ユダヤ教会・表象的教会

 

 

 

ヘブライ7・18−19

 

その結果、一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。―律法が何一つ完全なものにしなかったからです。

 

 

ヘブライ9・9−10

 

この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです。これらは、ただ食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもので、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません。

 

 

ヘブライ10・1−4

 

 いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか。ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです。

 

 

 

天界の秘義866

 

『からす』が誤謬を意味していることは、からすについて言われ、示されたことから明白である、すなわち、からすは理解に、理性に、記憶知に属した事柄を意味しており、またそれに対立したものである理論と誤謬とを意味しているのである。この両方とも聖言では色々な種類の鳥により記されていて、理解の真理はおとなしい、美しい、清い鳥により、誤謬は貪欲な、醜悪な、不潔な鳥により記され、何れの場合でも真理の、または誤謬の種類に従って変化しているのである。粗雑な、甚だしい誤謬はふくろとからすにより記されているが、それがふくろにより記されているのは、ふくろは夜の暗黒の中に生きているためであり、からすにより記されているのは、からすは黒い色をしているためである。例えばイザヤ書には―

 

またふくろもからすもその中に住むであろう(34・11)

 

 そこにはユダヤ教会が、ふくろとからすにより表象されている誤謬そのものの住居として記されているのである。

 

 

 

 

天界の秘義885

 

真理。

「葉」が真理を意味することは聖言の多くの記事から明らかであり、そこには人間は木にたとえられ、または木と呼ばれており、「果実」は仁慈の善を、「葉」はそこから発した真理を意味している(それらは実にそうしたものに似ているのである)。例えばエゼキエル書には、

 

  そしてその川のそばのその岸のこちら側とむこう側とに食物のための木がことごとく生えており、その葉は落ちない、実もまた尽きることもなく、月毎にそれは新しく生まれている。その水は聖所から流れ出ているためである。またその実は食物となり、その葉は薬となるであろう。(47・12、黙示録22・2)

 

ここに「木」は主の王国を内に宿した教会の人間を意味し、その「果実」は愛の、また仁慈の善を意味し、その「葉」はそこから発した諸真理を意味し、その諸真理は人類に教え、人類を再生させるために役立っており、そうした理由から葉は「薬」になると言われている。さらに―

 

  かれはその根を引き抜き、その果を切り去られてそれは枯れてしまわないであろうか。これはその枝の葉をことごとく摘みとられて枯れてしまうであろう。(17・9)

 

これはぶどうについて、すなわち、剥奪される状態におかれた教会について言われており、「果実」であるその教会の善と「摘みとられた枝の葉」であるその教会の真理はかくて死滅してしまうのである。エレミヤ記には―

 

  ぶどうにはぶどうの実はなく、いちぢくの木にもいちぢくの実は無く、葉は落ちてしまった。(8・13)

 

「ぶどうの実」は霊的な善を、「いちぢくの実」は自然的な善を意味し、「葉」はこの場合、落ちてしまった真理を意味している。イザヤ書にも同じことが言われている。(34・3)

同じことがイエスが眺められ、葉の外には何物もその上にはないのを見られ、そのために枯死してしまったいちぢくの木によっても意味されている。(マタイ21・19,20、マルコ11・13.14.20)

とくにこのいちぢくの木により自然的な善のいかようなものも最早存在しなくなったユダヤ教会があって、その中に保存された宗教的な教訓または真理が葉なのである。なぜなら剥奪された教会は真理を知ってはいるが、しかしそれを理解しようとはしない底のものとなるからである。自分は真理をまたは信仰のいくたの事柄を知っているとは言うが、しかし仁慈の善を何ら持っていない者もそれに似ていて、かれらはいちぢくの葉に過ぎず、枯死してしまうのである。

 

 

 

 

 

天界の秘義1850[]

 

 ヘブル教会は新しい天と新しい地であったが、これもまたその最後のときをまたは最後の審判をもったのであり、そのときそれは偶像崇拝的なものとなったのである、次にヤコブの子孫の間に新しい教会が起されて、それはユダヤ教会と呼ばれたが、これは仁慈と信仰とを単に表象する教会であったのである。この教会の中には、すなわち、ヤコブの子孫の間には、仁慈もなく信仰もなく、それ故教会はなく、たんに以下の理由から教会を表象するもののみがあったに過ぎなかったのである、すなわち、そこには諸天界の主の王国と地上の何らかの真の教会との直接的な交流が存在することが不可能になり、それ故間接的な交流が表象的なものにより行われたのである。この教会と呼ばれている教会の最後のときは、またはその最後の審判は主が世に来られたときであった、なぜならその表象的なものはそのとき停止され、すなわち、生けにえとそれに類した祭儀は停止され、そしてこれらのものが停止されるために、ユダヤ人はカナンの地から追放されてしまったからである。

 

 

 

天界の秘義2910[3]

 

このような終りを持った幾多の教会が私たちに聖言から知られているのである。最古代教会は洪水の頃このようにして消滅したのであり、同じように洪水以後に存在した古代教会も消滅したのであり、またヘブル教会と呼ばれた第二古代教会も消滅したのであり、最後にユダヤ教会も消滅したのであるが、このユダヤ教会は決して仁慈から始まった教会ではなく、単に教会を表象するものに過ぎなかったのであり、それは主が世に来られるまで、表象的なものにより天界との交流が存続するためのものにすぎなかったのである。その後異邦人の教会と呼ばれる新しい教会が主により起されたが、それは内なる教会であったのである、なぜなら内的な諸真理が主により啓示されたからであるが、しかしこの教会も今や終りに達しているのである、なぜなら今や仁慈が存在しないのみでなく、仁慈に代って憎悪が在るからであり、その憎悪は、外面的には現れてはいないけれど、それでも内に潜んでいて、各々のもとに可能な時はいつでも、即ち、外面的な束縛によって抑制されないときはいつでも、迸り出てくるほとばしり出てくるからである。

 

 

 

天界の秘義3480

 

かの国民における不潔なものすらも、聖言の内部がまたはその霊的なものと天的なものとがそれにも拘らず天界に示される妨げとはならなかったこともまた示されたのである、なぜなら不潔なものは認められないほどにも遠ざけられ、悪は善に向けられ、かくて単に外なるものは面として役立ち、かくして聖言の内なるものはいかようなものにも妨害されないで天使たちの前に示されたからである。このことから、いかようにして内的には偶像を崇拝しているかの民族が聖い物を表象し、主御自身をすら表象することができたかが、かくていかようにして主が彼らの不潔の中にすら住まわれることができたかが(レビ16・16)、従っていかようにして教会のような物がそこに在り得たかが明らかにされたのである、なぜならたんに表象的な教会は教会に類似したものではあるが、教会ではないからである。

 

 

 

天界の秘義3480[2]

 

 基督教徒にあってはこうしたことはありえない、それは彼らは礼拝の内的な物を熟知してはいるが、それを信じはしないし、かくて彼らの内なるものから分離した聖い外なるものの中には在りえないためである。更に信仰の生命の中にいる者たちにおいては、

彼らに属している善により交流が行われるが、その間悪と誤謬とは遠ざけられているのであり、聖言の凡ゆるものは、彼らにより読まれているときは、天使たちの前に開かれているのであって、しかもそのことは(多くの経験から私に示されたように)たとえそれを読んでいる者がその意味に注意していないにしても行われるということは注目すべき事実である、なぜなら彼らの中の内なるものが―それはそのようには認められていないが―面として役立っているからである。

 

 

 

天界の秘義4281

 

かれらはその礼拝の凡てにおいてそれ以外のものは何らかえりみなかったのであり、そのことは神礼拝はかれらには偶像礼拝と何ら異なったものでなかったほどにもなっていたのである、なぜなら内なる礼拝が外なる礼拝から分離すると、それはたんに偶像礼拝となるからである。かれらのもとに設立された教会は教会ではなくて、ただ教会を表象するものにすぎなかったのであり、そうした理由からその教会は表象的教会と呼ばれているのである。このような人々のもとには教会を表象するものがありうることは前に見ることができよう(1361、3670、4208番)。

 

 

天界の秘義4281[2]

 

それで教会を表象するものがかれらの間に現れるため、全く表象的なものであった教令と律法とが明らかな啓示によりかれらに与えられたのであり、それでかれらがそうしたものの中にいて、そうしたものを厳格に守っているかぎり、かれらは表象することができたのであるが、そうしたものから外れて、例えば他の民族の教令と律法に、とくに他の神々を拝する礼拝に心を向けると、そのときは彼らは彼ら自身から表象する能力を剥ぎ取ったのである。そうした理由から彼らは、捕囚、禍、脅迫、奇蹟といった外的な手段により、真に表象的なものである律法と教令へ駆り立てられたのであるが、しかし外なる礼拝の中に内なる礼拝を持っている者たちのように、内なる手段によりそうしたものへ駆り立てられたのではなかったのである。こうした事柄が『ヤコブのもものくぼみの関節が外れること』により、そのことがヤコブとその子孫とに関連した内なる歴史的意義において解されるとき意味されているのである。

 

 

天界の秘義4288[2]

 

しかし表象的な教会とは何であるか、教会を表象するものとは何であるかを知られるように。外なる礼拝の中に内なる礼拝が存在しているとき表象的な教会が存在しており、内なる礼拝は存在しないが、それにも拘らず外なる礼拝が存在するとき、教会を表象するものが存在しているのである。その両方のものの中にはほとんど同じような外なる祭儀が在るのであり、すなわち、同じような教令、同じような律法、同じような法令が在るのである。しかし表象的な教会の中には外なるものは内なるものに相応して、一つのものとなっているが、これに反し教会を表象するものの中には相応は存在していないのである、なぜなら外なるものは内なるものを欠いている、またはそれと矛盾しているか、その何れかであるからである。表象的な教会の中では天的な霊的な愛は第一次的なものとなっているが、教会を表象するものの中には身体的な世的な愛が第一次的なものとなっているのである。天的な霊的な愛は内なるものそれ自身であるが、しかし天的な霊的な愛が存在しないで、ただ身体的な世的な愛のみが存在している所には、外なるものは内なるものを欠いているのである。洪水以後に存在した古代教会は表象的な教会であったが、しかしヤコブの子孫の間に設立されたものは単に教会を表象するものにすぎなかったのである。

 

 

天界の秘義4288[5]

 

 このことから表象的な教会と教会を表象するものとの間の区別のいかようなものであるかが明白である、全般的に言って、表象的な教会のものであった者たちはその内部の方面で三つの天界と交流したのであり、その内部にこの外なるものは面として役立ったのであるが、しかし教会を表象するものの中にいた者はその内部の方面では諸天界とは交流しなかったのであるが、それでもかれらがその中にとどめおかれたところの外なる物は面として役立つことができたのであり、しかもこのことは、教会の何か類似したものによって、天界と人間との間に多少の交流が存在するようにとの意図の下に主の摂理により奇蹟的に行なわれたのである、なぜなら教会の何かを通して天界が人間と交流しないなら、人類は死滅するからである。内なるものの相応の何であるかは僅かな言葉では述べられることはできないが、主の神的慈悲の下に以下の頁に述べることにしよう。

 

 

天界の秘義4289

 

この間の実情は、教会を表象するものは、かれらが全く荒廃してしまわない中は[剥奪されてしまわない中は]、すなわち、内なるものを何ら知らなくならない中はかれらの間に、設立することができなかったということである、なぜならもし彼らが内なるものを知ったなら、そのものにより心を動かされることができて、かくてそのものを冒涜してしまったからである。

 

 

天界の秘義4289[2]

 

 それでヤコブの子孫がカナンの地のいくたの表象物の中へ入ってくる以前に、教会を表象する純粋なものが(すなわち、内なるものが)かれらのもとから離れ去って、彼らが主については全くいかようなことも知らなくなるようにと配慮されたのである。(中略)彼らはこうした無知に陥るために数百年もエジプトに留め置かれたのであり、そこから呼び出されたときは、エホバの名前さえ知らなかったのである(出エジプト記3・12−14)。さらに彼らは表象的な教会の礼拝をことごとく失ってしまい、十戒の誡命がシナイ山から彼らの前に布告された後で、一ヶ月以内に早くも金の子牛を礼拝するエジプトの礼拝に舞い戻ったほどにもなったのである(出エジプト記32章)。

 

 

天界の秘義4289[3]

 

 エジプトから連れ出された子孫はこのような性格のものであったため、彼らは凡て荒野に死滅してしまったのである。なぜなら彼らには、教令と法令とを外なる形で守る以上のことは何ら求められはしなかったが、それはそのことが教会を表象するものとして行動することであったためであるが、しかしエジプトで成長した者らはそれを守るようにしむけられることはできなかったからである、それでも彼らの子孫はヨシュア記と士師記から明らかなように、たとえ最初は奇蹟により、後には恐怖と捕囚とにより、困難ではあったものの、それを守るように仕向けられることができたのである。このことから教会を表象する純粋なものは、または内なるものはことごとく彼らが―カナンの地に入る以前に彼らから離れ去ってしまい、カナンの地で教会を表象する外なるものが完全な形をもって彼らの間に始ったことが明白である。なぜならカナンの地は凡ての地の中でも教会を表象するものが示されることのできる唯一の地であったからであるが、それはこの地の場所の凡てと境界の凡ては古代から表象的なものであったためである(3686番を参照)。

 

 

天界の秘義4449[2]

 

ヤコブの子孫の間に設立された新しい教会はその外面の形では、古代教会に似ていた

 

 

天界の秘義4545[6]

 

このことからイスラエルに命じられた祭儀は、それがたんに聖い事柄を表象したためにのみ聖かったことが明らかである、従って表象した者たちはそのことによりその人柄の方面で聖くなったのではなくて、彼らにより抽象的に表象された聖いものが彼らのもとにいる霊たちを感動させたのであり、そのことにより天界の天使たちを感動させたことも明らかである。

 

 

天界の秘義4545[7]

 

なぜなら人類が存続するためには当然天界が人間と交流していなくてはならないからであり、しかもこのことは教会により行われるのである、なぜならもしそうでないと人類は内なる、また外なる束縛をもたないで、獣のようになり、かくて各々の者は他の者の破滅を遂行するために拘束されもしないで突進し、かれらは互に他の者を殲滅するからである。そしてその当時この交流はいかような教会によっても行われることはできなかったため、それで主によりそれが表象的なものにより奇蹟的に行なわれるように配慮されたのである。

 

 

天界の秘義4835

 

このことからユダヤ教会は新しい教会ではなくて、死滅していた古代教会の復活であったことが明らかである。

 

 

天界の秘義6692〔3〕

 

それで教会の表象的なものと表意的なものとが更に魔法に変化しないように、そのもとで教会の表象的なものと表意的なものとが回復されることの出来るイスラエル民族が取られたのであり、その民族は全く外なるものの中にいて、内なるものを何ら信じないし、ましてや霊的なものは何ら信じていなかったため、そこからは〔教会の表象的なものと表意的なものからは〕魔法的なものは何一つ作ることが出来ないといった性質を持っていたのである。こうした性格の民族の下では、エジプト人のもとに存在したような魔術は起る筈は無いのである。

 

 

天界の秘義7048

 

「するとかれは彼から離れられた」。これは彼らが表象することが許されたことを意味していることは、『彼から』即ち、彼を殺すことから『離れ給うたこと』の意義から明白であり、それは彼らが表象することを許されたことである、なぜなら『エホバは彼を殺そうと求められた』ことはその民族のもとに表象的な教会が設立されることが出来なかったことを意味し(7043番を参照)、それで今『かれは彼から離れられた』と言われている時は、それは彼らが表象することが許されたことを、即ち、その民族のもとに教会を表象するものが設立されはするが、教会は設立されはしないことを意味するからである。教会を表象することと教会であることとは異なっていることは単に外なることであるからである(3670、4208、4281)。

 

 

 

天界の秘義7439[4]

 

 この凡てから今や以下のことを認めることが出来よう、即ち、イスラエル人とユダヤ人とは決して選ばれたのではなくて、ただ天界に属する事柄を表象するためにのみ受け入れたのであり、そしてそのことはカナンの地で為されなくてはならなかったのである、なぜなら主の教会は最古代からもそこに存在して、そのため、そこの場所は凡て天界的な、神的な事柄を表象するものとなっていたからである。このようにしてまた聖言は書かれることが出来たのであり、またその中の名は主とその王国に属する事柄を意味することが出来たのである。

 

 

 

天界の秘義10500

 

表象的なものにより天界との連なり[交流]が行われるよう、主により配慮された。それには二つのことが不可欠であった。第一に、彼らのもとでは内なるものが完全に閉じられなくてはならない。第二に、彼らが礼拝を捧げているときは聖い外なるものの中にいること、なぜなら内なるものが完全に閉じられてしまったときは、教会と礼拝の内なるものはそれが恰も存在していないかのように否定されも、承認されもしないし、かくて、聖い外なるものが存在することができ、またそれは何ものもそれに対立したりまたそれを妨害しないため、引き上げられることもできるからである。そうした理由からまたかの国民は主における愛と信仰に属し、またその愛と信仰による永遠の生命に属した内なるものについては完全な無知の状態におかれたのである。しかし主が世に来られて、御自身を啓示され、御自身に対する愛と信仰とを教えられるや否や、そのときかの国民は、その事柄を聞いたとき、それらを否定し始め、かくして以前のように無知の状態の中に留めおかれることはできなかったのである。それでそのときかれらはカナンの地から放逐されたのである。そこでは最古代から凡ゆる場所は天界と教会とに属した事柄を表象するものとされていたのである。1585、3686、4447、5136、6516

 

 

天界の秘義10500 []

 

同じ理由から現今彼らが内なるものを知り、それに反抗して知的に自分自身を強固にし、それを否定するに比例して、聖い外なるものの中には最早とどまることはできないのである。

 

 

 

天界の秘義10507

 

「そして今行きなさい、わたしがあなたに言ったものへその民を導き入れなさい。」これは、この国民は教会を表象しなくてはならないことを意味しているが、教会がその中に在ることを意味していないことは、『その民をカナンの地へ導き入れること』の意義から明白であり、それは教会が存在するようにしむけることである、なぜなら『カナンの地』により教会が意味され、『そこへその民を導き入れること』によりその霊的な意義では彼らの間に教会を設立することが意味されるからである、なぜならその国民はそれが教会となるためにその地へ導き入れられたからであるが、しかしここではそれは単にそれを表象することを意味しているにすぎないのであり、それは『・・・ものへその民を導き入れなさい』と言われて、『地へ』とは言われていないためである。(イスラエルとユダヤ国民のもとには教会は存在しないで、単に教会を表象するものが在ったにすぎないことについては、4281、4288、4311、4500、4899、4912、6304、7048、9320番を参照されたい)、『カナンの地』は教会を意味し、3686、3705、4447、5136、6516番、従って聖言の『地』また『大地[陸]』が教会を意味していることについては、9325番に引用されたところを参照されたい。)