聖言が閉じられている

 

天界が閉じられる

 

 

 

天界の秘義3769

 

「大きな石が一つその井戸の口の上におかれていた」。これは聖言が閉じられていたことを意味していることは解説の要もなく明白である。聖言が文字の意義についてのみ理解されるとき、またその意義の中に在るものがすべて教義として考えられるとき、閉じられていると言われる。そして聖言は、自己を世を求める愛のいくたの欲念を支持する事柄が教義的なものとして認められる時、さらに閉じられるのである、なぜならこれらのものはとくに井戸の口の上に大石をころがすのであり、すなわち、聖言を閉じてしまい、そのときは人類は聖言に内的な意義が在ることを知らないし、また知ろうとも欲しないからであるが、それでもかれらはそのことを文字の意義の方面で明らかに示されている多くの記事から認めることができるのであり、また教会の中に受け入れられている教義的なものからも認めることができるのであるが、かれらはその教義的なものへ聖言の文字の意義をことごとく種々の解説により帰属させているのである。

 

 

 

天界の秘義3769[2]

 

 聖言が閉じられていることにより意味されていることはとくにユダヤ人から認めることができよう、彼らは一切の物を文字に従って説明し、そこから、自分たちは地の面に凡ゆる国民にも優先して選ばれたものであり、メシアは来られて自分たちをカナンの地へ連れて行き、地の凡ゆる国民と民の上に高めるであろうと信じているのである、なぜなら彼らは地的な形体的な愛の中に惑溺してしまっており、そうした愛は聖言をその内的な物の方面で全く閉じてしまうといったものであるからである。それで彼らは未だ天国が在るか否かを、自分たちは死後も生きるか否かを、内なる人とは何であるかを知ってはおらず、霊的なものが在ることさえも知っておらず、ましてやメシアは魂を救うために来られたことを知ってはいないのである。聖言が彼らに閉じられていることは、彼らが、イザヤ書の以下の言葉に応じて、基督教徒の間に生きてはいるものの、その教義的なものを些かも受け入れはしないという事実からもまた充分に明白となるであろう―

 

 この民に言いなさい、あなたたちは聞いて聞きなさい、が、悟ってはならない、見て、見なさい、が、認めてはならない。この民の心を鈍くし、耳を重くし、目をめくらにしなさい。で、わたしは言った、主よ、いつまででしょうか。かれは言われた、町々が住む者もなく、家々が人もなく荒れ、土地は荒れてもの淋しい所となるまで(イザヤ6・9−11、マタイ13・14、15、ヨハネ12・40,41)。

 

 

 

天界の秘義3769[3]

 

 なぜなら人間は自己への愛と世への愛に、またこれらの愛の幾多の欲念に惑溺するに比例し、益々聖言は彼に閉じられてしまうからである、なぜならこれらの愛は自己をその目的としており、その目的は自然的な光を燃え立たせるが、天界の光を消滅させてしまい、かくて人間は自己と世の物を鋭く見はするが、主とその王国のものは些かも見ないのであり、こうしたことが起ると、彼らは実際聖言を読みはするが、しかしそれは名誉と富とを得ようとする目的からであり、またはお体裁のためであり、またはそのことを愛してそこからそれが習慣となっているからであり、または信心からであるが、生活を矯正しようとする目的から発しているのではないのである。このような人物には聖言は種々の方法で閉じられており、或る者らには、その者らの教義的な物はいかようなものであっても、その教義から指示されるものを除いてはいかようなものをも決して信じようとはしない程にも閉じられているのである。

 

 

 

天界の秘義3769[4]

 

例えば、仮にもたれかが、天界を開いたり、閉じたりする力はペテロに与えられたのではなく、愛の信仰に与えられたのであり、その信仰がペテロの鍵により意味されていると言うにしても、自己への、また世への愛はそれに対立するからには、彼らは決して、それを容認しようとはしないのである。また仮にもたれかが聖徒を拝してはならない、主のみを拝さなくてはならないと言うにしても、彼らはそれをもまた受け入れはしない。または仮にもたれかが聖餐のパンとぶどう酒とにより全人類に対する主の愛と主に対する人間の相互的な愛とが意味されていると言うにしても、彼らはそれを信じはしない。またはたれかが仮にも信仰はそれが信仰の善でない限り、即ち、仁慈でない限り、何の効力も持たないと主張するにしても、それを彼らは逆に説明するのであり、そのことは他の凡ての事柄にも言われるのである。このような性格を持っている者たちは聖言に在る真理を些かも見ることは出来ないし、またそれを見ようともしないで、自分自身の教理に頑なに止まって、聖言の神聖さと栄光とが宿っている内意が在ることを聞こうとさえもしないのであり、それがそうであることを告げられる時ですらも、それに対する反感から、単にそれが口に言われることをさえも嫌忌するのである。このように聖言は、それが天界に向ってすらも開いていいて、天界を通して主に開かれているような性質のものであるのに閉じられてしまっており、それは、人間がその生命の目標の点で自己と世への愛の幾多の悪の中におり、その結果誤謬の原理の中にいるに応じて専らその人間に関連しては閉じられているのである。このことから大きな石が井戸の口の上に置かれていることにより意味されていることが明白である。

 

 

 

 

天界の秘義3773

 

「彼らは再びその石をその井戸の口の上のその所に置いた」。これはその間それが閉じられたことを意味していることは、その井戸の口の上の石について言われたことから明白である(3769、3771番)。聖言が教会に開かれ、後に閉じられることについては実情は以下のようになっている、即ち、何らかの教会が設立される初めには、聖言は最初その教会の人たちには閉じられているが、後に開かれるのであり、主はそのように配慮されているのである、かくて彼らは教義はことごとく以下の二つの戒めに、即ち主を何物にもまさって愛さなくてはならない、また隣人を自分自身のように愛さなくてはならないという戒めに基礎づけられていることを学ぶのである。この二つの戒めが目標とされるとき、聖言は開かれるのである、なぜなら律法と予言者の凡ては、即ち、聖言全体はこの戒めに依存しており、かくて凡ゆるものはそこから派生しており、それで凡てのものはそれに関わりを持っているからである。そして教会の人々はそのとき真理と善との原理の中にいるため、彼らは聖言に見られる凡ゆる事柄において明るくされるのである、なぜなら主はその時(彼らはそのことを知らないものの)天使たちにより彼らのもとに現存されて、彼らに教えられ、また彼らを真理と善の生命へ導き入れられるからである。

 

 

 

天界の秘義3773[2]

 

 このことはまた凡ゆる教会の実情から認めることができよう、すなわち教会はその幼少期にはこのようなものであって、愛から主を愛し、心から隣人を愛したのである。しかし時が経過するにつれて、教会はこの二つの戒めから後退して、愛と仁慈の善から信仰の事柄と言われているものへ外れ、かくて生命から教義へと外れてしまい、彼らがそうしたことをするにつれ、聖言は益々閉じられてしまうのである。このことが以下の言葉の内意に意味されているところである、即ち、『見よ、野に井戸が在った、また見よ、そこには羊の群が三つその傍に伏していた、なぜならその井戸から彼らはその群に水を飲ませたからである、その井戸の口の上に大きな石が一つ置かれていた。そして群は凡てそこに共に集められた。彼らは石を井戸の口からころがし、羊の群に水を飲ませ、再び石をその井戸の口の上のその場所に置いた』。