内意を斥ける者

 

 

見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである(マタイ13・13)

異端学者聖言が閉じられている知ろうと願わない

 

 

 

 

1.聖書

2.聖言に反抗する者

3.彼らは自分の思いつきに従って文字から聖言の意味を解釈し

 

 

 

 

 

1.聖書

 

マタイ13・13−15

 

だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。

『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』

 

 

コリント2・4・3−4

 

わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないことの人々の心の目をくらまし、彼の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。

 

 

 

 

2.聖言に反抗する者

 

 

新しいエルサレムとその天界の教義264

 

「聖言に反抗する者について」。

 

 聖言を軽べつし、愚弄し、冒涜し、汚す者について(1878番)。他生の彼らの性質(1761、9322番)。彼らは血液の粘性部に比較することができよう(5719番)。聖言を汚すことの危険(571−582番)。もし誤った原理[主義]が、特に自己と世への愛を支持する原理が聖言により確認されるなら、それはいかに有害であろう(589番)。真理のために真理を求める情愛を持たない者は聖言の内なる意義を全く斥け、それを嫌忌する、(そのことが)経験から(説明されている)(5702番)。聖言の内的な物を斥けた者は合理性を剥奪される(1879番)。

 

 

 

 

3.彼らは自分の思いつきに従って文字から聖言の意味を解釈し

 

 

天界の秘義1774

 

 聖言の内的なものについてはいかようなことも聞こうとしない霊がいて、彼らはそれを例え理解するにしても、依然それを欲しないのである。彼らは主として業に功績を置いていて、それで自己を求める愛から善を行った者であり、かくて主の王国のためには善を行わなかった者である。他生ではこうした者は他の者にも勝って天界へ入ろうと欲しているが、しかしその外側に止まっている。なぜなら彼らは進んで真理の知識に浸透し、かくして善に感動しようとはしないからである。彼らは自分の思いつきに従って文字から聖言の意味を解釈し、また自分の欲念を甘やかすものをすべてその文字に同意させて持ち出すことによってそれを解釈しているのである。

 

 

 

天界の秘義1877

 

 霊たちの世界にいる霊魂たちまたは霊たちは、特に邪悪な者らは、身体の生命の中で得たものを、即ち、地的な、形体的な、世的なものを最初保有しており、またそれと共に彼らが取り上げた原理を保有している。これらの霊らの間には聖言の内意についてはいかようなことも聞こうとはしないで、只文字の意義についてのみ聞こうと欲し、その文字の意義に固守するあまり、十二使徒は十二の王座に坐って、イスラエルの十二の種族を審く筈であり、また貧しい者、悲惨な者、迫害を受けた者以外には何人も天界に入ることは出来ないと信じている者がいるが、しかし主の中に仁慈と信仰に生きた富んだ者も権力者も天界にいるのである。そうした人物は自分の功績のために天界を自分自身のために要求しているため、私は彼らがあちらこちらと走りまわっているのを見たのであるが、彼らはその行く先々で、聖言の内意に属した事柄を以下のような理由から嘲ったのである、即ち、それは彼らは天界に価して、他の凡ゆる者にまさって栄誉へ上げられることを願っているのに、内意に属したものはこの彼らの信念と欲念とに反しているということである。しかし彼らは血液に流れ入って静脈と動脈とに拡がって、血の大部分を不潔なものにしてしまう腐敗した有害なものに似ているのである。

 

 

 

天界の秘義1878

 

 身体の生命の中で聖言を嘲笑した者がおり、またしゃれた無駄口を叩くために聖言の中にある事柄を濫用した者がいる。聖言は取るに足らないもので、一般民衆を抑えつけておくのに役立つものであると考えていた者もいる。聖言を汚した者もおり、それを冒涜した者もいる。すべてこうした人物の他生における運命は、その蔑視、嘲笑、汚辱、冒涜の質と度に応じて、悲惨である。なぜなら、前に言ったように、聖言は諸天界ではそこにいる者たちにはそれがいわば天界であるほどにも聖いものであって、そこではすべての者の思考が(他の者に)伝達されているため、こうした霊どもは到底彼らと共にいることは出来ないで分離されてしまうからである。

 

 

 

天界の秘義1879

 

 ある時、私は床に就いていたとき、悪霊どもが私を窒息させようとの意図をもって私の生命をともに窺がっていると告げられたが、しかし私は主の御守りの下に安全であり、また生命に別条はないと感じもしていたので、その威嚇を無視して、眠りについたのである。しかも私は夜半に目覚めると、私が自分自身から呼吸していないで、天界から呼吸していることを感じたのである、なぜなら私が明らかに認めたのであるが、私自身の呼吸は何ら無かったからである。その時以下のように言われた、即ち、謀略者の一団がその場にいて、その一団は聖言の内的なもの(即ち、それは信仰である、なぜならそれが聖言の内部であるからである)を憎悪し、かくてその内的なものを、それが彼らの妄想、信念、欲念に反しているため、憎んでいる者どもから成っていたのである―彼らはその彼らの妄想、信念、欲念を支持するために、文字の意義を持ってくることが出来たのである。

 

 

 

天界の秘義1879[2]

 

彼らの企てが失敗してしまった後で、その指導者らは私の身体の内臓に入り、心臓にまでも入り込もうと試みたが、そこにもまた入り込むことを許されたのである。そのことは終始明白な感覚により認められた、なぜなら霊の内部が開かれている者はそれと同時にこうしたものを明白に認めることが出来るからである。しかし私はそのとき一種の天的な状態の中へ入れられていたのである、その状態は私はこれらの訪問者を撥ね付けようとは、ましてその危害に復讐しようとは何らの努力をしなかったという状態である。そのとき彼らは平安があると言ったが、しかし間もなく彼らはあたかも合理性を奪われたかのようになって、復讐を吐きかけ、その目的を果そうと躍気になりはしたが、すべては徒労に終わったのである。その後彼らは彼ら自身から分散してしまった。

 

 

 

天界の秘義2027

 

『あなたの後のあなたの裔に』は、主は主を信じるに違いない者たちにこれらのすべてのものを与えられるであろうということを意味していることは、『裔[種]』の意義から明白であり、それは信仰であり(1025、1447、1610番参照)、事実仁慈の信仰である(379、389、654、724、809、916、1017、1162、1176、1258番参照)。自分の生活の行為に功績をおいている者らは仁慈の信仰を持っておらず、それでここに意味されている裔ではない、なぜなら彼らはそのことにより、主の義によらないで、自分自身のものによって救われようと欲しているからである。彼らの中には仁慈の信仰は、即ち、仁慈が何ら存在していないことは以下の事実から明白である、即ち、彼らは彼ら自身を他の者の前に置き、かくて彼ら自身を顧慮して、他の者を、その者が彼らに役立たない限り顧慮しないし、彼らに進んで仕えようとしない者を軽蔑するか、または憎むかするのである。かくて自己への愛により彼らは分離して、決して共にはならず、かくして天界的なものを、即ち、天界にその恒久性を与えている相互愛を破壊してしまうのである、なぜなら天界そのものはその相互愛の中にあり、その連合と一致とはことごとくその中に存続し、またそこから成っているからである、なぜなら他生では何であれ一致をこぼつものはことごとく天界の秩序そのものに反しており、かくて全体を破壊するようになるからである。こうしたものが己が生活の活動に功績を置いて、自分自身のために義を要求する者らである。他生にはこうした者が多いのである。

 

 

 

天界の秘義2027 []

 

彼らは時としてその顔は小さな松明のように輝くが、しかしそれは自己義認から発している幻想[妄想]の火から発しており、事実は彼らは冷ややかである。彼らは時折走りまわって、聖言の文字の意義から自己の功績を確認しているのを見られる、なぜなら彼らは内意に属している真理を憎悪しているからである(1877番)。彼らのスフィアは自己顧慮のスフィア[霊気]であり、かくて自己を一種の神性者として認めない観念をことごとく破壊するのである。こうした種類の多くの者のスフィアは共になると、そこには敵意と憎悪以外には何ものも存在しない程にも互に反発し合うのである、なぜならたれもが同一のことを、即ち、仕えられようと欲する時は、彼は他の者を心の中で殺してしまうからである。

 

 

 

天界の秘義2027 []

 

彼らのある者は、自分たちは主のぶどう園に働いたとは言っているが、事実は働きつつも絶えず利得のみでなく自分自身の優越性を、光栄を、名誉を心に抱いており、自分らは天界において最大の者となって、天使たちからも侍かれるであろうと言いさえもし、他の者を自分自身に比較して心で軽蔑し、かくて天界を構成している相互愛に浸透しないで、自己愛に浸透し、その自己愛に天界を置いている者らの仲間となっている、なぜなら彼らは天界とは何であるかを知らないからである。(このような者については、前の450‐52、1594、1769番を参照されたい)。これらの者は最初のものとなろうとして、最後のものになる者に属しており(マタイ19・30、20・16、マルコ1−10・31)、主の御名により予言し、多くの驚くべき事柄を行いはしたものの『わたしはおまえたちを知らない』と言われている者に属している(マタイ7・22,23)。

 

 

 

天界の秘義2027[4]

 

単純な心から自分は天界に価していると信じ、仁慈に生きた者たちの場合は非常に異なっている。これらの者は天界に価することを約束された事柄として眺めていたのであって、それが主の慈悲によるものであることを容易に承認するのである、なぜなら真の仁慈は真理そのものを愛しているため、仁慈の生命にはこのことが伴っているからである。

 

 

 

天界の秘義3427[2]

 

 聖言の内意の実情は以下のようである、即ち、単なる知識の中にいて、『ペリシテ人』と呼ばれている者らは、また『ゲラルの谷間の羊飼い』と呼ばれて、単なる信仰の教義的なものの中におり、隣人に対する何らの仁慈の中にいない者らは、聖言の内意が在ることを否定しないわけにはいかないのである。その主な原因は、彼らは唇では主を告白するものの、心では主を承認しないということであり、また隣人に対する愛を口では告白しているものの、心では隣人を愛しないということであり、心で主を承認しないし、心で隣人を愛しない者は聖言の内意を否定しないわけにはいかないのである、なぜなら聖言はその内意では主に対する愛と隣人に対する愛以外には何ものをも取り扱ってはいないからであり、それで主はこの二つの戒めに律法と予言者とが、即ち、聖言全体がかかっていると言われているのである(マタイ22・37−40)。これらの者は聖言の内意を如何に甚だしく否定しているかもまた私は他生におけるこのような人物から認めることを許されたのである、なぜなら文字の意義に現れてはいない聖書の内意が在って、それは主と隣人に対する愛を取り扱っていることが彼らの前で単に口に出されるのみで、彼らによる否定のみならず、反感と嫌忌とが認められるからである。これがこの否定の主要な原因である。

 

 

 

天界の秘義3472

 

聖言には人間が文字から把握するよりも深い物が含まれていることを聞くことは全く人間の反感を買い、それには天使たちの知恵にのみ専ら適応しているところの、把握することの出来ない事柄が含まれていると言われる時は、更にその反感を買い、それには天使の理解をも無限に超絶している神的なものそれ自身が含まれていると言われる時は、実にそれ以上の反感を買うのである。基督教界は聖言は神的なものであることを実際承認はしているものの、それでもそれがこのような意味で神的なものであることを、唇ではなくとも、心では否定しているのである、このこともまた、人間が現今抱いている地的な思いは崇高な性格を持っている事柄を把握しないし、また把握しようとも願わないからには怪しむに足りないのである。

 

 

 

天界の秘義4726

 

しかし聖言がその内意の方面で開かれて、その個々のものが表象し、意味していることが教えられると、その時は信仰のみの中にいるといった者らはこれらの事を空しいものとして斥けて、それらは無益なものと言うのであるが、しかしこの天界的なまた霊的なものは世のものが外なる人を歓ばせる以上に内なる人を歓ばせるものなのである。

 

 

 

天界の秘義5648[3]

 

 さて聖言の内意は主として霊界にいる者たちのために存在しているため、彼らのために存在し、彼らに楽しく、歓ばしいようなものがここの内意に記されているのである。それでもこうしたものが内的なものであればあるほど、それらは世と身体に属する物のみが楽しみであり、歓ばしい人間には益々把握されないものとなっており、そうした場合、彼らは内意に属している霊的なものを軽蔑し、また嫌悪するのである。

 

 

 

天界の秘義5702

 

「これはエジプト人には忌まわしいことであるからである」。

これはそれらのものは対立していることを意味していることは以下から明白である、すなわち、エジプト人の表象は転倒した秩序の中にいる者であり(5700番を参照)、ヘブル人の表象は―このヘブル人と共に食べることはエジプト人には忌まわしいことであったが、そのヘブル人の表象は―純粋な秩序の中にいる者であり(5701番)、かくて彼らは相互に対立しており、そこから反感が生まれ、遂にはいまいましい感情が生まれるのである。このいまいましい感情については以下のことを知らなくてはならない、即ち、転倒した秩序の中に、即ち、悪とそこから派生してくる誤謬の中にいる者は遂には教会の善と真理には甚だしい反感を抱くようになり、それを聞くと、特にその内的なものを聞くと、恰もめまいがして、吐気を感じる程にも甚だしい忌ま忌ましさを感じるのである。このことは私が基督教界は聖言の内的なものを何故受けいれないのかと怪しんだ時、私に告げられ、また示されもしたのである。基督教界から来た幾人かの霊らが現れたが、彼らは聖言の内的なものを聞くことを強いられると、非常な嫌悪を掻き立てられて、吐き出したいような気持ちがすると言ったのであり、これが現今の殆ど凡ゆる所の基督教会(の状態)であると私は話されたのである。それがそうしたものである理由は、彼らは真理のために真理を求める情愛の中にはおらず、まして善から善を求める情愛にいないということである。彼らが聖言から、または彼らの教義から何かを考え、話すことは子供時代の初期から得られた習慣と確立された形式から来ており、かくてそれは内なるものを持たない外なるものである。

 

 

 

霊界日記4413

 

 己が業に功績を置こうとするため、聖言の内なる意義を何ら意に介しない或る一人の者がいた(それはパウロである)。彼は長い間私から遠ざかっており、また最悪の部類の霊共の間にいた。彼は今は最悪の悪魔共と交わり、今自らのために霊共の或る天界を形作って、これに彼自身から楽しさを、しかし欲情と快楽との楽しさを与えようとした、そのことをまた彼は企てもしたが、彼はそのため更に悪いものとなり、投げ落されてしまった。その際私は彼に、それは天界ではなく、地獄であると話したが、実際それは黒い地獄に変わったのである。特に彼はその周りに偽善者らを得ようと願ったが、その者らについて私は彼らと話したのであり、私のもとに数日にわたって偽善者らがいたが、そのことを私は歯の痛みにより知ることが出来たのである、即ち、彼らは声も立てないで絶え間なく私を脅迫したが、そのことはパウロから来ていることが認められもしたのである、彼は聖言の内なる意義を憎んでおり、その憎しみの怒りの結果彼の周りに偽善者が引き寄せられているのである、事物はこのように関連付けられているのである、なぜなら偽善者は何一つ信じてはいないで、依然、聖言の文字の意義を尊重するからであるが、そのことは彼らがそこから多くの事柄を取り出し、それを用いて一般人を説得し、かくして自らが敬虔なものとして見えることが出来るためである。

 

 

 

 

天界と地獄311

 

彼らは以下のように言った、即ち、基督教世界が天界にいる者について、また地獄にいる者についてこうした信念を抱いたのは、聖言の若干の記事をただ文字の意義に従ってのみ理解して、聖言から来ている純正な教義によって解明し、説明しなかったからであり、聖言の文字の意義は、純正な教義によって光を投じられない限り、心を色々な方向に迷わせて、無知、異端、過誤を生むのである、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

霊界日記4413

 

 己が業に功績をおこうとするため、聖言の内なる意義を何ら意に介しない或る一人の者がいた(それはパウロである)。かれは長い間わたしから遠ざかっており、また最悪の部類の霊共の間にいた。かれは今は最悪の悪魔共と交わり、今自らのために霊共の或る天界を形作って、これにかれ自身から楽しさを、しかし欲情と快楽との楽しさを与えようとした、そのことをまたかれは企てもしたが、かれはそのためさらに悪いものとなり、投げおとされてしまった。そのさいわたしはかれに、それは天界ではなく、地獄であると話したが、実際それは黒い地獄に変わったのである。とくにかれはその周りに偽善者らを得ようとねがったが、その者らについてわたしはかれらと話したのであり、わたしのもとに数日にわたって偽善者らがいたが、そのことをわたしは歯の痛みにより知ることができたのである、すなわち、かれらは声も立てないで絶え間なくわたしを脅迫したが、そのことはパウロから来ていることが認められもしたのである、かれは聖言の内なる意義を憎んでおり、その憎しみの怒りの結果かれの周りに偽善者が引き寄せられているのである、事物はこのように関連ずけられているのである、なぜなら偽善者は何一つ信じてはいないで、依然、聖言の文字の意義を尊重するからであるが、そのことはかれらがそこから多くの事柄を取り出し、それを用いて一般人を説得し、かくして自らが敬虔なものとして見えることができるためである。

 

 

霊界日記4561小

 

 パウロは、生きている間は、他生については、ただ世のことを考えるようにしか考えはしなかった。かれはそこには世の栄光が在ると考えて、天界の栄光はいかようなものであるか、またはそれは何か意義のあるものであるか、否かを知りはしなかった。それでかれは、凡ての者を天界へ入れる者は自分であり、主はかれらを自分のために受け入れられる、と考えた。さらに、かれは自分は他の者にもまさってそのことに価している、と考えた。その栄光のために、すなわち、世的な栄光のために、自分が最大の者になろうとして、かくも多くの危険と刑罰を受けたのであり、従って主が教えられた動機とは異なった他の動機から(多くの危険と刑罰とを買って出たのである)、しかし主は最大のものになろうとする者は(天界に)入りはしないで、最小のものになろうとする者が入るのであり、最後の者が最初の者になる、と教えられたのである。そのため、かれは、いくたの場合、悪霊と悪魔らと共になり、自らのために、全く奈落の天界を作ろうと企てたのであり、かくてかれは聖言の内意を斥けるのである、なぜなら聖言の内意は世の栄光とは対立しており、功績とも対立しているからである。

 

 

霊界日記4824

 

パウロの書簡には内意がないことは他生では知られているが、しかし教会に属している者たちが、内意を宿している主の聖言に悪を働かないようにと、その書簡が教会内に在ることが許されているのである。なぜならもし人間が悪い生活を送りつつも、聖い聖言を信じるなら、かれは天界に悪を働くからであり、そのためパウロの書簡は許されており、それでパウロは主から一つのたとえも、一片の教義すらもとり出して、それを説明し、明らかにすることを許されはしなかったのであり、かれは凡てのものをかれ自身から得たのである。教会は、実に、主の聖言を説明はするが、しかしパウロの書簡により説明しており、そうした理由からまたそれは凡ゆるところで仁慈の善から逸脱して、信仰の諸真理を受けているのであるが、しかし主はそのことを教えられ、仁慈の善が凡てのものとならなくてはならないといった方法で教えられたのである。

 

 

 

天界の秘義3769[4]

 

このような性格を持っている者たちは聖言に在る真理を些かも見ることは出来ないし、またそれを見ようともしないで、自分自身の教理に頑なに止まって、聖言の神聖さと栄光とが宿っている内意が在ることを聞こうとさえもしないのであり、それがそうであることを告げられる時ですらも、それに対する反感から、単にそれが口に言われることをさえも嫌忌するのである。このように聖言は、それが天界に向ってすらも開いていいて、天界を通して主に開かれているような性質のものであるのに閉じられてしまっており、それは、人間がその生命の目標の点で自己と世への愛の幾多の悪の中におり、その結果誤謬の原理の中にいるに応じて専らその人間に関連しては閉じられているのである。このことから大きな石が井戸の口の上に置かれていることにより意味されていることが明白である。

 

 

 

 

 

天界の秘義3793[3]

 

人間がその自然的なものの方面で再生することについては、その実情はヤコブとラバンの二人の娘ラケルとレアとの場合と全く同じであり、それでたれでもここの聖言をその内意に応じて認め、また把握することの出来る者は、彼に明らかにされているこのアルカナを認めるのである。しかし善と真理の中にいる人間以外にはたれもこれを認めることが出来ないのである。他の者たちはその中の道徳的な社会的な生活にかかわる事柄についていかような認識を持っているにしても、またその者たちはそのことによりいかほど理知的なものであるように見えるにしても、それでもこうした性質のものは何一つ承認するほどに認めることは出来ないのである、なぜなら彼らは善と真理とは何であるかを知らないし、悪が善であり、誤謬が真理であると考えており、それでかの善が言われると直ぐさま、悪の考えが示され、真理が言われると、誤謬の考えが示され、従って彼らは内意のこれらの内容を何一つ認めないで、そうしたことを聞くと直ぐにも暗黒が現れて、光を消滅させてしまうのである。

 

 

 

 

 

天界の秘義3833[3]

 

例えば、神秘的なものであると言われている聖言の内意が存在しているという命題を考えてみられよ―そのことが信じられない中は、内意の中に在り、天界全体を無限の多様なもので満たしているほどにも多い無数の事柄の最小のものさえも人間は知ることは出来ないのである。他の例は以下のものである、即ち、神的摂理[神の摂理]について、それは単に全般的なものにすぎないで、個別的なものの中には存在しないか、否かについて議論している人間は摂理の無数の秘義を到底知ることは出来ないのであり、その秘義は数においては人間各々の生命の最初から最後に至るまでの偶発的な出来事のようにも、世の創造からその最後にも至る、否、永遠にさえも至る偶発的な出来事のようにも多いのである。更に、人間の意志は極度に腐敗しているからには、人間は善の中にいることが出来るか否かについて論じている者は、再生にかかわる凡ゆるアルカナを決して知ることは出来ないのであり、また新しい意志が主により植え付けられることすらも知ることは出来ず、また、それが植え付けられることに関わるアルカナを知ることは出来ないのであり、そのことは他の凡ての事についても言われるのである。このことからこのような人物はいかような明確でないものの中にいるかを、彼らは知恵の最初の入口さえも見はしないし、ましてやそれに触れはしないことを知ることが出来よう。

 

 

 

 

聖言の内意は僅かな者にしか把握されはしないことについて

霊界日記4841