卑下

 

承認卑下の相違平伏

謙遜謙虚感謝

 

 

1.卑下

2.人間の謙虚[卑下]は主が栄光を求められるためではなく、人間を幸福にするために主は求められる

3.承認

4.『いとも小さい者』

5.平伏

6.トマス・ア・ケンピス

7.ヴァッスーラ

8.天使たちは祈願には注意しないで、その人間が祈願している時の、その人間の置かれている卑下の状態に注意する

9.仁慈の中にいる者たちは自らを卑しうし、最低の者であるとして、凡ての者に仕えようと願っている

 

 

 

1.卑下

 

 

天界の秘義715

 

 最古代の人々は、自分は獣と野獣以外の何物でもなく、自分が主から得ているものによってのみ只人間であることを知り、またその事を自己を卑しくした時承認もしたため、それで自分自身に関わりのあるものをことごとく獣と鳥にたとえたのみでなく、また獣と鳥とも呼んだのである、すなわち意志の事柄をかれらは獣にたとえて、獣と呼び、理解の事柄を鳥にたとえて、鳥と呼んだのである。

 

 

 

                                                        

天界の秘義1999

 

「アブラハムは平伏した」。

これは崇拝を意味していることは説明なしに明白である。平伏することは最古代教会の、引いては古代教会の崇拝の儀式であったが、それは顔は内部を意味し、彼らの卑下の状態は平伏することにより表象されたという理由からであり、ここから表象的なユダヤ教会ではそれは慣習的な儀式となったのである。真の礼拝は、または心の卑下は、そこから自然に流れ出てくる動作として、主の前に面を下にして地に平伏することを伴っている。なぜなら心の卑下の中には自己を汚れたもの以外の何ものでもないものとして承認することが含まれると同時にそうしたものに対する主の無限の慈悲を承認することが含まれており、心がこの二つのことを承認する状態に置かれると、心そのものは自らを地獄の方へ卑下してうなだれ、身体を平伏させ、またそれが主によって持ち上げられるまでは、それ自らを持ち上げもしないからである。このことは凡ゆる卑下の中に起り、主の慈悲により持ち上げられることを認識するのである。こうしたものが最古代教会の人間の卑下であったが、しかし心情の卑下から生まれていない崇拝の場合は非常に異なっている。

 

 

 

 

天界の秘義2327

 

「彼は身を屈めて、顔を地につけた」(創世記19・1)。これは卑下を意味していることは、その意義を明らかにしなくとも認めることが出来よう。前の時代に、特に表象的な教会の中では、彼らが顔を地につける程にも身を屈めた理由は、顔は人間の内部を意味したためであり(358、1999番)、彼らが顔を地につけた理由は、地の塵は汚れた、罪に定められたものを意味したということであり(278番)、従って彼らはそのようにして、自分は自分自身では汚れて罪に定められたものであることを表象したのである。その同じ理由から彼らは平伏して、顔を地面に押しつけ、塵と灰の中にころげまわりさえもし、また頭に塵と灰とを振り掛けさえもしたのである(このことは哀歌2・10、エゼキエル27・30、ミカ1・10、ヨシュア7・6、黙示録18・19、その他から認めることができよう。)

 

 

 

 

天界の秘義2327 [2]

 

このすべてにより彼らは真の卑下の状態を表象したのであるが、それは彼らが自分は自分自身では汚れた、罪に定められたものであることを承認しない限り、かくて自分は自分自身では、そのもとには神的な聖いもの以外のものは何一つ存在していない主を見上げることは出来ないものであることを承認しない限り、たれにもあり得ないのであり、そうした理由から人間は自己を承認するに比例して、真の卑下の中におり、礼拝を捧げているときは、崇拝の中にもいるのである。なぜなら凡ゆる礼拝の中には卑下が無くてはならないのであり、もしそれがそこから分離しているなら、崇拝は何一つなく、かくて礼拝も何一つないからである。

 

 

 

 

天界の秘義2327 [3]

 

卑下の状態は礼拝の本質的な状態そのものであることは、心が卑下するに比例して、自己愛とそこから生まれる凡ゆる悪は止んでしまい、それが止むに比例して、善と真理とが、即ち、仁慈と信仰とが主から流れ入ってくるという事実から生まれている、なぜならそれらのものを受容する上に妨げとなるものは主として自己愛であり、自己愛には自己に比較して他の者を軽蔑する思いがあり、もし自己が名誉をもって扱われないなら、憎悪と復讐とがあり、また無慈悲と残酷とがあり、かくて凡ゆるものの中でも最悪の悪があって、これらの悪の中へ善と真理とは決して導き入れられることは出来ないからである、なぜならそれらは対立したものであるからである。

 

 

 

 

天界の秘義2715[]

 

ここから、霊的な者は、天的な者のようには、主に対する愛を持ってはおらず、従って、凡ゆる礼拝における本質的なものであり、また善が主から流れ入ることの出来る手段となっている卑下を持ってはいないのである。なぜなら高ぶっている心は些かもそれを受けはしないのであって、ただ砕けた心のみがそれを受けるからである。霊的な者はまた、天的な者のようには、隣人に対する愛を持ってはいないのである。なぜなら自己と世を求める愛が彼らの意志の部分から絶えず流れ入っており、その愛の善を明確でないものにしているからである。このことはまたたれにでも、もしその者が以下のことを考察することにより反省するならば、明白になるに相違ない。すなわち、その者がたれかに善を為すときは、それは世の目的から発しており、それで、例えその者は意識してそのように為してはいないものの、それでも報酬を考えており、即ち、その者が善を行うその相手の者から受ける報酬かそれとも他生で主から受ける報酬かその何れかを考えており、かくて彼の善は功績の観念により汚されているのである。同じくまたその者が何らかの善を行ったときも、その者がそれを知らせ、かくして自らを他の者の上に挙げることが出来るならば、その者はその生命の歓喜の中にいるのである。

 

 

 

 

2.人間の謙虚[卑下]は主が栄光を求められるためではなく、人間を幸福にするために主は求められる

 

 

天界の秘義3539[5]

 

 神的なものがその中へ流入することの出来るものは人間のもとにある謙虚[卑下]であり、それはこの状態の中では自己を求め、世を求める愛は遠ざけられ、従って対立している奈落的なものは遠ざけられているという理由によっているということもまた理解には明らかに現れるであろうが、しかしそれでも意志が新しくなく、理解がそれに結合していない限り、その人間は心の謙虚[卑下]を持つことは出来ない、否、人間は悪の生命の中にいる限り、即ち、その意志が悪に向いている限り、それに応じて益々こうした状態はあり得ないのであり、更にその事柄は彼には漠然としていて、彼はそれを否定さえもするのである。ここからまた人間は、人間の謙虚[卑下]は主が栄光を求められる愛のためではなく、主の神的な愛のためであり、主がそのことによって善と真理とをもって流入され、その人間を祝福し、幸福にされることが出来るためであることをその理解の中に認めることは出来るのであるが、それにも拘らず、そのことを意志に諮るに応じ、益々そのことは漠然としてくるのである。他の非常に多くの場合も同じである。

 

 

 

 

天界の秘義3994

 

 善が善であるためには、その善の凡ての中に無垢が存在しなくてはならない。無垢のない仁慈は仁慈ではなく、まして無垢がないなら主に対する愛はあり得ないのである。そうした理由から無垢は愛と仁慈の本質的なものそのものであり、従って善の本質的なものである。無垢である自分自身のものとは、悪以外には何ものも自分の自己からは発していない、善はすべて主から発している、それで人間自身のものは悪いもの以外の何ものでもないことを、すなわち、悪であるところの自分の意志の自分自身のもののみでなく、誤謬であるところの自分の理解の自分自身のものを、口ではなくて心で知り、承認し、信じることである。人間が心からそのことを告白し、信じるとき、主は善と真理とをもって流れ入られて、彼の中へ、白い、光り輝いている天界の自分自身のものを(徐々に秘かに)注ぎ入れられるのである。たれ一人心からそのことを承認し、信じない限り、決して真の卑下の中にいることは出来ない。なぜなら人間は心からそれを承認し信じる時、自己を絶滅させ、否、自己を嫌悪し、かくして自己から遠ざかり、そうした方法によりその時主の神的なものを受け入れることが出来る状態の中にいるからである。主が遜った、砕かれた心の中へ善をもって流れ入られるのはこうした手段によっているのである。

 

 

 

 

天界の秘義3994[3]

 

こうしたものが無垢である自分自身のものであって、それがヤコブが自分自身のために選んだ「子羊の間の黒いもの」によりここに意味されているのであるが、しかし子羊の白いものは善におかれている自己功績である。(「白い」は功績であることは前の3993に示されたところである。)それは無垢に反しているため、それはヤコブは選ばなかったのである。なぜなら善に自己功績を置く者は善はすべて自分自身から発していることを承認し、信じているからであるが、それは彼はその行う善の中に自分自身を顧慮していて、主を顧慮していない。従ってその功績のために報酬を要求するためである。それでこのような者は自分自身に較べて他の者を軽蔑し、彼らを非難さえもし、従ってそれに正比例して天界的な秩序からすなわち善と真理から遠ざかるのである。この凡てから、隣人に対する仁慈と主に対する愛とは、その中に無垢が存在しない限りあり得ないのであり、従ってたれ一人その者の中に無垢が存在しない限り、天界へ入れないことが今や明白である。そのことは主の御言葉に従っている―

 

まことにわたしはあなたたちに言う、たれでも小さな子供となって神の国を受け入れない者はことごとく神の国に入りはしない(マルコ10・15、ルカ18・17)

 

聖言のここと他の所の「小さな子供」により無垢が意味されているのである。

 

 

 

 

天界の秘義4347[2]

 

 卑下と服従とについては、人間が礼拝を捧げて、神の前に立っている時、なぜこのことがなくてはならないかを僅かの者しか知っていないのであり、従って彼らはそのことが遂行するものを知らないのである。内的な事柄を知らない者は、栄誉欲にとりつかれた人間のように、神的なものも[神]も人間の卑下と服従とを望んでおり、従って神はそこから栄誉を望んでおり、人間が神に帰する栄誉に心を動かすのであるとしか信じることは出来ないのである。しかし実情は全く異なっている。神は栄誉を些かも求められはしないのである、なぜなら神は人間からいかような栄誉を得られようか。しかし神は御自身のためではなく、人間のために卑下と服従とを求められるのである、なぜなら人間は自らを卑下するとき、彼は彼の中に在る悪と誤謬とに対し嫌悪を感じ(2327、2423、3994番)、かくてそれを遠ざけるのであり、そしてそれらが遠ざけられると、神的なもの[神]は善と真理とをもって流れ入ることが出来るからである。たれでもそのことを自分自身の中に知ることが出来よう。心の高ぶっている者は自己を愛して、自分自身を他の者の上に置くのみではなく、神を些かも顧みないし、従って善の流入を[流入してくる善を]斥け、そこから善が真理と連結することを斥けるのである。このことが人間が神の前に自らを卑下することに対する純粋な理由である。

 

 

 

 

天界の秘義4347[3]

 

 それゆえ人間は自分自身を卑下して服従させない限り、善は諸真理と連結されることは出来ないし、かくて人間は再生することが出来ないことが明らかである。

 

 

 

 

天界の秘義5957

 

主は実際卑下、崇拝、感謝、その他多くのことを人間から要求されており、それは返済することのようにみえ、かくて無代価なものではないように見えはするが、しかし主はこれらのものを主御自身の為に要求されるのではないのである。なぜなら神的なものは人間の卑下、崇拝、感謝からは何ら栄誉を得られないからである。神的なものの中には、自己愛のものは何一つ全く考えられることは出来ない。すなわち、こうした事柄が主御自身のために為されなくてはならないということは全く考えることは出来ないのであり、それらは人間自身のためのものである。なぜなら人間は卑下の状態の中に在る時、主から善を受けることが出来るからである。それはその時彼は妨害となっている自己愛とその悪から分離されるためである、それで主は人間自身のために人間における卑下の状態を望まれるのである。(またそれは)人間はこうした状態の中にいる時は、主は天界の善をもって流れ入られることが出来るためである。それは崇拝、感謝にも言われるのである。

 

 

 

 

天界と地獄7550

 

この記事で、また他の多くの記事でエホバ、または主はその勢いと力とが現れて、その御名が話されるのを欲しられ、また他の所では、主が心を卑しくして拝され、崇められるのを欲しられるということは、主はその栄光を示そうと欲しておられるかのように、また主は御自身のために崇拝されることを愛されておられるかのように見えるのである。しかし真の実情は全くそれとは相違している。それは御自身のためではなくて、人類のためであり、自己の栄誉から発しはしないで、愛から発しているのである、なぜなら主は人類と連結して、これに永遠の生命と幸福とを与えようと欲しておられるからである。そのことはその人間が心を卑しくして主を拝しない限り為されることは出来ないのであり、またその人間が自分自身は塵と灰であって、すなわち、悪以外の何ものでなく、エホバ、または主は最も偉大で、最も聖い方であられ、自分は自分自身からは敢えて主に近づこうとはしないことを承認もし、信じもしない限り、心を卑しくして(主を)拝する筈もないのである。人間がこのように心を卑しくして主を拝すると、その時主はその愛の生命をもって流れ入られ、天界と永遠の幸福を与えられることが出来るのである。これがエホバまたは主が聖言に主御自身の力と栄光とを非常に賛え給うている理由である。

 

 

 

 

3.承認

 

 

天界の秘義1153[2]

 

色々と変化している礼拝の実情はいかようなものであるか、また古代教会の内の種々の国民の実情はいかようなものであったかが更に明らかに説明されるためには、以下のことが知られなくてはならない、すなわち、真の礼拝は凡て主を崇拝することから成っており、主を礼拝することは卑下から成り、卑下は自分自身の中には生きたものは一つとしてなく、善いものも一つとしてなく、自分の中の凡てのものは死んだものであり、実に屍のようなものであることを自分が承認することから成り、また生きたものはことごとく、また善いものはことごとく主から発していることを承認することから成っているのである。人間はこうしたことを口でなくて心で承認するに応じて、益々卑下の状態におり、従って益々崇拝の状態の中に、すなわち真の礼拝の中におり、愛と仁慈の中におり、益々幸福な状態にいるのである。一方は他方の中に在って、分離出来ない程にも連結しているのである。ここから礼拝のこうした相違はいかようなものであり、またいかような性質を持っているかが明白である。

 

 

 

 

天界の秘義2329

 

「彼は言った、願わくは見てください、わたしの主たちよ」(創世記19・2)。

 

これは主の神的な人間的なものと発出している聖いものとを内的に承認し、告白することを意味していることは、今し方前に述べたばかりの承認と卑下から明白であり、ここでは告白がすぐその後に続いている、なぜならそれは『願わくは見てください、わたしの主たちよ』というロトの言葉により意味されているからである。内的な告白は心情のものであって、卑下の中に、また同時に善の情愛の中に現れてくるが、しかし外的な告白は唇のものであって、恐らく偽装した[似て非なる]卑下と偽装した善の情愛の中に現れてくることが出来るのであり、それは主を自分自身の名誉のために、またはむしろ自分自身の利得のために告白する者らのもとに存在しているようなものであって、全く無きに等しいものである。これらの者は唇で告白するものを心では否定しているのである。

 

 

 

 

天界の秘義4724

 

このことをまた信仰のみのために戦って、信仰の生活を送っていない者らはその者ら自身の中に消滅させてしまうのである。なぜなら彼らは主の人間的なものは純粋に人間的なものであって、他の人間の人間的なもの[人間性]に似ていなくはないと信じており、そこから彼らの多くの者はいかほど主をその唇で告白しても、主の神的なものを否定しているからである。しかし、跪いて、謙遜な心から信仰の生活を送っている者たちは主を救い主なる神として崇めており、そのときは神的な性質と人間的な性質とが区別される教義からは些かも考えはしないのであり、聖餐においてもまたそのように考えはしないのである。ここから彼らのもとでは主の神的な人間的なものが彼らの心の中に在ることが明らかである。

 

 

 

 

天界の秘義5758[2]

 

 私はこのことを今や多年にわたって明らかに認めることを許されており、また私が私自身のものに、または私自身に委ねられるに応じて、悪の洪水に浸され、主によりそこから遠ざけられるに応じて、悪から善へ引き上げられたことを認めることを許されたのである。それで真理と善とを自己に要求することは、救いは凡て慈悲によっており、即ち、人間はそれ自身では地獄にいるが、しかし慈悲によりそこから主により引き出されるということを承認することに反しているのみでなく、天界を支配している普遍的なものにも反しているのである。人間は、自分自身からは悪意外には何ものも発しないし、善は凡て主から発していることを承認しない限り、自分を卑下することは出来ないのであり、従ってまた主の慈悲を受けることも出来ないのである(なぜなら主の慈悲は卑下の中にのみ、または遜った心の中にのみ流れ入るからである)。そのことを承認しないなら、人間はその為すことを凡て功績として、遂には義として自分自身に帰するのである、なぜなら主から発している真理と善とを自分自身に要求することは自分自身を義とすることであるからである。これが多くの悪の源泉である、なぜなら彼はその時はその隣人のために為す凡ゆる事柄の中に自己を求め、自己を求める時は、他の凡ての者にも優って自分自身を愛し、かくて他の凡ての者を、言葉ではなくとも、心では軽蔑するからである。

 

 

 

 

4.『いとも小さい者』

 

 

天界の秘義1594[4]

 

それのみが天界的なものである相互愛は、人間が自分自身については以下のように言うのみでなく、またそのことを承認もし、信じもしていることにあるのである、すなわち、自分は全く無価値なものであり、卑しい汚れたものである、主はその無限の慈悲から自分を地獄から絶えず引き出され、遠ざけておられるが、その人間はその地獄の中へ自分自身を投げ込もうと絶えず努めている、否、渇望しているのである。彼がそのことを承認し、信じているのはそれが真であるためである、主がまたはたれか天使が彼が服従するためにそれを承認し、信じるように欲しておられるというのではなくて、彼が自分はまことにそうしたものであることを認めて、高ぶらないためである、なぜならそうしたことは排泄物がそれ自身を純金と呼ぶようなものであり、または糞の山の上を飛んでいる蝿が自分は楽園の鳥であると言うようなものであるからである。それで人間が自分自身は自分が実際あるようなものであることを承認し、またはそのようなものであると信じるに応じて、彼は自己愛からその自己愛の幾多の欲念から後退して、自分自身を忌み嫌うのである。彼がそのことを為すに応じて、彼は主から天界の愛を、すなわち、すべての者に仕えようとする願望から成っている相互愛を受けるのである。これらの者が主の王国の中で最大の者となるところの『いとも小さい者』により意味されている者たちである(マタイ20・26−28、ルカ9・46−48)。

 

 

 

 

5.平伏

 

 

天界の秘義1999

 

「アブラハムは平伏した」。

これは崇拝を意味していることは説明なしに明白である。平伏することは最古代教会の、引いては古代教会の崇拝の儀式であったが、それは顔は内部を意味し、彼らの卑下の状態は平伏することにより表象されたという理由からであり、ここから表象的なユダヤ教会ではそれは慣習的な儀式となったのである。真の礼拝は、または心の卑下は、そこから自然に流れ出てくる動作として、主の前に面を下にして地に平伏することを伴っている。なぜなら心の卑下の中には自己を汚れたもの以外の何ものでもないものとして承認することが含まれると同時にそうしたものに対する主の無限の慈悲を承認することが含まれており、心がこの二つのことを承認する状態に置かれると、心そのものは自らを地獄の方へ卑下してうなだれ、身体を平伏させ、またそれが主によって持ち上げられるまでは、それ自らを持ち上げもしないからである。このことは凡ゆる卑下の中に起り、主の慈悲により持ち上げられることを認識するのである。こうしたものが最古代教会の人間の卑下であったが、しかし心情の卑下から生まれていない崇拝の場合は非常に異なっている。

 

 

 

 

天界の秘義2327

 

「彼は身を屈めて、顔を地につけた」(創世記19・1)。これは卑下を意味していることは、その意義を明らかにしなくとも認めることが出来よう。前の時代に、特に表象的な教会の中では、彼らが顔を地につける程にも身を屈めた理由は、顔は人間の内部を意味したためであり(358、1999番)、彼らが顔を地につけた理由は、地の塵は汚れた、罪に定められたものを意味したということであり(278番)、従って彼らはそのようにして、自分は自分自身では汚れて罪に定められたものであることを表象したのである。その同じ理由から彼らは平伏して、顔を地面に押しつけ、塵と灰の中にころげまわりさえもし、また頭に塵と灰とを振り掛けさえもしたのである(このことは哀歌2・10、エゼキエル27・30、ミカ1・10、ヨシュア7・6、黙示録18・19、その他から認めることができよう。)

 

 

 

 

天界の秘義2327 [2]

 

このすべてにより彼らは真の卑下の状態を表象したのであるが、それは彼らが自分は自分自身では汚れた、罪に定められたものであることを承認しない限り、かくて自分は自分自身では、そのもとには神的な聖いもの以外のものは何一つ存在していない主を見上げることは出来ないものであることを承認しない限り、たれにもあり得ないのであり、そうした理由から人間は自己を承認するに比例して、真の卑下の中におり、礼拝を捧げている時は、崇拝の中にもいるのである。なぜなら凡ゆる礼拝の中には卑下が無くてはならないのであり、もしそれがそこから分離しているなら、崇拝は何一つ無く、かくて礼拝も何一つ無いからである。

 

 

 

 

天界の秘義2327 [3]

 

卑下の状態は礼拝の本質的な状態そのものであることは、心が卑下するに比例して、自己愛とそこから生まれる凡ゆる悪は止んでしまい、それが止むに比例して、善と真理とが、即ち、仁慈と信仰とが主から流れ入ってくるという事実から生まれている、なぜならそれらのものを受容する上に妨げとなるものは主として自己愛であり、自己愛には自己に比較して他の者を軽蔑する思いがあり、もし自己が名誉をもって扱われないなら、憎悪と復讐とがあり、また無慈悲と残酷とがあり、かくて凡ゆるものの中でも最悪の悪があって、これらの悪の中へ善と真理とは決して導き入れられることは出来ないからである、なぜならそれらは対立したものであるからである。

 

 

 

 

天界の秘義7068

 

「彼らは身を屈め、頭を垂れた」。これは卑下を意味していることは、『身を屈め、頭を垂れること』の意義から明白であり、それは卑下の結果起るものであるが(2153、6266)、しかし『身を屈めること』は外的な卑下を意味して、真理の中にいる者たちの卑下であり、 『頭を垂れること』は内的な卑下を意味して、善の中にいる者たちの卑下であることは前に見ることが出来よう(5682番)。それがそうであることは真理の中にいる者たちと善の中にりう者たちとから明らかである、即ち、真理の中にいる者たちは謂わば冷厳であって、頑な者であるかのように直立しており、神の前に自らを卑うしなければならぬ時にも、ただ身体を少しく曲げるのみであるが、しかし善の中にいる者たちは謂わば柔和であって、神の前に自らを卑うする時は、地に平伏するのである。なぜなら真理は善が無い時は冷厳であり、それが善をその目的として仰ぐ時、この冷厳さは柔かくなり始めるが、しかし善はそれ自身において柔和であり、(そこへ)徐々に導き入れられつつある真理も、そこで善になるに連れて、また柔和になるからである。その理由は真理は善によらなくては天界の形に秩序づけられることは出来ないということであり、そこから真理はそれ自身においては頑ななものである。なぜなら天界の形は極めて自由で何ら抵抗はしないのであり、そこから、真理が共になって正当に秩序づけられた善もそのようなものとなり、前に言ったように柔和なものとなるのである。

 

 

 

 

6.トマス・ア・ケンピス

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・42・1

 

わたしの子よ、もしあなたが気の合った人だから、とか、いっしょにいる人だから、とかいう理由で、ある人を頼みとして平安を得ようとするならば、落ちつきを失ったり、ごたごたにまきこまれたりするだろう。

 しかしあなたがもしつねに生きて存在する真理によりすがるならば、友人が離れようが、死のうが、悲嘆に沈むことはないだろう。

 あなたの友人に対する愛も、わたしを基礎としなければならぬ。そしてこの世でだれがあなたに良友、親友と思われるにせよ、その人を愛するのは、わたしのためであるべきである。

 わたしがいなくては、いかなる友誼も値打ちがなく、また永続しないだろう、わたしが結ばぬ愛情は、ほんとうの、純潔(きよ)いものではないのである。

 あなたは愛する人々に対するそういう愛情に死んでしまって、自分だけは人との交際(つきあい)をまったくなくしたいと思うほどにならなければならぬ。

 

人は地上の慰めから遠ざかれば遠ざかるほど、ますます神に近づくのである。

 また自分において深く謙(へりくだ)り、自分を卑しい者と思えば思うほど、いよいよ神に向ってのぼり行くのである。

 

 

 

 

7.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P222

 

では、何か主にお捧げする善いものがあるでしょうか?

 

ある。 しかしすべての善いものは私から出ている。 私がそれをあなたに与えたのです。 善いものは何であっても私からのものです。

 

(ちょっとがっかりしました。それでは主を喜ばすことができません。)では、私は自分自身からのもので、何も善いものが差し上げられないのですね。

 

あなたが持っている善いものは すべて私が与えた。

 

もしかして、あなたによい絵を描いてお捧げできるかもしれません!*

 

*私の手作りの絵を。

 

あなたの絵か ヴァッスーラ? この美術にたいする才能も 私が与えたものではないか? これも私からであろう?

 

では、何をお捧げできるでしょう?

 

愛を。 私を崇めなさい。 私に身を明け渡し あなたの意志を捧げなさい、これが私に捧げられる最も美しいものです

 

主よ、お愛ししていることも、もう自分を明け渡していることもご存知です!

 

私はそれを聞くのが楽しい 小さな者よ!

 

 

 

 

8.天使たちは祈願には注意しないで、その人間が祈願している時の、その人間の置かれている卑下の状態に注意する

 

 

天界の秘義7391

 

天使たちは祈願には注意しないで、その人間が祈願している時の、その人間の置かれている卑下の状態に注意するということである、なぜなら卑下無しに祈願することは、天使たちに聞かれも認められもしない口頭の音声に過ぎないからである

 

 

 

 

9.仁慈の中にいる者たちは自らを卑しうし、最低の者であるとして、凡ての者に仕えようと願っている

 

 

天界の秘義8313〔4〕

 

なぜなら善は真理を切望して、真理を進んで受けるからである、それは真理は(善と)同質のものであるからである。しかし生命の悪の中にいる者らはそれを変化させはしないで―それは謂わば固いものとなっているが―真理を斥けさえもし、また明確でない状態の中にいるため、真理を見ることさえも出来ないのである、彼らは彼ら自身の原理を確認させるようなもののみを認めて、それに反したものを些かも認めはしないのである。こうした者はまた自分は凡ての者の中でも最も理知的なものであると信じているが、しかし彼らはその信奉している原理から、いかようにして論じるか、ということを除いては何ごとも知ってはいないのである、それで仁慈を最も攻撃し、従って主権を得ようとする者はこうした者である。なぜなら仁慈の中にいる者たちは自らを卑しうし、最低の者であるとして、凡ての者に仕えようと願っているのに反し、仁慈の無い信仰の中にいる者らは尊大であって、自らが最高の者であるとして、凡ての者から仕えられようと欲しており、それで彼らは天界を主権を得る栄光から成立させており、自分自身は他の凡ての者にも優って理知的なものであると信じているため、自分は首天使にもなり、かくて他の多くの者は自分に仕えるであろうと考え、またダニエル書の言葉に従って、『理知ある者は大空の輝くようにも輝き、多くの者を義に向ける者は、永久に、永遠に、星のように輝くであろう』(ダニエル12・3)と考えているのである。しかしこうした者は輝きの代りに暗黒を得るのである。