貪欲

 

 

 

 

ルカ12・15

 

そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

 

 

 

ルカ12・33−34

 

自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。

 

 

 

エフェソ5・5

 

 すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。

 

 

 

コロサイ3・5

 

だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。

 

 

 

天界の秘義938

 

 貪欲な者は凡ゆる人間の中で最も卑賤であって、死後の生命、霊魂、内なる人については些かも考えはしない。彼らは凡ての人間の中でも最もその思いを高揚させはしないで、それを形体的な地的な物の中に沈め、またそれをことごとくその中に浸しているため、天界とは何であるかを知りさえもしない。それゆえ彼らは他生に入って来ると、自分が霊であることを長い間知らないし、自分は依然全く身体の中にいるものと考えている。その貪欲からいわば形体的なものに、地的なものになった彼らの思考の観念は凄惨な幻想に変化する。以下のようなことは信じられないことのように思われるが、それでも真である。即ち、他生では卑賤なまでに貪欲な者はその金が置かれている地下室の中で多忙を極め、そこで鼠に悩まされるように自分自身には思われており、しかも如何ほどその鼠に悩まされようとも、彼らが倦み果てるまではその鼠は去りはしないため、それで遂に彼らはこの墓場から漸くの思いで出て行くのである。

 

 

 

天界の秘義939

 

卑賤なまでに貪欲であった者らの思考の観念は如何に卑賤な幻想に変化するかは、足下の深い辺りに在る彼らの地獄から明白である。煮沸器でその針毛をけずり落とされた豚から発してくる発散気のようなものがそこから発している。更に貪欲な者のホームが在る。最初そこに来る者は黒く見えるが、しかし豚がその針毛をけずり落とされるようにその髪をけずり落とされるため、自分自身には白くなったように思われる。その時そのように彼らは彼ら自身には見えるが、しかし依然そこから何かのしるしが残っていて、その印により彼らは何処に行こうと知られる。或る一人の黒い霊が霊たちの世界に更に長く止まらねばならなかったため、未だその者自身の地獄に連れられて行かなかったが、(その霊は他の者のように貪欲ではなかったものの、それでも生前他の者の富を邪にも渇望したのであるが)そこへ引き下ろされたのである。彼がそこへ着くとすぐにそこの貪欲な者どもは、彼が色が黒くて自分らを殺そうとしているから、強盗であると言って、逃れ去ったのである。なぜなら貪欲な者は己が生命を失うことを特に恐れ、こうした霊から逃れるからである。遂に彼らは彼がそのような強盗でないことを知ると、もしあなたが白くなりたいなら、あなたは単に豚のように―その豚は充分によく見えたのであるが―髪を取ってもらえさえすればよい、そうするなら白くなりますよ、と彼に告げた。しかし彼はそうしたことを願わなかったので、霊たちの間に取り上げられたのである。

 

 

 

天界の秘義940

 

この地獄に卑賤なまでに貪欲であったユダヤ人らが大半いて、その者らが他の霊のもとへ来るとその出現もまたはつか鼠の臭気として認められている。ユダヤ人については、その都と荒野の強盗どもについて若干語って、彼らの死後の状態はいかに悲惨なものであるかを示そう、とくに卑賤なまでに貪欲であって自分自身を選ばれた唯一の民族であると考える生来の傲慢の結果、他の者たちを自分自身と比較して軽蔑した者らの死後の状態は如何に悲惨であるかを示そう。彼らは(新しいエルサレムにより諸天界と地上の主の王国が意味されていることを理解しようとする気持ちを持たないで)自分はエルサレムと聖地へ行って、それを所有するという幻想を、身体の内の生命の間に、自分の中に抱いて、それを確認した結果、他の世界に来ると、彼らにゲヘンナの左側の、やや前面に一つの都が現れ、これに彼らは群をなして集まるのである。しかしながらこの都は沼地で悪臭を発していて、彼らはこれらの都がまたその中の街路がその凡ての汚物と共に白日の下に在るかのように表象されているのを見るが、実に私自身も時々それを眺めたのである。かつて私のもとへ或る一人の色の浅黒い霊がこの汚れたエルサレムからやって来て現れたが、その門は開かれているように見えたのである。彼は特にその左側を遊星に囲まれていた、霊の周囲の遊星は霊界では誤謬を意味しているが、しかし星が遊星でないときは異なっている。彼は近づいてくると、私の左の耳の上部に身を寄せ、私と話そうとして、それにその口をつけるように見えた。しかし彼は他の者のように声高い語調ではなく、彼自身の中で、それでも私が聞いて理解出来るような仕方で語ったのである。彼は自分はユダヤ人のラビであると言い、自分は長い間その泥の都に居り、その街路は泥と塵埃以外の何物でもないと言い加えた。彼はまたその中には塵埃以外には食物は全くないと言った。私が霊であるあなたは何故食べたがるのかと尋ねると、彼は自分は実際食べるのであり、そして食べようとすると、泥以外には何物も提供されず、それが自分を甚しく悲しませると答えた。彼はアブラハム、イサク、ヤコブと会おうとしたが、出来なかったので、どうしたら良いかと尋ねた。私は彼らについて若干特殊なことを述べ、彼らを探しても無駄である、たとえ彼らが見つけられても、彼らはあなたに到底いかような援助も与えることは出来ないと彼に告げた。私は更に深い意味を持った事柄に言及した後で、あなたが地上で軽蔑したメシヤであられる主のみを除いては何人をも探し求めてはならない、かれは全天界と全地とを支配されており、救いはかれのみから来ると言った。それで彼は主は何処におられるかと不安気に繰り返し尋ねた。私はかれは到る所に見出されることが出来る、かれは凡ゆる人間を聞いておられ、知っておられると答えた。しかしその瞬間他のユダヤ人の霊どもが彼を拉し去ったのである。

 

 

 

天界の秘義954

 

 貪欲からは、その貪欲の種類に応じ、ねずみに悩まされるといった幻想が突発してくる。快楽のみを歓び、それを究極の目的といて、最高の善として、いわば自分の天国として考えた者どもは厠に止まっていることに最高の歓びを覚え、そこに極めて楽しいものを認めている。尿の悪臭が発したたまり水を歓ぶ者もあり、沼地を、その他そうしたものを愛する者もいる。

 

 

天界の秘義1327[4]

 

そしてこれが内なるものを知り、これを承認するようになって、しかもそれを冒涜するよりも、むしろ快楽と欲念の中に生き、そうしたものにより自分自身を内なる事柄から遠ざけることが人間に許されている理由である。こうした理由からユダヤ人は現今自分自身を貪欲の中に浸すことを許されているが、それはそのことによりかれらは内なるものを承認しないようにそこから更に遠ざけられるためである、なぜならかれらはもし内なるものをかりにも承認するとするならば、それを冒涜しないわけにはいかないといった性格を持っているからである。貪欲は最も低い地的な欲念であるため、それ程人間を内なるものから遠ざけるものは何一つない。教会の中の多くの者の場合も同一であり、また教会の外の異邦人の場合も同一である。この後の者は、すなわち異邦人は凡ての者の中でも最も冒涜を犯すことはできないのである。それでこれがエホバは全地の唇を乱されたとここに言われている理由であり、またこの言葉が教会の状態が変化して、その礼拝は外なる礼拝となり、凡ての内なる礼拝を欠くようになったことを意味している理由である。

 

 

天界の秘義1742[2]

 

悪霊がもっており、また悪霊が極度に愛している生命は自己への愛と世への愛といくたの欲念の生命であり、引いては復しゅうと残酷との生命であり、悪霊はそれ以外の生命にはいかような歓びもありえないと考えている。かれらはこうした欲念の歓喜に生命の凡てを置いて、こうした生命が唯一の生命であって、それを失うときは自分は全く死滅してしまうとのみしか考えない人間のようなものである―なぜならかれらは人間であったのであり、人間であったとき、その生命からこうした信念を得ているからである。しかしかれらの愛している生命はいかような性質を持っているかは他生におけるこのような性質の者らから明白であり、そこではそれは悪臭を発する排泄物のような生命に変化するのであって、しかも驚嘆すべきことには、かれらはその悪臭を極めて楽しいものとして認めているのである、このことは820、954番に経験から述べられたことから認めることができよう。

 

[3]かの魔鬼どもの場合もそれと同じであったのであり、かれらは主がかれらを狂人から追い出されたとき、自分の生命を恐れて、自分らが豚の中へつかわされるように求めたのである(マルコ5・7−13)。これらの魔鬼は身体の生命にいた頃は汚れた貪欲に溺れた者であったことは以下の事実から認めることができよう、すなわち、こうした者は他生では豚の間に己が時を過ごしているようにこうした者自身に思われているのであり、それは豚の生活が貪欲に相応していて、それでそれがかれらには快いものとなっているという理由によっているが、そのことは939番に経験から述べられていることから明白である。

 

 

天界の秘義4751[2]

 

「わたしたちがわたしたちの兄弟を殺して、その血をかくしたとしても何の利益があろう」(創世記37・26)。

 

ここの『利得』は利得になるもののみでなく、栄誉も意味していることは、または、『それは何の利益になろう』は何一つ利得にも、または栄誉にもならないであろうということを意味していることは、このことが欲念とどん欲から言われたためである、なぜなら利得の欲念とどん欲とは、全世界を所有するのみでなく、利得のためには凡ゆる者をも殺そうとする欲望をその中に持っており、実にこのような欲念に駆られた者は、法律に妨げられないなら、ほんの些少な利得のためにでも殺人罪を犯すからである。さらこのような人間は、金銀を得ると、その外面ではいかほど自分を卑下してみせようとも、自分自身を権力では最大なものとして認めるのであり、そのことはどん欲の中には世への愛のみでなく、自己愛が在り、実に最も汚らわしい自己愛が在ることを示しているのである。なぜならさもしいほどにもどん欲な者の中には心の高揚または誇りは時としては見栄えのためには富には無頓着であるため、それは外面的にはそれほど目立ってはいないし、またそれは通常快楽と連結しているところのあの種類の自己愛でもないからである、なぜならこのような者は身体とその食物と衣服にはほとんど関心を持たないからである。しかしそれは全く地的な愛であって、金以外には何ものも目的とはしていないのであり、それを得ると、自分自身が事実としてではないが、潜在的には、他の凡ての者にまさっていると信じるのである。このことからどん欲には最も低くて、また最も卑しい自己愛が在ることが明白であり、そうした理由から他生ではどん欲な者は豚の間にいるようにその者自身に思われており(939番)、かれは他の凡ての者にもまさって何であれ凡ての善に反抗するのである。従ってかれらは善いものや真のものを全くみとめることができないほどにも暗闇にいて、人間には死後も生きる何か内なるものが属していることを些かも悟らないのであり、そのようなことを言う者たちを心で嘲笑しているのである。

 

 

天界の秘義5177

 

 将来のことを非常に案じて、そのため欲が深く、どん欲になった者は胃が存在している領域に現れる。そこに多くの者がわたしに現れたのである。かれらの生命のスフィアは胃から発散されるむかつくようなにおいに、また消化されないために起ってくる重苦しさにたとえることができよう。こうした性格の者たちはこの領域に長く止まっているが、それは将来について思いわずろうことが、行為により確認されると、そのことは霊的な生命の流入を鈍くし、妨害するためである、なぜならかれらは神的摂理のものであるものを[神から供えられたものを]かれら自身に帰しており、こうしたことを為す者は流入を妨害し、かれら自身から善と真理との生命を取り去ってしまうからである。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/2卷P551/130・5

 

貪欲。『あの人はわたしが持っていないものを持っている。わたしは彼が持っているものが欲しい。しかし彼の地位を手に入れるには、彼に関わる悪評をばらまくしかない。そしてわたしはそれをやる。嘘を吐くのか? それが何だというのか? 騙し取る? それが何だ 一家族を崩壊に至らせる? それがなぜ悪い? この狡猾な嘘吐きが投げかける自問の中に、彼は忘れたい一つの問いを忘れています。それは、『もしそれがばれたら?』という問いです。それをしないのは、高慢と貪欲に目が眩み、目が塞がれているからです。危険が見えません。酔い痴れた人のようです。悪魔の葡萄酒による酩酊者であり、サタンよりも遥かに強く、中傷された者に代って復讐されることを考えに入れていません。嘘吐きは嘘(サタン)に身を売り、愚かにもその保護に頼ります。

 

 

 

 

守銭奴

 

 

真の基督527