天界が閉じられる
1.天界が閉じられる
2.天界が開かれる
3.地獄が開かれる
4.内なる人が閉じられている者らは内なる人が在ることを知らないし、また彼らは天界と永遠の生命が在ることを信じもしない
1.天界が閉じられる
天界の秘義5344
内的な自然的なものの内的なものはその中にあって霊的なものと呼ばれているものであり、そしてその中の霊的なものは天界の光から発しているものであり、その光から、そこの、世の光から発し、本来自然的なものと呼ばれているものが明るくされており、その中の霊的なものの中に、善に接合した諸真理が貯えられているのである。そこの霊的なものは第二の天界の天使たちの社会に相応しているものであり、人間はその天界と残りのものにより交流しているのである。これが人間が再生しつつあるとき開かれはするが、人間が再生するに甘んじないときは閉じられてしまう天界である。なぜなら残りのものは―または内部に貯えられた真理と善とは―その天界の社会と相応しているもの以外の何ものでもないからである。
天界の秘義8694〔2〕
『啓示』により、聖言が読まれている時明るくされ、その時認識することが意味されているのである、なぜなら善の中にいて、真理を渇望している者たちはそうした方法で教えられるが、しかし善の中にいない者らは聖言から教えられることは出来ないで、真理であれ、誤謬であれ、幼児時代から教えられている物を単に確認することが出来るに過ぎないのである。善の中にいる者たちは啓示を受けるが、悪の中にいる者らは啓示を受けはしない理由は、聖言の一切の事柄はその内意では主とその王国を取り扱っていて、人間のもとにいる天使たちは聖言をその内意に従って認めているということである。これが善の中にいて、聖言を読み、情愛から真理を渇望している人間に伝達され、そのことにより彼は明るくされて、認識するのである。なぜなら善の中にいて、そこから真理に対する情愛の中にいる者たちのもとでは、人の心の知的な部分は天界に向かって開かれており、彼らの霊魂は、即ち、彼らの内なる人は天使たちと交わっているが、しかし善の中にいないで、かくて善に対する情愛から真理を渇望していない者らにあっては異なっており、これらの者には天界が閉じられているのである。
天界の秘義8694〔3〕
しかし善の中にいて、そこから真理を求める情愛の中にいる者たちにおける啓示の性質は記すことは出来ない。それは明らかではないが、全く隠れているわけでもなく、何かが真理であることに内部から同意し、またそれに好感を持つことであって、もしそれが真理でないなら好感を持たないのである。好感が持たれると、心は休まって、穏やかになり、この状態の中では信仰に属した承認があるのである。それがそうであることの原因は主から発している天界の流入から来ているのである、なぜなら主から天界を通して光が発しており、それが内なる視覚の目である知性を取り巻き、それを明るくしているからである。その時その光の中で見られるものは真理である、なぜならこの光そのものは主から発出している神的真理であるからである。この神的真理は天界の光であることは再三示したところである。
天界と地獄82
諸天界には神的なものについてはこうした認識があるため、天界から何らかの流入を受けている人間各々の中にも神を人間の形の下に考えることが植え付けられている。古代の人間たちはそのように考えたのである。教会の内外を問わず、現今の人間もそのように考えている。単純な者は思考の中で神を輝く光の中におられる故老として見ている。しかしこの植え付けられている原理は、自分自身の理知により、また悪い生活によって天界からの流入を斥けてしまった者凡てにより消滅している。自分自身の理知によりそれを消滅させてしまった者らは目に見えない神を持とうとするが、悪い生活によりそれを消滅させた者らは、何ら神を持とうとはしない。前の部類の者も、後の部類の者も、こうした思考の原理が自分たちのもとにないため、それが何人にも植え付けられていることを知っていないが、しかもそれは天界から人間のもとへ流れ入る神的な天界の原理そのものである。なぜなら人間は天界のために生まれていて、何人もその神的存在を考えなくては天界には入らないからである。
天界と地獄83
ここから天界を考えない者は、即ち、天界を存在させている神的なもの[神]を考えない者は、天界の最初の入口へも挙げられることは出来ない。彼は初めそこへ来ると、抵抗とまた強い反撥を感じる。その理由は、天界を受けなくてはならない彼の内部は、天界の形を持たず、閉じられているということであり、実に、彼は天界に近づいて行くに応じて益々その内部はきつく閉じられるのである。これが教会内で主を否定する者と、ソツニウス派の者のように、主の神性を否定する者との運命である。しかし教会の外に生まれて、聖言を持っていないため、主を知っていない者たちの運命はいかようになるかは、後に述べよう。
天界と地獄313
そうした事を確認して、凡ゆる物を自然に帰した学者らは点検されると、その内部は全く閉じていて、その外部のみが開かれており、それで彼らは天界を仰がないで、世を、引いては地獄を見つめていることが明らかにされたのである。なぜなら人間は、その内部が開かれるに応じて、天界を仰ぐが、その内部が閉じられて、外部が開くに応じて、地獄を見つめるからである。それは人間の内部は天界の凡ゆる物を受け入れるように、外部は世の凡ゆる物を受け入れるように形作られており、世を受けると同時に、天界を受け入れない者は地獄を受け入れるためである。
天界と地獄353
誤った理知と知恵とは神的なものを承認しない凡てのものである、なぜなら神的なものを承認しないで、神的なものの代わりに自然を承認する者は凡て、世では如何ほど教育があり、学問があると信じられていても、形体的な感覚的な面から考えていて、単に感覚的な者に過ぎず、彼らの学問は、世で目から見られる物を超えて昇らず、その目で見る物を記憶にしまい込んで、殆ど物質的に眺めているが、しかしその同じ科学は真に理知的な者には理解を形作るのに役立っているのである。科学により、物理学、天文学、化学、機械学、幾何学、解剖学、心理学、哲学、歴史、文学、言語学のような色々な種類の実験的な知識が意味されている。神的なものを否定して思考を外なる人の感覚的な物の上に高揚しない聖職者らは聖言の事柄を他の者らが科学を扱うようにしか扱わず、それを高揚された合理的な心により思考の問題または直覚の問題ともしていない、なぜなら彼らの内部は閉じられていると同時に、その内部の真近にある外部も閉じられているからである。これが閉じられているのは、彼らは天界に自分自身を背けて、前に言ったように、人間の心の内部であるところの、天界の方を眺めることが出来る能力を転倒させてしまったからである。そうした理由から彼らは真で善いものを見ることは出来ないか、それは真で善いものは彼らには暗闇の中にあるが、誤った悪いものは光の中にあるためである。しかしそれでも感覚的な人間は論じることが出来、その中には他の者以上に狡猾に、また鋭く論じることが出来る者もいるが、しかしそれは彼らの科学により確認された感覚の妄想から行われているのであり、彼らはこのように論じることが出来るため、自分自身をまた他の者以上に賢明なものであると信じている。その理論を情愛をもって燃やしている火は自己と世への愛である。これらが誤った理知と知恵にいる者であり、またマタイ伝で主の以下の語に意味されている者である、「彼らは見るが見ない、聞くが聞かない、理解もしない」(マタイ13・13−15)。また他の所には、「これらの事は理知ある者と賢明な者からは隠れており、幼児に示されている」(マタイ11・25、26)。
天界と地獄354
私は学者たちの多くの者と彼らが世から去った後話すことを許された、その或る者はすぐれた名声の持主であって、文学界ではその作品のために知れ渡っており、また或る者はそれほど有名ではなかったものの、しかしそれでも非凡な才能を持っていたのである。心で神的なもの[神]を否定した者らは、いかほど口では神を告白しても、非常に愚劣なものとなって、社会的な真理を殆ど何一つ理解出来ず、まして霊的な真理は何一つ理解出来なかったのである。彼らの心の内部は黒く見えるほどにも閉じられ―なぜなら霊界ではこうした物は目に示されるからである―それで彼らは天界の光には全く堪えることはできず、また天界からのいかような流入も許容することが出来ないことが認められ、また見られもしたのである。その内部に見られたその黒さは、科学と学問によって神的なものを強固に否認した者のもとではさらに甚だしく、またその範囲も広かった。こうした者は他生では誤ったものを凡て歓喜をもって受け入れ、それをスポンジが水を吸い込むようにも吸い込むが、真理はバネのきいた骨質の物がその上に落ちてくるものをはね返すように、はね返すのである。神を強く否認して、自然を確認した者の内部は骨のようになり、その頭もまた、鼻までも、象牙のように固く見えるとまた言われているが、それは彼らはもはや認識を何ら持っていないことを示しているのである。こうした種類の者は沼のように見える泥の中にひたされ、そこでその誤謬から変化してきた妄想のため絶えず不安の状態におかれている。彼らの奈落の火は栄誉と名声を求める欲念であり、その欲念から彼らは互に罵り合い、奈落の熱意から、そこで自分を神として拝まない者を責め苛み、これを交互に繰返している。神的なものを承認することによって天界から光をそれ自らの中に受け入れなかった世の学問は凡てこのような物に変化する。
真の基督教720
主は不当に近づく者等に対して天界を閉じたもうと想像してはならない。これは何人に対してもその生涯の終に至るまで決して行い給わない。事実は人間が信仰を斥け悪しき生涯を送ることによって自ら天界を閉じるのである。それにも拘らず、彼は悔い改めと回心の可能性の中に維持されている。何故なら、主は絶えず凡ゆる人間の許に臨在し、「視よ、われ戸の外に立ちて叩く、人もし我が声を聞きて戸を開かば、我その内に入りて、彼と共に食し、彼もまた我とともに食せん」(黙示録3・20)と語り給いつつ受け入れられることを切に求め給うからである。それ故戸を開かないその責めは人間自身にある。然し、死後事情は異なる。その時天界は生涯の終わりまで不当に聖なる食卓に近づいた者等には閉ざされて、開かれることは出来ない。何故なら、その時彼らの内的な心は固定し、変更され得ないからである。
2.天界が開かれる
天界の秘義10227
主に凡てを帰している者たちは他の者よりも賢明であるが、それは知恵を構成している真理と善との凡ゆるものは天界から、すなわち、天界の主から流入しているためである。主に凡ゆるものを帰することにより人間の内部は天界に向かって開かれるのである、なぜなら真理と善とは一つとして人間自身からは発していないことがそのことにより承認され、このことが承認されるに比例して、自己への愛が去り、自己への愛とともに誤謬と悪から発した暗闇も去ってしまうからである。またそれに比例してその人間は無垢へ、主に対する愛と信仰へ入り、そこから神的なものとの連結が生まれ、神的なものとの連結から流入と照示[明るくされること]が生まれてくるのである。
天界と地獄33
天使たちの内部が天使たちを異なった天界におらせるものであることを明らかに理解しなくてはならない。なぜなら彼らの内部が主へ開かれるに応じて、益々彼らは内的な天界にいるからである。霊にも、天使にも、また人間にも、凡ての者に三つの度の内部が在る。第三の度が開いている者たちは最も内なる天界にいる。第二の度の開いている者たちは真中の天界におり、第一の度のみしか開いていない者たちは最低の天界にいる。その内部は神的善と神的真理とを受けることによって開かれている。神的諸真理に感動して、それを直接に生命(ライフ)の中に容れ、引いては己が意志の中へ容れ、意志から行為の中へ容れる者たちは、最も内なる天界または第三の天界におり、〔そこに〕占める位置は真理に対する情愛から善を受け入れることに応じている。しかしこれらの真理を直接己が意志の中へ容れないで、記憶の中へ容れ、記憶から理解の中へ容れ、そこからその真理を意志し〔欲し〕、行う者たちは、真中の天界または第二の天界にいるが、道徳的な生活をして、神的なものを信じてはいるものの、教えを受けることをあまり求めない者たちは、最低の天界または第一の天界にいる。このことから、内部の状態が天界を作っており、天界は各人の中に在って、その外にはないことが明らかとなるであろう。それは主が以下のように言われて、教えられているところの同じである。「神の[王]国は目に見えるようには来ない。また人は、見よ、ここを、または、見よ、そこをとも言わないであろう。見よ、神の国あなたたちの中にある」(ルカ17・20、21)。
3.地獄が開かれる
天界の秘義920[3]
しかしその子孫におけるように、その教会が衰微し、かの認識が、または天界との交流[連なり]が失われはじめた時、他の状態の事柄が始まったのである。その時人間は以前のように、感覚の対象の中に天界的なものを最早何ら認めなくなって、単に世的なもののみを認め、そしてそれは彼らの認識が失われるに比例して増大し、遂には丁度洪水以前に存在した最後の子孫のもとでは、彼らは対象の中に世的な、形体的な地的な物以外には何ものをも認めなくなったのである。かくて天界は人間から分離し、彼らもまた極めて微かにしか交流しなくなり、地獄との交流がその時人間に開かれ、そこから彼の全般的な観念が発したのであり、その全般的な観念から、すでに示したように、凡て個別的な物の観念が流れ出ているのである。かくて天界的な何らかの観念[考え]が示されると、それは彼には全く無意義なものとなり、そのため遂には彼らは霊的な天的な物が存在することを承認しようとさえ欲しなくなったのである。このように人間の状態は変化し、転倒したのである。
天界の秘義8971
なぜなら善の生命の中にいる者たちのもとではその内部は天界に向って開いており、そこから聖言の聖いものが天使たちから流れ入っているに反し、悪の生命の中にいる者たちのもとでは、その内部は天界に向っては閉じられて、地獄に向って開かれており、そこからその反対のものが流れ入って来るからである。
天界と地獄252
この地球上の最古代の人々は天界の天使たちとこのように連結していたため、その時代は黄金時代と呼ばれたのである。これらの人々は、神的なもの〔神〕を人間の形の下に承認し、かくて主を承認したため、友と話すように天界の天使たちと話し、天界の天使たちも同じくその友と話すように彼らと話したのであり、彼らの中には天界と世とは一つのものとなっていたのである。しかしその時代以後人間は、主よりも自分自身を愛し、天界よりも世を更に愛することによって、自分自身を天界から絶えず引き離し、従って天界の歓喜から分離した自己と世への愛の歓喜を感じはじめ、遂にはそれ以外の歓喜を何ら知らない程にもなった。かくて天界に向って開いていたその内部は閉じられ、その外部は世に向って開かれたのである。こうしたことが起ると、人間は世の凡ゆる物については光の中にいるが、天界の凡ゆる物については暗闇に包まれるのである。
4.内なる人が閉じられている者らは内なる人が在ることを知らないし、また彼らは天界と永遠の生命が在ることを信じもしない
天界の秘義9709
内なる人が閉じられている者らは内なる人が在ることを知らないし、また彼らは天界と永遠の生命が在ることを信じもしない。そして驚くべきことには、それにも拘らず彼らは自分らは他の者よりも賢明に考えていると考えているのである、なぜなら彼らは彼ら自身を、また彼らに属するものを愛して、それらを拝しているからである。内なる人が天界に向って主へ開かれている者たちの場合は異なっている、なぜならこれらの者は天界の光の中におり、かくて主から明るくされているに反し、前の者は天界の光の中にはいないで、世の光の中におり、かくて自己から明るくされているからである。自己から明るくされてはいるが、主から明るくされていない者らは、誤謬を真理として、悪を善として認めている。