十、十分の一

 

 

残りのもの

やもめの献金(マルコ21・1)

主に帰する

人は目に映ることを見るが、主は心によって見る(サムエル記上16・7)

 

 

 

 

1.聖書

2.凡て

3.残りのもの

4.十分の一税

5.主が眺められるものはその捧げ物の中にある意志

6.マリア・ワルトルタ 

 

 

 

 

1.聖書

 

 

創世記14・20

 

アブラムはすべての物の十分の一を彼(メルキゼデク)に贈った。

 

 

 

創世記28・20−22

 

 ヤコブはまた、誓願を立てて言った。

「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、わたしが記念碑として建てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」

 

 

 

レビ記27・30−34

 

 土地から取れる収穫量の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、主のものである。それは聖なるもので主に属す。もし、十分の一の一部を買い戻したいときは、それに五分の一を加えて支払わなければならない。牛や羊の群れの十分の一については、牧者の杖の下をくぐる十頭目のものはすべて、聖なるもので主に属する。この十分の一の家畜を見て、その良し悪しを判断したり、それを他のものと取り替えたりしてはならない。もし、他のものと取り替えるならば、それも取り替えたものも聖なるものとなり、買い戻すことはできない。

 以上は、主がシナイ山において、モーセを通してイスラエルの人々に示された戒めである。

 

 

 

民数記18・21−32

 

見よ、わたしは、イスラエルでささげられるすべての十分の一をレビの子らの嗣業として与える。これは、彼らが臨在の幕屋の作業をする報酬である。

 従って、イスラエルの人々はもはや臨在の幕屋に近づいてはならない。罪を犯して死を招くことのないためである。レビ人のみが臨在の幕屋の作業をし、その罪責を負わねばならない。これは、代々にわたって守るべき不変の定めである。彼らは、イスラエルの人々の間では嗣業の土地を持ってはならない。わたしは、イスラエルの人々が主にささげる献納物の十分の一をレビ人に彼らの嗣業として与えるからである。それゆえ、わたしは彼らに、イスラエルの人々の間では嗣業の土地を持ってはならない、と言ったのである。」

 主はモーセに仰せになった。

 レビ人に告げてこう言いなさい。

 わたしがあなたたちの嗣業として与えた十分の一を、あなたたちがイスラエルの人々から受け取るとき、そのうちの十分の一を主にささげる献納物としなさい。あなたたちの献納物は脱穀したばかりの穀物や搾りたてのぶどう酒と同じものと見なされる。それで、あなたたちもまた、イスラエルの人々から受け取るものの十分の一はすべて主にささげる献納物とし、その中から主に捧げる献納物を祭司アロンに与えねばならない。あなたたちは、贈られたもののうちから最上のもの、聖なる部分を選んで、主にささげる献納物としなければならない。彼らに言いなさい。あなたたちが最上のものをささげるときには、それは、レビ人にとって脱穀した収穫物や搾った収穫物と同じものと見なされる。あなたたちおよびその家族の者はそれをどこで食べてもよい。それは臨在の幕屋の作業に対する報酬だからである。あなたたちが最上のものをささげるときには、そのことで罪を犯してはならない。また、イスラエルの人々の聖なる献げ物を汚して、死を招いてはならない。

 

 

 

申命記14・22−29

 

 あなたは、毎年、畑に種を蒔いて得る収穫物の中から、必ず十分の一を取り分けねばならない。あなたの神、主の御前で、すなわち主がその名を置くために選ばれる場所で、あなたは、穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油の十分の一と、牛、羊の初子を食べ、常にあなたの神、主を畏れることを学ばねばならない。あなたの神、主があなたを祝福されても、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所が遠く離れ、その道のりが長いため、収穫物を携えて行くことができないならば、それを銀に換えて、しっかりと持ち、あなたの神、主の選ばれる場所に携え、銀で望みのもの、すなわち、牛、羊、ぶどう酒、濃い酒、その他何でも必要なものを買い、あなたの神、主の御前で家族と共に食べ、喜び祝いなさい。あなたの町の中に住むレビ人を見捨ててはならない。レビ人にはあなたのうちに嗣業の割り当てがないからである。三年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなたのうちに嗣業の割り当てのないレビ人や、町の中にいる寄留者、孤児、寡婦がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。そうすれば、あなたの行うすべての手の業について、あなたの神、主はあなたを祝福するであろう。

 

 

 

申命記26・12

 

十分の一の納期である三年目ごとに、収穫物の十分の一を全部納め終わり、レビ人、寄留者、孤児、寡婦に施し、彼らが町の中でそれを食べて満ち足りたとき、あなたの神、主の前で次のように言いなさい。

 

 

 

ネヘミヤ記10・38−40

 

 最初の小麦粉、礼物、あらゆる種類の果実、新しいぶどう酒および油を祭司のために神殿の祭司室に納める。地の産物の十分の一はレビ人のために納める。このレビ人は、わたしたちが働くすべての町でその十分の一を受け取る。レビ人がその十分の一を受け取るときには、アロンの子である祭司がレビ人に付き添っていなければならない。レビ人はその十分の一の更に十分の一を、わたしたちの神殿のためにその収納庫の祭司室に持って行かなければならない。イスラエルの人々とレビ人各人が穀物と新しいぶどう酒と油の礼物を納めるのはその祭司室であるからで、そこは、聖所用の祭具類があり、任務をもつ祭司、門衛、詠唱者がいるところである。わたしたちは決してわたしたちの神殿をおろそかにしません。

 

 

 

ネヘミヤ記12・44−47

 

 その日、礼物と初物と十分の一の供出物を蓄える収納庫の監督が任命された。こうしてそこに、律法が定めているように、祭司とレビ人の生活の糧を、町々の耕地から徴集して納めた。実にユダの人々は、祭司とレビ人の働きを喜んでいた。祭司とレビ人は神への務めと清めの務めを守り、詠唱者と門衛はダビデとその子ソロモンの定めによく従った。ダビデとアサフがいた昔の時代のように、詠唱者の頭がいて、神への賛美と感謝の歌をつかさどった。ゼルバベルの時代とネヘミヤの時代のイスラエルの民は皆、毎日詠唱者と門衛に生活の糧を提供した。また、レビ人には奉納物を与え、レビ人はその奉納物をアロンの子らに分け与えた。

 

 

 

マラキ3・8−10

 

人は神を偽りうるか。

あなたたちはわたしを偽っていながら

どのようにあなたを偽っていますか、と言う。

それは、十分の一の献げ物と

献納物においてである。

あなたたちは民全体で、わたしを偽っている。

十分の一の献げ物をすべて倉に運び

わたしの家に食物があるようにせよ。

これによって、わたしを試してみよと

万軍の主は言われる。

必ず、わたしはあなたたちのために

天の窓を開き

祝福を限りなく注ぐであろう。

 

 

 

マタイ23・23−24

 

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、ういきょうの十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。 ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。

 

 

 

ルカ11・42

 

それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷(はっか)や芸香(うんこう)やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。

 

 

 

ルカ18・12

 

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。

 

 

 

使徒言行録2・43−47

 

 すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。

 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加えて一つにされたのである。

 

 

 

使徒言行録4・32−37

 

 信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ―「慰めの子」という意味―と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。

 

 

 

使徒言行録5・1−11

 

 ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。すると、ぺトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた。若者たちが立ち上がって死体を包み、運び出して葬った。

 それから三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入って来た。ぺトロは彼女に話しかけた。「あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。言いなさい。」彼女は、「はい、その値段です」と言った。ぺトロは言った。「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。見なさい。あなたの夫を葬りに行った人たちが、もう入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう。」すると、彼女はたちまちぺトロの足もとに倒れ、息が絶えた。青年たちは入って来て、彼女の死んでいるのを見ると、運び出し、夫のそばに葬った。教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。

 

 

 

使徒言行録15・1−2

 

 ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。それでパウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老と協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることが決まった。

 

 

 

使徒言行録15・13、19−21

 

二人が話を終えると、ヤコブが答えた。

 「それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。」

 

 

 

コリント1・16・2

 

わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われることのないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい。

 

 

 

コリント2・8・11−12

 

 だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。進んで行なう気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受入れられるのです。

 

 

 

コリント2・9・7

 

 各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。

 

 

 

ヘブライ7・2

 

アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。

 

 

 

ヘブライ10・5

 

 それで、キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。

「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、

 

 

 

ヘブライ10・8

 

 ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、

 

 

 

黙示録11・13

 

そのとき、大地震が起こり、都の十分の一が倒れ、この地震のために七千人が死に、残った人々は恐れを抱いて天の神の栄光をたたえた。

 

 

 

2.凡て

 

 

天界の秘義4077

 

非常に大きな(1988)

 

 

 

天界の秘義10688

 

凡て(4638)。

 

 

 

3.残りのもの

 

 

天界の秘義575

 

「人間の日が百二十年である」(創世記6・3)ことにより、人間は信仰の残りのものを持たねばならぬことが意味していることは、前章(三、四節)に『日』と『年』とが時と状態とを意味していることについて言われたことから明らかであり、また最古代の人々が色々と合成された数字から教会内の状態と状態の変化とを意味したという事情からも明らかであるが、しかしその教会的な計算の性質は今は全く失われている。ここにも同様に年の数が記されているが、その意義は、先ず一から十二までの各々個々の数字の隠れた意義といったものを知らない限り、理解することは不可能である。それらには秘かな他の何かが含まれていることは明らかに現れている、なぜなら人間は『百二十年』生きねばならなかったことは本節の前の部分と何の関連も持っておらず、また彼らは百二十年生きたのでもなかったからである、そのことは洪水後の人々から明らかであり(11章)、そこにはセムにつき『彼はアルパクサデを生んだ後五百年生きた』と言われ、アルパクサデはセラを生んだ後『四百三年』生きたと言われ、セラはエベルを生んだ後『四百三年』生き、エベルはペレグを生んだ後『四百三十年』生き、ノアは洪水の後『三百五十年』(9章28節)生きたなどと言われているのである。しかし『百二十』の数に意味されていることは、掛け合わすと百二十になる『十』と『十二』の意味からのみ明らかであり、この合成数の意義から『百二十』は信仰の残りのものを意味していることを認めることが出来るのである。聖言の『十』の数は、『十分の一』と同じく、主により内なる人の中に保持され、またそれが主のみのものであるため、聖いものである残りのものを意味し、表象しており、『十二』の数は信仰を意味し、または信仰に関わる凡てのものの一つの統合体を意味しており、それ故この数から成った数は信仰の残りのものを意味しているのである。

 

 

 

天界の秘義576

 

『十』の、また『十分の一』の数は残りのものを意味していることは聖言の以下の記事から明白である―

 

 大きい、美しい多くの家も、住む人も無く荒れすたれるであろう、十エーカーのぶどう園の実も一パテに過ぎず、一ホメルの種子の実も、一エパに過ぎないであろう(イザヤ5・9、10)

 

 これは霊的なものと天的なものの荒廃を語っており、『十エーカのぶどう園も一パテを作るに過ぎないこと』は霊的なものの残りのものが極めて僅かしかなかったことを意味し、『一ホメルの種子の実も一エパに過ぎないこと』は天的なものの残りのものが極めて僅かしか無かったことを意味している。同書に―

 

 そして多くの物は地の真中に棄てられるであろう、それでもその中に十分の一の部分が在って、帰ってくるであろう、それにも拘らずそれも滅ぼし尽くされるであろう(イザヤ6・12、13)。

 

 ここでは『地の真中』は内なる人を意味しており、『十分の一の部分』は残りのものの僅かなことを意味している。エゼキエル書には―

 

あなたらは正しい秤を、正しいエパを、正しいパテを用いなくてはならない、エパとパテをその量は同一でなくてはならない、即ち、パテもホメルの十分の一を容れ、エパもホメルの十分の一を容れなくてはならない。その量はホメルに従って定めなくてはならない。油の定まった分は一コルの中から一パテの十分の一、十パテ、一ホメルでなくてはならない、十パテは一ホメルであるからである(エゼキエル45・10,11,14)。

 

この記事ではエホバの聖いものは量により取扱われ、これにより色々な種類の聖いものが意味されており『十』によりここでは天的な物の残りのものとそこから由来してくる霊的なものの残りのものが意味されている、なぜならこのような聖いアルカナがその中に含まれていない限り、本章とまたその同じ予言者の書の前の章において―そこでは天界のエルサレムと新しい神殿が主題となっているが―数で決定されているかくも多くの量が記されているが、そうしたものを何のために、また何の意図から記す筈があろうか。

 

 

 

天界の秘義576[2]

 

アモス書には―

 

 処女イスラエルは倒れて、再び起きないであろう。主エホビはこのように言われる、千人出て行ったイスラエルの都には百人残り、百人出て行った都には十人残るであろう(アモス5・2、3)。

 

 ここには残りのものが語られ、極めて僅かなものしか残されず、『十分の一部分』に過ぎず、または残りのものの中の残りのものであるに過ぎないと言われている。更に―

 

 わたしはヤコブの誇るものとその宮殿を忌み嫌い、その都を、そこに満ち満ちたものを閉じ込め、一つの家に十人が残されていてもその者らは死にさえもするであろう(アモス6・8、9)。

 

 これは殆ど残りはしない残りのものを語っている。モーセの書には―

 

 アンモン人はまたはモアブ人はエホバの集会に入ってはならない、彼らはその十代の者でさえも永遠にエホバの集会に入ってはならない(申命記23・3)。

 

『アンモン人とモアブ人』は信仰の天的な霊的な物を冒涜することを意味しており、その信仰の天的な霊的なものの『残りのもの』が前の記事に語られているのである。

 

 

 

天界の秘義755

 

 しかしそれが(八章の四節におけるように)試練の終りを意味するときは『七』は聖い数であり、これに(残りのものを意味している)『十』が附加されている。なぜなら残りのものが無くては人間は再生することが出来ないからである。

 

 

 

 

4.十分の一税

 

 

天界の秘義576[3]

 

 ここからまた『十分の一』は残りのものを表象していることが明らかである。同様にマラキ書にも―

 

 わたしの家の中に戦利品を置いておくために、あなたらは凡て十分の一のものをわたしの倉の中に持って来なさい、そしてわたしが天の大瀑の戸をあなたらに開いて、祝福をあなたらに開くか、開かないかと、それをもってわたしを試みなさい(マラキ書3・10)。

 

『わたしの家の中に戦利品を置いておくために』は内なる人の中の残りのものを意味していて、それは戦利品に譬えられているが、それは残りのものが極めて多くの悪と誤謬の間に秘かに忍び込んで来るかのように入って来て、その残りのものにより凡ゆる祝福が来るためである。人間の仁慈は凡て内なる人の中に在る残りのものより来ることもまたユダヤ教会で以下の法令により表象されたのである、即ち彼らは十分の一税をことごとく捧げ終わった時、レビ人に、他国の者に、父のいない者に、寡婦に与えねばならない、(申命記26章12節以下)。

 

 

 

天界の秘義576[4]

 

残りのものは主のみのものであるため、十分の一のものは『エホバに聖いもの』と呼ばれているのである、例えばモーセの書には―

 

 地の十分の一はことごとく地の種子の十分の一も、木の果実の十分の一もエホバのものであって、エホバに聖いものである、牛と羊の十分の一はことごとく、何であれ、(牧者の)棒の下を通るものの十分の一は凡て、その十分の一のものはエホバに聖いものとしなくてはならない(レビ記27・30、31)。

 

 十戒が『十』の教令から、または『十』の言葉から成り、エホバはそれを板石の上に書かれたことは(申命記10・4)残りのものを意味しており、それらがエホバの御手により記されたことは残りのものは主のみのものであることを意味しており、それらが内なる人に在ることは板石により表象されたのである。

 

 

 

天界の秘義1738

 

 「そして彼は彼(メルキゼデク)に凡てのものの十分の一を与えた」(創世記14・20)。これは勝利から派生してくる残りのものを意味していることは、『十分の一』の意義から明白であり、それは(前の576番に語られた)残りのものである。しかし残りのものとは何であるかは前に見ることが出来よう(468、530、560、561、661、1050番)、即ち残りのものとは愛と仁慈との凡ゆる状態であり、従って人間が与えられる無垢と平安との凡ゆる状態である。これらの状態は人間に幼児の頃から与えられるが、しかし人間が成人期に進むにつれて徐々に少なくなる。しかし人間が再生しつつあると、その時彼は前の残りのものの他に、また新しい残りのものを受けるのであり、かくて新しい生命を受けるのである。なぜなら人間が人間となることは残りのものから発しており、または残りのものによっているからである。なぜなら愛と仁慈の状態が無くては、また無垢の状態が無くては―この状態は彼の生命の他の状態へ徐々に入り込んで来るのであるが―人間は人間ではなくなってしまって、いかような野獣よりも悪くなるからである。試練の争闘の中で得られる残りのものがここに意味されているものである。この残りのものがアブラムによりメルキゼデクに与えられた十分の一により意味されているものであり、それらが主が不断の闘争と勝利とにより御自身に得られた愛の凡ゆる天的なものであり、主はその不断の試練と勝利により絶えず主の神的な本質に結合され給いつつあって、遂にはその人間的な本質も同様に愛になられ、または生命の存在、すなわち、エホバになられたのである。

 

 

 

 

天界の秘義3740

 

「あなたがわたしに与えられる凡てのものはその十分の一を十分の一税としてわたしはあなたに捧げましょう」。これは主は主御自身の力により凡ゆるものを全般的にも個別的にも神的なものになされたことを意味していることは以下から明白である、すなわち、『与えること』の意義は、それが主について述べられている時は、主が主御自身に与えられたということであり、かくてそれは主御自身の力によっていたということであり、『十分の一を捧げること』の、また『十分の一税』の意義は主により人間の内部に蓄えられる善と真理であり、その善は『残りのもの』と呼ばれているのである(576、1738、2380番)。これらのものが主について述べられている時は、それらは主が主御自身の力により御自身に得られた神的善と神的真理である(1738、1906番)。

 

 

 

真の基督教286

 

この偉大な聖さと力が律法の中に宿っていたのは、それが、凡ゆる宗教の総計と本質とを包含したためである。何故なら、それは二枚の石板の上に記され、その一枚は神に対する凡ゆる義務の総計であり、他の一枚は人間に対する凡ゆる義務のそれであったからである。それ故、律法の誡律は「十の言」と呼ばれている(出エジプト記34・28、申命記4・13、10・14)。十以上の言葉があったけれど、そのように呼ばれているのは、十は凡てを意味し、言は真理を意味するからである。十は凡てを意味し、十分の一、或は十一税はその意義のために定められたことは、「黙示録の啓示」(101番)に見られることが出来よう。律法は全宗教の総計と本質であることは以下の頁に見られるであろう。

 

 

 

啓示による黙示録解説101

 

『十の角』により多くの力が意味されている。『十』の数の意義が充分な〔完全な〕もの、多量、多数であるため、なぜ以下のことが定められたかが理解されよう―

 

 地の産物の凡てのものの十分の一がエホバに捧げられ、エホバによりアロン人とレビ人たちに与えられた(民数記18・24、28、申命記14・22)。

 

またなぜアブラムがメルキゼデクに凡ゆるものの十分の一を与えたかも理解されるであろう(創世記14・18、20)。なぜならこのことにより、かくて彼らの得たものは凡てエホバから与えられて、聖められたことが意味されたからである(マラキ3・10)。

 

 

 

天界の秘義8972〔2〕

 

 主からイスラエルの子孫に定められ、命じられもした律法は、『戒め』、『審判〔掟〕』、『教令〔法令〕』に分けられた。生命〔生活〕に属したものは『戒め』と呼ばれ、法治国に属したものは『審判〔掟〕』と呼ばれ、礼拝に属したものは『教令〔法令〕』と呼ばれたのである。特に『審判』については、それは本章に、また本章以下の幾多の章に含まれているものである。それらは天界と教会とに属している内なるものが外なるものにより表象されている教会では律法として役立ったのである。しかしそれらは、基督教会内のように、内なる物が最早外なる物により表象されていない教会では律法としては役立たないのである。その理由はこの教会の人間には内なる物が啓示され、それで天界との交流が内なるものにより行われて、以前のように外なるものによっては行われはしないということである。これが基督教会の人は『審判〔掟〕』、と『教令〔法令〕』と呼ばれているものをその外なる形で守る必要はなくて、それをその内なる形で守らねばならない理由となっている。にも拘らずその中に聖いものが宿っていることは、生贄について聖言に命じられている一切の物と同じく、それがその内に聖い事柄を含んでいるためである。こうした物は廃止されてしまったものの、それでもそれはその中に在って、それにより表象されている神的なものにより聖言の聖いものとなっているのである。なぜならそれが基督教徒により読まれている時、その中に在って、表象された神的なものが諸天界で認められ、天使たちを聖いもので満たすと同時に、その天使たちから発する流れが、(それを)読んでいる人間を、特にその人間自身がその中に存在している神的なものを考えるなら、満たすからである。このことから旧約聖書の聖言さえも極めて極めて聖いものであることが明らかである。

 

 

 

 

生命61

 

これが十分の一税の起原である、なぜなら『十分の一税』(または『一割』)は凡ゆるものからとった僅かなものを意味するからである。

 

 

 

 

 

5.主が眺められるものはその捧げ物の中にある意志

 

 

天界の秘義9293

 

人間の行為はその人間の意志と共に観察される時は、それはそうした運動ではなくて、眼前に示された意思の形である。なぜなら行為は意志に属した事柄を立証するもの以外の何ものでもなく、またその霊魂または生命を意志から得ているからである。それで運動について言われることと同じことが行為についても言われることが出来るのである。即ち、ちょうど運動には努力がないなら生きたものは何一つ無いように、行為にも意志が無いなら生きたものは何一つ無いのである。それがそうであることもまた人間に知られているのである。なぜなら理知的な者は人間の行為に注意しないで、その行為が発生してくる源泉であり、手段であり、目的でもあるその意志にのみ注意するからである。否、賢明な者はその行為を殆ど見はしないで、その行為の中にある意志の性質と量のみを見るのである。捧げ物の場合も同じであって、主が眺められるものはその捧げ物の中にある意志である。従ってエホバ―即ち、主―に捧げられた捧げ物により意志に、または心に属した事柄が意味されているのである。人間の意志は聖言ではその『心(心情)』と呼ばれているものである。

 

 

 

 

6.マリア・ワルトルタ 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/8卷上P215/518・6

 

「いいえ。あなた方の言うことは正しくありません。あなた方は、苦しみたくない、それは確かです。けれども、あなた方は、民衆が苦しむのを悲しみません。それどころか、支配者の苛酷さに、あなた方の厳しさを加えているほどです。一般の人びとに、重い十分の一税を課すなどの方法で。わたしが悪党でないと、誰があなた方に保証してくれるかって? わたしの行いに聞きなさい。わたしは、ローマに加担する者ではありません。その反対に、ローマの手を軽くさせます。支配者たちに、人間的思い遣りを勧め、支配される民には、忍耐を勧めます。少なくとも、それだけは」。

 人びとが集まり、どんどん数が増える。主要道路では交通の妨げになるので、全員で小道へ移る。アーチの下で声が反響する中で、人びとは同意を示す、「十分の一税について、まさにこの方の言うとおりだ! 本当だ! この方は、わたしたちには服従を、ローマ人には温情を助言する」。

 ファリサイ派の人びとは、いつものように、群衆が同意を示すことを苦々しく思い、キリストへの口調をもっと厳しくする「そんなに多くの言葉を用いずに答えなさい。あなたがメシアであることを証明しなさい」。