外観の法則
敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい(マタイ5・44)/
総論
1.外観の法則
2.外観に応じて主は話された
3.悪がエホバに帰せられる理由
どんなことか、現象
4.主が現れ給う時は、その人間の性質に応じて現れ給う
5.霊界ではこのような人間はまた、遠方に、このような動物のように現れる
6.聖言は各々の者にその性質に従って現れる
7.悪が静止するとそれは分離してしまったように見える
8.『義とされた』かのように見える
9.陽が登り、陽が沈む
事例
10.エホバが怒る
11.エホバが憎みたもう
12.エホバは滅ぼされる
13.復讐
14.1.エホバが命じる
14.2.生贄が制定された理由
15.エホバが悔いる
16.エホバは人間に尋ねられる
17.エホバはパロの心を固くされ
18.神はアブラハムを試みられた
19.主は彼を殺された(創世記38・7)
20.イサクはそこから去った
21.対立
22.拷問
23.執り成しについても人間の把握に従っていわれている
23・2.顔を背ける
23・3 私から離れ去れ
23・4 私は知らない
目的・理由
24.人間は外観により教えられないならば、彼は些かも教えを受け入れようとはしない
25.主がそのように話された理由は、彼らが外なる真理を受け入れ、そのことによって内なる真理へ導き入れられるためであった
26.教義は人間の思考と情愛に属している[人間の思考と情愛から生まれている]ような外観を着けなくてはならない
27.それは彼らの信念と欲念とが破壊されないで、たわめられるためである、容器
28.悪人を刺激して役立たせる
29.理由1.危害から守るため
30.理由2.子供たちと単純な心をもった者たちのため
31.理由3.思考が依存していなくてはならないところの感覚的なものから発した何かの外観が常に存在していなくてはならない、この外観が取り去られると、観念は消失してしまうから
32.聖い恐れ
弊害
33.外観・・・誤謬を確認するもの
34.外観的な真理を否定してはならない
35.これらの観念を確認して、神は怒り、憤り、復讐を、またそのような悪しきものを感じ給うと信じ、怒り、憤り、復讐から人間を罰し、地獄に投じ給うと信ずるならば、罪に定められる
総論
1.外観の法則
新しいエルサレムの教義262
聖言の文字の意義は世の外観に従っている。
(589,926,1408,2719,2720,1832,1874,2242,2520,2533)
天界の秘義589・・・エホバは悔いられた
天界の秘義926・・・エホバは言われた
天界の秘義1408・・・感覚の迷妄
天界の秘義2719・・・教義は人間の思考と情愛に属している[人間の思考と情愛から生まれている]ような外観を着けなくてはならない
天界の秘義1408[2]
主の聖言もまたそうしたものである、その形体的な物は文字の意義に属したものであり、心がこれらの物にとらわれている時は、内なるものは全く見られはしないが、しかしそれでも文字の意義の事柄は、人間が身体の内にいる間はその人間のもとにある事柄に、すなわち、知覚される物から入って来る記憶の幾多の知識に類似していて、それらはその内に内的な、または内なる事柄を容れる全般的な容器となっている。このことから容器とその容器の中に容れられている本質的なものとは別種のものであることを知ることができよう。その容器は自然的なものであるが、その容器の中に容れられている本質的なものは霊的なものであり、天的なものである。聖言の歴史的なものもそうしたものであり、聖言における表現はことごとく全般的な、自然的な、実に物質的な容器であって、その中に霊的な天的なものが宿っているが、しかしこれらのものは内意によらない限り、決して明らかにされはしないのである。
このことは以下の事実のみからでも各々に明白になるであろう、即ち、聖言における多くの事柄は外観に応じて、実に感覚の迷妄に応じて言われているのである、例えば、主は怒られる、主は罰し、呪い、殺される、その他そういった多くの事柄が言われているが、それでもその内意ではそれらは全く反対のことを意味しているのである。即ち、主は決して怒られはしない、罰しられはしない、ましてや呪ったり、殺したりはされないことを意味しているのである。それでも単純な心から聖言を文字の中で把握しているように信じている者たちには、その者たちが仁慈に生きている限りは、何の危害も加えられはしない。その理由は聖言は人間は各々隣人とともに仁慈の中に生き、主を凡てのものにも勝って愛さなくてはならないということ以外には何ごとも教えはしていないということである。そのことを行う者たちはその者自身の中に内なるものを持っており、それで彼らのもとでは文字の意義から得られた迷妄[妄想]は容易に払いのけられるのである。
真の基督教135
神は怒り、復讐し、試み、罰し、地獄に投げ入れ、罪に定め、否、悪を為し給うとさえ言われている場合のように、神は聖言では外観に従って語り給うたことが知られていますが、事実は神は決して怒らず、決して復讐せず、決して試みず、罰せず、地獄に投げ込まず、また罪に定め給いません。このような事は地獄が天界から隔たっているように神から隔たっており、否、無限に遠く隔たっており、単に外観に従ってのみ用いられた言葉の形式であります。償い、宥め、執成し、調停の語もまた他の意味の外観の表現であります。何故ならこれは神への近接と神からその人間性を通して来る恩寵とを表現する言葉の形式であるからです。これらの言葉は理解されなかったために、人間は神を三人の神に分割し、そしてこの三人の神の上に教会の教義の凡てを基礎づけ、かくして聖言を虚偽化してしまいました。これがダニエル書にさらにマタイ伝24章に主によって予言された「荒らす憎むべきもの」であります。
2.外観に応じて主は話された
真理の外観が各々の者にその者の把握に応じられて与えられており、主もまた彼らの把握に応じて、かくて彼らに思われたことに応じて答えられたのである。
天界の秘義3417[2]
例えば、教義的なものの中にいて、生命にはさほどいない者らは天界の王国は地上の王国に似ている、すなわち、人間は他の者を支配することにより偉大になるという点で似ているとのみしか考えていないで、この喜びが彼らの知っている唯一のものであり、これを彼らは他の凡ゆる喜びにも勝ったものとしており、それで主はこの外観に応じて聖言に語りたもうたのである、例えばマタイ伝には―
たれでも行って、また教える者は、天国では大いなるものと呼ばれるでしょう(マタイ5・19)。
またダビデの書には―
わたしは言った。あなた方は神であり、あなた方の凡ては至高者の息子たちである、と(詩篇82・6、ヨハネ10・34、35)。
そして弟子たち自身でさえ最初は天界の王国[天国]については―マタイ伝18・1、マルコ9・34、ルカ9・46に明白であるように―地上におけるような偉大と卓越について抱かれる見解以外のものは何ら持っておらず、また王の右手と左手に坐ることを考えていたため(マタイ20・20、21、24、マルコ10・37)、それでまた主は彼らの把握とその精神とに応じて答えられて、彼らの中で彼らの中のたれが最大のものであるかについて争いが起こったとき、以下のように言われたのである―
あなたたちはわたしの王国でわたしの食卓について食い飲みし、王座に坐ってイスラエルの十二の種族を審判くでしょう(ルカ22・30、マタイ19・28)。
なぜなら当時彼らは天界の歓喜は偉大と卓越との歓喜ではなくて、謙遜のそれであり、他の者に仕えることに対する情愛のそれであり、かくて最小のものとなることを欲して、最大のものになろうとは欲しないことのそれであることを知らなかったからである。このことを主はルカ伝に教えられているのである―
たれでもあなた方の中で最も小さいものは、偉大なものとなるでしょう(ルカ9・48)。
天界の秘義3417[3]
かくて知識の記憶知の中にいるが、仁慈の生命の中にいない者らは卓越から生まれてくる歓喜以外の何らかの歓喜の在ることを知ることが出来ないのであり、それが彼らの心に居座っている唯一の歓喜であって、彼らの生命の凡てを作っているため、それで謙遜[へりくだり]と他の者に仕えることに対する情愛から由来してくる天使の歓喜を―すなわち、主に対する愛と隣人に対する仁慈の歓喜を―全く知ってはおらず、従ってそこから由来してくる祝福と幸福とを知っていないのである。このことが主が彼らの弱さ[欠陥]に応じて語られた理由であって、彼らがそのことによって、善を学び、教え、行うように、善へ目覚めて、そこへ導かれるためであったのである。それと同時に主は天界の偉大と卓越との性質を教えられているのである(マタイ19・30、20・16、25−28、マルコ10・31、42−45、ルカ9・48、13・30、22・25−28)。これらのものが、またそのようなものが低い度の真理の外観である、なぜなら彼らは以下の理由から実際相対的に偉大になり、卓越し、力あるものとなり、権威を持つからである、すなわち、ただ一人の天使でも数万の奈落の霊よりも大きな力を持っているが、しかしそれもその者自身から持っているのではなく、主から持っているのであり、彼は彼自身からは何ら力を持ってはいないことを、かくて彼は最小のものであると信じるに比例して益々主からその力を得るのであり、しかも彼はそのことを彼が謙遜になり、他の者に与えることを求める情愛の中にいるに応じて、すなわち、主に対する愛の善と隣人に対する仁慈の善の中にいるに応じ、益々信じることが出来るのである。
(ラケル/参照)
・主は聖言の中で人間の把握に順応し、また人間が把握している外観に順応して話された。
天界の秘義3857[4]
こうした理由から主は聖言の中で人間の把握に順応し、また人間が把握している外観に順応して話されたのである。聖言の文字の意義はこのような性質のものであるが、それでもそれはその中に内意を含んでいるといったものであり、その内意の中に内的な諸真理が存在しているのである。それでこのことがレアについては『エホバは彼女の胎を開かれた』と言われているが、ラケルについては『彼女は生まずめであった』と言われている理由である、なぜなら前に言ったようにレアにより外的な諸真理は人間が学ぶ最初の真理であるため、その真理によって人間が内的な諸真理の中へ導き入れられるように主により配慮されており、そのことがついに『神はラケルを憶えられ、彼女にきかれ、その胎を開かれた』(創世記30・22)と言われている理由である。
・主がそのように話された理由は、彼らが外なる真理を受け入れ、そのことによって内なる真理へ導き入れられるためであった
天界の秘義3857[7]
もし彼らが『弟子』により彼ら自身が意味されているのではなく、愛と信仰の善の中にいる者の凡てが意味されていることを話されたなら(3354、3488番)、また主の王国には、世におけるように、王座も、主権も、支配もなく、かれらはたった一人の人間の最小の事柄さえも審くことはできないことを話されたなら(2129、2553番)、彼らはその言葉を斥けてしまい、主から去って、各々の者はその者自身の職業に帰ってしまったであろう。主がそのように話された理由は、彼らが外なる真理を受け入れ、そのことによって、内なる真理へ導き入れられるためであったのである、なぜなら主が話されたその外なる真理を受け入れ、そのことによって、内なる真理へ導き入れられるためであったのである、なぜなら主が話されたその外なる真理の中には、内なる真理が隠されていたのであり、それが時の経過につれて明らかになり、それが明らかになると、外なる真理は消散してしまい、内なる真理について考えるためのものまたはその手段としてのみ役立つからである。このことからここに述べられている事柄により―エホバは先ずレアの胎を開かれて、彼女はヤコブに息子たちを生み、後になってラケルが息子たちを生んだということにより意味されていることを今知ることが出来よう。
3.悪がエホバに帰せられる理由
天界の秘義6991
しかし主は生命を与えられるため、悪もまた主がもたらされるかのように見えるため、それでそうした外観から聖言には、多くの記事から認めることが出来るように、悪はエホバ、または主に帰せられているのである、
天界の秘義245
『神は蛇に言われた、おまえは凡ての獣と畠の凡ての野生の動物にもまさって呪われる』は感覚的な部分が背を天界的なものに向け、身体に属したものに面を向け、かくてそれ自身を呪ったことを意味することは、聖言の内意から明らかに示すことが出来よう。神エホバはまたは主は何人をも決して呪われはしない。彼は決して何人をも怒られはしない、何人をも決して試練に入れられはしない、何人をも決して罰しられはしない、ましてや何人をも呪われはしない。こうしたことの凡ては奈落の一味によって行われる。なぜならこうしたものは慈悲、平安、善良の源泉からは決して発出することは出来ないからである。神エホバはその面を背けられる、怒り、罰し、試みられのみでなく、殺し、呪われると聖言のここにもまた他の部分にも言われている理由は、主は宇宙の凡てのものを、また個々のものを支配され、処理され、悪そのものをさえ、刑罰、試練をさえ支配され、処理されていることを人間が信じるためであり、また人間がこうした最も全般的な考えを受け入れて、後になっていかにして主は刑罰と試練の悪を善に変えられることにより凡てのものを支配され、処理されるかを学ぶためである。聖言を教え、学ぶに当っては、最も全般的な真理が先ず来なくてはならないのであって、それで文字的な意義はそうしたものに満ちているのである。
天界の秘義9849
人間が悪を行うとき、主から面を背けると、そのときは主は人間の背後におられるため、恰も主は彼を見られはしないし、聞かれはしないし、知られはしないし、また覚えられもしないかのように見えるものの、それでもそのことは人間から起こっているのであり、それで外観からそのように聖言に言われているのである。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P45
‘88・10・5
この時代は新たなソドムとゴモラを 自分たちのさ中に造ってしまったのだから。 彼らは今降りかかっている災難が 私からのものだと信じるほどになった、悪を引きつけるのは悪であり 自分で支払った報いを今受けているとは 決して理解せずに。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P158
聖母:
時がせまっていながら 多くの者たちはいまだに気づかないで 深い眠りにひたっています。 日がなくなり私の心は今日の若者たちを天上から見ていて 深い悲しみに沈んでいます。 愛が欠けています・・・けれど彼らは愛と出遭ったこともないのです、彼らの多くは 母親に与えるものがなかったため そのぬくもりや愛情さえ受けたことがありません。世は冷たくなってしまいました、氷のように、そして両親は互いに歯向かい、子どもは愛情の不足から両親に歯向かいます。
子どもが愛を乞うても母親はそれを拒んでしまいます。世には愛の心がありません、憎しみ、貪欲と自己本位が 地球全体をその中核まで支配しているため 深い暗やみの中にあるのです。
この暗い世の中の罪 そして聖櫃そのものの中に浸透していった背教、こうした恐ろしい光景に身震いしています、災難、飢饉、不幸、戦争や疫病、このすべてはあなた方が引き寄せたものです。地上から来るすべては地上に戻ります。地上は自らを破壊しているのです そして多くの人はそう信じがちですが このすべての災いのもとは 神ではないのです。 神は義なる方で 慈しみに満ちておられます、けれど悪が悪を引き寄せるのです。
一所懸命祈りなさい、あなたの時代の改心と救いのために 心から祈りなさい。私の子どもたちよ、あなた方の祈りが必要です、祈ってください それを神に捧げましょう。 どこへ行こうと 必ず一緒にいます。私の子どもたちであるあなた方を、決して離れません。 皆に祝福を与えます。
4.主が現れ給う時は、その人間の性質に応じて現れ給う
天界の秘義6832
しかし内なる形における、即ち、霊的な形における真理はヤコブの子孫に現れることは出来なかった、なぜなら彼らは単なる外なるものの中にいて、内なるものは何であれ、それを全く学ぼうとはしなかったからであり、そのため主は藪の中に現れ給うたのである、なぜなら主は現れ給うた時は、その人間の性質に応じて現れ給うからである、それは人間は神的なものをその人間自身の性質に従ってのみしか受け入れはしないためである、それで主はシナイ山で現れ給うた時は、天心までも燃え上がっている火として、暗黒、雲、暗闇として民に現れ給うたのである(申命記4・11、5・22−25、また出エジプト記19・18)。その山の下で眺めている人々がそうした性質のものでなかったなら、主は全くそれとは異なったものとして現れ給うたであろう。そしてその民は単なる外なるものの中にいたため、それでモーセはシナイ山で神のもとへ入った時は、彼は『雲の中へ入った』と言われているのである(出エジプト記24・2、18、34・5)。
天界と地獄55
凡ての者は己が中に在る天界の性質に応じて己が外に在る天界を受けるため、同じように彼らは主を受ける、それは主の神的なものが天界を作っているためである。ここから、主は何らかの社会の中で御自身を示される時は、主はその社会の持つ善の性質に従ってそこに見られ、かくて社会が異なるに従って異なったふうに見られている。この相違は主の中に在るのではなく、主を自分自身の善から見、かくてその善に応じて見る者の中に在る。彼らはまた己が愛の性質に応じて主を見る時感動を覚える。主を最も深く愛する者は最も深く感動し、それほど愛しない者は、それほど感動はしないが、天界の外にいる悪い者は主の前では責め苛まれる。主は一つの社会の中に見られる時は、天使として見られるが、しかし主から輝き出ている神的なものにより他の者から区別されている。
パラマハンサ・ヨガナンダ講話集/人間の永遠の探求/P397
政治家には世界は救えません。世界を救うものは、神に対する理解です。神は、人生の目標です。それがなかったら、人が生きてゆく意味もないでしょう。神を愛する者は、あらゆる宗教を通して人々を導いておられる唯一の神を礼拝すべきです。
神はギーターの中でこう言っておられます―
「わたしを信じ求める者がいかなる道を取ろうとも、わたしはその程度に応じてわたしを現す。人がたどる道は信仰形式のいかんにかわらず、すべてわたしに通じている」(バガヴァッド・ギーター4・11)
ですから他人の信仰を批判してはなりません。信仰を持つ人に対しては、だれに対しても心からの愛と尊敬を表わすべきです。
寺院や教会を見たら、そこに宿りたまう神に、心の中で礼拝しなさい。
5.霊界ではこのような人間はまた、遠方に、このような動物のように現れる
真の基督教13
宇宙を神の業として、その愛と智慧との住居として認めないで、自然の業として、単に太陽の光と熱とを受ける器として認める者は、その心の高部を神に抗って閉じ込め、その低部を悪魔に対して開き、かくして人間の性質を捨て去り、動物の性質を着ける。而して、彼らは自らを動物に似た者であると信ずるのみでなく、またそのような者になるのである。何故なら、彼らはその狡猾さに於いて狐に、凶暴さに於いて狼に、反逆性に於いて豹に、残虐に於いて虎に、その他の悪い性質に於いて鰐に、蛇に、梟に、蝙蝠に、夜鳥になるからである。霊界ではこのような人間はまた、遠方に、このような動物のように現れるが、悪を愛することがそのような外観を取っているのである。
シナイ山の火と煙について
天界における主の栄光は、実に慈悲それ自身さえもが、悪と誤謬の中にいるそこの民の前にはそのように現れたのである(1861番参照)。聖言に語られているエホバの言葉と行為と呼ばれている多くの物の場合も同一なのである。
天界の秘義3438
なぜなら聖言は各々の者にその性質に従って現れるからである。
7.悪が静止するとそれは分離してしまったように見える
天界の秘義1581
「願わくは、わたしから離れてください」。これは善はそれと調和しないものが無とされないかぎり、現れることができないことを意味していることは今しがた言ったことから明白である、すなわち内なる人は、外なる人の中にあって、一致していないものがそれ自身を分離させようにとねがっているのである、なぜならそれが分離されない間は内なる人から、すなわち主から内なる人を通して絶えず流れ入っている善は現れることができないからである。しかしこの分離については、それは分離ではなくて、静止であることを知らなくてはならない。主を除いては、人のもとでは、外なる人の中にある悪は分離されることはできないのである。何であれ人間が一度び得たものはことごとく残るのであるが、しかしそれが静止すると、それは分離してしまったように見えるのである、なぜならそれはそのようになると存在していないように見えるからである。それはまた主によらなくては存在しないように見える程に静止するようになりもしないのであり、それがそのようになって静止したようになると、そのとき初めて善が主から流れ入って、外なる人を感動させるのである。こうしたものが天使たちの状態であり、かれらもまた悪はかれらから分離してしまったとしか考えもしないが、事実はそれに反していて、かれらは単に悪から遠ざけられているにすぎないのであり、かくて悪が静止して、そのためそれが存在していないように見えているにすぎないのであり、従って、これは天使もまた反省するとき知っているように、外観である。
天界の秘義2196[6]
人間は彼が主により悪から遠ざけられて、善の中に維持されるとき、彼のもとには善で正しいもの以外には、否、聖いもの以外には何ものもないと外観から考えはするが、(真理は)それに反して人間の中には悪い、不正な、汚れたもの以外には何ものも存在していないのである。
8.『義とされた』かのように見える
天界の秘義4564[2]
再生しつつある人間の中の悪は、その遺伝的なものも現実のものも消滅したり、または無気力になり、空虚なものとなるほどに根絶するのでなく、ただ分離されるのみで、主の処置により円周の方へ斥けられて永遠にすらもその人間のもとに残っており、彼は主により悪から遠ざけられて、善の中に留められているのである。このことが起ると、悪は放逐され、その人間はその悪から清められ、または、よく言われているように、『義とされた』かのように見えるのである。
9.陽が登り、陽が沈む
真の基督教257
太陽は登り、没する
アタナシウス信条についてP30
そのことは「黙示録」719番の中に陽が登り、沈んで行くことについて示されたところである。
10.エホバが怒る
申命記32・19−22
主はこれを見て
御自分の息子、娘への憤りのゆえに
彼らを退けて、言われた。
わたしは、わたしの顔を隠して
彼らの行く末を見届けよう。
彼らは逆らう世代
真実のない子らだ。
彼らは神ならぬものをもって
わたしのねたみを引き起こし
むなしいものをもって
わたしの怒りを燃えたたせた。
それゆえ、わたしは民ならぬ者をもって
彼らのねたみを引き起こし
愚かな国をもって
彼らの怒りを燃えたたせる。
わが怒りの火は燃え上がり
陰府の底にまで及び
地とその実りをなめ尽くし
山々の基を焼き払う。
ヨハネ3・36
御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。
エレミヤ7・19
彼らはわたしを怒らせているのか―と主は言われる―むしろ、自らの恥によって自らを怒らせているのではないか。
天界の秘義3614[6]
エゼキエル書には―
このようにわたしの怒りは注ぎ尽され、わたしは憤りを彼らの上に止まらせよう、わたしはわたし自身を慰めよう、彼らは、わたしが彼らの上にわたしの怒りを注ぎ尽したとき、怒りをもって、憤りをもって、憤りの非難をもってあなたの中に審判を行うとき、わたし、エホバが熱意から語ったことを知るであろう(エゼキエル5・13、15)。
ここにもまた『怒り』は悪の刑罰を、『憤り』は誤謬の刑罰を意味しているが、それはその反感とそこから生まれてくる攻撃から発しているのである。モーセの書には―
エホバは彼を赦すことを良しとされるであろう、そのときエホバの怒りとその熱意とはかの人にむかって燃え上がるからである。エホバは彼をイスラエルの凡ての種族から引き離して悪[禍い]にあわせたもうであろう。その全地は硫黄と塩と燃える所となるであろう、そこには種は蒔かれず、芽生えもなく、またその中には青草も生えないであろう、エホバがその怒りと憤りとをもってくつがえされたソドムとゴモラ、アデマとゼポイムのくつがえされたときのようになるであろう、凡ゆる国民は言うであろう、なぜエホバはこの地にこのように為されたか、この大いなる怒りの熱は何を意味しているのか、と(申命記29・20−24)。
『ソドム』は悪を意味し、『ゴモラ』はそこから派生している誤謬を意味し(2220、2246、2322番)、モーセがここに語っている国民は悪と誤謬の方面ではそれにたとえられているため、それで『怒り』は悪について、『憤り』は誤謬について、『怒りの熱』はその両方のものについて語られている。このようなことがエホバまたは主に帰せられていることは外観に応じているが、それは人間が悪に突入し、悪が彼を罰するとき、そのように彼には見えるためである(245、592、696、1093、1683、1874、2395、2447、3235、3605番を参照)。
天界の秘義4397
彼らが罰せられたときは、彼らは怒られ、激怒されていると信じた。
天界の秘義5798
「あなたの怒りをあなたの僕に燃やさないで下さい」(創世記44・18)。これは彼が面をそむけないように、を意味していることは『怒り』の意義から明白であり、それは、他の者を怒っている者は面をそむけるため、面をそむけることである(5034番を参照)、なぜならその状態では彼は彼のように考えはしないで、彼に反したことを考えるからである。『怒り』は面をそむけることであることは聖言の多くの記事から明らかであり、特に怒りと憤りとがエホバまたは主に帰せられている記事から明らかであり、その怒り、または憤りにより面をそむけることが意味されてはいるが―それはエホバ、または主が仮にも面をそむけられるということではなく、人間が背けるのであるが、彼が面をそむけると、恰も主が面をそむけられるかのように彼には見えるのである、なぜなら彼(の祈り)は聞かれないからである。聖言は外観に応じてそのように語っているのである。そして『怒り』は面をそむけることであるため、それはまた面をそむけた者の側における善と真理とに対する攻撃であるに反し、面をそむけなかった者たちの側には攻撃はなくて、悪い誤ったものに対する嫌忌からくる反感のみが在るのである。
天界の秘義5798[2]
『怒り』は攻撃であることは前に示したところである(3614番)、それはまた面をそむけることであり、同じく真理と善とが攻撃されるときの刑罰であることは以下の記事から明白である。イザヤ書には―
不法な法[教令、法令]を布れる者に禍いあれ。彼らはいましめられた者の下に、殺された者の下に倒れるであろう。その凡てにも拘らずかの方の怒りはそらされはしない。わたしの怒りのむち、アッシルに禍いあれ。わたしはかれを偽善の国民に向って遣わそう、彼にわたしが憤る民を責めさせよう。彼は正しいことを考えない、その心は正しいことに思いをひそめはしない(イザヤ10・1、4−7)。
『怒り』と『憤り』とは人間の側で面を背け[離反し]、対立することであり、それに付随して起る刑罰と聞かれないことが怒りのように見えるのである、それは人間の側に在るため、『不法な法を布れる者に禍いあれ。彼は正しいことを考えない、その心は正しいことに思いをひそめない』と言われているのである。
同書に―
エホバはその怒りの器をもって、全地を破壊される。見よ、エホバの日が来る、残酷な憤り、怒りをもって来て、地を荒地とし、かれはその中の罪人を滅ぼしてそこから絶たれるであろう。わたしは天を揺るがそう、地は万軍のエホバの憤怒により、その怒りの憤りの日に揺すぶられて、その所から離れ去るであろう(イザヤ13・5、9、13)。
ここの『天』と『地』は教会を意味しており、それは真理と善から離れ去ったため、その剥奪と破滅とがエホバの『憤怒、怒り、憤り』により記されてはいるが、事実はその反対である、すなわち、悪の中にいる人間が憤怒し、怒り、憤って、善と真理とに対立するのである。悪から発している刑罰が外観のためにエホバに帰せられているのである。聖言の他の所には時折教会の最後の時とその破滅とが『エホバの怒りの日』と呼ばれている。
天界の秘義5798[4]
更に―
エホバは邪悪な者の杖を、支配者の官杖をくだかれた。あなたは激怒し、いえぬ打撃を加えて民を打ち、国民を怒りをもって支配されるであろう(イザヤ14・5、6)。
ここでも意味は類似している。これは法律により罰せられ、その刑罰の悪を自分自身に帰しはしないで王または裁判官に帰する犯罪人の場合に似ている。更に―
エレミヤ記には―
わたしは手を伸ばし、強い腕をもって、怒り、憤り、激しく熱しておまえと戦おう、おまえの業の邪しまのために、わたしの狂憤が火のように発し、燃え、消えはしないことのないためである(エレミヤ21・5、12)。
この記事では『狂憤』、『怒り』、『大いなる熱』は善い、真のものから離れ去って、それを攻撃するために起こってく刑罰の悪以外の何ものでもないのである。
天界の秘義5798[5]
神的な法則[神の法則]により悪には凡て刑罰が伴っており、驚くべきことには、他生では悪と刑罰とは密着しているのである、なぜなら奈落の霊が普通以上に悪を行うや否や、罰する霊が間近に現れて、彼を罰し、しかもそれは予告もなしに行なわれるのである。離反したために起って来る刑罰の悪が意味されていることは明らかである、なぜなら『おまえの業の邪しまのために』と言われているからである。ダビデの書には―
かれはその怒りの憤りを、憤怒と狂憤を、苦難をつかわし、悪い使いらを侵入させられた。かれはその怒りのために道を平らにし、彼らの魂を死から容赦されはしなかった(詩篇78・49、50)。(またイザヤ30・27、30、34・2、54・8、57・17、68・3、6、66・15、エレミヤ4・8、7・20、15・14、33・5、エゼキエル5・13、15、申命記9・19、20、29・20、22、23、黙示録14・9、10、15・7)。
これらの記事の『憤り』、『怒り』、『憤怒』、『狂憤』もまた離反と攻撃とそこから起ってくる刑罰を意味している。離反と攻撃に対する刑罰がエホバまたは主に帰せられて、『主の怒り』、『憤り』、『狂憤』と呼ばれているのは、ヤコブから生まれた民族は単に外なるものである教会の表象的なものの中に止め置かれねばならなかったためであり、彼らはエホバに対する恐怖、畏怖によらなくては、またエホバが怒りと憤りから彼らに悪を為されると信じなかったならば、その表象的なものの中にいる者らは、それ以外の方法では、外なる物へ連れて来られることは出来ないのである、なぜなら彼らを拘束する内的なものは何一つないからである、さらに教会では単純な者は、神はたれでも罪を犯す時は怒られるとしか外観から悟りはしないのである。しかしたれでも反省するなら、エホバまたは主には怒りは何ら無く、ましてや狂憤など全く無いことを認めることが出来るのである、なぜなら主は慈悲そのもの、善そのものであられ、たれかの悪を欲しられる(ような)ことからは無限に隔たっておられるからである。隣人に対する仁慈の中にいる人間もまたたれにも悪を為しはしないのである。天界の天使たちの凡てもそのようなものであり、ましてや、主御自身においてはそうしたことは有り得る筈はないのである。
天界の秘義5798[7]
しかし他生の実情は以下のようである。主は天界とその幾多の社会を秩序づけられて―そうしたことは新しく入って来る者たちのために絶えず行なわれているが―彼らに祝福と幸福とを与えられると、そしてこの祝福と幸福とがそれに対立したものにいる社会の中へ流れ入り(なぜなら他生では天界の社会は凡ての地獄の中にそれらに対立した社会を持っていて、そこから均衡が生まれているからである。この社会が天界が現存するため、そこから変化を感じると、そのときは怒り、憤りが爆発して悪に突入すると同時に、刑罰の悪の中へも突入するのである。更に悪霊または魔鬼は天界の光がに近づくときは、苦悶し、責め苛まれ始め(4225、4226番)、彼らはそれを天に、従って主に帰しはするが、事実は彼ら自身にその呵責を与えるものは彼ら自身なのである、なぜなら悪は善に近づくとき、苦しみもだえるからである。ここから善以外には何物も主から発しはしないし、悪は凡て、面をそむけ、対立したものの中にいて、攻撃する者から発していることが明白である。こうしたアルカナから実情はいかようになっているかが明白である。
天界の秘義6997
怒り・・・寛大、慈悲
聖言にそのように言われているのは、彼らが神を恐れることを知って、彼ら自身が行う悪により滅びないためであり、後になって神を愛するためである。なぜなら愛の中に聖い恐れが愛に先行しなくてはならないからである。なぜなら恐れが愛の中に注がれると、それは愛の聖いものから聖いものとなって、そのときはそれは主が怒られ、罰せられるのを恐れる恐れではなくなり、自分達が善そのものに反したことを行いはしないかとの恐れとなるからである。それはそのことが良心を苦しめるためである。
人間はその感覚的なものから見、また把握するものは信じるが、その感覚的なものから見ないし、また把握もしないものは信じないし、かくて受け入れはしないといったものであるという理由によっている。
天界の秘義10431
「わたしの怒りが彼らに向かって燃え、わたしが彼らを滅ぼし尽す」(出エジプト32・10)これは、かくすることによって彼らは彼ら自身を内なるものから離反させ、かくして神的なものから離反させ、そのため必然的に死滅しなくてはならないことを意味していることは以下から明白である。すなわち、『怒りが燃えること』の意義は、それがエホバについて言われているときは、人間の側の離反であり(そのことについては下記を参照されたい)、『滅ぼし尽くすこと』の意義は、それがまたエホバについて言われているときは、彼ら自身の悪の結果死滅することである。聖言の多くの記事にはエホバについて、かれは怒りに燃えられる、憤られる、また滅ぼし尽くされる、破壊されると言われている。しかしそのように言われていることは、人間が悪を行う場合のように、主に身を背けるその人間にそのように思われる[見える]ためであり、そのとき彼らは聞かれはしないし、罰しられさえもするため、彼は主は自分を怒られていると信じはするが、事実は主は決して怒られはしないし、決して滅ぼし尽くされもしないのである。なぜなら主は慈悲そのもの、善そのものであられるからである。ここから聖言の文字の性質はいかようなものであるかが、すなわち、それは人間における外観[現象]に相応していることが明白である。
天界の秘義10618
「怒りを抑え」(出エジプト34・6)。これが神的な寛容を意味していることは『怒りを抑えること』の意義から明白であり、それは、エホバについて言われているときは、エホバは人間の悪を長く堪え忍ばれるということである、なぜなら『抑えること』は長い間耐え忍ぶことであり、『怒り』は人間における悪を意味しているからである。『怒り』が、エホバについて言われるときは、人間における悪を意味している理由は、悪は怒りはするが、善は決して怒りはしないのであり、悪は人間のもとに在るが、主のもとには決してないということである、なぜなら主は善それ自身にていますからである。にも拘らず怒りが主に帰せられてはいるが、それは人間はその欲求するものを得ないとき、また悪のために罰せられるときはそのように思われるためである。それで怒りを抑えることが、エホバについて言われているときは、人間における悪を長い間耐え忍ばれることを意味しているため、そのことにより神的な寛容が意味されていることがそこから生まれているのである。
11.エホバが憎みたもう
天界の秘義3605[3]
我々が聖言にエホバまたは主が『憎みたもうこと』について読む時もこれと同じである。例えばゼカリヤ書には―
あなたたちはたれ一人その心で隣人を悪く考えてはならない、偽りの誓いを愛してはならない、なぜなら凡てこれらのことばはわたしが憎むことであるからである、とエホバは言われる(ゼカリヤ8・17)。
モーセの書には―
あなたはあなたのために柱を立ててはならない、それはあなたの神エホバが憎まれるものである(申命記16・22)。
エレミア記には―
わたしの嗣業[選民]はわたしには森の中のししのようになった、彼女はわたしに逆らってその声を上げた、それでわたしは彼女を憎んだ(エレミア12・8)
ホゼヤ書には―
ギルガルでわたしはかれらを憎んだ、かれらの業が邪悪なため、わたしはかれらをわたしの家から追い出そう、わたしはもはやかれらを愛しはしない(ホゼヤ9・15)。
これらの記事では、エホバまたは主について述べられている『憎悪』はその内意では憎悪ではなくて、慈悲である、なぜなら神的なものは慈悲であるからである、しかしそれが悪の中にいる人間のもとへ流れ入り彼が悪の刑罰へ突入すると、そのときその慈悲は憎悪として現れるのであり、それがそのように現れるため、その文字の意義では同様にそのように呼ばれるのである。
天界の秘義3605[4]
『怒り』『憤り』『狂憤』が聖言の中でエホバまたは主について述べられるときも同様である(このことについては245、592、696、1093、1683、1874、2495、2447、3235番を参照)。ユダヤ民族とイスラエル民族は他の凡ゆる民族にもまさって、その交友の中にすら何か友だちらしくないものを認めるや否や、彼らを残酷に扱い、たんに彼らを殺すのみでなく、野獣と鳥にさらしものにすることが当然なことであると信じるといった者であった、それで主の流入してくる慈悲が彼らのもとでは、たんに彼らの敵のみでなく、その仲間に対してもこのような憎悪に変化したため、エホバもまた憎悪を抱き、怒り、憤り、激怒するとしか信じることはできなかったのである、こうした理由から聖言ではその外観に応じてそのように表現されているのである。なぜなら人間の性質のあるがままに、主はその者に現れたもうからである(1838、1861、2706番)。しかし愛と仁慈の中にいる者たち、すなわち、善の中にいる者たちのもとでは憎悪の性質はいかようなものであるかはマタイ伝の主の御言葉から明白である―
あなたたちは、隣人を愛し、敵を憎まなくてはならないと言われているのを聞いている、しかしわたしはあなたたちに言う、敵を愛し、あなたたちを呪う者を祝福し、あなたたちを憎む者に善を行い、あなたたちを傷つけ、迫害する者らのために祈りなさい、これはあなたたちが、天におられるあなたたちの父の子となるためである(5・43‐45)
天界の秘義8223[2]
しかし他生におけるこの法則の実情はさらに以下のようになっているのである。それに似たもの、または報復が悪であるときは、それは悪い者により加えられて、決して善良な者により加えられはしないのである、即ち、それは地獄から来て、決して天界からは来ないのである。なぜなら地獄は、またはそこにいる悪い者らは他の者に悪を為そうとする欲念に絶えず燃えているからである、なぜならそれが彼らの生命に歓喜そのものであるからである。
それで彼らは許されるや否や、相手が悪いものであろうが、善いものであろうが、友であろうが、敵であろうが、意に介しないで、これに悪を加えるのであり、従って、悪は悪を意図する者に帰ってくることが秩序の法則から発しているため、その法則により許されると、彼らは彼らに襲い掛かるのである。このことは地獄にいる悪い者により行われて、決して諸天界にいる善良な者によっては為されはしないのである。なぜならこの後の者たちは、他の者に善を為すことがその者たちの生命の歓喜であるため、そのことを絶えず願っており、それで機会があり次第、敵にも友にも、善を為しており、実に悪に抵抗もしないからである。なぜなら秩序の法則は善い真のものを擁護し、防御するからである。それで主は言われている、『目には目を、歯には歯を、と言われていることをあなたらは聞いている、しかしわたしはあなたらに言う、悪に抵抗してはならない、と。あなたはあなたの隣人を愛し、敵を憎まなくてはならないと言われていることを聞いている、が、わたしはあなたらに言う、あなたらの敵を愛し、あなたらを呪う者を祝し、あなたらを憎む者に益を与えなさい、それはあなたらが天のあなたらの御父の子となるためである』(マタイ5・38,39,43−45)。
12.エホバは滅ばされる
天界の秘義588
しかし主についてかれは『悔いられる』『心に悲しまれる』と言われているのは、人間の慈悲には凡てこのような感情が在るように見えるからであり、それで主が『悔いられる』『悲しまれる』ことについてここに言われていることは、聖言の他の多くの記事におけるように、そうした外観に応じて語られているのである。主の慈悲の如何ようなものであるかは何人も知ることは出来ない、それは人間の理解を無限に超越しているためである、しかし人間の慈悲のいかようなものであるかは私たちは知っており、それは悔い、悲しむことである、そして人間はその理解に応じて慈悲を考えない限り、それを考えることが出来ないし、かくて教えられることは出来ないのであり、そのことが人間の特性が再三エホバまたは主の属性について述べられている理由となっている、例えばエホバは、または主は罰し、試練にあわせ滅ぼし、怒られると述べられているが、しかし主は何人をも決して罰せられないのであり、何人をも決して試練に遭わせられないのであり、何人をも決して滅ぼされないのであり、また決して怒られはしないのである。しかしこのようなことが主について述べられているため、後悔と悲哀もまた主について述べられることが出来ることが生まれている、なぜなら聖言の以下の記事に明らかに現れているように、その一方のことを述べることは他方のことを述べることから生まれてくるからである。
天界の秘義2395
「なぜならわたしたちはこの所を滅ぼすからである」。これは、彼らが陥っていた悪の状態が彼らを罪に定めるであろう、を意味していることは以下から明白である、すなわち、『滅ぼすこと』が主について述べられているときは、その意義は内意では、悪により滅びることであり、即ち罪に定められることであり、また『この所』の意義は悪の状態である(2393番)。聖言にはエホバは『滅ぼされる』としばしば言われているが、しかしその内意では人間が人間自身を滅ぼすことが意味されているのである、なぜならエホバはまたは主はたれをも滅ぼされはしないからである。しかし主はあらゆるものを全般的にもまた個別的にも見そなわして、規正されているという事実から恰も破滅はエホバからまたは主から発しているかのように思われるため、聖言の多くの所にそのように表現されているが、それは、人間がそのことによって凡ゆるものは主の眼の下にあり、また凡ゆるものは主の保護の下にあるという極めて全般的な考えの中に留めて置かれるようにとの目的のためである、なぜならもし最初人間がそうした考えの中に留めて置かれるなら、後には容易に(真理を)教えられることが出来るからである、なぜなら聖言の内意を解説することは全般的な観念[考え]を明らかなものにする細目[細々としたこと]以外の何ものでもないからである。
天界の秘義2395[2]
それがそのように表現されている他の一つの理由は何ら愛の中にもいない者が恐怖の中に留めおかれて、そのことにより主を畏怖する状態におかれ、救助を求めて主のもとに逃れて行くということである。このことは文字の意義を信じることは、もしそのことが単純な心から為されさえしているなら、たとえ内意はそれとは異なったことを教えているにしても、何らの害も与えないことを示している。
13.復讐する
復讐/
我々が聖言にエホバまたは主が『憎みたもうこと』について読む時もこれと同じである。例えばゼカリヤ書には―
あなたたちはたれ一人その心で隣人を悪く考えてはならない、偽りの誓いを愛してはならない、なぜなら凡てこれらのことばはわたしが憎むことであるからである、とエホバは言われる(ゼカリヤ8・17)。
モーセの書には―
あなたはあなたのために柱を立ててはならない、それはあなたの神エホバが憎まれるものである(申命記16・22)。
エレミア記には―
わたしの嗣業[選民]はわたしには森の中のししのようになった、彼女はわたしに逆らってその声を上げた、それでわたしは彼女を憎んだ(エレミア12・8)
ホゼヤ書には―
ギルガルでわたしはかれらを憎んだ、かれらの業が邪悪なため、わたしはかれらをわたしの家から追い出そう、わたしはもはやかれらを愛しはしない(ホゼヤ9・15)。
これらの記事では、エホバまたは主について述べられている『憎悪』はその内意では憎悪ではなくて、慈悲である、なぜなら神的なものは慈悲であるからである、しかしそれが悪の中にいる人間のもとへ流れ入り彼が悪の刑罰へ突入すると、そのときその慈悲は憎悪として現れるのであり、それがそのように現れるため、その文字の意義では同様にそのように呼ばれるのである。
天界の秘義3605[4]
『怒り』『憤り』『狂憤』が聖言の中でエホバまたは主について述べられるときも同様である(このことについては245、592、696、1093、1683、1874、2495、2447、3235番を参照)。ユダヤ民族とイスラエル民族は他の凡ゆる民族にもまさって、その交友の中にすら何か友達らしくないものを認めるや否や、彼らを残酷に扱い、単に彼らを殺すのみでなく、野獣と鳥にさらしものにすることが当然なことであると信じるといった者であった、それで主の流入してくる慈悲が彼らのもとでは、単に彼らの敵のみでなく、その仲間に対してもこのような憎悪に変化したため、エホバもまた憎悪を抱き、怒り、憤り、激怒するとしか信じることは出来なかったのである、こうした理由から聖言ではその外観に応じてそのように表現されているのである。なぜなら人間の性質のあるがままに、主はその者に現れたもうからである(1838、1861、2706番)。しかし愛と仁慈の中にいる者たち、すなわち、善の中にいる者たちのもとでは憎悪の性質はいかようなものであるかはマタイ伝の主の御言葉から明白である―
あなたたちは、隣人を愛し、敵を憎まなくてはならないと言われているのを聞いている、しかしわたしはあなたたちに言う、敵を愛し、あなたたちを呪う者を祝福し、あなたたちを憎む者に善を行い、あなたたちを傷つけ、迫害する者らのために祈りなさい、これはあなたたちが、天におられるあなたたちの父の子となるためである(5・43‐45)
天界の秘義8223[2]
しかし他生におけるこの法則の実情はさらに以下のようになっているのである。それに似たもの、または報復が悪であるときは、それは悪い者により加えられて、決して善良な者により加えられはしないのである、すなわち、それは地獄から来て、決して天界からは来ないのである。なぜなら地獄は、またはそこにいる悪い者らは他の者に悪を為そうとする欲念に絶えず燃えているからである、なぜならそれが彼らの生命に歓喜そのものであるからである。
それで彼らは許されるや否や、相手が悪いものであろうが、善いものであろうが、友であろうが、敵であろうが、意に介しないで、これに悪を加えるのであり、従って、悪は悪を意図する者に帰ってくることが秩序の法則から発しているため、その法則により許されると、彼らは彼らに襲い掛かるのである。このことは地獄にいる悪い者により行われて、決して諸天界にいる善良な者によっては為されはしないのである。なぜならこの後の者たちは、他の者に善を為すことがその者たちの生命の歓喜であるため、そのことを絶えず願っており、それで機会があり次第、敵にも友にも、善を為しており、実に悪に抵抗もしないからである。なぜなら秩序の法則は善い真のものを擁護し、防御するからである。それで主は言われている、『目には目を、歯には歯を、と言われていることをあなたらは聞いている、しかしわたしはあなたらに言う、悪に抵抗してはならない、と。あなたはあなたの隣人を愛し、敵を憎まなくてはならないと言われていることを聞いている、が、わたしはあなたらに言う、あなたらの敵を愛し、あなたらを呪う者を祝し、あなたらを憎む者に益を与えなさい、それはあなたらが天のあなたらの御父の子となるためである』(マタイ5・38,39,43−45)。
14.1.エホバが命じる
出エジプト記23・23−24
わたしの使いがあなたの前を行き、あなたをアモリ人、ヘト人、ペリジ人、カナン人、ヒビ人、エブス人のところに導くとき、わたしは彼らを絶やす。あなたは彼らの神々にひれ伏し仕えてはならない。そのならわしを行ってはならない。あなたは彼らを滅ぼし、その石柱を打ち砕かねばならない。
民数記21・2−3
イスラエルは主に誓いを立てて、「この民をわたしの手に渡してくださるならば、必ず彼らの町を絶滅させます」と言った。主はイスラエルの言葉を聞き入れ、カナン人を渡された。イスラエルは彼らとその町々を絶滅させ、そこの名をホルマ(絶滅)と呼んだ。
申命記7・1−2
あなたが行って所有する土地に、あなたの神、主があなたを導き入れ、多くの民、すなわちあなたにまさる数と力を持つ七つの民、ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人をあなたの前から追い払い、あなたの意のままにあしらわさせ、あなたが彼らを撃つときは、彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない。
ヨシュア記6・16−17
七度目に、祭司が角笛を吹き鳴らすと、ヨシュアは民に命じた。「鬨の声をあげよ。主はあなたたちにこの町を与えられた。町とその中にあるものは、ことごとく滅ぼし尽くして主にささげよ。ただし、遊女ラハブおよび彼女と一緒に家の中にいる者は皆、生かしておきなさい。我々が遣わした使いをかくまってくれたからである。」
ヨシュア記6・21
彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした。
ヨシュア記10・28
ヨシュアはその日、マケダを占領し、剣をもってその町と王を撃ち、住民を滅ぼし尽くして一人も残さなかった。マケダの王に対してもエリコの王と同じようにした。
ヨシュア記11・6
主はヨシュアに言われた。「彼らを恐れてはならない。わたしは明日の今ごろ、彼らすべてをイスラエルに渡して殺させる。あなたは彼らの馬の足の筋を切り、戦車を焼き払え。」
ヨシュア記13・6
更にゲバル人の土地、ヘルモン山のふもとバアル・ガドからレボ・ハマトに至るレバノン山東部全域、およびレバノン山からミスレフォト・マイムに至る山地の全住民、すべてのシドン人。わたしは、イスラエルの人々のために、彼らすべてを追い払う。あなたはただ、わたしの命じたとおり、それをイスラエルの嗣業の土地として分けなさい。
サムエル記上15・1−3
サムエルはサウルに言った。「主はわたしを遣わして、あなたに油を注ぎ、主の民イスラエルの王とされた。今、主が語られる御言葉を聞きなさい。
万軍の主はこう言われる。イスラエルがエジプトから上って来る道でアマレクが仕掛けて妨害した行為を、わたしは罰することにした。 行け。アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない。」
天界の秘義4903[2]
ユダヤ民族は内なるもののない外なるものの中にいて、それで真理を誤謬であり、誤謬を真理であると信じたことは、彼らが敵を憎むことは許されていると教えたことから明白であり、また彼らは彼らの宗教を奉じなかった者たちを凡て憎んだというその生活からも明白である。また彼らは異邦人を残虐にまた残酷に扱って、彼らを殺した後ではその死体を晒しものにして鳥や野獣に食わせ、彼らを生身のまま鋸で二つ切りにし、鉄のまぐわや斧で切り刻み、焼き釜の中を通らせつつも自分からはエホバを喜ばせ、エホバに仕えているとさえ信じもしたのである(サムエル記後12・31)。さらに何らかの理由で敵であると宣言された同胞をも殆ど同じように扱うことも彼らの教えには叶っていたのである。かくて彼らの宗教[宗教性]の中には何ら内なるものが無かったことが明白である。もしたれかがそのとき彼らにこのような事柄は教会の内なるものに反していると言ったとするなら、彼らはそれは誤りであると答えたであろう。彼らは単に外なるものの中にいて、内なるものの何であるかを全く知らず、内なるものに反した生活を送ったことは、主がマタイ伝5章21節から48節に言われていることからもまた明らかである。
サムエル記後12・31(新共同訳聖書)
そこにいた人々を引き出し、のこぎり、鉄のつるはし、鉄の斧を持たせて働かせ、れんが作りをさせた。また、アンモン人のほかの町々もすべてこのようにした。それからダビデと兵士は皆、エルサレムに凱旋した。
サムエル記後12・31(文語版聖書)
かくてダビデ其中の民を将(ひき)いだしてこれを鋸と鉄の千歯と鉄の斧にて斬りまた瓦陶(かわらやきがま)の中を通行(とおら)しめたり、彼かくのごとくアンモンの子孫の凡ての町になせり。
新共同訳聖書/出エジプト記3・21−22
そのとき、わたしは、この民にエジプト人の好意を得させるようにしよう。出国に際して、あなたたちは何も持たずに出ることはない。女は皆、隣近所や同居の女たちに金銀の装身具や外套を求め、それを自分の息子、娘の身に着けさせ、エジプト人からの分捕り物としなさい。
文語訳聖書/出エジプト記3・21−22
我エジプト人をして此民をめぐましめん 汝ら去る時手を空うして去るべからず 婦女(おんな)皆その隣人(隣人)とおのれの家に寓(やど)る者とに金の飾品(かざり)銀の飾品および衣服(きぬ)を乞べし而して汝らこれを汝等の子女(むすこむすめ)に穿載(きかぶら)せよ汝等かくエジプト人の物を取るべし」
天界の秘義6914[5]
このことがイスラエルの子孫がエジプトから手を空しくして出て行かないこと、女がその隣人とその家に宿っている者とに銀の器、金の器、着物を求め、かくしてエジプト人から掠奪すること(出エジプト3・21、22)により意味されている事柄である。こうした事柄が表象されなかった限り、イスラエルの子孫がエジプト人に対しこうした策略を用いることを神的なもの[神]から決して命じられはしなかったことをたれでも認めることが出来よう。なぜならこうした事はすべて神的なものからは非常に縁遠いからである。しかしイスラエル民族は全く表象的なものであったため、彼らはそのようなことを為すことを神的なものにより許されたのである。なぜなら他生では悪い者にはそうしたことが行われたからである。エホバまたは主から命じられた非常に多くの事柄は内意ではそうしたことが命じられたことを意味しないで、それらが許されたことを意味していることを知られたい。
出エジプト記34・4
モーセは前と同じ石の板を二枚切り、朝早く起きて、主が命じられたとおりシナイ山に登った。手には二枚の石の板を携えていた。
天界の秘義10612
「エホバが彼に命じられたように」(出エジプト34・4)。これは、彼らが主張したために、それがそのように行われたことを意味していることは、『エホバが命じられた』の意義から明白であり、それは、そのことが聖言の外なるものがイスラエル国民のために変化したようなものについて言われているときは―この変化した聖言の外なるものはモーセにより切られた二枚の石の板により意味されているのであるが―彼らが主張したためにそのことがそのように行われたことである。聖言には遍く、イスラエル国民と彼らの間に制定された表象的な教会が取り扱われている所には、『エホバは命じられた』と言われているが、そのことによりエホバに喜ばれたものが意味されているのではなくて、彼らが主張したために、それがそのように行われるように許されたことが意味されているのである。なぜなら彼らはカナンの地へ連れて行かれることを、エホバが彼らと共におられることを、従って教会が彼らの間に設立されることを主張したからである(彼らがそのように主張したことについては、10430、10535番を参照されたい)。例えば彼らは祭壇に燔祭と生贄と素祭と灌祭とを捧げなくてはならず、そのことについて多くの律法が布告されたことを考えられたい。そのことについてもまたエホバは彼らに命じられたと言われてはいるが、それでもこれらの事柄は、2180番における聖言から引用した記事から認めることが出来るように、命じられたのではなく、または指示されたのではなく、許されたのである。同じく彼らは数人の妻と結婚し、何であれいかような理由からでも離縁状を与えることを許されはしたものの、エホバはそれを命じられたと言われているけれど、エホバは命じられはしなかったのであり、単に彼らの心のつれなさのためにそれを許されたにすぎなかったのであり(マタイ19・7,8)、そのことは他の多くの事柄にも言われるのである。
霊界日記2617
こうした奈落の楽しさがヤコブの子孫を支配したのである。彼らは異邦人を拷問にかけることにまさった楽しさを認めはしなかったのであり、そのことはまたダビデについて記されているのである、すなわち、彼はアンモンの子孫をそのようにして拷問にかけ―サムエル前書12・31―そこにはそうした事柄が理解され、また同じようにすりつぶすことが意味されているが、しかしそれらは奈落のものであって、決して命じられはしなかったのであり、(後略)
霊界日記2618
ヤコブの子孫はこうしたものであったため、彼らは異邦人に残酷なことを行い、そこから彼らの最高の楽しさを得たのであり、それで彼らは極めて残酷であり、その言っているところでは、復讐を行う以外の目的からではなく、また聖い事柄の旗印の下にそうしたことをやってのけはするものの・・・・、ただそうした性質の欲念のみしか持たなかったのである、そのことは彼らがさらに悪い偶像崇拝家になった際彼らについて話されている事柄から明らかになるのである。彼らに、その女に、妻に、また幼児に凡ゆる残酷な振舞いをやってのけることを許されていると考えたのであり、そのこともまたナバル(サムエル記上25章)に対するダビデの敵意からも明らかであり、ナバルはそれでも彼らの兄弟たちの一人であったのである。さらに彼らは掠奪し、凡ゆる物を持ち去り、彼らの間の生き物をことごとく殺してしまうこと以外のことは何ら求めはしなかったのである。
霊界日記2619
彼らは、それは命じられたのである、と時として私に話したが、しかし彼らにそれは命じられたのではなくて、あなたらはそうした性質のものであるため、許されたのである、と答えることが与えられた。こうした許しは、ヤコブの時代以来そうしたものが在ったため、彼らには命じられているように思われるのである、なぜならこうした人間は、こうした事柄は命じられているとしか把握はしないからであり、それで外観に応じ、また彼らの感覚の迷妄〔妄想〕に従って、これらの事柄ではそのようにもまた話されているのである。それは神的なものではなく、または主から命じられはしなかったことは以下のことから極めて明白となるであろう、即ち、それは天界の愛に、人間相互の愛に反し、または対立しており、その愛については主は極めて幾度も話されたのであり、主は愛そのものであられ、主のみから諸天界における天界の愛がことごとく、結婚愛が両親の子供たちに対する愛が流れ出ているのである。1748年〔60歳〕7月16日。
神の摂理233(ヘ)
善を汚すことは聖言では姦淫により示され、真理の誤謬化は淫行により示されている。これらの汚辱と誤謬化とは悪にいる自然的な人間により行われ、また聖言の文字的な意義の外観を確認することによって示される理論により行われる。凡ての悪の源泉である自己への愛は善を不善化し、真理を誤謬化するその巧妙さでは他の愛にまさり、これを善人であれ悪人であれ、凡ゆる人間が主から得ている合理性の濫用により行っている。それは巧妙な理論により悪を善のように、誤謬を真理のように見せかける。それは幾多の議論を提出して、自然はそれ自身を創造し、次に人間を創造し、各種の動植物を創造し、また自然はその内なる自己から発する流入により人間を生かして分析的にまた賢明に考えさせると証明することもできるのに、何が出来ないことがあろうか。自己への愛はその好むものを何であれ極めて巧妙に証明するのは、虹色の光の一種の輝きで、その外の表面が作られているからである。この輝きは知的な誇りであって、それはしまいには他の者にまさり、他の者を威圧することを誇る誇りとなり、それがその愛の特徴となっている。
天界の秘義2242
巡視…人間の性質について点検すること
「エホバが降って見られる」と書かれているが、エホバは凡ゆるものを全般的にも個別的にも永遠から知られているため、それがそのようになっているか否かを見るということは主については述べられることは出来ない。それにもかかわらずそれがそのように表現されているのは、それがそのようであるかのように人間には見えるからである。外観に順応して書かれていないならたれ一人聖言を理解しないし、承認もしないし、かくてたれ一人それを受け入れはしないのである。
記憶の真理
天界の秘義9025
聖言の文字の意義から発している真理
この意義は感覚的な人間の前にある外観に順応しており、かくてその人間の把握するところに順応している。かくてこの意義では(色々な)事柄は互いに類似しないでいわば矛盾して現れているのである。こうした真理は聖言の文字の意義から発しているため、それは記憶の真理と呼ばれ、教会の教義に属している信仰の真理とは相違しているのである。なぜならこの後のものは、前のものから(その前のものを)解明することによって生まれるからである。なぜならそれらが解明されると、教会の人間はそうした事柄は聖言の中では(単純な者にも)把握されるように、また外観にも従って言われていることを教えられるからである。ここからまた教会の教義が聖言の文字の意義とは相違している場合が非常に多いのである。教会の真の教義はここでは「内意」と呼ばれているものであることを知られたい。
天界の秘義3364
神的なものは創造されたいかような存在によっても把握されることが出来ないため、主から発している教義的なものは創造された存在の前に現れる限り、それらは純粋に神的な真理ではなくて真理の外観である。それにも拘わらずこのような外観の中に真理の神的なもの[神的なものから発している真理]があるのであり、その外観はその外観の中にこうした真理を持っているため、その外観もまた真理と呼ばれている。
生贄/
即ち、エベルにより新たに定められた礼拝が生まれたのであるが、しかしそれは付け加えられたものであり、また変化したものであった。特にに彼らは生贄を他の祭儀にまさって称揚し始めたのである。真の古代教会では生贄はハムとカナンの子孫の若干の者たちの間を除いては知られていなかったのであり、ハムとカナンの子孫らは偶像教徒であり、彼らに生贄が許されたのは彼らにその息子と娘とを生贄として捧げさせないためであったのである。
天界の秘義2180[4]
全般的に生贄については、それらは実際モーセを通してイスラエルの民に命じられはしたが、しかし洪水以前に存在していた最古代教会は生贄については何ごとも知らなかったのであり、動物を殺すことにより主を拝するということも彼らの心に入りさえもしなかったのである。洪水以後に存在した古代教会も同じく生贄を知らなかったのである。この教会は実際表象的なものの中にいたが、しかし生贄の中にはいなかったのである。事実生贄はそれに続いたヘブル教会と呼ばれた教会の中に初めて制定されて、そのヘブル教会から諸国民に拡がり、またその同じ源泉からアブラハム、イサク、ヤコブに伝わり、かくてヤコブの子孫に伝わったのである。諸国民が生贄の礼拝を捧げたことは前に示しておいた(1343番)、ヤコブの子孫もエジプトを出る以前に、かくてモーセによりシナイ山の上で生贄が命じられる以前に同じように生贄の礼拝を捧げたことは出エジプト記(5章3、10・25、27、18・12、24・4、5)に言われていることから明白であり、特に金の子牛の前における彼らの偶像礼拝から明白である、
天界の秘義2180[5]
そのことはモーセの書に以下のように記されている―
アロンは子牛の目に祭壇を設け、布れて言った、明日はエホバの祭りである、と。彼らは朝早く起きて、燔祭を捧げ、酬恩祭の捧げ物を持って来た、民は坐って食べ、飲み、立って戯れた(出エジプト記33・5、6)。
これはモーセがシナイ山にいる間に行われたのであり、かくて祭壇と生贄に関わる命令が来る以前に行われたのである。その命令は以下の理由から来たのである、即ち、生贄の礼拝は異邦人のもとで偶像崇拝になってしまっていたように、彼らのもとでも偶像崇拝になってしまっていたのであり、彼らはそれを主要な聖いものとして認めていたため、(この礼拝から)引き出されることは出来なかったのである。なぜなら幼児の頃から聖いものとして一度び植えつけられたものは、特にもしそれが父祖たちにより植えつけられ、かくて根を張っているならば、それが秩序そのものに反しない限り、主は決してそれを折られはしないで、たわめられるからである、そのことが生贄がモーセの書に記されている方法で制定されなくてはならないと言いつけられた理由なのである。
15.エホバが悔いる
天界の秘義587
「エホバは人を地に作られたことを悔いられた」(創世記6・6)ことは慈悲を意味し、『心に悲しまれた』ことも類似の意義を持っていることは以下から明白である、すなわちエホバは凡ゆる物を永遠から全般的にも、また個別的にも予見されているため、決して悔いられはしないのである、またかれは人間を作られた時、すなわち、彼らをあらたに作り、彼が天的なものになるまでも彼を完成させられた時彼は時が経過するにつれて、ここに記されているようなものになることもまた予見され、そのことを予見されたため、悔いられる筈はなかったのである。このことはサムエルの語った所に明らかに現れている―
イスラエルの(たれにも)打ち破られない方は偽られはしない、また悔いられもしない、かれは人間ではない、悔いられはしない(サムエル記前15・29)。
モーセの書には―
神は人間ではない、偽られはしない、神は人の子ではない、悔いられはしない、かれは言われたが、行われはしないか、かれは話されたが、それを善くはされないか(民数期23・19)。
しかし『悔いる』ことは慈悲深くあられることを意味している。エホバまたは主の慈悲は人類に対し主により為される凡ての物を含んでおり、人類は主が各々をその状態に応じて憐れまれるような状態にいるのである、かくて主はその罰せられるのを許し給う者の状態を憐れみ、また善を楽しませられる者をも憐れみ給うのである。慈悲は刑罰の悪を凡て善に変えるため、罰せられることも慈悲から発しており、また何人も善い物には価していないため、善を楽しませられることも慈悲から発しているのである、なぜなら人類は凡て悪であり、人間各々はその者自身では地獄へ突入し、それ故かれがそこから救い出されるのは慈悲から発しておりまたそれは主は人を何ら必要とされないため、慈悲以外のものではないからである。それは主が人間を悲惨から、地獄から救い出されるため慈悲と呼ばれている。かくてそれは人類はかかる悲惨な状態に在るため、人類に関連してそのように慈悲と呼ばれており、またそれは凡ての者がそのようなものであるため、彼ら凡ての者に対する愛の結果である。
しかし主についてかれは『悔いられる』『心に悲しまれる』と言われているのは、人間の慈悲には凡てこのような感情が在るように見えるからであり、それで主が『悔いられる』『悲しまれる』ことについてここに言われていることは、聖言の他の多くの記事におけるように、そうした外観に応じて語られているのである。主の慈悲の如何ようなものであるかは何人も知ることは出来ない、それは人間の理解を無限に超越しているためである、しかし人間の慈悲のいかようなものであるかは私たちは知っており、それは悔い、悲しむことである、そして人間はその理解に応じて慈悲を考えない限り、それを考えることが出来ないし、かくて教えられることは出来ないのであり、そのことが人間の特性が再三エホバまたは主の属性について述べられている理由となっている、例えばエホバは、または主は罰し、試練にあわせ滅ぼし、怒られると述べられているが、しかし主は何人をも決して罰せられないのであり、何人をも決して試練に遭わせられないのであり、何人をも決して滅ばされないのであり、また決して怒られはしないのである。しかしこのようなことが主について述べられているため、後悔と悲哀もまた主について述べられることが出来ることが生まれている、なぜなら聖言の以下の記事に明らかに現れているように、その一方のことを述べることは他方のことを述べることから生まれてくるからである。
同様に以下の記事に『エホバは悔いられる』と言われているが、事実はエホバは決して悔いられはしないのである。なぜならエホバは凡ゆる事柄を永遠から先見されているからであり、ここから聖言を読んでいるときその文字の意義以上のことを考えない者らは、かくて彼らに実相は真にいかようなものであるかを教えている聖言から発した教義無しに聖言を読む者らは、いかに多くの過誤に陥るかを認めることができよう。なぜなら教義に従って聖言を読む者たちは、エホバは慈悲そのもの、善そのものであられ、無限な慈悲と無限な善とについて、それは怒りに燃えて、焼き尽くしてしまうとは到底言われることが出来ないことを知っているからである。それでこの教義から彼らはそれが人間に示されている外観[現象]に従ってそのように言われていることを知るのである。(怒りと悪とは人間から発し、主から発してはいないものの、それらが主に帰せられていることについては、9306番に示されたところを参照されたい。『怒り』は、主について言われているときは、人間が主から離れ去ることを意味していることについては、5034、5798、8483、8875番を参照されたい。)
16.エホバは人間に尋ねられる
天界の秘義5800
「私の主はその僕らに尋ねて、言われた」。これは彼らの思いを認識したことを意味していることは、『尋ねること』の意義から明白であり、それは他の者の考えを認識することである(5597番を参照)。『尋ねること』がそのことを意味されているのは、霊界または天界ではたれ一人他の者がその情愛のものであるような事柄について考えていることをその者に尋ねる必要はないからである、なぜならその情愛から派生しているその他の者の考えをその一方の者は認識するからである、さらにヨセフの表象している内なるものはヤコブの息子たちが表象している外なるものには尋ねはしないのである、なぜなら外なるものはその凡てを内なるものから得ているからである。ここから『尋ねること』により、思考を認識することが意味されていることが明らかである。エホバは人間が考える一切のものを知っておられるのに、エホバは人間に尋ねられると時折聖言に記されているが、そのように言われているのは、人間は自分の思いが自分の中に在るため凡ての者から隠れていると信じているためである。こうした外観とそこから生まれてくる信念の結果そのように尋ねることが生まれてくるのである。
17.エホバはパロの心を固くされ
天界の秘義7032
「わたしは彼の心を頑なにしよう、それで彼はその民を去らせないでしょう」。これは頑迷を、そのため未だ解放されないことを意味していることは以下から明白である、即ち、『頑なにすること』の意義は頑迷であり、『心』の意義は意志であり(2930、3888番を参照)、かくてこれらの言葉により意志から発した頑迷が意味され、従って悪を為す歓喜から発した頑迷が意味されており―なぜなら意志に属したものは歓ばしいものであり、そのことは愛から発しているからである―『民を去らせないこと』の意義は進んで自由にしようとしない頑迷であり、かくて未だ解放されないことである。ここにまた以下の記事に『エホバはパロの心を頑なにされた』と言われている。このことは外観から、また神的なものが凡ゆる物を為されるという普通の考えからそのように言われているのであるが、しかしこれは悪とか怒りとか、狂憤とか、剥奪とか、そういったものがエホバまたは主に帰せられている時と同じように理解されなくてはならないのである(2447、6071、6991、6997番を参照)。
天界と地獄7533
「エホバはパロの心を固くされ」。これは、彼らが心を定めた、を意味していることは、『心が固くなること』、『こわばること』、『酷になること』の意義から明白であり、それは頑迷である(7272、7300、7305番を参照)。『エホバはパロの心を固くされた』と言われていることは、その内意では、エホバではなく、彼ら自身がその心を固くしたことを、すなわち、彼らが決意したことを意味しているのである、なぜなら人間を神的なもの[神]に逆らって固くさせ、または決意させるものは人間の悪であり、悪は人間から発し、地獄から流れ入っていて、天界からは流れ入らないからである。善を除いては何ものも主から天界を通して流れ入ってはおらず、悪は善から発生する筈はなく、まして善そのものからは発生する筈はないのである。悪は悪自身の起原から、即ち、神に対する愛と隣人に対する愛に反したものから発生しており、こうした起原は人間の中に存在して、神の中には全く存在していいないのである。このことから、聖言に『神は悪へ導き入れられる』と言われているとき、そのことは外観に従って言われていることが明白である(しかしそのことについては、前の2447、6991、6997番を参照されたい)。
天界の秘義7632
エホバが「パロの心を頑にされた」(出エジプト記10・1)と言われていることは、内意ではパロが自分自身の心を頑にしたことを意味しているのである。古代では単純な者たちのために、悪はすべてエホバに帰せられたが、これは起こるようになったものがエホバ以外の源泉からいかようにして起こることが出来るかを単純な者は知ることは出来ず、その大半の者は悟ることも出来なかったためであり、またエホバが悪魔の一味が悪を作り出すのを許されることをいかように理解しなくてはならないかを、またエホバは凡ゆる力を持っておられるのに、なぜなそれを許されるかを悟ることも出来なかったためである。単純な者はこれを悟ることは出来ず、理知的な者さえもまたこれを悟ることが出来なかったため、それで多くの者から信じられているように、悪でさえもエホバから発生したと言われたのである。これは聖言では普通のことであって、その文字の意義は単純な者の信仰に従っているのである。(聖言にエホバに帰せられている悪は人間から発していることについては、2447、6071、6991、6997、7533番を参照)。
18.神はアブラハムを試みられた
天界の秘義2768
「神はアブラハムを試みられた」(創世記22・1)。 これは主の最も痛ましいまた最も内なる試練を意味していることは以下の記事から明白である。内意では『アブラハム』により主が表象され、意味され給うていることは、アブラハムを取り扱っている前の記事のすべてから明らかである。主は最も痛ましいまた最も内なる試練を受けられ、そのことが本章の内意に記されていることが明白にされるであろう。しかし『神が試みられた』と言われているのは文字の意義に従っており、文字の意義では試練や他の多くの事柄は神に帰せられてはいるが、しかし以下のことは内意に従っているのである。即ち、神はたれ一人をも試みられはしないのであり、試練の時には可能な限り、遠くへその試練から解放されつつあり、またはその解放に危害が伴わない限り遠くへ解放されつつあるのであって、絶えず善いものを目指されて、その善の中へ試練の中にいる者を導かれつつあるのである、なぜなら神はそれ以外のいかような方法によっても決して試練に加わりはなさらないからであり、かれは許されるとかれについて述べられてはいるものの、それでもそれは人間が許すことについて抱いている考えに従っているものではない、即ち、許されることによりかれは同意されるという考えに従っているものではないのである。人間は許す者はまた欲するとのみしかそれを考えることは出来ないが、しかし試練を生み試練に導き入れさえするものは人間の内に在る悪であって、こうした試練の原因は些かも神の中には存在しないのである。それは人間が悪を行って、そのために刑罰を受ける時、その原因は王または裁判官の中には無いことに似ているのである。なぜなら自分自身を神の秩序の法則から―そのすべては善の法則であり、引いては真理の法則であるが、その法則から―分離する者は自分自身を神の秩序に対立した法則の中へ、即ち、悪と誤謬との法則であり、引いては刑罰と苛責との法則の中へ投げ込んでしまうからである。
19.主は彼を殺された(創世記38・7)
天界の秘義4832
「ユダの長子エルはエホバの目の前に悪かった」。これは彼が悪の誤謬の中にいたことを意味していることは、エルの表象と長子の意義から明白であり、それは信仰の誤謬であり、そのことについては直ぐ前を参照されたい(4830番)。この誤謬は悪の誤謬であったことは前に述べたことから明白である(4818番)、しかしこの息子における悪の誤謬は教会を表象するものさえも彼から生まれるいかような子孫の間でも設立されることが出来ない程の性質のものであった、それで彼は『エホバの目の前に悪かった、で、エホバは彼を死ぬようにされた』と言われているのである。かの民族全体のもとでは、その最初の起原から、特にユダからは、悪の誤謬が、即ち、生命の悪から発した誤った教義が在ったが、しかしそれはユダの息子たちの中ではそれぞれ異なっていたのである。役立つことが出来るものが予見されたのであり、それは長子エルの中に在ったものではなく、二男のオナンの中に在ったものでもなく、ただシェラの中に在ったもののみであったことが予見されたのである。それで最初の二人は破壊されて、最後の者が残されたのである。悪の誤謬はその全民族のもとにその最初の起原からも在ったことはモーセの書に以下の言葉で明らかに記されているのである―
(申命記32・5、19−24、28、32−35を引用・・・ 略)
これらの言葉によりその内意ではかの国民が陥り、またその国民の中に根を張っていた悪の誤謬が記されているのである。
天界の秘義4833
「エホバは彼を死ぬようにされた」。これは教会を表象するものが無かったことを意味していることは、『死ぬこと』の意義から明白であり、それはそのようなものでなくなることであり(494番を参照)、また表象の終りであり(3253、3259、3267番)、それでここでは、直ぐ前に言われたことに従って(4832番)、彼から生まれるいかような子孫の間にも教会を表象するものは在り得なかったことが意味されているのである。
20.イサクはそこから去った
天界の秘義3416
「イサクはそこから去った」。これは主は内的真理から去られたことを意味していることは以下から明白である、すなわち『そこから去ること』の意義は去ることであり、ここでは、内的諸真理がここにとり扱われているため、その真理を去ることであり、イサクの表象は神的な合理的なものの方面の主である。主が内的諸真理を去られることは主はこのような性格の人物にはその真理を開かれはしないことを意味している、なぜなら聖言の至る所に内的真理が存在しているが、知識の記憶知の中にいて、それと同時に生命の中にいないような人物は聖言を読んでいる時もこれらの真理を見ないからであり、そのことは以下の事実から明白である、即ち、信仰を救いの本質的なものとしている者らは主が愛と仁慈とについて極めて頻繁に語られた事柄に注意をしないで、またそれに注意する者でもそのような事柄を信仰の実と呼んでその実をこのようにして仁慈から区別し、否、分離させてしまって、仁慈の性質については知らないのである。かくて聖言の後在的なものは彼らには現れているが、しかし先在的なものは現れはしないのである、即ち、外的なものは現れているが、内的なものは現れていないのである、そして先在的なまたは内的なものであるものを見ることなしに後在的な外的なものを見ることは神的なものを何一つ見ないことである。このことが主が内的真理から去られることにより意味されていることであって、そのことがイサクがそこから去ることにより意味されており、イサクがそこから離れることにより意味されるところの主が内的な諸真理を去り給うことの意味である。主が彼らから去られるのではなくて、彼らが自らを生命に属しているものから遠ざけるため、主から遠ざけるのである。
21.対立
天界の秘義7042
文字の意義からは、『エホバが彼に会われた』と言われているため、エホバまたは神的なものが御自身を対立させられたかのように見えるが、しかし内意はその対立は神的なものに対するものであったということである。なぜなら神的なものは何人にもそれ自身を対立させ給うことはなく、神的なものにそれ自身を対立させるものはその人間、またはその国民であり、それが神的なものに堪えることが出来ないため、それ自身を対立させる時、神的なものが対立されるかのように見えるからである。この間の実情は他生に入って来て、天界へ入ろうと願いはするものの、そこにいることの出来るような者ではない者から認めることが出来るのである。この間の実情は他生に入ってきて、天界へ入ろうと願いはするものの、そこにいることの出来るような者ではない者から認めることが出来るのである。彼らはその欲するものを試みることが許される時、天界に向って進み、その入口に近づく時ですらも、そこに存在している真理と善とに堪えることが出来ないため、自分が自分自身には怪物のように見えて、苦しみ悶え、責め苛まれ初め、天界と神的なものとはそれ自身を彼らに対立させていると信じはするが、そうしたことを彼ら自身にもたらすものこそ彼らなのである、なぜなら彼らは対立したものの中にいるからである。このことからまた神的なものは何人にもそれ自身を対立させ給いはしないが、神的なものに自分自身を対立させるものはその人間であることを認めることが出来よう。
22.拷問
霊界日記1961
主の天界が直接に悪い者を凝視するとき、こうした苛責が生み出されることは驚くべき事実であり、大半の人々には把握されることは出来ないのであり、彼らはそれを背理として認めるのである、すなわち、主が特別に臨在されることが明らかに示されるときは、こうした種類の苦悶と拷問とが続いて起り、モーセが民数記10・35に言っているように、その際主の『敵は散らされ』、『主を憎悪する者らはその御顔の前から逃げるのである』が、それでもその臨在が明らかに示されることによっては、悪は何一つもたらされるのではなくて、善のみがもたらされるのであって、それは極めて豊かな憐れみを抱いているのである。ここから人間はまたは霊自身がその者自身の悪、拷問、死の原因であることが明らかとなるであろう。1748年〔60歳〕5月15日
天界の秘義8573
23・2.顔を背ける
天界の秘義5585[5]
しかしそれに対立していることは『顔を隠すこと』、または『覆い隠すこと』であり、また『顔を背けること』であり、それは慈悲深く現れないことを意味している、例えばイザヤ書に―
わたしは怒りが溢れみなぎって、しばらくの間あなたから顔を隠した、が、永遠の慈悲をもってあなたを憐れもう(イザヤ54・8)。
ここでは『怒りが溢れみなぎること』は試練を意味しており、主は試練の中では慈悲深くあられないように見えるため、『わたしはしばらくの間あなたから顔を隠した』と言われているのである。
天界の秘義5585[6]
怒りが燃えることは離れ去る[そむける]ことを意味し(5034番)、顔を隠すことは慈悲深くあられないことを意味している。これらのことが、エホバ、または主は決して怒られはしないし、また決してその御顔をそむけられはしないものの、エホバまたは主について述べられているが、しかしそのように、悪にいる人間における外観から言われているのである、なぜなら悪にいる人間は自分自身をそむけ、自分自身から主の御顔を隠し、即ち、自分自身から主の慈悲を遠ざけるからである。そのことを為すものは人間の悪であることもまた聖言から認めることができよう、例えばミカ書には―
エホバはそのとき彼らから、彼らがその業を悪くしたに応じて、御顔を隠されるであろう(ミカ3・4)。
エゼキエル書には―
彼らはわたしにそむいて罪を犯したため、それでわたしは彼らから顔を隠した。彼らの不潔に従って、彼らの咎に従って、わたしは彼らに行い、彼らから顔を隠した(エゼキエル39・23、24)。
特にイザヤ書には―
あなたらとあなたらの神とを引き離すものはあなたらの不法である、あなたらの罪が御顔をあなたらから隠している(イザヤ59・2)。
これらの、また多くの記事からその内意は明らかであり、それはここかしこに現れていて、求める者に見出されるのである。
天界の秘義34
「天的な天使たちは、主からその中にいる天的な愛により、その愛から信仰の凡ゆる知識の中におり、殆ど表現を絶するような理知の生命と光の中にいるのである。しかし他方愛が無くて信仰の教義的なものの知識の中にいる霊は諸天界の宮廷の最初の閾(しきい)にさえも近づくことが出来ず、再び逃げ帰ってしまうといった冷ややかな生命と明確でない光の中にいるのである。その中には主の教えに従って生活しないながらも、自分達は主を信じたと告げる者がいるが、主がマタイ伝に以下のように語られたのは、こうした者について言われたのである―
わたしに向って、主よ、主よ、と言う者が、ことごとく天国に入るのではない。わたしの意志を行う者がそこに入るのである。かの日多くの者はわたしに向って、主よ、主よ、私らはあなたの御名を通して予言したではありませんか、と言うであろう(7・21、22から終わりまで)。」
23・4 私は知らない
天界の秘義6806[3]
「『知ること』は連結を意味し、人間は主と連結している限り、主から『知られている』と言われている。主はまた連結していない者らを知られ、否、そうした各々の人間の中の極微な事柄そのものさえも知られているが(ヨハネ2・24,25)、しかしこれらの人間は悪の中にいるため、一種異なった種類の臨在に接しており、それはいわば主はその場におられはしないといったものであり、主はその場におられはしないことはないけれど、悪の中にいるその人間と霊とがその場にいないのであり、その時主は彼らを『知らない』と言われるのである。こうした事情に似たことが天使たちや霊たちの間に現れている、即ち、生命の状態の方面で似ている者たちは互いに他の近くに現れ、かくて相互に他を知り合ってはいるが、しかし生命の状態の方面で似ていない者たちは遠く離れているように互いに相手に見え、同じく相互に他を知りもしていないのである。約言すると、他生では状態が類似していないことによってその場にいないように見え、また知られもしないのである。」
目的
24.人間は外観により教えられないならば、彼は些かも教えを受け入れようとはしない
天界の秘義1838
『アブラムは深い眠りに陥った』。これは教会がそのとき暗闇の中におかれていたことを意味していることは『深い眠り』の意義から明白である。『深い眠り』は目覚めている眠りに関連して言われるときは、暗い状態を意味しており、この状態はアブラムにより表象されている主に帰せられている、主のもとにかつて深い眠りが、または暗黒状態があったというのではなくて、教会のもとにそれがあったというのである。この間の実情は他生のそれと同一であり、そこでは主は常に太陽と光そのものであられるが、しかし主は悪の前には暗黒として現れておられるのである、なぜなら主は各々の人物の状態に順応して現れておられるからである。それでここではそのことが暗黒状態の中におかれているときの教会について言われているのである。
また一例として聖言の多くの記事に主に帰せられている剥奪、刑罰、断罪を考えてみられよ、すなわち、それらは主に帰せられてはいるものの、それらは教会の人間に属しており、教会の人間が自分自身を剥奪し、罰し、罪に定めるのである。人間の前では主が剥奪され、罰しられ、罪に定められるかのように見え、またそのように見えるため、その外観に応じてそのように表現されているのである、なぜならもし人間が外観により教えられないならば、彼は些かも教えを受けようとはしないからである。外観に反しているものは、彼が判断力を持って、仁慈の信仰を与えられている後の期間を除いては、彼は信じないしまたは理解もしないのである。
天界の秘義1838[3]
教会もそうである、即ち、それが暗黒の状態の中にあると、そのときは主はその民の前に不鮮明なものとなり、かくて現れられないのである、即ち、承認されはしないのである。しかし、主は些かも不鮮明なものとなられるのではなくて、その中にまたそのもとに主がおられなくてはならない人間が不鮮明なものとなるのであるが、それでもなおこの不鮮明になることが主について述べられているのである。ここの『深い眠り』も同様であって、それにより教会の暗い状態が意味されているのである。
天界の秘義1861[9]
これらの記事では『火』は欲念を、『煙』は最後のときを遍く支配する誤謬を意味している。これらの事柄はヨハネによりその内的な視覚が開かれたとき、丁度それらのものが他生の中で現れるままに見られたのである。同じようなものがまた霊たちによりまた死後霊魂たちにより見られるのである。ここから地獄の火の何であるかを認めることができよう、すなわち、それは憎悪、復しゅう、残酷、またはそれと同一の、自己愛以外の何物でもないのである、なぜならそうしたものにこうしたものがなるからである。このような性質の人間は、その身体の生命の間では、外側ではいかように見えようとも、もし天使たちにより綿密に点検されるなら、その天使たちの目にはそれ以外のものとしては見えないのである、すなわち、その者の憎悪は火の松明として、そこから派生してくる誤謬は煙の炉として現れるのである。
天界の秘義1861[12]
主の王国のアルカナ[秘義]に通じていない者は主は邪悪な者を地獄の中へまたはそうした火の中へ投げ込まれると考えるが―その火は前に言ったように、憎悪の火であるが―しかし実情は極めて相違している、なぜなら彼自身を投げ下ろすものはその人間自身であり、またはその悪魔的な霊それ自身であるからである。しかしそれがそのように現れているため、それは聖言の中に外観に従って、実に感覚の迷妄に従って表現されているのであって、このことは特にユダヤ人の場合には必要であったのである、なぜなら彼らはいかようなものでもそれが感覚に一致していない限りは、たとえそのためいかほど迷妄[妄想]がそこに入り込んでくるにしても、受け入れようとはしなかったからである。そうした理由から文字の意義は、特に予言者の書の中では、こうしたものに満ちているのである。
天界の秘義1861[14]
モーセの書には―
わたしの怒りにより火が燃えている、それは燃えていと低い地獄にさえも達し、また地とその生産物を焼き尽くし、山々の基を燃やすであろう(申命記32・22)。
ここでは『火』は憎悪を、『煙』は人間の中にある誤謬を意味しており、それらはすでに述べた理由からエホバまたは主に帰せられているのである。地獄の中でもエホバがまたは主がそれを行われるように見えるが、しかし真実は全くその反対である。彼らは憎悪の火の中にいるため、それを彼ら自身に行っているのである。ここから聖言の内意がもし知られないなら、人間はいかに容易に幻想[空想]に陥るかが明らかである。
天界の秘義1861[15]
シナイ山で律法が布告されたとき人々から見られた『煙』と『火』も同様であった。なぜならエホバまたは主はたれにでもその者の性質に応じて現れたもうからである、すなわち天的な天使には太陽として、霊的な天使には月として、善良な者にはすべて色々な歓ばしいまた快い光として現れておられるが、しかし悪い者には煙として焼き尽くす火として現れておられるからである。そしてその律法が布告されたとき、ユダヤ人は仁慈をいささかも持っていないで、自己と世を求める愛に支配され、かくて悪と誤謬以外の何ものにも支配されていなかったため、それで主は彼らには煙と火として現れ給いつつも、同時に天使たちには天界の太陽として現われ給うたのである。
天界の秘義1861[16]
主はユダヤ人には、彼らはそうした性格をもっていたため、そのように現われ給うたことは、モーセの書に明白である―
エホバの栄光はシナイ山に止まった、エホバの栄光は、イスラエルの子孫の目には、山の頂上で焼き尽す火のように見えた(出エジプト記24・16、17)。
天界の秘義1861[17]
たれであれ、その生活を憎悪と憎悪の醜悪なものの中に過ごして、万が一にも主を見まつるならその者にも全く同じようなことが起るであろう、なぜならその者は主をその者の憎悪とその醜悪さからしか見まつることは出来ず、その憎悪と醜悪さが主から発する善と真理との光線を受ける器であってそれがその光線をそうした火と煙と暗闇とに変えてしまうからである。その同じ記事から『煙の炉』の何であるかが、また『松明』の何であるかが明らかである。すなわち、それは最後の時に教会を占めてしまう最も甚だしい誤謬と最も汚れた悪である。
天界の秘義2203
人間的な合理的なものは真理の方面ではその真理の外観の中にあるという理由から、神的なものはいかようなものであるかを理解することができないといった性質をもっており、それでそれが理解することができないものは、それは信じはしないし、またそれは信じないものによっては感動はしないのである。合理的なものがその中に宿っている外観はそれに感動を与える底のものである、なぜなら外観そのものの中には歓喜があり、それでもしそれが外観を奪われるなら、それは歓喜は些かも残されはしないと考えるからであるが、(真理は)それに反して天界的な情愛は外観の中にはなくて、善と真理それ自身の中に在るのである。合理的な真理はこうした性質を持っているため、これは赦されており、外観の中にいて、外観に歓喜を覚えることが許されているのである。主が御自身を神的なものに連結されてしまったとき、外観の中にあったような真理がサラにより表象されており、それで彼女は『戸の辺りに立って』『笑って言った、わたしに年をとってしまった後で楽しみがありましょうか』と言われており、そのことにより、それがその状態を変えるにちがいないことは、それの情愛には属してはいなかったことが意味されているのである。
天界の秘義2209
全般的に合理的なものについては、それが神的なものについて、特にその合理的なもの自身の真理から考えるときは、それはこうしたものがあることを到底信じることは出来ないのであって、そのことはその合理的なものがそのようなものを把握しないためであり、またその合理的なものに、その合理的なものがものを考える手段ともなっているところの、感覚の迷妄[妄想、迷い]から生まれている外観が密着しているためでもあり、そのことは前に引用した例から明白であり(2198番)それに以下のものをつけ加えてさらに説明しよう。
天界の秘義2209 [2]
合理的なものは、以下のことを、もしその合理的なものに諮るなら、信じることが出来ようか、すなわち聖言には内意があり、この内意はすでに示したように文字の意義からは極めて遠ざかっており、それで聖言は天界を地に連結するものであり、即ち、諸天界の主の王国を地上の主の王国に連結するものである(ということを信じることが出来ようか)。霊魂は死後言葉を話さなくても極めて明確に互に他と話しており、しかもそれが人間が一時間も語って表現するものよりもさらに多くのものを一分以内で表現するほどにも豊かなものであり、また天使たちも同じように話し合ってはいるが、しかしそれには更に完全な言葉が、霊たちによっては認められない言葉が用いられていることを合理的なものは信じることが出来ようか、また霊魂はことごとく他生に入ってくると、そのように話すことを何ら教えられはしないものの、そのように話す方法を知っているということを信じることが出来ようか。人間の一つの情愛の中にさえも、否、その一つの溜息の中にさえも、決して表現することも出来ないような、それでも天使たちによっては認識されている無数のものが存在しており、人間の情愛はことごとく、否、その思考の観念はことごとくその人間の映像となっていて、それはその中にその人間の生涯の凡ゆるものが驚嘆すべき方法で含まれているものとなっていることを合理的なものは信じることが出来ようか。巨億の数にのぼるこうしたものは言わずもがなとしよう。
天界の秘義2209 [3]
合理的なものは、それが感覚的なものから賢明になって、その感覚的なものの迷妄に浸透している際には、こうしたものを考えるとき、それがそうしたものであり得ることを信じはしないのである、なぜならそれはそれが内なる感覚かまたは外なる感覚かその何れかによって認めることの出来るようなものによらなくては、それ自身に対してはいかような観念[考え]も形作ることが出来ないからである、それならそれがさらに高い天的な霊的なものについて考えるときは、その場合はいかようなものになるに違いないであろうか。なぜなら思考が(その思考のために)依存していなくてはならないところの感覚的なものから発した何かの外観が常に存在していなくてはならないのであって、この外観が取り去られると、観念は消失してしまうからであり、そのこともまた霊界に入って間もない霊たちから私に明白にされたのである、なぜなら彼らは世から己がもとに携えて来た外観に最大の歓喜を覚えていて、もしこうした外観が仮にも自分たちのもとから取り去られでもするなら、自分たちはものを考えることが出来るか、どうかも疑わしいと言ったからである。こうしたものがそれ自身において観察された際の合理的なものである。
天界の秘義2242
巡視…人間の性質について点検すること
「エホバが降って見られる」(創世記18・21)と書かれているが、エホバは凡ゆるものを全般的にも個別的にも永遠から知られているため、それがそのようになっているか否かを見るということは主については述べられることは出来ない。それにもかかわらずそれがそのように表現されているのは、それがそのようであるかのように人間には見えるからである。外観に順応して書かれていないならたれ一人聖言を理解しないし、承認もしないし、かくてたれ一人それを受け入れはしないのである。
天界の秘義2520[5]
聖言が人間の理解に順応して、また人間の資質に順応して語っているのは人間の合理的なものがこのような性格を持っているためである。それでこのことが聖言の内意がその文字の意義から異なっている理由であり、そのことは旧約聖書の聖言の中では非常に明白であって、そこでは大半の事柄は当時生きていた人々の把握と資質とに順応して書かれてきたのである。そうした理由から死後の生命、救い、内なる人については殆ど何ごとも言われてはいないのである。なぜなら当時その許に教会が存在したユダヤ人とイスラエル人は、もしこれらの事柄が明らかに示されたなら、単にそれらを理解しないのみでなく、さらに愚弄するといった性格を持っていたからである。そしてもしメシアまたはキリストが彼らの霊魂を永遠に救うために来られることが彼らに明らかに示されたにしても、同じことが見られたであろう、すなわちそのことをまた彼らは無意味なこととして斥けてしまったであろう、そのことはまた現今の同じ民族からも明白である、なぜなら内なるものがまたは霊的なものが現在でさえも彼らの眼前に言われて、そのメシアは地上の最大の王にはなられはしないと言われるなら、彼らはそれを愚弄してしまうからである。
天界の秘義3385
なぜなら霊的な者たちは、天的な者たちのようには、認識を持っておらず、比較的明確でない状態の中にいるため(1043、2088、2669、2708、2715、2718、2831、3235、3241、3246番)、何からの事柄がそうであるか否かと、また、それは神的な真理であるが、否かと、調査し、そして彼らはそれがそうであるか、否かについては認識を持っていないため、彼らには真理のように見えるものが与えられ、しかもそれは彼らの合理的なものに順応しており、即ち、彼らの把握に順応しているからである、なぜならこのようにしてそれは受け入れられるからである。人々は真理を、その者がそれを把握するままに信じることを許されており、もしそうでない限り、それは承認されないため、受け入れられはしないであろう。このことが今取り扱われている主題である。
天界の秘義6839
このことは聖言の文字の意義はその内意に関連していかようなものであるかを示しており、また文字の意義の内容は、単純な者から理解されるようにそれ自身を彼らに適応させているといった性質を持っていることを示しているのである。単純な者は単にそれが〔文字の意義が〕現れているように信じるのみであって、現れていないものは信じはしないのである、なぜなら彼らは事柄の内部へ入ることが出来ないからである、それで聖言がその文字の中でそうした性質を持っていなかったなら、それは受け入れられはしなかったであろう。感覚的な物の中にいて、世の事柄に心を奪われている者は決して内的なものを把握はしないのである。彼はその信じなくてはならない物を見ようと欲し、その見ない物は謂わば彼には無縁のものであり、それについて彼自身から考えている時は、それを否定に価した、または兎も角疑って見るに価した事柄として斥けてしまうのである。
25.主がそのように話された理由は、彼らが外なる真理を受け入れ、そのことによって内なる真理へ導き入れられるためであった
天界の秘義3857[7]
もしかれらが『弟子』によりかれら自身が意味されているのではなく、愛と信仰の善の中にいる者の凡てが意味されていることを話されたなら(3354、3488番)、また主の王国には、世におけるように、王座も、主権も、支配もなく、かれらはたった一人の人間の最小の事柄さえも審くことはできないことを話されたなら(2129、2553番)、かれらはその言葉を斥けてしまい、主から去って、各々の者はその者自身の職業に帰ってしまったであろう。主がそのように話された理由は、かれらが外なる真理を受け入れ、そのことによって、内なる真理へ導き入れられるためであったのである、なぜなら主が話されたその外なる真理を受け入れ、そのことによって、内なる真理へ導き入れられるためであったのである、なぜなら主が話されたその外なる真理の中には、内なる真理が隠されていたのであり、それが時の経過につれて明らかになり、それが明らかになると、外なる真理は消散してしまい、内なる真理について考えるためのものまたはその手段としてのみ役立つからである。このことからここに述べられている事柄により―エホバは先ずレアの胎を開かれて、彼女はヤコブに息子たちを生み、後になってラケルが息子たちを生んだということにより意味されていることを今知ることが出来よう。
26.教義は人間の思考と情愛に属している[人間の思考と情愛から生まれている]ような外観を着けなくてはならない
天界の秘義2719
この章の中には主の合理的なものが、神的なものになされたものとしてまず取り扱われ―その合理的なものが『イサク』であるが―次に単に人間的な合理的なものが分離されつつあるものとして取り扱われ―それが『エジプト人ハガルの息子』であるが―その後主の神的な人間的なものにより救われた霊的教会がとり扱われており、その教会が『ハガル』であり、また彼女の『子供』なのである。今やその教会に役立つことが出来る信仰の教義が取り扱われており、すなわち、記憶知から発した人間の理論がそれに接合されたのであり、それが『アビメレク』と『ピコル』である。この連結はアブラハムが彼らと結んだ『契約』により意味されている。これらの理論が外観であって、神的なものから発してはいないで、人間的なものから発しているが、それはそれがなくては霊的な教会は教義を把握しないし、かくてそれを受け入れはしないという理由から接合されるのである。なぜなら前に示したように(2715番)、霊的な教会の人間は比較的明確でない状態の中にあり、それで教義は人間の思考と情愛に属している[人間の思考と情愛から生まれている]ような外観を着けなくてはならないのであって、その外観は神的善がその外観の中に何かの種類の受容体を持つことが出来ないほどにも矛盾したものであってはならないからである。
27.それは彼らの信念と欲念とが破壊されないで、たわめられるためである、容器
天界の秘義1408[2]
主の聖言もまたそうしたものである、その形体的な物は文字の意義に属したものであり、心がこれらの物にとらわれている時は、内なるものは全く見られはしないが、しかしそれでも文字の意義の事柄は、人間が身体の内にいる間はその人間のもとにある事柄に、即ち、知覚される物から入って来る記憶の幾多の知識に類似していて、それらはその内に内的な、または内なる事柄を容れる全般的な容器となっている。このことから容器とその容器の中に容れられている本質的なものとは別種のものであることを知ることが出来よう。その容器は自然的なものであるが、その容器の中に容れられている本質的なものは霊的なものであり、天的なものである。聖言の歴史的なものもそうしたものであり、聖言における表現はことごとく全般的な、自然的な、実に物質的な容器であって、その中に霊的な天的なものが宿っているが、しかしこれらのものは内意によらない限り、決して明らかにされはしないのである。
天界の秘義1408[3]
このことは以下の事実のみからでも各々に明白になるであろう、即ち、聖言における多くの事柄は外観に応じて、実に感覚の迷妄に応じて言われているのである、例えば、主は怒られる、主は罰し、呪い、殺される、その他そういった多くの事柄が言われているが、それでもその内意ではそれらは全く反対のことを意味しているのである。即ち、主は決して怒られはしない、罰しられはしない、ましてや呪ったり、殺したりはされないことを意味しているのである。それでも単純な心から聖言を文字の中で把握しているように信じている者たちには、その者たちが仁慈に生きている限りは、何の危害も加えられはしない。その理由は聖言は人間は各々隣人とともに仁慈の中に生き、主を凡てのものにも勝って愛さなくてはならないということ以外には何ごとも教えはしていないということである。そのことを行う者たちはその者自身の中に内なるものを持っており、それで彼らのもとでは文字の意義から得られた迷妄[妄想]は容易に払いのけられるのである。
天界の秘義1874
私は善良な霊たちと話し合ったさい以下のように言った、即ち、聖言には多くのものが、実にたれも信じることが出来ないほどにも多くのものが外観[現象]に応じて、また感覚の迷妄[妄想]に応じて言われている、例えばエホバは邪悪な者に怒りを、憤りを、狂憤を発しられる、かれは彼らを破滅させ、破壊することに楽しみを感じられる、かれは彼らを殺しさえされると言われているのである。しかしこうした事柄が言われているのは、幾多の信念と欲念とが破壊されないで、たわめられるためである、なぜなら人間が理解しない方法で(即ち、外観、迷妄、信念によらないで)話すことは水の中に種子をまくようなものであったろうし、またすぐにも斥けられることを言うようなものであったであろう。それでもこうした形の言葉はそのうちに霊的なものと天的なものとが入れられることの出来る全般的な容器として役立つことが出来るのである、なぜならその容器の中へすべてのものは主から発しているということが徐々に入れられ、それから主は許されるということが入れられるが、しかし悪は全く悪魔的な霊どもから発しているということが入れられ、後には悪が善に変わるように主は供えられ、処理されるということが、最後には主からは善以外には何ものも発してはいないということが入れられるからである。かくて文字の意義はそれが上昇して、霊的なものとなり、次に天的なものとなり、遂には神的なものになるにつれ、消滅して行くのである。
霊界日記2230
同じように主の聖言の中に非常に多くのものが、たれも信じることが出来ないほどにも多くのものが、人間の感覚の迷妄〔妄想〕に応じて話されている、なぜなら彼らはそうしたものが起り得る、と考えたからである。それでこれらの事柄がそのように話されているのであるが、それは彼らの信念と欲念とが破壊されないで、たわめられるためである、なぜなら人間が把握出来ない方法で話すことは水に種子を蒔くことであって、彼はすぐにもそれを斥け、そのためそれは彼には無意味なものとなるからである、例えば、申命記28章63節のように、主はたれかを激しく怒られる、主は殺そうとされる、主は悪を行われる、主は彼らを砕き、無に帰させて喜ばれる、といった表現は単なる迷妄〔妄想〕であるが、それは彼らがそれが事実である、と信じたためである。こうしたことが起るのは、主が一切の物を支配され、主は一切のものであられることが真であるためであり、それで、彼らは無限なものである他のものを知らなかったため、例えば、普遍的な真理には無限なものが含まれていることを知らなかったため、そうした理由からその極めて全般的な感覚に応じて話されたのである。そうしたものが、身体の生命から他生に入って来て間もない者たちが教えを受ける以前にその者たちと話す善良な霊たちの言葉である。1748年〔60歳〕6月7日
28.悪人を刺激して役立たせる
天界の秘義6481
悪人を刺激して役立たせる。
29.理由1.危害から守るため
真の基督教260
聖言の文字的な意義はその内にある純粋な真理を危害から守るのである。何故なら、読者はその霊的な意義に危害あるいは暴行を加えること無しに、己が理解に応じて聖言を解釈し、説明し得るからである。文字の意義が異なった人々によって異なった風に理解されることは何らの害を与えないが、神的真理に相反している虚偽がもたらされるとき、害が生まれ、これは虚偽を確認した者によってのみ行われる。かくして、聖言は暴行を受けるが、宗教的な虚偽に取り憑かれてはいるものの、これを確認しない者たちからは何らの暴行をも受けない。此処に、その文字的な意義は全き警備者となっている。この警備者はアダムとその妻がエデンの園から追放された後、その入口に置かれたケルビムによって意味されており、また我々は神エホバは「その人を追い出し、エデンの園の東方にケルビムと、自らまわる焔の剣を置いて生命の樹の道を守りたまう」ことを読むのである(創世記3・23,24)。
黙示録講解631
それは子供たちと単純な心をもった者たちのためのものであって、彼らはいかようなことも外観に反しては認めないのである。それゆえこれらの者が年が進むにつれ、その文字の意味により―その中には真理の外観があるが―内的な真理の中に導入され・・・(後略)。
天界の秘義589
これらの、また他の多くの記事から聖言は人間における外観に応じて語られたことが明らかである。それ故聖言がそれに従って語られている外観により誤った原理を確認しようとする者はたれでも無数の記事によりそうしたことを行うことが出来るのである。しかし聖言により誤った原理を確認することと聖言にあることを単純に信じることは相違している。誤った原理を確認する者は先ず何かの原理を取り上げ、そこから些かも後退しようとはしないし、また些かも譲歩しようともしないし、そのことを確認させるものを、出来ることならどこからでも、引いてはまた聖言からさえも、かき集め、積み重ねて、ついには最早真理を認めることが出来ないほどにも強固にそれを確信してしまうのである。
しかし単純に、または単純な心から信じる者は最初から原理を取り上げはしないのであって、主がそのように言われたから、それは真理であると考えるのであり、それを如何ように理解しなくてはならないかを聖言の他の言葉から教えられるならば、彼はそれに同意して、心から喜ぶのである。主は怒られる、罰しられる、悔いられる、悲しまれると、単純に信じ、そのように信じて悪を恐れ、善を行う者は、何の害も受けないのである。なぜならこの信仰は主は凡てを見ておられると彼にまた信じさせるのであり、彼はこのような信仰にいるため、後になって、他生以前でないならば、他生において、信仰の他の事柄を明らかにされるからである。自己を求め、または世を求める汚れた愛に応じて、自分が既に取り上げてしまっている原理から派生した何らかの事柄を信じるように自分自身に説きつける者らの場合は非常に異なっている。
天界の秘義926
「エホバはその心の中で言われた」。これはそれがそうのように重ねて起こりはしないことを意味していることは以下の記事から明白である。エホバについて彼が『言われる』と言われているときは、彼が言われることはそのように存在する、またはそのように起る、またはそのように存在はしない、またはそのように起りはしないということ以外のことは何一つ意味されはしないのである、なぜならエホバについては彼は存在したもうと言うこと以外のことは何一つ言われることは出来ないからである。聖言の色々な所にエホバについて述べられていることは何であれ、そのことごとくは、人間の中に在る物によらなくては何物も理解することの出来ない者のためにそのように表現されているのであって、それ故文字の意義はそうした性質を持っているのである。心の単純な者は人間における外観から教えられることが出来よう、なぜなら彼らは感覚の事物から引き出される知識から先には殆ど進まないのであって、それで聖言の言語は彼らの理解に適応しているからである。例えば『エホバはその心に言われた』と言われているここのように(聖言はその理解に適応しているのである)。
天界の秘義7632
エホバが「パロの心を頑にされた」と言われていることは、内意ではパロが自分自身の心を頑にしたことを意味しているのである。
古代では単純な者たちのために、悪はすべてエホバに帰せられたが、これは起こるようになったものがエホバ以外の源泉からいかようにして起こることが出来るかを単純な者は知ることは出来ず、その大半の者は悟ることも出来なかったためであり、またエホバが悪魔の一味が悪を作り出すのを許されることをいかように理解しなくてはならないかを、またエホバは凡ゆる力を持っておられるのに、なぜなそれを許されるかを悟ることも出来なかったためである。単純な者はこれを悟ることは出来ず、理知的な者さえもまたこれを悟ることが出来なかったため、それで多くの者から信じられているように、悪でさえもエホバから発生したと言われたのである。これは聖言では普通のことであって、その文字の意義は単純な者の信仰に従っているのである。
2447,6071,6991,6997,7533
31.理由3.思考が依存していなくてはならないところの感覚的なものから発した何かの外観が常に存在していなくてはならない、この外観が取り去られると、観念は消失してしまうから
天界の秘義2209[3]
合理的なものは、それが感覚的なものから賢明になって、その感覚的なものの迷妄に浸透している際には、こうしたものを考えるとき、それがそうしたもので有り得ることを信じはしないのである。なぜならそれはそれが内なる感覚かまたは外なる感覚かその何れかによって認めることの出来るようなものによらなくては、それ自身に対してはいかような観念[考え]も形作ることが出来ないからである。それならそれがさらに高い天的な霊的なものについて考えるときは、その場合はいかようなものになるに違いないであろうか。なぜなら思考が(その思考のために)依存していなくてはならないところの感覚的なものから発した何かの外観が常に存在していなくてはならないのであって、この外観が取り去られると、観念は消失してしまうからであり、そのこともまた霊界に入って間もない霊たちから私に明白にされたのである。
32.聖い恐れ
天界の秘義6071[5]
同じく以下の真理を導入されたい、即ち、神礼拝は凡て、神は善い者に報い、悪い者を罰しられるという思いのこもった聖い恐れから必ず始まらなくてはならない。単純な者と小さな子供たちは、また許しとは何であるかを悟らないため―実に『むしろ地獄で身体も霊魂も滅ぼすことの出来る者を恐れよ』(マタイ10・28)という主の御言葉に従って、そのことを信じなくてはならないのである。そして彼らが恐れを通して敢えて悪を為さないことにより(信仰生活を)始める時、徐々に善と共に愛が導入され、かくて彼らは善以外には何ものも神から発しないし、悪は彼ら自身から発していることを知り、認め、最後には悪は凡て地獄から発していることを知り、認め始めるのである。
天界の秘義6997
聖言にそのように言われているのは(エホバの怒り)、彼らが神を恐れることを知って、彼ら自身が行う悪により滅びないためであり、後になって神を愛するためである。なぜなら愛の中に聖い恐れが存在するためには、恐れが愛に先行しなくてはならないからである。なぜなら恐れが愛の中に注がれると、それは愛の聖いものから聖いものとなって、その時はそれは主が怒られ、罰せられるのを恐れる恐れではなくなり、自分たちが善そのものに反したことを行いはしないかとの恐れとなるからである。それはそのことが良心を苦しめるためである。人間はその感覚的なものから見、また把握するものは信じるが、その感覚的なものから見ないし、また把握もしないものは信じないし、かくて受け入れはしないといったものであるという理由によっている。
弊害
33.外観・・・誤謬を確認するもの
天界の秘義4768
神的諸真理を否定して誤謬を確認することは聖言の文字の意義から理論により提示される幾多の外観により行われる。聖言の文字の意義から発した解釈より誤謬を確認するものはことごとく外観である。
黙示録講解719
その中の大半のものは真理の外観となっており、それらのものが同時に霊的な理解からすなわち明るくされた理解から認められない限り、それらは誤謬となるのである。
天界の秘義9025
前に言ったように、記憶の、または全般的な真理は聖言の文字の意義から発している真理である。そしてこれは外観に従って変化し、いわばそれ自身を否認しているため、時には必然的に教会の教義に属している霊的な真理を無力なものとしないわけにはいかないのである。この真理は相互に矛盾している聖言の記事から疑惑が心にきざすとき無力にされるのである。
34.外観的な真理を否定してはならない
天界の秘義9033
霊的な真理を、即ち、教会の信仰の教義の真理を無力にしてしまうことが前の二つの節に取り扱われたが、それに続いている二つの節では、取り扱われている主題は聖言の文字の意義の真理である記憶の真理を無力なものにすることである。この真理は実際前の真理のように見えるが、それでもそれに似てはいないのである、それでそのことを明らかにするために以下の例を考えられたい。主は慈悲そのものであられるため、たれ一人をも罰しられはしないことは霊的な真理であり、または教会の信仰の教義の純粋な真理であり、それで主はその行われることをすべて慈悲から行われて、決して怒りから、また復讐からは行われはしないのであるが、それでも主はマタイ伝で(以下のように)言われているのである―
身体を殺すことの出来る者らは恐れてはならない、むしろ身体と魂とをゲヘナで滅ぼすことの出来る方を恐れなさい(マタイ10・28)。
ここには神について、神は『身体と魂をゲヘナで滅ぼすことが出来る』ため、『これを恐れなくてはならない』と言われている。が、それでそれは消滅されてはならないのであり、即ち、否定してはならないのである、なぜならもしそれが否定されるなら、聖言に対する信仰は死滅してしまい、もしそれが死滅するなら、人間は霊的に生きることは出来ないからである、なぜなら人間は聖言から信仰を通して霊的な生命を得るからである。
天界の秘義9033〔2〕
この間の実情は以下の如くである。善はそれ自身の中にその報いを得、かくて天界を得ることは神的な秩序〔神の秩序〕の法則であり、悪がそれ自身の中にその刑罰を得、かくて地獄を得ることはそのことから起っているのである。前の法則は、主は凡ての者に善を欲しておられるため、主から発しているが、しかし後の法則は、主は何人にも悪を欲しておられないため、主から発してはいないのである。それでもそのことが行われているが、しかしそれは主から行われているのではなくて、悪の中にいるその人間から行われているのであり、従って地獄から行われているのである。それでもそのことは聖言の文字の意義では主に帰せられていることは、それがそのように見えるためである。それで、それは外観的な真理であるため、それを否定してはならないのであり、即ち、消滅させてはならないのである、なぜならそのことによって聖言に対する信仰は消滅してしまうからであり、そうした信仰は単純な者たちのために存在しているのである(2447、6071、6991、6997、7533、7632、7643、7679、7710、7877、7926、8197、8227、8228、8282、8483、8631、8632、9010番)。
35.これらの観念を確認して、神は怒り、憤り、復讐を、またそのような悪しきものを感じ給うと信じ、怒り、憤り、復讐から人間を罰し、地獄に投じ給うと信ずるならば、罪に定められる
真の基督教256
然し、これは例を用いて説明することが出来よう。聖言の多くの記事に怒り、憤り、復讐が神に帰せられ、神は罰し、地獄に投じ、誘惑し、その他そのような事柄をなし給うと言われている。これを子供のような単純さを以って信じて、神を恐れ、神に向かって罪を犯さないようにと心を配る者は何人も罪に定められない。しかしこれらの観念を確認して、神は怒り、憤り、復讐を、またそのような悪しきものを感じ給うと信じ、怒り、憤り、復讐から人間を罰し、地獄に投じ給うと信ずるならば、罪に定められるのである。何故なら、彼は神は愛そのもの、慈悲そのもの、善良そのものである故に、怒り、憤り、あるいは復讐することが出来ないという純粋な真理を破壊しているからである。聖言にこのようなものが神に帰せられているのは、それらは真理の外観であるからである。