砕けた心
詩篇51・18−19
もしいけにえがあなたに喜ばれ
焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら
わたしはそれをささげます。
しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
打ち砕かれ悔いる心を
神よ、あなたは侮られません。
イザヤ57・15−16
わたしは、高く、聖なる所に住み
打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり
へりくだる霊の人に命を得させ
打ち砕かれた心の人に命を得させる。
わたしは、とこしえに責めるものではない。
永遠に怒りを燃やすものでもない。
ミカ書6・6−8
何をもって、わたしは主の御前に出で
いと高き神にぬかずくべきか。
焼き尽くす献げ物として
当歳の子牛をもって御前に出るべきか。
主は喜ばれるだろうか
幾千の雄羊、幾万の油の流れを。
わが咎を償うために長子を
自分の罪のために胎の実をささげるべきか。
人よ、何が善であり
主が何をお前に求めておられるかは
お前に告げられている。
正義を行い、慈しみを愛し
へりくだって神と共に歩むこと、これである。
天界の秘義2180[6]
生けにえは決してエホバに受け入れられるものではなく、かくて単に今し方述べた理由から許され、寛大に取り扱われたものにすぎなかったことは予言者の書に極めて明白であって、エレミア記には以下のように記されているのである―
イスラエルの神、万軍のエホバはこのように言われる、あなたらの生けにえに燔祭を加えよ、肉を食べよ。わたしはあなたらの父祖をエジプトの地から連れ出した日に燔祭と生けにえとについては彼らに語りはしなかったし、また命じもしなかった。しかしこの言葉をわたしは彼らに命じて、言った、わたしの声に従いなさい、そのときはわたしはあなたたちの神となるでしょう、と。(7・21−23)。
ダビデの書には―
ああエホバよ、生けにえと供物とはあなたは望まれなかった、燔祭と罪祭とはあなたは求められなかった、ああわが神よ、わたしはあなたの御意志を行うことを求めました(詩篇90・6、8)。
同書に―
あなたは生けにえを、わたしがそれを捧げるのをよろこばれなかった、燔祭をあなたは受け入れられない。神のいけにえは砕けた霊である(詩篇51・16、17)。
同書に―
わたしはあなたの家から雄の子牛[雄牛の子供]を取りはしない、またあなたの囲いから雌山羊を取りもしない、神にささげる生けにえは告白である(詩篇1、9、13、14、107・21、22、116・17、申命記23・19)。
ホゼア書には―
わたしは慈悲をもちたい、生けにえはもちたくない、神を知ることは燔祭にまさっている(6・6)。
サムエルはサウルに言った―
エホバは燔祭と生けにえとを喜ばれようか。見よ、従うことは生けにえにまさり、聞くことは雄羊の脂にまさっている(サムエル前15・23)。
ミカ書には―
何をもってわたしはエホバの前に来て、高い神に身をかがめようか。わたしは燔祭をもって、一歳の子牛をもって神の前に来ようか。エホバは数千の雄羊を、数万の油の川を喜ばれるであろうか。ああ人よ、エホバは善いことをあなたらに示された、エホバはあなたらに、公道[審判]を行い、慈悲を愛し、あなたの神と歩んで身を卑しくする以外には何を求められようか(6・6−8)。
天界の秘義2715[2]
ここから、霊的な者は、天的な者のようには、主に対する愛を持ってはおらず、従って、あらゆる礼拝における本質的なものであり、また善が主から流れ入ることの出来る手段となっている卑下を持ってはいないのである。なぜなら高ぶっている心は些かもそれを受けはしないのであって、唯砕けた心のみがそれを受けるからである。霊的な者はまた、天的な者のようには、隣人に対する愛を持ってはいないのである。なぜなら自己と世を求める愛が彼らの意志の部分から絶えず流れ入っており、その愛の善を明確でないものにしているからである。このことはまたたれにでも、もしその者が以下のことを考察することにより反省するならば、明白になるに相違ない。すなわち、その者がたれかに善を為すときは、それは世の目的から発しており、それで、例えその者は意識してそのように為してはいないものの、それでも報酬を考えており、すなわち、その者が善を行うその相手の者から受ける報酬かそれとも他生で主から受ける報酬かその何れかを考えており、かくて彼の善は功績の観念により汚されているのである。同じくまたその者が何らかの善を行ったときも、その者がそれを知らせ、かくして自らを他の者の上に挙げることが出来るならば、その者はその生命の歓喜の中にいるのである。
天界の秘義3318
なぜならその容器は従順ではなくて、生命がそれに応じて活動する天界の秩序に反抗して頑強に抵抗し、また自分自身を頑なにするからである。なぜならそれらの容器を動かし、またそれらの容器がそれに順応している善は自己と世を求める愛のものであり、その善は、その中にあるところの粗悪な熱から、それらの容器にこのような特質を持たせるからである。それ故それらのものは柔軟なものとなり、主の愛の生命の何らかのものを受けるのに適合したものとなることが出来る以前に、柔らげられなくてはならないのである。この柔らげられることは試練以外のいかような手段によっても遂行されはしないのである。なぜなら試練は、自己への愛に属し、また自己に比較し他の者に対し覚える軽蔑の念に属しているところの凡てのものを遠ざけ、従って自負心に属し、また自負心のための憎悪と復讐とに属している凡てのものを遠ざけるからである。それでその容器が試練により多少なりと和らげられ、征服されると、その容器は、人間のもとに絶えず流れ入っているところの、主の愛の生命に服従し、またそれに従順になり始めるのである。ここからそのとき善は真理と連結され始めるのであり、それは先ず合理的な人の中に、後には自然的な人の中に行われるのである。なぜなら前に言ったように、真理は絶えず変化しつつある幾多の状態に応じた形の幾多の多様なものの認識以外の何ものでもなく、これらの認識は流れ入って来る生命から発しているからである。これが人間が試練により、またはそれと同一のことではあるが、霊的争闘により再生する、すなわち、新しくされる理由である。その後彼は他の性質を与えられて、柔和に、謙遜に、単純に、砕けた心になるのである。これらの幾多の考察から、試練がいかような用を増進するかを今や認めることが出来よう。すなわち、主から発している善が単に流れ入るのみでなく、その幾多の容器を処理して、服従させ、かくしてその善自身をその容器に連結させるためである。真理は善を受けることの出来る容器であることは前に認めることが出来よう(1496、1832、1900、2063、2261、2269)。