ユダヤ民族
神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた(ヨハネ12・40)/
1.ユダヤ民族
2.ユダヤ民族の起源
3.ユダヤ民族がエホバを信じた理由
4.偶像崇拝者
5.その国民の中に表象的な教会が設立された理由
6.選ばれたのではない
7.追放
8.貪欲
9.本来の意味は「主を承認し、愛する者たち」
10.霊界のユダヤ人
11.聖言が閉じられている
12.その民族には教会のものは何一つ存在しなかった
13.彼らを拘束する内的なものは何一つない
14.彼ら各々はその者自身の神を拝した
15.赦さない
16.社会に属しているものを凡て破壊しようと企てることがその民族の中に内在している
17.残酷
18.凡ゆる国民の中でも最悪のもの
19.彼らは世々に忌み嫌われる
20.現今のキリスト教徒はユダヤ人よりも悪い
21.私は、あなたがたを愛するのと同じくらい、彼らを愛している
22.内なる諸真理がヤコブの子孫であるイスラエル民族とユダヤ人とに明らかにされなかった理由
23.凡ゆる予言者たちは救い主の降臨を予言したけれども、ユダヤ人は彼を認めることを拒絶した理由
24.宝石商
25.ユダヤ人の内部の状態は基督教を受け入れることは決定的な不可能にさえ達している
26.内部と外部が一致していない(白く塗った墓)
27.ユダヤ人は自分たちは死後も生きることを知りさえもせず
28.内なるものの無い外なるものの中にいる者らは明るくされることは出来ない
29.その国民の礼拝は不潔なものであった
30.だれもその律法を守らない
31.ただ一人の神がおられ、その神以外には一人も神は存在しないと彼らは実際口では言ったものの、心では信じはしなかった
32.彼らの中で天界にいる者は僅かしかいない
33.イスラエル民族が諸民族を滅ぼすことを許された理由
34.カナンの地から放逐された理由
35.彼らに生贄が許されたのは彼らにその息子と娘とを生贄として捧げさせないため
36.異教の神々に従い
37.霊界日記
38.選民意識
39.形体的
40.他生を信じない
41.マナを『くだらないパン』と呼んだ
42.彼らは他の民族にもまさって自己と世を求める愛の中にいた
43.ヤコブの子孫は再生により遺伝悪が根絶されることを許そうとしなかった
44.サンダー・シング
創世記8・21
人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。
エレミヤ32・30
その初めから、イスラエルの人々とユダの人々は、わが前に悪のみを行ってきた。
ヨハネ12・6
彼がこう言ったのは貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながらその中味をごまかしていたからであった。
黙示録3・9
見よ、サタンの集いに属して、自分はユダヤ人であると言う者たちには、こうしよう。実は、彼らはユダヤ人ではなく、偽っているのだ。見よ、彼らがあなたの足もとに来てひれ伏すようにし、わたしがあなたを愛していることを彼らに知らせよう。
1.ユダヤ民族
天界の秘義310
洪水以後の人々やまた現今の人々のように、天的な種を持たないで、単に霊的な種のみを持っている者は異なっている。これらの者の中には愛は無く、従って善の意志も無いが、しかしなお信仰の可能性が在り、または真理の理解が在り、これにより彼らはある程度の仁慈へ連れてこられることが出来るが、しかしそれは異なった方法によっているのである、即ち、真理とそこから派生する善に関わる諸々の知識に根底づけられた良心を主から徐々に注ぎ込まれることによって行われるのである。それ故彼らの状態は洪水以前の人々のそれとは全く異なっており、その状態については主の神的慈悲の下に後に述べよう。これらは現在の時代の人々は全然知られていないアルカナである、なぜなら現今では何人も天的な人の何であるかを知らないし、また霊的な人の何であるかさえも知っておらず、ましてやそこから生まれてくる人間の心と生命の特質の何であるかを、またそこから生まれてくる死後の状態のいかようなものであるかを知ってはいないからである。
天界の秘義680
諸善と諸真理とは人間の真実な食物であることは各人に明白であるに相違ない、なぜならそれらを欠いた者は生命がなくて、死んでいるからである。人間は死んでしまうと、その者の霊魂を養う食物は悪から発した歓喜と誤謬から発した愉悦であり―これは死の食物であり―また身体的な、世的な、自然的なものから発したものであって、その中にもまた何ら生命はないのである。更に、こうした人間は霊的な天的な食物とは何であるかを知っていないため、聖言に「食物」または「パン」が記されている時は常に身体の食物が意味されていると考えるのである。例えば主の祈りの「日毎のパンを私たちに与えてください」という言葉は単に身体を支えるもののみを意味していると考えており、その考えを推し進める者はそれはまた衣服、財産等といった身体の必要な物を含んでいると言っている。彼らはそれ以外の何らかの食物が意味されていることを鋭く否定さえしているが、それでもその前後の言葉は単に天的な霊的なもののみを意味しており、主の王国が語られていることを明白に見ているのであって、更に彼らは主の聖言は天的な霊的なものであることを知ろうと思えば知ることも出来るのである。
天界の秘義680[2]
こうした、また他のそれに類似した例から現今の人間は如何に形体的なものであり、ユダヤ人のように、聖言に言われている事柄を最も粗雑な物質的な意義で考える気質を持っているかが、充分に明白であるに相違ない。主御自身聖言に『食物』と『パン』の意義を教えられているのである。『食物』については主はヨハネ伝に以下のように話されている―
イエスは言われた。朽ちる糧(または食物)のために労苦してはならない。永遠の生命にまでもいたる糧のために労苦しなさい。それを人の子があなたたちに与えよう(6・27)。
そして『パン』についても主は同章に言われている―
あなたらの父祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。これは天から降ってくるパンである。人間はそれを食べて死ぬことがないためである。わたしは天から降った生きたパンである。もし人がこのパンを食べるなら、彼は永遠に生きるであろう(6・49−51,58)。
天界の秘義788
『ノア』は古代教会そのものではなく、前に言ったように、その教会の両親、または種子のようなものであった。『ノア』は『セム、ハム、ヤペテ』とともになって古代教会を構成し、それが最古代教会のすぐ後に続いたのである。『ノア』と呼ばれた教会の人間はことごとく最古代教会の子孫であって、それで、遺伝悪については、死滅したその子孫の他の者らの状態と殆ど同じ状態にいたのであり、こうした状態にいた者は、遺伝によりこのような特質を受けなかった者のようには再生し、霊的なものにされることは出来なかったのである。彼らの遺伝的な性質のいかようなものであったかは、前に述べられたところである(310番)。
天界の秘義788[2]
例えば(その事が更に明らかに理解されるために)ユダヤ人のように、ヤコブの子孫に属した者らは異邦人が再生することが出来る程には良く再生することは出来ないのである、なぜなら彼らは幼少の頃から吸収し、後になって確認した原理からのみでなく、また遺伝的な性向[気質]からも、信仰に対し先天的な[内在的な]反感[対立]を持っているからである。これもまた遺伝的な性向から内在していることは、彼らが他の人々とは異なった資質を持ち、異なった作法を持ち、また異なった容貌を持ち、それにより他の者から区別され、こうした特徴を遺伝から持っていることから或る程度明らかとなるであろう。内的な性質も同様である、なぜなら作法と容貌は内部の象徴であるからである。それ故回心したユダヤ人は他の者にもまして真理と誤謬の間を動揺している。『ノア』と呼ばれた古代教会の最初の人々も最古代教会の種族と子孫とに属していたため、同様であった。これらがここに、また以下の記事に記されている動揺である、すなわちノアは農夫であり、ぶどう畠を作り、ぶどう酒を飲み、酔って、裸になって天幕の中に臥していたのである(9・20、21)。彼らが僅かしかいなかったことは、かの教会の人間が霊たちの世界で、間取りの小さな部屋の中に、白い着物を着た、丈の高いほっそりとした人間として表象されたという事実から明らかにされたのである。しかも信仰の教義的な事柄を己が間に維持し、持っていたものは彼らであったのである。
天界の秘義3147[10]
ユダヤ人とイスラエル人とは内なる人については何ら考えなかったし、またそれについて何ごとかを知ろうと欲しもしなかったのであり、かくて死後の生命にかかわる天的な事柄と霊的な事柄については全く些かも考えず、また知ろうとも欲しない底のものであった。しかしそれでも天界との、引いては主との交流がことごとく死滅しないように、彼らは内なるものを意味している外なる祭儀に縛り付けられたのである。彼らの捕囚と災いとは全般的に、外なる祭儀が表象のために厳格に守られるようにとの目的のためのものであった。
天界の秘義4314
内なる歴史的意義では、「彼はそのもものためにびっこを引いた」により、諸善と諸真理とがその子孫のもとでは全く破壊されてしまったことが意味されていることは以下から明白である、すなわち、ここでは『彼』であるヤコブの表象は彼の子孫であり(4218番を参照)、『もものためにびっこを引くこと』の意義は何ら善の中におらず、従って真理の中にも何らいない者たちを意味しているのである(4302番)。それでここでは彼が『そのもものためにびっこを引いた』ことにより諸善と諸真理とがかの子孫のもとでは全く破壊されたことが意味されているのである。
天界の秘義4314[2]
かの民族の性質はまた主御自身により譬話の中で語られた多くの事柄から明白であり、その譬えはその内なる歴史的な意義ではその民族について言われたのである、例えば他人には何の慈悲も示さなかった僕と清算をした王である人間の譬(マタイ18・23−35)、家の主人がそのぶどう園を農夫に貸し、外国へ行ったが、その農夫らは彼から送られた僕たちを捕らえ、或る者を棒で打ち、或る者を殺し、また或る者を石で打った、遂に彼はその息子を送ったが、これを彼らはぶどう園の外へ追い出して殺してしまったという譬、この譬を聞くと学者とパリサイ人とはそれが彼ら自身について言われているものとして認めたのである(マタイ21・33−45、マルコ12・1−9、ルカ20・9−19)、或る人がその僕たちにタラントを与えたが、一タラントを受けた者は行って、それを地面に隠したという譬(マタイ25.14−30、ルカ19・13−16)、強盗に傷つけられた者のもとへ来た者たちの譬(ルカ10・30−37)、大きな晩餐会に招待された者が言い訳をしたところ、その者らについて、主は招かれた人々の中ではたれ一人わたしの晩餐を味わいはしないとわたしはあなた方に言うと言われている、という譬(ルカ14・16−24)、富んだ人間とラザロとの譬(ルカ16・19−31)、自分に較べて他の者を軽蔑する者の譬(ルカ18・10−14)、二人の息子の中で一人が私はぶどう園へ行くと言いはしたが、行きはしなかった、それでイエスは『まことにわたしはあなた方に言う、取税人と娼婦たちはあなた方の前に神の国に入る』と言われたという譬を参照されたい(マタイ21・28−32)。
天界の秘義4314[3]
その民族の性質を主はマタイ23・13−39に公然と宣べられたのであり、そこで主は『あなた方は自分が予言者たちを殺した者の息子であることを自分自身に向って証している、あなた方はあなた方の父祖たちの升を満たしている』と言われているのである(23・13−33)。マルコ伝には、『イエスは彼らに言われた、イザヤはあなた方について正当にも予言した、この民はその唇でわたしを尊ぶが、しかしその心はわたしから遠く離れている、彼らは徒にわたしを拝し、人間の教えを教義として教え、神の誡命を棄て去っている』(マルコ7・6−13)。ヨハネ伝には、ユダヤ人はイエスに自分たちは、アブラハムの裔であると答えたが、しかしイエスは彼らに言われた、『あなた方はあなた方の父である悪魔の裔であり、あなた方の父の欲することを為そうとしている、彼は始めから人殺しであり、真理がその中にないので、真理に立たなかった、彼は嘘を言う時は、自分自身から語るのである、彼は嘘を語り、嘘の父であるからである』(ヨハネ8・30、44)。彼らはこのようなものであったため、また『悪い、不義を行う〔姦淫を行う〕代の者』(マタイ12・39)、『蝮の裔』(マタイ3・7、23・33、ルカ3・7)と呼ばれている―『ああ、蝮の裔よ、おまえらは、悪い者であるからには、どうして善いことを言うことが出来ようか(マタイ12・34)。
天界の秘義4314[4]
自然的な善さえ全くその民族のもとには残されていなかったことは、マタイ伝に語られているいちぢくの木により意味されているのである―
イエスは道にいちぢくの木を見られ、そのもとへ来られたが、その上にはただ葉のみを除いては何一つ見られはしなかった、それでかれはそれに言われた、今から後は永久に果実がおまえにならないように。するとたちまちそのいちぢくの木は枯れてしまった(マタイ21・19)。
いちぢくの木が自然的な善を意味していることは前に見ることが出来よう(217番)。
天界の秘義4314[5]
これの記事から諸善と諸真理とはかの民族のもとでは全く破壊されたことを認めることが出来よう。諸善と諸真理とはそれらのものが内的に全く存在しない時、破壊されたと言われるのである。外的に現れている諸善と諸真理とは内なるものである諸善と諸真理からその存在と生命とを取得しており、それで外なるものは人間の目にはいかように見えようとも、それは内なるもののあるがままのものとなっているのである。私がその身体の生命の中で知っていた幾人かの者がいるが、彼らはその時は主に対し、国に対し、共通の善に対し、公正と公平とに対し熱意を持っているものとして見えたのであるが、それでも他生ではこれらの者は奈落の者たちの間におり、(驚いたことには)、そこの最悪の者の間にいるのである。その理由は、彼らの内部は醜悪で、汚れており、彼らは名誉を得、また富を獲得するために、世評をおもんぱかってかの熱意を装っていたのであり、それは彼ら自身のためであって、彼らがその口で表明したもののためではなかったということであったのである。それゆえこれらの外なるものが脱ぎ捨てられると―それは人間が死ぬ時起るのであるが―内なるものは赤裸々にされて、それが内部にあったままに現れるのである、彼らはそれを生きていた間は世から隠していたのである。これが諸善と諸真理とが全く破壊されることにより意味されている事柄である。
天界の秘義4316
内なる歴史的意義では、「今日までも」により、彼らは永久にそのようなものであることが意味されていることは、『今日までも』の意義から明白であり、それはそれが聖言に記されている所では、永久に、を意味しているのである(2838番を参照)。この子孫はその最初期の時代からもそのようなものであったことは、ヤコブの息子たち自身から認めることが出来よう、即ちルベンは『その父の妾のビルハと共に臥したのであり』(創世記35・22)、シメオンとレビとはハモルとシケムとその都の人間をことごとく殺し、その息子たちの中で他の者らは刺された者を襲って、その都を掠奪したのである(創世記34・1−31)。それで、その時はイスラエルと呼ばれたヤコブは、その死ぬ前に、彼らについて以下のように語ったのである、即ち、ルベンについては、『あなたは優れてはならない、あなたは父の寝床に上り、かくてあなた自身を無価値なものとしたからである、彼は私のふしどに上った』(創世記49・3、4)、シメオンとレビについては、『彼らの秘密に私の魂を入り込ませるな、彼らの集いに私の栄えを結ばせるな、彼らは怒りの余りに人を殺し、意図を定めて雄牛の足の筋を切ったからである。呪われよ、その怒りは。それは激しかったからである、呪われよ、その憤りは。それは凄まじかったからである、私は彼らをヤコブの間に分け、イスラエルの間に散らしてしまおう』(創世記49・5−7)。
天界の秘義4316〔2〕
ユダの性質もまた以下の事実から認めることが出来よう、即ち、彼は彼の妾としてカナンの女を娶ったのであるが(創世記38・1、2)、にも拘らずそのことは命じられていたことに反していたのである、そのことはアブラハムがその息子のイサクにレベカを娶るために、遣わした僕に言ったその言葉から認めることが出来るのであり(創世記24・3、6)、また聖言の他の多くの記事からも認められることが出来るのである。その民族の三分の一はこの血統から、即ち、カナンの女である母から生れた彼の息子のシェラから発したのである(創世記38・11、46・12、民数記26・20を参照、歴代誌上4・21、22)。更にそのことはヤコブのこれらの息子と他の息子たちがヨセフに対し行った悪辣な行為からも認めることが出来よう(創世記37・18−36)。エジプトにおける彼らの子孫の特質は、彼らが荒野にいた時彼らについて認められていることから明らかであり―そこでは彼らは再三叛いたのである―後にはカナンの地にいた時彼らについて語られていることからも明らかであり、そこでは彼らは、再三偶像崇拝者になったのである。最後に、主の時代における彼らの特質は直ぐ前に示したところである(4314番を参照)、現今彼らはいかようなものであるかは知られており、即ち、彼らは主に、教会の事柄に、隣人に対する仁慈に対立しており、また相互に対立しているのである。この凡てからこの民族は絶えずこうした性質を持っていたことを認めることが出来よう。それでたれ一人最早、彼らの間には何らかの教会が存在した、または教会を表象するもの以上のものが存在したという意見を抱かれはしないように、ましてや彼らは他の民族にも勝って選ばれたのであるという意見は抱かれはしないように。
天界の秘義4750[5]
自己愛の悪は、一般に考えられているように、誇りと呼ばれているかの外なる高慢ではなくて、隣人に対する憎悪であり、そこから復讐に対する燃えるような欲望であり、残酷における歓喜である。これが自己愛の内部である。その外部は自己に比較して他の者を軽蔑することであり、また霊的な善の中にいる者たちに対する嫌悪であり、これには時として明白に高慢または誇りが伴うこともあるが、伴わないこともある、なぜなら隣人をこのように憎悪する者は、自分自身を除いては、また自分自身と一つのものとなっているものと見倣している者たちを除いては内的には誰一人も愛していないのであり、かくて彼は彼自身の中に彼らを、また彼らの中に彼自身を、ただ自己のみを求めて、愛しているからである。
天界の秘義4750[6]
ユダによりその対立した意義において表象されている者らの性質はこのようなものである。ユダヤ民族は最初からでさえもこのような愛の中にいたのである、なぜなら彼らは全世界の凡ての者を最も卑しい奴隷として見なし、また自分自身に較べては無価値な者として見なし、また彼らを憎み、あまつさえ、自己と世を求める愛から相互に連結しない時は、自分の交友と兄弟たちさえも同じ憎悪をもって迫害したからである。こうした気質は依然としてその民族のもとに残っているのである、しかし彼らは今は外国の土地で黙認の下にお情けで住んでいるため、それを隠しているのである。
天界の秘義4865[2]
ユダヤ民族は教会の内なるものを単に誤謬以外のものとしては認めなかったのであり、現今でもそのようにしか認めていないことが、ユダがその義理の娘のタマルを娼婦としてしか認めないで、彼自身を娼婦に連結させるものとして連結させたことにより意味されていることである。この民族は教会の内なるものを娼婦として、または誤謬として認めていることは非常に明白である。例えば、もしたれかが彼らに、メシアは―その来られることが聖言の予言的な部分に予言されており、それで彼らはメシアを期待しているのであるが―主であられることが教会の内なるものであると告げるなら、彼らはそれを誤謬として全く斥けてしまうのである。もしたれかが彼らに、メシアの王国は世的な、時間的なものではなくて、天界的な、永遠のものであることが教会の内なるものであると告げるなら、彼らはそのことをもまた誤ったものであると宣告するのである。もしたれかが彼らに、彼らの教会の祭儀はメシアとその天国とを表象していると告げるなら、彼らはそのことが意味していることを知らないのである。
天界の秘義4865[3]
もしたれかが彼らに教会の内なるものとは仁慈の善であり、教義における、また同時に生命における信仰の真理であると告げるなら、彼らはそれを誤ったもの以外のものとしては認めないのである。他の凡ての場合でも同じである。否、教会には内なるものがあると単にほのめかすのみで彼らは愚物のように笑うのである。その理由は彼らは全く外なるものの中に、実に外なるものの最低のものの中に、即ち、地的な物に対する愛の中にいるということである。なぜなら彼らは他の凡ゆる人間にもまさって、全く地的なものであるところの貪欲の中にいるからである。このような人間は教会の内的なものをそれ以外のものとしては決して認めることが出来ないのである、なぜなら彼らは他の人類以上に天界の光からは遠ざかっており、かくて他の凡ての者にもまさって暗闇の中に置かれているからである。
天界の秘義6692〔3〕
それで教会の表象的なものと表意的なものとが更に魔法に変化しないように、そのもとで教会の表象的なものと表意的なものとが回復されることの出来るイスラエル民族が取られたのであり、その民族は全く外なるものの中にいて、内なるものを何ら信じないし、ましてや霊的なものは何ら信じていなかったため、そこからは〔教会の表象的なものと表意的なものからは〕魔法的なものは何一つ作ることが出来ないといった性質を持っていたのである。こうした性格の民族の下では、エジプト人のもとに存在したような魔術は起る筈は無いのである。
天界の秘義9259
しかしその中に含まれている事柄のためにそれらは主要な掟の中に入れられているのである、なぜならその中には異邦人もまた愛して、これに信仰の諸真理を教え、生活の面で匡正しなくてはならないという命令が含まれているからである。しかし問題のその律法のこうした内なる内容はイスラエルとユダヤ民族の前には明らかにされることは出来なかったのである、なぜならこれらの者は内なるものを欠いた外なるものの中にいたからであり、また彼らの兄弟でない者は凡て、即ち、ヤコブから生まれはしなかった者は凡て憎まなくてはならない、それで敵としてみなさなくてはならないことをその父祖から受け継いでいたからである。(ユダヤ人とその性格については、4307、4314、4316、4317、4429、4433、4444、4825、4903、6304、8588、8788、8806、8871番を参照)。
天界の秘義10396
彼らは選ばれたのではなくて、彼らが言い張ったために受け入れられたのである。
4290,4293,7051、7439
彼らのもとでは内部は閉じられている。
彼らは内なるものは何一つ承認せず、自分らが目で見、手で触れる物のみが存在しており、目で見ないし、手で触れない他の物は凡て全く存在はしないと言うのである。従って彼らは天界の、死後の生命の存在を全く信じはしない。
天界の秘義10548
かの民族のもとには聖言の外なるものは全く異なったものとして現れ、従って異なったように解釈されている。そのことは彼らは聖言の中に主に対する信と主に対する愛とについては何ごとも認めてはおらず、実に主についても何一つ認めはしていないという事実から認めることが出来よう。彼らの認める事柄は専ら世と地の事柄にのみ関わっており、特に他の者よりも彼ら自身が卓越することのみに関わっているのである。
黙示録講解391(4)
ユダヤとイスラエルの分離
彼らが分離したとき、イスラエル王国は善から分離した信仰を意味した。
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3・P343
すべての本能を自制しなさい。節制は道徳的力の証拠であり、邪欲は弱さの証しです。獣でなく人間でありなさい。獣のように堕落していたとしても、もう立ち直れないとがっかりすることはありません。私は神のみことばです。この御名で神に信仰を持ち、善意を持ち、過去を痛悔し、未来に正しい望みを持っていれば、ヘブライ人であろうと、異邦人であろうと神の子となり、天の国を所有します。
2.ユダヤ民族の起源
天界の秘義4818[2]
ここでは先ず少しくユダの種族の起原について言わなくてはならない、なぜならかれらは本章に記されているからである。この種族、またはユダヤ民族には三つの起原があるのであり、すなわち、一つはユダがそのカナン人の妻により生んだ息子のシェラであり、他の一つはペレズであり、第三はゼラであり、ユダがその義理の娘タマルにより生んだ息子たちである。
ユダヤ民族はすべてユダのこの三人の息子から発した。このことはかの民族の起源はいかようなものであったかを示している。即ち彼らの三分の一はカナン人の母から出ており、彼らの三分の二は義理の娘から出ており、従って凡ての者は正当でない関係から生まれていることを示している。なぜならカナン人の娘たちとの結婚は厳しく禁じられており、義理の娘[嫁]と臥すことはモーセの書に明らかなように重罪であったからである。彼らの内部はこのような性質のものであり、このような起源を意味している。即ちユダがカナンの人間と結婚したことは悪の誤謬から来ている悪から発した起源を意味している。彼がその義理の娘と臥したことは悪から発した誤謬化された真理から発した堕地獄の状態を意味し、表象しているのである。
霊界日記5067
また多くの者は、教会の教義を何ら顧慮しないで、ただ聖言の文字の意義のみを顧慮し、その文字の意義を、何であれ、その欲する見解に歪曲し、またその欲する悪を支持するように歪曲しているのである。身体の生命の中で、業に功績をおいた者らは、天界からその者らのもとへ仁慈の善が流れ入るとき、その流入を法律上の娘〔嫁〕との醜悪な姦淫へ変化させてしまうのである。こうしたことがその嫁との姦淫により意味されており、ユダヤ人らはそうした性格のものであったため、それで彼らの起原は嫁との姦淫から起っているのである。
3.ユダヤ民族がエホバを信じた理由
天界の秘義4692
彼らが異邦人の神々よりもエホバ神を選んだのは、エホバ神は奇跡を為すことができたからであって(4299)、エホバが聖言における「主」であられ(2921,3035)、彼らの祭儀のすべてのものが表象しているものはかれの神的な人間的なものであることを知らなかったのである。
天界の秘義4847
かの民族は異邦人にもまさって多くの神々がいることを、しかしエホバはさらに偉大な奇跡を為すことが出来るため、彼らよりは偉大であると信じていたのであり、それで聖言の歴史的な予言的な部分から非常に明白であるように奇跡が止むとすぐさま、また奇跡が再三行われて珍しくもなくなったため、それは殆ど尊重されなくなってしまった時、すぐにも他の神々に向かったのである。
天界の秘義4847[2]
その国民はそのような性質を持っていたため、古代人の間に存在していたような表象的な教会は彼らのもとには設立されることは出来ないで、ただ教会の表象的なもののみが設立されることが出来たのであり、そのことによって天界との多少の交流が行われるように主により配慮されたのであった。なぜなら表象的なものであるものは人物を問題とはしないで、事物を問題としているため、それは悪い者のもとにも在り得るからである。このことから、表象的なものはその中に聖い神的なものを含んではいるけれど、彼らに関係している限り、彼らの礼拝は単に偶像崇拝的なものであったことが明らかである(4825番)。
天界の秘義4847[3]
その民族は、内なるものをそれがいかほど啓示されたにしても、受け入れて承認することは出来ないことは、彼らの現在の状態から極めて明らかである、なぜなら彼らは基督教徒の間に生きているため、内なるものを今は知っているのに、依然それを斥けまたそれを嘲笑しているからである。改宗している者でもその大半は心ではそれと同じことをやっているのである。かくて霊的なものと天的なものを表象する教会はその民族のもとにはなく、ただ教会の表象的なもののみが、即ち、それ自身では偶像崇拝であるところの、内なるものを欠いた外なるもののみがそのもとにあったことが明白である。
天界の秘義4868[6]
さらに、もし彼らが、基督教会は彼らのもとに設立された教会とは一つのものではあるが、しかしそれは内なるものであるに反して、彼らのものは外なるものであり、それで彼らのもとに設立されている教会がその外なるものを剥ぎ取られて、露わにされるなら、基督教会が現れてくると告げられるなら、彼らはこの真理を娼婦以外のものとしては、即ち、誤謬以外のものとしては認めないのである。にも拘らず、彼らの中幾人かの者はユダヤ教から基督教に改宗して、自らをこの真理に連結させはするが、それもまた同じ欲念から為すのである。このような事柄は聖言でしばしば淫行と呼ばれている。しかしながら聖言にバビロンにより意味されている者については、これらの者も教会の内なる真理を同じように認めているが、しかし彼らは内なるものを熟知しており、またそれを子供時代には承認はするが、成人期には否定してしまうため、彼らは聖言では醜悪な姦淫、忌まわしい交接により記されているのである、なぜならそれらは冒涜であるからである。
天界の秘義6877
「彼らは私に言います。その名は何ですか」。これは主の御性質を意味していることは、『名』の意義が性質であることから明白である(1754、1896、2009、2628、2724、3006、6674番を参照)。モーセのこの質問からヤコブの子孫の性質が現れているのである。即ち、彼らは『エホバ』の名を忘れたのみでなく、その中の一人が他の者よりは更に偉大である無数の神々を承認したのであり、そこから彼らはその名を知ろうとしたのであり、また神の名を承認することのみで充分であると信じもしたのである。ヤコブの子孫がこのようなものであったのは彼らは単に内なるものの無い外なるものの中にのみいたためであり、内なるものを持たない者らはその内部を明るくする光を全く天界から受けることが出来ないため、神についてはそれ以外のことを考えることは出来ないのである。それで彼らにエホバを承認させるために、彼らの父祖の神、即ち、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が見られ、その神が遣わされたと彼らに言われたのであり、かくして彼らはその父祖たちに対する盲目的な尊崇の念からエホバを承認するように仕向けられたのであり、それは内なる認識から些かも発しはしなかったのである。その民にはまたエホバを単に名前の方面でのみ拝することで充分であったのである、なぜなら彼らは教会の外なるもの以外には何一つ受けることは出来ず、かくて教会の内なるものを表象しているに過ぎないもの以外には何一つ受けることは出来なかったからである。外なるものがまた彼らの間に制定されたのは、それによって表象されているものの内なる形が天界で示され、かくして依然天界が多少なりと人間と連結されるためであったのである。
4.偶像崇拝者
金の子牛
出エジプト記32・7−10
主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたが、エジプトの国から導き登上った民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、生け贄を捧げて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実に頑なな民である。今は、わたしを引きとめるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」
ペトロ1・4・3−4
かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。
天界の秘義1094
「彼はその兄弟に対し僕の中の僕とならなくてはならない」。これは境界の中の最も卑賤なものを意味していることは、内なる礼拝から分離した際の外なる礼拝の性質から明白である。外なる礼拝はそれ自身において観察されるなら、それはそれを聖いものにする内なる礼拝が存在しない限り、無意味なものであることはたれにでも明白であるに違いない。なぜなら外なる礼拝は、心の崇拝を持たないなら、身振りでなくて何であろうか、あるいは唇の祈りは、もし心がその中に無いならば、単なるしゃべりでなくて何であろう。そして業も、その中に意図が無いならば、無でなくて何であろうか。それで外なる物は凡てそれ自身では生命の無いものであり、ひとえに内なるものから生きているのである。
天界の秘義1094[2]
内なる礼拝から分離した際の外なる礼拝の性質は他生における多くの事柄から私に明らかにされたのである。そこの妖婦らは世では他の者と同じように教会に足繁く出入りし、礼典にも列なった者であり、人を欺いた輩(やから)もそうした者であり、事実これらの者は他の者以上にそうした者だったのであり、同じく強盗を喜んだ者らも、貪欲な者らもまたそうした者であったが、しかも彼らは奈落の輩であり、主と隣人とに対し最大の憎悪を抱いているのである。彼らの外なる礼拝における内なる礼拝は彼らが世から認められたいためであるか、その欲する世的な、地的な、形体的な物を獲得するためのものか、聖い仮面[外観]の下に欺くためのものか、またはある身につけた習慣から発しているものか、その何れかであったのである。こうした人物は自分と自分の欲望を甘やかしてくれる神なら、または偶像であるなら、何であれそれを崇拝する傾向を非常に持っていることは、特にユダヤ人から極めて明白であり、彼らはその礼拝を外なるもの以外の何物からも成立させていない結果、再三偶像崇拝に陥ったのである。その理由はこうした礼拝はそれ自身では単に偶像崇拝に過ぎないということである。なぜなら外的なものが、彼らにより礼拝されるものであるからである。
天界の秘義1094[3]
バールと他の神を拝したカナンの地の異邦人もまた殆ど同じ外なる礼拝を持っていたのである。なぜなら彼らは神殿と祭壇を持っていたのみでなく、生贄もまた捧げ、かくて彼らの外なる礼拝は彼らがその神にバール、アシタロテ、その他の名を与え、ユダヤ人はその神にエホバの名を与えたということを除いては、ユダヤ人の礼拝とは殆ど相違していなかったからである。ユダヤ人は現今でもまたその神にエホバの名を与えているのである。なぜなら彼らは単にエホバの名を口にするのみで自分らは聖い、選ばれたものになると想像しているからであるが、事実はそのことがむしろ彼らを他の者以上に罪に定めるようになっているのである。なぜならそのことにより彼らは聖いものを冒涜することが出来たのであるが、異邦人はそうしたことは行うことが出来ないからである。こうした礼拝が『僕の中の僕』であると言われている『カナン』と呼ばれるものである。『僕の中の僕』は教会の中の最も卑賤なものを意味していることは以下の節に見ることが出来よう。
天界の秘義4208
ここに『アブラハムの神、ナホルの神、彼らの父の神』(即ち、テラの神)またはヤコブの父、『イサクの畏(かしこ)む者』と呼ばれている理由はテラの息子たちはこの数の神々を承認したということである、なぜなら彼らは偶像崇拝者であったからである(1353,1356,1992,3667番)。そしてかの家では各々の家族がその家族自身の神を拝したということが特性となっていたのである。このことがここに『アブラハムの神、ナホルの神、彼らの父の神、イサクの畏む者』と言われている理由である。にも拘らずアブラハムの家族にはエホバを彼らの神として承認することが命じられはしたものの、それでも彼らはエホバを他の一人の神としてのみ、即ち、その神によって彼らは彼ら自身を異邦人たちから区別することが出来るそうした神としてのみ承認したのであり、かくて彼らはエホバを単にその名前についてのみ承認したのであり、彼らが、聖言の歴史的な部分から認めることが出来るように、再三他の神々に移ったのはこうしたことの結果であったのである。彼らの教会の祭儀そのものが、それが関連している限りでは、単に偶像崇拝に過ぎなかったのである、なぜならそれらは内なるものから分離していたからである、なぜなら教会の祭儀はことごとく、それが内なるものから分離すると、偶像崇拝となるからである。それにも拘らず教会の純粋なものはそれらのものにより表象されることが出来たのである、なぜなら表象する物は人柄を顧慮しないで、事柄を顧慮するからである(665、1097、1361、3147番)。それでも表象的な教会が存在するようになって主が天界を通して人間と多少なりと交流されるためには、彼らが例え心の中ではなくても、それでも口でエホバを絶えず承認しなくてはならないことが特に必要であったのである、なぜなら彼らのもとでは表象的なものは内なるものから発しないで、外なるものから発し、そのようにして彼らは主と交流したからであり、それはその交流が内なるものにより行われる純粋な教会の場合とは全く異なっていたのである。そうした理由から彼らの神礼拝は彼らの霊魂には些かも影響を与えはしなかったのであり、即ち、彼らを他生において祝福されたものとはしないで、単にこの世においてのみ栄えるものとしたのである。
天界の秘義4208 [4]
それで彼らはこれらの外なる物の中に保たれるために、極めて多くの奇蹟が彼らの間に行われたのであり、それらの奇蹟はもし彼らが内なるものの中にいたなら、決して起こりはしなかったのであり、そうした理由から彼らは幾度も刑罰と捕囚と威嚇とによりその礼拝へ駆り立てられたのであるが、それに反し誰一人主によっては内なる礼拝へ駆り立てられはしないのであり。それは自由を通して植えつけられるのである(1937、1947、2874−2881、3145、3146、3158、4031番)。彼らの主要な外なるものは彼らがエホバを告白しなければならないということであった。なぜならエホバは主であられ、主はその教会の凡ゆる物の中に表象されたもうたからである。(エホバは主であられたことは前の1343、1736、2911、3035番に見ることが出来よう)。
天界の秘義4311[4]
ヤコブの血統を引いたその民族はこうした性格を持っていたことは(即ち、彼らは悪霊に包囲されてはいたものの、それでも主は彼らのもとに表象的に臨在されていたことは)、聖言の多くの記事から認めることが出来よう、なぜなら彼らは心からエホバを拝するどころか、奇蹟がなくなるとすぐさま他の神々に向いて、偶像崇拝者となったからである。このことは、心では彼らは他の神々を拝して、エホバをただ口先のみで告白したに過ぎないのであり、それも単に彼らが最大の者になって、周囲の凡ゆる民族からも遥かに卓越しようという理由からに過ぎなかったことを明らかに証明したのであった。この民族は心ではエジプトの偶像を拝して、単にエホバをその奇蹟のために口先で告白したに過ぎなかったことは(アロン自身もその中の一人であったのであるが)、アロンが彼らのために作った金の子牛から極めて明らかであり、しかもそれは彼らがエジプトで見た奇蹟の他に、シナイ山でかくも偉大な奇蹟を見てからわずか一ヵ月後のことであったのである(出エジプト記32章を参照)。アロンもまたそれと同じ性格を持っていたことは2節から5節に、ときに35節に明らかに述べられている。そのことはまたモーセの書の、士師記の、サムエル書の、列王記の他の多くの記事からも明らかである。
天界の秘義7051〔3〕
その民族は心では偶像崇拝者であったことを示しているその民族の歴史を考えもしないし、また予言者たちがその民族について、その霊的な淫行と憎むべき業について言っていることを考えもしないのである。この性質はモーセの書の「歌」の中に以下の言葉で記されているのである―
(以下略)
天界の秘義8871〔3〕
天と地の何らかの物に似たものを作ることがかくも厳しく禁じられた理由は、主としてヤコブから出たその民族は外なるものを拝することに非常に心が傾きがちであったという理由からであった。その原因は彼らは主に対する信仰と愛とに属し、また隣人に対する仁慈に属しているところの、教会の内なる事柄については何ごとも知ろうとは欲しなかったということであった。それでもし彼らが(色々な)物に似たものを作ることを許されたとするなら、その時はそれらの物に身をかがめて、それらを神々として拝しもしたであろう。このことは彼らがかくも多くの奇蹟の真っ只中においてさえも彼ら自身のために作った金の子牛から非常に明白であり、また彼らが神礼拝から偶像崇拝へと再三離反し去ったことからも明白である。にも拘らず内意にはこうした物は意味されてはいないで、前に示したことが意味されているのである。
「彼らのために金の神々を作りました」。これは、そして彼らは奈落の歓喜を礼拝している、を意味していることは以下から明白である、即ち、『彼らのために神々を作ること』の意義は礼拝であり、『金』の意義は外なる愛の歓喜である(前の10402番を参照されたい)。聖言には四種類の偶像が、即ち、石と木と銀と金の偶像が記されている。石の偶像は教義の誤謬から発した礼拝を意味し、木の偶像は教義に悪から発した礼拝を意味し、銀の偶像は教義のみでなく、生命[生活]における誤謬の礼拝を意味し、金の偶像は教義のみでなく生命[生活]における悪の礼拝を意味しているのである。従って金の偶像は凡ゆるものの中でも最悪の礼拝を意味したのである。こうした礼拝の中にいた者らは真理を誤謬化したのみでなく、善を不善化したのである、なぜなら悪を彼らは善と呼び、そこから派生している誤謬を真理と呼んだからである。自己を愛しつつも聖言を信じる者は凡てこうした礼拝を捧げている、なぜなら彼らは聖言の文字の意義を、その考え、また行う凡ゆる事柄に有利に、引いては自己を拝する礼拝に有利に応用[適用]するからである。
天界の秘義10511
「彼らは子牛を作ったためである」。これは、奈落の愛から発した礼拝のために、を意味していることは『子牛』の意義から明白であり、それは自己への愛の歓喜であり(前の10407番を参照)、従って『子牛を作ること』はこの愛の歓喜から発した礼拝を意味し、またはそれと同一のことではあるが、この愛から発した歓喜を意味しているのである。この愛は奈落の愛であることは再三示したところである。『子牛を作ること』により礼拝が意味されていることは、『それを作ること』は本章の4、5、6節に子牛を崇め、礼拝することについて言われている事柄を凡て含んでいるためである。
天界の秘義10566
神を奇蹟のゆえにのみ拝する者は神の名を拝するのみで、神を拝するのではなく、自分の欲望を得ないときは常に離れ去ってしまうのである。イスラエル国民はエホバの名のみ拝し、3732、4299、6866
彼らは心では偶像崇拝者であった。4208,4281、4820、5998、6877、7401、8301、8882
天界の秘義10570
かの国民は他の者よりも卓越することをその目標としてそのために聖い外なるものの中にいることが出来るといった性質を持っていたため、またこうした民のもとには礼拝の外なるものであるところの天的なものと霊的なものとを表象しているものが天使たちと交流する[連る]ことが出来、そのことにより天界と交流することが出来るため、そのためにかの国民は受け入れられたのである。
しかし彼らはそのことにより神を拝する者であったと信じる者は非常に誤まっているのである。なぜなら彼らは自己と世とを拝した者であり心では偶像崇拝者であったからである。彼らはこうした性格のものであったため、主に対する信仰と愛とに属した礼拝の内的なものは彼らに啓示されはしなかったのであり、そのことは旧約聖書から明らかであり、また彼らは主が世に来られたとき、主を承認しなかったという事実からも、否、今も尚主を承認してはおらず、例え主について予言的な言葉から教えられるにしても、それを受け入れはしないという事実からも明らかである。彼らは彼らを全世界の凡ての者にもまさって引き上げてくれるメシアを望んでいて、その王国が天界に存在し、従って地上の凡ての者の救いのためにまた配慮されるメシアを望んではいないのである。
天界の秘義10603
エルサレムにのみ神礼拝が行われ、そうした理由からその都が聖いものとして考えられ、また歴史的な聖言にも予言の聖言にも聖いものとして呼ばれたこともまたかの国民のためであったのである。その理由はかの国民は心では偶像崇拝者であり、それで彼らは各々の祝祭にかの都へ共に来なかった限り、各々の者はことごとくその者自身の場所で異邦人らの神をたれか、または彫刻し、鋳造したということであった。またその国民のために古代人とは異なって、山の上で、また杜の中で聖い礼拝を捧げることが禁じられたが、そのことは彼らにそこに偶像を置いて、木そのものを拝させないように行われたのである。
一夫多妻制も古代では知られなかったが、かの国民のために許された。同じく色々な原因で妻を離別することも許された。それでこの外なるものは主によりモーセから与えられたものとして、彼らの心のつれなさのために与えられたものとして主から話されているのである。(マタイ19・8)
天界の秘義3479
主が来られる前に生きたユダヤ人もそれ以後に生きた者も同じく、その教会の祭儀については神礼拝はひとえに外なる物の中にのみ在るとしか考えておらず、それでこれらのものが表象し、意味したことを些かも顧みなかったのである。なぜなら彼らは礼拝と聖言の中には内なる物が在ることを、かくて死後に生命が在ることを知らず、また知ろうともしなかったち、従って天界の在ることも知らず、また知ろうともしなかったからである。なぜなら彼らは全く感覚的なものであり、形体的なものであったからである。そして彼らは内なる物から分離した外なる物の中にいたからには、これらの外なる物については彼らの礼拝は偶像崇拝にすぎず、それで彼らは如何ような神であれ、そうした神が自分たちを栄えさせてくれることが出来ると説きつけられさえすれば、それを進んで礼拝したのである。
天界の秘義3479[2]
しかしかの国民は聖い外なるものの中にいることが出来、かくて主の王国の天界的な物を表象する聖い祭儀を守ることが出来、アブラハム、イサク、ヤコブ、またモーセ、アロンに、後にはダビデに聖い尊崇の念を抱くことが出来―この凡ての者により主が表象されたのであるが―特にその中の一切のものは神的なものを表象し、意味している聖言に対し聖い尊崇の念を持つことが出来るといった性質を持っていたため、それでその国民の中に表象的な教会が設立されたのである。しかしながらもしその国民が内なるものを承認する程にもそれを知ったなら、彼らはそれを冒涜し、そのことによって、聖い外なるものにいる時はそれと同時に汚れた内なるものの中におり、かくて彼らを通して表象的な物は天界とは何ら交渉することは出来なかったであろう、そうした理由から、主は彼らの霊魂を救い給うために、内的なものは彼らに明らかにされなかったのであり、主がその中におられることすらも明らかにされなかったのである。
天界の秘義3479[3]
ユダの種族は他の種族以上にこうした性格を持っており、現今でも丁度古のように、エルサレムの外で守られることが出来る祭儀を聖いものと考えているからには、そして彼らはその父祖に聖い尊崇の念を持っているからには、特に旧約聖書の聖言を聖いものとして認めているからには、また基督教徒は殆どこの聖言を斥け、同じように汚れた物を以ってその内なる物を冒涜してしまうことが予見されたからには、マタイ伝24章34節の主の御言葉に従って、かの国民はこれまで保たれてきたのである。もし基督教徒が内なるものを知らされて、また内なる人として生きたならば、事態は異なったであろう、その場合にはその国民は、他の諸国民のように、数代前に絶たれてしまったであろう。
天界の秘義3479[4]
しかし、かの国民の実情は以下のようである、即ち、その聖い外なるものは、または礼拝の聖いものも彼らの内なるものを些かも動かしはしないのである、それはその内なるものは自己への卑しい愛によりまた世への不潔な愛により、また内なるものから分離した外なる物を拝する偶像崇拝により汚れているからであり、かくて彼らは、相互愛に生きて、自分に比較して他の者を軽蔑しない僅少な者を除いては、己が中に何一つ天界のものを持っていないため、彼らもまた天界の何物をも他生へ携えて行くことは出来ないのである。
天界の秘義3480
かの国民における不潔なものすらも、聖言の内部がまたはその霊的なものと天的なものとがそれにも拘らず天界に示される妨げとはならなかったこともまた示されたのである、なぜなら不潔なものは認められないほどにも遠ざけられ、悪は善に向けられ、かくて単に外なるものは面として役立ち、かくして聖言の内なるものはいかようなものにも妨害されないで天使たちの前に示されたからである。このことから、いかようにして内的には偶像を崇拝しているかの民族が聖い物を表象し、主御自身をすら表象することができたかが、かくていかようにして主が彼らの不潔の中にすら住まわれることができたかが(レビ16・16)、従っていかようにして教会のような物がそこに在り得たかが明らかにされたのである、なぜならたんに表象的な教会は教会に類似したものではあるが、教会ではないからである。
天界の秘義3480[2]
基督教徒にあってはこうしたことはありえない、それは彼らは礼拝の内的な物を熟知してはいるが、それを信じはしないし、かくて彼らの内なるものから分離した聖い外なるものの中には在りえないためである。更に信仰の生命の中にいる者たちにおいては、
彼らに属している善により交流が行われるが、その間悪と誤謬とは遠ざけられているのであり、聖言の凡ゆるものは、彼らにより読まれているときは、天使たちの前に開かれているのであって、しかもそのことは(多くの経験から私に示されたように)たとえそれを読んでいる者がその意味に注意していないにしても行われるということは注目すべき事実である、なぜなら彼らの中の内なるものが―それはそのようには認められていないが―面として役立っているからである。
天界の秘義4231[3]
「これらの事がすべて成就されるまではこの代[世代]は過ぎ去りはしないでしょう」(マタイ24)
ユダヤ民族は他の民族のように絶滅されはしない(3479)。
かの民族は聖言のために保たれたためである。
天界の秘義4311
そうした理由から彼らは祭儀の中に厳しく留められ、外なる手段によりそこへ駆り立てられたのである。(3147,4281)そうした理由から彼らは今日までもその生存を守られてきたのである。(3479)
主の聖言39(仁慈の教義P136)
聖言が失われないように、ユダヤ民族が、そのもとに旧約聖書がその原語で存在しているため、依然生き残って、地球の多くを通して散らばって住むように、主から配慮されているのである。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P417
キリスト降誕前から、預言者たちはキリストの到来をヘブライ人に知らしめていた。ユダヤ人が国々に散ったとき、彼らもまた、救世主が来るという知らせを世界に広めた。国々は自国に救世主が来ることを語り継いできたために、どの民族もキリストの到来を待ち続けていたのである。それから、キリスト昇天ののちに、全世界に散ったキリスト信者たちが、救世主はすでに来ていること、彼を通して救いがあることを説いて回り、弟子たちの努力と犠牲によって、救いの便りが世界の津々浦々にまで伝えられるに至った。
6.選ばれたのではない
天界の秘義3769[2]
聖言が閉じられていることにより意味されていることはとくにユダヤ人から認めることができよう、かれらは一切の物を文字に従って説明し、そこから、自分たちは地の面に凡ゆる国民にも優先して選ばれたものであり、メシアは来られて自分たちをカナンの地へ連れて行き、地の凡ゆる国民と民の上に高めるであろうと信じているのである、なぜならかれらは地的な形体的な愛の中に惑溺してしまっており、そうした愛は聖言をその内的な物の方面で全く閉じてしまうといったものであるからである。それでかれらは未だ天国が在るか否かを、自分たちは死後も生きるか否かを、内なる人とは何であるかを知ってはおらず、霊的なものが在ることさえも知っておらず、ましてやメシアは魂を救うために来られたことを知ってはいないのである。聖言が彼らに閉じられていることは、彼らが、イザヤ書の以下の言葉に応じて、基督教徒の間に生きてはいるものの、その教義的なものを些かも受け入れはしないという事実からもまた充分に明白となるであろう―
この民に言いなさい、あなたたちは聞いて聞きなさい、が、悟ってはならない、見て、見なさい、が、認めてはならない。この民の心を鈍くし、耳を重くし、目をめくらにしなさい。で、わたしは言った、主よ、いつまででしょうか。かれは言われた、町々が住む者もなく、家々が人もなく荒れ、土地は荒れてもの淋しい所となるまで(イザヤ6・9−11、マタイ13・14、15、ヨハネ12・40,41)。
天界の秘義4290[2]
ヤコブの子孫は選ばれたのではなく、彼らは教会が彼らの間に存在するように主張したのであるということは、聖言の多くの記事から、その内なる歴史的な意義から認めることができ、また明らかに以下の記事の中に認めることが出来よう―
エホバはモーセに言われた、あなたとあなたがエジプトの地からのぼらせた人々は、ここから上って、わたしがアブラハムに、イサクに、ヤコブに誓って、あなたの裔にわたしはそれを与えようと言った地へ入りなさい、が、わたしはあなたの中にいて上ることはしない。あなたはうなじの頑な民であり、わたしは道であなたを滅ぼし尽くすのを恐れるからである。その民はこの悪い言葉を聞くと、嘆いて、各々自分の上からその飾りの物を取り去った。モーセは天幕を取り、それを自ら宿営の外に、遠く宿営から隔たった辺りに張った。モーセはエホバに言った。見て下さい、あなたは私にこの民を上らせなさいと言われます、が、あなたはたれを私と共に遣わされるかを私に知らせられません。それで今願わくはもし私があなたの目に恵みを得ていますなら、願わくはあなたの道を私に知らせて下さい。さすれば私はあなたについて、私があなたの目に恵みを得ていることを知ることが出来ましょう。また見て下さい、この国民はあなたの民です。それでかれは言われた、わたしがあなたに休息を与えるまで、わたしの顔は行くでしょう(出エジプト記33章)。
ここにはモーセはその民をエジプトの地から上らせたと言われ、次に彼らはその飾りの物を身体から取り去って、嘆いた、モーセは陣営の外にそのテントを張った、そのことによりエホバは同意されたと言われており、かくて彼ら自身が主張したことが明らかに示されているのである。
天界の秘義4290[3]
同書には―
エホバはモーセに言われた、この民は、わたしがその真中で行った凡ゆるしるしにも拘らず、いつまでわたしを怒らせようというのか、またいつまでわたしを信じようとしないのか。わたしは彼らを疫病をもって打ち、彼らを絶滅させ、あなたから彼らよりも偉大な、力ある国民を作りましょう。しかしモーセは嘆願した、それでエホバは懇願されて、言われた、わたしはあなたの言葉に従って恵みを施しましょう、それでもわたしは生きており、全地はエホバの栄光に満ちるであろう、なぜならわたしの栄光を見、またわたしがエジプトで、また荒野で行ったしるしを見ながらも、わたしを十度も試みて、わたしの声に従わなかったその人々の凡てについては、彼らはわたしが彼らの父祖に誓った地を必ず見ないであろう、またわたしを怒らせた者も一人としてそれを見ないであろう。あなたたちの身体はこの荒野の中に倒れるであろう、が、あなたたちの小さな子供たちをわたしは連れて入るであろう(民数記14章)。
これらの言葉からもまた、エホバは彼らを絶滅し、従って彼らの間に教会を建てはしないと望まれたが、しかし彼らが言い張ったため、それでそのことが行なわれたことが明らかであり、その他また数度にわたり、エホバは再三反逆したその民族を徹底的に亡ぼそうと望まれたが、その度毎に彼らの嘆願によって懇請されるままになられたのである。
天界の秘義4290[4]
それと同じようなことがまたバラムがかの民を呪うことを許されなかったことに含まれており(民数記22、23、24)、また他の所にも、即ち、エホバはその民を連れて入れられたことを悔いられた、またエホバは懇請された、またエホバは幾度も彼らと新しい契約をされたと言われているところに含まれているのである。こうした事柄が『私はあなたを、あなたが私を祝福されない限り、放しません』という言葉によりその内なる歴史的な意義の中に意味されているのである。そのことがまたヤコブがエソウから出生の権を取り去ったことにより、また彼が欺いて彼から祝福を取り去ったことによっても意味されているのである(創世記25、27)。
天界の秘義4293
内なる歴史的な意義では、「君としてあなたは神と人とに争って、勝ったからである」により、『神』の意義と『人』の意義とが真理と善であることから明白であるように(4287番を参照)、彼らの幻想との中に在った強情さのために、が意味されている。この同じ言葉はここでは対立した意義を持っているのである、なぜならこの意義ではその言葉はヤコブの子孫について言われており、彼らの間には(前に示したように)内的には真理と善とはなくて、誤謬と悪とが在ったからである。誤謬は幻想のものであるため、幻想であり、悪は欲念のものであるため、欲念である。
天界の秘義4293[2]
この民族は表象的なものになることを主張したことは、即ち、彼らが全世界の凡ゆる民族にもまさって教会でなくてはならないと主張したことは前に見ることが出来よう(4290番)。このことがまた彼らの幻想と欲念との中に在った強情[しぶとさ、頑迷]のために許されたことがここに意味されているのである。彼らの幻想と欲念との性質は他生で彼らと多少とも交わったことのない者はたれ一人知ることは出来ないのであり、それで、私はそのことを知るために、そのことが私に許されたのであり、それで私はそこで彼らと時折語ったのである。彼らは他の凡ての者にもまさって自分自身を愛しており、また世の富を愛しており、他の凡ての者にもまさってこの名誉が失われることを、また利得が失われることを恐れているのであり、それで、昔のように、今日でもまた、彼らは自分自身に較べて他の者を凡て軽蔑しており、同じように自分自身のためにこの上もない烈しい勤勉さで自ら富を求めており、更に小心である。この民族は古代からこうした性格を持っていたため、彼らは他の者にもまさって内なる聖いものを何ら持たない聖い外なるものの中に留められることが出来、かくて外なる形の中に教会の事柄を表象することが出来たのである。こうした強情[しぶとさ、頑迷]を生んだものはこうした幻想と欲念である。
天界の秘義4293[3]
そのことはまた聖言の歴史的なものの中に彼らについて述べられている多くの事柄から現れている。彼らは罰せられた後では他のいかような人々も示すことが出来ないような卑下を示すことが出来たのである。なぜなら彼らはまる数日も地面に平伏し、塵の中にころがりまわって、三日目までは起き上がりもしないことが出来、頭に灰または塵をまき散らして、幾日も大声で泣いて、麻布を、引き裂いた着物を着ていることが出来、数日間も続いて断食し、その間激しく泣き悲しむことが出来たからである。しかしこうしたことを彼らは全く身体的な地的な愛から、卓越と世の富とを失う恐れから行ったのである、なぜなら彼らを感動させたものは何ら内なるものではなかったからである。それは彼らが死後に生命が在り、永遠の救いがあるといった、内なるものとは何であるかを些かも知らなかったし、また知ろうとさえもしなかったためである。
天界の秘義4293[4]
このことから以下のことが明白である、即ち、彼らはこのような性質を持っているため、必然的に聖い内なるものをことごとく奪われなくてはならないのである、なぜなら聖い内なるものはこのような聖い外なるものとは決して一致しないからである、それはその二つのものは互いに他に対しては全く相反しているからである、また彼らは他の者にもまさって教会を表象するものとして役立つことが出来たのであり、かくてこの民族により天界と多少交流することが可能となることが出来たのである(4288番)。
天界の秘義4316〔2〕
ユダの性質もまた以下の事実から認めることが出来よう、即ち、彼は彼の妾としてカナンの女を娶ったのであるが(創世記38・1、2)、にも拘らずそのことは命じられていたことに反していたのである、そのことはアブラハムがその息子のイサクにレベカを娶るために、遣わした僕に言ったその言葉から認めることが出来るのであり(創世記24・3、6)、また聖言の他の多くの記事からも認められることが出来るのである。その民族の三分の一はこの血統から、即ち、カナンの女である母から生れた彼の息子のシェラから発したのである(創世記38・11、46・12、民数記26・20を参照、歴代誌上4・21、22)。更にそのことはヤコブのこれらの息子と他の息子たちがヨセフに対し行った悪辣な行為からも認めることが出来よう(創世記37・18−36)。エジプトにおける彼らの子孫の特質は、彼らが荒野にいた時彼らについて認められていることから明らかであり―そこでは彼らは再三叛いたのである―後にはカナンの地にいた時彼らについて語られていることからも明らかであり、そこでは彼らは、再三偶像崇拝者になったのである。最後に、主の時代における彼らの特質は直ぐ前に示したところである(4314番を参照)、現今彼らはいかようなものであるかは知られており、即ち、彼らは主に、教会の事柄に、隣人に対する仁慈に対立しており、また相互に対立しているのである。この凡てからこの民族は絶えずこうした性質を持っていたことを認めることが出来よう。それでたれ一人最早、彼らの間には何らかの教会が存在した、または教会を表象するもの以上のものが存在したという意見を抱かれはしないように、ましてや彼らは他の民族にも勝って選ばれたのであるという意見は抱かれはしないように。
聖言の内意を何ら知っていない者らは、イスラエルとユダヤ国民は他の凡ゆる国民にも優って選ばれ、それで彼らは他の凡ての者にも優って卓越したものであるとしか信じることは出来ないのであり、そのことはまたその民族自身が信じているところである。そして言うも驚くべきことには、このことはその民族自身によって信じられているのみでなく、基督教徒からも、以下の事実に拘らず信じられているのである、即ち、その民族は汚れた愛に、飽くことのない貪欲に、憎悪に、自惚れにひたっており、また仁慈と信仰とに属して、主のものである内なる事柄を軽視し、嫌悪さえもしているのである。かの国民は他の者にまさって選ばれたのであると基督教徒もまた信じている理由は、彼らは人間の選びと救いとは、その者がいかような生活をしても、慈悲から発しており、かくて邪悪な者も敬虔な者や正しい者と等しく天界へ迎え入れられることが出来ると信じて、選びは普遍的なものであることを、即ち、善に生きる者は凡て選ばれることを考えないし、また主の慈悲は悪から遠ざかって、善に生きようと願い、かくて主に導かれて、再生することに耐える者各々に注がれ、そのことはその人間の生涯にわたって絶えず行われていることを考えはしないということである。
ここからまた基督教世界の大半の者はまたかの国民は再び選ばれ、かくてカナンの地へ連れ戻されると信じてはいるが、これもまた多くの記事におけるように、文字の意義に従っているのである(イザヤ10・20−22、11・11、12、29章の終わり、43・5、6、49・6−26、56・8、60・4、61・3−10、62章、エレミヤ3・14−19、15・4、
14、16・13、15、23・7、8、24・9、10、25・29、29・14、18、30・3、8−11、31・8−10、33・16、20、26、エゼキエル5・10、12、15、16・60、20・41、22・15、16、34・12、13、37・21、22、38・12、39・23、27、28、ダニエル7・27、12・7、ホセア3・4、5、ヨエル2・32、3章、アモス9・8、9、ミカ書5・7、8)。これらの、また他の記事から、基督教徒でさえも、たとえ彼らはその国民はその国民をカナンの地へ連れて行くメシアを待っていることを知ってはいるものの、また彼らはそうした期待は空しいものであって、メシア、またはキリストの王国はこの世のものではなく、かくてメシアが彼らを連れて入らせられるカナンの地は天界であることを知ってはいるものの、その国民は再び選ばれて、カナンの地へ連れて来られるであろう、と信じているのである。
天界の秘義7051{3}
彼らはまた聖言には内意が在ることを、その意義では『イスラエル』によりイスラエルは意味されてはおらず、『ヤコブ』によってもヤコブは意味されてはおらず、『ユダ』によってもユダは意味されてはおらず、これらの人間によりその表象しているものが意味されていることを考えもしないのである。彼らはまたその民族の性質は荒野ではいかようなものであったか、その後カナンの地ではいかようであったかを、即ち、その民族は心では偶像崇拝者であったことを示しているその民族の歴史を考えもしないし、また予言者たちがその民族について、その霊的な淫行と憎むべき業について言っていることを考えもしないのである。この性質はモーセの書の「歌」の中に以下の言葉で記されているのである―
わたしは彼らからわたしの顔を隠そう、わたしはその子孫がいかようになるかを見よう、彼らはまがった世代の者、誠実を持たない子孫であるからである。わたしは言った、わたしは彼らをいと遠い地域に追放しよう、わたしはその記憶を人間から絶やしてしまおう、その敵が、我々の手は高い、エホバがこの凡てを為されたわけではない、と言わない限りは、と。なぜなら彼らは評議にふける国民であり、その中には理知はないからである。彼らのぶどうの木はソドムのぶどうの木であり、ゴモラの畠のものであり、そのぶどうの実は苦いぶどうの実であり、苦々しい房は竜の毒であり、まむしのむごい胆汁である。これはわたしのもとに隠れて、わたしの宝の中に封じ込められてはいないか。復讐はわたしのもの、また報復も(わたしのものであり)、しばらくしてその足はすべるであろう、彼らの破滅の日は近づき、彼らに臨もうとする物は急いでいるからである(申命記32・20、26−28、32−35)。
エホバがこの歌をモーセに口授されたことは前章に見ることが出来よう(申命記31・19、21)。その国民については主もまたヨハネ伝に(以下のように)言われている―
あなたらはあなたらの父、悪魔から出ており、あなたらの父の欲望を為そうとしている。彼ははじめから人殺しであり、真理の中に立ちはしなかった(ヨハネ8・44)。
その他多くの記事にも(そのことを言われているのである)。
基督教徒はこれらの事を知ってはいるものの、それでも、その国民は遂には主に回心して、その前にいた地へ連れてこられるであろうと信じていることは、前に言ったように、彼らは聖言の内意を知らないためであり、また彼らは、人間の生活には何の効果もない、悪は、何回も繰り返されて根を張った時でも、人間が霊的なものになり、また再生するうえには何の妨げにもならない、それでたとえ短い一時間の信仰であっても、信仰を通して主から受け入れられると考えているためであり、また天界に入れられることは慈悲にのみ属していて、この慈悲はただ一つの国民にのみ与えられて、主の慈悲を受け入れる宇宙の凡ゆる民族にそのように与えられているわけではないと考えているためである。このように考える者は、或る者が救いと天界とのために選ばれた者として、また或る者は呪いと地獄とのために選ばれない者として生まれているということは、全く神的なものに反していることを知らないのである。神的なものについてこのように考えることは恐ろしいことである、なぜなら神的なものは慈悲そのものであられるのに、こうした行為は無慈悲の極まったものであるからである。この凡てから今や、イスラエルとユダヤ国民は選ばれはしなかったのであり、まして今後選ばれるようなことのないことを認めることが出来ようし、またそのもとには教会は何一つ存在しなかったし、また存在し得る筈もなく、ただ教会を表象するもののみが存在したのであって、それが現在までも保たれてきている理由は旧約聖書の聖言のためであることを認めることが出来よう(3479番)。
天界の秘義7439
「わたしの民を行かせて、わたしに仕えさせなさい」(創世記8・16)。これは、霊的な教会に属した者たちが自由にその神を拝するように、その者たちを彼らは釈放しなくてはならないことを意味していることは以下から明白である、即ち、『行かせること』の意義は釈放することであり、ここの『わたしの民』であるイスラエルの子孫の表象は霊的な教会に属した者たちであり(6426、6637、6862、6868、7035、7062、7198、7201、7215、7223番)、『エホバに仕えること』の意義は礼拝することである。彼らは自由に礼拝しなくてはならないことは以下の記事から明らかであり(21−23節)、また真に礼拝である礼拝はすべて自由の中に捧げられなくてはならないという事実からも明らかである。
天界の秘義7439〔2〕
イスラエルの子孫が『エホバの民』と呼ばれたのは、彼らが他の幾多の国民よりも優れていたからではなく、エホバの民、即ち、主の霊的な王国に属している者たちを表象するためであったのである。彼らは他の幾多の国民よりも優れていなかったことは荒野におけるその生活から明らかである、即ち、彼らはエホバを些かも信じないで、その心ではエジプト人の神々を信じたのである、そのことは彼らが作った金の子牛から明らかであり、それを彼らは自分たちをエジプトの地から連れ出した神と呼んだのである(出エジプト記32・8)。その事はまた聖言の歴史的なものの中に記されているように、カナンの地におけるその後の彼らの生活からも明らかであり、予言者により彼らについて言われたことからも明らかであり、最後には主により彼らについて言われたことからも明らかである。
天界の秘義7439〔3〕
こうした理由からまた彼らの中で天界にいる者は僅かしかいないのである、なぜなら彼らは他生ではその生命〔生活〕に応じてその運命を受けているからである。それで彼らは他の者にも優って天界へ選ばれたと信じてはならない、なぜならたれでもそのように信じる者は、各々の者の生命は死後もその者のもとに存続していることを信じないし、また人間は世におけるその全生活によって天界へ入る備えをなさなくてはならないのであり、そのことは主の慈悲から為されるのであって、たれ一人、世ではいかような生活をしようとも、ただ慈悲のみからは天界へは入られはしないことを信じてもいないからである。天界と主の慈悲について考えられるこうした見解は信仰のみの教義により、善い業を伴わないただ信仰のみによる救いの教義から生まれているのである。なぜならこうした教義を奉じている者はその生活を何ら顧みないし、かくて垢が水で洗い落とされるように、悪も洗い落とされることが出来ると信じ、かくて人間は一瞬にして善の生命へ移ることが出来、従って天界へ入れられることが出来ると信じているのである。なぜなら彼らは、もし悪の生命が悪い者らから取り去られるなら、悪い者には全くいかような生命も無くなり、もし悪の生命にいる者らが天界へ入れられるなら、その者らはその者自身の中に地獄を感じ、そしてそのことは、彼らが天界の内部へ深く入れられるに比例して、益々甚だしくなることを知らないからである。
天界の秘義7439[4]
この凡てから今や以下のことを認めることが出来よう、即ち、イスラエル人とユダヤ人とは決して選ばれたのではなくて、ただ天界に属する事柄を表象するためにのみ受け入れたのであり、そしてそのことはカナンの地で為されなくてはならなかったのである、なぜなら主の教会は最古代からもそこに存在して、そのため、そこの場所は凡て天界的な、神的な事柄を表象するものとなっていたからである。このようにしてまた聖言は書かれることが出来たのであり、またその中の名は主とその王国に属する事柄を意味することが出来たのである。
天界の秘義10396
彼らは選ばれたのではなくて、彼らが言い張ったために受け入れられたのである。
4290、4293、7051、7439
彼らの間に教会が設立されるように執拗に求めたが、それは単に彼らが全世界の凡ゆる国民よりも遥かにすぐれるために過ぎなかったのである。なぜなら彼らは他の国民にまさって自己を求める愛の中にいて、エホバが彼らのもとにおられなくては、引いてはまた教会が彼らのもとに設立されなくては決して他の国民よりもすぐれた立場に引き上げられることは出来なかったからである。なぜならエホバ、即ち主がおられる所に教会が存在するからである。これが彼らの目的であったことは聖言の多くの記事から明白である。例えば以下の言葉からも明白である。
モーセは言った。私が、即ち私とあなたの民とが、あなたの目の中に恵みを得たことは何によって知られましょうか。
それはあなたが私らと共に行かれて、私らが、即ち、私とあなたの民が地の面にいる凡ての民よりも遥かにすぐれたものとされることによりませんか。(出エジプト33・16)
天界の秘義10559
「モーセはエホバに言った」(出エジプト記33・12)。これは神的なものが彼らのもとに存在しなかったことを、引いては教会そのものが彼らのもとに存在しなかったことを憤ることを意味していることは『言うこと』の意義から明白であり、それはここでは憤怒である、なぜなら『言うこと』は以下に言われていることを含んでいるからであり、それはその以下に言われている事柄が彼の言ったものであり、その以下に言われている事柄は以下の理由から彼が激しく怒った事柄であるためである、即ち、怒りに記されている十六節から明らかである。ように、地の面にいる凡ての者にもまさって彼らを卓越させる手段となる神的なものが彼らのもとに存在しない、引いては教会が彼らのもとに存在しないために彼は激しく怒ったのである。エホバに対するモーセのその言葉がそうした理由から憤激の言葉であった理由は、ここのモーセはイスラエル国民の頭首に関わりを持っているということであった(前の10556番を参照)、それで彼は彼自身のために、またその国民のために語っているのである、なぜなら彼は『私と民』(16節)と言っているからである。彼はその国民にその頭首としてここに関わりを持っているため、それで『モーセはエホバに言った』により憤激が意味されているのである、なぜならその国民に似ている人間は、もしその願っているものを得ないなら、神に対して激しく怒るからである。
天界の秘義10559[2]
彼が激しく怒った。なぜならその国民に似ている人間はもしその願っているものを得ないなら神に対して激しく怒るからである。こうしたことは内なるものを持たない外なるものの中にいる者ら凡てにより行われているのである。なぜならもし彼らが神を敬い、崇め、いわば愛しもするにしても、それは神御自身のためではなくて、彼ら自身のためなのである。なぜなら彼らは他の者らよりも優越することと、他の者らにまさった冨以外には何ごとも求めてはおらず、それが彼らの尊敬と崇拝と、いわば彼らの愛とを掻き立てる火であるからである。しかしもし彼らがその望むものを得ないなら神を棄て去ってしまうのである。
7.追放
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P165
律法学士たちはこの際、黙ったほうが賢明だろうと考える。女は苦しそうな疲れきった声で続ける。
「彼は平和を運んで来たのに、おまえは彼に戦いを挑み、救いを与えようとした彼を嘲った・・・愛をもって来た彼を憎み、奇跡を行えば彼を悪魔と言った・・・彼の手は病人を治したのに、おまえがその手を貫いた。光をもたらした彼の顔に唾をかけ、泥を投げた。命を与えようとして来た彼に、おまえたちは死を与えた。イスラエルよ、自らの過ちを思って泣き、追放の地へ引かれるとき、主を恨むな。その追放は、以前のと違って長く続くだろう。民は全地をさまよい歩き、呪われた敗れた民として、カインに言われたのと同じ神の声で追われる。他の民とともに、このイエズスはキリストで神の御子であると認めるまで、おまえはここに永住の巣を作ることができまい・・・」
8.貪欲
天界の秘義1327[4]
そしてこれが内なるものを知り、これを承認するようになって、しかもそれを冒涜するよりも、むしろ快楽と欲念の中に生き、そうしたものにより自分自身を内なる事柄から遠ざけることが人間に許されている理由である。こうした理由からユダヤ人は現今自分自身を貪欲の中に浸すことを許されているが、それはそのことにより彼らは内なるものを承認しないようにそこから更に遠ざけられるためである、なぜなら彼らはもし内なるものを仮にも承認するとするならば、それを冒涜しないわけにはいかないといった性格を持っているからである。貪欲は最も低い地的な欲念であるため、それ程人間を内なるものから遠ざけるものは何一つない。 教会の中の多くの者の場合も同一であり、また教会の外の異邦人の場合も同一である。この後の者は、即ち異邦人は凡ての者の中でも最も冒涜を犯すことは出来ないのである。それでこれがエホバは全地の唇を乱されたとここに言われている理由であり、またこの言葉が教会の状態が変化して、その礼拝は外なる礼拝となり、凡ての内なる礼拝を欠くようになったことを意味している理由である。
天界の秘義4751[2]
「私たちが私たちの兄弟を殺して、その血を隠したとしても何の利益があろう」(創世記37・26)。
ここの『利得』は利得になるもののみでなく、栄誉も意味していることは、または、『それは何の利益になろう』は何一つ利得にも、または栄誉にもならないであろうということを意味していることは、このことが欲念と貪欲ら言われたためである、なぜなら利得の欲念と貪欲は、全世界を所有するのみでなく、利得のためには凡ゆる者をも殺そうとする欲望をその中に持っており、実にこのような欲念に駆られた者は、法律に妨げられないなら、ほんの些少な利得のためにでも殺人罪を犯すからである。更にこのような人間は、金銀を得ると、その外面ではいかほど自分を卑下してみせようとも、自分自身を権力では最大なものとして認めるのであり、そのことは貪欲の中には世への愛のみでなく、自己愛が在り、実に最も汚らわしい自己愛が在ることを示しているのである。なぜならさもしいほどにも貪欲な者の中には心の高揚または誇りは時としては見栄えのためには富には無頓着であるため、それは外面的にはそれほど目立ってはいないし、またそれは通常快楽と連結しているところのあの種類の自己愛でもないからである、なぜならこのような者は身体とその食物と衣服には殆ど関心を持たないからである。しかしそれは全く地的な愛であって、金以外には何ものも目的とはしていないのであり、それを得ると、自分自身が事実としてではないが、潜在的には、他の凡ての者にまさっていると信じるのである。このことから貪欲には最も低くて、また最も卑しい自己愛が在ることが明白であり、そうした理由から他生では貪欲者は豚の間にいるようにその者自身に思われており(939番)、彼は他の凡ての者にもまさって何であれ凡ての善に反抗するのである。従って彼らは善いものや真のものを全く認めることが出来ないほどにも暗闇にいて、人間には死後も生きる何か内なるものが属していることを些かも悟らないのであり、そのようなことを言う者たちを心で嘲笑しているのである。
天界の秘義4751[3]
ユダヤ民族は最初からこのような性質を持っていたのであり、それで旧約聖書の聖言から明白なように、何か内なるものが彼らに明らかに開かされることは不可能であったのであり、彼らはこうした最悪の種類の自己愛の中に根を張っていたため、もし貪欲により内なるものから遥かに遠くに遠ざけられて、そのことにより暗闇の中に留め置かれない限り、内的な諸真理と諸善を汚し、かくして他の凡ての者にもまさってそれらを冒涜するのである、なぜなら彼らは承認しない限り、冒涜することは出来ないからである(1008,1010,1059,2051,3398,3402,3489,3898,4289,4601番)。主がヨハネ伝で彼らについて『あなたらはあなたらの父、悪魔から出ており、あなたらの父の欲望を為そうと欲している。彼は始めから人殺しであった』(8・44)と言われ、ユダヤ教会を表象したユダ イスカリオテについては、『わたしはあなたら十二人を選ばなかったか、だのにあなたらの一人は悪魔である』(ヨハネ6・70)と言われたのはこうした理由によっているのである。ユダが主を売ったことにおいてユダによってもまた、『さあ、我々はヨセフを売ろうではないか』と言ったユダによりここに表象されていることに似たことが表象されているのである。
9.本来の意味は「主を承認し、愛する者たち」
黙示録講解433ニ
『ユダヤ人』はその国民に属している者らを意味してはおらず、『エルサレム』は主により設立される新しい教会を意味しており、『ユダヤ人』は主に対する愛の善の中にいる各々の者を凡て意味しており、『ユダヤ人のスカート』はその善から発した真理を意味していることが知られる時、その時はこの章における凡ての事柄の意義は、またこれらの言語の個々の意義は明らかにされることが出来るのである、なぜならこれは幾多の国民を共に呼び集めることを、その国民が教会へ近づくことを取扱っており、『ユダヤ人』は主を承認し、愛する者たちを意味しており、『スカートを掴まえること』は、主から発する真理を知ろうと切望することを意味し、『諸国民の凡ゆる言葉から出て来る十人の人間』はいかような宗教に属していようと、凡ての者を意味し、『十人の人間』は凡ての者を意味しており、『諸国民の言語』は彼らの宗教上の原理[主義]を意味しているからである。
10.霊界のユダヤ人
天界の秘義940
この地獄に卑賤なまでに貪欲であったユダヤ人らが大半いて、その者らが他の霊のもとへ来るとその出現もまたはつか鼠の臭気として認められている。ユダヤ人については、その都と荒野の強盗どもについて若干語って、彼らの死後の状態はいかに悲惨なものであるかを示そう、とくに卑賤なまでに貪欲であって自分自身を選ばれた唯一の民族であると考える生来の傲慢の結果、他の者たちを自分自身と比較して軽蔑した者らの死後の状態は如何に悲惨であるかを示そう。彼らは(新しいエルサレムにより諸天界と地上の主の王国が意味されていることを理解しようとする気持ちを持たないで)自分はエルサレムと聖地へ行って、それを所有するという幻想を、身体の内の生命の間に、自分の中に抱いて、それを確認した結果、他の世界に来ると、彼らにゲヘンナの左側の、やや前面に一つの都が現れ、これに彼らは群をなして集まるのである。しかしながらこの都は沼地で悪臭を発していて、彼らはこれらの都がまたその中の街路がその凡ての汚物と共に白日の下に在るかのように表象されているのを見るが、実に私自身も時々それを眺めたのである。かつて私のもとへ或る一人の色の浅黒い霊がこの汚れたエルサレムからやって来て現れたが、その門は開かれているように見えたのである。彼は特にその左側を遊星に囲まれていた、霊の周囲の遊星は霊界では誤謬を意味しているが、しかし星が遊星でないときは異なっている。彼は近づいてくると、私の左の耳の上部に身を寄せ、私と話そうとして、それにその口をつけるように見えた。しかし彼は他の者のように声高い語調ではなく、彼自身の中で、それでも私が聞いて理解出来るような仕方で語ったのである。彼は自分はユダヤ人のラビであると言い、自分は長い間その泥の都に居り、その街路は泥と塵埃以外の何物でもないと言い加えた。彼はまたその中には塵埃以外には食物は全くないと言った。私が霊であるあなたは何故食べたがるのかと尋ねると、彼は自分は実際食べるのであり、そして食べようとすると、泥以外には何物も提供されず、それが自分を甚しく悲しませると答えた。彼はアブラハム、イサク、ヤコブと会おうとしたが、出来なかったので、どうしたら良いかと尋ねた。私は彼らについて若干特殊なことを述べ、彼らを探しても無駄である、たとえ彼らが見つけられても、彼らはあなたに到底いかような援助も与えることは出来ないと彼に告げた。私は更に深い意味を持った事柄に言及した後で、あなたが地上で軽蔑したメシヤであられる主のみを除いては何人をも探し求めてはならない、かれは全天界と全地とを支配されており、救いはかれのみから来ると言った。それで彼は主は何処におられるかと不安気に繰り返し尋ねた。私はかれは到る所に見出されることが出来る、かれは凡ゆる人間を聞いておられ、知っておられると答えた。しかしその瞬間他のユダヤ人の霊どもが彼を拉し去ったのである。
天界の秘義941
ゲヘンナの右手に、またはゲヘンナとその湖との間に他の一つの都が在り、ここにユダヤ人の中で更に善良な種類の者が住んでいるように彼らに思われている。しかしこの都は彼らの幻想に応じて彼らに変化しており、時には村落に、時には湖に、また再び都に変化しており、その住民は強盗を非常に恐れているが、都に止まる限り、安全である。二つの都の間には暗い一種の三角形の所が在って、そこに強盗がおり、彼らはユダヤ人であるが、最悪の種類の者であり、誰であれ、その会う者を残酷に苦しめる。ユダヤ人は恐れてこれらの強盗を主と呼び、彼らの住んでいる荒野を地と呼んでいる。強盗を防ぐため、都の入口の右手の一番端の片隅に善い霊が一人置かれており、この者が凡て来る者を迎え、この者の前に、彼らは到着すると地面にまでも頭を下げる。彼らは彼の足の下から中へ入れられるが、これがこの都へ入れられる儀式となっている。或る霊が一人突然私に近づいて来たので私は何処から来たのかと尋ねた。彼は自分は強盗どもから逃れてきたのである。自分は彼らが人間を殺したり、殺戮したり、焼いたり、煮たりするため、彼らを恐れていると答え、何処に逃れたら良いかと尋ねた。私は彼が何処からまたいかような国から来たのかと尋ねた。彼は恐怖のあまり、それは主の地であるとのみしか答えようとはしなかった。なぜなら彼らはその荒地を地と呼び、強盗どもを主と呼んでいるからである。その後強盗どもが姿を現した。彼らは非常に黒く、巨人のような深い語調で語り、奇妙なことに、近づいてくると、恐怖と戦慄を与えるのである。私は彼らにあなたらはたれであるかと尋ねた。彼らは自分らは獲物を探しているのだと言った。私はあなたらはその獲物をどうしようとするのか、あなたらは自分が霊であり、それで獲物をつかみとることも、貯えておくことも出来ない、このような考えは悪い者の幻想であることを知らないのかと尋ねた。彼らは自分らは獲物を求めて荒地に居り、その会う者をたれであれ苦しめるのだと答えた。遂に彼らは私と共に居る中に、自分が霊であることを承認したが、依然身体の内に住んでいるのでないことを信じるようになることは出来なかった。このようにぶらついている者はユダヤ人であり、何人であれ、その会う者を、たとえそれがユダヤ人であろうと、殺したり、殺戮したり焼いたり、煮たりしかねない輩である。彼らの性向は、例え世では彼らはそれを敢えて洩らしはしなかったものの、このように明らかにされたのである。
天界の秘義942
汚れたエルサレムから程遠からぬ辺りになおゲヘンナの審判と呼ばれている他の一つの都が在り、そこに天界を己が義の報酬として要求し、己が幻想に従って生きない者らを非難している者らが住んでいる。この都とゲヘンナの間に青白い、または灰色の、稍々(やや)こぎれいな橋のようなものが現れ、そこに彼らの恐れている色の黒い霊が一人居て、彼らにその橋を越えさせないようにしている。なぜなら橋の向こう側にゲヘンナが現れているからである。
私は他生で再三ユダヤ人と話したのである。彼らは前面の低地の左足の面に現れている。私はかつて彼らに聖言とカナンの地と主について話した、即ち聖言については、その中には人間には明らかではない最も深いアルカナが存在することを話すと、これは彼らは肯定したのである、次に私は、その中に在るアルカナはことごとくメシヤとその王国とを取扱っていることを話すと、これもまた彼らは進んで容認したのであるが、しかし私がヘブル語のメシヤはギリシャ語のキリストと同一のものであると言うと、彼らは聞こうとはしなかったのである。更に私は、メシヤはいとも聖い方であり、エホバはかれの中におられ、イスラエルの聖者により、またヤコブの神によってはそれ以外の者は意味されてはいない、かれはいとも聖い方であるため、外なる形ではなく、内なる形において聖いものである者たち以外の者は、かくて世の不潔な愛の中にいないで、他の国民に対して自らを高くしないし、また彼ら自身の間で憎悪の念を抱かない者たち以外の者はたれ一人かれの王国の中にいることは出来ないと言うと、そのことは彼らは聞くことが出来なかったのである。
天界の秘義3481[2]
その後で私は彼らに以下のように話したとき、即ち、予言に従うと、メシヤの王国は永遠のものであるに相違ない、かれと共にいる者たちはまた地を永久に嗣ぐに違いない、もしかれの王国がこの世界のものであって、彼らがカナンの地へ仮にも導き入れられるとするなら、それは人間の生命の僅かな年の間のみであろう、そのことから彼らはカナンの地により天国が表象され、意味されていることを知ることが出来よう、特に彼らは自分たちは他生にいて、永久に生きることを今知っており、かくてメシヤはそこにその王国を持ち給うことが明らかであるため、そのことを知ることが出来よう、もし彼らが天使たちと語ることが出来るなら、天使たちの天界の全体はかれの王国であることを知ることが出来よう、更にエゼキエル書の新しい天と新しいエルサレムと新しい神殿によりメシヤのこのような王国以外には何事も意味されることは出来ないと話した時、これらの事柄に対しては彼らは応えることは出来ないで、ただ単にメシヤによりカナンの地に入れられることになっていて、かくも僅かな年の後で死んで、そこで楽しむことになっている祝福を離れることになっている者たちは激しく泣くことであろうとのみ言ったのである。
11.聖言が閉じられている
天界の秘義1861[12]
主の王国のアルカナ[秘義]に通じていない者は主は邪悪な者を地獄の中へまたはそうした火の中へ投げ込まれると考えるが―その火は前に言ったように、憎悪の火であるが―しかし実情は極めて相違している、なぜなら彼自身を投げ下ろすものはその人間自身であり、またはその悪魔的な霊それ自身であるからである。しかしそれがそのように現れているため、それは聖言の中に外観に従って、実に感覚の迷妄に従って表現されているのであって、このことは特にユダヤ人の場合には必要であったのである、なぜなら彼らはいかようなものでもそれが感覚に一致していない限りは、例えそのためいかほど迷妄[妄想]がそこに入り込んでくるにしても、受け入れようとはしなかったからである。そうした理由から文字の意義は、特に予言者の書の中では、こうしたものに満ちているのである。
聖言が閉じられていることにより意味されていることは特にユダヤ人から認めることが出来よう、 彼らは一切の物を文字に従って説明し、そこから、自分たちは地の面に凡ゆる国民にも優先して選ばれたものであり、メシアは来られて自分たちをカナンの地へ連れて行き、地の凡ゆる国民と民の上に高めるであろうと信じているのである、なぜなら彼らは地的な形体的な愛の中に惑溺してしまっており、そうした愛は聖言をその内的な物の方面で全く閉じてしまうといったものであるからである。それで彼らは未だ天国が在るか否かを、自分たちは死後も生きるか否かを、内なる人とは何であるかを知ってはおらず、霊的なものが在ることさえも知っておらず、ましてやメシアは魂を救うために来られたことを知ってはいないのである。聖言が彼らに閉じられていることは、彼らが、イザヤ書の以下の言葉に応じて、基督教徒の間に生きてはいるものの、その教義的なものを些かも受け入れはしないという事実からもまた充分に明白となるであろう―
この民に言いなさい、あなたたちは聞いて聞きなさい、が、悟ってはならない、見て、見なさい、が、認めてはならない。この民の心を鈍くし、耳を重くし、目をめくらにしなさい。で、わたしは言った、主よ、いつまででしょうか。かれは言われた、町々が住む者もなく、家々が人もなく荒れ、土地は荒れてもの淋しい所となるまで(イザヤ6・9−11、マタイ13・14、ヨハネ12・40、41)。
天界の秘義4444
「彼らはそれを聞いたので、その男たちは悲しんだ、彼らは非常に怒った」。これは彼らが古代人の間の教会の真理に反抗して悪の中にいたことを意味していることは、『悲しんで非常に怒ること』の意義から明白であり、それは悪の中にいることである。これは古代人間の教会の真理に反抗したものであったことは、そのことがハモルの息子シケムに向けられたものであって、彼により前に言ったように(4430、4431番)、古代人の間の真理が意味されているため、生まれてくるのである。彼らが悪の中にいたことは以下のことから、即ち彼らは佯って語り(13節)、それから、シケムとハモルとが彼らの要求に応じた後で、彼らを殺してしまったことから明白である(26―29節)。かくて『悲しんで非常に怒ること』によりここでは彼らが悪の中にいたことが意味されている。これらの言葉は、間もなく以下に記されている言葉に従って、即ち、『彼はヤコブの娘と臥してイスラエルの中に愚かなことを行ったからであり、それでそのようなことは為されてはならないのである』という言葉に従って、またその章の終りに言われている言葉に従って、即ち、『彼らは言った、彼に私たちの妹を娼婦のようにさせてよかろうか』という言葉に従って(31節)、彼が彼らの妹と臥したために熱意を意味しているかのように見えるもするが、しかしそれは熱意ではなかったのである、なぜなら熱意はその中に善をもっているため、善の中にいる者のもとにのみ在り得るのであり、たれであれ悪の中にいる者のもとには在り得ないからである(4164番)。
天界の秘義4444[2]
彼らの子孫のもとに存在した宗教はその中に善を持っていたということは真である、なぜならその一切の物は主の王国の天的な霊的なものを表象したからである、しかしその宗教の中にいた者たちについてはそれはその中に何ら善を持たなかったのである、なぜなら彼らは前に示したように内なるものを持たない、単なる外なるものにいたからである。この間の実情は現今その民族の間に遍く流布している彼らの宗教における実情と同一である、即ち、彼らはモーセと予言者たちとを承認し、かくてそれ自身において聖いものである聖言を承認はしているものの、しかし彼らについてはそれは聖くはないのである、なぜなら彼らはその中の凡ゆる物の中に彼ら自身を顧慮しており、かくて聖言を世的なものにしており、否、地的なものにしているからである、なぜなら彼らはその中に天界的なものが在ることを知らないし、またそのことを心にかけもしないからである。このような状態の中にいる者らはその宗教の中にいる時は善の中にいる筈はなく、悪の中にいるのである、なぜなら彼らは彼ら自身の中に天界的なものを消滅させてしまうため、その天界的なものは何一つ流れ入りはしないからである。
天界の秘義4444〔3〕
更にモーセの書に以下のように述べられているように、処女を犯した者は結納金を与えて、彼女をその妻として娶らねばならないということは古代教会に知られていた律法に従っていたのである―
もし男が婚約をしていない処女を説きふせて、彼女と共に臥すなら、彼は彼女に結納金を与えて、彼女を妻としなければならない。もし彼女の父が拒んで、彼女を彼に与えることを拒むなら、彼は処女の結納金と同額の銀を払わなくてはならない(出エジプト記22・15、16)。
また他の所には―
もし男が処女であって、婚約をしていない乙女を見て、これをつかまえ、これと臥し、二人がつかまえられるなら、これと臥したその男は彼女を犯したため、その娘の父に銀貨五十枚を与えて、彼女を妻としなくてはならない。また彼は生涯彼女を離縁してはならない(申命記22・28、29)
この同じ律法が古代人に知られていたことはその乙女の父と兄弟たちに言われたシケムの言葉から非常に明白である、『シケムは彼女の父と兄弟たちに言った、私にあなた方の目の中に恵みを得させてください、あなた方が言われるものは、私は上げましょう。結納金と贈物とを甚だしく私に増してください、私はあなた方が言われるように上げましょう、私にその乙女を女として与えてください』(創世記34・11、12節)。そしてシケムはこの律法を履行することを欲し、デナの兄弟たちは以下に言われている言葉に従って、すなわち『それでも私たちはもしあなた方が私たちのようになられるなら、あなたに同意しましょう、即ち、男はことごとくあなた方と共に割礼を受けられるなら、私たちは私たちの娘をあなた方に与え、あなた方の娘を私たちに娶り、あなた方と共に住んで、一つの民となりましょう』(15、16節)という言葉に従って、彼が男にことごとく割礼を施すことによって、彼らのようになりさえするなら同意したため、デナの兄弟たちは律法から行動しないで(かくて善から行動しないで)、律法に反し、従って悪から行動したことは明白である。
12.その民族には教会のものは何一つ存在しなかった
ユダヤ民族のもとには教会が存在しており、それは他の凡ゆる民族にもまさって選ばれ、愛されたという信念以外の何らかの信念をたれが今日持っていようか。そうした信念の理由は主として彼らの間に非常に多くの、また非常に偉大な奇蹟が行われ、非常に多くの予言者が彼らに遣わされ、また彼らは聖言を持っていたということである。それでもその民族はそれ自身では教会のものは何一つ持っていなかったのである、なぜならそれはいかような仁慈の中にもおらず、純粋な仁慈の何であるかさえ知らなかったし、また主を全く信じなかったからである。彼らは実際主は来られる筈であることは知ってはいたが、しかしそのことは彼らを全世界の凡ての者にもまさって高めるためであると考えたのであり、そしてそのことが為されなかったので、彼らは全くかれを斥けて、その天国についてはいかようなことも聞こうとはしなかったのである。教会の内なるものであるこれらの事柄をその民族は教義においてさえも承認しなかったのであり、ましてや生活においては承認しなかったのである。この凡てからでもその民族には教会のものは何一つ存在しなかったと結論してよいであろう。
教会が人々のもとに在ることと教会が人々の中に在ることとは異なっているのである、例えば基督教会は、聖言を持っていて、教義から主を宣べ伝えている者たちのもとに存在はしているものの、それでももしその者たちが善と真理との結婚の中にいない限り、即ち、隣人に対する仁慈の中におり、そこから信仰の中にいない限り、かくて教会の内なるものが外なるものの中にない限り、彼らの中には教会のものは何一つ存在はしないのである。教会は内なるものから分離した外なるものの中にのみいる者の中には存在しないし、また仁慈から分離した信仰の中にいる者の中にも存在しないし、教義から主を承認はするが、生活からは主を消滅しない者の中にも存在しないのである。ここから教会が或る民族のもとに存在することと、その民族の中に存在することとは全く異なっていることが明らかである。
天界の秘義4899[4]
本章の内意にはユダヤ民族のもとに在ったままの教会とその民族の中に在ったままの教会が記されているのである。その民族のもとにおける教会の性質がタマルがユダと夫の兄弟の義務という口実のもとに連結することにより記されておりその民族の中の教会の性質はユダがタマルと娼婦と連結するように連結したことにより記されているのである。しかしこれらの事柄について更に詳細に述べることは前に語った理由から省略しよう、なぜならそこに述べられているようにそれらのことは理解の蔭の中へ落ち込むからである。これらの事柄の中には理解の蔭が存在していることは、現今では教会の内なるものとは何であるかを殆どたれも知ってはいないという事実から認めることが出来よう。そしてたれが、隣人に対する仁慈は意志することに在り、意志することから行うことに在り、かくて信仰は認識することに在ることを知っていようか。このことが知られていないとき、特にそれが信仰を仁慈の業なしに救うものとする者らにより否定されているが、そのように否定されているとき、ユダヤ民族のもとで、またその民族の中で教会の内なるものがその外なるものと連結することについて内意においてここに言われている事柄はいかような蔭の中へ落ち込むに違いないことであろう。仁慈は教会の内なるものであり、かくて教会の本質的なものであることを知らない者らはこうした事柄を理解する第一歩からさえも非常に遠ざかっており、それで天界に存在している無数の表現を絶した事柄からは非常に遠ざかっているのであり、天界では主に対する愛と隣人に対する愛とは生命の凡てであり、従って知恵と理知との凡てのものとなっているのである。
13.彼らを拘束する内的なものは何一つない
天界の秘義5798[6]
これらの記事の『憤り』、『怒り』、『憤怒』、『狂憤』もまた離反と攻撃とそこから起ってくる刑罰を意味している。離反と攻撃に対する刑罰がエホバまたは主に帰せられて、『主の怒り』、『憤り』、『狂憤』と呼ばれているのは、ヤコブから生まれた民族は単に外なるものである教会の表象的なものの中に留め置かれねばならなかったためであり、彼らはエホバに対する恐怖、畏怖によらなくては、またエホバが怒りと憤りから彼らに悪を為されると信じなかったならば、その表象的なものの中にいる者らは、それ以外の方法では、外なる物へ連れて来られることは出来ないのである、なぜなら彼らを拘束する内的なものは何一つ無いからである。更に教会では単純な者は、神はたれでも罪を犯す時は怒られるとしか外観から悟りはしないのである。しかしたれでも反省するなら、エホバまたは主には怒りは何らなく、ましてや狂憤など全く無いことを認めることが出来るのである、なぜなら主は慈悲そのもの、善そのものであられ、たれかの悪を欲しられる(ような)ことからは無限に隔たっておられるからである。隣人に対する仁慈の中にいる人間もまたたれにも悪を為しはしないのである。天界の天使たちの凡てもそのようなものであり、ましてや、主御自身においてはそうしたことは有り得る筈は無いのである。
14.彼ら各々はその者自身の神を拝した
天界の秘義5998
ヤコブはその父イサクの神に生贄を捧げたことはユダ、イスラエル国民の父祖たちの性質のいかようなものであったかを、即ち、彼ら各々はその者自身の神を拝したことを示しているのである。イサクの神はヤコブの神とは異なった神であったことは、彼が彼に生贄を捧げ、また夜の幻に『わたしは神、あなたの父の神である』と言われたという事実から明白であり、また以下の事実からも明白である。即ち、彼は以下の言葉、『アブラハムの神、ナホルの神、彼らの父の神よ、私たちの間を審き給え、で、ヤコブはその父イサクの畏れた者により誓った』の中でその同じ神により誓ったのである(創世記31・53)。また最初ヤコブはエホバを承認しなかったことも明白である。なぜなら彼は、『もし神が私と共におられ、私を私の歩む道で守られ、私に食べるパンと着る着物を与えられ、そして私が私の父の家へ安らかに帰るなら、その時はエホバを私の神としよう』(創世記28・20、21)と言ったからである。このように彼はエホバを条件つきで承認したのである。
天界の秘義5998[2]
自分の父祖の神々を承認はするが、しかし自分自身の神を特別に承認することが彼らの習慣であったのである。こうした習慣を彼はシリアの彼らの父祖たちから得たのである。なぜならアブラムの父のテラは、またアブラム自身も、そこいいた時は、エホバ以外の神々を拝したからである(1356、1992、3667番)。『ヤコブ』とも『イスラエル』とも呼ばれた彼らの子孫は従って心では異邦人の神々を拝し、エホバを口先のみで、名前のみで礼拝するといった性質を持っていたのである。彼らがこのような者であった理由は、彼らは内なるものを何ら持たない外なるものの中におり、このような人間は、礼拝は単に神の御名を唱えることに在り、またその方は自分の神であると言うことに在るとしか信じることは出来ないのであり、それもまたその神が彼らに恩恵を与えられる間のみのことであり、礼拝は仁慈と信仰の生活とは全く無関係であるとしか信じることが出来ないのである。
15.赦さない、恐れる
天界の秘義6561
人は各々その兄弟または隣人を赦さなくてはならないことは教会の命令によっていることはマタイ伝の主の御言葉から明白である―
ペテロはイエスに言った、主よ、幾度私の兄弟が私に罪を犯して、私は赦すのでしょうか。七度までですか。イエスは彼に言われる、わたしは七度までとは言わない、七度を七十倍するまで、と言います(18・21、22)。
しかしユダヤ民族には、自分たちは決して赦してはならない、何らかの点で自分たちを傷つけた者は敵として考えなくてはならないということが刻みつけられていたため、それで彼らは、彼を憎み、その欲するままに彼を扱い、殺しさえすることも許されていると考えたのである。その理由はこの民族は内なるものを持たないで、ただ外なるものの中にのみおり、かくして内なる教会に何ら支配されなかったということであった。このことがヨセフの兄弟たちがヨセフは自分たちを憎んで、自分たちに悪を報いるだろうと非常に恐れた理由であった。
16.社会に属しているものを凡て破壊しようと企てることがその民族の中に内在している
(ユダヤ人について)
霊界日記2260
私は或る者がユダヤ人について以下のように話しているのを聞いた、即ち、それは他の国民とは全く相違しているような国民であり、大きな事柄においても、小さな事柄においてさえも、何であれ、社会に属しているものを凡て破壊しようと企てることがその民族の中に内在しているのである、なぜなら何処であれ機縁が与えられる所には、彼らは自らを入り込ませて、秩序の法則を、即ち、社会の法律〔律法〕を破壊することにまさって他のいかようなことをも歓びはしないからである。その理由は彼らは主であるところの愛と秩序そのものに対し憎悪を抱いており、その指導者らもそうしたものである、ということである。そうしたことをまた、私は多くの経験により、事実、二年に亘る経験により教えられて、知っているのである。1748年〔60歳〕6月9日
霊界日記2261
このような国民は陽 の下では与えられてはいない、凡ゆる地域の偶像崇拝者らでも彼らよりは遥かに善良である、マホメットはこうした国民が存在し、しかも存続することが出来たことを怪しんだのである。こうしたことを前の経験から憶い出すことは当を得たことであろう。
天界の秘義4750
「 ユダ・・善い意味では天的な愛の善(3654、3881番)
その対立した意義では何であれ善にはすべて反抗すること。」
天界の秘義9013
詐欺・・・一切のものを破壊する
天界の秘義9320〔2〕
イスラエル民族とユダヤ民族とがカナンの地の諸民族を滅ぼしたことは、前者が霊的な天界的な事柄を表象し、諸民族は奈落の、悪魔的な事柄を表象し、それらは到底共存することが出来ないためであった、なぜならそれらは対立したものであるからである。イスラエル民族が諸民族を滅ぼすことを許された理由はイスラエル民族の間には教会は存在しないで、単に教会を表象するものが存在したに過ぎず、従って主は彼らのもとには表象的にしか現存されなかったということであった(4307番)、なぜなら彼らは善と真理とを表象する礼拝の中にはいたが、善と真理の中にはいなかったからである。こうした民族は破壊し、殺し、殺戮し、破壊に徹することを許されはするが、しかしそうしたことは外なるものの中にいると同時に内なるものの中にいる者たちには許されてはいないのである、なぜならこれらの人々は善から行動しなくてはならないのであり、善は主から発しているからである。
17.残酷
天界の秘義4903[2]
ユダヤ民族は内なるもののない外なるものの中にいて、それで真理を誤謬であり、誤謬を真理であると信じたことは、彼らが敵を憎むことは許されていると教えたことから明白であり、また彼らは彼らの宗教を奉じなかった者たちを凡て憎んだというその生活からも明白である。また彼らは異邦人を残虐にまた残酷に扱って、彼らを殺した後ではその死体を晒し物にして鳥や野獣に食わせ、彼らを生身のまま鋸で二つ切りにし、鉄のまぐわや斧で切り刻み、焼き釜の中を通らせつつも自分からはエホバを喜ばせ、エホバに仕えているとさえ信じもしたのである(サムエル記後12・31)。更に何らかの理由で敵であると宣言された同胞をも殆ど同じように扱うことも彼らの教えには適っていたのである。かくて彼らの宗教[宗教性]の中には何ら内なるものがなかったことが明白である。もしたれかがそのとき彼らにこのような事柄は教会の内なるものに反していると言ったとするなら、彼らはそれは誤りであると答えたであろう。彼らは単に外なるものの中にいて、内なるものの何であるかを全く知らず、内なるものに反した生活を送ったことは、主がマタイ伝5章21節から48節に言われていることからもまた明らかである。
サムエル記後12・31(新共同訳聖書)
そこにいた人々を引き出し、のこぎり、鉄のつるはし、鉄の斧を持たせて働かせ、れんが作りをさせた。また、アンモン人のほかの町々もすべてこのようにした。それからダビデと兵士は皆、エルサレムに凱旋した。
サムエル記後12・31(文語訳聖書)
かくてダビデ其中の民を将(ひき)いだしてこれを鋸と鉄の千歯と鉄の斧にて斬りまた瓦陶(かわらやきがま)の中を通行(とおら)しめたり、彼かくのごとくアンモンの子孫の凡ての町になせり。
天界の秘義5057
それは奈落の歓喜であった。私は天使たちからこうしたものがヤコブの子孫を支配した歓びであり、彼らは諸民族を残酷にあしらって、彼らを殺すと、これを晒しものにして鳥獣にむさぼり食わせ、彼らを生きながらに鋸と斧とで切断し、煉瓦の焼き窯のなかを通らせ(サムエル記後12・31)、彼らの子供たちをひとまとめにして叩きつけ、投げ棄てることを無上の歓びとしたことを告げられた。このような事柄は決して命じられはしなかったし、またそのものの神経がはずれた者らを除いてはたれにも決して許されもしなかったのである(5051番)。このような霊どもは右のかかとの下に住んでおり、そこには残酷でもある姦淫者らがいるのである。
天界の秘義7248
この点では彼ら(金星に住んでいる者たちの霊)はユダヤ人とは異なっているのである、なぜならユダヤ人はその殺した者を投げ出し、野ざらしにして森の獣や鳥に食い尽くさせ、時には野蛮な残酷な方法で彼らを殺すことを歓んだからである(サムエル記後12・31)。ユダヤ人はこうしたことをいかほど歓んだかもまた、その中の多くの者のスフィアが私に伝えられたため、私は認めることが出来たのである、彼らはすばやく近づいて来て、それから逃げ去ったのである。
霊界日記2617
こうした奈落の楽しさがヤコブの子孫を支配したのである。彼らは異邦人を拷問にかけることにまさった楽しさを認めはしなかったのであり、そのことはまたダビデについて記されているのである、即ち、彼はアンモンの子孫をそのようにして拷問にかけ―サムエル前書12・31―そこにはそうした事柄が理解され、また同じようにすりつぶすことが意味されているが、しかしそれらは奈落のものであって、決して命じられはしなかったのであり、(後略)
霊界日記2618
ヤコブの子孫はこうしたものであったため、彼らは異邦人に残酷なことを行い、そこから彼らの最高の楽しさを得たのであり、それで彼らは極めて残酷であり、その言っているところでは、復讐を行う以外の目的からではなく、また聖い事柄の旗印の下にそうしたことをやってのけはするものの・・・・、ただそうした性質の欲念のみしか持たなかったのである、そのことは彼らがさらに悪い偶像崇拝家になった際彼らについて話されている事柄から明らかになるのである。彼らに、その女に、妻に、また幼児に凡ゆる残酷な振舞いをやってのけることを許されていると考えたのであり、そのこともまたナバル(サムエル記上25章)に対するダビデの敵意からも明らかであり、ナバルはそれでも彼らの兄弟たちの一人であったのである。さらに彼らは掠奪し、凡ゆる物を持ち去り、彼らの間の生き物をことごとく殺してしまうこと以外のことは何ら求めはしなかったのである。
霊界日記2619
18.凡ゆる国民の中でも最悪のもの
天界の秘義3686[2]
アブラハムはそこに行くことを命じられて、彼の子孫がその地を所有するに違いないという約束が彼に為されたのであるが、それは彼らが他の国民に勝って善良であったためではなく―なぜなら彼らは凡ての者の中でも最悪なものの中に数えられたからである(1167、3373番)―彼らにより表象的な教会が設立されるためであったのであり、その表象的な教会では人物または場所には何らの注意も払われないで、表象されている事柄に注意が払われるのであるが(3670番)、またそのことにより最古代教会と古代教会とに用いられた名が保有されるためでもあったのである。
天界の秘義3881[10]
これらの、またここに省略された多くの記事から、『ユダ』により聖言に意味されていることを認めることが出来よう、またそれがユダヤ民族でないことも認めることが出来よう、なぜならこの民族は天的な教会であるどころか、または主の天的な王国であるどころか、主に対する愛と隣人に対する仁慈については、また信仰については凡ゆる国民の中でも最悪のものであって、しかもそれは彼らの最初の父祖たちであるヤコブの息子たちの時代から現在の時までも変わらないからである。(にもかかわらずこのような人物が主の王国の天的な事柄と霊的な事柄とを表象することが出来たことは、前の3479−3481番に見ることが出来よう、なぜなら表象するものにおいては人物は顧みられはしないで、ただ表象される事柄のみが顧みられるからである、665、1097、1361、3147、3670番)。
天界の秘義4314[5]
これの記事から諸善と諸真理とはかの民族のもとでは全く破壊されたことを認めることが出来よう。諸善と諸真理とはそれらのものが内的に全く存在しない時、破壊されたと言われるのである。外的に現れている諸善と諸真理とは内なるものである諸善と諸真理からその存在と生命とを取得しており、それで外なるものは人間の目にはいかように見えようとも、それは内なるもののあるがままのものとなっているのである。私がその身体の生命の中で知っていた幾人かの者がいるが、彼らはその時は主に対し、国に対し、共通の善に対し、公正と公平とに対し熱意を持っているものとして見えたのであるが、それでも他生ではこれらの者は奈落の者たちの間におり、(驚いたことには)、そこの最悪の者の間にいるのである。その理由は、彼らの内部は醜悪で、汚れており、彼らは名誉を得、また富を獲得するために、世評をおもんぱかってかの熱意を装っていたのであり、それは彼ら自身のためであって、彼らがその口で表明したもののためではなかったということであったのである。それゆえこれらの外なるものが脱ぎ捨てられると―それは人間が死ぬ時起るのであるが―内なるものは赤裸々にされて、それが内部にあったままに現れるのである、彼らはそれを生きていた間は世から隠していたのである。これが諸善と諸真理とが全く破壊されることにより意味されている事柄である。
天界の秘義9320
かの民族は凡ての中でも最悪のものであった。
(究極の[最も外なる]天界における凡ゆる霊たちの中で最悪の者らは自らが基督教徒であると言明した者らであり、またユダヤ人である。)
霊界日記480
私は多くの経験から、最も外なる天界における凡ゆる霊たちの中で最悪の者は世で基督教徒と呼ばれている者らであることを知った。これらの者の大半は何ら信仰を持ってはいないで、真の信仰に属した事柄をことごとく迫害し、憎悪しており、自らが教えを受けることに堪えることもしない。彼らは頑強に自説を主張し、実に、極めてたばかりに満ち、主に反抗し、イエスに対する信仰に反抗し、忠実な者に反抗して、かくも甚だしいたばかりの糸をつづり合わせているため、こうした(憎悪が)彼らの『精神』または根深い性質に密着していることに驚かないわけにはいかない、なぜなら彼らはその際その気質から行動しており、その気質に放任されるときは、復讐神(フューリーズ)さながらの者となるからである。実に、マホメット教徒は、教えられることが出来て、自らが導かれることに甘んじ、容易に信仰を受けるため、そのことには非常に驚くのである。基督教徒に次いで最悪の者は、アブラハムを神として拝した者らを除いたユダヤ人であり、これらの者もまた非常にたばかりに満ちている。凡ての者の中でも最も柔和な者たちはアフリカ人であり、彼らについては前を参照(432、453番)。1748年〔60歳〕1月15日。
霊界日記5978
彼らはこのように次から次へと主を承認する者を迫害した。かくて現今のキリスト教徒はユダヤ人よりも悪いことが証明された。
19.彼らは世々に忌み嫌われる
エレミヤ24・9
わたしは彼らを、世界のあらゆる国々の恐怖と嫌悪の的とする。彼らはわたしが追いやるあらゆるところで、辱めと物笑いの種、嘲りと呪いの的となる。
エレミヤ29・18
わたしは、剣、飢饉、疫病をもって、彼らを追い、全世界の国々の嫌悪の的とし、わたしが追いやる国々で、呪い、驚愕、物笑い、恥さらしとする。
エレミヤ34・17
わたしは、お前たちを世界のすべての国々の嫌悪の的とする。
マリア・ワルトルタ/受難の前日/P133
「(前略)バビロンの奴隷たちも言っていたように、その金は異邦人の畑を買うために使われます。ああ、異邦人の畑を買うのがだれであるか分かりますか? ユダヤとイスラエルの人々です。彼らは古くからの自分たちの国土を失い、世々にわたってもはや国を持たないでしょう。彼らは死者となり、しかも自ら生命を追い返したからです。こうして彼らは世々に忌み嫌われます・・・」
イエズスは、押しひしがれたように頭を垂れて言葉を切る。
20.現今のキリスト教徒はユダヤ人よりも悪い
(究極の[最も外なる]天界における凡ゆる霊たちの中で最悪の者らは自らが基督教徒であると言明した者らであり、またユダヤ人である。)
霊界日記480
私は多くの経験から、最も外なる天界における凡ゆる霊たちの中で最悪の者は世で基督教徒と呼ばれている者らであることを知った。これらの者の大半は何ら信仰を持ってはいないで、真の信仰に属した事柄をことごとく迫害し、憎悪しており、自らが教えを受けることに堪えることもしない。彼らは頑強に自説を主張し、実に、極めてたばかりに満ち、主に反抗し、イエスに対する信仰に反抗し、忠実な者に反抗して、かくも甚だしいたばかりの糸をつづり合わせているため、こうした(憎悪が)彼らの『精神』または根深い性質に密着していることに驚かないわけにはいかない、なぜなら彼らはその際その気質から行動しており、その気質に放任されるときは、復讐神(フューリーズ)さながらの者となるからである。実に、マホメット教徒は、教えられることが出来て、自らが導かれることに甘んじ、容易に信仰を受けるため、そのことには非常に驚くのである。基督教徒に次いで最悪の者は、アブラハムを神として拝した者らを除いたユダヤ人であり、これらの者もまた非常にたばかりに満ちている。凡ての者の中でも最も柔和な者たちはアフリカ人であり、彼らについては前を参照(432、453番)。1748年〔60歳〕1月15日。
霊界日記5978
彼らはこのように次から次へと主を承認する者を迫害した。かくて現今のキリスト教徒はユダヤ人よりも悪いことが証明された。
天界の秘義2354〔2〕
主の神性を公然と否定した昔のパリサイ人でも、自分自身が高められるために、汚らわしい蓄財のために主を聖い態度で外面的には拝してはいるが、内的にはその汚れた状態を抱いている現今の者らの場合よりはその為す所は良かったのである。
21.私は、あなたがたを愛するのと同じくらい、彼らを愛している
ジャック・ネランク/あなたは預言を無視しますか・現代の預言者ヴァッスーラに聞く/天使館/P178
ネランク:あなたが受け取ったメッセ―ジには、ユダヤ人についての声明はありますか?
ヴァッスーラ:はい。一つあります。一度、こうお尋ねしたことがあったものですから―「それで、ユダヤ人やイスラム教徒は? あの人たちについてはどうお考えになりますか?」。イエスは「私は、あなたがたを愛するのと同じくらい、彼らを愛している。だから、彼らのために祈りなさい」とおっしゃいました。
ネランク:ヨーロッパをはい廻っている反ユダヤ主義について、あなたはどのようにお考えですか? ユダヤ人に対する憎しみの感情は、ここ数世紀の間、キリスト教国であるフランスやドイツで広まり、第二次大戦の大量虐殺の引き金になりました。現在もその余波が続いております。この憎しみについては、どのようにお考えですか?
ヴァッスーラ:憎悪は神からのものではありません。それはサタンに由来するものです。そう、サタンからです。
ネランク:イスラム教徒についても同じですか?
ヴァッスーラ:まったくそのとおりです。ユダヤ人とイスラム教徒に対するかつての、そして現在の迫害は、サタンが原因です。神が私たちを分割させたことなど、一度もありません。神にとって、信仰の実践をしている人々は、等しく大切です。救済されるためには、カトリックや正教会に属していることだけでは十分ではありません。これらの教会のどれかに所属していない人でも、神の似姿として造られた、神の創造物であることに変わりはありません。救済は、神の掟に従う、すべての人々に約束されています。イエスはすべての人々のために十字架にかけられました。神は、多くを受けた者に、より以上のことを要求なさるでしょう。それがキリスト教徒の特性なのです。彼らに対しては、特権が与えられるのではなく、さらに多くのことが要求されるのです。結局、神のみが審判者であり、神は愛であって、人間が地上で示した愛に応じて、お裁きになるでしょう。
22.内なる諸真理がヤコブの子孫であるイスラエル民族とユダヤ人とに明らかにされなかった理由
冒涜/
天界の秘義302
これが信仰の諸々の秘義がユダヤ人には決して啓示されなかった理由である。彼らは死後も生きることを明らかに告げられもせず、また主が彼らを救うために世に来られることも明らかに告げられはしなかったのである。彼らが陥ったところの、今も尚陥っているところの無知と愚鈍とは、内なる人の存在を、または何か内なるものの存在を知らなかったし、また今も知っていない程にも甚だしいものであった。なぜならもし彼らがそれを承認する程にも知ったとするなら、または今それを知るとするなら、その性格上必然的にそれを冒涜し、他生では、彼らには如何ような救いの希望も無くなるからである。このことがヨハネ伝に主によって意味されているところである―
かれは彼らの眼をめくらにし、その心を閉じられた、彼らが目で見て、心で理解し、回心して、わたしが彼らを癒すことのないためである(12・40)。
また主が(御自身言われているように)、彼らが
見るが見ない、聞くが聞きはしない、また理解しないために(マタイ13・13)、
彼らには譬で話されたが、その意味を説明されはしなかったことによっても意味されているのである。
天界の秘義3398[3]
これが内なる諸真理がヤコブの子孫であるイスラエル民族とユダヤ人とに明らかにされなかった理由であった、彼らは人間の中には何か内なるものが在ることをさえも、かくて内なる礼拝の在ることをさえも明らかに告げられなかったのであり、死後の生命についても、主の天界の王国についても、またはその期待したメシヤについても、殆ど何事も彼らには言われなかったのである。その理由は彼らはもしそのようなことが彼らに示されたなら、彼らは地の事以外には何物をも欲しなかったため、それを冒涜しないわけにはいかなかったことが予見されたような性格を持っていたということであった、かの民族はこのような性質を持っており、また今もそのようなものであるため、彼らが徹底した不信仰の中にいることが今も許されているのである、なぜなら彼らが一度承認した後で、後退したならば、必然的に彼ら自身の上に凡ゆる地獄の中でも最も悲惨なものをもたらしたに相違ないからである。
23.凡ゆる予言者たちは救い主の降臨を予言したけれども、ユダヤ人は彼を認めることを拒絶した理由
真の基督教246
かくの如きがユダヤ民族であった。それ故、彼らは聖言を持っていた為に、主によって紫色の衣と細布を着て、日々豪奢な生活をしていたが、その門口に腫物に全身が腫れ爛れて横たわっている乞食のラザロに憐れみを示す程の真理と善とを、聖言から些かも取得していなかった富める人間に譬えられた。かの民族は単に聖言から真理を得ることが出来なかったのみでなく、如何なる真理をも語ることが出来ないまでに数多くの虚偽を採用したのであった。何故なら、真理は虚偽によって単に蔽われるのみでなく、抹殺され、除去されるからである。この理由から、凡ゆる予言者たちは救い主の降臨を予言したけれども、ユダヤ人は彼を認めることを拒絶したのである。
天界の秘義2520[5]
聖言が人間の理解に順応して、また人間の資質に順応して語っているのは人間の合理的なものがこのような性格を持っているためである。それでこのことが聖言の内意がその文字の意義から異なっている理由であり、そのことは旧約聖書の聖言の中では非常に明白であって、そこでは大半の事柄は当時生きていた人々の把握と資質とに順応して書かれてきたのである。そうした理由から死後の生命、救い、内なる人については殆ど何ごとも言われてはいないのである。なぜなら当時その許に教会が存在したユダヤ人とイスラエル人は、もしこれらの事柄が明らかに示されたなら、単にそれらを理解しないのみでなく、さらに愚弄するといった性格を持っていたからである。そしてもしメシアまたはキリストが彼らの霊魂を永遠に救うために来られることが彼らに明らかに示されたにしても、同じことが見られたであろう、すなわちそのことをまた彼らは無意味なこととして斥けてしまったであろう、そのことはまた現今の同じ民族からも明白である、なぜなら内なるものがまたは霊的なものが現在でさえも彼らの眼前に言われて、そのメシアは地上の最大の王にはなられはしないと言われるなら、彼らはそれを愚弄してしまうからである。
24.宝石商
真の基督教 843
最後の審判・遺稿 251 [254.]
黙示録解説 717
続 最後の審判 81
黙示録啓示 540
最後の審判・遺稿 312 [292,293] 《 ユダヤ人 》
真の基督教843
霊界のユダヤ人は種々の品物、特に宝石を交易し続け、宝石が豊かに存在している天界から秘かな方法によってこれを獲得する。彼らは聖言を原語で読み、宝石に相応する文字の意義を尊ぶために、宝石を交易するのである(217、218番)。彼らはまた贋の宝石を作り出し、これを本物として適用させることが出来るが、然しこの為にその支配者によって莫大な罰金を科せられる。
続 最後の審判81(静思社『最後の審判とバビロンの滅亡』に併録)
霊界のユダヤ人
かの世界では、彼らは前の世のように、種々の物を、特に宝石を商っている。彼らはこれを宝石が豊かに在る天界から自ら、秘密の方法で得ている。彼らが宝石を商っている理由は、彼らは聖言をその原語で読み、その文字の意義を聖いものとして認め、宝石は聖言の文字の意義に相応しているということである。この相応の主題については「聖言に関わる新エルサレムの教義」(42−45)を参照されよ。彼らは彼らを北の方面で取り巻いている異邦人たちにその宝石を売っている。彼らはまた模造品を作って、それが純粋なものであると思い込ませる技術を持っているが、それを行う者はその支配者から非常な罰金を科せられる。
黙示録講解717イ〔4〕
聖言の文字の意味の諸真理が冠として現れることは霊界における冠から明白である。天界における天使たちの宮殿には宝石で輝いている多くの物が在る。時として宝石が低い地方へ降ろされて、何か善いことを行った者たちに賜物として提供されている、それらは世におけるように、特にユダヤ人によりそこで売られており、彼らはまたそこでそれで商売をしている。自然界におけるように霊界でも宝石で商売することがユダヤ人に与えられ、許されているのは、彼らは聖言の文字の意味を聖いものとして認めているためである。同じ理由からまた諸天界の下では高貴な女たちは自らを世におけるように冠で飾るのである。天界における、そこから低い地方におけるその冠は何処から来ているか、と尋ねられると、それらは主から来ており、主から発している霊的な光から来ており、それらはその光の究極的なものであって、結果と呼ばれていると言われ、またそれらは善から発した真理に対する情愛の表象的な形であり、かくて聖言の文字の意味の真理であるような、秩序の究極的なものにおける神的真理である、と言われる。これが宝石の起原であるため、霊たちの世界には、聖言の文字の意味から諸真理を共にはめ込むことにより冠を作ることを許されている者がいるが、しかしこれらの冠は純粋なものではなく、技巧的なものであるため、水晶のように固くはないのである。
啓示による黙示録解説540
聖言の諸真理が、誤謬化され、冒涜された時も、『冠りもの〔頭飾り〕』と呼ばれている理由は、その諸真理を所有している者はたれであっても、その諸真理はその諸真理自身から輝くためであり、それは地上の冠りもの〔頭飾り〕がたれの手の中にあろうと、輝いているのと同様である。私は淫婦が地から霊たちの世界へ初めて入って来た際、冠りもの〔頭飾り〕で身を飾っているのを時々見、また、ユダヤ人も、同じように、天界から手に入れたその冠りものを売っているのを見たが、そこから、こうした者における悪と誤謬も、聖言の真理の光と輝きとを変化させはしないことが明らかとなったのである。
最後の審判 遺稿293
ユダヤ人
彼らの仕事は世にいた時のようにダイヤモンドと宝石とを商うことである。彼らはそれらのものを天界から彼ら自身で贖うのである。彼らは聖言を聖いものとして認めているため、その仕事を得ていることを知る、なぜなら(聖言の)文字の意義はその宝石に相応していて、そうしたものを意味しているからである。それで彼らが聖言を聖いものとして認めるに比例して、彼らはそこでその仕事に成功するのである。
25.ユダヤ人の内部の状態は基督教を受け入れることは決定的な不可能にさえ達している
真の基督教521
ユダヤ人は、カナンの女を妻とし、義理の娘のタマルと姦淫をなし、三つの分れの家族を生んだ彼らの父祖ユダに似ており、時の経過と共にその遺伝的な気質は増大して、遂に、快く基督教を受け入れることが出来ないのはこれによるのである。私は彼らは受け入れることは出来ないと言う、それは彼らの内部の状態は決定的な不可能にさえ達しているからである。
天界の秘義2520[5]
聖言が人間の理解に順応して、また人間の資質に順応して語っているのは人間の合理的なものがこのような性格を持っているためである。それでこのことが聖言の内意がその文字の意義から異なっている理由であり、そのことは旧約聖書の聖言の中では非常に明白であって、そこでは大半の事柄は当時生きていた人々の把握と資質とに順応して書かれてきたのである。そうした理由から死後の生命、救い、内なる人については殆ど何ごとも言われてはいないのである。なぜなら当時その許に教会が存在したユダヤ人とイスラエル人は、もしこれらの事柄が明らかに示されたなら、単にそれらを理解しないのみでなく、さらに愚弄するといった性格を持っていたからである。そしてもしメシアまたはキリストが彼らの霊魂を永遠に救うために来られることが彼らに明らかに示されたにしても、同じことが見られたであろう、すなわちそのことをまた彼らは無意味なこととして斥けてしまったであろう、そのことはまた現今の同じ民族からも明白である、なぜなら内なるものがまたは霊的なものが現在でさえも彼らの眼前に言われて、そのメシアは地上の最大の王にはなられはしないと言われるなら、彼らはそれを愚弄してしまうからである。
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩 上/P117
あなたたちは頭を下げ、礼拝せよ。人類の存在がなくなる前、キリスト以前とキリスト以後の預言、または創世の書の最初のことばから始まる聖書の象徴するところが知られるべきであるので、私はまだ説明されていないところについて説明する。この贈物を快く迎え、豊かな実となるようにせよ。私が人間の中にいた時に、私の訓戒に対して心を閉じ、超自然の奥義と真理とについて、私と肩を並べることができなかったために、私のことを悪魔憑き、冒涜者と言ったあのユダヤ人のようになるな。
26.内部と外部が一致していない(白く塗った墓)
天界の秘義7046
世にいる人間のもとでは内部は外部が除かれない中は明らかになることはできない、それは悪い者のもとでは外部は内部が欲し、考えることとは全く異なったことを行うためである、なぜならその人間は尊いことを、公正なことを、また基督教的な善または仁慈を佯り装っており、それは自分が内部でもそうしたものであると信じられたいために行われるからである。かれは利得を、名声を、名誉を失いはしないかとの恐れから、また法律の刑罰を恐れる恐れから、生命を失いはしないかとの恐れからそのように行うことを余儀なくされているのである。しかしこうした恐れがのぞかれて、かれはその内部から活動すると、そのときは、内部の場合のように、かれは狂人のように他人の財産を掠奪し、その同胞をさえ破滅させ、殺害しようとの思いを吐き出すのである。内部はこうしたものであることは他生における悪い者らから更に明らかとなっている、なぜならその時外なるものは彼らから取り去られて、内なるものが赤裸々に示され(7039番を参照)、その時世では天使のように見えた多くの者は悪魔であることが発見されるからである。
天界の秘義7046〔2〕
内部と外部とのこうした甚だしい不一致は人間の状態が全く歪められていることを示している、なぜならこうした不一致は誠実な、公正な、善良なものの中にいる人間には存在しないからである、即ち、彼はその考えるように話し、その話すように考えているのである。しかし誠実なものの中におらず、公正なものの中にも、善良なものの中にもいない者らは非常に異なっており、これらの者にあっては内部は外部と一致していないのである。ユダヤ民族はこうした性格を持っていたことはマタイ伝に主により以下の言葉で示されているのである―
禍なるかな学者、パリサイ人よ、偽善者よ! おまえらは杯と皿との外観を清くするが、しかし内は強奪と放埓とに満ちている。めくらのパリサイ人よ、先ず杯と皿との内側を清めよ、その外側もまた清くなるためである。禍いなるかな、学者、パリサイ人よ、偽善者よ! おまえらは自分自身を白く塗った墓のようなものにしている、それは実際外側は美しく見えるが、しかし内側は死人の骨と凡ゆる不潔なものとで満ちている。まことにそのようにおまえらは外側では人には美しく見えるが、内側では偽善と不法とに満ちている(マタイ23・25−28)。
27.ユダヤ人は死後生きることを知らない
なぜならもし彼らが聖言の内なる事柄を知り、また彼らの間にある教会の祭儀により表象されている諸真理そのものを知り、それらを信じて、しかも彼らの性向に従って生きたとするなら、即ち、自己への愛と世への愛との中に生き、彼ら自身の間では憎悪と復讐の中に、異邦人に対しては残酷の中に生きたなら、彼らは必然的に、そのかつて信じた真理を冒涜したに違いないからである、なぜなら真理を信じつつも、それに反して生きることはそれを冒涜することであるからである。それで彼らは可能な限り内なる真理にかかわる知識から遠ざけられて(3398、3489番を参照)、自分たちは死後も生きることを知りさえもせず、メシアは魂を永遠に救うために来られていることを信じもしないで、その民族を世界の凡ゆる他の民族にもまさって高揚させるためにのみ来られると信じるほどにもなったのである。そしてその国民はそうしたものであったのであり、現今でもまたそうしたものであるため。それで彼らは例え基督教国の真中に住むとしても、依然信仰からは遠ざけられているのである。それでそこから癩病の性質が特にそのように記されたのである。
28.内なるものの無い外なるものの中にいる者らは明るくされることは出来ない
天界の秘義7012
「それをもってしるしを行わなくてはならない」。これは、その結果諸真理を明らかにして、確認することを意味していることは、『しるし』の意義から明白であり、それは真理を確認することであり(6870番を参照)、それがまた明らかにすることを意味しているのは、真理を確認することは人間が真理を知ろうとする目的から聖言を学ぶ時主から明るくされることによって行われるためである。明るくされて、その結果諸真理を確認することについては以下のことを知られたい、即ち、(ユダヤ民族やイスラエル民族のように)内なるものの無い外なるものの中にいる者らは明るくされることは出来ないし、かくてまた真理を確認することも出来ないが、それに反し外なるものの中にいると同時に内なるものの中にいる者たちは聖言を読む時は、明るくされて、その明るくされた状態の中で諸真理を認め、その後その諸真理を益々確認し、そして驚くべきことを言うのではあるが、各々の者はその真理に対する情愛に応じて明るくされ、またその生命の善の性質に応じて真理に対する情愛を持つのである。ここからまた真理のために真理を愛する情愛を持たないで、自分自身の利益のために真理を求める情愛を持っている者は、聖言を読む時も全く明るくされはしないで、単に教義的なものを、それがいかような種類のものであれ、確認するに過ぎないのである、なぜなら彼らは主の王国を求めないで、世を求め、信仰を求めないで、名声を求め、かくて天界の富を求めないで、ただ地の富を求めているに過ぎず、例えたまたま聖言から真理を知ろうとする願望に捕えられるにしても、真理に代って幾多の誤謬が現れてきて、遂には凡ゆる物が否定されてしまうからである。こうした事柄を言ったのは、明るくされることとは何であるか、その結果真理を認識することとは何であるかを明らかにするためである。
29.その国民の礼拝は不潔なものであった
天界の秘義7245
『唇が割礼を受けていない』は、その民族における神礼拝はそうしたものであったことを意味しているのである。なぜなら彼らは外なる物を拝して、信仰と仁慈である内なる物を全く斥け、否、その祭儀により意味され、表象されているものをことごとく嘲笑したように、内なるものの知識そのものをさえも嘲笑したため、その国民の礼拝は不潔なものであったのである、なぜなら彼らは自己への愛と世への愛からエホバを礼拝はしたが、エホバに対する愛から、また隣人に対する愛からは礼拝しなかったからである。歴史的な意義では、こうした礼拝がモーセが自分自身を『唇が割礼を受けない者』と呼んだことにより意味されているが、しかし内意におけるその意義は前に明らかにしたところである(7225番)。
30.だれもその律法を守らない
ヨハネ7・19
モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。
31.ただ一人の神がおられ、その神以外には一人も神は存在しないと彼らは実際口では言ったものの、心では信じはしなかった
天界の秘義7401
「私たちの神エホバのような方は一人もいないことをあなたは知ることが出来るでしょう」。(出エジプト8・6)
これは一人の神がおられ、その神以外にはいかような神も存在しないことを意味していることは以下の事実から明白である、即ち、歴史的な意味で『神エホバのような方は一人もいない』と言われている時は、内意ではエホバ以外には一人の神もおられないのであり、エホバ以外には一人の神も存在しないため、一人の神がおられることが意味されているのである。聖言には『神エホバのような方は一人もいない』と時々言われ、また『神エホバのような神は一人もいない』と言われている。聖言にそのように言われたのは、当時教会が存在した土地では、教会の存在しなかった土地と同じく、彼らは多くの神々を拝し、各々の者はその者自身の神を他の者の神よりも選んだからである。彼らはこれらの神々を名前で区別し、イスラエル人とユダヤ人の神を『エホバ』の名により区別したのである。ユダヤ人とイスラエル人自身もまた多くの神々がいることを信じたが、しかしエホバはその奇跡のゆえに他の神々よりも偉大であると信じたのであり、それでその奇跡が止んだとき、彼らは直ぐに、聖言の歴史的な部分から明らかなように、他の神々を拝する礼拝へ転落したのである。ただ一人の神がおられ、その神以外には一人も神は存在しないと彼らは実際口では言ったものの、心では信じはしなかったのである。それでこれが聖言に『エホバは他の神々よりも偉大である』、『エホバのような神は一人もいない』と言われている理由である、例えばダビデの書には―
あなたのように偉大な神はたれでしょう。あなたは驚くべきことを為される神であられる(詩篇77・13,14)。
私たちの神エホバに似たものはたれでしょう(詩篇93・5)。
エホバは偉大な神であられ、凡ての神々にまさった偉大な王であられる(詩篇95・3)。
エホバは偉大であられ、大いに賛えられねばならない、彼を凡ゆる神々にもまさって恐れなくてはならない(詩篇96・4)。
それでまたエホバは神々の中の神、主の中の主と呼ばれている(詩篇136・2、3、ダニエル2・47)。
にも拘らず、これはその内意では一人の神がおられ、その神以外には一人の神もおられないことを意味していることは、イザヤ書に明らかである―
前の事柄を代から憶えよ、わたしは神であり、他に神は一人もなく、またわたしのような者は一人もいないからである(イザヤ46・9)。
あなたのように偉大な神はたれでしょう。あなたは驚くべきことを為される神であられる(詩篇77・13,14)。
私たちの神エホバに似たものはたれでしょう(詩篇93・5)。
エホバは偉大な神であられ、凡ての神々にまさった偉大な王であられる(詩篇95・3)。
エホバは偉大であられ、大いに賛えられねばならない、彼を凡ゆる神々にもまさって恐れなくてはならない(詩篇96・4)。
それでまたエホバは神々の中の神、主の中の主と呼ばれている(詩篇136・2、3、ダニエル2・47)。
にも拘らず、これはその内意では一人の神がおられ、その神以外には一人の神もおられないことを意味していることは、イザヤ書に明らかである―
前の事柄を代から憶えよ、わたしは神であり、他に神は一人もなく、またわたしのような者は一人もいないからである(イザヤ46・9)。天界と主の慈悲について考えられるこうした見解は信仰のみの教義により、善い業を伴わないただ信仰のみによる救いの教義から生まれているのである。なぜならこうした教義を奉じている者はその生活を何ら顧みないし、かくて垢が水で洗い落とされるように、悪も洗い落とされることが出来ると信じ、かくて人間は一瞬にして善の生命へ移ることが出来、従って天界へ入れられることが出来ると信じているのである。なぜなら彼らは、もし悪の生命が悪い者らから取り去られるなら、悪い者には全くいかような生命も無くなり、もし悪の生命にいる者らが天界へ入れられるなら、その者らはその者自身の中に地獄を感じ、そしてそのことは、彼らが天界の内部へ深く入れられるに比例して、益々甚だしくなることを知らないからである。
32.彼らの中で天界にいる者は僅かしかいない
天界の秘義7439〔2〕
イスラエルの子孫が『エホバの民』と呼ばれたのは、彼らが他の幾多の国民よりも優れていたからではなく、エホバの民、即ち、主の霊的な王国に属している者たちを表象するためであったのである。彼らは他の幾多の国民よりも優れていなかったことは荒野におけるその生活から明らかである、即ち、彼らはエホバを些かも信じないで、その心ではエジプト人の神々を信じたのである、そのことは彼らが作った金の子牛から明らかであり、それを彼らは自分たちをエジプトの地から連れ出した神と呼んだのである(出エジプト記32・8)。その事はまた聖言の歴史的なものの中に記されているように、カナンの地におけるその後の彼らの生活からも明らかであり、予言者により彼らについて言われたことからも明らかであり、最後には主により彼らについて言われたことからも明らかである。
天界の秘義7439〔3〕
こうした理由からまた彼らの中で天界にいる者は僅かしかいないのである、なぜなら彼らは他生ではその生命〔生活〕に応じてその運命を受けているからである。それで彼らは他の者にも優って天界へ選ばれたと信じてはならない、なぜならたれでもそのように信じる者は、各々の者の生命は死後もその者のもとに存続していることを信じないし、また人間は世におけるその全生活によって天界へ入る備えをなさなくてはならないのであり、そのことは主の慈悲から為されるのであって、たれ一人、世ではいかような生活をしようとも、ただ慈悲のみからは天界へは入られはしないことを信じてもいないからである。天界と主の慈悲について考えられるこうした見解は信仰のみの教義により、善い業を伴わないただ信仰のみによる救いの教義から生まれているのである。なぜならこうした教義を奉じている者はその生活を何ら顧みないし、かくて垢が水で洗い落とされるように、悪も洗い落とされることが出来ると信じ、かくて人間は一瞬にして善の生命へ移ることが出来、従って天界へ入れられることが出来ると信じているのである。なぜなら彼らは、もし悪の生命が悪い者らから取り去られるなら、悪い者には全くいかような生命も無くなり、もし悪の生命にいる者らが天界へ入れられるなら、その者らはその者自身の中に地獄を感じ、そしてそのことは、彼らが天界の内部へ深く入れられるに比例して、益々甚だしくなることを知らないからである。
天界の秘義9320〔2〕
イスラエル民族とユダヤ民族とがカナンの地の諸民族を滅ぼしたことは、前者が霊的な天界的な事柄を表象し、諸民族は奈落の、悪魔的な事柄を表象し、それらは到底共存することが出来ないためであった、なぜならそれらは対立したものであるからである。イスラエル民族が諸民族を滅ぼすことを許された理由はイスラエル民族の間には教会は存在しないで、単に教会を表象するものが存在したに過ぎず、従って主は彼らのもとには表象的にしか現存されなかったということであった(4307番)、なぜなら彼らは善と真理とを表象する礼拝の中にはいたが、善と真理の中にはいなかったからである。こうした民族は破壊し、殺し、殺戮し、破壊に徹することを許されはするが、しかしそうしたことは外なるものの中にいると同時に内なるものの中にいる者たちには許されてはいないのである、なぜならこれらの人々は善から行動しなくてはならないのであり、善は主から発しているからである。
民数記21・1−3
ネゲブに住むカナン人、アラドの王は、イスラエルがアタリムの道を進んで来ると聞き、イスラエルと戦い、捕虜を引いて行った。イスラエルは主に誓いを立てて、「この民をわたしの手に渡してくださるならば、必ず彼らの町を絶滅させます」と言った。主はイスラエルの言葉を聞き入れ、カナン人を渡された。イスラエルは彼らとその町々を絶滅させ、そこの名をホルマ(絶滅)と呼んだ。」
民数記21・34−35
主はモーセに言われた。「彼を恐れてはならない。わたしは彼とその全軍、その国をあなたの手に渡した。あなたは、ヘシュボンの住民アモリ人の王シホンにしたように、彼にもせよ。」イスラエルは彼とその子らを含む全軍を一人残らず撃ち殺し、その国を占領した。
ヨシュア記6・16−17
七度目に、祭司が角笛を吹き鳴らすと、ヨシュアは民に命じた。「鬨の声をあげよ。主はあなたたちにこの町を与えられた。町とその中にあるものは、ことごとく滅ぼし尽くして主にささげよ。ただし、遊女ラハブおよび彼女と一緒に家の中にいる者は皆、生かしておきなさい。我々が遣わした使いをかくまってくれたからである。
ヨシュア記6・21
彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした。
サムエル記上15・1−3
サムエルはサウルに言った。「主はわたしを遣わして、あなたに油を注ぎ、主の民イスラエルの王とされた。今、主が語られる御言葉を聞きなさい。
万軍の主はこう言われる。イスラエルがエジプトから上って来る道でアマレクが仕掛けて妨害した行為を、わたしは罰することにした。 行け。アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない。」
サムエル記上15・18
主はあなたに出陣を命じ、行って、罪を犯したアマレクを滅ぼし尽くせ、彼らを皆殺しにするまで戦い抜け、と言われた。
34.カナンの地から放逐された理由
天界の秘義10500
表象的なものにより天界との連なり[交流]が行われるよう、主により配慮された。それには二つのことが不可欠であった。第一に、彼らのもとでは内なるものが完全に閉じられなくてはならない。第二に、彼らが礼拝を捧げている時は聖い外なるものの中にいること、なぜなら内なるものが完全に閉じられてしまった時は、教会と礼拝の内なるものはそれが恰も存在していないかのように否定されも、承認されもしないし、かくて、聖い外なるものが存在することが出来、またそれは何ものもそれに対立したりまたそれを妨害しないため、引き上げられることも出来るからである。そうした理由からまたかの国民は主における愛と信仰に属し、またその愛と信仰による永遠の生命に属した内なるものについては完全な無知の状態に置かれたのである。しかし主が世に来られて、御自身を啓示され、御自身に対する愛と信仰とを教えられるや否や、その時かの国民は、その事柄を聞いた時、それらを否定し始め、かくして以前のように無知の状態の中に留め置かれることは出来なかったのである。それでその時彼らはカナンの地から放逐されたのである。そこでは最古代から凡ゆる場所は天界と教会とに属した事柄を表象するものとされていたのである。1585、3686、4447、5136、6516
天界の秘義10500 [4]
同じ理由から現今彼らが内なるものを知り、それに反抗して知的に自分自身を強固にし、それを否定するに比例して、聖い外なるものの中には最早止まることは出来ないのである。
35.彼らに生贄が許されたのは彼らにその息子と娘とを生贄として捧げさせないため
天界の秘義1241
即ち、エベルにより新たに定められた礼拝が生まれたのであるが、しかしそれは付け加えられたものであり、また変化したものであった。特に彼らは生贄を他の祭儀にまさって称揚し始めたのである。真の古代教会では生贄はハムとカナンの子孫の若干の者たちの間を除いては知られていなかったのであり、ハムとカナンの子孫らは偶像教徒であり、彼らに生贄が許されたのは彼らにその息子と娘とを生贄として捧げさせないためであったのである。
生贄/参照
エレミヤ7・1−11
主からエレミヤに臨んだ言葉。
主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。
天界の秘義7401
「私たちの神エホバのような方は一人もいないことをあなたは知ることが出来るでしょう」。(出エジプト8・6)
これは一人の神がおられ、その神以外にはいかような神も存在しないことを意味していることは以下の事実から明白である、即ち、歴史的な意味で『神エホバのような方は一人もいない』と言われている時は、内意ではエホバ以外には一人の神もおられないのであり、エホバ以外には一人の神も存在しないため、一人の神がおられることが意味されているのである。聖言には『神エホバのような方は一人もいない』と時々言われ、また『神エホバのような神は一人もいない』と言われている。聖言にそのように言われたのは、当時教会が存在した土地では、教会の存在しなかった土地と同じく、彼らは多くの神々を拝し、各々の者はその者自身の神を他の者の神よりも選んだからである。彼らはこれらの神々を名前で区別し、イスラエル人とユダヤ人の神を『エホバ』の名により区別したのである。ユダヤ人とイスラエル人自身もまた多くの神々がいることを信じたが、しかしエホバはその奇跡のゆえに他の神々よりも偉大であると信じたのであり、それでその奇跡が止んだとき、彼らは直ぐに、聖言の歴史的な部分から明らかなように、他の神々を拝する礼拝へ転落したのである。ただ一人の神がおられ、その神以外には一人も神は存在しないと彼らは実際口では言ったものの、心では信じはしなかったのである。
ユダヤ人とガブリエルについて
霊界日記4332
ユダヤ人と新しいエルサレムとについて
霊界日記4388
貪欲についてユダヤ人と話し合ったこと
霊界日記4385
聖言とユダヤ人とについて
霊界日記4331
ユダヤ人らが私のもとにいた、彼らは聖言の内なる意義を認めはしかった、なぜなら彼らは、傲慢にも一切のものを彼ら自身に適用しようとして、文字の意義の中にとどまる気持ちを持っているからである。しかし私は彼らが互いに以下のことを示している方法で話し合っているのを聞いたのである、即ち、彼らは真の内なるものの何であるかは知りはしなかったものの、言葉の一つ一つのもの、小点の一つ一つのものの下にも或る深遠な、極めて深遠なアルカナが秘められていることを知っていると言明したのである、しかしこの内なる意義はそのあるがままのものであり、それは天的なものであることを彼らは容認はしないで、否定したのである、なぜなら彼らは、それは凡ゆる個々のことにおいても彼らを取扱っており、彼らのみが選ばれた者である、と主張しているからである。1749年[60歳]7月21日。
天界の秘義2724
「そこに永遠の神の御名を呼んだ」。これはそこから発した礼拝を意味していることは、『神の御名を呼ぶこと』の意義が礼拝であることから明白である(440番参照)。古代教会に属した者たちは名により名を理解しないで、凡ゆる性質を理解したのであり(144、145、440、768、1754、1896、2009番参照)、かくて『神の名』により、神が拝される手段となるすべてのものの一つの総合体を理解したのであり、従って愛と信仰の凡ゆるものを理解したのである。しかし礼拝の内なるものが死滅して、外なるもののみしか残らなくなると、そのとき彼らは神の名により名以外には何ごとも理解し始めなくなり、それが、彼らが礼拝する源泉である愛と信仰を何ら顧みなくなって、名前そのものを拝する程にもなったのである。そうした理由から諸国民はその神の名により彼ら自身を区別し始め、ユダヤ人とイスラエル人とは、エホバを拝し、礼拝の本質的なものをその名を口に出して、その名を唱えることに置いたため、彼ら自身を他の国民よりも優れたものとしたのであるが、名のみの礼拝は真に何ら礼拝ではないのであり、それはまた人間の最悪な者の中にすらも見出されることが出来るのであり、こうした者らはそのことによりさらに冒瀆罪を犯しているのである。
天界の秘義3769[2]
聖言が閉じられていることにより意味されていることは特にユダヤ人から認めることが出来よう、 彼らは一切の物を文字に従って説明し、そこから、自分たちは地の面に凡ゆる国民にも優先して選ばれたものであり、メシアは来られて自分たちをカナンの地へ連れて行き、地の凡ゆる国民と民の上に高めるであろうと信じているのである、なぜなら彼らは地的な形体的な愛の中に惑溺してしまっており、そうした愛は聖言をその内的な物の方面で全く閉じてしまうといったものであるからである。それで彼らは未だ天国が在るか否かを、自分たちは死後も生きるか否かを、内なる人とは何であるかを知ってはおらず、霊的なものが在ることさえも知っておらず、ましてやメシアは魂を救うために来られたことを知ってはいないのである。聖言が彼らに閉じられていることは、彼らが、イザヤ書の以下の言葉に応じて、基督教徒の間に生きてはいるものの、その教義的なものを些かも受け入れはしないという事実からもまた充分に明白となるであろう―
この民に言いなさい、あなたたちは聞いて聞きなさい、が、悟ってはならない、見て、見なさい、が、認めてはならない。この民の心を鈍くし、耳を重くし、目をめくらにしなさい。で、わたしは言った、主よ、いつまででしょうか。かれは言われた、町々が住む者もなく、家々が人もなく荒れ、土地は荒れてもの淋しい所となるまで(イザヤ6・9−11、マタイ13・14、ヨハネ12・40、41)。
天界の秘義4750[6]
ユダによりその対立した意義において表象されている者らの性質はこのようなものである。ユダヤ民族は最初からでさえもこのような愛の中にいたのである、なぜなら彼らは全世界の凡ての者を最も卑しい奴隷として見なし、また自分自身に較べては無価値な者として見なし、また彼らを憎み、あまつさえ、自己と世を求める愛から相互に連結しないときは、自分の交友と兄弟たちさえも同じ憎悪をもって迫害したからである。こうした気質は依然としてその民族のもとに残っているのである、しかし彼らは今は外国の土地で黙認の下にお情けで住んでいるため、それを隠しているのである。
天界の秘義4818[4]
この悪の性質は例により示すことが出来よう。エホバはただ一つ一つの民族のみを選ばれたのであり、他の人類はすべてそれに対しては奴隷であり、心のままに殺しても良いし、または残酷に取扱ってもよいほどに卑しいものであると自己愛の悪から信じておりー現今ではバビロンの民族もまたそのように信じているのであるが、この信念を聖言の文字の意義から確認している者らのもとでは、そのとき彼らがこの誤った教義からまたその教義を基礎としてその上に築いた他の教義から行う悪は何であれことごとく悪の誤謬から発した悪であって、内なる人を破壊し、良心がその内に仮にも形作られるのを全く不可能にしてしまうのである。これらの者が聖言に『血の中に』いると言われている者である、なぜなら彼らは、彼らの信仰箇条を崇拝しないし、かくて彼ら自身を崇拝しないし、彼らの祭壇に捧げ物を捧げない全人類に対し残酷な憤怒に燃え上がっているからである。
天界の秘義4899[2]
ユダヤ民族のもとには教会が存在しており、それは他の凡ゆる民族にもまさって選ばれ、愛されたという信念以外の何らかの信念をたれが今日持っていようか。そうした信念の理由は主として彼らの間に非常に多くの、また非常に偉大な奇蹟が行われ、非常に多くの予言者が彼らに遣わされ、また彼らは聖言を持っていたということである。それでもその民族はそれ自身では教会のものは何一つ持っていなかったのである、なぜならそれはいかような仁慈の中にもおらず、純粋な仁慈の何であるかさえ知らなかったし、また主を全く信じなかったからである。彼らは実際主は来られる筈であることは知ってはいたが、しかしそのことは彼らを全世界の凡ての者にもまさって高めるためであると考えたのであり、そしてそのことが為されなかったので、彼らは全くかれを斥けて、その天国についてはいかようなことも聞こうとはしなかったのである。教会の内なるものであるこれらの事柄をその民族は教義においてさえも承認しなかったのであり、ましてや生活においては承認しなかったのである。この凡てからでもその民族には教会のものは何一つ存在しなかったと結論してよいであろう。
天界の秘義7051
聖言の内意を何ら知っていない者らは、イスラエルとユダヤ国民は他の凡ゆる国民にも優って選ばれ、それで彼らは他の凡ての者にも優って卓越したものであるとしか信じることは出来ないのであり、そのことはまたその民族自身が信じているところである。
天界の秘義7051〔4〕
この凡てから今や、イスラエルとユダヤ国民は選ばれはしなかったのであり、まして今後選ばれるようなことのないことを認めることが出来ようし、またそのもとには教会は何一つ存在しなかったし、また存在し得る筈もなく、ただ教会を表象するもののみが存在したのであって、それが現在までも保たれてきている理由は旧約聖書の聖言のためであることを認めることが出来よう(3479番)。
天界の秘義10396
彼らは選ばれたのではなくて、彼らが言い張ったために受け入れられたのである。
4290,4293,7051、7439
天界の秘義10535
彼らの間に教会が設立されるように執拗に求めたが、それは単に彼らが全世界の凡ゆる国民よりも遥かにすぐれるために過ぎなかったのである。なぜなら彼らは他の国民にまさって自己を求める愛の中にいて、エホバが彼らのもとにおられなくては、引いてはまた教会が彼らのもとに設立されなくては決して他の国民よりもすぐれた立場に引き上げられることは出来なかったからである。なぜならエホバ、即ち主がおられる所に教会が存在するからである。これが彼らの目的であったことは聖言の多くの記事から明白である。例えば以下の言葉からも明白である。
モーセは言った。私が、即ち私とあなたの民とが、あなたの目の中に恵みを得たことは何によって知られましょうか。
それはあなたが私らと共に行かれて、私らが、即ち、私とあなたの民が地の面にいる凡ての民よりも遥かにすぐれたものとされることによりませんか。(出エジプト33・16)
天界の秘義680[2]
こうした、また他のそれに類似した例から現今の人間は如何に形体的なものであり、ユダヤ人のように、聖言に言われている事柄を最も棹雑な物質的な意義で考える気質を持っているかが、充分に明白であるに相違ない。主御自身聖言に『食物』と『パン』の意義を教えられているのである。『食物』については主はヨハネ伝に以下のように話されている―
イエスは言われた。朽ちる糧(または食物)のために労苦してはならない。永遠の生命にまでもいたる糧のために労苦しなさい。それを人の子があなたたちに与えよう(6・27)。
そして『パン』についても主は同章に言われている―
あなたらの父祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。これは天から降ってくるパンである。人間はそれを食べて死ぬことがないためである。わたしは天から降った生きたパンである。もし人がこのパンを食べるなら、かれは永遠に生きるであろう(6・49−51,58)。
40.他生を信じない
マタイ22・23
その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた
天界の秘義2813[2]
これらのすべての所に、『人の子』により、真理の神的なものの方面の、または内意における聖言の方面の主が意味されており、それが祭司長と学者らにより斥けられ、恥ずかしめられ、鞭打たれ、唾を吐きかけられ、十字架につけられたのであり、そのことはユダヤ人が文字に従って凡ゆる物を彼ら自身に適用し、僭取(せんしゅ)し、聖言の霊的意義については、天界の王国についてはいかようなことも知ろうとはしないで、メシアが来て、彼らの王国を地の凡ゆる王国の上に持ち上げるであろうと、現在でもまた信じているように、信じたという事実から明白になるであろう。ここから、彼らにより斥けられ、恥ずかしめられ、鞭打たれ、十字架につけられたのは真理の神的なものであったということが明らかである。真理の神的なものと言うも、真理の神的なものの方面の主と言うも、それは同じことである。なぜなら主は、聖言そのものであられるため、真理そのものであられるからである(2011、2016、2533番の終り)。
天界の秘義3769[2]
聖言が閉じられていることにより意味されていることは特にユダヤ人から認めることが出来よう、 彼らは一切の物を文字に従って説明し、そこから、自分たちは地の面に凡ゆる国民にも優先して選ばれたものであり、メシアは来られて自分たちをカナンの地へ連れて行き、地の凡ゆる国民と民の上に高めるであろうと信じているのである、なぜなら彼らは地的な形体的な愛の中に惑溺してしまっており、そうした愛は聖言をその内的な物の方面で全く閉じてしまうといったものであるからである。それで彼らは未だ天国が在るか否かを、自分たちは死後も生きるか否かを、内なる人とは何であるかを知ってはおらず、霊的なものが在ることさえも知っておらず、ましてやメシアは魂を救うために来られたことを知ってはいないのである。聖言が彼らに閉じられていることは、彼らが、イザヤ書の以下の言葉に応じて、基督教徒の間に生きてはいるものの、その教義的なものを些かも受け入れはしないという事実からもまた充分に明白となるであろう―
この民に言いなさい、あなたたちは聞いて聞きなさい、が、悟ってはならない、見て、見なさい、が、認めてはならない。この民の心を鈍くし、耳を重くし、目をめくらにしなさい。で、わたしは言った、主よ、いつまででしょうか。かれは言われた、町々が住む者もなく、家々が人もなく荒れ、土地は荒れてもの淋しい所となるまで(イザヤ6・9−11、マタイ13・14、ヨハネ12・40、41)。
41.マナを『くだらないパン』と呼んだ
『顔に汗を流してパンを食べる』(創世記3・19)ことは天的なものに反感を持つことであることは『パン』の意味から明らかである。『パン』により霊的な天的なものがことごとく意味され、それは天使たちの食物であって、それを奪われると、彼らはパンまたは食物を奪われた人間のように死んでしまうのである。天界の霊的な天的なものはまた地上のパンに相応していて、更にそれにより表象されているが、そのことは聖言の多くの記事により示されている。天的な霊的な霊的なものはことごとく主から発生しているため、主はパンであられることを、主御自身ヨハネ伝に教えられている―
これは天からくだるパンである、このパンを食う者は永遠に生きるであろう(ヨハネ6・58)
それ故またパンと葡萄酒とは聖餐に用いられているシンボルである。この天的なものはまたマナにより表象されている。天的な霊的なものは天使たちの食物となっていることは、主の御言葉から明らかである―
人はパンのみによって生きない、神の御口から発する凡ての言葉によって生きる(マタイ4・4)。
即ち、天的な霊的なもののことごとくが発してくる源の主の生命から生きるのである。
天界の秘義276[2]
洪水のすぐ前にいて、ここに取扱われている最古代教会の最後の子孫は徹底的に堕落して、感覚的な身体的な物の中に溺れ、もはや信仰の真理とは何か、主とは何か、または主は来られて彼らを救われることを聞こうとはしなくなり、このようなことが言われると、面を反けたのである。こうした反感が『顔に汗を流してパンを食うこと』により記されているのである。同様にユダヤ人もまた天界的なものの存在を認めないで、単に世的なメシヤを欲するといった性格を持っていた結果、マナに対してはそれが主を表象していたため反感を覚えないわけにはいかないで、それを『くだらないパン』と呼んだため、火の蛇が彼らの間に送られたのである(民数記21・5、6)。更に彼らが涙にくれた逆境と悲惨の状態の中に在って彼らに与えられた天界的なものは彼らにより『逆境のパン』『悲惨なパン』『涙のパン』と呼ばれた。私たちが今取り扱っているこの記事では、反感をもって受け取られたものは『顔の汗のパン』と呼ばれている。
天界の秘義277
これが内なる意義である。文字に固執する者は人間は勤労によって、または顔に汗を流して土地から自分のためにパンを得なければならないとしか理解しない。しかし『人間』はここでは誰か一人の人間を意味しているのでなく、最古代教会を意味しており、『土地』も土地を、『パン』もパンを、『庭園』も庭園を意味しているのではなく、既に充分に示したように、天的な霊的なものを意味しているのである。
42.彼らは他の民族にもまさって自己と世を求める愛の中にいた
天界の秘義4825
かの民族におけるこの偶像崇拝は彼らの内なる偶像崇拝からその起原をもっていたのである、なぜなら彼らは他の民族にもまさって自己と世を求める愛の中にいたのであり(4459、4750番)、自己と世を求める愛の中にいる者らは内なる偶像崇拝の中にいるからである、なぜなら彼らは彼ら自身と世とを拝して、聖い儀式を自己崇拝と利得とのために、即ち、自己を目的として遂行しており、即ち、それは主の教会と王国とを目的としないで、かくて主を目的としないで遂行されるからである。
43.ヤコブの子孫は再生により遺伝悪が根絶されることを許そうとしなかった
天界の秘義4317[6]
ヤコブの子孫は再生により遺伝悪が根絶されることを許そうとしなかったため、それは彼らから根絶されることが出来なかったことも同じく聖言の歴史的なものから明らかである、なぜなら彼らはモーセの書により記されているように荒野で凡ゆる試練において敗北し、また後にはカナンの地でも、奇蹟を見ない時はいつでも敗北したからであるが、しかもその試練は外的なものであって、内的または霊的なものではなかったからである。霊的な事柄については彼らは試みられるはずはなかったのである、なぜなら前に示したように彼らは内なる真理を知らなかったし、内なる善も持たなかったし、それでたれ一人その知っているものの方面で、またその持っているものの方面で試みられる以外には試みられることは出来ないからである。試練こそ実に再生の方法そのものである。これらの事柄が彼らが再生を許さなかったことにより意味されているのである。他生における彼らの状態と運命については、前を参照されたい(939−941、3481番)。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P169
遠い国からきた東の博士たちは、星によって「義の太陽」へと導かれた。この遠くからきた人々は、「義の王」を拝し敬うことによって心の願いを満たしたが、一方、ある意味で主ご自身の民であったユダヤ人は、主を拒み十字架にかけ、祝福を失うに至った。人々は真実を求めて東からも西からも辿り着き、主をみつけて心と魂から主を敬い、わが身を犠牲として御足元に投げ出す。この犠牲によって、彼らは天国で永生を受け継ぐのである。一方、ある意味で主ご自身の民である“クリスチャン”は、言葉と行ないによって主を拒み、計り知れない損失をみている。東から来た博士たちは長く留まらず、キリストの教えをきくことも、奇蹟をみることも、十字架、復活、昇天の場にも居合わせなかったため、世界には何も伝えられなかった。同じように、真実を探究する人の中にも、主との至福に満ちた交わりに生き、生命を分かち与える神の力を体験することがないために、世界に何も伝えらずにいる人々がいる。