異端

 

外観の法則

内意を斥ける者

 

 

1.異端

2.天国の鍵

3.やめさせてはならない。

4.内意から発した諸真理がこれらの記憶知の中へ導入されると、心は異端へ引き込まれることは出来ない

5.真の信仰、似非信仰、偽善的信仰

6.ドレックス教授

7.もし教職者以外の者がそのことを行うなら、異端が起り

 

 

 

1.異端

 

 

真の基督教254

 

 基督教界の凡ゆる異端は、人が真理の外観を純粋な真理として誤認し、かかるものとしてこれを確認したため生じたのである。

 

 

 

真の基督教402

 

(10)自ら深く虚偽を確認した博学の学者は、特に若し、聖書の真理を否認するならば、外面的にはそのように見えないけれど、他に勝って感覚的である。異端は概してかかる人間から発した。

 

 

 

天界の秘義2417[]

 

 教義は二重性のものとなっている、すなわち愛と仁慈の教義と信仰の教義になっている。最初、主の教会はことごとく、それが未だ小さな娘、処女である間は、仁慈の教義以外にはいかような教義も持たず、またそれ以外のいかような教義も愛しはしないのである、なぜならこれは生命[生活]に属しているからである。しかし次々とその教会はこの教義から離反し去り、ついにはそれを安価なものに考えはじめて、しまいには棄て去ってしまい、信仰の教義と呼ばれているもの以外にはいかような教義も承認しなくなり、そしてそれが信仰を仁慈から分離してしまうと、この教義は悪の生命[生活]と結びついてしまうのである。

 

 

 

天界の秘義2417[]

 

それが主が来られた後の原始教会の、または異邦人の教会であったのである。それはその始まりでは愛と仁慈との教義以外にはいかような教義も持っていなかったのである、なぜならそのことを主御自身が教えられたからである(2371番の終りを参照)。しかし主のとき以後、次々と、愛と仁慈とが冷ややかになり始めるにつれ、信仰の教義が起り、それとともに分離、異端が起って、それは人間がこの教義を強調するにつれて増大したのである。

 

 

 

天界の秘義2435

 

「わたしはあなたが話した都はくつがえしはしません」。 これは、それでかれは死滅しないであろう、すなわち、善が内に存在している真理がそのもとに宿っている人間は死滅しはしないことを意味していることは、『都』の意義が真理であることから明白である(402、2268、2428番を参照)。人間は信仰の諸真理により再生して、教会となるという理由から、仁慈と信仰の中そのどちらが教会の長子であるかということが、最古代から論じられてきたのである。しかし信仰を最先端において、これを長子とした者たちはことごとく異端と誤謬に陥って、ついには仁慈を全く消滅させてしまったのである、たとえば、そうした信仰を意味しているカインについては彼は仁慈を意味しているアベルをついには殺してしまったと記されており、その後、同じく信仰を意味しているヤコブの長男ルベンについては、かれはその父の寝床を汚し(創世記35・22、49・4)、そのため無価値なものと考えられて、その長子の権はヨセフに与えられたと記されているのである(創世記48・5、歴代史前5・1)。

 

 

 

天界の秘義6400

 

真理の中にはいるが、未だ善の中にいない者たちは最低の自然から発した迷妄[妄想]の中にいることは、善が真理とともに、または真理の中にいない限り、真理はいかような光の中にもいないという事実から認めることが出来よう、なぜなら善はそれ自身から光を放出する焔のようなものであって、善が何らかの真理に会うと、それはそれを明るくするのみでなく、それをそれ自身へ、すなわち、それ自身の光の中へ連れて来るからである。それで真理の中にはいるが、未だ善の中にはいない者は陰と暗闇の中にいるが、それは真理はそれ自身からは何ら光を持たないためであり、彼らが善から得ている光は、消えかかっている光のように、かすかなものであり、それでこれらの人物が真理について考え、論じ、また真理から善について考え、論じる[推理する]時は、暗がりの中に幻影を見て、それが真の身体であると信じるか、または薄暗い場所の壁に何かのしるしを見て、それが何か人間か、動物の姿であると空想する者のようなものであるが、それでも光が差し込むと、それは何ら形のない単なるしるしに過ぎないことが認められるのである、ここに取扱われている者らにおける真理も同じである、なぜなら彼らは真理ではないところの、むしろ幻影に、また壁の上のしるしに譬えてよい物を真理として見るからである。さらに教会の凡ゆる異端は聖言から多少の真理の中にはいるが、善の中にはいない者らから起こっており、彼らには異端は真理そのもののように見えているのであり、教会内で誤謬も同じように見えているのである。こうしたものを広めた者たちは善の中にはいないことは、彼らが仁慈の善を信仰の真理の遥か背後に押しやって、仁慈の善とは些かも調和しない物を部分的に考案しているという事実から認めることが出来よう。

 

 

 

天界の秘義794

 

「そして水は非常に甚だしく地に強められた。」これは誤謬の幾多の信念がこのように増大したことを意味していることは『水』について直ぐ前に言われ、示されたところから、すなわち、洪水の水または氾濫は誤謬を意味しているということから明らかである。ここには、誤謬または誤ったものの信念がさらに増大したため、『水は非常に甚だしく強められた』と言われているが、それは原語では最上級となっているのである。誤謬とは誤ったものの原理であり、信念であり[誤ったものを原理とし、それを信念としたものであり]これらが洪水以前の人々の間に甚だしく増大したことは前に彼らについて言った凡てから明白である。(その誤った)信念は人が真理を欲念に混ぜ合わせる時、または自己と世を求める愛を真理に支持させる時、無限に増大するのである、なぜならその時無数の方法で彼らは真理を歪曲し、これを強制して(自己と世を求める愛に)一致させるからである。なぜなら自分自身のために誤った原理を吸引した者であって、または形作った者であって、たれがその原理をその者が学んだ多くの物により、実に聖言によってさえも、確認しないであろうか。異端であって、その異端を確認するためにこのように幾多の物を把えないものがあろうか。また(その異端に)一致していないものを、それが一致するように、それをこじつけ、色々な方法で説明し、歪めさえしないものがあろうか。

 

 

 

天界の秘義794[2]

 

例えば、仁慈の善がなくても、信仰のみが救うという原理を採用した者を考えてみられよ。彼は教義の全体系を聖言から織り出すことが出来ないか、しかもそれを主が言われていることを、すなわち『木はその果によって知られる』、『凡て善い果を結ばない木は切られて、火に投げ入れられる』(マタイ3・10、7・16−20、12・33)という御言葉を些かも顧慮しないで、または考察もしないで、または認めさえもしないで、やってのけるのである。自分は何一つ善は行ってはいないのに、真のことを知ってさえおれば救われる、ということ以上に悦ばしいことがあろうか。人間が支持する欲念はことごとくその者の意志の生命を形作り、誤謬の原理または信念はことごとくその者の理解の生命を形作るのである。これらの生命は信仰の諸々の真理がまたは教義的なものが諸々の欲念の中に浸される時一つのものとなるのである。かくて人はことごとく己がためにいわば霊魂のようなものを形作り、死後彼の生命はそのようなものになる。それ故人間には真であるものを知る以上に重要なことはない。人間が真のことを知り、それをそれが歪曲されることが出来ない程にも充分に知る時、それは欲念の中にそれ程浸される筈はないし、このような致死的な結果を生む筈もないのである。人間は永遠に至るその生命以上にさらにいかような物をその心に抱くべきであろうか。もし身体の生命の中にかれがその霊魂を破壊してしまうならば、かれはそれを永遠に破壊してしまわないか。

 

 

 

天界の秘義1774

 

 聖言の内的なものについてはいかようなことも聞こうとしない霊がいて、彼らはそれをたとえ理解するにしても、依然それを欲しないのである。彼らは主として業に功績を置いていて、それで自己を求める愛から善を行った者であり、かくて主の王国のためには善を行わなかった者である。他生ではこうした者は他の者にもまさって天界へ入ろうと欲しているが、しかしその外側に止まっている。なぜなら彼らは進んで真理の知識に浸透し、かくして善に感動しようとはしないからである。彼らは自分の思いつきに従って文字から聖言の意味を解釈し、また自分の欲念を甘やかすものをすべてその文字に同意させてもち出すことによってそれを解釈しているのである。

 

 

 

天界の秘義1834[]

 

 主が来られた後の原始教会の場合から知られているように、教会が主により起される時は、それは最初は傷のないものであって、一人は他の者を自分の兄弟として愛しているのである。そのときは教会の子供たちはすべて兄弟として共に住み、同じく互に他の者を兄弟と呼び、互に他を愛し合ったのであるが、しかし時がたつうちに仁慈は冷ややかになって、消え去ってしまい、それが消え去るにつれて、悪がそれに続き、この悪とともに誤謬が徐々に入り込んできたのである。そこから分派と異端とが発したのであるが、そうしたことはもし仁慈が支配して、生きているならば、決して起こりはしないのである、なぜならそのときは彼らは分派を分派と呼びさえもしないし、また異端を異端と呼びさえもしないで、各種の見解に応じた教義的な事柄と呼び、そしてそれを、もしこのような教義的なものが第一原理を、すなわち、主と永遠の生命と聖言を否定しさえしないならば、またそれが神的な秩序に、すなわち、十戒の教えに反しさえしないなら、各人の良心に委ねるからである。

 

 

 

ペトロの手紙2・1・20−21

 

 何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。

 

 

 

創世記49・16,17

 

「ダンは自分の民を裁く

イスラエルのほかの部族のように。

ダンは道端の蛇

小道のほとりにひそむ蝮。

馬のかかとをかむと

乗り手は仰向けに落ちる。」

 

 

 

天界の秘義6398

 

「ダンは道の上の蛇のようになるであろう」

これは、善が未だ導かないためにかれらが真理について論じることを意味していることは以下から明白である。すなわち、ダンの表象は、真理の中にはいるが、未だ善の中にはいない者たちであり(6396)、「蛇」の意義は感覚的なものから論じることであり(そのことについては以下に述べよう)、「道」の意義は真理である(627、2333)。かくて「ダンは道の蛇」であることにより、善が未だ導かないため、かれらが真理について論じることが意味されているのである。

「蛇」が感覚的なものから論じることを意味していることは、人間の内部は天界では色々な種類の動物により表象されているためであり、そこから聖言ではそれに似たことがその同じ動物により表象されているためである。人間の感覚的なものが蛇により表象されたのは、感覚的なものは人間の中の最低のものであって相対的には地的なものであり、いわば這っているからであり、そのことはまた感覚的なものが流れ通って行く形からも認めることができよう。そのことについては、主の神的慈悲の下に他の所に述べよう。ここからこれらの感覚的なものは蛇により表象され、主の神的な感覚的なものでさえも荒野の真ちゅうの蛇により表象され(4211)、外なるものにおける、深慮と 用心深さとは、マタイ伝の「蛇」により意味されているのである―

 

あなたらは蛇のように賢く、鳩のようにすなおでありなさい(マタイ10・16)。

 

しかし、人間が、真理の中にはいるが、未だ善の中にはいない者たちのように、内なるものから遠ざかって、感覚的なものの中にいて、感覚的なものから話すと、そのときは「蛇」により論じる[推理する]ことが意味されており、それで、ダンがとり扱われているここでは、善が未だ導かないため、真理について論じることが意味されているのである。他の場合では「蛇」により悪意、狡猾、詐欺が意味されているが、しかし毒蛇によっては、例えば「蝮」といったようなものによっては、その論じることは毒である。(「蛇」は感覚的のものから論じることを意味していることは前の195−197に見ることができ、また「蛇」は全般的に悪の凡てを意味し、いくたの悪は色々な種類の蛇により区別されている。251,254,257)。

 

 

 

天界の秘義3241

 

 霊的な教会に属している者たちは、天的な教会に属している者とは異なって、善い真である事柄を何ら認識しないで、その学んだものを真理として認めているため、そのため彼らはその事柄については、何かの事柄が真であるか否かと絶えず論じており、各々の者はその者自身の教会のものであるその教義に止まって、それを真のものと呼んでいるのである。これがかくも多い相違の源泉となっている。さらに極めて多くの物は、外観と迷妄[妄想]から善い真の事柄についてその結論を下しており、互いにその仕方は異なってはいるがたれ一人いかような認識からもそれを下してはいないのである。(中略)それでも凡てのものが仁慈を教会の本質的なものとして承認するとき、またはそれと同一のことではあるが、生命[生活]を教義の目的として認めるとき、即ち、彼らが教会の人間がいかように生活しているかを尋ねて、その見解はいかようなものであるかをさほど問題にしないときは、それらのものは共に一つの教会を形作っているのである。

 

 

 

天界の秘義2385

 

「彼らは戸を見出そうとして苦しんだ」これは、それで彼らは善に導くいかような真理も認めることが出来なかった、を意味していることは、『戸』の意義から明白であり、それは導入〔導き入れること〕と接近〔近づけること〕であり、また真理は善へ導き入れる知識が意味されている、なぜなら『戸』は(前の2356番に言われたように)家の前にあったからである、なぜならロトは『戸の方に行き、彼の後で戸を閉じた』のであって、そこから『戸を見出そうとして苦しむ』ことは、善に導くいかような真理をも見ないことを意味するからである。

 

 

 

天界の秘義2385[]

 

推理により教義的なものを孕み[考え出し]、何物をも、自分が先ずそれを把握しない限りは信じない者らは、特に最後のときに、そのようなものになるのである、なぜならこの場合悪の生命は彼らの合理的なものの中へ絶えず流れ入り、一種の迷妄の光〔妄想の光〕が悪の諸情愛の火から注がれて入り、彼らに誤謬を真理のように見させるからであり、そうしたことは夜間の光の中に妖怪を見る者の常に行うところである。そのときこれらのものは多くの方法により確認されて、教義の事柄となるが、それは(情愛に属したものである)生命には何の効力もない、ただ(思考に属したものである)信念にのみ効力があると言っている者らの教義上の項目のようなものと軌を一にしているのである。

 

 

 

天界の秘義2385[]

 

何であれ原理はことごとく、誤謬そのものでさえも、一度とり上げられるとなると、それは無数の事柄により確認されて、その外なる形でも恰も真理そのものであるかのように、示されることが出来ることはたれでも知ることができよう。ここから異端が発しており、それが一度確認されると、その人間はそこから決して後退はしないのである。それでも誤った原理からは誤謬以外には何ものも流れ出ることはできないのであり真理がその間に混入しているにしても、それは誤った原理を確認するために用いられるとき、誤謬化された真理となるのである、なぜならその真理は誤った原理の本質により汚されるからである。

 

 

 

天界の秘義2385[]

 

 主に対する愛と隣人に対する仁慈とはその上に律法のすべてがかかっているものであり、またあらゆる予言者から語られているものであり、それでそれらはあらゆる教義と礼拝との本質的なものであるという真理が受け入れられている場合は非常に異なるのである、なぜならその場合心はその真理が原理として受け入れられないときは不明確な誤った原理の中に隠されてしまうところの聖言の無数のものにより明るくされるからである。いな、そうした場合には異端は消滅してしまって、一つの教会が多くのものから起こってくるのである。

たとえその一つの教会から流れ出ている、またはそれへ導かれている教義的な祭儀的な事柄がいかに甚だしく相違しているにしても。

 

 

 

天界の秘義2385[]

 

そうしたものが古代教会であって、それは多くの王国に拡がっていたのである。すなわちアッシリア、メソポタミア、シリア、エチオピア、アラビア、リビア、エジプト、ツロとシドンにも達したぺリシテ、ヨルダンの両岸のカナンの地にも拡がっていたのである。これらの国の間では教義的なものと祭儀的なものとは相違してはいたが、しかし彼らには仁慈は本質的なものであったため、依然教会は一つのものであった。そのとき地上には主の王国が天界におけるように存在したのである。なぜならそうしたものが天界であるからである(684,690)。もしそれが現今もそのようなものであるなら、すべては主により一人の人間として支配されるであろう。

なぜならそれらは一つの身体のいくたの肢体と器官のようなものとなるからである。なぜなら身体の肢体と器官とは同じ形はしておらずまた同じ働きも持ってはいないものの、それでもすべてのものは一つの心臓に関連をもっていて、その心臓にすべてのものが、また各々のものが、あらゆる所で相違しているそのいくたの形を持ちつつも依存しているからである。そのときは各々の者は、いかような教義の中に、いかよう外的な礼拝の中にいようとも、これはわたしの兄弟である、わたしは彼が主を拝していて、善良な人間であることを認めると言うであろう。

 

 

 

天界の秘義6222[2]

 

教会の知的なものと意志により意味されることを説明することが必要である。教会の知的なものとは信仰の真理の何であるかを、また仁慈の善の何であるかを聖言から認識することである。聖言の文字の意義は、何であれ人間がその抱いている教理をその意義から確認するといった性質のものであることは知られており、そのことは聖言の文字の意義は真理を受け入れる全般的な器であるためであり、またこの器の性質は真理を受けない中は透明なものを通して現れるようには現れないためであり、かくてそれは単に全般的なものであるに過ぎないで、人間が個々のものと単一なものとを適当に受け入れるためには、先ず人間により学ばれねばならないためである。聖言の文字の意義は、人間がその抱いている教理を何なりとその意義から確認するといった性質を持っていることは、教会にこれまで存在してきたところの、また今も尚存在しているところの極めて多くの異端から非常に明らかであって、その異端の各々はその徒党連により聖言の文字の意義から確認されており、実に彼らがそれは真理であると徹底的に信じている程にも確認されており、以後天界から真理そのものを彼らは万が一聞くとしても、その一片も受け入れようとはしないのである。

 

 

 

天界と地獄455

 

聖言の真理を明るくされた理性から認めない限り、誰が聖言をその文字の意義からのみ理解することが出来よう。それが同じ聖言からかくも多くの異説が発してくる源泉ではないのか。

 

 

 

 

2.天国の鍵

 

 

天界の秘義第三部序言(天界の秘義2759の次)

 

文字の意義にのみ止まって、内意を、その内意を説明している聖言の他の記事から探し求めない者はいかに大いに欺かれているかは、多くの異端から極めて明白であり―その異端のおのおのは聖言の文字の意義からその教義を証明しているのであるが―特にそのことは自己と世への狂った奈落的な愛によりペテロに対する主の聖言から引き出されたかの大いなる異端から明白である―

 

わたしはあなたに言います。あなたはペテロである。この岩の上にわたしはわたしの教会を建てましょう。地獄の門はそれに勝ちはしません。またわたしはあなたに天国の鍵を与えましょう。何であれあなたが結ぶものは天でも結ばれ、また何であれあなたが地で解くものは天でも解かれるでしょう(マタイ16・15−19)。

 

 

 

天界の秘義第三部序言(天界の秘義2759の次)[]

 

文字の意義をこじつける者はこれらの事柄がペテロについて言われ、かくも大いなる力が彼に与えられたと考えているが、しかし彼らはペテロは非常に単純な人間であって、彼は決してそのような権力はふるわなかったし、それをふるうことは神的なものに反していることを十分に知っているのである。にも拘らず、自己と世への狂った奈落的な愛のために彼らは地上と天界の最高の権力を自分自身に僭取しようと欲しているため、これを文字に従って説明して、激烈にそれを弁護しているが、それに反しこれらの言葉の内意は、主に対する愛と隣人に対する仁慈の中にいる者たちのもとにのみ存在しているところの主に対する信仰そのものが、その力を持っているのであり、しかも信仰ではなく、信仰が存在する源泉である主がその力を持っておられるということである。そこの『ペテロ』により聖言の他の凡ての個所におけるように、かの信仰が意味されているのである。この上に教会が建てられ、これに地獄の門は勝ちはしないのである。この信仰が天国の鍵を持っており、悪と誤謬が入らぬように、天界を閉じてしまい、善と真理とに対しては天界を開くのである。これがこれらの言葉の内意である。

 

 

 

天界の秘義第三部序言(天界の秘義2759の次)[]

 

十二人の使徒は、イスラエルの十二の種族のように、こうした信仰のあらゆるもの以外には何ものをも表象しなかったのである(577、2089、2129、2130番の終わり)。ペテロは信仰そのものを、ヤコブは仁慈を、ヨハネは仁慈の善を表象したのであり(創世記18章の序言参照)、同じくヤコブの最初に生まれた息子たちであるルベンもシメオンもレビも表象的なユダヤ、イスラエル教会ではそのことを表象したのであり、そのことは聖言の無数の記事から明らかである。ペテロは信仰を表象したため、問題の言葉はかれに言われたのである。このことから文字に応じてあらゆる事柄を説明する者らは、たとえばペテロに対するこれらの言葉をそのように説明し、かくして人類を救う力を主から奪って、自分自身に僭取している者らはいかような暗黒の中へ自分自身を投げ込み、また自分とともに他の者を投げ込んでいるかが明らかである。

 

 

 

3.やめさせてはならない

 

 

マルコ9・38−41

 

ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は必ずその報いを受ける。」

 

 

 

同ルカ9・49−50

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2・P389

 

ヨハネ:「あなたに言われたとおり、今日、町を歩いていたとき、ある人が、エルサレムへ行く巡礼団の人々からあなたの名で悪魔を追い出しているのを見ました。その人は弟子でもなく、顔見知りでもありませんでした。それに、あなたの名を聞くと、悪魔は本当に逃げようとするのでした。気になったので、私たちがやめさせましたが、その人は『善いことをするのはいつも気持ちがよい』と言って、私たちの命令にも耳を貸さず、悪魔払いを続けてこう言ったのです。『私は今していることを続けます』

さっき、あなたは悪魔と戦った人々は皆、天国に入ると言われたので、わざわざこんなことをお聞かせしたのです」

 

主:「はい、けっこう、分かりました。その人も含まれます。おまえたちは、多分に間違えています。主の道は無数にあり、真っすぐな道を通る人々だけが天に入るとは言われていません。至るところ、まちまちな時代、人によっていろいろと違うふうに、初めは間違った道からでも私について来る多くの人がいます。だから、おまえたちは隣人を裁くべきではない。神だけが見ています。ただ、おまえたちは絶対に善い道を踏みはずすことがないように。その道は、おまえたちが選んだというよりも、神に知らされた道です。そして、私の名前を信じ、その名で活躍する人を見たなら、その人を他人とか敵とか涜聖者とかと言ってはならない。こういうふうな人は、自発的にか、時として、おまえたちの中のある人々よりも私の名前を信じているがゆえに、私の部下であり友人です。私の名前で不思議を行う人が私の敵であるわけがない。まことに言うが、私の名前を信じていれば、己の霊魂を救うに十分です。なぜなら、私の名前は救いだからです。そのために言います。もし、その人にまた会うことがあったら、二度と責めたりしてはいけない。むしろ、そういう人々を“兄弟”と呼びなさい。私の柵の中にまだ入っていないにしても、兄弟なのだから。私に背かない人は、私と一緒にいるのであり、おまえたちに背かない人は、おまえたちと一緒にいるのです」

 

「では、主よ、私たちは罪を犯したのですか」と、勘違いしているヨハネが尋ねる。

 

「いいえ、おまえたちはそのことに無知であったために行っただけであって、悪意からではないので罪はありません。しかし、今後もそうするなら罪となります。今はもう知ったのだから。さあ、家に帰りましょう。おまえたちに平和」

 

 

 

4.内意から発した諸真理がこれらの記憶知の中へ導入されると、心は異端へ引き込まれることは出来ない

 

 

天界の秘義6071

 

現今では教会の記憶知は聖言の文字の意義に属しているものである。 内意から発した諸真理がこれらの記憶知の中へ導入されない限り、心は凡ゆる異端へ引き入れられることが出来るが、しかし真理がその中へ導入されると、心は異端へ引き込まれることは出来ないのである。

 

 

 

天界と地獄311

 

彼らは以下のように言った、即ち、基督教世界が天界にいる者について、また地獄にいる者についてこうした信念を抱いたのは、聖言の若干の記事をただ文字の意義に従ってのみ理解して、聖言から来ている純正な教義によって解明し、説明しなかったからであり、聖言の文字の意義は、純正な教義によって光を投じられない限り、心を色々な方向に迷わせて、無知、異端、過誤を生むのである、と。

 

 

 

 

5.真の信仰、似非信仰、偽善的信仰

 

 

真の基督教378

〔W〕「真の信仰、似非信仰、偽善的信仰」

 

 基督教教会はその極めて初期の揺籃時代から異端と分裂によって悩まされ、時の経過と共にそれは、エルサレムからエリコに降り、盗賊の手に落ち、着物を剥がれ、傷つけられ、半殺しにされて棄て置かれた人間のように引き裂かれ、責め苛まれた(ルカ10・30)。かくして、ダニエル書にこの教会について預言されているところが現れるようになった。「遂に憎むべき鳥の上に荒廃あらん、かくてそれは破壊の上に降りかかりて終局と結末にすら至らん」(ダニエル9・27)。また主の言葉によるに。「その時終りは至るべし。その時汝らは預言者ダニエルによりて言われたる荒す憎むべき者を見るべし」(マタイ24・14、15)。教会の運命は、高価な商品を積み込んだ船が錨を揚げて港を離れるや否や、嵐のために翻弄され、間もなく破船し、海底に沈み、その高価な積荷の一部は水のために破損し、一部は魚のために千々に砕かれる運命に譬えることが出来よう。基督教教会はその小児時代から悩まされ、引き裂かれたことは教会史によって明らかである。何故なら、使徒たちの時代にすら、それは生れはサマリア人で魔術を職業にしていたシモンによって(使徒行伝8・9−24)またパウロがテモテ書に書き録したヒメナヨとピレトによって、更に黙示録に録され、ニコライ宗にその名を与えたニコライによって、またケリンタスによって乱され始めたからである。使徒時代以後、マルキオン派(Marcionites)、ノエトス派(Noetians)、ワレンティヌス派(Valentinians)、エンクラテテス派(Encratites)、カタフリギア派(Cataphrygians)、クォート・デシマン派(Quarto-Decimans)、アロギ派(Alogians)、カタリ派(Catharians)、オリゲネス派(Origenists)、又はアダマイト派(Adamites)、サベリウス派(Sabellians)、サモサテネ派(Samosatenes)、マニ教派(Manic haeans)、メレトス派(Meletians)、最後にアリウス派(Arians)の如き他の幾多の異教的な教派が出現した。これらの後ドナタス派(Donatists)、フォティヌス派(Photinians)、アカシア派(Acacians)、或は半アリウス派(Semiarians)、ユーノミア派(the Eunomians)、マケドニア派(Macedonians)、ネストリウス派(Nestorians)、予定主義派(Predestinarians)、教皇派(the Papitists)、ツウィングリ派(Zwinglians)、再洗礼派(Anabaptists)、シュウェンクフェルディア派(Schwenckfeldians)、神人協力派(Synergists)、ソツィヌス派(Socinians)、反三一性派(Anti-Trinitarians)、クェーカー派(Quakers)、モラヴィア派(Moravians)及びその他多くの異端の長の全軍団が教会を侵害した。これらは全てルーテル、メランヒトン、カルビンによって圧倒され、現今後者の教義が一般に支配している。

 これらの紛争には主として三つの理由がある。第一に神的三一性が誤解された。第二に、主に就いて何等正当な知識が無かった。第三に、十字架上の苦難が贖罪そのものとして誤認された。これらの三つの事柄は教会が由って以て存在し、その名を得るかの信仰の要素であり、その三つが正当に理解されない中は、教会の凡ゆる物はその正しい道から外れ、遂には反対の道に向きつつも、神に対する純粋な信仰と神に関わる凡ゆる真理に対する信仰とを持っていると信じ込むのである。かくて、基督教徒は、目隠しをして自分では真直ぐに歩いている積りではあるが、一歩毎に脇路へ外れ、遂には、ぐるりと一回りして坑の中へ落ち込む人間のようなものとなる。彼らが真の信仰、似非信仰、偽善的信仰の性質を理解しない中は、これを正道に連れ戻すことは不可能である。それ故に以下の事を証明しよう。(1)唯一の真の信仰は主なる神、救い主イエス・キリストに対する信仰であり、この信仰は彼が神の子であり、天地の神であり、父と一であると信ずる人々によって抱かれる。(2)似非信仰は唯一の真の信仰より離れ、「他の道より攀じ登り」主を神としてでなく単なる人間として認める者によって抱かれる。(3)偽善的信仰は信仰でない。

 

 

 

 

6.ドレックス教授

 

 

天使館/天使のパン16号P40

 

『信仰は従順より偉大である』ドレックス教授への救い主の御言葉 

1973年7月6日早朝の主の御言葉

 

多くの場所で、ミサはこの世的な集会、あるいはイベントのようなものになっている。主日は数多くの建物の中で、また参加者の心の中で威厳と意味を失って来ている。異端者はただ教会に属していることを誇りとし、私の真の教会はもはや彼らの教会ではないとして、自分自らに対し、また他人に対して嘘をついている。そのため、ますます多くの信者は牧者に対する信頼を失っている。聖書にあるように、「彼らは皆、口がきけない犬で、吠えることができず、夢を見ながら横たわり、眠りを愛する」(イザヤ書56・10)のである。私が地上で歩き回り、最後に贖いの死を遂げた時代以降、これほどの無関心と冷淡さが広がり、ひどくなったことはかつて無かった。

 

 

 

 

7.もし教職者以外の者がそのことを行うなら、異端が起り

 

 

天界の秘義6822

 

 教会は国家以上に隣人である、なぜなら教会を顧慮する者はその国にいる人間の霊魂と永遠の生命をまた顧慮するからである。そして教会は人間が善に導かれるとき顧慮されるのであり、仁慈からそのことを為す者は隣人を愛するのである、なぜなら彼は他の者のために天界と永遠に至る生命の幸福とを願い、また欲しているからである。善は他の者の中へその国のたれからも注ぎ入れられることは出来るが、しかし真理は教えを与える教職者たちによらなくては注ぎ入れることは出来ないのである、もし教職者以外の者がそのことを行うなら、異端が起り、そのため教会は混乱して、分裂してしまうのである。もし教会のものである真理を通して隣人が善へ導かれるなら、仁慈は実践されるのである。もし教会の中で善から離反させるものが何か真理と呼ばれるなら、これは口にするには価しないものである、なぜならそれは真理ではないからである。各自先ず自分自身のため教会の教義から真理を得、後には主の聖言からそれを得なくてはならない、それが彼の信仰の真理とならなくてはならない。

 

 

 

 

8.カイン

 

 

天界の秘義362

『カイン』と呼ばれる信仰の教義がここに記されており、それは愛から信仰を分離した結果、信仰をまた仁慈、即ち、愛の子供から分離したのである。教会が存在する所には必ず異端が起るが、それは人間が何か特殊の信仰箇条に執心すると、それを主要なものにしてしまうためである。なぜならそうしたことが人間の思考の性質であって、人間は何か一つのものに執心すると、それを他の凡てのものの前面に掲げるのであり、特にその人間の想像がそれをその人間自身の発見したものとして要求する時、自己と世への愛が彼を膨れ上げさせる時、そうしたことをやってのけるのである。そうした時凡ての物がそれに一致し、それを確認するように思え、遂にはその者はたとえそれが誤っていても、それがそうであると誓言するのである。ちょうどそのように『カイン』と呼ばれた者らは信仰を愛よりも本質的なものとし、その結果愛無しに生活したため、自己愛もそこから発した幻想も共に一つになって彼らにそのことを確認させたのである。