見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである

マタイ13・13

 

主が譬えで教えられた理由冒涜内意を斥ける者

耳を塞ぐ者は災い聖言が閉じられている知ろうと願わない

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.ヴァッスーラ

 

1.聖書

 

 

イザヤ6・9−11

 

主は言われた。

「行け、この民に言うがよい

よく聞け、しかし理解するな

よく見よ、しかし悟るな、と。

この民の心をかたくなにし

耳を鈍く、目を暗くせよ。

目で見ることなく、耳で聞くことなく

その心で理解することなく

悔い改めていやされることのないために。」

わたしは言った。

「主よ、いつまででしょうか。」

主は答えられた。

「町々が崩れ去って、住む者もなく

家々には人影もなく

大地が荒廃して崩れ去るときまで。」

 

 

 

エレミヤ5・21−22

 

愚かで、心ない民よ、これを聞け。

目があっても、見えず

耳があっても、聞こえない民。

わたしを畏れ敬いもせず

わたしの前におののきもしないのかと

主は言われる。

 

 

 

マタイ13・13−15

 

だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。

『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』

 

 

 

マルコ4・10−12

 

イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」

 

 

 

ヨハネ12・37−41

 

このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。 預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。

「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」

彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。
「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」

 イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義303

 

 人間はその確信しているもの、即ち、承認して、信じている凡ての物により生命を得ている。彼が確信しない、または承認しない、信じないものは彼の心を動かしはしない。それでたれでも聖いものを承認する程にも確信し、しかもそれを否定しない限り、聖いものを冒涜することは出来ない。承認しない者は知るかもしれないが、しかし謂わば知らない者であり、存在しないものを知っている者に似ている。これが主の降臨の頃のユダヤ人であったのであり、それで彼らは聖言では『剥奪された者』または『荒廃したもの』と言われ、即ち、最早いかような信仰も持っていない者と言われている。こうした事情の下では聖言の内的な内容を開かれることは人間には何の害も与えはしない、なぜなら彼らは見るが、見ない、聞くが聞かない、心をふさがれてしまった人間のようなものであり、彼らについて主はイザヤ書に以下のように言われている―

 

 行ってこの民に告げなさい、あなたは聞いて聞く、しかし理解しない。見て見るが、しかし知らない。この民の心を鈍くし、その耳を重くし、その眼に塗りつけよ、彼らが目で見、耳で聞き、心で理解して、癒されることのないためである(イザヤ6・9、10)。

 

 人間がこのような状態になるまでは、即ち、(前に述べたように、信仰の諸々の秘義を冒涜することが出来ないように)それを最早信じない程にも剥奪されない〔荒廃しない〕うちは、その秘義は啓示されないことを主はまた明かに同じ予言者の書の後の節に言明されている―

 その時わたしは言った。主よ、いつまででしょうか。かれは言われた、都は荒れ廃れて、住む人はいなくなり、家も荒れ廃れて、人もなく、土地はことごとく荒れ果てて、エホバが人を移されてしまうまで(イザヤ6・12)。

 

 賢明な者は、または承認して、信じる者は『人』と呼ばれている。すでに言ったように、ユダヤ人は主の降臨の頃、このように荒廃していたが、同じ理由からその諸々の欲念により、特にその貪欲により依然そのように荒廃して、主を幾度となく聞くけれども、また彼らの教会の表象物はその凡ゆる点で主を意味していることを聞くけれども、しかし何物も承認しないし、また信じもしないほどにもなっていたのである。それでこのことが洪水以前の人々がエデンの庭園から追放され、荒廃し、最早いかような真理も承認することが出来なくなった理由であった。

 

 

 

天界の秘義2426

 

「恐らく悪が私にまつわりついて、私は死ぬかもしれません」。 これはそのため彼はそれと同時に悪に陥り、そのことによって罪に定められない訳にはいかないであろうということを意味していることは、説明無しに明白である。これらの言葉に意味されていることは前に(301−303、571、582、1001、1327、1328番)言われもし、また示されもしたことから知ることが出来よう、即ち、主は悪が善に混入しないように絶えず配慮されておられるが、人間が悪の中にいるに正比例して、善から遠ざかるのである、なぜなら人間が悪の中にいると同時に善の中にいるよりは、全く悪の中にいる方が人間にはさらにまさっているからである。なぜならもし彼が悪の中にいると同時に善の中にいるならば、彼は必然的に永遠に地獄に落ちなくてはならないからである。こうした危険の中に最も陥っている者は教会にいる詐欺漢、偽善者である。それでこれが『恐らく悪が私にまつわりついて、私は死ぬかもしれません』の内意である。

 

 

 

天界の秘義2520[5]

 

 聖言が人間の理解に順応して、また人間の資質に順応して語っているのは人間の合理的なものがこのような性格を持っているためである。それでこのことが聖言の内意がその文字の意義から異なっている理由であり、そのことは旧約聖書の聖言の中では非常に明白であって、そこでは大半の事柄は当時生きていた人々の把握と資質とに順応して書かれてきたのである。そうした理由から死後の生命、救い、内なる人については殆ど何ごとも言われてはいないのである。なぜなら当時その許に教会が存在したユダヤ人とイスラエル人は、もしこれらの事柄が明らかに示されたなら、単にそれらを理解しないのみでなく、さらに愚弄するといった性格を持っていたからである。そしてもしメシアまたはキリストが彼らの霊魂を永遠に救うために来られることが彼らに明らかに示されたにしても、同じことが見られたであろう、すなわちそのことをまた彼らは無意味なこととして斥けてしまったであろう、そのことはまた現今の同じ民族からも明白である、なぜなら内なるものがまたは霊的なものが現在でさえも彼らの眼前に言われて、そのメシアは地上の最大の王にはなられはしないと言われるなら、彼らはそれを愚弄してしまうからである。

 

 

 

天界の秘義2520[6]

 

これが主がときとして予言者のように語られ、またその言われねばならなかった他のことを譬えで教えられた理由である、例えば主は御自身マタイ伝に明らかに宣べられたのである―

 

 イエスは言われた、わたしは譬えで彼らに話すのである、それは彼らは見はするが、見ないし、聞きはするが、聞きはしないし、また理解もしないためである(マタイ13・13)。

 

『見て、聞く者』により、教会の中で、見て、聞きはするものの、依然理解しない者らが意味されているのである。ヨハネ伝にもまた―

 

 かれは彼らの目を盲目にされ、その心を頑にされた、彼らがその眼で見、その心で理解し、回心して、わたしが彼らを癒すことのないためである(ヨハネ12・40)。

 

彼らが『回心し』て、『癒される』ことは、それにも拘らず彼らは後になると斥けてしまった、かくして冒涜してしまい、それが永遠の堕地獄罪を含むことになることを意味している(301−303、582、1008、1010、1059、1327、1328、2051、2426番参照)。それにも拘らず主は多くのところで聖言の内的なものを明らかに示されたのであるが、しかしそれはただ賢明な者のためにのみ明らかにされたのである。

 

 

 

天界と地獄353

 

 誤った理知と知恵とは神的なものを承認しない凡てのものである、なぜなら神的なものを承認しないで、神的なものの代わりに自然を承認する者は凡て、世では如何ほど教育があり、学問があると信じられていても、形体的な感覚的な面から考えていて、単に感覚的な者に過ぎず、彼らの学問は、世で目から見られる物を超えて昇らず、その目で見る物を記憶にしまい込んで、ほとんど物質的に眺めているが、しかしその同じ科学は真に理知的な者には理解を形作るのに役立っているのである。科学により、物理学、天文学、化学、機械学、幾何学、解剖学、心理学、哲学、歴史、文学、言語学のような色々な種類の実験的な知識が意味されている。神的なものを否定して思考を外なる人の感覚的な物の上に高揚しない聖職者らは聖言の事柄を他の者らが科学を扱うようにしか扱わず、それを高揚された合理的な心により思考の問題または直覚の問題ともしていない、なぜなら彼らの内部は閉じられていると同時に、その内部の真近にある外部も閉じられているからである。これが閉じられているのは、彼らは天界に自分自身を背けて、前に言ったように、人間の心の内部であるところの、天界の方を眺めることが出来る能力を転倒させてしまったからである。そうした理由から彼らは真で善いものを見ることは出来ないか、それは真で善いものは彼らには暗闇の中にあるが、誤った悪いものは光の中にあるためである。しかしそれでも感覚的な人間は論じることが出来、その中には他の者以上に狡猾に、また鋭く論じることが出来る者もいるが、しかしそれは彼らの科学により確認された感覚の妄想から行われているのであり、彼らはこのように論じることが出来るため、自分自身をまた他の者以上に賢明なものであると信じている。その理論を情愛をもって燃やしている火は自己と世への愛である。これらが誤った理知と知恵にいる者であり、またマタイ伝で主の以下の語に意味されている者である、「彼らは見るが見ない、聞くが聞かない、理解もしない」(マタイ13・13−15)。また他の所には、「これらの事は理知ある者と賢明な者からは隠れており、幼児に示されている」(マタイ11・25、26)。

 

 

 

天界と地獄456注3

 

冒涜は人間のもとに善と悪が、また真理と誤謬とが混合することである、6348。最初善と真理を、または聖言と教会との聖い物を承認し―もしそれに従って生きるならば、尚更のことではあるが―後になってその信仰から後退し、それらを否定し、自分自身と世とのために生きる者以外には何人もそれを冒涜することは出来ない、593、1008、1010、1059、3398、3399、3898、4289、4601、10284、10287。もし人間が悔改めた後以前の悪へ再び帰るならば、彼は冒涜する者となって、その後の状態は前の状態よりは悪くなる、8394。聖い物を承認しなかった者はそれを冒涜することは出来ない、ましてそれを知らなかった者はそれを冒涜する筈はない、1327、1328、2051、2284。そうした理由からユダヤ人には内的な諸真理は明らかにされなかった、もしそれが明らかにされて、承認されたなら、その民族はそれを冒涜したであろう、3398、4289、6963。冒涜者の他生における運命は凡ての中で最悪のものである、なぜなら彼らが承認した善と真理とは存続し、同じく悪と誤謬も存続し、それらは共に密着しているため、その生命は引き裂かれるからである、571、582、6348。それで冒涜を避けるため、主により非常に入念な配慮が為されている、2426、10287。

 

 

 

 

3.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P109

‘88・1・18

 

主よ すべてがみ旨からのもので 起こるすべてが主のみ旨によるのでしたら、どうしてメッセ―ジを受入れてもらいたいと願っておられる霊魂たちの心を開かれないのか私には分かりません、主がそれをお望みなのですから。この方がたをどうして照らされないのでしょう?

 

 

ああ 娘よ、愛する者よ、あなたを癒し 改心させたことを喜び 幸せに思いなさい  ♡  私を畏れる者たちには代々に私の憐れみが及ぶ、しかし刺となって突き刺す者たちに対してはイザヤの預言が繰り返されている、「あなた方は聞き 再び聞くが、理解しないであろう、見て 再び見ながら、悟らない  ♡  この国の心は粗雑になり、耳は聞く力を鈍らせ 目は閉じてしまった、目で見て、耳で聞き、心で理解し 我がために改心し 癒されるのを恐れて」 ♡  ♡  娘よ永遠の昔からこの人びとの頑なさを予見していた、 ♡  この時代に与えられた我が摂理的わざを拒み 彼らはその特権を失った、 ♡  ヴァッスーラ、あなた方のうちに最も求めるもの それは愛、信仰、希望(*)であるが、これらが身につくよう くり返しくり返し何百回も祈りなさい ♡ 

 

  盲目で耳が聞こえない人びとは真実を悟る恵みを主に祈るべきです。