承認

 

卑下主に帰する

己の悪を知る神の目で見る

 

 

 

・人間は自分の中にこれらのもの(生活と信念との悪と誤謬、また善と真理)を知り認めることなしに改良されることは出来ない

・承認は意志と結合している

 

 

 

 

天界の秘義654

 

このことは現今諸教会に知られていることに、すなわち、信仰は聞くことによって生まれるということと一致している。しかし信仰は信仰に属したいくたの事柄を、または信じなくてはならないいくたの事柄を知ることでは決してない。それは単なる記憶にすぎないが、信仰は承認である。しかしながら信仰の第一義的なものが人間の中に存在していないかぎり、何人のもとにも承認は存在していないのであって、信仰の第一義的なものとは仁慈であり、すなわち、隣人に対する愛と慈悲である。仁慈が存在しているとき、その時承認または信仰も存在している。そのように把握していない者は地が天から離れているようにも遥かに信仰の知識からは離れているのである。信仰の善である仁慈が現存しているとき、信仰の真理である承認も現存しているのである。それゆえ人間が知識、理性、理解のいくたの事柄に応じて再生されつつあるときは、それは土地が―すなわちかれの心が―仁慈を受ける備えをなすためであって、後には仁慈から、または仁慈の生命から、かれは考え、行動するのである。その時かれは改良され、または再生するのであって、その前ではない。

 

 

天界の秘義880

 

 再生の第二の状態と実情はいかようなものであるかは、いくたの誤謬に妨害されて信仰の諸真理が根をはることができなかった第一の状態について語られ、示されたことからある程度認めることができよう。信仰の諸真理は人間が承認し、また信じ始めるときはじめて根をはって、それ以前には根をはりはしない。人間が聖言から聞き、記憶にとどめているものは単に播くことに過ぎないのであって、根をはることは人間が仁慈の善を容認し、受け入れないうちは、決して始まりはしないのである。信仰の真理はことごとく信仰の善により、すなわち、仁慈の善により根をはるのである。これは季節がなお冬で土地が凍てついている頃その土地に播かれた種子の場合と同じであって、種子はそこに実際在るにはあるが、根をはっていないのである。しかし太陽の熱が早春の頃地を温めるとすぐに種子はその種子自身の中に先ずその根をのばし始め、後でそれを土地の中へのばしはじめるのである。植えつけられつつある霊的種子も同様であって、これは仁慈の善がそれをいわば温めないうちは決して根をはりはしないで、温められて初めてそれ自身の中に根をはり、次にそれを外にのばすのである。

 

 

天界の秘義896

 

「ノアは箱舟の蔽いを取りのけて見た。」

 

これはいくたの誤謬が除かれると、信仰の諸真理の光が存在し、それをかれは承認し、またそれに対する信仰を持ったことを意味することは、蔽いを除くことの意義から明白であり、それは光をさえぎっているものをとり去ることである。『箱舟』により再生することになっていた古代教会の人間が意味されているため、『蔽い』により天界を、または光を見させないようにさえぎり、妨害しているもの以外には何ものも意味されるはずはない。妨げたものは誤謬であった。それでかれは『見た』と言われている。聖言には『見る』ことは理解し、信仰を持つことを意味している。ここではそれはその人間が諸真理を承認し、その諸真理に対する信仰を持ったことを意味している。真理を知ることはそれを承認することとは異なっており、それに対する信仰を持つこととはさらに全く異なっている。知ることは再生の最初の事柄であり、承認することは第二の事柄であり、信仰を持つことは第三の事柄である。知ることと承認することと信仰を持つこととの間にいかような相違のあるかは以下の事実から明白である、すなわち、ユダヤ人やもっともらしい理論により教義的な物を破壊しようと試みる者のように、最悪の人間でも知ることはできても、承認しないのであり、信じない者でも承認して、ある状態では説教もし、確認もし、熱意をもって説きつけさえもするが、しかし信者でない者は一人として信仰を持つことはできないのである。

 

天界の秘義896[2]

 

信仰を持ち、知り、承認し、信じる者たち、これらの者は仁慈を持っており、良心を持っている、それ故信仰はたれにもこれらの事柄がその者に真のものとなっていない限り、属性付けられることは決して出来ないのであり、即ち、彼は信仰を持っているとは言うことは出来ないのである。それ故このことが再生することである。単に信仰に属したことを知ることは、その者の理性からも同意されなくては、人間の記憶に属したものである。信仰に属したものを承認することは或る原因により、また或る目的のために生まれた合理的同意である。しかし信仰を持つことは良心に属している。即ち良心を通して働かれる主に属している。このことは他生にいる者達から非常に明白である。単に知るに過ぎない者の多くは地獄にいるのである。承認している者の多くの者もまたそこにいるのである。それは身体の生命の中では彼らが承認したのは或る状態の中にいた時のみのことであって、他生で彼らがかつて他の者に説教し、教え、説きつけもした事柄が真であることを知ると、非常に驚き、それが彼らが前に説教したところのものとして、その記憶に甦る時にのみそれを承認するためである。しかし信仰を持っていた者たちは凡て天界にいるのである。

 

 

黙示録講解1096[2]

 

人間に天界を開く最初の、また最も重要な考えは神についての考えであり、そのことは神は天界の凡てのものであられ、私たちが天界と言おうが、神と言おうが、それは同一の事であるとすらなっているのである。天界を構成している天使を天使とならせている神的なものが共に集められるとき神であり、このことが神について考えることが人間に天界を開く凡ゆる考えの中で最初のまた最も重要なものである理由である、なぜならそれは天的な、また霊的な凡ゆる真理と愛との頭部と総計である。しかし光から発している考えが在り、愛から発している考えが在り、光のみから発している考えは、神は存在しているという知識であり、それは承認のように見えはするが承認ではない。

 

 

黙示録講解1096[3]

 

光から発している考えにより人間は天界の中に臨席はするが、天界とは連結しない、なぜなら思考のみの光は連結しないで、人間を主と天使たちとの前に臨席しているものとして示すに過ぎないからである。なぜならそうした光は冬の光のようなものであって、その中では人間は夏の光の中におけるように同じ澄明さをもって見るものの、その光はそれ自身を地に結合させはしないし、いかような木にも、かん木、花、または草の葉にも結合させはしないからである。さらに、人間各々は己が内に神について考える能力を、また天界の光の中に神に関係している幾多の事柄を理解する能力を植え付けてはいるが、しかしその光から発している考えのみは―それは知的な考えであるが―既に言ったように、主のもとに、また天使たちのもとにその者を臨席させるに過ぎないのである。

 

 

黙示録講解1096[4]

 

人間が神について、また神にかかわる事柄について単なる知的な考えの中にいる時は、その者は遠方では天使たちには象牙か、または大理石の像のように見え、それは歩いたり、音声を発することは出来るが、その顔とその声の中には未だ生命は全くない者のように現れるのである。また天使たちには、比較すれば、枝は裸になって、葉は無いものの、それでも、春の時におけるように、その光に熱が加わる時は、それは葉で、後には果実で覆われるであろうとの多少の望みを抱かせる冬の時の木のように見えるのである。神についての考えは最初に天界を開くものであるように、神に反抗する考えは最初に天界を閉じるものである。

 

 

天界の秘義1153[2]

 

色々と変化している礼拝の実情はいかようなものであるか、また古代教会の内の種々の国民の実情はいかようなものであったかが更に明らかに説明されるためには、以下のことが知られなくてはならない、即ち、真の礼拝は凡て主を崇拝することから成っており、主を礼拝することは卑下から成り、卑下は自分自身の中には生きたものは一つとしてなく、善いものも一つとしてなく、自分の中の凡てのものは死んだものであり、実に屍のようなものであることを自分が承認することから成り、また生きたものはことごとく、また善いものはことごとく主から発していることを承認することから成っているのである。人間はこうしたことを口でなくて心で承認するに応じて、益々卑下の状態におり、従って益々崇拝の状態の中に、即ち真の礼拝の中におり、愛と仁慈の中におり、益々幸福な状態にいるのである。一方は他方の中に在って、分離出来ない程にも連結しているのである。ここから礼拝のこうした相違はいかようなものであり、またいかような性質を持っているかが明白である。

 

 

天界の秘義1162

 

『ハムの息子たち』によりこの分離した信仰に属した事柄が意味されていることは以下のことから生まれている。

 

『ハム』により意味されていることが知られ、それ故『ハムの息子たち』によっても意味されていることが知られるためには仁慈から分離した信仰はいかようなものであるかが先ず知られなくてはならない。仁慈から分離した信仰は信仰ではない。信仰のないところには、内なる礼拝も外なる礼拝も存在しない。仮にも何らかの礼拝があるにしても、それは腐敗した礼拝であり、それ故『ハム』により同じく腐敗した内なる礼拝が意味されている。

 

仁慈から分離している、天的な事柄と霊的な事柄に関わる単なる記憶知を信仰と呼んでいる者らは誤った見解を抱いているのである。なぜなら時としては人間の中でも最悪の者でさえもこうした知識を他の者にもまさって持っているからである―例えば絶えず憎悪と復しゅうの中に、また姦淫の中に生きており、それ故奈落的なものであり、身体の生命の後には悪魔となる者らがそれである。こうしたことから記憶知は信仰ではないことを認めることが出来よう。

 

しかし信仰は信仰に属した事柄を承認することであり、こうした承認は決して外なるものではなくて、内なるものであり、主のみが人間の中に仁慈を通して作り出されるものである。そしてこの承認は決して口先の事柄ではなくて、生命の事柄である。人間各々の生命[生活]からその者の承認はいかようなものであるかを知ることが出来よう。

 

信仰の幾多の知識の記憶知を持ってはいるが、仁慈を持ってはいない者らはすべて『ハムの息子ら』と呼ばれるのである。たとえそれが聖言の内的な知識の記憶知であるにしても、聖言の神秘そのものの記憶知であるにしても、または聖言の文字の意義における凡ゆる事柄の記憶知であるにしても、または呼称のいかんを問わない他の諸真理の記憶知であるにしても―その記憶知からそうした事柄が観察されるのであるが―または外なる礼拝の凡ゆる祭儀の知識であるにしても。もしその者らが仁慈を持たないならば、その者らは『ハムの息子たち』である。『ハムの息子たち』と呼ばれている者はこうした性格を持っていることは今取り扱われている諸国民から明白である。

 

 

天界の秘義1423

 

 「あなたを呪う者を呪うであろう」。これは主を承認しない者らの不幸を意味することは、『呪われること』と『呪うこと』の意義から明白であり、それは前に言ったように(245、379番)、自分を主から遠ざけることであり、従って主を承認しないことである、なぜなら承認しない者らは自らを遠ざけるからである。かくて『呪うこと』はここでは『祝福』に含まれていることに反した凡てのことを含んでいる。

 

 

天界の秘義1594[]

 

それのみが天界的なものである相互愛は、人間が自分自身については以下のように言うのみでなく、またそのことを承認もし、信じもしていることにあるのである、即ち、自分は全く無価値なものであり、卑しい汚れたものである、主はその無限の慈悲から自分を地獄から絶えず引き出され、遠ざけておられるが、その人間はその地獄の中へ自分自身を投げ込もうと絶えず努めている、否、渇望しているのである。

 

彼がそのことを承認し、信じているのはそれが真であるためである、主がまたはたれか天使が彼が服従するためにそれを承認し、信じるように欲しておられるというのではなくて、彼が自分はまことにそうしたものであることを認めて、高ぶらないためである、なぜならそうしたことは排泄物がそれ自身を純金と呼ぶようなものであり、または糞の山の上を飛んでいる蝿が自分は楽園の鳥であると言うようなものであるからである。

 

それで人間が自分自身は自分が実際あるようなものであることを承認し、またはそのようなものであると信じるに応じて、かれは自己愛からその自己愛の幾多の欲念から後退して、自分自身を忌み嫌うのである。彼がそのことを為すに応じて、彼は主から天界の愛を、即ち、すべての者に仕えようとする願望から成っている相互愛を受けるのである。これらの者が主の王国の中で最大の者となるところの『いとも小さい者』により意味されている者たちである(マタイ20・26−28、ルカ9・46−48)。

 

 

天界の秘義2261[]

 

(2231に示されたように)信仰そのものは、その内意では、仁慈以外の何ものでもないのである。真理を承認することが救う信仰であると人々が言っていることについては、仁慈に反した事柄の中に生きている者らのもとにはいかような承認も決して有り得ないのであって、そのもとには単に説得されたものがあるのみであり、この説得されたものに自己または世への愛の生命が接合しているのである、かくて彼らが言及しているその承認の中には仁慈の生命である信仰の生命は存在していないのである。すべての者の中で最悪の者でさえも―自己または世に対する愛から、即ち、理知と知恵と呼ばれている事柄に於て他の者に卓越し、かくて名誉と名声と利得を獲得するためには―信仰の諸真理を学んで、それを多くのものにより確認することが出来るが、しかし依然彼らのもとにはこれらの真理は死んでしまっているのである。

 

天界の秘義2261[3]

 

真理の生命は、かくて信仰の生命は生命そのものであられる主から専ら発している。主の生命は慈悲であり、それは全人類に対する愛の慈悲である。信仰の真理を告白してはいるものの、自分に比較して他の者を軽蔑し、自分の自己への愛と世への愛との生命に抵触すると、隣人を憎悪し、その隣人が富を、名誉を、名声を、生命を失うことを歓ぶ者らは主の生命には些かも与ることは出来ないのである。しかし信仰の諸真理により人間が再生するということがその諸真理の実体である。なぜなら真理は善を受容する器官そのものであるからである。それで真理のあるがままに、その諸真理の中の善があるがままに、またその真理と善とが連結しているままに、その結果他生で完成されることが出来るままに、そのように死後の祝福と幸福との状態もなるのである。

 

 

天界の秘義2326

 

 「彼は起き上がって、彼らを迎えた」。これは承認を意味し、同じくまた仁慈の気質を意味していることは、彼らが来た際、ロトはすぐさま彼らが天使であることを承認したが、ソドムの人々はそのことを承認しなかったという事実から認めることが出来るのであり、ソドムの人々については以下のように言われているのである、『彼らはロトに向って叫んで、言った、今夜おまえのもとに来た者らは何処にいるのか。彼らを連れ出せ、私らは彼らを知ることが出来よう』(5節)。内意ではこの言葉は教会の内にいて仁慈の善の中にいる者たちは、(『二人の天使』により意味されているところの)主の神的な人間的なものと発出している聖いものとを承認はするが、しかし仁慈の善の中にいない者はそれを承認はしないことを意味しているのである。その同じ言葉は同じく仁慈の気質を意味していることはまた、仁慈の善の中にいる者たちを、否、仁慈の善そのものを表象しているロトが彼らを彼の家へ招き入れたという事実からも明白である。

 

 

天界の秘義2359

 

即ち、たれ一人愛と仁慈の善との中にいない限り、主の王国へ(すなわち天界へ)入れられることは出来ないのであり、またたれ一人主の神的なものと聖いものとを承認しない限り、愛の善と仁慈の善の中にいることは出来ないのである、なぜならこの善は主のみから流れ入っており、実に主から発している善そのものの中へ流れ入っているからである。神的なものは神的なもの以外のものへは流れ入ることは出来ないのであり、また主の神的な人間的なものとそこから派生している主の聖いものとを通さなくては人間に伝達されることも出来ないのである。このことから私たちはいかようにして主はその王国のすべてにおけるすべてのものであられるかを、また人間のもとにある善は一つとして人間のものではなくて、主のものであるかを理解することが出来るのである。

 

 

天界の秘義3111[2]

 

教会の中では、或る程度の無垢と隣人に対する仁慈とを持っていない者たちは、いかほど真理を熟知していて、それを口先で告白しているにしても、それでも決してそれを心から承認はしていないのである。教会の外では、信仰の真理へ招かれ、または他生でそれを教えられる異邦人たちの中で、無垢の中にいて、相互愛に生きている者以外の者はそれを受け入れはしないのである、なぜなら無垢と仁慈とが、その中に信仰の種子が根を張って、生長することのできる土地を生み出すからである。

 

 

天界の秘義3120

 

「かれはその慈悲を棄て去られなかった」。これは愛の流入を認識することを意味していることは、『慈悲』の意義が愛であることから明白である(1735、3063、3073番を参照)。『かれはその慈悲を棄て去られなかった』は、愛の流入を認識することを意味しているのは、この言葉は承認と告白[讃美]であり、承認と告白[讃美]とは流入を認識することから発しているからである。

 

 

天界の秘義3128[3]

 

 自然的な人が善から真理を通して明るくされることについては―それはここでは『母の家』と呼ばれているが―実情は以下のようになっているのである、すなわち、前に言ったように、人間のもとに神的善は彼の合理的なものの中へ流れ入り、その合理的なものを通して彼の自然的なものの中へ流れ入り、実にその記憶知の中へ、即ち、その中にある幾多の知識と教義的なものの中へ流れ入り、そこにそれ自身を適合させることにより、それ自身のために幾多の真理を形作り、その幾多の真理を通して自然的な人の中に存在している凡ゆるものを明るくするのである。しかしその自然的な人の生命が神的な善を受け入れないで、それを撥ね付けるか、または歪めるか、または窒息させるかする底のものであるなら、その時は神的善は適合されることは出来ず、かくてそれはそれ自身のために真理を形作ることは出来ず、従ってその自然的なものは最早明るくされることは出来ないのである、なぜなら自然的な人が明るくされることは善から真理を通して遂行されるのであって、最早それが明るくされることが出来ない時は、改良は在り得ないからである。これが内意に自然的な人もまたその性質の方面で多く取り扱われている理由であり、かくて真理は何処から発しているか、即ち、それはそこに在る善から発していることが取り扱われている理由である。

 

 

天界の秘義3157

 

主の栄化を映している像である人間の再生における実情は以下のものである、すなわち、信仰の真理は、各々の能力から、すなわち、意志と理解から発している同意がない限り、実に学ばれはするが、承認はされないのであり、ましてや善により受け入れられはしないのである。同意は承認それ自身であり、承認により受けることが行われ、実にそれは意志から発しているのである、なぜなら善はそこに在るからである。そして信仰の真理が意志により、またはそれと同一のものであるが、善により受け入れられると、そのときは人間は再生するのである、なぜならそのとき真理は善のものとなり、または信仰は仁慈のものとなり、または生命の方面では仁慈そのものとなるからである(3121番)。

 

 

天界の秘義3175[4]

 

 このことをさらによく把握するためにわたしたちは例をとってみよう。善はことごとく主から発し、悪はことごとく地獄から発しているということは霊的な真理であるが、この真理はそれが自然的な人から合理的なものの中へ引き上げられることができる前には、多くの方法により確認されて解明されなくてはならないのであり、またそれはその人間が神を愛しない中は決して引き上げられることはできないのである。なぜなら人間が神を愛しない間はそれは承認されはしないのであり、従って信じられはしないからである。

 

 

天界の秘義3468[2]

 

 それで真理の善の中に、または教義的な事柄に従った生命の中にいる者たちは、その者たちの合理的なものである内部の方面では再生しているが、しかしその者たちの自然的なものである外部の方面では未だ再生していないのである、なぜなら人間は自然的なものの方面で再生する以前に、合理的なものの方面で再生するからである(3286、3288番)、それは自然的なものは全く世の中に存在しており、そして自然的なものの中に、人間の思考と意志とがそれを面として基礎付けられているためである。これが人間が再生の間に彼の合理的なまたは内なる人と彼の自然的なまたは外なる人との間に争闘を認める理由であり、また彼の外なる人はその内なる人よりもはるか後に再生し、また同じく彼の内なる人よりも更に大きな困難を伴って再生する理由となっている。なぜなら世に更に近づいており、身体に更に近づいているものは内なる人に服従するように容易に抑制されることは出来ないのであって、それはただ非常に長い時間の後で、またその人間がその中へ導き入れられる多くの新しい状態によってのみ―その状態は自己を承認し、主を承認する状態であり、即ち、自分自身の惨めさと主の慈悲とを承認する状態であり、かくて試練の争闘から生まれてくる(自己)卑下の状態であるが、その状態によってのみ行われるのである。それがそうであるため、次にここでエソウと二人の妻について言われていることがつけ加えられており、それによりこのような事柄がその内意に意味されているのである。

 

 

天界の秘義3539[4]

 

人間は善であり、真のものである多くの物をその理解の中に観察することができ、そのことによりかれの自然的なものもそれを知ることができるが、それでも意志はまたそれらに順応して行動することはできないのである、例えば愛と仁慈とは人間の本質的なものであるが、これを人間の知的能力は認め、確認することはできるが、しかしかれが再生しない中は[再生してしまうまでは]その意志能力はそれを承認することはできないのである、すなわちこのことを充分に理解してはいるが、主に対し如何ような愛の中にもおらず、隣人に対する何らの仁慈の中にもいない者すらいるからである。

 

 

天界の秘義3804

 

「彼女は走って行って、その父に告げた」。これは内的な諸真理による承認を意味していることは以下から明白である、すなわち、『走って行って告げること』の意義は知らせることの情愛[知らせることに対する情愛]であり、現在の場合承認することから発した知らせることに対する情愛であり、『父』の意義は『ラバン』により意味されている善である。承認は内的な諸真理によったことは、ラケルにより表象されたのであり、彼女は内的な真理の情愛を意味しているのである。このことからこれらの言葉により内的な諸真理により承認することが意味されていることが生まれてくるのである。この間の実情は以下のごとくである、すなわち、ヤコブが表象している善(自然的なものの善)は、全般的に凡ての善のように、その存在の方面では知られて、承認されてはいるが、しかしその性質の方面では、真理によらなくては知られないし、承認されはしないのである、なぜなら善はその性質を真理から受けており、かくて真理により知られ、承認されるからである。善は、真理がその中に植えつけられない中は仁慈の善と呼ばれる善にはならないのであり、その中に植付けられた真理があるままに、そうした善になるのである。

 

 

天界の秘義3804[2]

 

 こうした理由から一人の人物の善は、他の人物の善に正確に類似しているように見えても、それでも同一のものではないのであり、宇宙のいかような凡ゆる人物のもとでも一人の者の善は他の者の善とは異なっているのである。これは人間の顔の場合も同一であり、その顔の中には情愛の大半が映し出されており、全人類遍く一人として他に正確に似てはいないのである。真理そのものがいわば美の顔を構成しており、その顔の善は真理の形から生まれているが、しかし感動を与えるものは善である。こうしたものが天使の形の凡てであり、人間ももし内的生命から主に対する愛と隣人に対する仁慈の中にいるならそのようになるであろう。人間は神に似た形と神の映像とに向って創造られたため、このような形へ向って創造られたのであり、再生している者たちは、その身体の方面ではいかように見えようとも、その霊の方面ではこのような形である。このことから善が内的な諸真理により承認されることにより意味されていることが明白である。

 

 

天界の秘義3905

 

「ラケルは自分がヤコブに子を生まないのを見た」。これは内的な真理が未だ承認されなかったことを意味していることは以下から明白である、すなわち、ラケルの表象は内的な真理の情愛であり、または内的な真理そのものであり(3758、3782、3793、3819番)、『子を産むこと』の意義は信仰においてまた行為において承認することであり(そのことについては下記を参照)、ヤコブの表象は自然的な真理の善である(そのことについては3669、3677、3829番と前章の全部を参照)。『生むこと』が信仰においてまた行為において承認することである理由は、聖言における『出生』により霊的な出生が意味されているということである(1145、1255、3860、3868番)。霊的な出生は真理と善とを承認し、信じることであり、ここでは信仰において、また行為において承認することである。いかようなものも人間がそれに従って生きないうちは承認されないため、そうした理由から『信仰において、また行為において承認すること』と言われているのである。実行するためではなくて、単に知るためにのみ学ばれる信仰の諸真理はそれ自身を悪と誤謬との情愛[悪と誤謬とに対する情愛]に結合させるのであり、そうした理由からそれらはそれらを学んだ者のもとでは信仰のものとはなっていないで、内的には信仰に反しているのである。

 

 

天界の秘義3906[2]

 

 例えば以下の内なる真理を考えられよ。善はことごとく主から発しており、人間自身のものであるものは善ではないという真理を考えられよ。再生の始まりにはこれは知られることは出来ようが、それでも信仰において、また行為においても承認されはしないのである、なぜならそれを信仰において、行為において承認することはそれがそうであるという認識を得ることであり、またそれがそうであるように欲する情愛を得ることであり―しかもそれが善の凡ゆる行為において行われるのであり―また以下のことを認める認識を得ることであるから、即ち、人間自身のものであるものから発している善は自己を顧慮し、かくて他の者よりも自己が卓越することを顧慮し、従って他の者を軽蔑し、更に私たちが行う善に自己功績の感情を持たないわけにはいかないのであり、こうした事柄は内なる真理が外なる真理に連結されていない中は外なる真理の中に存在しており、そして内なる真理は、自己を求める顧慮が存在しなくなり始め、隣人に対する顧慮が感じられ始めない中は連結されることは出来ないのである。このことから『内なる真理が外なる真理のように未だ承認されなかったという憤怒』により意味されていることが明白である。

 

 

天界の秘義3994

 

 善が善であるためには、その善の凡ての中に無垢が存在しなくてはならない。無垢のない仁慈は仁慈ではなく、まして無垢がないなら主に対する愛はあり得ないのである。そうした理由から無垢は愛と仁慈の本質的なものそのものであり、従って善の本質的なものである。

無垢である自分自身のものとは、悪以外には何ものも自分の自己からは発していない、善はすべて主から発している、それで人間自身のものは悪いもの以外の何ものでもないことを、即ち、悪であるところの自分の意志の自分自身のもののみでなく、誤謬であるところの自分の理解の自分自身のものを、口ではなくて心で知り、承認し、信じることである。人間が心からそのことを告白し、信じる時、主は善と真理とをもって流れ入られて、彼の中へ、白い、光り輝いている天界の自分自身のものを(徐々に秘かに)注ぎ入れられるのである。

たれ一人心からそのことを承認し、信じない限り、決して真の卑下の中にいることは出来ない。なぜなら人間は心からそれを承認し信じる時、自己を絶滅させ、否、自己を嫌悪し、かくして自己から遠ざかり、そうした方法によりその時主の神的なものを受け入れることが出来る状態の中にいるからである。主が遜った、砕かれた心の中へ善をもって流れ入られるのはこうした手段によっているのである。

 

 

 

 

天界の秘義5758

 

「どうして私たちがあなたの主人の家から銀または金を盗み出しましょうか」。これは、それでなぜ私たちは神的な天的なものから発している真理と善とを私たち自身に要求しましょうか、を意味していることは以下から明白である、すなわち、『盗むこと』の意義は霊的な意義では主に属しているものを自己に要求することであり(そのことについては前の5749番を参照)、『銀』の意義は真理であり(1551、2954、5658、番)、『金』の意義は善である(113、1551、1552、5658番)。本章全体には主から発している善と真理とを自己に要求するという霊的な窃盗罪が取り扱われているのである。これは、人間が死後、善または真理は一つとして自分自身からは発しておらず、凡ては主から発しており、自分自身から発しているものは凡て悪以外何ものでもないことを心から承認しない中は天界に入れられることは出来ない程にも非常に重要なことである。それがそうであるという事実は人間に死後多くの経験により示されるのである。天界の天使たちは、善と真理とはすべて、主から発していることを明らかに認めており、さらに主によって彼らが悪から遠ざけられて、善の中に留め置かれ、かくて、真理の中に留め置かれ、しかもそれが強大な力によって行われていることを認めているのである。

 

 

天界の秘義5758[2]

 

 私はこのことを今や多年にわたって明らかに認めることを許されており、また私が私自身のものに、または私自身に委ねられるに応じて、悪の洪水に浸され、主によりそこから遠ざけられるに応じて、悪から善へ引き上げられたことを認めることを許されたのである。それで真理と善とを自己に要求することは、救いは凡て慈悲によっており、即ち、人間はそれ自身では地獄にいるが、しかし慈悲によりそこから主により引き出されるということを承認することに反しているのみでなく、天界を支配している普遍的なものにも反しているのである。人間は、自分自身からは悪意外には何ものも発しないし、善は凡て主から発していることを承認しない限り、自分を卑下することは出来ないのであり、従ってまた主の慈悲を受けることも出来ないのである(なぜなら主の慈悲は卑下の中にのみ、または遜った心の中にのみ流れ入るからである)。そのことを承認しないなら、人間はその為すことを凡て功績として、遂には義として自分自身に帰するのである、なぜなら主から発している真理と善とを自分自身に要求することは自分自身を義とすることであるからである。これが多くの悪の源泉である、なぜなら彼はその時はその隣人のために為す凡ゆる事柄の中に自己を求め、自己を求める時は、他の凡ての者にもまさって自分自身を愛し、かくて他の凡ての者を、言葉ではなくとも、心では軽蔑するからである。

 

 

 

 

 

天界の秘義5236

 

『若者』が罪のないこと[無罪性]を意味している理由は、内意では『小さな子供』は無垢なものを意味しているということである、なぜなら聖言に『乳のみ児[乳児]』『小さな子供』、『若者』(または子供)と記されているが、彼らにより三つの度の無垢が意味されており、『乳のみ児』により第一の度のものが、『小さな子供』により第二の度のものが、『子供[若者]』により第三の度のものが意味されるからである。しかし『子供[若者]』のもとに無垢が脱ぎ捨てられ初めるため、彼により『罪がないこと[無罪性]』と呼ばれるかの度の無垢が意味されている。この三つにより三つの度の無垢が意味されているため、天的な愛と霊的な愛とは、即ち、主に対する愛と隣人に対する仁慈とは無垢の中にのみしか存在しえない(中略)、しかし乳のみ児、小さな子供、子供の無垢は単に外なるものに過ぎないのであり、内なる無垢は人間が新しく生まれる後までは、即ち、再び、謂わば、乳のみ児、小さな子供、子供になる後までは彼の中に有り得ないことを知らなくてはならない。聖言にこの三つのものにより意味されているものはこの状態である。

 

イエスは一人の子供を取られて、これを彼らの真中に置かれた。かれは彼を腕にかかえられると、彼らに言われた。わたしの名においてこのような子供たちの一人を受ける者はすべてわたしを受けるのである(マルコ9・36,37、ルカ9・47,48)。

 

ここの『子供』により無垢が表象されており、これを受ける者は、主は無垢のすべての源泉であられるため、主を受けるのである。たれでも『主の名において子供を受けること』は文字通りに子供を受けることではないことを認め、かくて天界的なものがそれにより表象されているに違いないことを認めることが出来るのである。

 

子供たちは神殿の中で叫んだ。ホサナ、ダビデの子に。祭司らは怒った。それでイエスは彼らに言われた。あなたらは、あなたはみどり児、乳のみ児の口から賛美を全うされた(という聖言)を、一度も読みませんでしたか(マタイ21・15,16、詩篇8・2)。

 

子供たちが『ホサナ、ダビデの子に』と叫んだことは、無垢のみが、即ち無垢の宿っている者のみが主を承認して受け入れることを表象することであった。『みどり児と乳のみ児の口からあなたは讃美を全うされた』により讃美は無垢を通してのみ主のもとに達することが意味されているのである、なぜならそれによってのみ交流のすべてが、また流入のすべてが行なわれ、従って接近が行われるからです。

 

 

天界の秘義6144

 

絶望が荒廃と試練との最後のものであるには多くの理由があるが(5279、5280番)、その中以下のもののみを引照してみよう。絶望は、絶望を感じる者たちには、自分自身からは真理と善とは何一つ発しない、自分は自分自身からでは地獄に堕ちるものである、が、自分は主により堕地獄の状態から救われるのであり、そして救いは真理と善とによって流れ入るということを事実として、また明白に承認させるのである。絶望はまた彼らに主から発してくる生命の幸福を感じさせるのである。なぜなら彼らはその状態から脱すると、死に定められはしたものの、牢獄から自由にされた者のようになるからである。更に荒廃と試練によって、天界の生命に反した状態が感じられ、その結果天界の生命の満足と幸福との知覚と認識とが植え付けられるのである。なぜなら満足させる幸福なものを知覚し、認識することは、それに対立したものと比較されて初めて可能となるからである。それで比較が充分に行われるために、荒廃と試練とはその極度までも、すなわち、絶望に至るまでも行なわれるのである。

 

 

天界の秘義6663

 

「彼らがそれを苦しめるに従って、それは増大した」。これは諸真理は悩まされるに応じて増大したことを意味していることは以下により明白である、即ち、『苦しめること』の意義は悩ますことであり、『増大すること』の意義は真理の方面で増大することである(このことについては前の6656番を参照)。この間の実情のいかようなものであるかを述べてみよう。なぜなら他生で行われていることを経験しなくては、その何であるかを何人も今は知ることは出来ないからである。世から来て、主の戒めの生活を送った霊達の大半は、天界に挙げられて、そこの社会に加えられる以前に、彼らに属している幾多の悪と誤謬を除かれるために、それらに取り憑かれて悩まされるのである、(6639番を参照)、なぜなら彼らが身体の生命の中で取得したところの、天界とは全く調和していない不潔な幾多のものがあるからである。(その悪と誤謬とに取り憑かれて)悩まされることは彼らがその悪と誤謬との中に浸されることによって起るのであり、彼らがその悪と誤謬との中にいると、それに似た悪と誤謬との中にいる霊らがその場に現れて、凡ゆる手段を尽くして彼らを真理と善から連れ出そうと努めるのである。しかしそれでも彼らは、主から天使を通して注がれる流入が勝利を得ない程には深く彼らの悪と誤謬とに浸されはしないのであり、均衡は正確に維持されているのである。このことの目的は、(悪と誤謬とに)取り憑かれて悩まされる者が自由の中にあり、かくて悪と誤謬とに自分自身から戦うように自分自身に思われつつも、抵抗する力は凡て主から来ていることを、その時でなくても、後になって承認するためである(1937、1947、2881、5660番)。

 

 

 

天界の秘義9262

 

「無垢な者と義しい者とを殺してはならない」。これは内的な、また外的な善を破壊することに対する反感を意味していることは以下から明白である、即ち、『無垢な者』の意義は内的な善の中にいる者であり、かくて抽象的な意義では、内的な善であり、(そのことについては以下に述べよう)、『義しい者』の意義は外的な善の中にいる者であり、抽象的な意義では、外的な善である、なぜなら『義しい』は隣人に対する愛の善について述べられ、『無垢』は主に対する愛の善について述べられているからである。隣人に対する愛の善は外的な善であり、主に対する愛の善は内的な善である。そして『殺すこと』の意義は破壊することである。『義しい』は隣人に対する愛の善を意味していることは以下に見られるであろう。しかし『無垢』が主に対する愛の善を意味していることは主を愛する者たちは無垢であるためである。なぜなら無垢は私たちは私たち自身では悪以外には何ごとも欲しないし、誤謬以外には何ごとも認めはしないし、また愛に属した善の凡てと信仰に属した真理の凡てとは主のみから発していることを心で承認することであるからである。愛により主と連結している者たちを除いてはたれ一人これらの事を心で承認することは出来ないのである。

 

 

 

天界と地獄7550

 

この記事で、また他の多くの記事でエホバ、または主はその勢いと力とが現れて、その御名が話されるのを欲しられ、また他の所では、主が心を卑しくして拝され、崇められるのを欲しられるということは、主はその栄光を示そうと欲しておられるかのように、また主は御自身のために崇拝されることを愛されておられるかのように見えるのである。しかし真の実情は全くそれとは相違している。それは御自身のためではなくて、人類のためであり、自己の栄誉から発しはしないで、愛から発しているのである、なぜなら主は人類と連結して、これに永遠の生命と幸福とを与えようと欲しておられるからである。そのことはその人間が心を卑しくして主を拝しない限り為されることは出来ないのであり、またその人間が自分自身は塵と灰であって、即ち、悪以外の何ものでなく、エホバ、または主は最も偉大で、最も聖い方であられ、自分は自分自身からは敢えて主に近づこうとはしないことを承認もし、信じもしない限り、心を卑しくして(主を)拝する筈もないのである。人間がこのように心を卑しくして主を拝すると、その時主はその愛の生命をもって流れ入られ、天界と永遠の幸福を与えられることが出来るのである。これがエホバまたは主が聖言に主御自身の力と栄光とを非常に賛え給うている理由である。

 

 

天界の秘義10227

 

 主に凡てを帰している者たちは他の者よりも賢明であるが、それは知恵を構成している真理と善との凡ゆるものは天界から、即ち、天界の主から流入しているためである。主に凡ゆるものを帰することにより人間の内部は天界に向かって開かれるのである、なぜなら真理と善とは一つとして人間自身からは発していないことがそのことにより承認され、このことが承認されるに比例して、自己への愛が去り、自己への愛とともに誤謬と悪から発した暗闇も去ってしまうからである。またそれに比例してその人間は無垢へ、主に対する愛と信仰へ入り、そこから神的なものとの連結が生まれ、神的なものとの連結から流入と照示[明るくされること]とが生まれてくるのである。この凡てから或る者は賢明になり、また或る者はそれほど賢明でなくなることが何処から生まれてくるかが明白であり、また富んだ者は更に多く捧げてはならないし、貧しい者も更にに少なく捧げてはならない理由も明白である―即ち、凡ての者は同じく賢明になる能力を持っているのであり、実に賢明になる等しい能力を持っているのではないが、何れも賢明になることが出来るため、賢明になる能力を持っていることにおいては似ているのである。

 

 

スウェーデンボルグ/アタナシウス信条について/P58

 

新しいエルサレムと呼ばれる新しい教会の教義の本質的なものは、主についてはこのことであり(主は父なる神であること)、その中にいることを望む者はそのことを承認するのである。なぜならこの教会はキリスト教そのものであるからであり、そして一人の神を、かくて主のみを考え、信じる者を除いてはたれ一人天界へ入れられはしないことを知らなくてはならないのである。人間は神にかかわるその告白に順応して天界へ入ることを許されることを知らなくてはならないのであり、人間は神について考え、信じているその性質について調べられるのである。なぜならその告白を通して連結が生まれるからであり、連結が生まれる時、細々としたことにおいて明るく示されるのである。愛の、また信仰の凡ゆるものはそのことにかかっているのであり、それ故、神を否定する者らは地獄にいるのは、分離が起こるためである。それ故、最初の、主要なことは神を知り、承認し、信じ、愛することであり、他の凡ゆることはこのことに依存しているのである。

 

 

黙示録講解732[2]

 

新しいエルサレムと呼ばれているこの新しい教会は最初は僅かな者たちのもとに初まるであろうが、後には更に多くの者たちの間に在り、遂に充分な状態に達するには幾多の理由が在るのである。先ず、その教義は―それは主に対する愛と隣人に対する仁慈の教義であるが―以下の者たちを除いては承認され、かくて受け入れられることは出来ないのである、以下の者たちとは真理により内的に心を動かされる者であり、諸真理を認める能力を持っている者たちのみが諸真理により内的に心を動かされることが出来るのであり、己が知的能力を培って、それを自己を求め、世を求める愛により破壊しなかった者たちが、諸真理を認めるのである。

 

第二の理由はその教会の教義は信仰のみにおける教義により、同時に信仰のみにおける生活によりそれを自らに確認しなかった者たちを除いては承認されることは出来ず、そこから受け入れられることは出来ないということである。教義のみによる確認は受け入れることを妨げはしないが、しかし生活によってもまた確認することは妨げるのである、なぜなら、そうした者らは主に対する愛とは何であるかを知らず、隣人に対する仁慈とは何であるかも知らず、また知ろうとも欲しないからである。

 

 

黙示録講解732[3]

 

第三の理由は地上では新しい教会はその教会が霊たちの世界において増大することに従って成長するということである、なぜならかの世界から霊たちは人間のもとにおり、彼らは地上に生きていた間は彼らの教会の教義の中にいた者らから来ていて、これらの者の中一人として、真理に対する霊的な情愛を抱いていた者たちを除いては、その教義を受け入れはしないのであり、真理に対する霊的な情愛を抱いている者たちのみがその教義が存在する天界に連結するのであり、彼らが人間に天界を連結させるのである。これらもまた主が世を去られた後、キリスト教会がヨーロッパにおいて極めて遅々としてしか成長せず、時代が経過する迄はその充全な状態に達しなかった理由であった。

 

 

霊界日記3677

 

以下のことが認められた、即ち、祈りは、人が単に悪を弾劾することを意図するのみで、『もし私が私の悪を弾劾しさえするなら、罪の赦しを得る』と自分自身のもとで考えるといったものである間は、それには何の効果もないのである。罪は、心から真に告白されて、それに内なる呵責と苦悶とが伴い、かくて汚らわしさが承認されなくては、赦されはしないのであり、そのことの中に、またそのことの後に祈りは効力をもつのである。

以下のことが認められた、即ち、それはそうしたものであり、でないなら、祈りと秘蹟と外なる祭儀には何らの効果もないのであり、否、それらはむしろ人間に悪を確認させてしまうのである、なぜならそれらは、自分が悪を弾劾して、救いの手段を用いさえするなら、罪は赦されているという考えの下で彼の良心を眠らせてしまうからである。かくて彼はその前の汚らわしさに帰るのである。或る一人の人物がこのように己が悪を弾劾しようとしたが、その時その真理が霊的な観念により認められたのである。

 

 

啓示による黙示録解説6

 

なぜなら天使たちは真理を聞くと、すぐにそれを知り、それを承認するからである。

 

 

 

人間は自分の中にこれらのもの(生活と信念との悪と誤謬、また善と真理)を知り認めることなしに改良されることは出来ない

 

 

神の摂理16

 

人間が悪と同時に真理にいることを許されており、もし主がそれを妨げられるならば、それは主の救いの目的と相容れなくなる理由は、それを許されていることによって人間の理解は、たとえその人間の愛は下に止まっているにしても、知恵の光の中へ高められ、真理を認め、または真理を聞いて、それを認めることが出来るということである。なぜならこのようにして人間はその理解の方面では天界におり、その愛の方面では地獄にいることが出来るからである。この許しは人間に拒まれることは出来ない、なぜなら合理性と自主性の二つの能力は人間から取り去られることは出来ないからである。なぜならこの能力は人間を人間として、獣から区別されるものであり、この能力によってのみ人間は再生し、かくて救われることが出来るからである。なぜなら人間はこの能力により知恵に従って行動し、また知恵を欠いた愛により行動することも出来、またこれにより、上にある人間の知恵は、下に在るその人間の知恵を人間に認めさせ、かくて思考、意図、情愛を認めさせ、従ってその生活と信念との悪と誤謬を、また善と真理を認めさせるのであり、そして人間は自分の中にこれらのものを知り認めることなしに改良されることは出来ないからである。

 

 

 

 

承認は意志と結合している

 

 

神の摂理231

 

7種類の冒涜について

 

「第1の種類の冒涜は聖言をまたは教会の神的の事柄を笑い草の題材にする者により犯される」。

 

「第2の種類の冒涜は神的真理を理解し、承認はするが、しかもそれらを無視して生きる者により犯される」。神的真理を単に理解するに過ぎない者の冒涜は軽いが、それをまた承認もしている者の冒涜は重い、なぜなら理解は単に説教家のように教えるのみで、必ずしも意志と結合していないが、承認は意志と結合しているからである、それは何物も意志の同意がないなら承認されることは出来ないためである。