天界が開かれる

 

天界が閉じられる

 

 

 

 

黙示録講解954〔2〕

 

人間が、支配することの単なる歓喜そのものから支配することを求める愛と、所有することの単なる歓喜そのものから世の財産を所有することを求める愛である人間自身の二つの愛に抵抗する限り、かくて人間が十戒に禁じられている幾多の悪を罪として避ける限り、それに応じて主から天界を通して以下の考えが流れ入って来る、即ち、宇宙の創造者、維持者であられる神がおられ、実にまた神は一人で在られるとの考えが流れ入ってくる。そのときこの考えは以下の理由のために流れ入ってくるのである、即ち、幾多の悪が遠ざけられると、天界は開かれるのであり、天界が開かれると、もはや自己からは考えないで、主から天界を通して考えるのである。神がおられ、神は一人であられることは、凡ゆる事柄を包含している天界の普遍的な原理である。神は一人であられることを人間は流入のみから知っており、謂わば、そのことを認めることは凡ゆる国民の共通の告白から明白であり、多くの神々がいると考えることに対する反感から明白である。人間の霊の思考である人間の内的な思考は、地獄からか、または天界からか、その何れかから発しており、幾多の悪が遠ざけられないときはそれは地獄から発しているが、幾多の悪が除かれているときは天界から発している。この思考が地獄から発しているときは、人間は自然が神であり、自然の最も内なるものは神的なものであるとしか認めないのである。そうした人間は死後霊となるとき、特に権力のある者をたれであれ神と呼び、またその者自身が神と呼ばれるために権力を求めて努力するのである。悪い者らはことごとくその霊の中の内部にそうした狂気を潜ませて居るのである。しかし人間は天界から考えるときは―幾多の悪が遠ざけられるとき、人間は天界から考えるのであるが―天界の光から、一人の神がおられ、その方は一人で在られることを認める〔見る〕のである。天界からの光から認める〔見る〕ことが流入により意味されているものである。