善と真理とに心を動かされるときも、その善と真理を持つのではない、なぜならそうした場合彼は善と真理とにより心を動かされるのではなく、名誉と利得に心を動かされるのであり、善と真理を名誉と利得を得る手段とするからである。

 

 

 

天界の秘義3757

 

 しかし聖いものを冒涜することについては、そのいかようなものであるかを僅かな者しか知ってはいないが、それでもそのことはそれについてすでに述べもしまた示しもしたことから認めることが出来るのである。すなわち、善と真理とを知り、承認し、それに浸透されるようになる者たちが聖いものを冒涜することが出来るが、しかしそれらを承認しない者はそれを冒涜することは出来ないし、ましてや善と真理とを知らない者はそれを冒涜することは出来ないのである(593、1008、1010、1059、3398番を参照)。かくて教会の中にいる者は聖いものを冒涜することが出来るが、教会の外にいる者はそれを冒涜することは出来ないのである(2051番)、天的教会に属している者は聖い善を冒涜することが出来、霊的教会に属している者は聖い真理を冒涜することが出来るのである(3399番)。それでユダヤ人には内的な真理は、彼らにそれを冒涜させないように、明らかにされなかったのであり(3398番)、異邦人は些かも冒涜することは出来ないのである(2051番)、冒涜とは善と悪とをまた真理と誤謬とを混合して、連結させることである(1001、1003、2426番)、このことは血を食べることにより意味され、そのことはユダヤ教会で極めて厳しく禁止されたのである(1003番)、それで人間が善と真理の中に止まることが出来ない限り、善と真理を承認し、信じないように能う限りそこから遠ざけられており(3398、3402番)、そうした理由から彼らは無知に置かれており(301−303番)、礼拝もまた外なるものになり(1327、1328番)、教会が善と真理を剥奪されてしまうまでは内なる真理は啓示されないのである、何故ならそのときは善と真理とは最早冒涜されることは出来ないからである(3398、3399番)、そのことが主がそのとき初めて世に来られた理由であった(3398番)、聖いものと聖言とを冒涜することから如何に大いなる危険が生まれてくることであろうか(571、582番)。

 

 

 

天界の秘義4424

 

前に引用した主の御言葉がその内意に含んでいることは解説の要もなく認めることが出来よう。なぜなら主はその言葉を表象的なものと表意的なものとによって語られるよりも譬えによって語られたからである。ただ最後の節の言葉により意味されていることのみを述べよう。すなわち、『彼は彼を切り離し、その分を偽善者と同じくしよう。そこに彼は嘆き、歯がみするであろう』(マタイ24・51)。

は、善と真理から分離され、遠ざけられることを意味している、なぜなら教会の中にはいるが、悪い生活のなかにいる者のように、善と真理に関わる知識の中にいる人たちは、その知識から遠ざけられるときは『切り離たれる』と言われるからである。なぜなら善と真理の知識は他生で彼らから分離し、彼らは悪の中に留め置かれ、それゆえまた誤謬の中に留め置かれるからであり、そうしたことが行われるのは彼らを真理の知識によって天界と交流し、悪とそこから派生してくる誤謬とにより地獄と交流し、かくしてその両者の間にぶらさがらせないために行われるのであり、また彼らに善と真理とを冒涜させないために行われるのである。なぜなら善と真理とに誤謬と悪とが混入すると、その冒涜が行われるからである。そのことはまた地にタラントを隠した者に言われた主の御言葉によっても意味されているのである。『それで彼からそのタラントを取り去って、十タラントを持っている者に与えなさい、持っている者はたれでも与えられるが、持たない者からは、その持っているものでさえ、取り去られるからである』(マタイ25・28,29)、またそのことは主がマタイ伝の13章12節、マルコ伝4章25節、ルカ伝8章18節に言われていることによって意味されているのである。

 

 

 

マタイ12・13−21

 

そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。

イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。

 

「見よ、わたしの選んだ僕。

わたしの心に適った愛する者。

この僕にわたしの霊を授ける。

彼は異邦人に正義を知らせる。

彼は争わず、叫ばず、

その声を聞く者は大通りにはいない。

正義を勝利に導くまで、

彼は傷ついた葦を折らず、

くすぶる灯心を消さない。

異邦人は彼の名に望みをかける。」

 

 

 

ヨハネ12・39−43

 

彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。

「神は彼らの目を見えなくし、

その心をかたくなにされた。

こうして、彼らは目で見ることなく、

心で悟らず、立ち帰らない。

わたしは彼らをいやさない。」

イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。

 

 

 

ルカ8・9−10

 

弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、

『彼らが見ても見えず、

聞いても理解できない』

ようになるためである。」

 

 

 

真の基督教683

 

 現実性の無い名前は反響、夢見る者の声、または風、海あるいは機械の騒音の如く空しい音響である。称号はそれに結び附けられている職能を伴わないならば虚栄に過ぎない。野蛮人のように生活し、基督の律法を破る基督教徒は洗礼の際、金糸を以てキリストの御名が織り込まれたその御旗の下に、自らを置かないで、悪魔の旗の下に置くものである。基督の印を受けた後、その礼拝を嘲り、その名を愚弄し、彼を神の子として認めず、ヨセフの子と認める者達は、反逆者であり、弑逆者であり、その言葉はこの世でも、また次の世でも赦されることの出来ない聖霊に対する冒瀆である。彼らは聖言に噛みつき、これを千々に引裂く犬のような者である。これらの者はイザヤ書(28・8)およびエレミア記(48・26)に従えば、その凡ての食卓は嘔吐と汚穢に満たされている者である。しかし主イエス・キリストは至高なる神の子にて在し(ルカ1・32、35)、独子にて在し(ヨハネ1・18、3・16)、真の神にして永遠の生命にて在し(ヨハネ第一書5・20)、その中には神性の完全性は尽く身体を成して宿り(コロサイ2・9)、ヨセフの子ではないのである(マタイ1・25)。

 

 

 

天界の秘義8394

 

人間は自分自身を点検して、己が罪を承認し、悔改めを為した後では、生涯の終わりまで善の中に絶えずとどまらなくてはならない。しかしもし彼が後になってその以前の生命へ再び落ち込み、それをかき抱くなら、彼は冒涜の罪を犯すのである、なぜなら彼はそのときに善に悪を連結し、従ってその後の状態は、主の聖言に従って、以前の状態よりもさらに悪くなるからである。

 

 

 

天界の秘義9049(5)

 

 こうした言葉は文字の意義に従って理解してはならないことを、たれが認めることが出来ないであろうか。なぜならたれが(自分の)右の頬を打つ者に左の頬も向けようか。そしてたれが自分の上着を取ろうとする者に外套も与えようか。そしてたれが求める者凡てにその財産を与えようか。そしてたれが悪に抵抗しないであろうか。 しかし『右の頬』と『左の頬』により、『上着』と『外套』により、また『一マイル』により、同じく『借りること』といったものにより意味されていることを知らない者は一人として、これらの言葉を理解することは出来ないのである。そこに取り扱われている主題は霊的な生命、または信仰の生命であって、世の生命である自然的な生命ではないのである。主はそこで、また本章と本章以後とに、天界に属している内的な事柄を開かれているのであるが、しかし世に存在しているような事柄によって開かれているのである。主がそうした事柄によって内なる事柄を開かれた理由は、世俗的な人間ではなくて、天界的な人間のみが理解するに違いないということであった。

 

世俗的な人間は理解してはならなかった理由は、彼らに聖言の内的な事柄を冒瀆させないためであった。なぜなら彼らは冒涜することによって、聖言を冒涜する者らの地獄であるところの、凡ゆる地獄でも最も恐るべき地獄へ彼ら自身を投げ込むからである。それで主からルカ伝に言われているのである―

 

あなたたちには神の国の秘義を知ることが許されているが、他の者らには譬えで(与えられている)。それは彼らが見ても見ないためであり、聞いても聞かないためである(ルカ8・10)。

 

またヨハネ伝には―

 

イザヤは言った、かれは彼らの目を盲目にされ、その心を頑なにされた、それは彼らがその目で見て、心で悟り、回心して、わたしに癒されはしないためである(ヨハネ12・39,40)

 

 

 

ルカ10・21−22

 

そのとき、イエスは聖霊によって喜びに溢れて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」

 

 

 

 

2.神の憐れみに限度を設けること

 

 

聖ヴィアンネの精神P160

 

「私は悪いことをしすぎた。神様は許して下さらないだろう」と言う人がいます。これは酷い冒涜です。神様の御憐れみに限度を設けることです。神様の御憐れみには決して限度がありません。無限です。小教区を亡ぼすに十分な程の罪を犯しても、告解して、このような罪を犯したことを悔い、もう二度とすまいと決心したのであれば、神様は許してくださってます。

 

 

 

 

3.永遠の堕地獄

 

 

天界の秘義2426

 

「恐らく悪が私にまつわりついて、私は死ぬかもしれません」。 これはそのため彼はそれと同時に悪に陥り、そのことによって罪に定められない訳にはいかないであろうということを意味していることは、説明無しに明白である。これらの言葉に意味されていることは前に(301−303、571、582、1001、1327、1328番)言われもし、また示されもしたことから知ることが出来よう、即ち、主は悪が善に混入しないように絶えず配慮されておられるが、人間が悪の中にいるに正比例して、善から遠ざかるのである、なぜなら人間が悪の中にいると同時に善の中にいるよりは、全く悪の中にいる方が人間にはさらにまさっているからである。なぜならもし彼が悪の中にいると同時に善の中にいるならば、彼は必然的に永遠に地獄に落ちなくてはならないからである。こうした危険の中に最も陥っている者は教会にいる詐欺漢、偽善者である。それでこれが『恐らく悪が私にまつわりついて、私は死ぬかもしれません』の内意である。

 

 

 

天界の秘義2520

 

かれは彼らの目を盲目にされ、その心を頑なにされた、彼らがその眼で見、その心で理解し、回心して、わたしが彼らを癒すことのないためである(ヨハネ12・40)。

 

彼らが『回心して』、『癒される』ことは、それにも拘らず彼らは後になると斥けてしまって、かくして冒涜してしまい、それが永遠の堕地獄罪を含むことになることを意味している(301−303、582、1008、1010、1059、1327、1328、2051、2426番参照)。それにも拘らず主は多くのところで聖言の内的なものを明らかに示されたのであるが、しかしそれはただ賢明な者のためにのみ明らかにされたのである。

 

 

 

 

4.ユダヤ民族に信仰の諸々の秘義が啓示されなかった理由

 

 

天界の秘義301

 

 他のアルカナは彼らは信仰の諸々の秘義を教えられたならば、永遠に滅んでしまったであろうということであって、それが『恐らく彼は手を伸ばして生命の木の実をも取り、食べて、永遠に生きるであろう』という言葉により意味されているのである。実情は以下のごとくである、人間が転倒した秩序の生命となって、自分自身から、また自分自身のものから生き、または賢明になることを望んで、(主から)生き、賢明になることを願わなくなると、信仰について聞く凡ての事柄についてはそれがそのようなものであるか、ないかと論じるのであり、そしてそうしたことを自分自身と自分自身の感覚と記憶知に属したものから行うため、必然的にそれは否定に陥り、従って涜神と冒涜とに陥らないわけにはいかないのであり、かくて彼らは遂には汚れたものと聖いものとを混合することにためらいはしなくなるのである。人間がこのようなものになると、その者は他生では救いの望みが些かも残らない程にも罪に定められるのである。なぜなら冒涜により混合したものはそのように混入したままに止まり、かくて聖いものについて何らかの観念[考え]が現れると必ず、それに連続した汚れたものの観念もまたそこに存在し、その結果その人間は呪われた者[地獄に投げ込まれた者]の社会を除いてはいかような社会にもいることが出来なくなるのである。思考の何らかの観念の中に、その観念に連結している結果現存しているものはことごとく、他生では、霊たちの世界の霊たちによってすら極めて精妙に認められており、天使的な霊によっては遥かに精妙に認められており、実にただ一つの観念から人物の性格が知られるほどにも精妙に認められている。汚れた観念[考え]と聖い観念[考え]とがこのように連結しているとき、その二つのものを分離することは奈落の拷問によらなくては―もし人間がそれを知るならば地獄そのものを避けるようにも入念に冒涜を避けるであろうが、そうした奈落の拷問によらなくては―不可能である。

 

 

 

天界の秘義302

 

これが信仰の諸々の秘義がユダヤ人には決して啓示されなかった理由である。彼らは死後も生きることを明らかに告げられもせず、また主が彼らを救うために世に来られることも明らかに告げられはしなかったのである。彼らが陥ったところの、今も尚陥っているところの無知と愚鈍とは、内なる人の存在を、または何か内なるものの存在を知らなかったし、また今も知っていない程にも甚だしいものであった。なぜならもし彼らがそれを承認する程にも知ったとするなら、または今それを知るとするなら、その性格上必然的にそれを冒涜し、他生では、彼らには如何ような救いの希望も無くなるからである。このことがヨハネ伝に主によって意味されているところである―

 

かれは彼らの眼をめくらにし、その心を閉じられた、彼らが目で見て、心で理解し、回心して、わたしが彼らを癒すことのないためである(12・40)。

 

また主が(御自身言われているように)、彼らが

 

見るが見ない、聞くが聞きはしない、また理解しないために(マタイ13・13)、

 

彼らには譬で話されたが、その意味を説明されはしなかったことによっても意味されているのである。

 

同じ理由から信仰の諸々の秘義はことごとく彼らから隠され、その教会の表象的な物の下に隠されたのであり、同じ理由から予言者の文体も同じ性格を持っているのである。しかしながら知ることと承認することとは異なっている。知ってはいるが、承認はしない者は謂わば知らない者である、しかし主のこれらの言葉により意味されている者は承認はするが、後になって汚し、冒涜する者である。

 

 

 

天界の秘義303

 

 人間はその確信しているもの、即ち、承認して、信じている凡ての物により生命を得ている。彼が確信しない、または承認しない、信じないものは彼の心を動かしはしない。それでたれでも聖いものを承認する程にも確信し、しかもそれを否定しない限り、聖いものを冒涜することは出来ない。承認しない者は知るかもしれないが、しかし謂わば知らない者であり、存在しないものを知っている者に似ている。これが主の降臨の頃のユダヤ人であったのであり、それで彼らは聖言では『剥奪された者』または『荒廃したもの』と言われ、即ち、最早いかような信仰も持っていない者と言われている。こうした事情の下では聖言の内的な内容を開かれることは人間には何の害も与えはしない、なぜなら彼らは見るが、見ない、聞くが聞かない、心をふさがれてしまった人間のようなものであり、彼らについて主はイザヤ書に以下のように言われている―

 

 行ってこの民に告げなさい、あなたは聞いて聞く、しかし理解しない。見て見るが、しかし知らない。この民の心を鈍くし、その耳を重くし、その眼に塗りつけよ、彼らが目で見、耳で聞き、心で理解して、癒されることのないためである(イザヤ6・9、10)。

 

 人間がこのような状態になるまでは、即ち、(前に述べたように、信仰の諸々の秘義を冒涜することが出来ないように)それを最早信じない程にも剥奪されない〔荒廃しない〕うちは、その秘義は啓示されないことを主はまた明かに同じ予言者の書の後の節に言明されている―

 その時わたしは言った。主よ、いつまででしょうか。かれは言われた、都は荒れ廃れて、住む人はいなくなり、家も荒れ廃れて、人もなく、土地はことごとく荒れ果てて、エホバが人を移されてしまうまで(イザヤ6・12)。

 

 賢明な者は、または承認して、信じる者は『人』と呼ばれている。すでに言ったように、ユダヤ人は主の降臨の頃、このように荒廃していたが、同じ理由からその諸々の欲念により、特にその貪欲により依然そのように荒廃して、主を幾度となく聞くけれども、また彼らの教会の表象物はその凡ゆる点で主を意味していることを聞くけれども、しかし何物も承認しないし、また信じもしないほどにもなっていたのである。それでこのことが洪水以前の人々がエデンの庭園から追放され、荒廃し、最早いかような真理も承認することが出来なくなった理由であった。

 

 

 

天界の秘義1327[4]

 

そしてこれが内なるものを知り、これを承認するようになって、しかもそれを冒涜するよりも、むしろ快楽と欲念の中に生き、そうしたものにより自分自身を内なる事柄から遠ざけることが人間に許されている理由である。こうした理由からユダヤ人は現今自分自身を貪欲の中に浸すことを許されているが、それはそのことにより彼らは内なるものを承認しないようにそこから更に遠ざけられるためである、なぜなら彼らはもし内なるものを仮にも承認するとするならば、それを冒涜しない訳にはいかないといった性格を持っているからである。貪欲は最も低い地的な欲念であるため、それ程人間を内なるものから遠ざけるものは何一つない。教会の中の多くの者の場合も同一であり、また教会の外の異邦人の場合も同一である。この後の者は、すなわち異邦人は凡ての者の中でも最も冒涜を犯すことは出来ないのである。それでこれがエホバは全地の唇を乱されたとここに言われている理由であり、またこの言葉が教会の状態が変化して、その礼拝は外なる礼拝となり、凡ての内なる礼拝を欠くようになったことを意味している理由である。

 

 

 

天界の秘義3398[]

 

 これが内なる諸真理がヤコブの子孫であるイスラエル民族とユダヤ人とに明らかにされなかった理由であった、彼らは人間の中には何か内なるものが在ることをさえも、かくて内なる礼拝の在ることをさえも明らかに告げられなかったのであり、死後の生命についても、主の天界の王国についても、またはその期待したメシヤについても、殆ど何事も彼らには言われなかったのである。その理由は彼らはもしそのようなことが彼らに示されたなら、彼らは地の事以外には何物をも欲しなかったため、それを冒涜しないわけにはいかなかったことが予見されたような性格を持っていたということであった、かの民族はこのような性質を持っており、また今もそのようなものであるため、彼らが徹底した不信仰の中にいることが今も許されているのである、なぜなら彼らが一度承認した後で、後退したならば、必然的に彼ら自身の上に凡ゆる地獄の中でも最も悲惨なものをもたらしたに相違ないからである。

 

 

 

天界の秘義3398[]

 

 これがまた彼らのもとにはいかような善も残らなくなり、自然的な善すらも残らなくなるまでは主は来られて、聖言の内なる物を啓示されなかった理由である、なぜなら彼らはその時は(真理を受けるものは善であるため)いかような真理をも内なる承認をもってもはや受けることが出来ず、それでそれを冒涜することが出来なかったからである。こうしたものが予言者の書の中に再三とり扱われている『時が満ちる』により、『代の終わり』により、また『最後の日』により意味されている状態であった。聖言の内意のアルカナが今啓示されつつあるのも同じ理由のためである。なぜなら現今ではいかような仁慈も存在しないため、かくて今は代の終わりであるため、殆どいかような信仰も存在しないからであり、こうしたことが現実に起ると、これらのアルカナは内的には承認されないため、冒涜の危険を伴わずに啓示されることが出来るからである。

 

 

 

 

5.基督教徒よりも異邦人が多く救われる理由

 

 

天界の秘義1059

 

教会の外にいて、異邦人と呼ばれている者のもとにも、主は教会の中にいる者のもとに仁慈により、現存されているように、同じく仁慈により現存されていることが前に述べられているのを見ることが出来よう(932、1032番)。彼は実に(教会の人間のもとに現存されているよりも教会の外にいる人間のもとに)さらに現存されているのである、なぜなら基督教徒と呼ばれている者のもとに全般的に存在しているほどの大きな雲は彼らの理知の部分の中には存在していないからである。なぜなら異教徒は聖言を知らないし、また主とは何であるかも知らないし、従って信仰の真理は何であるかを知っていないし、それで彼らは主と信仰の真理とに反抗することが出来ないからである。ここから彼らの『雲』は主と信仰の真理に反抗しているものではなく、こうした雲は彼らが明るくされると、容易に消散されてしまうのである。しかし基督教徒の雲は主と信仰の諸真理に反抗しており、この雲は暗黒となっている程にも濃厚である。そして仁慈に代って憎悪が在る時、深い暗闇が存在する。信仰の諸真理を冒涜する者らのもとではそれはさらに暗くなっており、異教徒は信仰の真理を知らないため、それを冒涜することは出来ないのである。たれ一人その性質を、またその存在を知っていないものを冒涜することは出来ない。このことは基督教徒よりも異邦人が多く救われる理由であり、そのことは主もまたルカ伝(13・23、28−30)に言われたことに従っており、またさらに彼らの子供たちは凡ての主の王国に属していることにも従っているのである(マタイ18・10、14、19・14、ルカ18・16)

 

 

 

 

6.聖物冒瀆

 

 

天界の秘義878[3]

 

『手』は力を意味するため、人間の悪と誤謬とは聖言に絶えず『手の業』と呼ばれている。悪は人間の意志の人間自身のものから発し、誤謬はその理解の人間自身のものから発している。これが悪と誤謬との源泉であることは、人間の人間自身のものから充分に明白であり、それは(前の39、41、141、150、154、210、215番に見ることが出来るように)悪と誤謬以外の何ものでもないのである。『手』は全般的に力を意味しているため、手は聖言の中にエホバまたは主に帰せられ、かくて『手』により内意では全能が理解されている、例えばイザヤ書には―

 

 エホバよ、あなたの御手は挙げられました(26・11)。

 

これは神的な力[神の力]を示している。(後略)

 

 

 

天界の秘義878[7]

 

(前略)ウザについては、彼が神の箱の方へ(その手を)伸ばし、それをつかんだために死んでしまったと言われている(サムエル記後6・6,7)。『箱』は主を表象し、かくて聖い天的なものをことごとく表象したのである。ウザが箱に(その手を)伸ばしたことは人間自身の力を、または人間自身のものを表象したのであり、これは汚れているため、『手』という言葉が理解されているが、しかしこうした汚れたものが聖いものに触れてしまったことが天使たちから認められないように、それは原語には表現されてはいないのである。

 

 

 

天界の秘義878[8]

 

ウザはそれを伸ばしたために、死んだのである。エロボアムについては以下のように言われている―

 

 王は神の人の言葉を、すなわち彼が祭壇に向って叫んだその言葉を聞いたとき、エロボアムは祭壇からその手を伸ばして、言った、彼を捕えよ、と。すると彼が彼に向かって伸ばしたその手はほせ上がってそれを己がもとへ再び引き戻すことが出来なかった。で、彼は神の人に言った、今あなたの神エホバの御顔に懇願し、私の手が私に再び回復するように、私のために祈ってください、と。それで神の人はエホバの御顔に懇願した、するとその王の手は彼に再び回復し、前のままになった(列王記上13・4−6)。

 

 ここにも同様に『手を伸ばすこと』により汚れた人間自身の力が、または彼自身のものが意味されており、またそれが神の人に向って手を伸ばすことにより聖い物を犯そうと望んだことが意味されているためそれでその手は乾せ上がったのである。しかしエロボアムは偶像教徒であって、それで冒瀆の罪を犯すことが出来なかったため、その手は回復したのである。

 

 

 

天界の秘義2051〔2〕

 

そのアルカナは以下のものである、すなわち、それらの汚れた愛から清められることは教会の中にはことさら必要であり、そのことは教会の中にいる者たちは聖いものそのものを不潔なものにすることが出来るが、教会の外にいる者たちは―すなわち異邦人たちは―そうしたことをすることは出来ない、それで地獄に堕ちる危険は前の者の場合には更に大きいという理由によっているということである。さらに教会の中にいる者たちは信仰の幾多の真理そのものに反した誤った原理を形作って、それに浸透することが出来るに反し、教会の外にいる者たちはそうした真理を知らないため、そうしたことを行うことは出来ないのである。かくて前の者は聖い真理を冒涜することが出来るが、後の者にはそうしたことは出来ないのである(これについてはさらに多くのことを第一部の1059、1327、1328番に認めることが出来よう)。

 

 

 

 

7.汝、偽証するなかれ

 

 

真の基督教323

 

「天的な意義では」偽りの証を立てることは、主と聖言を冒涜し、かくして真理を教会から追放することを意味する。なぜなら主は聖言にて在す如く、真理そのものにて在すからである。他方、この意義では、証を立てることは真理を語ることを意味し、証は真理それ自身を意味している。それ故十戒はまた証と呼ばれている(出エジプト25・16、21、22、31・7、18、32・15、40・20、レビ16・13、民数記17・4、10)。主は真理そのものにて在し給う故、主は自らについては、自らが証をなし、自らが真理であると語り(ヨハネ14・6、黙示録3・7)、また自らが証をなし、自らが自らの証であると語り給うのである(ヨハネ3・11、8・13−19、15・26、18・37)。

 

 

 

真の基督教324

 

人を欺こうとして、または故意に虚偽を語り、しかもこれを霊的な情愛に似せた語調を以って語る者は、特にその虚偽に聖言から来る真理を混入させて、これを虚偽化するならば古代人達によって妖術者と呼ばれ(「黙示録の啓示」462番参照)、また時折怪蛇、善悪を知るの木の蛇と呼ばれた。このような虚偽を語り、また人を欺く者は丁重な親しい態度で敵と話しを交わしてはいるものの、背後に短剣を隠し、相手を突き刺して死に至らしめる者共に、あるいは剣に毒を塗って敵を攻撃する者に、あるいは水に毒人参を、菓子に毒を混ぜる者に譬えることが出来よう。彼らはまた悪性の病気に感染している美しい魅惑的な娼婦に、匂いを嗅ごうとする者を突き刺す植物に、風味を加えた毒に、また秋乾燥すると芳香を発する糞に譬えることが出来よう。聖言では彼らは豹と呼ばれている(「黙示録の啓示」572番参照)。

 

 

 

 

8.ヴァッスーラより

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/7P160

 

 ああ・・・ヴァッスーラ、どれほどこの時代を深くうれえているか。 荒野にいる彼らに手を伸ばし、そのしおれた霊魂を生き返らせようと やって来た、だが私の救いの手が 全く見えないようだ・・・来なさい、心やさしい娘よ、私の名によって預言し 新しい契約について私の民に伝えなさい、私ども二つの心が槍でつらぬかれる日が再び来ると。 敵は我が聖所、祭壇と聖櫃を荒らし 彼らの死にいたる忌むべきものを打ち立てよう。 国ぐにが存在しはじめて以来 比類ないほど大きな悲嘆の時代が来る。 彼らは力と陰謀によって我が家を襲う。 反逆はすでに進行しているが、おもて立ってはいない、そして反逆者が おおやけに我が聖所を冒涜するには、それを抑えている人をまず取り除くしかない。 ああ 反逆者のおだてに乗って なんと多くの人が倒れよう! しかし私自身の者たちは足場をゆずらず、むしろ、私のためにいのちを投げ出す。目に涙して、言っておく:「あなた方は、我が民よ、火によってこの侵入者に試されよう・・・」彼の包囲網はすでに世界を包囲しかかっている。

 

 ライオンはねぐらを離れた・・・このたびは聴いて理解しなさい:侵入者は学者、この学者たちは野獣につき従い 私の神性、復活と我が伝統を否定する。 彼らは聖書でこう言われている者たち:「お前の心は高慢になり、そして言った。<私は神だ。私は海のまん中にある神々の住み家に住まう>と。しかし、お前は人であって神ではない。ただ自分が神の心のようだ、と思い込んでいるだけだ・・・」(エゼキエル書28・1−2)今日、娘よ、私は封印されていたこれらの秘密を 書きおろすことのできる心、二心ない心を見いだした、その秘密は今や必ず成就するがゆえ。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P142

 

我が霊は悲嘆にくれている、永遠に及ぶ我が現存を 誰にも拒みたくはないゆえ。 神の神殿よ、身を低くして悔い改めるなら、我が大いなるいたわりをもって あなた方の落ち度を赦す用意がある、冒瀆の徒が口にした言葉は許さないが。 悔い改めなさい、さもないと我が聖霊は 罪の負債を負う体には決してとどまらない。 神に由来するものを非難して 我が聖霊を悲しませないように。 善を悪と呼ぶこと。 それは霊魂に致命傷を負わせる。

 

上から見る全てに我が霊は 打ちひしがれる。 悪を行う者は私の目を逃れることはできない 兄弟に向って夜のしじまに「復讐」を叫び、夜昼となくわめき立てる者にも・・・ああ、ヴァッスーラ、私の言葉があなたを通してこだまするように。 善人 悪人を問わず、誰にでも伝えなさい。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P246

 

私は復活 そして私を通してあなた方皆を 復活の息子 娘たちとした。 あなたが罪にとどまり、隣人を許さず、心を恨みで満たして硬直したままなら、至高なる神をその目で見るのを拒まれる。 罪の負債があるなら 全き聖である霊はご自分を現わさない、悔い改めの行為を そして愛の行為を、意識的に拒んだゆえに・・・

 

この罪にとどまっているなら 私にこう言ったと同じ、「師よ、私は自分の墓にいるほうがいい。 死んだまま 死人の間で生きるほうを選びます。」肉がすでに腐り始め、朽ちかけていながら、まだいのちを拒むのか? あなたが自分の罪を否定するのは いのちを否定するのと同じ。 それよりも私のそばに来なさい そして聖人たちや 地上でも完徳に達そうとしている人たちのそばに 近よりなさい、私を観想している間 心が澄みきっているこの者たちを、私は 神聖なる富と天上の神秘のうちに浸している。

 

 

 

高間友の会/シスター・エマニエル/マリア・シンマとのインタビュー 煉獄に居る霊魂の驚くべき秘訣/P45

 

魂を最終的に失うようにと私たちを導く心の持ち方、つまり地獄へ行く原因となることは何ですか。

 

 それは魂が神の方へ行きたくないと思う時で、その霊魂が実際に「私は行きたくない」と言う時です。

 

マリア、このことを明確にしてくださってありがとう。

 

これについてメジュゴルイエで出現を見ている内の一人であるヴィッカに質問したことがあります。彼女は地獄を見たのですが、次のように話してくれました。地獄に行く人たちは、「地獄に行く」と単独で決心した人たちだけなのです。誰かを地獄に入れるのは神ではないのです。 ― それどころか、神は救い主ですから霊魂たちにご自分の慈しみを喜んで受けるようにと懇願なさるのです。イエス様が話されている赦されない罪、すなわち聖霊に対する罪は、慈悲に対する絶対的な拒否です。それも、完全に知りながら、完全に認識しながら。ヨハネ・パウロ2世は慈悲に関する回勅の中でこれを非常に上手に説明しています。ここでも私たちは、永遠に滅びる危険にある霊魂のために祈りで大いに助けることが出来るのです。

 

 

 

 

9.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P31

 

あなたたちの祈願もすでに冒涜である。なぜならあなたたちはその祈りを、汚物で汚された唇でとなえているからだ。神に加護を求めながら、相変わらずサタンと一体化している。その聖なる名をあなたたちの犯罪的な計画のなかに敢えて混ぜている。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P12

 

 あなたたちは生きている今を嘆いている。しかしあなたたちはそれを不当だと思っているのか? そのきびしさはあまりにも酷だと思うのか? いいや。それは正当であり、あなたたちに価するものよりも軽いものだ。

  わたしはあなたたちを救い、数えきれない方法で再び救い、あなたたちの犯した七千回の罪を赦し、更に七千回赦した。わたしはあなたたちに生命とを与えるためにわざわざやって来た。わたし、世のは、あなたたちの闇のなかに言葉をもたらすためにやって来た。わたしはもはや渦や火を通して、また預言者たちの口を介して、あなたたちに語りかけなかった。いいや。わたしわたし自らやって来たのだ。わたしはあなたたちと共にわたしのパンを割き、あなたたちと粗末な寝床を分け合った。わたしは労苦において、あなたたちと共に汗を流し、あなたたちに福音を述べ伝えるためにわたし自身を使い果たし、あなたたちのために死に、わたしの言葉によって律法に関するあらゆる疑問を吹き払い、わたしの復活をもってわたしの本性についてのあらゆる疑問を吹き払い、を与えるのに適した、あなたたちの霊的食物となるように、わたしわたし自身をあなたたちに残した。それなのにあなたたちはわたしに死を与えたのだ。

 わたしはあなたたちに言葉を与え、あなたたちは言葉に対して耳を塞ぎ、に対して魂を閉ざし、わたしのを冒涜した。

 一人の預言者の指で書かれた二枚の石板と、僅かなマンナが置かれていた古の幕屋を、わたしから降った真のパンと、わたしではなく、あなたたちが壊している愛の契約が書かれたわたしのが置かれた新しい幕屋に代えた。

あなたたちは『わたしたちは神がどのような方であるか知らない』と言うことはもう出来ない。あなたたちの鈍重さをもってしては霊を愛するには不十分なので、わたしは、あなたたちが愛することの出来るを有するように、となった。

 

 

 

 

10.基督教会に主の人間的なものが神的なものであることを啓示されなかった理由

 

 

天界の秘義4689[2]

 

基督教世界から来ている者で一人として主の人間的なものは神的なものであることを知らなかったのであり、殆どたれ一人主のみが天と宇宙とを支配されることを知らなかったし、まして主の神的な人間的なものが天界における凡てのものであることを知らなかったのである。それがそうであることは公然と啓示されることが出来なかったのである、なぜなら基督教会は仁慈から信仰へ離反し、従ってそれ自身を主から分離し、かくて主の神的な人間的なものから発している聖いものを斥けるのみでなく、またそれを冒涜するであろうということが主により予見されたからである、なぜなら仁慈から分離した信仰はそれ以外のことはなすことは出来ないからである。

 

 

 

 

11.善を不善化する者らは不潔なものを自分自身のものとして、そこから礼拝を汚し、冒涜する

 

 

啓示による黙示録解説135

 

「偶像の生贄を食べさせる」は、前に述べた説明から明らかなように(114番)、そこから礼拝を汚し、冒涜することを意味している。なぜなら善を不善化する者らは不潔なものを自分自身のものとして、そこから礼拝を汚し、冒涜するからである。

 

 

 

天界の秘義6310

 

この光の中にいる人間は「感覚的な者」と呼ばれなくてはならないのである、なぜなら彼らは身体の感覚的なものを越えては考えはしないからである。彼らはその感覚的なものを越えたものは認めもしないし、信じもしないで、ただその見て触れるもののみを信じるに過ぎないのである。この光の中に、合理的なものと霊的なものとをことごとくなおざりにし、軽蔑して生き、内的なものを全く培いはしなかった者らがいるのであり、またその光の中に、特に貪欲な者らと姦通者らがおり、またただ快楽の中に、恥ずべき怠惰の中に生き、従って教会の聖い事柄については汚れたことを考え、時には恥ずべき事を考える者らがいるのである。

 

 

 

 

12.『神の御名を冒涜すること』は主の人間的なものの神性を否定し、または承認しないこと

 

 

啓示による黙示録解説692

 

が、また聖言の神聖さも否定し、承認しないことが意味されている(517、582番)。『冒涜する』は、否定する、または承認しないことであり、『神の名』は主の人間的なものであり、同時に聖言である(584番)。

 

 

 

 

13.最悪の運命がこうしたことがそのもとに起こる人間を待っている

 

 

天界の秘義6348

 

他生では凡ての中でも最悪の運命がこうしたことがそのもとに起こる人間を待っているのである、(中略)そこにいる者らは天使たちの目には殆どいかような生命も持たない骸骨のように見えるである。それで善と真理との冒涜を防ぐため、自分自身が再生するに堪えないようなものである人間は(そうしたことは主により先見されているが)信仰と仁慈から遠ざけられて、悪の中におり、悪から誤謬の中にいることを許されているのである、なぜならそのときは彼は冒涜することは出来ないからである。

 

 

 

 

14.それ

 

 

神の摂理226[2]

 

「もし人間はその後でそれらを拒否し、反対の状態に陥るならば、彼は聖い物を冒涜する」。

 

 聖いものが冒涜されるには多くの方法があり、これは後の項目に取り扱われるであろう。しかしこれは凡ての中で最も痛ましいものである。なぜならこの種の冒涜者は死後もはや人間ではなくなり、実際生きてはいるが、しかし狂った妄想の不断の状態の中に生き、自分自身では高いところを飛んでいるように見え、そしてそこにいる間は空しい思いつきで自分自身を愚弄し、幻想的な外観と戯れて、それを現実と取り違えているからである。彼らはもはや人間ではないため、彼、彼女とは呼ばれず、「それ」と呼ばれている。実に彼らは天界の光の中で見られると、骸骨のように見え、或る者は骨の色を帯び、或る者は火のように、或る者は焼け焦げているように見える。これが冒涜者の運命であることは世では知られていない、なぜならその原因は知られていないから。その理由は、人間が最初神的な物を承認して、それを信じ、その後それに面を背けて、それを否定するとき、聖い物と汚れた物とを混合し、かくてそれらのものは全的な破滅によらない限り分離されることは出来ないということである。しかしこれを明らかにするため、その主題を以下のように適当な順序で説明しなくてはならない。

(イ)凡て人間がその意志を自由に働かせ、考え、語り、為すものは、それが善であれ、悪であれ、彼の性質に取入れられて、彼の中に永遠的なものとなる。

(ロ)悪と善とは離れて、分離するように、主はその神的摂理により絶えず人間の状態を予見し、処理されている。

(ハ)このことはもし人間が先ず信仰の諸真理を承認し、それに従って生き、その後それを斥け、否定するならば不可能となる。

(ニ)彼はこうして善と悪を混合し、そのため両者は分離されることは出来ない。

(ホ)各々の人間の中に善と悪とは分離されねばならず、冒涜者の中には両者は分離されることは出来ないため、その真に人間的なものは凡て破壊される。

 

 

 

神の摂理227(ホ)

 

「凡ての人間の中に善と悪とは分離されねばならず、冒涜者の中にはそれらは分離されることは出来ないため、その真に人間的なものは凡て破壊される」。

 

 前述したように、各々の人間の真に人間的な要素は合理性から来ており、それは、もし彼が欲するなら、真で善いものを認め、知ることが出来る能力と、またそれに従って自由に意志し、考え、行動することが出来ることから成っている。しかしこの自主性と合理性は自分自身の中に善と悪とを混合した者の中に破壊される、なぜなら彼らは善と悪が彼らの中に不可分離に結合しているため、善から悪を見ることは出来ず、悪から善を見ることも出来ず、それ故彼らはもはや合理性を実際的にも潜在的にも持たず、また自主性も何ら持たなくなるからである。この理由から彼らは前述したように狂った想像から作り出された妖怪のようなものとなって、もはや人間のようには見えず、皮膚で包まれた骨のように見え、そのため彼らは口に出されるときは、彼または彼女とは呼ばれないで、「それ」と呼ばれる。これがこのように聖い物と汚れた物とを混合する者の運命である。しかしこれとは異なった多くの種類の冒涜があり、それらは次の項で論じられるであろう。

 

 

 

(冒涜者について)

霊界日記5950

 

冒涜者らは、西の非常な遠方に、南寄りに、そこの深い下に、その地獄を得ている。彼らは冒涜者となると、もはや人間ではなくなる、なぜなら彼らは、天界の光の中では、焦げ付いたミイラとなって現れるからであり、それで彼らは女性または男性として話されはしないで、中性の「それ」として話されるのである。

(中略)

彼女はまた暗がりの中で、黒ずんだ顔をした人間として見られた。このように、同じく、冒涜者らの顔は徐々に黒くなって行くのである。

 

 

 

 

15.7種類の冒涜について

 

 

神の摂理229〔3〕

 

「聖い物の冒涜には多くの種類があるが、しかしそれは最悪のものである」。最も広い意義では冒涜は凡ゆる不敬虔を意味し、それ故冒涜者により心で神を、聖言の聖さを、従って聖い物そのものである教会の霊的な物を否定する凡ての不敬虔な者が意味されている。しかし我々は今単に、神を信じているとはっきり語り、聖言は聖いものであると主張し、教会の霊的な物を承認しているが、その大多数の者はただ口先のみでそう言っているに過ぎない者のことを言っているのである。これらの者は冒涜罪を犯すのである。なぜなら聖言から発する聖さは彼らの中に彼らと共にあり、彼らはこの彼らの中にあって、彼の理解と意志とを構成しているものを冒涜するが、神的な者と神的な物との存在を否定する邪悪な者の中には、その冒涜出来る聖い物は何ら存在しないからである。彼らは実際冒涜的な言葉を弄するが、しかし冒涜罪は犯さない。

 

 

 

神の摂理230

 

 聖い物の冒涜は十誡の第二の誡命の『あなたはみだりにあなたの神の御名を語ってはならない』の語により意味され、冒涜してはならないことは、主の祈りの『あなたの御名が崇められますように』の言葉により意味されている。基督教世界で神の御名の意味を知っている者は殆どいない、なぜなら霊界では名前は自然界のように与えられないで、凡ての者はその愛と知恵の性質に従って名前を受けることが知られていないからである。それは何人でも霊界の社会または共同体に入ると直ぐに、その性格に従って名をつけられるからである。その名を付ける事は霊的な言語でなされ、その言語は凡ての物に名を与えることが出来る、なぜなら霊界ではアルファベットの一つ一つの文字が一つの物を意味し、人の名のような合して一つの語となっている幾つかの文字はその物の状態全部を意味するからである。これは霊界の驚異の一つである。これらの事実から、聖言では神の御名は、神の中に在りまた神から発する神的な一切のものと共に神御自身を意味し、聖言は神から発する神的なものであるため、神の御名であり、教会の霊的な物を構成する神的な物は凡て聖言から発しているため、それもまた神の御名であることが明らかである。今や十誡の第二の誡命の『あなたは神の御名をみだりに口にしてはならない』の語と主の祈りの『あなたの御名の崇められますように』との語の意味が認め得られるであろう。神の御名と主の御名とは旧新約聖言の多くの記事に同じ意味を持っている、例えばマタイ7・22、10・12、18・5、20、19・29、21・9、24・9、ヨハネ1・12、2・23、3・18、12・13、28、14・13、14、16・23、24、26、17・6、20・31、その他。外に旧約聖書に非常に多くの記事がある。『名』のこの意義を理解する者は誰でも主の以下の語の意味を知ることが出来よう、「誰でも予言者の名で予言者を受ける者は予言者の報いを受けるであろう、誰でも義しい者の名で義しい者を受ける者は義しい者の報いを受けるであろう、また誰でもこの小さい者の一人にただ水一杯でも弟子の名で飲ませる者は必ずその報いを失わないであろう」(マタイ10・41、42)。ここの『予言者の名』『義しい者の名』『弟子の名』により単に予言者、義しい者、弟子しか理解しない者は文字的な意義しか理解せず、また予言者の報い、或いは義しい者の報い、或いは弟子に水一杯を与えることに対する報いの何であるかも知らない。しかし『予言者の名と報い』により神的真理に服従して生きる者の幸福な状態が意味され、『義しい者の名と報い』により神的善に従って生きる者の幸福な状態が意味され、『弟子』により教会の若干の霊的な教訓に従って生きる者の状態が意味され、『冷たい水一杯』は多少の真理を意味している。人間の愛と知恵、または善と真理の状態の性格は、主の以下の語に明らかなように、その名により意味されている、『門から入る者は羊の羊飼いである、門番は彼のために開き、羊は彼の声を聞く、彼は自分の羊の名を呼び、これを導き出す』(ヨハネ10・2、3)。羊の名を呼ぶことは仁慈の善にいる者を凡て、その愛と知恵の状態に従って教え導くことであり、門により『私は門である、もし誰でも私から入るなら、救われるであろう』の第九節により明白なように、主が意味されている。このことは、同章第一節に言われているように、人間は救われるためには主御自身に近づかなくてはならない、主に近づく者は羊飼いであり、主に近づかない者は盗人であり、強盗であることを明らかに示している。

 

 

 

神の摂理231

 

 聖い物の冒涜は、信仰の諸真理と仁慈の諸善を聖言から知り、また或る程度それらを承認している者により犯される冒涜を意味するが、しかしそれらを知らない者により犯される冒涜を意味せず、また全く無宗教であってそれを全く斥ける者により犯されるものも意味しないため、以下の見解は前者について述べられて、後者については述べられてはいない。彼らの冒涜には幾多の種類があり、あるものは軽く、あるものは重い、しかしそれらは以下の七つの部類に包含される、即ち、

 

「第1の種類の冒涜は聖言をまたは教会の神的の事柄を笑い草の題材にする者により犯される」。聖言から名前または言葉をとり、これを不穏当な、時としては汚らわしい言い回しの中へ取り入れる悪習慣を持っている人間がおり、これは聖言に対する軽蔑を含まざるを得ない、しかも聖言の凡ての物は、全般的にも個別的にも神的な聖いものである、なぜならその中の各々の表現はその中に神的な物を秘め、それによって天界と連なっているからである。しかしこの種の冒涜はそお無駄口を叩く人間が聖言の聖さを承認している度とその言葉の不敬虔とに応じて或は軽く或は重い。

 

「第2の種類の冒涜は神的真理を理解し、承認はするが、しかもそれらを無視して生きる者により犯される」。神的真理を単に理解するに過ぎない者の冒涜は軽いが、それをまた承認もしている者の冒涜は重い、なぜなら理解は単に説教家のように教えるのみで、必ずしも意志と結合していないが、承認は意志と結合しているからである、それは何物も意志の同意がないなら承認されることは出来ないためである。しかしこの結合には多くの種類があり、生活が承認された真理に反している時は、その冒涜はその結合の緊密さに応じて変化する。かくてもし何人かが復讐、憎悪、姦淫、淫行、詐欺、詭計、涜神、虚言は神に対する罪であることを承認しつつも、それらを犯すならば、彼はこの重い種類の冒涜を犯すのである、なぜなら主は、『主人の意志を知ってその意志を為さない僕は多くの笞で打たれるであろう』(ルカ12・47)と語られ、また他の所では『もしあなた方は盲目であったら、罪が無かったであろう、しかし今はあなた方は「私たちは見る」と言っている、それゆえあなた方の罪は残っている』(ヨハネ9・41)と語られている。しかし外観的な真理を承認することと純粋な真理を承認することとは異なっている。霊界では純粋な真理を承認しつつも、それに従って生活しない者は、その語調と言葉には生命の光と温かさとの無い、単なる無気力な生物としてのみ現れている。

 

「第3の種類の冒涜は聖言の文字的な意義を用いて悪い愛と誤った主義とを確認する者により犯される」。

 

「第4の種類の冒涜は敬虔な聖い物について語り、またそれを愛する者の語調と態度とを採用するものの、心ではそれを信じ愛しもしない者により犯される」。これらの者の大半は偽善者、パリサイ人であって、彼らは死後凡ての真理と善とを剥奪され、外の暗黒の中へ追われる。この種の冒涜により神的なものと聖言に、また聖言の含む霊的真理に強固に反抗した者は、言葉を奪われて、その暗闇の中で沈黙して坐り、世で行ったように、敬虔な聖い物について喋喋と弁じようとしても、それはできない、なぜなら霊界では、偽善者はその思うことと違ったことを語ろうとはするが、凡ての者はその思うままに語ることを強いられ、このため偽善者の言葉に障害が起り、彼らはただ口ごもることしか出来ないからである。しかし偽善は神に対する人間の内的な不信仰とその人間が神に対する信仰を擁護して述べる議論との間の不一致に応じ、或は重い罪ともなり、またそれほど重くはない罪ともなる。

 

「第5の種類の冒涜は神的な物を自分自身に帰す者により行われる」。

 

「第6の種類の冒涜は聖言を承認しつつも、主の神性を否定する者により犯される」。これらはこの世でソツニウス派、アリウス派と呼ばれている。両者の運命は父を呼んで、主を呼ばず、絶えず父に天界に入れられるように祈り、或る者は御子の故に天界に入れられるようにさえ祈ることである。しかし彼らは徒に呼び求めるにすぎず、ついには救いの望みを凡て失い、地獄の神を否定する者の許へ送られる。これらのものは聖霊を冒涜し、この世でも来るべき世でも罪を赦されない者により意味されている(マタイ12・32)。その理由は、神は人格と本質において一つであって、その中に三一性が在り、主はこの神であられ、主はまた天界であり、従って天界にいる者たちは主の中におり、主の神性を否定する者は天界に入れられて主の中にいることは出来ないということである。主は天界であられ、従って天界にいる者は主の中にいることは前述した。

 

「第7の種類の冒涜は先ず神的真理を承認し、それに従って生き、後にそれをはねつけて否定する者により犯される」。

彼らは聖い物と汚れた物とを、それが分離出来ないほどに混合するため、これは最悪の種類の冒瀆である、しかもこのような人物はこれらが分離されない限り、天界にも地獄にもいることは出来ない、そしてこれは彼らの中に分離されることが出来ないため、彼らは知的な、また意志的な人間の属性をことごとく全く剥奪されて、前述したように、人間でなくなる。これと殆ど同じことが聖言と教会の神的な物を心で承認しながらも、それをことごとく、前に再三述べたように、宇宙をも支配しようとする愛である自己性の中にひたしている者に起る、なぜなら死後、彼らは霊となるとき、主により導かれようと全く欲しないで、自分自身を導こうと欲し、その愛は凡ゆる束縛から解放されると、彼らは天界のみでなく、主をも支配しようと欲し、このことは不可能であるので、主を否定して、悪魔になるからである。生命の愛は―それはまた支配する愛であるが―死後凡ゆる人間の中に止まり、取り去られることは出来ないことに注意しなくてはならない。この種類の冒瀆者は黙示録に言われているなまぬるい者により意味されている、『私はおまえの業を知っている、おまえは冷ややかでもなく、熱くもない、私はおまえが冷ややかであるか、熱いか、どちらかであって欲しい、おまえは生ぬるく、冷ややかでもなく、熱くもないため、おまえを私の口から吐き出そう』(黙示録3・15、16)。この種類の冒瀆はマタイ伝に主に以下のように示されている、『汚れた霊が人間を去ると、彼は乾いた所を歩いて、休息を求める、が、それが出来ない、それで彼は言う、私は私の出てきた家に帰ろう、と。彼は帰って、その家が空き家になり、自分のために掃除が出来て、飾られているのを見、去って、自分自身よりも悪い他の7つの霊を連れてきて、共に入り、そこに住む、それでその人の後の状態は前よりも悪くなる』(マタイ12・43−45)。人間の回心はそこに汚れた霊が人間から出ることにより示され、彼が善と真理が追放された後に再び前の悪に帰ることは、汚れた霊が自分よりも悪い他の7つの霊と共に、自分のために整えられた家へ帰ることにより示され、こうした人間による聖物冒瀆はその人間の後の状態が前の状態よりも悪くなることにより示されている。

 

 

 

16.信仰について、その後で信仰から後退するよりは、不信仰の中に留めおかれる方がまさっている

 

 

天界の秘義5508[2]

 

 彼らに振りかかった事柄は摂理の事柄であり、または供えられた事柄であるということは、振りかかったり、または不意に起きたりする事柄は凡て―それは他の言葉では偶然的なものと呼ばれて、偶然、または運に帰せられてはいるが―摂理に属したものであるためである。神の摂理がこのように目に見えず、また不可解なままに働いているのは、人間が事件を自由に摂理から、または偶然か、その何れかに帰すためである、なぜならもし摂理が目に見えて、把握出来るように働くなら、人間はその見て、把握するものから、それは摂理から来ていると信じ、後になってその反対の考えに移る危険が在るためである。かくて真理と誤謬とは内的な人の中に連結して、真理は冒涜され、その冒涜には永遠の堕地獄が伴うのである。それでこのような人間は、信仰について、その後で信仰から後退するよりは、不信仰の中に留めおかれる方がまさっているのである。

 

 

 

 

17.ドレックス教授

 

 

天使館/天使のパン16号P40

『信仰は従順より偉大である』ドレックス教授への救い主の御言葉 

1973年7月6日早朝の主の御言葉

 

 私の教会がこれから直面しようとしている時代は、苦難の時代となるであろう。その理由は、叙階されていても祭壇上で価値のない僕となり、信仰の最も聖なる神秘であるミサ聖祭を人間的に、世俗的にしてしまった司祭たちのせいである。何千という数の司祭たちが毎日冒涜の罪を犯している。この事はヨーロッパだけに限らない。この冒涜の罪は否定されたり、或は無害であるとさえ宣言されている。

 

 

 

天使館/天使のパン16号P42

『信仰は従順より偉大である』ドレックス教授への救い主の御言葉 

1973年9月7日早朝の主の御言葉

 

現代の教会の危機と混乱の中で最大の罪と最も恐るべき冒涜は、この様な不忠実な司祭たちと、間違った教えに導かれている一般信者たちが、祭壇の犠牲の神秘を単なる食事に貶めていることである。このように堕落と裏切りの霊が多くの信者たちの上に覆いかかり、そのため信者たちは崇敬の念を持たずに、あたかも一つのこの世の出来事のように、御聖体を拝領しに行くのである。そのため、このような信者たちは審判の前で有罪とされる。彼らが私の聖母マリアのことを考え、御託身の時、聖母がどれほど純粋で深く熱い崇敬の念を持って聖霊から神の御子である私をお受けになったかを理解すれば、自らを反省し、私への崇敬と愛を取り戻したいと願うであろう! 私のはしため、アグレダのマリアが啓示の本(注:『神の都市』を指す)の中で、どれほど言い尽くしがたい崇敬をもってこの事について書き記したかをよく考えてみなさい。私がどれほど愛しているかを悟り、また祭壇上の現存を至聖なる御者として崇め、次いで私の聖母に対して愛を与える者たちに対して、私は永遠にわたって幸いを与えるであろう。

 

 

 

 

18.癩病

 

 

天界の秘義6959

 

「エホバは更に彼に言われた」。これは、霊的な教会の者たちが信仰を持たないなら、彼らの性質はいかようになるかについて先見されたことを意味していることは、『エホバは言われた』の意義から明白であり、それは(前の6946番のように)先見である。この言葉が、霊的な教会の者たちがもし信仰を持たないなら、その者たちの性質はいかようになるか、を意味している理由は、以下の記事に取扱われている主題は、(イスラエルの子孫により表象されているところの)霊的な教会に属している者たちがもし信仰を持たないなら、その者たちの性質は更にいかようになるか、即ち、彼らは真理の冒涜者となるであろうということである。なぜなら棒が蛇になった最初の奇蹟は彼らの状態を、即ち、彼らは全く感覚的なものに、形体的なものになるであろうということを意味しているからである。手が癩病になったこの奇蹟は冒涜を意味しているのである、なぜならもし教会が無信仰の状態を固守するなら、そうしたことがそれに続いて起こるからである。

 

 

 

天界の秘義6959〔2〕

 

 霊的な教会の者たちは、その子供の頃、また後にはその青年時代にその教会の教義的な事柄を信じるが、しかしその時は彼らは両親や教師から信仰を得るのであり、彼ら自身から得ているのではない、それで後になって彼らは信仰から遠ざかるにしても、その真理を彼らは極めて僅かしか冒涜しないのであり、その冒涜は神的な手段によって除かれることが出来、かくてその当人はその罪責から自由にされることが出来るのである。しかし、もし人間が自分自身から、即ち、自分自身の中で色々と確認することによって教会の教義を、また聖言を信じるなら、そしてその後になって(そこから)遠ざかり、以前信じていたものを自分自身の中に否定するなら、特に彼が自分自身の中に確認していた真理に反した生活をし、それを自分自身に有利になるように説明するか、または全然それを斥けてしまうか、するなら、彼は真理を冒涜するのであり、それは彼が彼自身の中に真理と誤謬とを混入させ、連結させるためである。こうした人物は真理と善との残りのものを殆ど全く持っていないため、彼らは他生では遂には骸骨のようになり、肉の有機的な生命に比較されると骨には生命が残っていないほどにも、生命は残らなくなるのである。しかし真理を冒涜する者の運命よりは善を冒涜する者の運命は更に痛ましい、主の霊的な教会に属している者たちは真理を冒涜することは出来るが、善をそれほど冒涜することは出来ないのである。

 

 

 

天界の秘義6959〔3〕

 

『癩病』は真理を冒涜することを意味しているため、またそれが以下の記事に取扱われている主題でもあるため、冒涜について前に言いもし、示しもしたことを先ず参照されたい、即ち、教会の中にいる者たちは聖い物を冒涜することが出来るが、教会の外にいる者たちはそれを冒涜することは出来ない(2051、3399番)、聖い事柄は、それを以前に承認した者たちによらなくては冒涜されることは出来ない(1008、1010、1059、3398、3898、4289番)、真理と善とを承認し、信じつつも、それに反した生活を送ることもまた冒涜である(4601番)、人間は可能な限り冒涜から遠ざけられる(301−303、1327、1328、3398、3402、番)、冒涜者たちの運命は他生では凡てのものの中でも最悪である(6348番)。

 

 

 

 

19.人間は可能な限り冒涜から遠ざけられる

 

 

天界の秘義6959〔3〕

 

人間は可能な限り冒涜から遠ざけられる(301−303、1327、1328、3398、3402、番)

 

 

 

天界の秘義301

 

 他のアルカナは彼らは信仰の諸々の秘義を教えられたならば、永遠に滅んでしまったであろうということであって、それが『恐らく彼は手を伸ばして生命の木の実をも取り、食べて、永遠に生きるであろう』という言葉により意味されているのである。実情は以下のごとくである、人間が転倒した秩序の生命となって、自分自身から、また自分自身のものから生き、または賢明になることを望んで、(主から)生き、賢明になることを願わなくなると、信仰について聞く凡ての事柄についてはそれがそのようなものであるか、ないかと論じるのであり、そしてそうしたことを自分自身と自分自身の感覚と記憶知に属したものから行うため、必然的にそれは否定に陥り、従って涜神と冒涜とに陥らないわけにはいかないのであり、かくて彼らは遂には汚れたものと聖いものとを混合することにためらいはしなくなるのである。人間がこのようなものになると、その者は他生では救いの望みが些かも残らない程にも罪に定められるのである。なぜなら冒涜により混合したものはそのように混入したままに止まり、かくて聖いものについて何らかの観念[考え]が現れると必ず、それに連続した汚れたものの観念もまたそこに存在し、その結果その人間は呪われた者[地獄に投げ込まれた者]の社会を除いてはいかような社会にもいることが出来なくなるのである。思考の何らかの観念の中に、その観念に連結している結果現存しているものはことごとく、他生では、霊たちの世界の霊たちによってすら極めて精妙に認められており、天使的な霊によっては遥かに精妙に認められており、実にただ一つの観念から人物の性格が知られるほどにも精妙に認められている。汚れた観念[考え]と聖い観念[考え]とがこのように連結しているとき、その二つのものを分離することは奈落の拷問によらなくては―もし人間がそれを知るならば地獄そのものを避けるようにも入念に冒涜を避けるであろうが、そうした奈落の拷問によらなくては―不可能である。

 

 

 

天界の秘義302

 

これが信仰の諸々の秘義がユダヤ人には決して啓示されなかった理由である。彼らは死後も生きることを明らかに告げられもせず、また主が彼らを救うために世に来られることも明らかに告げられはしなかったのである。彼らが陥ったところの、今も尚陥っているところの無知と愚鈍とは、内なる人の存在を、または何か内なるものの存在を知らなかったし、また今も知っていない程にも甚だしいものであった。なぜならもし彼らがそれを承認する程にも知ったとするなら、または今それを知るとするなら、その性格上必然的にそれを冒涜し、他生では、彼らには如何ような救いの希望も無くなるからである。このことがヨハネ伝に主によって意味されているところである―

 

かれは彼らの眼をめくらにし、その心を閉じられた、彼らが目で見て、心で理解し、回心して、わたしが彼らを癒すことのないためである(12・40)。

 

また主が(御自身言われているように)、彼らが

 

見るが見ない、聞くが聞きはしない、また理解しないために(マタイ13・13)、

 

彼らには譬で話されたが、その意味を説明されはしなかったことによっても意味されているのである。

 

同じ理由から信仰の諸々の秘義はことごとく彼らから隠され、その教会の表象的な物の下に隠されたのであり、同じ理由から予言者の文体も同じ性格を持っているのである。しかしながら知ることと承認することとは異なっている。知ってはいるが、承認はしない者は謂わば知らない者である、しかし主のこれらの言葉により意味されている者は承認はするが、後になって汚し、冒涜する者である。

 

 

 

天界の秘義303

 

 人間はその確信しているもの、即ち、承認して、信じている凡ての物により生命を得ている。彼が確信しない、または承認しない、信じないものは彼の心を動かしはしない。それでたれでも聖いものを承認する程にも確信し、しかもそれを否定しない限り、聖いものを冒涜することは出来ない。承認しない者は知るかもしれないが、しかし謂わば知らない者であり、存在しないものを知っている者に似ている。これが主の降臨の頃のユダヤ人であったのであり、それで彼らは聖言では『剥奪された者』または『荒廃したもの』と言われ、即ち、最早いかような信仰も持っていない者と言われている。こうした事情の下では聖言の内的な内容を開かれることは人間には何の害も与えはしない、なぜなら彼らは見るが、見ない、聞くが聞かない、心をふさがれてしまった人間のようなものであり、彼らについて主はイザヤ書に以下のように言われている―

 

 行ってこの民に告げなさい、あなたは聞いて聞く、しかし理解しない。見て見るが、しかし知らない。この民の心を鈍くし、その耳を重くし、その眼に塗りつけよ、彼らが目で見、耳で聞き、心で理解して、癒されることのないためである(イザヤ6・9、10)。

 

 人間がこのような状態になるまでは、即ち、(前に述べたように、信仰の諸々の秘義を冒涜することが出来ないように)それを最早信じない程にも剥奪されない〔荒廃しない〕うちは、その秘義は啓示されないことを主はまた明かに同じ予言者の書の後の節に言明されている―

 その時わたしは言った。主よ、いつまででしょうか。かれは言われた、都は荒れ廃れて、住む人はいなくなり、家も荒れ廃れて、人もなく、土地はことごとく荒れ果てて、エホバが人を移されてしまうまで(イザヤ6・12)。

 

 賢明な者は、または承認して、信じる者は『人』と呼ばれている。すでに言ったように、ユダヤ人は主の降臨の頃、このように荒廃していたが、同じ理由からその諸々の欲念により、特にその貪欲により依然そのように荒廃して、主を幾度となく聞くけれども、また彼らの教会の表象物はその凡ゆる点で主を意味していることを聞くけれども、しかし何物も承認しないし、また信じもしないほどにもなっていたのである。それでこのことが洪水以前の人々がエデンの庭園から追放され、荒廃し、最早いかような真理も承認することが出来なくなった理由であった。

 

 

 

天界の秘義306

 

 『東からケルビムを住まわせる』ことは彼が信仰のいかような秘められたものにも入り込まないように供える[配慮する]ことである、なぜなら『エデンの園に向った東』は理知の発してくる天的なものであり、『ケルビム』によりこうした人間を信仰の諸々のものに入り込ませない主の配慮[摂理]が意味されるからである。『それ自らを回す剣の焔』により、狂った欲望とそこから由来してくる確信とを伴った自己への愛が意味され、それらは彼が実際入ろうと望みはするが、形体的な地的な物に拉し去られる底のものであり、このことは『生命の木を守る』すなわち聖いものを冒涜させまいとする目的のためである。

 

 

 

天界の秘義1327[3]

 

内なる礼拝が死滅して外なる礼拝が残ることが許された理由は聖いものが冒涜されないためであった、なぜなら聖いものを冒涜することは永遠の堕地獄の状態を伴うからである。信仰の諸知識を持っていて、その真理を承認している者以外の者は一人として聖いものを冒涜することは出来ないのである。信仰の知識を持っていない者はそれを承認することは出来ないし、ましてやそれを冒涜することは出来ない。冒涜することが出来るものは内なるものである、なぜなら聖いものは内なるものの中に宿っていて、外なるものの中には宿っていないからである。こうした実情は、悪を行うが、悪を意図してはいない者の場合と同一である。その者には、丁度周到な意図から悪を為さない者には、または理性を欠いている者には悪は帰せられることが出来ないようにその者の行う悪は帰せられることは出来ないのである。かくて死後の生命があることは信じないが、しかも外なる礼拝を行う者は永遠の生命に属した事柄を冒涜することは出来ない、なぜなら彼はそうした生命があることは信じないからである、しかしそうした事柄を知り、また承認している者らの場合は全く異なっている。

 

 

 

天界の秘義3398[]

 

真理の冒涜にかかわる実情は以下のごとくである、すなわち、神的真理はそれを先ず承認した者以外の者によっては決して冒涜される筈はないのである、なぜなら先ず承認と信仰とにより真理へ入り、かくして真理を教えられた者らが後になってそこから後退する時、絶えず真理の印象が内部に刻みつけられて残り、それが誤謬と悪と同時に思い出され、そこから真理は誤謬と悪とに密着することによって、冒涜されるからである。それ故このことが自分のもとに現実となっている者らはその者らを地獄に落とすものを絶えず自分自身の中に持っており、かくて自分自身の地獄を絶えず自分自身の中に持っているのである、なぜなら奈落の者は善と真理とが存在しているスフィア[領域]に近づくと、彼らが憎悪しているものの中へ入ってくるため、従って彼らを呵責するものの中へ入ってくるため、自分自身の地獄を直ぐさま知覚するからである。それ故真理を冒涜した者らはその者らを苦しめるものとともに絶えず住んでおり、しかもそれはその冒涜の度に応じているのである。そうした理由から神的な善と真理とは冒涜されないように主により極めて特別に配慮されているが、そのことは冒涜しないわけにはいかない人間が真理と善とを承認し信仰しないようにそこから可能な限り遠ざけられるという事情により配慮されているのである、なぜなら前に言ったように先ず承認し、信じた人間を除いてはたれ一人冒瀆することは出来ないからである。

 

 

 

天界の秘義3402[2]

 

 (永遠に地獄に堕ちる危険があるためたれ一人その者が善と真理との中に止まることが出来る程度よりも更に多く善と真理の中に入れられてはならない、即ち、善と真理とに対する承認と情愛の中へ入れられてはならないことが主の摂理によっていることは前の3398番に見ることが出来よう)。善と真理における実情は人間の中では善と真理とは人間が悪と誤謬との中にいるに比例して人間の内部の方へ移行してしまい、従って天界から来て彼と共にいる天使たちはそれに応じて後退し、地獄から来ている悪魔的な霊がそれに応じて近づいて来るということである。そしてその反対のこともまた真である。悪と誤謬の中にいる人間から善と真理とが遠ざかることは、即ち、天使たちが遠ざかることは彼には明らかではない、それは彼はその時悪は善であり、誤謬は真理であると説きつけられており、しかもそれはそれらのものに対する情愛とそこから生まれてくる歓喜から来ており、彼がこうした状態にいる時は、善と真理とが彼から遠ざけられてしまっていることを知ることは彼には不可能であるためである。善と真理とは、また天使たちは、人間がそれらのものにより感動を受けないときは、即ち、それらのものを最早喜ばなくなって、その反対に自己への愛と世への愛とに属しているものにより心を動か去れる時、即ち、これらのもののみが彼を喜ばす時は、人間から遠ざけられると言われている。

 

 

 

天界の秘義3402[3]

 

 善と真理とを知ることは、即ち、それらを記憶に止め、それらについて語ることは、それらを持つことではない、それらを持つことは心からそれらに感動することである、またいかような人間も善と真理とによって名声と富とを得るために善と真理とに心を動かされるときも、その善と真理を持つのではない、なぜならそうした場合彼は善と真理とにより心を動かされるのではなく、名誉と利得に心を動かされるのであり、善と真理を名誉と利得を得る手段とするからである。

 

 

 

 

20.聖言を冒涜すると無神経となり、自分自身から残りのものを剥ぎ取ってしまう

 

 

天界の秘義571

 

 人間が信仰の真理をその狂った欲念に惑溺させてしまうような性格のものになると、その時彼は真理を冒涜し、自分自身から残りのものを剥ぎ取ってしまうのであり、それは残ってはいるけれども、現れることは出来ないのである、なぜならそれは現れると直ぐに汚れた物により再び汚されてしまうからである、なぜなら聖言を冒涜すると謂わば無神経になり、そのため障害が生まれて、残りのものの善と真理が吸い込まれてしまうからである。それ故人は主の聖言を冒涜しないように警戒しなくてはならない、その中には生命が宿っている永遠の諸真理が含まれているのである、例え誤った原理の中にいる者らはそれが真理であることを信じてはいないにしても。

 

 

 

 

21.聖言を冒涜する、または否定する者ら

 

 

天界の秘義9222

 

「君をあなたの民の中で悪し様に言ってはならない。」これは真理の教義もまた冒涜してはならないことを意味していることは以下から明白である、即ち『君』の意義は教会の主要な真理であり(5044番を参照)、『民』の意義は教義の諸真理の中にいる者たちであり(1259、1260、2928、3295、3581、7207番)、『悪し様に言うこと』の意義は冒涜することである。これらの事柄がいかに密接に関連しているかは内意から明白である、なぜなら『神を呪わないこと』により真理の神的なものを冒涜しないことが意味され、『君を悪し様に言わない』により真理の教義を冒涜しないことが意味されるからである。真理の神的なものは聖言であり、教会の教義はそこから派生してくる真理である。真理の神的なものを冒涜することについて若干述べよう。真理の神的なものは聖言であり、聖言から発した教義である。心でこれらを否定する者らは、例え口では聖言を賛えて、それを宣べ伝えるにしても、冒涜するのである。冒涜はその否定の中に隠れており、それは彼らが彼ら自身に委ねられる時に、特に他生で外に現れてくるのである、なぜなら他生では、外なるものが遠ざけられた後では、心が語るからである。

 

 

 

天界の秘義9222〔2〕

 

 聖言を冒涜する、または否定する者らは信仰の善と真理のいかようなものをも受けることは出来ない、なぜなら聖言は主、天界と地獄、死後の生命、信仰と仁慈、その他多くの事柄の存在を教えており、そうした事柄は、聖言が無くては、即ち、啓示が無くては、全く知られはしないからであり(8944番)、それで聖言を否定する者らは聖言が教えていることを何一つ受けることは出来ないのである、なぜなら彼らが聖言を読むか、または聞くかすると、否定的な態度が現れてきて、そのため真理は消滅してしまうか、または誤謬に変えられるか、してしまうからである。

 

 

 

天界の秘義9222〔3〕

 

それで教会の人間における最初の事柄そのものは聖言を信じることであり、それが信仰の真理と仁慈の善の中にいる主要な事柄である。しかし自己と世への愛の悪の中にいる者らにあっては、その主要な事柄は聖言を信じないことである、なぜなら彼らはそれについて聞くと忽ちそれを斥けもし、また同じく冒涜もするからである。もし人がこうした愛の悪の中にいる者らのもとに存在するところの聖言に対する冒涜の大きさと性質とを仮にも見るとするなら、戦慄するであろう。その人間自身は世にいる間はそのことを知らない、なぜならこうした冒涜は人間のもとで言葉に移るかの能動的な思考の観念の背後に隠れているからである。それでもそれらは他生では示されて、戦慄すべきものとして現れるのである。

 

 

 

 

22.詐欺

 

 

天界の秘義2426

 

主は悪が善に混入しないように絶えず配慮されておられるが、人間が悪の中にいるに正比例して、善から遠ざかるのである、なぜなら人間が悪の中にいると同時に善の中にいるよりは、全く悪の中にいる方が人間にはさらにまさっているからである。なぜならもし彼が悪の中にいると同時に善の中にいるならば、彼は必然的に永遠に地獄に落ちなくてはならないからである。こうした危険の中に最も陥っている者は教会にいる詐欺漢、偽善者である。

 

 

 

 

23.幼児洗礼

 

 

神の摂理228

 

何人も聖い物を多少なりと知らないかぎり、このようにそれを冒瀆しない。なぜなら知らないならば、彼はそれらを承認して、後で否定することは出来ないからである。それ故基督教世界の外側に在って主と主いよる贖罪と救いについては何ごとも知らない者は、聖いものを受け入れないことによっても、またはこれに反抗さえすることによっても、それを冒瀆はしない。ユダヤ人自身もまた幼児の頃からそれを受け入れ、または承認しようとしないゆえ、それを冒瀆しない。もし彼らがそれを受け入れ、承認し、後にそれをはねつけ、否定する者は、それに汚れた物を混入することにより、それを冒瀆するのである。彼らがそれを幼児と小児の頃受け入れ、告白したことからは―このことは凡ての基督教徒により為されているが―いかなる害も生まれない。なぜなら彼らはそのときは合理性と自主性を働かせることにより、即ち、意志により活動する理解によって信仰と仁慈の事柄を受け入れ承認するのではなく、単に記憶の中に、その教師に対する信頼からそれを受け入れるにすぎず、もしそれに従って生きるにしても、それは盲目の服従から発しているからである。しかし人間がその合理性と自主性を用いるとき―彼は青壮年に成長するとき除々にそれを用いるのであるが―そのとき彼が真理を承認し、それに従って生き、その後それを否定するならば、聖い物と汚れた物とを混入し、前述したように、人間ではなくなって、怪物となる。しかしもし人間がその合理性と自主性とを持つようになった時から悪におり、即ち、自分自身の支配者となるならば、そして壮年期の初期にそのようなものであったが、その後信仰の諸真理を承認し、それに従って生き、その生涯の終わりませもその中に止まるならば、善と悪とを混合しないのである。なぜなら主はそのとき彼の前の生活の悪をその生活の善から分離されるからである。これは悔改める凡ての者のために為される。しかしこれらの事については更に多くの事を以下に述べよう。

 

 

 

 

24.聖言から教会の教義を引き出さないで、それを自分自身の理知から考案することは冒瀆

 

 

啓示による黙示録解説571

 

聖言から教会の教義を引き出さないで、それを自分自身の理知から考案することは冒瀆であるという第二のものについては、その理由は、「聖書にかかわる新しいエルサレムの教義」(76−79番)の中に認めることが出来るように、教会は聖言から存在し、その性質は聖言の理解に順応しているためである。

 

そして信仰のみは、即ち、信仰は律法の業なしに義とし、救うという教義は、聖言から発してはおらず、パウロのただ一つの表現を誤って理解したことから発しており(ロマ3・28、417番参照)、教義の誤謬はことごとく自己自身の理知以外のいかような源泉からも発してはいないのである。

 

なぜなら聖言には、悪を避けて、善を行うということにもまさって何が遍く教えられているであろうか。また神と隣人とを愛さなくてはならないということにまさって何がさらに明白であろうか。そしてたれ一人律法の業に従って生きない限り、隣人を愛することは出来ないし、隣人を愛さない者は神も愛しはしないことを認めない者があろうか。なぜなら隣人を愛する愛の中に主は御自身を人間と連結され、人間は人間自身を主と連結させ、即ち、主と人間とはその愛の中に結合するからである。そして隣人を愛することは、十戒の戒めに従って、隣人に悪を行わないことではなくて何であろうか(ロマ13・8−11)。そして人間は隣人に悪を為すことを欲しないことに正比例して、隣人に善を為すことを欲しており、ここから、善い業から分離した信仰である信仰のみが救うものであるとしている者らのように、この律法の業を救いから除外することは冒瀆であることは明白である。『冒瀆』(マタイ12・31、32、黙示録17・3、イザヤ37・6、7、23、24)によりソツニウス派の者らのように、主の神的なものを否定し、聖言を否定することが意味されている、なぜならそのようにして主の神的なものを否定する者らは天界に入ることは出来ないからである、なぜなら主の神的なものは天界における凡てにおける凡てであり、聖言を否定する者は宗教の凡ゆる物を否定するからである。

 

 

 

25.人間は神について考え、信じているその性質について調べられる

 

 

スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP58

 

 新しいエルサレムと呼ばれる新しい教会の教義の本質的なものは、主についてはこのことであり、その中にいることを望む者はそのことを承認するのである、なぜならこの教会はキリスト教そのものであるからであり、そして一人の神を、かくて主のみを考え、信じる者を除いてはたれ一人天界へ入れられはしないことを知らなくてはならないのである。人間は神にかかわるその告白に順応して天界へ入ることを許されることを知らなくてはならないのであり、人間は神について考え、信じているその性質について調べられるのである、なぜならその告白を通して連結が生まれるからであり、連結が生まれるとき、細々したことにおいて明るく示されるのである。愛の、また信仰の凡ゆるものはそのことにかかっているのであり、それ故、神を否定する者らは地獄にいるのは、分離が起こるためである。それ故、最初の、主要なことは神を知り、承認し、信じ、愛することであり、他の凡ゆることはこのことに依存しているのである。