肉
天界の秘義574
『肉』は人間が形体的なものになってしまったことを意味することは聖言の『肉』の意義から明らかであり、そこではそれは全般的に人間各々を意味しているのみでなく、とくに形体的な人間を意味するたえに用いられている。それはヨエル書には人間各々を意味するために用いられている―
わたしはわが霊を凡ての肉の上に注ぎ出そう、あなたらの息子と娘は予言するであろう(2・28)。
ここでは『肉』は人間を、『霊』は主から発する真理と善との流入を意味している。ダビデの書には―
祈りを聞かれる方よ、あなたのもとに凡ての肉は来るでしょう(詩篇65・2)。
ここでは『肉』は人間各々を意味している。エレミヤ記には―
人間に信頼し、肉を己が腕とする者は呪われている(17・5)。
ここでは『肉』は人間を、『腕』は力を意味している。エゼキエル書には―
凡ての肉が知るために(21・45)。
ゼカリヤ書には―
凡ての肉よ、エホバの前に黙せよ(2・13)。
ここでは『肉』は人間各々を意味している。
天界の秘義574 [2]
それが特に形体的な人間を意味していることはイザヤ書から明らかである―
エジプト人は人であって神ではない、その馬は肉であって霊ではない(31・3)。
これはかれらの記憶知が形体的なものであることを意味しており、『馬』は聖言のここと他の所では合理的なものを示している。更に―
彼は右手を切り倒すが、飢え、左手に食べるが、かれらは満足はしない。各々その者自身の腕の肉を食べるであろう(9・20)。
これは凡て形体的なものであるところの人間自身のものであるものを意味している。同書に―
彼は魂からくいつくし、また肉からさえもくいつくすであろう(10・18)。
ここでは『肉は』は形体的なものを意味している。さらに―
エホバの栄光が明らかにされて、凡ての肉はともにそれを見るであろう、その声は言った、叫べ、と。かれは言った、何をわたしは叫びましょうか、肉は凡て草である(40・5,6)
ここの『肉』は形体的な人間各々を意味している。
天界の秘義574[3]
同書に―
火の中にエホバは論じられるであろう、その剣をもって凡ての肉と論じられるであろう、エホバに殺された者が増し加えられるであろう(66・16)。
ここでは『火』は諸々の欲念の刑罰、『剣』は諸々の誤謬の刑罰を、『肉』は人間の形体的なものを意味している。ダビデの書には―
神は彼らが肉であり、過ぎ去って、再び帰って来ない息であることを憶えられた(詩篇78・39)。
これは形体的な者であったために、肉を欲した荒野の人々を語っており、かれらが肉を欲したことはかれらが単に形体的な物を欲したに過ぎなかったことを表象したのである(民数記11・32,33,34)。
天界の秘義998
創世記9章4節「ただその肉を、その魂と共に、その血と共に食べてはならない」。『肉』は人間の意志の部分を、『魂』は新しい生命を、『血』は仁慈を意味している。『食べないこと』は混合しないことを意味している。それで『その肉をその魂と共に、その血と共に食べないこと』により汚れた物と聖い物とを混合しないことが意味されている。
天界の秘義999
『肉』は人間の意志の部分を意味していることは腐敗している時の人間に言及して用いられている肉の本来の意味から明白である。『肉』は前に見ることが出来るように(574番)、全般的には人間全体を、特に形体的な人間を意味しているからには、人間に固有のものを意味し、従って人間の意志の部分を意味するのである。人間の意志の部分はまたは意志は悪以外の何ものでもなく、それで『肉』は、人間について述べられると、人間はそうしたものであるため、欲念そのものを、または悪欲そのものを意味している。なぜなら人間の意志は時折前に示されたように、欲念以外の何ものでもないからである。そして『肉』はこの意義を持っているため、イスラエル民族が荒野で欲求した肉により表象されたものもまたこうしたものであって―例えばモーセの書には―
彼らの間にいた多くの入り混じった者らは欲心を起こした、それで彼らは再び泣いて、言った、たれが私らに肉を与えて食べさせてくれるであろうか(民数記11・4)。
ここに肉は明らかに欲心と呼ばれている。なぜなら彼らは欲心を起こして、誰が私らに肉を与えてくれるであろうか、と言ったと言われているからである。そのことは以下の記事からも同様に明白である―
肉が未だ彼らの歯の間に在って、それが噛まれない中にエホバの怒りが民に向って燃え、エホバは民を非常に大きな疫病をもって打たれ、その所の名は欲心の墓と呼ばれた、そこに彼らは欲心を抱いた民を葬ったからである(民数記11・33、34節)。
天界の秘義999〔2〕
このような疫病はその民が肉を欲求したからといって彼らの間に送られはしなかったであろうということは、かくて肉を求める欲念のために送られはしなかったであろうということはたれにでも明白であるに違いない。なぜならこうしたことは当時その民が荒野で長い間肉を食べることが出来なかったように、人間が長い間肉を食べることが出来ない時は当然なことであるから。しかしそこには霊的なものである更に深い理由が隠れているのである。すなわち、6節からもまた明白であるように、その民はマナにより意味され、表象されたものを嫌忌し、『肉』により意味され、表象されたもののみを、すなわち、その民自身の意志の物を、欲念の事柄ものであって、それ自身では排泄物のようなものであり、汚れたものであるもののみを欲求するといった性質を持っていたのである。その民がかくも大きな疫病に苦しめられたのは、その教会がそうした物を表象することから、表象的なものであったためである。なぜならその民の間に行われたことは天界では霊的に表象されたからである。マナは天界では天界的なものを表象し、彼らの欲求した肉は彼ら自身の意志の不潔な物を表象したのである。こうした理由から、彼らはこうした性質を持っていたため罰せられたのである。聖言のこれらの、また他の記事から『肉』により意志に属したものが意味されていることが明白であり、人間の意志の不潔さは地の獣を取扱っている本章の第二節の下に見ることが出来よう。
天界の秘義1000
『魂』は生命を意味していることは聖言の多くの個所の『魂』の意義から明白である。『魂』は聖言では全般的に生命そのものを意味しており、外なる生命、すなわち外なる人の生命のみでなく内なる生命を、すなわち内なる人の生命を意味してい。そしてそれは生命そのものを意味しているため、それはその魂がその者について述べられている人間の生命のようなものである生命を意味している。ここではそれは人間の意志から分離した再生した人間の生命について述べられているのである。なぜならすでに言ったように、再生した霊的な人間が主から受ける新しい生命は、その人間の意志からは、またはその人間自身のものからは、すなわち、その者自身のものである生命からは全く分離しているからであり、その者自身の生命は奈落的な生命であるため、たとえ生命と呼ばれてはいるものの、生命ではなく、死である。それでここでは彼らが食べてはならない『肉とその魂』は、その魂と共になった肉を意味しており、すなわち、彼らは主に属したこの新しい生命を人間に属した悪い、または排泄物のような生命と、すなわち、人間の意志、または人間自身のものと混合してはならないことを意味している。
天界の秘義2041
「あなたらはあなたらの陽の皮の肉に割礼をほどこさなくてはならない。」これは自己への愛と世への愛とを遠ざけることを意味していることは、『割礼』の表象と意義とが汚れたいくたの愛から清められることであり(そのことは2039番に説明した)、また『肉』の意義が人間自身のものであることから明白である(このことは前の999番にとり扱った)。人間自身のものは自己へのまた世への愛以外の何ものでもなく、かくてそこから派生してくるあらゆる欲念であり、そしてそれはいかに汚れたものであるかは第一部に示されたところである(141、150、154、210、215、694、731、874−876、987、1047番)。遠ざけられねばならない人間のこの人間自身のものが意味されているため、『陽の皮の肉』の表現が用いられているのである。
天界の秘義2041[2]
主から発している天界的愛の流入を妨害している二つの所謂愛とその愛の欲念とが存在している、なぜならこれらの愛が内的な人を、また外なる人を支配し、それらを占有すると、それらはその流入してくる天界の愛を斥けるか、窒息させるかしてしまい、またそれを歪め、汚してしまうからである、なぜならそれらは主の神的慈悲の下に後に示されるように、天界の愛に全く相反しているからである。しかしこれらの愛が遠ざけられるに正比例して、主から流入してくる天界的愛[天界の愛]が内的な人の中に現れはじめ、否、光を与えはじめ、彼は自分が悪と誤謬の中にいることを認め始め、次に自分が現実に[まことに]清くないものと汚れたものの中にいることを認め始め、遂にはそれが自分の自分自身のものであったことを認め始めるのである。再生しつつある者とは、これらの愛が遠ざけられつつある者である。
天界の秘義2041[3]
この遠ざけられることは再生していない者らのもとにもまた認めることが出来るのである、なぜなら彼らが不幸になり、健康を害し、病気になったとき、特に今にも死のうとしている時、起ることではあるが、彼らが聖いもの思いに耽っている時、または色々な欲念が静められている時往々起ってくるように、こうした愛の色々な欲念が彼らの中に静止していると、その時は、身体の、また世の事柄は静まって、いわば死んだようになっているため、彼らは多少天界の光を、またそこから生まれてくる慰めを認めるのである。しかしこれらの人物のもとでは問題の欲念は遠ざけられているのではなくて、単にそれらが静まっているに過ぎないのである、なぜなら彼らはその以前の状態に帰って行くと、直ぐにもその同じ幾多の欲念に再び帰って行くからである。
天界の秘義2041[4]
悪い者のもとにもまた、身体のまた世のものは静められることが出来、その時彼らは一種の天界的なものの中へ謂わば引き上げられることが出来るのであって、こうしたことは他生における霊魂たちのもとに起るのであり、特に世に生きていた間に天界について非常に多くのことを聞いていたため、主の栄光を見ようと切望している新しく着いたばかりの者たちのもとに起るのである。前に言及した外なる者はその時彼らの中に静まってしまっており、そのようにして彼らは第一の天界に連れて行かれて、彼らの欲望を楽しむのである。しかし彼らは長く止まっていることは出来ない、なぜなら身体のまた世のものが単に静止しているのみであって、天使たちのもとにおけるように、それらのものが遠ざけられてはいないからである(このことについては541、542番を参照されたい)。天界的な愛〔天界の愛〕は主から人間の中へ絶えず流れ入っていて、それらの愛の幾多の欲念とそこから派生してくる幾多の誤謬を除いては、他の何ものもそれを妨害し、妨げはしないのであり、また人間にそれを受けることが出来ないようにさせもしないことを知らなくてはならない。
天界の秘義3813
『肉』については、それはその最高の意義では、神的善であるところの主の神的な人間的なものの自分自身のものを意味しているが、しかしその関連的な意義では神的なものの自分自身のものにより、すなわち、主の神的善により生かされたところの人間の意志の自分自身のものを意味している。この自分自身のものは天界的な自分自身のものと呼ばれるものであり、それはそれ自身では主のみのものであって、それが善の中にいて、そこから真理の中にいる者たちのものとされるのである。諸天界にいる天使たちは、またその内部がまたはその霊が主の王国の中にいる人間はそのような自分自身のものを持っているのである。しかしその対立した意義では、『肉』は人間の意志の自分自身のものと呼ばれるものであり、それはそれ自身では主のみのものであって、それが善の中にいて、そこから真理の中にいる者たちのものとされるのである。諸天界にいる天使たちは、またその内部がまたはその霊が主の王国の中にいる人間はそのような自分自身のものを持っているのである。しかしその対立した意義では、『肉』は人間の意志の自分自身のものを意味しており、それはそれ自身では死んでいると言われている。
天界の秘義3813[2]
その最高の意義では『肉』は主の神的な人間的なものの自分自身のものであり、かくて主の神的善であることは、ヨハネ伝の主の御言葉から明白である―
イエスは言われた、わたしは天から降った生きたパンである、たれでもこのパンを食うなら、その者は永遠に生きるであろう、わたしの与えるパンはわたしの肉である、それをわたしは世の生命のために与えるであろう。(ヨハネ6・51−56、58)
ここには『肉』は主の神的な人間的なものの自分自身のものであり、かくて神的善であることは極めて明白であり、これが聖餐に『身体』と呼ばれているものである。聖餐に『身体』または『肉』は神的善を意味し、『血』は神的真理を意味していることは、前に見ることが出来よう(1798、2165、2177、3464、3735番)、『パンとぶどう酒』は『肉と血』と同一のことを意味しているため、すなわち『パン』は主の神的善を、『ぶどう酒』は主の神的真理を意味しているため、それで後のものが前のものに代わって命じられたのである。これが主が『わたしは生きたパンである、わたしが与えるパンはわたしの肉である、わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしの中に住み、わたしもその者の中に住むのである。これは天から降ったパンである』と言われた理由である。(『食べること』は、伝達されることを、連結されることを、所有されることを意味していることについては、前の2187、2343、3168、3513、3569番を参照されたい)。
天界の秘義3813[6]
その対立した意義では『肉』はそれ自身では悪以外の何ものでもないところの人間の意志の自分自身のものを意味していることは以下の記事から明白である。イザヤ書には―
かれらは各々自分自身の腕の肉を食うであろう(イザヤ9・20)。
さらに―
わたしは彼らを虐げる者にその者自身の肉を食べさせよう、彼らは新しいぶどう酒に酔うように、彼ら自身の血に酔うであろう(イザヤ49・26)。
エレミア記には―
わたしは彼らにその息子の肉を、その娘の肉を食べさせよう、彼らは各々その仲間の肉を食うであろう(エレミア19・9)。
ゼカリア書には―
残っている者に各々他の者の肉を食べさせよ(ゼカリア11・9)。
モーセの書には―
わたしはあなたらをその罪のために七度こらしめよう、あなたらはあなたらの息子たちの肉を食べるであろう、娘たちの肉を食べるであろう(レビ記26・28、29)。
人間の意志の自分自身のものが、すなわち、人間の性質がこのように記されているのである、なぜならそれは悪とそこから派生してくる誤謬以外の何ものでもなく、かくて真理と善とに対する憎悪であり、それが『自分の腕の肉を、息子たちと娘たちの肉を、仲間の肉を食べること』により意味されているのである。
天界の秘義3813[9]
『肉』によりその最高の意義では主の神的な人間的なものが意味されていることは前に引用した記事から明らかであり、またヨハネ伝の以下の記事からも明らかである―
聖言は肉となって、わたしたちの間に住まわれた、わたしたちはその方の栄光を、父の独り児の栄光としての栄光を見まつった(ヨハネ1・14)。
この『肉』から凡ての肉は生かされるのであり、すなわち、人間はことごとく主の愛を己がものとすることによって主の神的な人間的なものから生かされるのであり、その己がものとすることが『人の子の肉を食うこと』(ヨハネ6・51−58)により、また聖餐に『パンを食うこと』により意味されているのである、なぜなら『パン』は『身体』または『肉』であるからである(マタイ26・26、27)。
天界の秘義8408
『肉』により人間自身のものが意味されるため『肉鍋のそばに坐ること』により、彼らが好むところに従って、また彼らが欲するように生きることが意味されている、なぜならこの生活は人間自身のものの生活であるからである。
天界の秘義8409〔3〕
受けた者には、かれの御名を信じる者にはかれは神の子となる力を与えられた、彼らは血からも、肉の意志からも、人間の意志からも生まれないで、神から生まれたのである(ヨハネ1・12、13)
『肉の意志』とは意志の自分自身のものを意味し、『人間の意志』は理解の自分自身のものを意味し、『神の子』は再生した者を意味し、再生しつつある者たちはすべて主御自身のものから生かされるが、主御自身のものとは『主の肉と身体』であって、神的善そのものである。
天界の秘義8409〔4〕
『肉』はその対立した意義では人間自身のものを意味し、かくて悪を意味しているため、それはまた現世欲〔肉欲、欲念〕を意味している、なぜなら身体自身の生命である肉は感覚の快楽、肉欲の歓喜、欲念以外の何ものでもないからである。
真の基督教705
肉、血、パン、葡萄酒はその言葉が記されている聖言の記事から明らかであるように、それに相応している霊的な意義と天的な意義とを意味している。以下の記事を参照されよ。「いざ神の大いなる宴席に集いきたりて、主たちの肉、将校の肉、強き者の肉、馬とこれに乗る者との肉、すべての自主および奴隷、小なる者大なる者の肉を食え」(黙示録19・17、18)。而してエゼキエル書には、「我が汝らのためにささげし犠牲に、イスラエルの山々の上なる大いなる犠牲に、汝ら四方より集まれ。肉を食い、血を飲め。汝ら勇者の肉を食い、地の君達の血を飲め。汝らは我が犠牲より飽くまで脂を食い、酔うまで血を飲むべし。汝らは我が席につきて、馬と戦車と勇士と諸々の軍人に飽かん、而して我わが栄光を国々の民に示さん」(39・17−21)。これらの記事では、肉と血とはこれに相応する霊的な意義と天的な意義とを明らかに意味している。何故なら、そうでなければ、彼らは王達、将校達、勇士達の馬、これに乗る者達の肉を食い、彼の食卓に於いて馬と戦車、勇士、凡ゆる戦士に飽き、地の君達の血を飲み、酔うまでも血を飲むというこの奇妙な表現には、何らの意義も有り得ないであろう。これらの表現は主の聖餐に関連していることは明白である。何故なら、大いなる神の晩餐および大いなる犠牲が記されているからである。扨(さて)、凡ゆる霊的な天的なものは専ら善と真理とに関係を持っている故、肉は仁慈の善を、血は信仰の真理を意味し、それらはその最高の意義においては愛の神的な善と智恵の神的な真理の方面の主を意味していることが推論される。エゼキエル書の以下の語「我かれらに一つの心を与え、汝らの衷に新しき霊を賦けん、我かれらの身の中より石の心を取去りて、肉の心を与えん」(11・19。36・26)の肉によってもまた霊的な善が意味されている。聖言では心は愛を意味し、それ故善への愛は肉の心によって意味されている。さらに、肉と血とは霊的な善と真理とを意味することは、主が自らの肉はパンであり、自らの血は杯から飲まれる葡萄酒であると語り給う記事のパンと葡萄酒との意義により更に明白である。