肉食は許されている

 

 

 

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.ヴァッスーラ

4.アグレダのマリア

 

 

 

 

1.聖書

 

 

創世記1・29、30

神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。

 

 

創世記9・2−4

地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。

 

 

 

申命記12・15

 

ただし、どの町においてもあなたの神、主が与える祝福に従って、欲しいだけ獣を屠り、その肉を食べることができる。かもしかや雄鹿を食べる場合のように汚れている者も清い者も食べることができる。

 

 

 

申命記12・20−21

 

約束されたとおり、あなたの神、主があなたの領土を広げられるとき、肉が食べたいと言うなら、欲しいだけ肉を食べることができる。あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所が遠く離れているならば、わたしが命じたとおりに、主が与えられた牛や羊を屠り、自分の町で、欲しいだけ食べることができる。

 

 

 

申命記14・4−20

 

食べてよい動物は次のとおりである。牛、羊、山羊、雄鹿、かもしか、子鹿、野山羊、羚羊、大かもしか、ガゼル。その他ひづめが分かれ、完全に二つに割れており、しかも反すうする動物は食べることができる。ただし、反すうするだけか、あるいは、ひづめが分かれただけの動物は食べてはならない。らくだ、野兎、岩狸。これらは反すうするが、ひづめが分かれていないから汚れたものである。いのしし。これはひづめが分かれているが、反すうしないから汚れたものである。これらの動物の肉を食べてはならない。死骸に触れてはならない。

水中の魚類のうち、ひれ、うろこのあるものはすべて食べてよい。

しかしひれやうろこのないものは、一切食べてはならない。それは汚れたものである。

清い鳥はすべて食べてよい。しかし、次の鳥は食べてはならない。禿鷲、ひげ鷲、黒禿鷲、赤鳶、隼、鳶の類、烏の類、鷲みみずく、小みみずく、虎ふずく、鷹の類、森ふくろう、大このはずく、小きんめふくろう、このはずく、みさご、魚みみずく、こうのとり、青鷺の類、やつがしら鳥、こうもり。

羽のある昆虫はすべて汚れたものであり、食べてはならない。清い鳥はすべて食べてよい。

 

 

 

マタイ3・4

 

ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。

 

 

 

ルカ24・41−43

 

彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

 

 

 

ヨハネ6・55

 

わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。

 

 

ヨハネ21・5−13

イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。

 

 

 

使徒言行録10・11−13

 

彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。

 

 

 

ローマ14・21

 

肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。

 

 

 

コリント1・8・13

 

それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。

 

 

 

コリント1・10・25

 

市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからです。あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。

 

 

 

テモテ1・4・3−5

 

結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりします。しかし、この食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです。というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです。

 

 

 

ヘブライ13・9

 

いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義1002

 

 動物の肉を食べることは、それがそれ自身において観察されるならば、汚れたことである。なぜなら最古代教会では彼らはいかような獣の肉も鳥の肉も決して食べないで、ただ種子のみを食べたからである。特に小麦から作られたパンを、また木の実を、野菜を、種々の牛乳を、そうしたものから作られたものを、例えば色々な牛酪を食べたからである。動物を殺して、その肉を食べることは彼らには邪悪なことであり、野獣に似ていたのである。彼らは創世記1・29、30から明らかなように、動物からは仕事と用[益]とを得たに過ぎなかったのである。しかし時の経過とともに、人間が野獣のように凶暴になり実に野獣よりも凶暴にさえもなり始めると、始めて動物を殺して、その肉を食べ始めたのである。人間の性質はこのようなものになったため、こうしたことをすることが人間に許されたのであって、現在にも依然許されているのである。人間がそれを良心から行っている限り、その良心は彼が真であり、かくて合法的なものであると考えている凡ゆるものから形作られているため、それは彼には合法的なものとなっている。それ故現在ではたれでも肉を食べたということで罪に定められてはいないのである。

 

 

 

天界の秘義1003

 

 これらの事から『肉をその魂と共に、その血と共に食べないこと』は汚れた物を聖いものと混合しないことであることが今や明白である。主はマタイ伝に明白に教えられているように、人間が肉と共に血を食べることによっては汚れた物が聖いものとは混合しないのである―

 

口に入るものは人を汚さない、口から出るもの、それが人を汚すのである、口から出るものは心から出るからである(マタイ15・11、18−20)。

 

 しかしユダヤ教会では、すでに言ったように、血を肉と共に食うことにより天界では冒涜が表象されたため、そのことは禁じられたのである。その教会で行われた事は凡て天界ではそれに相応した表象物に変化したのである。即ち、血は聖い天的なものに、生贄意外の肉は欲念を意味したため、汚れたものに、その両方を食べることは聖いものと汚れたものとを混合することに変ったのである。こうした理由からそれは当時極めて厳格に禁じられたのである。しかし主が来られた後、外なる祭儀が禁止され、かくて表象物が存在しなくなった時、このような物は最早天界でそれに相応した表象物に変化しなくなったのである。何故なら人間が内なるものになり、内なる事柄について教えられる時、外なる物は、彼には何ら顧みられなくなるからである。その時彼は聖いものの何であるかを知るのである、即ち、仁慈とそこから発した信仰を知るのである。その時これらのものに応じて、彼の外なる物が顧慮されるのである、即ち、その外なる物の中に在る主に対する仁慈と信仰との量に応じて顧慮されるのである。それ故主が来られてからは、人間は天界では外なる物から顧慮されないで、内なるものから顧慮されている。そしてもしたれかが外なる物から顧慮されるならば、それは彼が単純であって、その単純さの中には無垢と仁慈が在り、その無垢と仁慈がその人間に知られないままに、主から発して、彼の外なる物の中に、即ち、彼らの外なる礼拝の中に存在しているためである。

 

 

 

天界の秘義

 

 彼らはその地球について訊ねられ、自分たちは草地、花床、果樹に満ちた杜、魚がいる湖、黄金の羽のある青い空色をした鳥、大小の動物を得ていると言った。小さな動物の間に、彼らは私らの地球のらくだの背中のように、こぶのある背中をもって動物を数えた。それでも彼らはその肉は食べないで、ただ魚の肉のみを、また木の実と野菜とを食べているのである。彼らはさらに、自分たちは家を建てて、その中に住んではいない、杜に住んでおり、その杜の中で、木の葉の真中で雨と陽の熱を避けるため、屋根を自分たちのために作る、と言った。

 

 

 

 

3.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/あなたは預言を無視しますか/P109

 

ヴァッスーラ:若鶏を召し上がりますか?

ネランク:はい、食べます。

ヴァッスーラ:あなたにとり、それは悪いことではないのですか?

ネランク:いいえ。それは自然の摂理です。なんと申しますか・・・。

ヴァッスーラ:よく分かります。イエスも肉を召し上がりました。そこに悪はありません。

 

 

 

 

4.アグレダのマリア

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P129

 

聖ヨゼフは、聖マリアが寝ているのを見たことがありません。聖マリアの睡眠は短い時間でした。聖ヨゼフの作った長椅子が寝台で、長椅子に掛けてある布が布団代わりになりました。聖マリアは、神殿での生活の時と同じ下着をいつも着ていました。上着や頭巾は時々取り替えました。聖マリアは汗を流さず、汚しもしませんでしたが、時々着替えて人々に好奇心を起こさせないようにしました。聖マリアの着物はすり減ることもありませんでした。肉の料理を聖ヨゼフに出しましたが、自分は決して肉を口にせず、果物、魚、普通のパンや料理した野菜を食べて健康を保ちました。