主に帰する

 

 

承認卑下生贄

十、十分の一

 

 

1.主に帰する

2.エホバに差し出す

3.主に凡ゆるものを帰することにより人間の内部は天界に向かって開かれる

 

 

 

1.主に帰する

 

天界の秘義1153[2]

 

色々と変化している礼拝の実情はいかようなものであるか、また古代教会の内の種々の国民の実情はいかようなものであったかが更に明らかに説明されるためには、以下のことが知られなくてはならない、即ち、真の礼拝は凡て主を崇拝することから成っており、主を礼拝することは卑下から成り、卑下は自分自身の中には生きたものは一つとしてなく、善いものも一つとしてなく、自分の中の凡てのものは死んだものであり、実に屍のようなものであることを自分が承認することから成り、また生きたものはことごとく、また善いものはことごとく主から発していることを承認することから成っているのである。人間はこうしたことを口でなくて心で承認するに応じて、益々卑下の状態におり、従って益々崇拝の状態の中に、即ち真の礼拝の中におり、愛と仁慈の中におり、益々幸福な状態にいるのである。一方は他方の中に在って、分離出来ない程にも連結しているのである。ここから礼拝のこうした相違はいかようなものであり、またいかような性質を持っているかが明白である。

 

 

 

天界の秘義2359

 

即ち、たれ一人愛と仁慈の善との中にいない限り、主の王国へ(すなわち天界へ)入れられることは出来ないのであり、またたれ一人主の神的なものと聖いものとを承認しない限り、愛の善と仁慈の善の中にいることは出来ないのである、なぜならこの善は主のみから流れ入っており、実に主から発している善そのものの中へ流れ入っているからである。神的なものは神的なもの以外のものへは流れ入ることは出来ないのであり、また主の神的な人間的なものとそこから派生している主の聖いものとを通さなくては人間に伝達されることも出来ないのである。このことから私たちはいかようにして主はその王国のすべてにおけるすべてのものであられるかを、また人間のもとにある善は一つとして人間のものではなくて、主のものであるかを理解することが出来るのである。

 

 

天界の秘義3994

 

 善が善であるためには、その善の凡ての中に無垢が存在しなくてはならない。無垢のない仁慈は仁慈ではなく、まして無垢がないなら主に対する愛はあり得ないのである。そうした理由から無垢は愛と仁慈の本質的なものそのものであり、従って善の本質的なものである。

無垢である自分自身のものとは、悪以外には何ものも自分の自己からは発していない、善はすべて主から発している、それで人間自身のものは悪いもの以外の何ものでもないことを、即ち、悪であるところの自分の意志の自分自身のもののみでなく、誤謬であるところの自分の理解の自分自身のものを、口ではなくて心で知り、承認し、信じることである。人間が心からそのことを告白し、信じる時、主は善と真理とをもって流れ入られて、彼の中へ、白い、光り輝いている天界の自分自身のものを(徐々に秘かに)注ぎ入れられるのである。

たれ一人心からそのことを承認し、信じない限り、決して真の卑下の中にいることは出来ない。なぜなら人間は心からそれを承認し信じる時、自己を絶滅させ、否、自己を嫌悪し、かくして自己から遠ざかり、そうした方法によりその時主の神的なものを受け入れることが出来る状態の中にいるからである。主が遜った、砕かれた心の中へ善をもって流れ入られるのはこうした手段によっているのである。

 

天界の秘義3994

 

 善が善であるためには、その善の凡ての中に無垢が存在しなくてはならない。無垢のない仁慈は仁慈ではなく、まして無垢がないなら主に対する愛はあり得ないのである。そうした理由から無垢は愛と仁慈の本質的なものそのものであり、従って善の本質的なものである。無垢である自分自身のものとは、悪以外には何ものも自分の自己からは発していない、善はすべて主から発している、それで人間自身のものは悪いもの以外の何ものでもないことを、すなわち、悪であるところの自分の意志の自分自身のもののみでなく、誤謬であるところの自分の理解の自分自身のものを、口ではなくて心で知り、承認し、信じることである。人間が心からそのことを告白し、信じる時、主は善と真理とをもって流れ入られて、彼の中へ、白い、光り輝いている天界の自分自身のものを(徐々に秘かに)注ぎ入れられるのである。

たれ一人心からそのことを承認し、信じない限り、決して真の卑下の中にいることは出来ない。なぜなら人間は心からそれを承認し信じる時、自己を絶滅させ、否、自己を嫌悪し、かくして自己から遠ざかり、そうした方法によりその時主の神的なものを受け入れることが出来る状態の中にいるからである。主がへり下った、砕かれた心の中へ善をもって流れ入られるのはこうした手段によっているのである。

 

 

 

天界の秘義3994 []

 

こうしたものが無垢である自分自身のものであって、それがヤコブが自分自身のために選んだ「子羊の間の黒いもの」によりここに意味されているのであるが、しかし子羊の白いものは善に置かれている自己功績である。(「白い」は功績であることは前の3993に示されたところである。)それは無垢に反しているため、それはヤコブは選ばなかったのである。なぜなら善に自己功績を置く者は善はすべて自分自身から発していることを承認し、信じているからであるが、それは彼はその行う善の中に自分自身を顧慮していて、主を顧慮していない。従ってその功績のために報酬を要求するためである。それでこのような者は自分自身に較べて他の者を軽蔑し、彼らを非難さえもし、従ってそれに正比例して天界的な秩序から即ち善と真理から遠ざかるのである。この凡てから、隣人に対する仁慈と主に対する愛とは、その中に無垢が存在しない限りあり得ないのであり、従ってたれ一人その者の中に無垢が存在しない限り、天界へ入れないことが今や明白である。そのことは主の御言葉に従っている―

 

まことにわたしはあなたたちに言う、たれでも小さな子供となって神の国を受け入れない者はことごとく神の国に入りはしない(マルコ10・15、ルカ18・17)

 

聖言のここと他の所の「小さな子供」により無垢が意味されているのである。

 

 

天界の秘義5758

 

「どうして私たちがあなたの主人の家から銀または金を盗み出しましょうか」。これは、それでなぜ私たちは神的な天的なものから発している真理と善とを私たち自身に要求しましょうか、を意味していることは以下から明白である、すなわち、『盗むこと』の意義は霊的な意義では主に属しているものを自己に要求することであり(そのことについては前の5749番を参照)、『銀』の意義は真理であり(1551、2954、5658、番)、『金』の意義は善である(113、1551、1552、5658番)。本章全体には主から発している善と真理とを自己に要求するという霊的な窃盗罪が取り扱われているのである。これは、人間が死後、善または真理は一つとして自分自身からは発しておらず、凡ては主から発しており、自分自身から発しているものは凡て悪以外何ものでもないことを心から承認しない中は天界に入れられることは出来ない程にも非常に重要なことである。それがそうであるという事実は人間に死後多くの経験により示されるのである。天界の天使たちは、善と真理とはすべて、主から発していることを明らかに認めており、さらに主によって彼らが悪から遠ざけられて、善の中に留め置かれ、かくて、真理の中に留め置かれ、しかもそれが強大な力によって行われていることを認めているのである。

 

 

天界の秘義5758[2]

 

 私はこのことを今や多年にわたって明らかに認めることを許されており、また私が私自身のものに、または私自身に委ねられるに応じて、悪の洪水に浸され、主によりそこから遠ざけられるに応じて、悪から善へ引き上げられたことを認めることを許されたのである。それで真理と善とを自己に要求することは、救いは凡て慈悲によっており、即ち、人間はそれ自身では地獄にいるが、しかし慈悲によりそこから主により引き出されるということを承認することに反しているのみでなく、天界を支配している普遍的なものにも反しているのである。人間は、自分自身からは悪意外には何ものも発しないし、善は凡て主から発していることを承認しない限り、自分を卑下することは出来ないのであり、従ってまた主の慈悲を受けることも出来ないのである(なぜなら主の慈悲は卑下の中にのみ、または遜った心の中にのみ流れ入るからである)。そのことを承認しないなら、人間はその為すことを凡て功績として、遂には義として自分自身に帰するのである、なぜなら主から発している真理と善とを自分自身に要求することは自分自身を義とすることであるからである。これが多くの悪の源泉である、なぜなら彼はその時はその隣人のために為す凡ゆる事柄の中に自己を求め、自己を求める時は、他の凡ての者にもまさって自分自身を愛し、かくて他の凡ての者を、言葉ではなくとも、心では軽蔑するからである。

 

 

 

天界と地獄7550

 

この記事で、また他の多くの記事でエホバ、または主はその勢いと力とが現れて、その御名が話されるのを欲しられ、また他の所では、主が心を卑しくして拝され、崇められるのを欲しられるということは、主はその栄光を示そうと欲しておられるかのように、また主は御自身のために崇拝されることを愛されておられるかのように見えるのである。しかし真の実情は全くそれとは相違している。それは御自身のためではなくて、人類のためであり、自己の栄誉から発しはしないで、愛から発しているのである、なぜなら主は人類と連結して、これに永遠の生命と幸福とを与えようと欲しておられるからである。そのことはその人間が心を卑しくして主を拝しない限り為されることは出来ないのであり、またその人間が自分自身は塵と灰であって、即ち、悪以外の何ものでなく、エホバ、または主は最も偉大で、最も聖い方であられ、自分は自分自身からは敢えて主に近づこうとはしないことを承認もし、信じもしない限り、心を卑しくして(主を)拝する筈もないのである。人間がこのように心を卑しくして主を拝すると、その時主はその愛の生命をもって流れ入られ、天界と永遠の幸福を与えられることが出来るのである。これがエホバまたは主が聖言に主御自身の力と栄光とを非常に賛え給うている理由である。

 

 

 

天界の秘義10227

 

 主に凡てを帰している者たちは他の者よりも賢明であるが、それは知恵を構成している真理と善との凡ゆるものは天界から、即ち、天界の主から流入しているためである。主に凡ゆるものを帰することにより人間の内部は天界に向かって開かれるのである、なぜなら真理と善とは一つとして人間自身からは発していないことがそのことにより承認され、このことが承認されるに比例して、自己への愛が去り、自己への愛とともに誤謬と悪から発した暗闇も去ってしまうからである。またそれに比例してその人間は無垢へ、主に対する愛と信仰へ入り、そこから神的なものとの連結が生まれ、神的なものとの連結から流入と照示[明るくされること]とが生まれてくるのである。この凡てから或る者は賢明になり、また或る者はそれほど賢明でなくなることが何処から生まれてくるかが明白であり、また富んだ者は更に多く捧げてはならないし、貧しい者も更にに少なく捧げてはならない理由も明白である―即ち、凡ての者は同じく賢明になる能力を持っているのであり、実に賢明になる等しい能力を持っているのではないが、何れも賢明になることが出来るため、賢明になる能力を持っていることにおいては似ているのである。

 

 

天界の秘義10227[3]

 

賢明になる能力により記憶知から真理と善とについて論じる能力が意味されているのではなく、また自分の好むことを何なりと確認する能力も意味されてはおらず、真で善いものを識別し、適当なものを選んで、それを生命の用に適用する[用いる]能力が意味されているのである。主に凡ゆるものを帰している者たちは識別し、選び、適用するに反し、主に帰しはしないで、自分自身に帰する者らは単に真理と善とについて論じる方法を知っているに過ぎないのである、彼らはまた他の者から発しているものを除いては何ごとも認めもしないが、そのことも理性から発しているのではなくて、記憶の活動から発しているのである。彼らは真理そのものを認めることが出来ないため、外側に立って、何なりとその受け入れるものをそれが真であれ、誤りであれ、確認するのである。記憶知から学者流にこうしたことをすることの出来る者らは世から他の者以上に賢明なものであると信じられているが、しかし彼らが凡ゆるものを彼ら自身に帰すれば帰するほど、かくて自分自身から考えることを愛すれば愛するほど、益々発狂してしまうのである、なぜなら彼らは真理よりもむしろ誤謬を、善よりはむしろ悪を確認し、しかもそれは彼らが世の妄想と外観以外のいかような源泉からも光を得ておらず、従って彼らは天界の光から分離した、自然的な光と呼ばれる彼ら自身から光を得ており、その光は、そのように分離すると天界の諸真理と諸善については暗闇そのものとなるためであるからである。

 

 

 

 

 

信仰と仁慈の凡ゆるものが主から発していることを承認する時、“門”すなわち主から入る、なぜならその時これらのものが主から流れ入るからである

 

野葉:“律法と預言者はヨハネの時までである”(16節)とは、主と主が来られることに関する預言は主が世に来られたときに終わった、という意味です(天界の秘義9372)。

“それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、誰もが力ずくでそこに入ろうとしている”(同16節)は、“羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である”(ヨハネ10・1)というのと同じだと思います。そこに関するスウェーデンボルグの解説によると、“羊”は仁慈の中におり、そこから信仰の中に入る者であり、彼らは信仰と仁慈の凡ゆるものが主から発していることを承認する時、“門”すなわち主から入る、なぜならその時これらのものが主から流れ入るからである、しかし、それらを他の者に、特に自分自身に帰することは、それらを取り去ることであり、かくて“殺し、破壊すること”であると言っています。主のものであるものを自分自身に帰す者らはまた業に功績をおいて、自分自身を義とするのだ、と(天界の秘義8906)。

 

 

『啓示による黙示録解説』黙示録1章

 

5節。『イエス・キリストから』は神的な人間的なもの〔神的人間性〕を意味している(15番)。『忠実な証人』は、かれは神的真理そのものであられることを意味している(17番)。『地の君』は、かれから教会における善から発した真理はすべて発している、を意味している(18番)。『かれは私たちを愛し、私たちを私たちの罪から洗われる』は、かれが聖言から発したその神的な真理により愛と慈悲から人間を改良し、再生される、を意味している(19番)。

 

 

6節。『かれは私たちを王と祭司になされる』は、かれはかれから生まれた者たちを、即ち、再生した者たちを神的諸真理から智恵の中に、神的諸善から愛の中におらせるようにされる、を意味している(20番)。『神とその父とに向かって』は、かくてその神的な知恵とその神的な愛との映像(とされる)ことを意味している(21番)。『かれに代々栄光と力とがありますように』は、かれのみが神的な威厳と神的全能とを永久に持たれる、を意味している(22番)。『アーメン』は、真理から、かくてかれ御自身から発する神的確認を意味している(23番)。

 

 

 

 

2.エホバに差し出す

 

 

天界の秘義8042

 

「わたしに初児をすべて潔めなさい」。これは、信仰を、それが主から発していることを意味していることは以下から明白である、即ち、『エホバに』または主に『潔めること』の意義は主に帰することであり、即ち、それが主から発していることを告白し、承認することであり、『初児』の意義は信仰である(352、2435、6344、7035番を参照)。

 

 

 

天界の秘義8046

 

「それはわたしのものである」。これは、それが主のものであることを意味していることは聖書では『エホバ』は主を意味しているという事実から明白であり(1343、1736、2921、3023、3035、5041、5663、6281、6303、6905、6945、6956番を参照)、そうした理由から『それはわたしのものである』は、それは主のものであることを意味している。(善のすべてと真理のすべては、かくて仁慈と信仰とは主から発しており、一つとして全く人間からは発していないことについては、904、2411、3142、3147、4151、5482、5649、6193、6325、6466−6495、6613−6626、6982、6985、6996、7044、7055、7056、7058、7270、7343番を参照)。

 

 

 

 

天界の秘義8074

 

「あなたは胎を開くものを凡てエホバに差し出すようにしなくてはならない」。これは再生のものである〔再生から生まれる〕仁慈の信仰は主のものであることを意味していることは以下から明白である、即ち、『差し出すようにすること』の意義は『清めること』と同じく(前の8042番を参照)、また『生贄とすること』と同じく(下記の8088番を参照)、帰することであり、『胎を開くところの』の意義は(前の8042、8043番に示したように)再生した人間に属しているところの、仁慈から発した信仰である。『エホバ』は主を意味していることについては、8046番を参照。

 

 

天界の秘義9223

 

「あなたは穀粒の初穂とあなたの葡萄酒の初穂とを、とどこおらせてはならない。」これは信仰の諸善と諸真理とは主から発しているため、それを主に帰して、自己に帰してはならないことを意味していることは以下から明白である、即ち、『初穂』の意義は第一位に立たねばならないものであり、かくて凡ての中でも主要なものでなくてはならないものであり(そのことについては以下に述べよう)、

 

 

天界の秘義9223〔3〕

 

 初穂が特に表象したことは(なぜなら主によりイスラエルの子孫に命じられた法令と祭儀の凡ては教会の内なる事柄を表象したからであるが)、その初穂が捧げられた幾多の種類の作物の内意が観察される時、認めることが出来よう。『穀粒』は信仰の善を、『葡萄酒』は信仰の真理を意味していることは、前に引用した記事に認めることが出来よう。初穂がエホバに捧げられねばならなかったことは、信仰の凡ゆる善と真理とを主に帰して、自己に帰しはしないことが教会の最初のものであることを意味したのである。主に帰すことは、これらのものは主から発して、その何一つも自己からは発していないことを知り、承認し、信じることである、なぜなら前にしめしたように、信仰の凡ゆるものは主から発しているからである。『初穂』にこの意義があることは、それは捧物と贈り物であって、捧物、贈り物は地の作物に対する感謝であり、エホバ、即ち、主から発した祝福を承認することであり、従って凡ゆるものは主から発していることを承認することであり、内意では、その初穂が捧げられた『収穫』、『穀粒』、『油』、『新しい葡萄酒』、『羊毛』、『果実』により意味されている信仰の諸善と諸真理が主から発していることを承認することである。(これらの初穂については、出エジプト記23・19、34・26、レビ23・10、11、20、民数15・19−21、18・12、13、申命記18・4、26・1−11を参照されたい)。それに似たことがエゼキエル書20・40とミカ書の7・1、2の初穂によっても意味されているのである。

 

 

 

 

 

 

 

3.主に凡ゆるものを帰することにより人間の内部は天界に向かって開かれる

 

天界の秘義10227

 

主に凡てを帰している者たちは他の者よりも賢明であるが、それは知恵を構成している真理と善との凡ゆるものは天界から、すなわち、天界の主から流入しているためである。主に凡ゆるものを帰することにより人間の内部は天界に向かって開かれるのである、なぜなら真理と善とは一つとして人間自身からは発していないことがそのことにより承認され、このことが承認されるに比例して、自己への愛が去り、自己への愛とともに誤謬と悪から発した暗闇も去ってしまうからである。またそれに比例してその人間は無垢へ、主に対する愛と信仰へ入り、そこから神的なものとの連結が生まれ、神的なものとの連結から流入と照示[明るくされること]が生まれてくるのである。

 

 

[3]賢明になる能力により記憶知から真理と善とについて論じる能力が意味されているのではなく、また自分の好むことを何なりと確認する能力も意味されてはおらず、真で善いものを識別し、適当なものを選んで、それを生命の用に適用する[用いる]能力が意味されているのである。主に凡ゆるものを帰している者たちは識別し、選び、適用するに反し、主に帰しはしないで、自分自身に帰する者らは単に真理と善とについて論じる方法を知っているにすぎないのである、かれらはまた他の者から発しているものを除いては何ごとも認めもしないが、そのことも理性から発しているのではなくて、記憶の活動から発しているのである。

 

かれらは真理そのものを認めることができないため、外側に立って、何なりとその受け入れるものをそれが真であれ、誤りであれ、確認するのである。記憶知から学者流にこうしたことをすることのできる者らは世から他の者以上に賢明なものであると信じられているが、しかしかれらが凡ゆるものをかれら自身に帰すれば帰するほど、かくて自分自身から考えることを愛すれば愛するほど、益々発狂してしまうのである、なぜならかれらは真理よりもむしろ誤謬を、善よりはむしろ悪を確認し、しかもそれはかれらが世の妄想と外観以外のいかような源泉からも光を得ておらず、従ってかれらは天界の光から分離した、自然的な光と呼ばれるかれら自身から光を得ており、その光は、そのように分離すると天界の諸真理と諸善については暗闇そのものとなるためであるからである。