生贄

 

 

砕けた心主に帰する外観の法則

 

 

 

1.聖書 神は生贄を求められない

2.聖書 ユダヤ民族は娘や息子を生贄に捧げた

(ユダヤ民族以外でも行われた)

3.スウェーデンボルグ

4.マリア・ワルトルタ

5.ヴァッスーラ

6.彼らに生贄が許されたのは彼らにその息子と娘とを生贄として捧げさせないためであったのである

7.是等の儀式は主が来り給うた時廃止された

 

 

 

 

1.聖書  神は生贄を求められない

 

 

サムエル記上15・22

 

サムエルは言った。

「主が喜ばれるのは

焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。

むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。

見よ、聞き従うことはいけにえにまさり

耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」

 

 

 

詩篇40・7

 

あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず

焼き尽くす供え物も罪の代償の供え物も求めず

ただ、わたしの耳を開いてくださいました。

 

 

 

詩篇50・7−23

 

「わたしの民よ、聞け、わたしは語る。

イスラエルよ、わたしはお前を告発する。

わたしは神、わたしはお前の神。

 

献げ物についてお前を責めはしない。

お前の焼き尽くす献げ物は

常にわたしの前に置かれている。

わたしはお前の家から雄牛を取らず

囲いの中から雄山羊を取ることもしない。

森の生き物は、すべてわたしのもの

山々に群がる獣も、わたしのもの。

山々の鳥をわたしはすべて知っている。

獣はわたしの野に、わたしのもとにいる。

たとえ飢えることがあろうとも

お前に言いはしない。

世界とそこに満ちているものは

すべてわたしのものだ。

わたしが雄牛の肉を食べ

雄山羊の血を飲むとでも言うのか。

 

告白を神へのいけにえとしてささげ

いと高き神に満願の献げ物をせよ。

それから、わたしを呼ぶがよい。

苦難の日、わたしはお前を救おう。

そのことによって

お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」

 

神は背く者に言われる。

お前はわたしの掟を片端から唱え

わたしの契約を口にする。

どういうつもりか。

お前はわたしの諭しを憎み

わたしの言葉を捨てて顧みないではないか。

盗人と見ればこれにくみし

姦淫を行う者の仲間になる。

悪事は口に親しみ

欺きが舌を御している。

座しては兄弟をそしり

同じ母の子を中傷する。

お前はこのようなことをしている。

わたしが黙していると思うのか。

わたしをお前に似たものと見なすのか。

罪状をお前の目の前に並べて

わたしはお前を責める。

神を忘れる者よ、わきまえよ。

さもなくば、わたしはお前を裂く。

お前を救える者はいない。

告白をいけにえとしてささげる人は

わたしに栄光を輝かすであろう。

道を正す人にわたしは神の救いを示そう。

 

 

 

詩篇51・18−19

 

もしいけにえがあなたに喜ばれ

焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら

わたしはそれをささげます。

しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。

打ち砕かれ悔いる心を

神よ、あなたは侮られません。

 

 

 

箴言21・3

 

神に従い正義を行なうことは

いけにえをささげるよりも主に喜ばれる。

 

 

 

イザヤ1・11

 

お前たちのささげる多くのいけにえが、

わたしにとって何になろうか、と主は言われる。

雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に

わたしは飽いた。

雄牛、子羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。

こうしてわたしの顔を仰ぎ見にくるが、

誰がお前たちにこれらのものを求めたか

わたしの庭を踏み荒らす者よ。

むなしい献げ物を再び持って来るな。

 

 

 

エレミヤ6・20

 

シェバから持って来た乳香や

はるかな国からの香水萱が

わたしにとって何の意味があろうか。

あなたたちの焼き尽くす献げ物を喜ばず

いけにえをわたしは好まない。

 

 

 

エレミヤ7・22

 

わたしはお前たちの先祖をエジプトの地から導き出したとき、わたしは焼き尽くす献げ物やいけにえについて、語ったことも命じたこともない。

 

 

 

ホセア書6・6

 

わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく

神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない。

 

 

 

アモス5・21−27

 

わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。

祭りの献げ物の香りも喜ばない。

たとえ、焼き尽くす献げ物をわたしにささげても

穀物の献げ物をささげても

わたしは受入れず

肥えた動物の献げ物も顧みない。

お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。

竪琴の音もわたしは聞かない。

正義を洪水のように

恵みの業を大河のように

尽きることなく流れさせよ。

イスラエルの家よ

かつて四十年の間、荒れ野にいたとき

お前たちはわたしに

いけにえや献げ物をささげただろうか。

今、お前たちは王として仰ぐ偶像の御輿や

神として仰ぐ星、偶像ケワンを担ぎ回っている。

それはお前たちが勝手に造ったものだ。

ダマスコのかなたの地に連れ去らせると

主は言われる。

その御名は万軍の神。

 

 

 

ミカ書6・6−8

 

何をもって、わたしは主の御前に出で

いと高き神にぬかずくべきか。

焼き尽くす献げ物として

当歳の子牛をもって御前に出るべきか。

主は喜ばれるだろうか

幾千の雄羊、幾万の油の流れを。

わが咎を償うために長子を

自分の罪のために胎の実をささげるべきか。

人よ、何が善であり

主が何をお前に求めておられるかは

お前に告げられている。

正義を行い、慈しみを愛し

へりくだって神と共に歩むこと、これである。

 

 

 

マタイ9・12−13

 

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 

 

 

マタイ12・7

 

もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。

 

 

 

ヘブライ10・5

 

 それで、キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。

「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、」

 

 

 

ヘブライ10・8

 

 ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、

 

 

 

 

2.聖書 ユダヤ民族は娘や息子を生贄に捧げた

 

 

レビ記18・21

 

 自分の子を一人たりとも火の中を通らせてモレク神にささげ、あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。

 

 

 

申命記18・10−11

 

あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。

 

 

 

レビ記20・1−5

 

主はモーセに仰せになった。

イスラエルの人々にこう言いなさい。

イスラエルの人々であれ、イスラエルに寄留する者であれ、そのうちのだれであっても、自分の子をモレク神にささげる者は、必ず死刑に処せられる。国の民は彼を石で打ち殺す。わたしは、その者にわたしの顔を向け、民の中から断つ。自分の子をモレク神にささげ、わたしの聖所を汚し、わたしの聖なる名を冒涜したからである。もし国の民が、自分の子をモレク神にささげる者を黙認し、殺さないならば、わたしがその者と家族に顔を向け、彼および彼に倣ってモレク神を求めて淫行を行うすべての者を民の中から断つ。

 

 

 

列王記下16・3

 

彼はイスラエルの王たちの道を歩み、主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国の民の忌むべき慣習に倣って、自分の子に火の中を通らせることさえした。

 

 

 

列王記下17・16−17

 

彼らは自分たちの神、主の戒めをことごとく捨て、鋳像、二頭の子牛像を造り、アシェラ像を造り、天の万象にひれ伏し、バアルに仕えた。息子や娘に火の中を通らせ、占いやまじないを行い、自らを売り渡して主の目に悪とされることを行い、主の怒りを招いた。

 

 

 

列王記下21・6

 

彼(マナセ)は自分の子に火の中を通らせ、占いやまじないを行い、口寄せや霊媒を用いるなど、主の目に悪とされることを数々行って主の怒りを招いた。

 

 

 

列王記下23・10

 

王(ヨシヤ)はベン・ヒノムの谷にあるトフェトを汚し、だれもモレクのために自分の息子、娘に火の中を通らせることのないようにした。

 

 

 

歴代誌下33・6

 

彼(マナセ)はベン・ヒノムの谷で自分の子らに火の中を通らせ、占いやまじないを行い、魔術や口寄せ、霊媒を用いるなど、主の目に悪とされることを数々行って主の怒りを招いた。

 

 

 

詩篇106・34−38

 

主が命じられたにもかかわらず

彼らは諸国の民を滅ぼさず

諸国の民と混じり合い

その行いに倣い

その偶像に仕え

自分自身を罠に落とした。

彼らは息子や娘を悪霊に対するいけにえとし

無実なものの血を流した。

カナンの偶像のいけにえとなった息子や娘の血は

この地を汚した。

 

 

 

イザヤ57・3−6

 

お前たち、女まじない師の子らよ

姦淫する男と淫行の女との子孫よ

ここに近づくがよい。

お前たちは誰を快楽の相手とするのか。

誰に向って大口を開き、舌を出すのか。

お前たちは背きの罪が産んだ子ら

偽りの子孫ではないか。

大木の陰、すべての茂る木の下で身を焦がし

谷間や岩の裂け目で子供を屠る者らではないか。

お前は谷間の滑らかな岩を自分の分とし

彼らを自分の運命とし

それらにぶどう酒を注ぎ

穀物の献げ物をささげた。

わたしがそれらを容赦すると思うのか。

 

 

 

エレミヤ7・30−32

 

まことに、ユダの人々はわたしの目の前で悪を行った、と主は言われる。わたしの名によって呼ばれるこの神殿に、彼らは憎むべき物を置いてこれを汚した。彼らはベン・ヒノムの谷にトフェトの聖なる高台を築いて息子、娘を火で焼いた。このようなことをわたしは命じたこともなく、心に思い浮かべたこともない。それゆえ、見よ、もはやトフェトとかベン・ヒノムの谷とか呼ばれることなく、殺戮の谷と呼ばれる日が来る、と主は言われる。

 

 

 

エレミヤ19・5−6

 

彼らはバアルのために聖なる高台を築き、息子たちを火で焼き、焼き尽くす献げ物としてバアルにささげた。わたしはこのようなことを命じもせず、心に思い浮かべもしなかった。

 それゆえ、見よ、と主は言われる。このところがもはやトフェトとか、ベン・ヒノムの谷とか呼ばれることなく、殺戮の谷と呼ばれる日が来る。

 

 

 

エレミヤ32・34−35

 

彼らは忌むべき偶像を置いて、わたしの名で呼ばれる神殿を汚し、ベン・ヒノムの谷に、バアルの聖なる高台を建て、息子、娘たちをモレクにささげた。しかし、わたしはこのようなことを命じたことはないし、ユダの人々が、この忌むべき行いによって、罪に陥るなどとは思ってもみなかった。

 

 

 

エゼキエル16・20−21

 

お前はまた、わたしのために産んだお前の息子、娘たちをとり、偶像の食物として供えた。お前の姦淫はまだ足りないのか。 お前はわたしの子供たちを殺し、火に焼いて偶像にささげた。

 

 

 

 

(ユダヤ民族以外でも行われた)

 

 

列王記下17・31

 

アワ人はニブハズとタルタクの神を造り、セファルワイム人は子供を火に投じて、セファルワイムの神々アドラメレクとアナメレクにささげた。

 

 

 

 

3.スウェーデンボルグ

 

 

スウェーデンボルグ/新しいエルサレムの教義221

 

生贄は命じられたのではなく、仁慈と信仰が命じられたのであり、それでそれらはただ許されたに過ぎないことが聖言により示されている(922、2180番)。なぜそれらが許されたか(2180、2818番)。

 

 

 

天界の秘義1343[5]

 

ヘブル民族の礼拝の第二の本質的なものは生贄にあったこともまた前に引用した記事から明白であるのみでなく(出エジプト記3・17、5・2、3)またモーセの書の以下の言葉から明白であるように、エジプト人がこの礼拝のためにヘブルの国民を憎悪したという事実からも明白である―

 

  モーセは言った、そのようにすることは良くありません。なぜなら私たちは私たちの神エホバにエジプト人の忌み嫌っているものを生贄にするからです、見られよ、わたしらはエジプト人の忌み嫌っているものを、彼らの目の当たりに生贄にするのに、彼らは私らを石で打たないでしょうか(出エジプト記8・26)。

 

 こうした理由からエジプト人はヘブル民族と共にパンを食べようとはしない程にもヘブル民族を忌み嫌ったのである(創世記43・32)。この凡てからヤコブの子孫が唯一のヘブル民族ではなくて、それはこうした礼拝を持っていた凡てのものであることが明らかであり、それでヨセフの時代にはカナンの地はヘブル人の地と呼ばれたのである―

 

 ヨセフは言った、私はヘブル人の地から盗み去られた者です(創世記40・15)。

 

 

 

天界の秘義2180[4]

 

 全般的に生贄については、それらは実際モーセを通してイスラエルの民に命じられはしたが、しかし洪水以前に存在していた最古代教会は生贄については何ごとも知らなかったのであり、動物を殺すことにより主を拝するということも彼らの心に入りさえもしなかったのである。洪水以後に存在した古代教会も同じく生贄を知らなかったのである。この教会は実際表象的なものの中にいたが、しかし生贄の中にはいなかったのである。事実生贄はそれに続いたヘブル教会と呼ばれた教会の中に初めて制定されて、そのヘブル教会から諸国民に拡がり、またその同じ源泉からアブラハム、イサク、ヤコブに伝わり、かくてヤコブの子孫に伝わったのである。諸国民が生贄の礼拝を捧げたことは前に示しておいた(1343番)、ヤコブの子孫もエジプトを出る以前に、かくてモーセによりシナイ山の上で生贄が命じられる以前に同じように生贄の礼拝を捧げたことは出エジプト記(5章3、10・25、27、18・12、24・4、5)に言われていることから明白であり、特に金の子牛の前における彼らの偶像礼拝から明白である、

 

 

 

天界の秘義2180[5]

 

そのことはモーセの書に以下のように記されている―

 

  アロンは子牛の目に祭壇を設け、布れて言った、明日はエホバの祭りである、と。彼らは朝早く起きて、燔祭を捧げ、酬恩祭の捧げ物を持って来た、民は坐って食べ、飲み、立って戯れた(出エジプト記33・5、6)。

 

これはモーセがシナイ山にいる間に行われたのであり、かくて祭壇と生贄に関わる命令が来る以前に行われたのである。その命令は以下の理由から来たのである、即ち、生贄の礼拝は異邦人のもとで偶像崇拝になってしまっていたように、彼らのもとでも偶像崇拝になってしまっていたのであり、彼らはそれを主要な聖いものとして認めていたため、(この礼拝から)引き出されることは出来なかったのである。なぜなら幼児の頃から聖いものとして一度び植えつけられたものは、特にもしそれが父祖たちにより植えつけられ、かくて根を張っているならば、それが秩序そのものに反しない限り、主は決してそれを折られはしないで、たわめられるからである、そのことが生贄がモーセの書に記されている方法で制定されなくてはならないと言いつけられた理由なのである。

 

 

 

天界の秘義2180[6]

 

生贄は決してエホバに受け入れられるものではなく、かくて単に今し方述べた理由から許され、寛大に取り扱われたものに過ぎなかったことは予言者の書に極めて明白であって、エレミア記には以下のように記されているのである―

 

  イスラエルの神、万軍のエホバはこのように言われる、あなたらの生贄に燔祭を加えよ、肉を食べよ。わたしはあなたらの父祖をエジプトの地から連れ出した日に燔祭と生贄とについては彼らに語りはしなかったし、また命じもしなかった。しかしこの言葉をわたしは彼らに命じて、言った、わたしの声に従いなさい、その時はわたしはあなたたちの神となるでしょう、と。(7・21−23)。

 

 ダビデの書には―

  ああエホバよ、生贄と供物とはあなたは望まれなかった、燔祭と罪祭とはあなたは求められなかった、ああわが神よ、わたしはあなたの御意志を行うことを求めました(詩篇90・6、8)。

 

 同書に―

  あなたは生贄を、私がそれを捧げるのを喜ばれなかった、燔祭をあなたは受け入れられない。神の生贄は砕けた霊である(詩篇51・16、17)

 

 同書に―

  わたしはあなたの家から雄の子牛[雄牛の子供]を取りはしない、またあなたの囲いから雌山羊を取りもしない、神にささげる生けにえは告白である(詩篇1、9、13、14、107・21、22、116・17、申命記23・19)。

 

 ホゼア書には―

  わたしは慈悲を持ちたい、生贄は持ちたくない、神を知ることは燔祭にまさっている(6・6)。

 

 サムエルはサウルに言った―

  エホバは燔祭と生贄とを喜ばれようか。見よ、従うことは生贄にまさり、聞くことは雄羊の脂にまさっている(サムエル前15・23)。

 

 ミカ書には―

  何をもってわたしはエホバの前に来て、高い神に身をかがめようか。わたしは燔祭をもって、一歳の子牛をもって神の前に来ようか。エホバは数千の雄羊を、数万の油の川を喜ばれるであろうか。ああ人よ、エホバは善いことをあなたらに示された、エホバはあなたらに、公道[審判]を行い、慈悲を愛し、あなたの神と歩んで身を卑しくする以外には何を求められようか(6・6−8)。

 

 

 

天界の秘義2180[]

 

このすべてから生贄は命じられたのではなくて、許されたのであるということが明白であり、また生贄においては内なるもの以外には何ものも顧みられはしなかったことが、受け入れられるものは内なるものであって、外なるものではなかったことが今や明白である。そうした理由からまた、主はそれらを廃止されたのであるが、そのことはダニエルにより以下の言葉で同じように予告されたのである―

 

 道の真中に彼は生贄と灌酒とを廃止させられるであろう(9・27)。

 

 ここには主の降臨が取り扱われている。(第一部922、923、1128、1823番に生贄について言われていることを参照されたい)。

 

 

 

天界の秘義2818[2]

 

 主が世に来られて死の苦しみを受けられるということが最古代教会から知られていたことは、異邦人の間に、自分の息子を生贄にする習慣が全般的に行われていたという事実から明白である、かれらは自分たちはそのことにより清められ、神と宥和ができると信じたのである、もしかれらが、神の子が来られて、かれらが信じたところでは、生贄となられるということを古代人から学んでいなかったかぎり、かれらはその憎むべき習慣にかれらの最も重要な宗教的な行事を置かなかったであろう。この憎むべきことへイスラエルの子孫さえも心を動かされ、アブラハムもまた心を動かされたのである。なぜならたれ一人その者が心をひきよせられるものによらなくては試練を受けはしないからである。ヤコブの子孫もまたそのように心を動かされたことは予言者の書に明白である。しかしかれらがそのような憎むべきことに突進しないように、燔祭と生贄とを設けることが許されたのである(922、1128、1241、1343、2180番参照)。

 

 

 

天界の秘義5943[6]

 

 ダビデの書には―

 

 わたしはあなたに雄羊の香とともに、小さな肥えた家畜の燔祭を捧げましょう(詩篇66・15)。

 

『小さな肥えた家畜の燔祭』は愛から発した礼拝を意味している。モーセの書には―

 

 その時言われるであろう、彼らの神々は何処にいるか、彼らが信頼したところの岩は何処にあるか、彼は彼らの生贄の脂を食べ、彼らの灌祭のぶどう酒を飲んだ、と(申命記32・37、38)。

 

これは異邦人により言われもするであろう、なぜなら彼らは神々は食べられる、特にこのような物を食べられると考え、生贄の脂は礼拝における天的なものまたは愛の善であり、灌祭のぶどう酒はそこから派生してくる信仰の真理であり、そうしたものが生贄が献げられた時天使たちを感動させたのであり、またそのために命じられもしたのであって、それは天界が表象的なものと相応したものとによって人間の近くに存在するためであったことを全く知らなかったのである。

 

 

 

 

4.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音2巻P560

131アックヮ・スペツィオーザでの説教。「他人のものは何であれ盗んではならず、欲しがってはならない」。ヘロデの罪。

 

行きなさい。しかしその前に、町の門に子だくさんの一未亡人がいて飢え死にしかかっていることを、あなたたちに知ってほしい。借金を払えずに家を追い出されました。そして、彼女を追い出すことしかしなかった家主に、未だに『ありがとう』と言える人です。わたしは彼女と子供たちにパンを買うためあなたたちの献金を使いました。でもあの人たちには避難する場所が要ります。憐みはが最も喜ばれる生贄です。あなたたちはどうか善良であってください。わたしはの名において、あなたたちに報いを約束します」。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P335

 

神が嘉されるのは、子羊や小山羊や子牛や雌鳩ではなく、心の生贄です。ダビドはこれを直観しました。霊と愛との時代である新しい神殿には、この生贄だけが嘉されます。シモン、よく考えなさい。大なる罪を贖い、神の正義を鎮めるために、神ご自身が肉体となるべきだったとすれば、真理の時代には、人間の霊の生贄だけが、主をなだめることができます。あなたはこう考えるでしょう。『するとなぜ、いと高き御者は、動物の子と木々の実を捧げよと命令されたのか?』と。そのことを説明しましょう。私が来るまで、人間は間に合わせの捧げものを捧げて神をなだめていました。愛が知られてなかったからです。これからは、その愛が知られます。

 

そして私は愛を知るための聖寵を与えましょう。愛を知る人間は冬眠から抜け出て、思い出し、理解し、生きる愛と償いのホスチアになります。雄山羊と羊の代わりに、自分の師である救い主である神の子羊に倣い、愛と償いの生贄となります。今まで、罰であった苦しみは完全な愛に変わり、愛をもって苦しみに耐える者は幸せでしょう。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P115

 

『御国の来たらんことを』。

この祈願は、あなたたちの全人生の振り子の鼓動であるべきだろうし、またすべてはへのこの祈願に引きつけられるべきだろう。なぜなら人々の中の、また世の人々によれば、王国は、平和、また他のあらゆる徳を意味するであろうから。したがって、この王国の到来のための無数の切願であなたたちの人生を勢いづけなさい。しかし生き生きとした切願、すなわち、人生において時々刻々、あなたたちの生贄を適用しつつ行動することだ。というのも、よく行動することは、この目標に向け本性を生贄として捧げることだからだ。

 

 

 

 

5.ヴァッスーラ

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P166

‘88・3・23

 

娘よ 私のもとに来て ひざまずいて書くのに疲れてしまわないように、私は救い主 ♡ あなたの連れ合い、私はすべてを分かち合っている、来て、慰めてもらいたい、疲れ果てた、

 

ああ おいで下さい、主よ! イエスは疲れているご様子で、その大きな肩は少しかがみ、悲しそうでいらっしゃいます。私も同じ気持ちです、主をお喜ばせしたい、今主の訴えをパパさまがお受け取り下さるよう、毎日祈っています。25日金曜日までにイエスのメッセージを受け取られるかもしれないと希望しているのですが。

 

私の現存を覚えていてくれるか ヴァッスーラ?

 

はい、主イエスよ、そうします。 ♡ 「私たち」!

 

あなたに平安 霊魂よ。 疲れた、愛と素朴さが欠けているのを見て 疲れ果てた、彼らの間に愛が欠けているなら 私にとって儀式や犠牲は何の役に立つか? 花よ、私の素足の弟子たち以上に大きな喜びがあろうか? 手には仔羊を導く杖しか持たないで! 素朴さが好きだ、素朴さと貧しさは私を夢中にさせる、真の弟子たちは素足だったが、しかし霊は富んでいた ♡ ヴァッスーラ 勇気を、私は磔にされている、私自身の者たちが十字架につけて、私たちはこの十字架を分かち合っている、私とあなた、あなたと私で。愛は苦しむ・・・

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P145

‘89・3・26 スイスに戻って

 

今日は後で、くたくたに感じられました: 神の与えておられる仕事は私を押しつぶしているように思えて: こういった犠牲は何になるでしょう? 全てが無駄では? いつまでもやめられそうもないまま、続ける元気があるでしょうか? それともいつかは手に余って 放り出してしまうのでは?

 

我が平和を受けなさい、聞くように、知恵があなたを教えてきた、恐れないように。 我が苦しみを分かち合うために あなたを選んだことを喜びなさい、非常に尊い、我が十字架が、あなたの上にある、私は休む必要がある、与えてくれたすべては 無駄にならない・・・何も無駄になっていない、私は栄光を受けている。 我が生けにえとして 留まっていなさい ♡ 平和と愛の我が十字架を ともに担うよう 御父に選ばれた 愛する生けにえよ。 生けにえとしての艱難は、この世において軽くないであろう、気がつくように もうあなたは この世に属していない それで世は自分たちのようでないために あなたを非難する、自分たちのからだが 塵に戻ってしまうのを忘れて、あなたは笑い者にされよう、では、気をつけていなさい、つまらないことに不平をならさないよう(知恵の書1・11)、 あなたに求めるのは分かち合い、愛をもって愛するがゆえに 分かち合うこと。 愛の杯は苦い、ひどく苦い、私と分かち合ってはくれないか、抵抗しないでほしい! 地上からの嘆願を聞きながら、拒んだことがあるか? 保証する、何も空しくはならない ♡ 永遠の昔から、あなたがか弱いのを知っていた、特別な世話が必要な薔薇の花のように、あなたを世話している。 必要なら枝を矯め、眼をいつも注いで、嫉妬深く見守っている、よそ者に摘んでしまわれないよう、誰にも触れさせはしない、花びらが指でつぶされてしまわないよう、昼も夜も見張っている、私はあなたの保護者、そこで安心していなさい、誰にも危害を加えさせない ♡

 

 

 

 

6.彼らに生贄が許されたのは彼らにその息子と娘とを生贄として捧げさせないためであったのである

 

 

天界の秘義1241

 

即ち、エベルにより新たに定められた礼拝が生まれたのであるが、しかしそれは付け加えられたものであり、また変化したものであった。特にに彼らは生贄を他の祭儀にまさって称揚し始めたのである。真の古代教会では生贄はハムとカナンの子孫の若干の者たちの間を除いては知られていなかったのであり、ハムとカナンの子孫らは偶像教徒であり、彼らに生贄が許されたのは彼らにその息子と娘とを生贄として捧げさせないためであったのである。

 

 

 

天界の秘義2818[2]

 

 主が世に来られて死の苦しみを受けられるということが最古代教会から知られていたことは、異邦人の間に、自分の息子を生贄にする習慣が全般的に行われていたという事実から明白である、彼らは自分たちはそのことにより清められ、神と宥和が出来ると信じたのである、もし彼らが、神の子が来られて、彼らが信じたところでは、生贄となられるということを古代人から学んでいなかった限り、彼らはその憎むべき習慣に彼らの最も重要な宗教的な行事を置かなかったであろう。この憎むべきことへイスラエルの子孫さえも心を動かされ、アブラハムもまた心を動かされたのである。なぜならたれ一人その者が心を引き寄せられるものによらなくては試練を受けはしないからである。ヤコブの子孫もまたそのように心を動かされたことは予言者の書に明白である。しかし彼らがそのような憎むべきことに突進しないように、燔祭と生贄とを設けることが許されたのである(922、1128、1241、1343、2180番参照)。

 

 

 

天界の秘義8080〔4〕

 

 人の初児を贖うことに関わる律法が布告されたのは、彼らがその息子たちを生贄としてはならないという目的からであり、そうした生贄は古代教会の法令が残存していた諸国民の間に行われていたのであり、古代教会は表象的な教会であったが、時の経つにつれて、全く不善化されてしまったのである。初児は神に清められねばならなかったことは古代教会の法令の一つではあったが、しかし『清めること』により彼らは生贄とすることを理解し始めたのである。ヤコブの子孫もまたそのようなことを行なう気持ちになったのである、それでこの律法が布告されたのであり、彼らにそうしたことを為させないために、すでに述べたように、初児に代ってレビ人が受入れられたのである。霊界でこの律法はそれに相応した意義に従って明らかにされたが、それは、信仰の諸真理は聖いものではなく、かくて(主に)清められまたは帰せられてはならず、信仰の諸善が(主に清められ、または帰せられねばならないということである)。更に清めることは後で以下のように理解されたのである、即ち、ルカ伝の以下の言葉に従って、彼らはエホバに初児を捧げ、または差し出して、その初児のために生贄を捧げなくてはならないというように理解されたのである。

 

 モーセの律法に従って彼らの清めの日が満ちた時、彼らはイエスをエルサレムに連れて来て、かれを主に差し出した。主の律法に、胎を開く男の子は凡て主に聖いものと呼ばれなくてはならないと記されてあるように、また生贄を捧げるために(ルカ2・22−24)。

 

 

 

天界の秘義9223〔2〕

 

更に初児の凡てもまた主に捧げられたが、その中で人間の初児は、またろば、らば、馬といった、生贄に捧げられはしなかった動物の初児は贖われたのである、初穂と初児とがエホバに捧げられ、エホバによりアロンとその裔とに与えられたことは、高い祭司職の任務に携わったアロンとその息子たちとは主を表象したという理由であった。

 

 

 

天界の秘義9223〔3〕

 

 初穂が特に表象したことは(なぜなら主によりイスラエルの子孫に命じられた法令と祭儀の凡ては教会の内なる事柄を表象したからであるが)、その初穂が捧げられた幾多の種類の作物の内意が観察される時、認めることが出来よう。『穀粒』は信仰の善を、『葡萄酒』は信仰の真理を意味していることは、前に引用した記事に認めることが出来よう。初穂がエホバに捧げられねばならなかったことは、信仰の凡ゆる善と真理とを主に帰して、自己に帰しはしないことが教会の最初のものであることを意味したのである。主に帰すことは、これらのものは主から発して、その何一つも自己からは発していないことを知り、承認し、信じることである、なぜなら前にしめしたように、信仰の凡ゆるものは主から発しているからである。『初穂』にこの意義があることは、それは捧物と贈り物であって、捧物、贈り物は地の作物に対する感謝であり、エホバ、即ち、主から発した祝福を承認することであり、従って凡ゆるものは主から発していることを承認することであり、内意では、その初穂が捧げられた『収穫』、『穀粒』、『油』、『新しい葡萄酒』、『羊毛』、『果実』により意味されている信仰の諸善と諸真理が主から発していることを承認することである。(これらの初穂については、出エジプト記23・19、34・26、レビ23・10、11、20、民数15・19−21、18・12、13、申命記18・4、26・1−11を参照されたい)。それに似たことがエゼキエル書20・40とミカ書の7・1、2の初穂によっても意味されているのである。

 

 

 

 

7.是等の儀式は主が来り給うた時廃止された

 

 

真の基督教786

 

イスラエル教会は本質的には見えない神であるエホバを礼拝したが(出エジプト記33・18−23)、然し人間の形の下に礼拝した。実に神の臨在に満たされた天使の形であったこの形がアブラハム、サラ、モーゼ、ハガル、ギデオン、ヨシュア及び予言者の或る者に現れたのである。この人間的な形は来るべき主を表し、それ故かの教会に於ける物は尽く表象的であった。実に、彼らの犠牲及びその他彼らの礼拝にかかわりを持つ物は凡て来るべき主を表象し、而して是等の儀式は主が来り給うた時廃止されたことは良く知られている。

 

 

 

天界の秘義1003

 

 しかしユダヤ教会では、すでに言ったように、血を肉と共に食うことにより天界では冒涜が表象されたため、そのことは禁じられたのである。その教会で行われた事は凡て天界ではそれに相応した表象物に変化したのである。即ち、血は聖い天的なものに、生贄意外の肉は欲念を意味したため、汚れたものに、その両方を食べることは聖いものと汚れたものとを混合することに変ったのである。こうした理由からそれは当時極めて厳格に禁じられたのである。しかし主が来られた後、外なる祭儀が禁止され、かくて表象物が存在しなくなった時、このような物は最早天界でそれに相応した表象物に変化しなくなったのである。何故なら人間が内なるものになり、内なる事柄について教えられる時、外なる物は、彼には何ら顧みられなくなるからである。その時彼は聖いものの何であるかを知るのである、即ち、仁慈とそこから発した信仰を知るのである。その時これらのものに応じて、彼の外なる物が顧慮されるのである、即ち、その外なる物の中に在る主に対する仁慈と信仰との量に応じて顧慮されるのである。それ故主が来られてからは、人間は天界では外なる物から顧慮されないで、内なるものから顧慮されている。