肉食は許されている生贄

 

1.聖書

2.仁慈

3.天的なもの、最高の意義では主の人間的本質、かくて愛そのもの、または人類に対する主の慈悲

4.冒涜

5.誤謬化され、冒涜された真理

6.罪、特に憎悪

7.各種の不法

8.聖い真理

9.肉食は許されている

10.彼らに生贄が許されたのは彼らにその息子と娘とを生贄として捧げさせないためであったのである

11.血液の熱とその赤いこと

12.霊魂

13.愛の諸々の情愛は血液に相応している

 

 

 

 

1.聖書

 

創世記4・8−12

 

カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。

主はカインに言われた。

「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」

カインは答えた。

「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」

主は言われた。

「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」

 

 

創世記9・1−7

 

 神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。

「産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。

 またあなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。

 人の血を流す者は

 人によって自分の血を流される。

 人は神にかたどって造られたからだ。

 あなたたちは産めよ、増えよ

 地に群がり、地に増えよ。」

 

 

レビ記17・10−14

 

 イスラエルの家の者であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、血を食べる者があるならば、わたしは血を食べる者にわたしの顔を向けて、民の中から必ず彼を断つ。生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。それゆえ、わたしはイスラエルの人々に言う。あなたたちも、あなたたちのもとに寄留する者も、だれも血を食べてはならない。

 イスラエルの人々であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、食用となる動物や鳥を捕獲したなら、血は注ぎ出して土で覆う。すべての生き物の命はその血であり、それは生きた体の内にあるからである。わたしはイスラエルの人々に言う。いかなる生き物の血も、決して食べてはならない。すべての生き物の命は、その血だからである。それを食べる者は断たれる。

 

 

エレミヤ2・34−35

 

お前の着物の裾には

罪のない貧しい者を殺した血が染みついている。

それは盗みに押し入ったときに付いたものではない。

それにもかかわらず

「わたしには罪がない」とか「主の怒りはわたしから去った」とお前は言う。

だが、見よ。

「わたしは罪を犯していない」と言うならお前は裁きの座に引き出される。

 

 

2.仁慈

 

天界の秘義1001

 

 『血』は仁慈を意味していることは多くの物から明らかである。かくてそれはその再生した霊的な人間が主から受けるところの、また仁慈と同一のものであるところの新しい意志の部分を意味している。何故なら新しい意志は仁慈から形作られるからである。仁慈は、または愛は意志の本質、または生命そのものである。何故ならたれ一人何かを選んだり、または愛したりしてそれを意志しなくては〔欲しなくては〕それを意志している〔欲している〕とは言うことが出来ないからである。人が或る事柄を考えていると言うことは、その考えの中に意志する〔欲する〕ことが存在しない限り、それを意志することではない。仁慈に属したこの新しい意志がここでは『血』であり、この意志は人間のものではなくて、人間の中に在る主のものである。そしてそれは主のものであるため、それは人間の意志の事柄と決して混入されてはならないのであり、人間の意志の事柄はすでに示したように、かくも醜悪なものである。こうした理由から彼らは肉を人の魂または血と共に食べてはならない、即ち、その二つのものを混合してはならないと表象的教会の中に命じられたものである。

 

 

天界の秘義1001〔2〕

 

 血は仁慈を意味したため、聖いものを意味し、『肉』は人間の意志を意味したため、汚れたものを意味した。そしてこれらの物は反したものであって、分離しているため、彼らは血を食うことを禁じられたのである、何故なら肉を血と共に食べることにより当時天界では冒涜が表象され、即ち、聖いものと汚れたものが混合されることが表象されたのであって、天界におけるこうした表象は当時天使を戦慄させないわけにはいかなかったのである。何故なら当時教会の人間のもとに存在している物は凡て天使たちの間では事物の内意に応じて、それに相応した霊的な表象物に変化したからである。凡ゆる物の性質はそれらの物がその者について述べられているその人間の性質により決定されるように血の意義もまたそのように決定されている。『血』は、再生した霊的な人間に関連している時は、仁慈を、また隣人に対する愛を意味し、再生した天的な人間に関連しているときは、主に対する愛を意味しているが、主に関連しているときは、主の人間的な本質そのものを意味しており、従って愛そのものを、即ち、人類に対する主の慈悲を意味している。そこから『血』は、全般的には、愛と愛に属したものを意味しているため、主のみのものである天的な事柄を意味し、かくて人間に関連している時は、人間が主から受ける天的な事柄を意味している。再生した霊的な人間が主から受ける天的なものは、天的な霊的なものであり、それについては主の神的慈悲の下に他の所で述べよう。

 

 

3.天的なもの、最高の意義では主の人間的本質、かくて愛そのもの、または人類に対する主の慈悲

 

天界の秘義1001〔3〕

 

『血』は天的なものを意味し、その最高の意義では主の人間的本質を意味し、かくて愛そのものを、または人類に対する主の慈悲を意味したことは血がユダヤ人の表象的教会の中で神聖なものとして考えられねばならないと命じられたその神性さから明白である。こうした理由から血は契約の血と呼ばれ、塗油の油と共に、民の上に、また同じくアロンとその息子たちに振り掛けられたのであり、はん祭と生贄の凡ての血も祭壇の上と周囲に振り掛けられたのである。(出エジプト記12・7、13、22、24・6、8、レビ記1・5、11、15、4・6、7、17、18、25、30、34、5・9、16・14、15、18、19、民数記18・17、申命記12・27)。

 

 

4.冒涜

 

天界の秘義1010[3]

 

 『血』が冒涜を意味することは前に引用した記事から明らかであるのみでなく(374番)、モーセの書の以下の記事からも明らかである―

 

イスラエルの家の者の中で、雄牛を、または子羊を、または山羊を宿営の中で殺し、またはそれを宿営の外で殺して集会の天幕の戸の中へ携えてこないで、それをエホバの幕屋の前でエホバに捧げる献納物として捧げない者はたれであっても、その人に血を帰しなくてはならない、彼は血を流すのである。その人をその民から絶たなくてはならない(レビ記17・3,4)。

 

幕屋の近い辺りにあった祭壇以外の場所で生贄を捧げることは冒涜を表象したのである、なぜなら生贄は聖い物であったが、もしそれが宿営の内に、またその外に行われたならば汚れたものとなったからである。

 

 

天界の秘義1001〔4〕

 

そして血はかくも聖いものとして考えられ、人間の意志はかくも汚れたものであるため、血を食うことは、それが聖いものを冒涜することを表象したため、厳しく禁じられたのである。例えばモーセの書には―

 

あなたらは脂も血も食べてはならない。このことをあなたらの住居の凡てにおいて、あなたらの世代にわたって不断の法令としなくてはならない(レビ記3・17)。

 

 ここの『脂』は天的な生命を、『血』は天的な霊的な生命を意味している。天的な霊的なものは天的なものから発した霊的なものである。例えば最古代教会では主に対する愛が彼らの意志に植え付けられていたため、それが彼らの天的なものであり、彼らの天的な霊的なものはそこから発した信仰であったのである。このことについては前を参照されたい(30−38、337、393、398)。しかしながら霊的な人間のもとには天的なものは存在しないで、仁慈が彼の知的な部分に植え付けられているため、天的な霊的なものが植え付けられている。さらにモーセの書には―

 

 たれでもイスラエルの家の者で、または彼らの間に滞在している滞在人の中で、いかような種類のものであれ、血を食べる者には、わたしは血を食べるその魂にわたしの顔を向けて、その者をその民の中から絶つであろう。肉の魂はその血の中に在るからである。わたしはあなたらの魂のために償い〔あがない〕をなすために、祭壇の上にそれをあなたらに与えた。魂のための償い〔あがない〕をするものは血であるからである。肉そのものの魂はその血である。たれでもそれを食べる者は絶たれるであろう(レビ記17・10、11、14)。

 

 ここに肉の魂は血の中に在り、肉の魂は血であり、または天的なものであり、即ち、主のものである聖いものであると明らかに示されている。

 

 

 

天界の秘義1001〔4〕

 

そして血はかくも聖いものとして考えられ、人間の意志はかくも汚れたものであるため、血を食うことは、それが聖いものを冒涜することを表象したため、厳しく禁じられたのである。例えばモーセの書には―

 

あなたらは脂も血も食べてはならない。このことをあなたらの住居の凡てにおいて、あなたらの世代にわたって不断の法令としなくてはならない(レビ記3・17)。

 

 ここの『脂』は天的な生命を、『血』は天的な霊的な生命を意味している。天的な霊的なものは天的なものから発した霊的なものである。例えば最古代教会では主に対する愛が彼らの意志に植え付けられていたため、それが彼らの天的なものであり、彼らの天的な霊的なものはそこから発した信仰であったのである。このことについては前を参照されたい(30−38、337、393、398)。しかしながら霊的な人間のもとには天的なものは存在しないで、仁慈が彼の知的な部分に植え付けられているため、天的な霊的なものが植え付けられている。さらにモーセの書には―

 

 たれでもイスラエルの家の者で、または彼らの間に滞在している滞在人の中で、いかような種類のものであれ、血を食べる者には、わたしは血を食べるその魂にわたしの顔を向けて、その者をその民の中から絶つであろう。肉の魂はその血の中に在るからである。わたしはあなたらの魂のために償い〔あがない〕をなすために、祭壇の上にそれをあなたらに与えた。魂のための償い〔あがない〕をするものは血であるからである。肉そのものの魂はその血である。たれでもそれを食べる者は絶たれるであろう(レビ記17・10、11、14)。

 

 ここに肉の魂は血の中に在り、肉の魂は血であり、または天的なものであり、すなわち、主のものである聖いものであると明らかに示されている。

 

 

天界の秘義1001〔5〕

 

 さらに―

 

 あなたは必ず血を食べてはならない、血は魂であるからである、あなたは魂を肉と共に食べてはならない(申命記12・23−25)。

 

 この記事からも亦血は魂と呼ばれており、即ち、天的な生命または天的なものと呼ばれていることが明白であり、それがその教会のはん祭と生贄とにより表象されたのである。そして同じように、主御自身のものである天的なものは―それのみが天的な聖いものである―汚れたものである人間自身のものと混合してはならないこともまた彼らが種を入れたものの上に生贄の血を生贄としたり、捧げたりしてはならないという命令により表象されたのである(出エジプト記23・18、34・25)。種を入れたものは腐敗した、汚れたものを意味したのである。血が魂と呼ばれて、仁慈の聖いものを意味しているのは、また愛の聖いものがユダヤ教会で血により表象されたのは、身体の生命は血の中に在るためである。そして身体の生命は血の中に在るため、血は生命の究極的な魂であり、かくて血は形体的な魂であり、または人間の形体的な生命を宿したものであると言うことが出来よう。表象的な諸教会では内なる事柄は外的なものにより表象されたため、魂はまたは天的な生命は血により表象されたのである。

 

 

天界の秘義1002

 

 動物の肉を食べることは、それがそれ自身において観察されるならば、汚れたことである。なぜなら最古代教会では彼らはいかような獣の肉も鳥の肉も決して食べないで、ただ種子のみを食べたからである。特に小麦から作られたパンを、また木の実を、野菜を、種々の牛乳を、そうしたものから作られたものを、例えば色々な牛酪を食べたからである。動物を殺して、その肉を食べることは彼らには邪悪なことであり、野獣に似ていたのである。彼らは創世記1・29、30から明らかなように、動物からは仕事と用[益]とを得たに過ぎなかったのである。しかし時の経過とともに、人間が野獣のように凶暴になり実に野獣よりも凶暴にさえもなり始めると、始めて動物を殺して、その肉を食べ始めたのである。人間の性質はこのようなものになったため、こうしたことをすることが人間に許されたのであって、現在にも依然許されているのである。人間がそれを良心から行っている限り、その良心は彼が真であり、かくて合法的なものであると考えている凡ゆるものから形作られているため、それは彼には合法的なものとなっている。それ故現在ではたれでも肉を食べたということで罪に定められてはいないのである。

 

 

天界の秘義1003

 

 これらの事から『肉をその魂と共に、その血と共に食べないこと』は汚れた物を聖いものと混合しないことであることが今や明白である。主はマタイ伝に明白に教えられているように、人間が肉と共に血を食べることによっては汚れた物が聖いものとは混合しないのである―

 

口に入るものは人を汚さない、口から出るもの、それが人を汚すのである、口から出るものは心から出るからである(マタイ15・11、18−20)。

 

 しかしユダヤ教会では、すでに言ったように、血を肉と共に食うことにより天界では冒涜が表象されたため、そのことは禁じられたのである。その教会で行われた事は凡て天界ではそれに相応した表象物に変化したのである。即ち、血は聖い天的なものに、生贄意外の肉は欲念を意味したため、汚れたものに、その両方を食べることは聖いものと汚れたものとを混合することに変ったのである。こうした理由からそれは当時極めて厳格に禁じられたのである。しかし主が来られた後、外なる祭儀が禁止され、かくて表象物が存在しなくなった時、このような物は最早天界でそれに相応した表象物に変化しなくなったのである。何故なら人間が内なるものになり、内なる事柄について教えられる時、外なる物は、彼には何ら顧みられなくなるからである。その時彼は聖いものの何であるかを知るのである、即ち、仁慈とそこから発した信仰を知るのである。その時これらのものに応じて、彼の外なる物が顧慮されるのである、即ち、その外なる物の中に在る主に対する仁慈と信仰との量に応じて顧慮されるのである。それ故主が来られてからは、人間は天界では外なる物から顧慮されないで、内なるものから顧慮されている。そしてもしたれかが外なる物から顧慮されるならば、それは彼が単純であって、その単純さの中には無垢と仁慈が在り、その無垢と仁慈がその人間に知られないままに、主から発して、彼の外なる物の中に、即ち、彼らの外なる礼拝の中に存在しているためである。

 

 

5.誤謬化され、冒涜された真理

 

天界の秘義7047

 

『血』の意義は仁慈に加えられた暴行であり(374、1005番)、誤謬化され、冒涜された真理であり、かくて真理と善とに反抗する敵意である。

 

 

天界の秘義7326

 

「それらは血となるであろう」。これは、彼らが諸真理を誤謬化するであろう、を意味していることは、『血』の意義から明白であり、それは真理の誤謬化である(7317番を参照)。『血』はその純粋な意義では愛の聖いものを意味し、かくて仁慈と信仰とを意味している、なぜなら仁慈と信仰とは愛の聖いものであるからである。かくて『血』は主から発出している聖い真理を意味しているのである(1001、4735、6978番を参照)。しかしその対立した意義では『血』は仁慈に対し、また信仰に対し、かくて主から発出している聖い真理に対し加えられた暴行を意味しており、真理が誤謬化される時、真理に暴行が加えられるため、『血』により真理の誤謬化が意味され、更に大きな度では、『血』により真理の冒涜が意味されているのである。そのことは血を食べることにより意味されたため、血を食べることはその理由から極めて厳しく禁じられたのである(1003番)。

 

 

天界の秘義7327

 

「エジプトの全地に血があるであろう」。これは凡てのものを誤謬化することを意味していることは以下から明白である、即ち、『血』の意義は真理の誤謬化であり(そのことについては、すぐ前の7326番を参照)、『エジプトの全地に』の意義は、凡ゆる所に、であり、かくて凡てのものである。誤謬が支配し始める時、誤謬化は凡てのものに及ぶものとなるのである、なぜならその時はその人間は持って生まれたところの、また生後取得したところの悪に従って生き、そこに歓喜を感じるからである。そして信仰の諸真理はそうした事柄を禁じるため、彼はその時そうした真理を嫌悪するのであり、それをそのように嫌悪すると、真理をそれが存在している至る所で自分自身から斥けてしまい、もし斥けることが出来ないなら、それを誤謬化してしまうのである。

 

 

6.罪、特に憎悪 

 

天界の秘義329

 

信仰を(仁慈から)分離して、それを仁慈の先に置いた者の中には仁慈は消滅してしまったことが『カインはその兄弟のアベルを殺した』ことにより記されている(8,9節)。

 

 

天界の秘義330

 

消滅してしまった仁慈は『血の声』と呼ばれ(10節)、歪められた教理は『地からの呪い』と呼ばれ(11節)、そこから発した誤謬と悪は『地の逃亡者、またさすらい者』と呼ばれている(12節)。そして彼らは主に反したため、永遠の死の危険に陥った(13,14節)。しかし仁慈がその後植え付けられるのは信仰によったため、信仰は犯すことの出来ないものとされ、それは『カインに置かれた印』により意味されている(15節)。そしてそれがその前の位置から遠ざけられたことは『カインはエデンの東の方に住んだ』ことにより意味されている(16節)。

 

 

天界の秘義374

 

『血の声』は暴行が仁慈に加えられたことを意味することは聖言の多くの記事から明らかであり、その中では『声』は訴える物を意味し、『血』は如何ような種類であれ、罪を特に憎悪を意味している。なぜならたれでもその兄弟に対し、憎悪を抱く者は、主が教えられているように、彼を心の中で殺してしまうからである―

 

 昔の人に「殺してはならない、たれであれ殺す者は審判かれるであろう」と言われたことをあなたらは聞いている、しかしわたしはあなたらに言う、すべて軽率に人の兄弟を怒る者は審判かれるであろう。また兄弟にむかってラーカーと言う者は衆議に遭うであろう、また馬鹿者と言う者は火の地獄に落ちるであろう。(マタイ5・21、22)。

 

 これの言葉により憎悪の度が意味されているのである。憎悪は仁慈に反しており、たとえ手を用いなくても、心の中で、何であれ、その為すことの出来る方法をもって殺しており、手の行為からはただ外なる拘束によってのみ遠ざけられているに過ぎないのである。それ故憎悪は凡て血である、例えばエレミヤ記には―

 

 あなたはなぜあなたの道を善として、愛を求めるのか。あなたの裾に貧しい無垢な者の魂の血が見られる(2・33、34)

 

 

天界の秘義1010

 

『人の中の人の血を流す者はたれでも』、これは仁慈を消滅させることを意味し、『人の中の』は、人のもとに在る、であることは『血』の意義が仁慈の聖いものであり―それについては前を参照―また『人の中の人の血』と言われていることから明白である。これは彼の内なる生命を意味しており、内なる生命は人間の中に存在しないで、人間のもとに存在しているのである。なぜなら主の生命は仁慈であって、それは、人間は不潔で、汚らわしいものであるため、人間の中には存在しないで、人間のもとに存在しているからである。『血を流すこと』は仁慈に暴行を加えることであることは聖言の記事から明白である、例えば前に引用した記事から明白であり(374、376番)、そこには仁慈に加えられた暴行は『血』と呼ばれていることを示しておいた。『血を流すこと』は文字の意義では殺すことであるが、しかし内意では主がマタイ伝に教えておられるように、隣人に憎悪を抱くことである―

 

  あなたらは昔の者たちに、お前は殺してはならない、たれでも殺す者は審判を受けるであろう、と言われたことを聞いている、しかしわたしはあなたたちに言う、凡て原因も無いのにその兄弟を怒る者は審判を受けるであろう(5・21、22)。

 

 ここでは『怒ること』は仁慈から退くことを意味し(それについては357番参照)、従って憎悪を意味している。

 

 

天界の秘義1010[2]

 

憎悪を抱いている者は仁慈を持っていないのみでなく、仁慈に暴行を加えるのである、すなわち、「血を流す」のである。憎悪には事実殺害が存在しており、それは以下のことから明白である。すなわち憎悪を抱いている者はその憎んでいる者が殺されることを何ものにもまさってねがっており、もし外的な拘束により抑えられもしないならば、彼を殺そうと欲するのである。こうした理由から『兄弟を殺しその血を流すこと』は憎悪であり、そしてそれが憎悪であるからには、その者に対する彼の観念[考え]の各々の中にはそれが存在しているのである。冒涜も同じである。すでに言ったように聖言を冒涜する者は真理を憎むのみでなく、それを消滅させ、または殺すのである。このことは他生にいる冒涜罪を犯した者らから明白である。彼らはその身体の中で生きていた間は外面的には正しい、賢い、敬虔なものとしていかほど見えたにしても、他生では主に、また愛の諸善と信仰の諸真理の凡てに致死的な憎悪の念を抱いているが、それはこれらのものが彼らの内的な憎悪、強奪、姦通に対立しているという理由に基いていて、彼らはその内的な憎悪、強奪、姦通を聖いものの仮面の下で覆い隠し、また愛の諸善と諸真理と不善化してそれらに自分自身を支持させるためである。

 

 

天界の秘義1010[3]

 

 『血』が冒涜を意味することは前に引用した記事から明らかであるのみでなく(374番)、モーセの書の以下の記事からも明らかである―

 

イスラエルの家の者の中で、雄牛を、または子羊を、または山羊を宿営の中で殺し、またはそれを宿営の外で殺して集会の天幕の戸の中へ携えてこないで、それをエホバの幕屋の前でエホバに捧げる献納物として捧げない者はたれであっても、その人に血を帰しなくてはならない、彼は血を流すのである。その人をその民から絶たなくてはならない(レビ記17・3,4)。

 

幕屋の近い辺りにあった祭壇以外の場所で生贄を捧げることは冒涜を表象したのである、なぜなら生贄は聖い物であったが、もしそれが宿営の内に、またその外に行われたならば汚れたものとなったからである。

 

 

天界の秘義1011

 

「その血は流されなくてはならない」。これは彼が罪に定められることを意味することはすでに言ったことから明白である。血を流す者、または殺す者が死をもって罰しられることは文字の意義に従っている。しかし内意では、主もまたマタイ伝に教えられているように、隣人に憎悪を抱く者はそのことにより死に、すなわち地獄に定められることが意味されているのである―

 

 たれでも自分の兄弟に向って、馬鹿者と言う者は火の地獄に投げこまれる危険がある(マタイ5・22)。

 

 なぜなら仁慈が消滅すると、その人間は自分自身と自分自身のものとに向って放任されてしまって、最早良心に属した内的な束縛を通して主により支配されなくなってしまい、自分の富と権力のために作る束縛のような、法律に属した外なる束縛を通してのみ支配されるからである。そしてこれらの束縛が緩められると、―こうしたことは他生に起るのであるが―彼は最大の残酷と淫猥にさえも突入し、かくして自分自身を罪に定めるのである。血を流す者はその者の血を流されなくてはならないことは古代人に良く知られた報復の法則であり、それに応じて彼らは聖言の多くの記事から明白であるように、犯罪と不正とを審いたのである。この法則は人は他の者からしてもらいたくないことを他の者にしてはならないという普遍的な法則から起っており(マタイ7・12)同じくまた以下のことからも起っている、すなわち悪はそれ自身を罰し、同様に誤謬もそれ自身を罰し、かくして悪と誤謬との中にそれ自身の刑罰が存在しているということが他生における普遍的な法則となっているのである。そして悪は悪自身を罰し、あるいはそれと同じことではあるが、悪い人間はその者の悪に相応した刑罰に突入するという秩序が在るため、古代人はそこから彼らの報復の法則を引き出したのであって、そのことがまたここに、凡て(他の者の)血を流す者は、その者の血を流さなくてはならない、すなわち、彼は自ら自分自身を罪に定めるというこの宣言により意味されているのである。

 

 

天界の秘義1012

 

 『たれでも人の内の人の血を流す者は自分の血を流さなくてはならない』という言葉の文字の意義は、他人の血を流す者であるが、しかし内意ではそれは他の者の血ではなく、己が自己の内にある仁慈である。こうした理由から『人の中の人の血』と言われているのである。時々二人が文字の意義で語られている時は、その内意では只一人の者が意味されているのである。内なる人が人の中の人である。それで内なる人に属した、または内なる人そのものである仁慈を消滅させる者はたれでもその者の血を流されなくてはならない、すなわち、彼は彼自身を罪に定めるのである。

 

 

 

7.各種の不法

 

天界の秘義374[2]

 

憎悪は『血』により意味されるように、各種の不法も同じく『血』により意味されている、なぜなら憎悪は凡ての不法の源泉であるからである。

 

 

 

8.聖い真理

 

 

天界の秘義4751

 

血は聖い真理を意味している。(4735番)

 

 

 

真の基督教705

 

 肉、血、パン、葡萄酒はその言葉が記されている聖言の記事から明らかであるように、それに相応している霊的な意義と天的な意義とを意味している。以下の記事を参照されよ。「いざ神の大いなる宴席に集いきたりて、主たちの肉、将校の肉、強き者の肉、馬とこれに乗る者との肉、すべての自主および奴隷、小なる者大なる者の肉を食え」(黙示録19・17、18)。而してエゼキエル書には、「我が汝らのためにささげし犠牲に、イスラエルの山々の上なる大いなる犠牲に、汝ら四方より集まれ。肉を食い、血を飲め。汝ら勇者の肉を食い、地の君達の血を飲め。汝らは我が犠牲より飽くまで脂を食い、酔うまで血を飲むべし。汝らは我が席につきて、馬と戦車と勇士と諸々の軍人に飽かん、而して我わが栄光を国々の民に示さん」(39・17−21)。これらの記事では、肉と血とはこれに相応する霊的な意義と天的な意義とを明らかに意味している。何故なら、そうでなければ、彼らは王達、将校達、勇士達の馬、これに乗る者達の肉を食い、彼の食卓に於いて馬と戦車、勇士、凡ゆる戦士に飽き、地の君達の血を飲み、酔うまでも血を飲むというこの奇妙な表現には、何らの意義も有り得ないであろう。これらの表現は主の聖餐に関連していることは明白である。何故なら、大いなる神の晩餐および大いなる犠牲が記されているからである。扨(さて)、凡ゆる霊的な天的なものは専ら善と真理とに関係を持っている故、肉は仁慈の善を、血は信仰の真理を意味し、それらはその最高の意義においては愛の神的な善と智恵の神的な真理の方面の主を意味していることが推論される。エゼキエル書の以下の語「我かれらに一つの心を与え、汝らの衷に新しき霊を賦けん、我かれらの身の中より石の心を取去りて、肉の心を与えん」(11・19。36・26)の肉によってもまた霊的な善が意味されている。聖言では心は愛を意味し、それ故善への愛は肉の心によって意味されている。さらに、肉と血とは霊的な善と真理とを意味することは、主が自らの肉はパンであり、自らの血は杯から飲まれる葡萄酒であると語り給う記事のパンと葡萄酒との意義により更に明白である。

 

 

 

 

9.肉食は許されている

 

 

創世記1・29、30

神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。

 

 

天界の秘義1002

 

 動物の肉を食べることは、それがそれ自身において観察されるならば、汚れたことである。なぜなら最古代教会では彼らはいかような獣の肉も鳥の肉も決して食べないで、ただ種子のみを食べたからである。特に小麦から作られたパンを、また木の実を、野菜を、種々の牛乳を、そうしたものから作られたものを、例えば色々な牛酪を食べたからである。動物を殺して、その肉を食べることは彼らには邪悪なことであり、野獣に似ていたのである。彼らは創世記1・29、30から明らかなように、動物からは仕事と用[益]とを得たに過ぎなかったのである。しかし時の経過とともに、人間が野獣のように凶暴になり実に野獣よりも凶暴にさえもなり始めると、始めて動物を殺して、その肉を食べ始めたのである。人間の性質はこのようなものになったため、こうしたことをすることが人間に許されたのであって、現在にも依然許されているのである。人間がそれを良心から行っている限り、その良心は彼が真であり、かくて合法的なものであると考えている凡ゆるものから形作られているため、それは彼には合法的なものとなっている。それ故現在ではたれでも肉を食べたということで罪に定められてはいないのである。

 

 

 

10.彼らに生贄が許されたのは彼らにその息子と娘とを生贄として捧げさせないためであったのである

 

天界の秘義1241

 

即ち、エベルにより新たに定められた礼拝が生まれたのであるが、しかしそれは付け加えられたものであり、また変化したものであった。特にに彼らは生贄を他の祭儀にまさって称揚し始めたのである。真の古代教会では生贄はハムとカナンの子孫の若干の者たちの間を除いては知られていなかったのであり、ハムとカナンの子孫らは偶像教徒であり、彼らに生贄が許されたのは彼らにその息子と娘とを生贄として捧げさせないためであったのである。

 

 

 

 

11.血液の熱とその赤いこと

 

 

結婚愛34

 

愛は人間の生命の熱であり、またその生命的な熱である。血液の熱とその赤いこともまたそれ以外の源泉からは発してはいないのである。純粋な愛である天使たちの太陽の火がそれを生み出しているのである。

 

 

 

神の愛と知恵380

 

血液の赤さもまた心臓と血液の、愛とその諸情愛との相応から発している、なぜなら霊界には凡ゆる種類の色彩があり、その中でも赤と白とは根本的なものであって、他はその多様性をこれらの色とそれに反対の色の、くすんだ火の色と黒から得ているからである。そこの赤は愛に相応し、白は知恵に相応している。赤は霊的な太陽の火から発しているため、それは愛に相応し、白はその太陽の光から発しているため、知恵に相応している。そして愛と心臓との相応があるため、血液は必然的に赤となって、その起源を明示しなくてはならない。この理由から主に対する愛の支配している天界では光は焔の色を帯び、そこの天使は紫の衣を着、知恵の支配している天界では光は白く、そこの天使は白いリンネルの衣を着ている

 

 

 

 

12.霊魂

 

 

神の愛と知恵379

 

愛は人間の生命であるため、心臓は彼の生命の最初のものであり、またその最後のものである。そして愛は人間の生命であり、霊魂は身体の中にその生命を血液により維持しているため、聖言には血液は霊魂と呼ばれている(創世記9・4、レビ記17・14)。

 

 

 

 

13.愛の諸々の情愛は血液に相応している

 

 

神の愛と知恵423

 

しかし、すでに述べたように、何人もこれを血液について如何ような実験(テスト)によっても実験することは出来ず、愛の諸々の情愛は血液に相応しているため、その情愛を観察することによってのみ実験することが出来るのである。