残りのもの

 

 

十、十分の一無垢

タラントンのたとえ(マタイ25章)

人間宗教教育

 

 

 

 

1.主はそれらを人間に知られぬままに人間の中に保存され、貯えておかれる

2.残りのものが人間各々の中に主により保存されないなら、彼は永遠に滅びなくてはならない

3.善と真理の光は主から発して残りのものから、または残りのものを通して流れ入っている

4.主により内的な人の中に貯えられた善と真理

6.洪水以前の人々は遂には殆ど残りのものは何一つ持たなくなった底のものであった

7.その時彼は真理を冒涜し、自分自身から残りのものを剥ぎ取ってしまう

8.『十』によりここでは天的な物の残りのものとそこから由来してくる霊的なものの残りのものが意味されている

9.人間の仁慈は凡て内なる人の中に在る残りのものより来る

10.十戒

 

11.残りのものに対する道が閉ざされる時は、人間は最早人間ではなくなってしまう

12.人間がその幼少の頃から主から得て、学んだところの、無垢の凡ての物、仁慈の凡ての物、慈悲の凡ての物、信仰の真理の凡ての物

13.人間は準備しない限り、即ち、諸真理と諸善とを供えられない限り、決して再生することは出来ない

14.試練を通して再生しつつある者達の場合には、人間の中の残りのものはその者のもとにいる天使達のために存在しており、天使達はその残りのものから、人間の中に諸々の誤謬を掻き立てて、かくして人間を攻撃する悪霊らに対し人間を防禦するものを引き出すのである

15.残りのものが無くては人間は再生することが出来ない

16.内なる人の中には、善で真のものを求める情愛である残りのものが在るが、外なる人の中には欲念とそこから派生している誤謬が在り、この後のものが征服されて消滅しない限り、内なるものから、即ち、内なるものを通して主から発している善と真理に対する道が開かれない

17.このように保存されているものが人間をその者が成人期に達すると、人間であることが出来るようにさせるものである

20.人間が再生しつつあると、その時彼は前の残りのものの他に、また新しい残りのものを受けるのであり、かくて新しい生命を受ける

 

21.人間が身体の生命の中で受け入れた残りのものが多大であればある程、即ち、善と真理とが多大であればある程、その爾余の彼の状態も、それが帰って来る時、益々歓ばしく、また美しく現われて来る

22.真理の残りのもの

23.あなたをよく調べると、我が聖なる名に対する 高貴な火花が見えた

24.人間は天界と残りのものにより交流している

25.善がそれ自身を明らかに示す以前の、真理の承認[真理を承認すること]、また真理に対する情愛

27.善いものは一つとして、また真のものも一つとしてそれが主から発していなくては存在しない

28.タラント

29.いかような宗教の者でも、もしその者が仁慈の生活により善の残りのものを、また外観的な真理の残りのものを受け入れてさえいるならば救われる

30.人がどれほど悪く曲がった生き方をしていようとも、人の性質の中には、決して罪に傾かない聖なる火花、聖なる要素が存在する

31.善の情愛

33.最初の時代に主から無垢が流入しないなら、人間に特有な知的な、または合理的な能力がその上に据えられる基礎は決して存在しない

34.『都の中に食物を貯えて、守ること』

35.残りのものの充分なものがまたマルコ伝の『三十』、『六十』、『百』により意味されている

36.骨に関連した者たちには霊的な生命はいかに僅かしかないかが私に示された

37.信仰と仁慈の凡ゆるものが主から発していることを承認する時、“門”すなわち主から入る、なぜならその時これらのものが主から流れ入るからである

 

 

 

 

 

1.主はそれらを人間に知られぬままに人間の中に保存され、貯えておかれる

 

 

天界の秘義259

 

 『かかと[くびす]』により最低の自然的なものが、または形体的なものが意味されていることは、最古代の人々が人間の種々なものを考えた方法が知られない限り、知ることは出来ない。彼らは人間の天的な霊的なものを頭と顔に帰し、(仁慈と慈悲のような)そこから生まれてくるものを胸に、自然的なものを足に、最低の自然的な形体的なものをかかと[くびす]に帰したが、単にそれらをそこに帰したのみでなく、それらをそのように呼びもしたのである。理性の最低のもの、即ち、記憶知もまたヤコブがダンについて予言したものにより意味されたのである―

 

 ダンは道の上の蛇、小道の上の毒蛇となり、馬のかかとを噛むと、それに乗った者は後へ倒れる(創世記49・3)。

 

 またダビデの書に―

 

 わたしのかかとの不法はわたしを取り囲んだ(詩篇49・5)。

 

 同様にヤコブが母胎から出て来た時彼について述べられていることによっても意味されている―

 

 彼の手はエソウのかかとを掴んだ、そこから彼はヤコブと名づけられた(創世記25・26)。

 

『ヤコブ』により意味されているユダヤ教会はかかとを傷つけるため、ヤコブの名は『かかと』から来ているのである。蛇は単に最低の自然的なものを害うことが出来るのみである、しかしそれは蝮の種類でない限り、人間の内的な自然的なものを害うことは出来ないし、まして彼の霊的なものは害うことは出来ないし、その天的なものは些も害うことは出来ないのであり、主はそれらを人間に知られぬままに人間の中に保存され、貯えておかれるのである。主によりこのように貯えられたものは聖言では残ったものと呼ばれている。蛇が洪水以前の人々の中の最低の自然的なものを感覚的な原理と自己への愛により破壊し、ユダヤ人の間では、感覚的なものと伝承と些末事と自己と世を求める愛により破壊してしまった方法は、また蛇が今日もいかようにして、感覚に、記憶知に、哲学に属したものにより、同時にその同じ愛によりその最低の自然的なものを破壊してしまったか、また破壊し続けているかは、主の神的慈悲の下に今後述べよう。

 

 

 

天界の秘義1450

 

愛の天的なものとはエホバに対する愛と隣人に対する愛であり、またそれらの愛における無垢そのものである。これらのものから、他の凡てのものが全般的にもまた個別的にも生命の源泉そのものから流れ出るように流れ出るのである、なぜなら他の凡てのものは単にそこから派生したものに過ぎないからである。この天的なものは人間の中へ主としてその幼少の頃から子供時代までの人間の状態の中に、事実、人間に知られぬままに徐々に注ぎ込まれるのである、なぜならそれらは、人間が愛とは何であるか、情愛とは何であるかを知る以前に、主から流れ入って、人間を動かすからであって、このことは幼児の状態から、また後には初期の子供時代の状態から認めることが出来よう。人間におけるこれらのものは幾度も語った残りのものであり、後の生命の中で役立つために主から徐々に注ぎ込まれて、貯えられるのである(そのことについては468、530、560、561、660、661番を参照)。

 

 

 

天界の秘義1555[2]

 

いかようにして人間は真の知恵に至るかを知っている者は、たとえいるにしても、僅かしかいない。理知は知恵ではなく、知恵に導くのである。なぜなら真で善いことを理解することは真で善いものであることではなく、賢いことが真で善いことであるからである。知恵は生命にのみ述べられるのである、すなわちその人間はそうした者であると言われるのである。人間は知ることを手段として、すなわち知識(scientae et cognitiones)を手段として知恵に、または生命に導入されるのである。人間各々の中に意志と理解の二つの部分があり、意志は第一次的な部分であり、理解は第二次的な部分である。死後の人間の生命はその意志の部分に順応していて、その知的な部分には順応していない。意志は人間の中に幼少期から子供時代にかけ主により形成されつつあり、それは密かに注ぎ入れられる無垢により、また両親、乳母、同じ年頃の子供たちに対する仁慈により、また人間には全く知られていないが、天的なものである他の多くのものにより行われるのである。こうした天的なものが先ず人間の中へ幼少期と子供時代に徐々に(秘かに)注がれない限り、かれは決して人間となることはできないのである。このようにして最初の面が形成されるのである。

 

 

 

天界の秘義1618

 

礼拝により、内意では、愛と仁慈とを通して連結することがことごとく意味されている。人間は愛と仁慈との中にいる時は、絶えず礼拝(の状態)の中にいるのであって、外なる礼拝は単にその結果に過ぎない。天使たちはこうした礼拝の中におり、それで彼らのもとには不断の安息日があり、このことから安息日はその内意では主の王国を意味している。しかし人間は、世にいる間は、必ず外なる礼拝をもまた守らなくてはならないのである。なぜなら外なる礼拝により内なるものが刺激され、外なる礼拝によって内なるものが聖く保たれ、かくして内なるものがその中へ流れ入ることが出来るからである。更に人間はこのようにして知識を与えられて、天的なものを受ける備えをしており、また例え人間はそのことに気づかないにしても、聖い状態を与えられ、この聖い状態は永遠の生命に役立つために主により彼に保存されるのである、なぜなら他生では人間の生活のあらゆる状態が帰ってくるからである。

 

 

 

天界の秘義5128[5]

 

交流の道を閉じ込めるのみでなく、人間から合理的なものになる能力を剥奪してしまう二つのもの、即ち詐欺と冒涜とが在る。詐欺は内部を知らぬ間に侵してしまう毒のようなものであり、冒涜は真理に誤謬を、善に悪を混入し、この二つのものを通して合理的なものは全く死滅してしまうのである。人間各々には幼少の頃から主から善と真理とが貯えられ、それが聖言では『残りのもの』と呼ばれ(468、530、560、561、661、1050、1738、1906、2284番を参照)、この残りのものは詐欺により犯され、冒涜により悪と誤謬を混入させられるのである(冒涜とは何であるかは前の593、1008、1010、1059、1327、1328、2051、2426、2398、3402、3489、3898、4289、4601番に見ることが出来よう)。これらのしるしからたれが合理的な人間であり、たれが感覚的な人間であるかを或る程度知ることが出来よう。

 

 

 

 

2.残りのものが人間各々の中に主により保存されないなら、彼は永遠に滅びなくてはならない

 

 

天界の秘義468

 

 前章に述べられ、また示されたことから名により異端と教義が意味されることが明らかである。ここから本章の名によっても人物が意味されないで、事物が意味されており、現在の場合最古代教会から実にノアに至るまでもこうむった数々の変化にも拘らず尚保存された教義または教会が意味されていることを認めることが出来よう。しかし教会は時の経過と共に衰退して、遂には少数の者の間にしか存続しないということが教会各々の実情であって、洪水の時にその教会がそのもとに存続していた少数の者が『ノア』と呼ばれたのである。

 

 

 

天界の秘義468[]

 

真の教会は衰退してしまって、少数の者の許にしか存続しなくなることはそのように衰退して行った他の諸教会から明らかである。残された者は聖書に『残りの者』『残った者』と呼ばれ、『地の真中に』または『真中に』いると言われている。そしてこのことは全般的なものにあてはまると同じく個別的なものにもあてはまり、または教会にあてはまると同じく、各個人にもあてはまっている。なぜなら霊的な天的な生命が残りのものの中に在る以上、その残りのものが人間各々の中に主により保存されないなら、彼は永遠に滅びなくてはならないからである。全般的なもの、または普遍的なものも同じであって、教会または真の信仰がそのもとに存続している若干の者が常に存在しなくては、人類は滅んでしまうのである。なぜなら一般に知られているように、一つの都が、否、一つの国全体が少数の者のために救われるからである。この点では教会も人間の身体も同じである。心臓は健全である限り、その近くの内臓に対し生命は可能となるが、心臓が衰弱するとき、身体の他の部分は栄養の吸収が不可能となって、人間は死んでしまうのである。最後の残りの者は『ノア』により意味される者である。なぜなら(次章の12節のみでなく他の箇所からも明らかなように)全地は腐敗してしまったからである。

 

 

 

天界の秘義468[]

 

 教会全般のみでなく個人各々の中にも存在している残ったものについて、多くの事が予言者の書に言われている、例えばイザヤ書には―

 

 シオンに残された者、エルサレムに残っている者は、まことにエルサレムに生きる者の中に記された者は各々、主がシオンの娘の汚れを洗われ、エルサレムの血をその真中から洗い去られる時、主に聖いものと呼ばれるであろう(イザヤ4・3、4)。

 

 この記事では聖さは残ったものについて述べられているが、この残ったものにより教会の残りのものと教会の人間の残りのものが意味されているのである、なぜならシオンとエルサレムに『残った者』は単に『残っている』ためで聖くは有り得ないからである。更に―

 

 その日イスラエルの残りのものとヤコブの家の者で逃れた者は彼らを打った者に重ねて頼らなくなり、真にイスラエルの聖者エホバに真実をもって頼るようになるであろう。その残った者、ヤコブの残った者は大能の神に帰るであろう(イザ10・20、21)

 

 エレミヤ記には―

 

 その日には、その時には、イスラエルの不法は探し求められるが、一つとして存在しないであろう、ユダの罪も(探し求められるが)見出されはしないであろう。わたしが残った者とする者をわたしは赦すからである(エレミヤ50・20)。

 

 ミカ書には―

 

 ヤコブの残りの者は、エホバから降った露のように、草の上のにわか雨のように、多くの民の間にいるであろう(ミカ5・7)。

 

 

 

天界の秘義468[]

 

 人間または教会の残部または残りのものも亦聖い十分の一により表象され、ここからまた十を含んだ数は聖く、それで十は残ったものについて述べられている、例えばイザヤ書には―

 

 エホバは人を移されるであろう、そして多くの物が地の真中に残されるであろう、それでもその中に十分の一の部分が在り、帰ってくるが、根絶されるであろう、樫の木と冬青(そよご)からその幹が取り去られる時のようであり聖い種がその幹である(イザヤ6・12、13)。

 

 ここでは残ったものは『聖い種』と呼ばれている。アモス書には―

 

 主エホビはこのように言われる、一千人となって出て行く都は百人を殺され、百人となって出て行く都はイスラエルの家に十人を残されるであろう(アモス5・3)。

 

 このまた他の多くの記事には内意では我々の語っている『残りのもの』が意味されているのである。都は教会の残った者のために保存されることはソドムについてアブラハムに語られたことから明らかである―

 

 アブラハムは言った、恐らくそこに十人の者が見出されるかもしれません、エホバは言われた、わたしは十人のためにそれを滅ぼしはしない(創世記18・32)。

 

 

 

天界の秘義560

 

 わたしたちは先に進む前に、洪水以前の教会の実情は如何ようなものであったかを記して良いであろう。全般的に言うと、それは真の信仰の諸々の知識を腐敗させ、不善化した点で、それに続いた諸教会と同様であり、主の降臨以前のユダヤ教会と同様であり、主の降臨以後の基督教会と同様であったが、特に洪水以前の教会の人間については、彼は時が経つにつれて、恐るべき信念を抱いて、信仰の諸々の善と真理を醜悪な諸々の欲念に浸し、かくて彼らの中には殆ど如何ような残りのものも無くなってしまったのである。彼らはこの状態に入ると、恰も自分自身から窒息するかのように窒息してしまったのである、なぜなら人間は残りのものがなくては生きることは出来ないからである。なぜなら私たちが述べたように人間の生命が獣の生命よりも優れているのは、残りのものによっているからである。残りのものから、即ち、主から残りのものを通し、人間は人間として存在し、善い真のものを知り、凡ゆる種類の事柄を反省し従って考え、論じることが出来るのである、なぜなら残りのものの中にのみ霊的な天的な生命が存在しているからである。

 

 

 

天界の秘義561

 

 しかし残りのものとは何であるか。それは人間が幼少の頃から主の聖言から学び、かくしてその記憶に刻み付けた諸々の善と真理であるのみでなく、そこから由来している凡ゆる状態であり、例えば、幼少の頃からの無垢の状態、といったものであり、すなわち両親、兄弟、教師、友に対する愛の状態であり、隣人に対する仁慈の状態であり、また貧しい者や困窮した者に対する憐れみの状態であり、約言すると、善と真理の凡ゆる状態である。これらの状態は記憶に刻みつけられた諸善と諸真理と共になって、残りのものと呼ばれ、主により人間の中に保存され、その内なる人の中に、全くその人間に知られることもなしに、貯えられ、人間に固有な物から、即ち諸々の悪と誤謬から完全に分離されているのである。この凡ての状態はその最小のものさえも失われないように主により人間の中に保存されている、このことを私は、人間の状態は尽く、その幼少の頃から極度の老年に至るまでも、他生には残っているのみでなく、また帰っても来て、その状態は丁度その人間がこの世に生きていた間にそれが在ったままに帰ってくるという事実から知ることが出来たのである。記憶の諸々の善と真理はこのように残っていて、帰ってくるのみでなく、また無垢と仁慈の凡ゆる状態も帰って来るのである。そして悪と誤謬の諸々の状態が再起する時―なぜならこれらのものも各々尽く、その最小のものさえもまた残っていて、帰って来るからであるが―その時これらの状態は善い諸々の状態を手段として主により和らげられるのである。この凡てから若し人間は残りのものを持たないならば、必然的に永遠に地獄に堕ちなくてはならないことが明らかである(前の468番に言われたことを参照されたい)。

 

 

 

天界の秘義5897[5]

 

エゼキエル書には―

 

 あなたらが諸国民の間に剣を逃れる者を持つ時、あなたらが地に追い散らされる時、私は爾余の者を作ろう。その時あなたらの中で逃れる者はその捕われて行く諸国民の間で私を憶えるであろう(エゼキエル6・8、9)

 

人間の内部に主により貯えられた善と真理とが、『彼らが追い散らされて、捕虜とされる諸国民の間の爾余の者と残りの者』により表象された理由は、人間は悪と誤謬との間に絶えず置かれ、その悪と誤謬により捕らえられているということである。悪と誤謬とが『諸国民』により意味されているものである。外なる人は、内なる人から分離すると、全く悪と誤謬の中に置かれるのであり、それで人間の中へ、その生涯の歩みの間に、機会のある毎に注ぎ入れられる諸善と諸真理を主が仮にも集められないなら、その人間は全く救われることは出来ないのである、なぜなら残りのものが無いなら何人にも救いは無いからである。

 

 

 

 

3.善と真理の光は主から発して残りのものから、または残りのものを通して流れ入っている

 

 

天界の秘義530

 

 既に述べたように、本章の名により、教会が、またはそれと同一のものである教義が意味されている、なぜなら教会は教義から存在し、教義からその名を得ているからであり、かくて『ノア』により古代教会が、または最古代教会から残った教義が意味されている。教会または教義の実情については既に述べておいた、即ち、それらは信仰の諸々の善と真理の如何ようなものも最早残っていなくなるまでも衰えてしまって、その時は教会は聖言には荒廃してしまったと言われているのである。しかしそれでも依然残りのものが常に保存されており、または信仰の善と真理とがその許に残っている若干の者が、例え少数ではあるが、残っているのである、なぜなら信仰の善と真理とがこの少数の者の中に保存されないならば、天界と人類との連結はなくなるからである。個人的に人間の中に存在している残りのものについて言うならば、それが僅少であればある程、その者が持っている理知と知識の事柄が明らかにされることが出来なくなるのである、なぜなら善と真理の光は主から発して残りのものから、または残りのものを通して流れ入っているからである。人間の中に残りのものが無いならば、彼は人間ではなくなって、獣よりもはるかに卑しいものとなり、残りのものが僅かしか存在しなくなるに応じて、益々彼は人間ではなくなり、残りのものが多く存在しているに応じ、益々彼は人間となるのである。残りのものは空の星に似ており、それが小さければ小さいほど、その放つ光も小さくなり、大きければ大きいほど、益々光は大きくなるのである。最古代教会から残った少数のものはノアと呼ばれる教会を構成した者達の間に在ったが、しかしこれらは認識の残りのものではなくて、完成の残りのものであり、また最古代諸教会の中で認識されたものから由来した教義の残りのものであったのであり、それ故新しい教会が今や主により残されたのであるが、それは最古代諸教会とは全く相違した生来の性格を持っていて、古代教会と呼ばれなくてはならないのである―それはそれが洪水以前の代々の終りに存在し、また洪水以後の第一期の間に存在したという事実から古代と呼ばれなくてはならないのである。この教会については主の神的慈悲の下に、更に今後語るであろう。

 

 

 

天界の秘義1707[3]

 

人間各々における内なる人は主にのみ属している、なぜならそこに主は人間に幼児の頃から与えられる諸善と諸真理とを貯えておかれるからである。そこからこれらのものを通して主は内的なまたは合理的な人の中へ流れ入られ、この内的な、または合理的な人を通して外的な人へ流れ入られ、このようにしてその人間に考えて、人間になることが与えられているのである。しかし内なる人から内的なまたは中間の人へ注がれ、かくして外的な人へ注がれる流入は二重性を持っていて、それは天的なものか、または霊的なものか、その何れかによって行われており、またはそれと同一のことではあるが、善かまたは良心かその何れかを与えられている再生した者にのみ流れ入っており、かくてそれは認識かまたは良心により流れ入っているのであり、そうした理由から天的なものによる流入は主に対する愛と隣人に対する仁慈の中にいる者のもとにのみ存在しているのである。しかし霊的なものまたは真理によっては、主は人間各々のもとに流入されており、この流入がない限り、人間は考えることが出来なくなり、それで語ることも出来なくなるのである。人間が諸善と諸真理とを歪めてしまうといった者になると、また天的な霊的なものを何ら心にかけないときは、その時は天的なものまたは善の流入は無くなってしまって、それらのものに対する道は閉ざされてしまうが、それでも霊的なものまたは真理の流入は存在しているのである、なぜならそうしたものに対する道は絶えず開かれているからである。ここから内的なまたは中間的なものの性質は即ち合理的な人の性質はいかようなものであるかを認めることが出来よう。

 

 

 

 

4.主により内的な人の中に貯えられた善と真理

 

 

天界の秘義530[2]

 

『残りのもの』または『爾余のもの』は時折聖言に記されているが、しかしその両方の表現により単に文字の意義に従って民族または国民の残りの者はたは爾余の者が理解されてきているが、それらは霊的な意義では主により内的な人の中に貯えられた善と真理を意味していることはこれまで全く知られていなかったのである。

 

 

 

天界の秘義2284

 

「恐らく十人がそこに見出されるかもしれません」。これは、依然残りのものが万が一にもあるなら、を意味していることは、『十』の数字の意義から明白であり、それは残りのものである(そのことは第一部576、1738番に説明しておいた)、残りのものとは何であるかは前の色々な所に述べもし、また示しもした、例えば468、530、560、561、660、661、1050、1738、1906番に述べもし、示しもした、即ち、それは人間のもとに人間の記憶の中にまたその生命の中に貯えられているところの凡ゆる善と凡ゆる真理である。

 

 

 

天界の秘義5335

 

残りのものとは、主によって人間の内部に貯えられたところの、善に結合した真理であることについては、468、530、560、561、576、660、1050、1738、1906、2284、5135番を参照

 

 

 

天界の秘義5897

 

主により人間の中に貯えられている真理に結合した善(468、530、560、561、660、1050、1906、2284、5135、5342番)

 

 

 

天界の秘義5899

 

「大いに逃れさせられるのである」(創世記45・7)。

 

これは堕地獄から救い出されることを意味していることは、『逃れること』の意義から明白であり、それは堕地獄から救い出されることであり、その救い出されることは残りのものにより、即ち、主により人間のもとに貯えられた諸善と諸真理により行われるのである。これらの善と真理とを受け入れる者たちは、即ち、その善と真理とが己が内部に植え付けられるのに堪える者たちは堕地獄から逃れて、爾余の者たちの間にいるのである。ここから聖言には『爾余の者』と『残りの者』とが語られている所にはあまねく『逃れる』と言われており、例えば、ここではヨセフにより言われ、また他の所にも言われているのである、

 

 

 

 

6.洪水以前の人々は遂には殆ど残りのものは何一つ持たなくなった底のものであった

 

 

天界の秘義562

 

 洪水以前の人々は遂には殆ど残りのものは何一つ持たなくなった底のものであった、それは彼らは彼らに起った、また彼らの思いに入ってきた凡てのことについて恐るべき忌まわしい信念に惑溺してしまうといった資質を持っており、かくてそこから些かなりとも後退しようとはしなかったためである、なぜなら彼らは最も法外な自己愛に取りつかれて、自分自身が神のようなものであると考え、自分の考えるものはことごとく神的なものであると考えたからである。このような信念はそれ以前のまたはそれ以後の如何なる人々の中にも決して存在しなかったのである、なぜならそれは致死的なものであり、または窒息させるものであり、それで他生では洪水以前の人々は他の霊と共にいることは出来ないのである、なぜなら彼らは共になると、その恐ろしい心で決めた信念を、他の事柄は言わずもがな、注入することにより、彼らから凡ゆる考える力を奪い去ってしまうからである、その他の事柄については主の神的慈悲の下に以下に述べよう。

 

 

 

天界の秘義563

 

 このような信念が人間を占領すると、それは若しそうした信念に人間がとりつかれないならば残りのものとなる諸々の善と諸々の真理をねばねばする糊の中に抱き込んでしまう膠のようなものになり、その結果残りのものは最早貯えられることが出来なくなり、貯えられたものも用に立つことが出来なくなり、それでこれらの人々はそのような信念の絶頂に達した時、自分自身から進んで死滅してしまったのであり、洪水に似ていなくはない(悪と誤謬の)氾濫により窒息してしまったのである、それ故彼らの死滅は『洪水』に譬えられ、また最古代の人々の慣に従い、洪水として記されているのである。

 

 

 

 

7.その時彼は真理を冒涜し、自分自身から残りのものを剥ぎ取ってしまう

 

 

天界の秘義571

 

 人間が信仰の真理をその狂った欲念に惑溺させてしまうような性格のものになると、その時彼は真理を冒涜し、自分自身から残りのものを剥ぎ取ってしまうのであり、それは残ってはいるけれども、現れることは出来ないのである、なぜならそれは現れると直ぐに汚れた物により再び汚されてしまうからである、なぜなら聖言を冒涜すると謂わば無神経になり、そのため障害が生まれて、残りのものの善と真理が吸い込まれてしまうからである。それ故人は主の聖言を冒涜しないように警戒しなくてはならない、その中には生命が宿っている永遠の諸真理が含まれているのである、例え誤った原理の中にいる者らはそれが真理であることを信じてはいないにしても。

 

 

 

 

8.『十』によりここでは天的な物の残りのものとそこから由来してくる霊的なものの残りのものが意味されている

 

 

天界の秘義575

 

聖言の『十』の数は、『十分の一』と同じく、主により内なる人の中に保持され、またそれが主のみのものであるため、聖いものである残りのものを意味し、表象しており、『十二』の数は信仰を意味し、または信仰に関わる凡てのものの一つの統合体を意味しており、それ故この数から成った数は信仰の残りのものを意味しているのである。

 

 

 

天界の秘義576

 

あなたらは正しい秤を、正しいエパを、正しいパテを用いなくてはならない、エパとパテをその量は同一でなくてはならない、即ち、パテもホメルの十分の一を容れ、エパもホメルの十分の一を容れなくてはならない。その量はホメルに従って定めなくてはならない。油の定まった分は一コルの中から一パテの十分の一、十パテ、一ホメルでなくてはならない、十パテは一ホメルであるからである(エゼキエル書45・10,11,14)。

 

この記事ではエホバの聖いものは量により取扱われ、これにより色々な種類の聖いものが意味されており『十』によりここでは天的な物の残りのものとそこから由来してくる霊的なものの残りのものが意味されている、なぜならこのような聖いアルカナがその中に含まれていない限り、本章とまたその同じ予言者の書の前の章において―そこでは天界のエルサレムと新しい神殿が主題となっているが―数で決定されているかくも多くの量が記されているが、そうしたものを何のために、また何の意図から記す筈があろうか。

 

 

 

 

9.人間の仁慈は凡て内なる人の中に在る残りのものより来る

 

 

天界の秘義576[3]

 

 ここからまた『十分の一』は残りのものを表象していることが明らかである。同様にマラキ書にも―

 

 わたしの家の中に戦利品を置いておくために、あなたらは凡て十分の一のものをわたしの倉の中に持って来なさい、そしてわたしが天の大瀑の戸をあなたらに開いて、祝福をあなたらに開くか、開かないかと、それをもってわたしを試みなさい(マラキ書3・10)。

 

『わたしの家の中に戦利品を置いておくために』は内なる人の中の残りのものを意味していて、それは戦利品に譬えられているが、それは残りのものが極めて多くの悪と誤謬の間に秘かに忍び込んで来るかのように入って来て、その残りのものにより凡ゆる祝福が来るためである。人間の仁慈は凡て内なる人の中に在る残りのものより来ることもまたユダヤ教会で以下の法令により表象されたのである、即ち彼らは十分の一税をことごとく捧げ終わった時、レビ人に、他国の者に、父のいない者に、寡婦に与えねばならない、(申命記26章12節以下)。

 

 

 

 

10.十戒

 

 

天界の秘義576[4]

 

残りのものは主のみのものであるため、十分の一のものは『エホバに聖いもの』と呼ばれているのである、例えばモーセの書には―

 

 地の十分の一はことごとく地の種子の十分の一も、木の果実の十分の一もエホバのものであって、エホバに聖いものである、牛と羊の十分の一はことごとく、何であれ、(牧者の)棒の下を通るものの十分の一は凡て、その十分の一のものはエホバに聖いものとしなくてはならない(レビ記27・30、31)。

 

 十戒が『十』の教令から、または『十』の言葉から成り、エホバはそれを板石の上に書かれたことは(申命記10・4)残りのものを意味しており、それらがエホバの御手により記されたことは残りのものは主のみのものであることを意味しており、それらが内なる人に在ることは板石により表象されたのである。

 

 

 

 

11.残りのものに対する道が閉ざされる時は、人間は最早人間ではなくなってしまう

 

 

天界の秘義660

 

『洪水』により悪と誤謬の氾濫が意味されていることは前に最古代教会の子孫について述べられていることから明らかである、即ち彼らは醜悪な幾多の欲念にとりつかれ、信仰の幾多の教義的なものをその中に浸してしまい、その結果真理と善を尽く消滅させる誤った信念を持つと同時に、残りのものに対する道を閉じてしまい、それが働きかけることも出来なくなってしまったため、彼らは彼ら自身を滅ぼさないわけにはいかなくなったのである。残りのものに対する道が閉ざされる時は、人間は最早人間ではなくなってしまうが、それは彼は最早天使により守られることは出来なくなって、人間を破壊することのみを究め、欲求している悪霊らに全くとりつかれてしまうためである。ここから洪水以前の人々の死が生まれたのであって、それが洪水により、または全的な氾濫により記されているのである。悪霊から流入する諸々の幻想と欲念とは洪水に似ていなくはなく、それでそれは聖言の色々な所に洪水または氾濫と呼ばれている。

 

 

 

天界の秘義3494

 

善の情愛[善に対する情愛]とそこから派生してくる生命の善は『兄』であり、すなわち、長子であることは、幼児たちは先ず善の中にいるという事実から明白である、なぜなら彼らは無垢の状態の中に、両親と乳母に対する愛の状態の中に、その幼馴染に対する相互愛の状態の中にいるという事実から明白であり、それで善は人間各々のもとでは長子である。人間が幼児の時このようにしてその中へ入れられるこの善は残っている、なぜなら何であれ幼児の項から吸引されるものはことごとく生命に入り、そしてそれは残っているため、それは生命の善となるからである、なぜならもし人間がその幼児の頃から取得したような善を仮にも持たないなら、人間は人間ではなくなって、森のいかような野獣よりも野獣性を持つからである。この善は現存しているようには実際見えはしないが、それは幼児の時代に吸引されたものはことごとく自然的なものとしてしか現れないためであり、そのことは歩くことから、身体の他の動作から、市民生活の作法と礼儀から、また言葉やその他種々のものから充分に明らかである。このことから善は『兄』であり、即ち、長子であり、従って真理は弟であり、また後に生まれていることを認めることが出来よう、なぜなら真理はその幼児が子供に、青年に、大人になるまでは学ばれはしないからである。

 

 

 

 

 

12.人間がその幼少の頃から主から得て、学んだところの、無垢の凡ての物、仁慈の凡ての物、慈悲の凡ての物、信仰の真理の凡ての物

 

 

天界の秘義661[]

 

残りのものとは、すでに言ったように、人間がその幼少の頃から主から得て、学んだところの、無垢の凡ての物、仁慈の凡ての物、慈悲の凡ての物、信仰の真理の凡ての物である。これらのものはことごとく貯えられており、もし人間がこれらのものを持たないないら、その思考と行動には無垢と仁慈と慈悲とは些かも在り得なくなり、それで善と真理も些かも在り得なくなり、かくて彼は残忍な野獣よりも悪いものとなってしまうのである。

 

 

 

 

13.人間は準備しない限り、即ち、諸真理と諸善とを供えられない限り、決して再生することは出来ない

 

 

天界の秘義711

 

 人間は準備しない限り、即ち、諸真理と諸善とを供えられない限り、決して再生することは出来ないのであり、まして試練を受けることは出来ないのである。なぜならそのような時彼のもとにいる悪霊が彼の諸々の誤謬と悪とを刺激し、もし諸真理と諸善とが―この諸真理と諸善へ諸々の誤謬が主によってたわめられ[枉げられ]それによって消散させられるのであるが、その諸真理と諸善とが―そこに現存していないならば、彼は屈従してしまうからである。この諸真理と諸善とはこうした用のために主により保存されている残りのものである。

 

 

 

 

14.試練を通して再生しつつある者達の場合には、人間の中の残りのものはその者のもとにいる天使達のために存在しており、天使達はその残りのものから、人間の中に諸々の誤謬を掻き立て、かくして人間を攻撃する悪霊らに対し人間を防禦するものを引き出すのである

 

 

天界の秘義737

 

 「ノアは六百年の息子であった[六百歳であった]」。これは彼の試練の最初の状態を意味していることは、第五章の年代と凡ての名前のように、ここでも、また第十一章のヘベルに至るまでも、数と期間と名前は実際上の事柄以外には何ごとも意味していないため、明白である。この『六百年』は試練の最初の状態を意味していることは六百年の中の支配的な数字から明白であり、それは十と六であって、それが二度掛け合わされているのである。同一の因数から発している数はその大小を問わず何ごとをも変えないのである。『十』の数については、それは残りのものを意味していることは既に(六章三節)に示されたところであり、ここの『六』は労苦と争闘を意味していることは聖言の多くの記事から明白である。なぜなら事実は以下のようであるからである、即ち、前に記された事柄の中では『ノア』と呼ばれた人間の試練に対する準備が主題となっているのである、すなわち彼は主から理解の諸真理と意志の諸善とを供えられたのである。これらの真理と善が残りのものであり、それらは人間が再生しつつあるまでは取り出されて認められはしないのである。試練を通して再生しつつある者達の場合には、人間の中の残りのものはその者のもとにいる天使達のために存在しており、天使達はその残りのものから、人間の中に諸々の誤謬を掻き立てて、かくして人間を攻撃する悪霊らに対し人間を防禦するものを引き出すのである。残りのものが『十』により争闘が『六』により意味されているため、こうした理由からその年は『六百年』であると言われているのであり、その中の支配的な数は十と六であって、試練の状態を意味しているのである。

 

 

 

 

15.残りのものが無くては人間は再生することが出来ない

 

 

天界の秘義755

 

 しかしそれが(八章の四節におけるように)試練の終りを意味するときは『七』は聖い数であり、これに(残りのものを意味している)『十』が附加されている。なぜなら残りのものが無くては人間は再生することが出来ないからである。

 

 

 

 

16.内なる人の中には、善で真のものを求める情愛である残りのものが在るが、外なる人の中には欲念とそこから派生している誤謬が在り、この後のものが征服されて消滅しない限り、内なるものから、即ち、内なるものを通して主から発している善と真理に対する道が開かれない

 

 

天界の秘義857

 

 『水は行ったり、減ったりしていた。』これは幾多の誤謬が見えなくなり始めたことを意味していることは、『水は行ったり、帰ったりしながら、退いた』と言われている前のところで示されたことから明らかであるのみでなく、言葉そのものからも明らかである。しかしながらここには『水は行ったり、減ったりしつつあった』と言われ、このことにより、前の句のように、真のものと誤ったものとの間の動揺が意味されているが、しかしここではその動揺は減退しつつあったことが意味されている。(前に言ったように)試練の後の動揺の実情は、人間は(その際)真理とは何であるかを知っていないが、徐々に動揺が止むにつれ、真理の光が現れてくるということである。この理由は人間はこのような状態にいる限り内なる人は、即ち内なる人を通して主は外なる人に働きかけられることが出来ないということである。内なる人の中には、前に言ったように、善で真のものを求める情愛である残りのものが在るが、外なる人の中には欲念とそこから派生している誤謬が在り、この後のものが征服されて消滅しない限り、内なるものから、即ち、内なるものを通して主から発している善と真理に対する道が開かれないのである。

 

 

 

 

17.このように保存されているものが人間をその者が成人期に達すると、人間であることが出来るようにさせるものである

 

 

天界の秘義1050

 

「そして凡ての肉の生きた魂の各々」。これは全人類を意味していることは、『凡ての肉の生きた魂』の意義から明白である。人間はことごとくその内に在る生きたものから生きた魂と呼ばれている。たれでももしその者が自分の中に生きたものを持たないならば、即ち、もし、無垢の、仁慈の、慈悲の何かを持っていないならば、または、そこから発してそれに似ている、またはそれに匹敵している何かを持っていないならば、決して生きることは出来ないのであり、まして人間として生きることは出来ないのである。この無垢の、仁慈の、慈悲の何かを人間は主から幼児と子供の時代の間に受けるのであって、そのことは幼児の状態から、また子供時代の状態から明白である。その人間がその時受けるものは彼の中に保存され、そして保存されたものは聖言では残りのものと呼ばれ、それは人間の中にある主のみのものである。このように保存されているものが人間をその者が成人期に達すると、人間であることが出来るようにさせるものである。(残りのものについては前に言ったことを参照されたい。468、530、560−563、576番)。

 

 

 

天界の秘義1050[2]

 

人間が幼児の項また子供時代の年月の間に得た無垢、仁慈、慈悲の状態が彼を人間であることが出来るようにすることは以下のことから明白である。即ち、人間は獣とは異なって、生まれても生命を何ら活動させることが出来ないのであって、すべてのことを学ばねばならないのであり、そしてその学んだものは活動させることによって習慣的なものとなり、かくて彼にはいわば生来的なものとなるのである。彼は学ばないうちは歩いたり、話したりすることも出来ないのであり、他の凡てのことも同じである。用いることにより、これらのものは彼にいわば生来的なものとなるのである。彼が同じように幼児の頃から吹き込まれる無垢の、仁慈の、慈悲の状態も同様である―この状態が無いなら彼は獣よりも遥かに卑しいものになるであろう。しかもこれらは人間が学ぶのではなくて、主から賜物として受ける状態であって、主はそれを人間の中に保存されるのである。信仰の諸真理と共に、それらはまた『残りのもの』と呼ばれるものであって、主のみのものである。人間が成人期にこの状態を消滅させるに応じ、彼は死んだものとなるのである。人間は再生しつつある時、これらの状態は再生の始まりであって、彼はその状態の中へ導かれるのである、なぜなら既に述べたように、主は残りのものを通して働かれるからである。

 

 

 

天界の秘義1050[3]

 

人間各々におけるこれらの残りのものがここに『凡ての肉の生きた魂』と呼ばれるものである。『凡ての肉』が人間各々を意味し、かくて全人類を意味していることは聖言の至るところの『肉』の意義から明白である(574番に示された所を参照)。例えばマタイ伝には―

 

その日が短くされなくては、肉は一人として救われないであろう(24・22、マルコ13・20)。

 

ヨハネ伝には―

 

 イエスは言われた。父よ、あなたが凡ての肉を治める力をあなたの子に与えられたように、あなたの子を栄えあらしめたまえ(17・2)。

 

 イザヤ書には―

 

 そしてエホバの栄光があらわれ、凡ての肉はともにそれを見るであろう(40・5)。

 

 さらに―

 

 そして凡ての肉はエホバ、わたしがあなたの救い主であることを知るであろう(49・26)。

 

 

 

 

20.人間が再生しつつあると、そのとき彼は前の残りのものの他に、また新しい残りのものを受けるのであり、かくて新しい生命を受ける

 

 

天界の秘義1738

 

 「そして彼は彼に凡てのものの十分の一を与えた」(創世記14・20)。これは勝利から派生してくる残りのものを意味していることは、『十分の一』の意義から明白であり、それは(前の576番に語られた)残りのものである。しかし残りのものとは何であるかは前に見ることが出来よう(468、530、560、561、661、1050番)、即ち残りのものとは愛と仁慈との凡ゆる状態であり、従って人間が与えられる無垢と平安との凡ゆる状態である。これらの状態は人間に幼児の頃から与えられるが、しかし人間が成人期に進むにつれて徐々に少なくなる。しかし人間が再生しつつあると、その時彼は前の残りのものの他に、また新しい残りのものを受けるのであり、かくて新しい生命を受けるのである。なぜなら人間が人間となることは残りのものから発しており、または残りのものによっているからである。なぜなら愛と仁慈の状態が無くては、また無垢の状態が無くては―この状態は彼の生命の他の状態へ徐々に入り込んで来るのであるが―人間は人間ではなくなってしまって、いかような野獣よりも悪くなるからである。試練の争闘の中で得られる残りのものがここに意味されているものである。この残りのものがアブラムによりメルキゼデクに与えられた十分の一により意味されているものであり、それらが主が不断の闘争と勝利とにより御自身に得られた愛の凡ゆる天的なものであり、主はその不断の試練と勝利により絶えず主の神的な本質に結合され給いつつあって、遂にはその人間的な本質も同様に愛になられ、または生命の存在、すなわち、エホバになられたのである。

 

 

 

 

21.人間が身体の生命の中で受け入れた残りのものが多大であればある程、即ち、善と真理とが多大であればある程、その爾余の彼の状態も、それが帰って来る時、益々歓ばしく、また美しく現われて来る

 

 

天界の秘義530

 

個人的に人間の中に存在している残りのものについて言うならば、それが僅少であればある程、その者が持っている理知と知識の事柄が明らかにされることが出来なくなるのである、なぜなら善と真理の光は主から発して残りのものから、または残りのものを通して流れ入っているからである。人間の中に残りのものが無いならば、彼は人間ではなくなって、獣よりもはるかに卑しいものとなり、残りのものが僅かしか存在しなくなるに応じて、益々彼は人間ではなくなり、残りのものが多く存在しているに応じ、益々彼は人間となるのである残りのものは空の星に似ており、それが小さければ小さいほど、その放つ光も小さくなり、大きければ大きいほど、益々光は大きくなるのである。

 

 

 

天界の秘義1906

 

 「アブラムがカナンの地に住んだ十年の後で」。これは主が御自身に取得されたところの、またかの合理的なものが身ごもった手段となったところの、善の残りのものとそこから派生した真理の残りのものとを意味していることは、『十』の意義から明白であり、それは残りのものであって、そのことについては前に述べておいた(576番)。残りのものとは何であるかは前に述べ、また示したところである(468、530、560、561、660、661、798、1050番)、即ち、残りのものとは人間が幼児時代の最初期から生命の終りに至るまでさえも、主から与えられる善と真理の情愛の凡ゆる状態であり、その状態は死後彼の生命に役立つために彼のために貯えられるのである、なぜなら他生の中で彼の生命の凡ゆる状態が継続して帰って来て、その時彼が主から与えられている善と真理との幾多の状態により調整されるからである。それで人間が身体の生命の中で受け入れた残りのものが多大であればある程、即ち、善と真理とが多大であればある程、その爾余の彼の状態も、それが帰って来る時、益々歓ばしく、また美しく現われて来るのである。これが真にそうであることはたれにでも、もしその者が考えてみるなら、明白になるであろう。人間は生まれた時は、その者自身では一片の善も持ってはいないで、遺伝悪のために全く徹底的に汚れており、両親、乳母、仲間に対する彼の愛といった、善いものはことごとく流れ入って来るのであり、しかもこれは無垢から発しているのである。こうしたものが最も内なる天界である無垢と平安の天界を通って主から流れ入って来るものであり、このようにして人間はその幼児時代にそれらのものに浸透するのである。

 

 

 

天界の秘義1906 []

 

その後、彼は成長すると、幼児時代のこの善良な、無垢な、平和な状態は徐々に後退して行って、彼が世に入れられるに応じ、その快楽の中へ、欲念の中へ入り、かくて悪の中へ入って行き、幼児時代の天的なまたは善良なものは消滅し始めるが、それでもそれらは残っていて、その人間が着ける、または取得する幾多の状態はそれらのものにより調整される[和らげられる]のである。それらのものがないなら人間は決して人間になることは出来ないのである、なぜなら欲念または悪の状態が善の情愛の状態により緩和されないならば、その状態はいかような動物のそれよりも更に狂悪なものになるからである。この善の状態が残りのものと呼ばれるものであって、主によって与えられて、人間の自然的な性向[気質]の中に植え付けられるものであるが、しかもそれは人間がそれを知らない間に行われるのである。

 

 

 

天界の秘義2284[]

 

残りのものの性質と量とに従って―即ち、人間のもとにある善と真理との性質と量に従って人間は他生で祝福と幸福とを楽しむのである、なぜなら既に言ったように、これらの残りのものは人間の内的な人の中に貯えられていて、その人間が形体的な世的なものを背後に棄て去った時に開かれるからである。主のみが人間の中にある残りのものの性質と範囲を知られているが、人間自身は到底それを知ることは出来ない、なぜなら現在では人間は内には悪以外には何ものも無いのに、善いものを佯り装うことが出来るといった性質を持っており、また人間は悪いようには見えても、それでも内には善を持っていることも有り得るからである。そうした理由からたれ一人他の者の霊的生命の性質については審くことを決して許されてはいないのである、なぜなら主のみが、前に言ったように、そのことを知られているからである、しかし人間各々は他の者をその道徳的な公民的な生命の性質については審いてもよろしいのである、なぜならこれは社会に関係しているからである。

 

 

 

 

22.真理の残りのもの

 

 

天界の秘義1906 []

 

後年彼はまた新しい状態を与えられるが、しかしその状態は善の状態であるよりは真理の状態である、なぜなら彼は成長して行くに連れて、幾多の真理に浸透し、この真理も同じく彼の内的な人の中に貯えられるからである。これらの残りのものにより、即ち、霊的なものが流入することにより生まれてくる真理の残りのものにより、人間は公民的な道徳的な生活の善と真理とは何であるかを考え、また理解する能力を、また霊的な真理をまたは信仰を受ける能力を得るが、しかし彼はそのことを幼児時代に受けた善の残りのものによらなくては行うことは出来ないのである。残りのものがあって、それが人間の内的な合理的なものの中に貯えられることは全く人間に知られていないが、これは彼が何一つ流入はしない、全てのものは自分に生来具わっていて、自分と共に生まれていると考え、かくてそれは全て幼児の時にも自分の中にあると考えているためであるが、それでも実情は全く相違しているのである。残りのものは聖言の多くの部分に取り扱われていて、それにより人間が人間になる手段となる状態が意味されているが、しかもそれは主のみから発しているのである。

 

 

 

天界の秘義1906 []

 

しかし主に属した残りのものは、主が御自身取得されたところの、また主がその人間的な本質を神的な本質に結合される手段となったところの凡ゆる神的な状態であった。これらは人間に属している残りのものであるからである。『アブラムがカナンの地に住んでいた十年』により意味されていることは主に属している残りのものである。天使たちは聖言を聞くと、十の数の何であるかを知らないで、それが人間により言われると直ぐに、残りのものを考えるのである、なぜなら聖言における『十』と『十分の一』により、前に示したことから明白であるように(576、1738番)、残りのものが意味されているからであり、またアブラムがカナンの地に住んだ十年の終りの観念[考え]に基いて彼らに認識が起こると、主の観念[考え]が彼らに生まれると同時に、主が世におられた時の間の主の中の残りのものにより意味されている無数の事柄が生まれてくるのである。

 

 

 

 

23.あなたをよく調べると、我が聖なる名にたいする 高貴な火花が見えた

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P129

‘00・10・16

 

あなたが無に等しくみじめであったゆえ 我が被造物の花婿なる、私は、はるばるあなたのもとに身を屈めた、我が言葉にたいして 無学な(*3)子どもであったにもかかわらず。 どんな神聖な言葉にたいしても 何ら教育を受けてはおらず無頓着であったが、それでもなおこの一切の泥濘(ぬかるみ)の下に、あなたをよく調べると、我が聖なる名にたいする 高貴な火花が見えた。

 

*3主はそう望まれて、英語の代わりに「analphabet」というフランス語を使われました。

 

 

 

 

24.人間は天界と残りのものにより交流している

 

 

天界の秘義5344

 

内的な自然的なものの内的なものはその中にあって霊的なものと呼ばれているものであり、そしてその中の霊的なものは天界の光から発しているものであり、その光から、そこの、世の光から発し、本来自然的なものと呼ばれているものが明るくされており、その中の霊的なものの中に、善に接合した諸真理が貯えられているのである。そこの霊的なものは第二の天界の天使たちの社会に相応しているものであり、人間はその天界と残りのものにより交流しているのである。これが人間が再生しつつある時開かれはするが、人間が再生するに甘んじない時は閉じられてしまう天界である。なぜなら残りのものは―または内部に貯えられた真理と善とは―その天界の社会と相応しているもの以外の何ものでもないからである。

 

 

 

天界の秘義5897[11]

 

残りのものについては、または主により人間の内部に貯えられた善と真理については、実情は以下のようになっている。人間は情愛から、かくて自由から、善と真理の中にいると、その時は、善と真理とが植え付けられるのである。そしてこのことが起ると、天界から天使たちが更に近づいて来て、彼ら自身をその人間と連結させるのである。その人間の内部の中に善を真理と共に発生させるものはこの連結である。しかし人間が世の物と身体の物の中にいる時のように、外なる物の中にいると、その時はその天使たちは遠ざけられ、彼らが遠ざけられると、その時はこの善と真理は何一つ全く現れなくなるのである。にも拘らず連結は一度行われたため、その人間はその天使たちと連結し、かくてその天使たちに属している善と真理とに連結する能力を持っているのである。しかしこの連結は主が良しとされるにまさって頻繁には、またそれにもまさって遠くまでは起らないのであり、主はこれらのものをその人間の生命の凡ゆる用に従って処理されるのである。

 

 

 

 

25.善がそれ自身を明らかに示す以前の、真理の承認[真理を承認すること]、また真理に対する情愛

 

 

天界の秘義5894

 

ここでは、残りのものは、善がそれ自身を明らかに示す以前の、真理の承認[真理を承認すること]であり、また真理に対する情愛である。これらのものは善と共に輝き出るのである。それまではそれらのものから生命の用に資するだけのものが引き出されるのである。

 

 

 

 

27.善いものは一つとして、また真のものも一つとしてそれが主から発していなくては存在しない

 

 

天界の秘義2284[2]

 

善いものは一つとして、また真のものも一つとしてそれが主から発していなくては存在しないのであり、また善い、真のものであるものは主から人間の中へ絶えず流れ入っているが、しかしそれは色々な方法で受け入れられており、事実悪の生命に順応して、また人間が確認した誤謬の原理に順応して受け入れられていることは良く知られている。これらのものが主から絶えず流れ入っている善と真理とを消滅させるか、窒息させるか、または歪曲するか、するものである。それで善が悪に、真理が誤謬に混入しないように、(もしそれらが混入するならばその人間は永久に死滅してしまうからである)、主はそれらを分離され、その人間が受け入れるその諸善とその諸真理とをその者の内的な人の中に貯えられて、主はその人間が悪と誤謬の中にいる限り、その善と真理とがその内的な人から現れてくるのを決して許されはしないで、ただその者が聖い状態の中に、または何か不安、病気、または他の困難な状態の中にいるといった時にのみそのことを許されるのである。主がこのように人間のもとに貯えられたものが『残りのもの』と呼ばれるのであって、それについては聖言に夥しく記されているが、しかしこのことがその意味であることは未だたれにも知られてはいないのである。

 

 

 

 

28.タラント

 

天界の秘義2967[]

 

『商人』と『商品』の意義については、間もなく少しく述べるが、しかしその事柄そのものについては実情は以下のようである。改良され、再生しつつある者たちはことごとく主により仁慈と信仰とを与えられるが、しかし各々の者はその能力と状態とに応じて与えられるのである、なぜなら人間が幼児時代から自分自身に沁み込ませた幾多の悪と誤謬とが在り、そのため人各々他の者と同じ賜物を受けるのを妨げられており、これらの悪と誤謬とは人間が再生することが出来る以前に剥奪されなくてはならないのであり、そして剥奪された後天界的な霊的な生命の残りのものが在る限り、それは真理をもって明るくされ、善をもって富まされることが出来るからである。そのとき生命を受けるものは、残りのものであり、それは主から発して人間のもとに貯えられている善と真理である。これらの善と真理とは幼児の時代から改良の時に至るまですらも或る者には多く、或る者には少なく得られている。これらのものは彼の内なる人の中に保有されていて、彼の外なる人がそれに相応しないうちは、前面に出てくることは出来ないのであり、相応することは主として試練により、また多くの種類の剥奪により遂行されるのである、なぜならそれらのものに反している形体的なものが(自己と世を求める愛に属しているようなものが)静止しない中は、善と真理とを求める情愛に属している天的なものと霊的なものは流れ入ることは出来ないからである、これが各々の者がその者の状態と能力とに応じて改良される理由である。このことをまた主は外に出て行った人間について言われた譬の中で教えられている―

 

 彼は自分の僕たちを呼んで、彼らにその財産をゆだね、或る者には五タラント、或る者には二タラント、或る者には一タラント与えた、すなわち各々の能力に応じて与えた。五タラントを受けた者はそれで商いをして、他に五タラントを得、同じく二タラントを受けた者も他に二タラントを得た(マタイ25・14−17等)

 

十人の僕についてもまた同じことを教えられている、すなわち、彼らに商いの資金として十ポンドが与えられたのである(ルカ19・12.13等)。

 

 

 

 

29.いかような宗教の者でも、もしその者が仁慈の生活により善の残りのものを、また外観的な真理の残りのものを受け入れてさえいるならば救われる

 

 

天界の秘義2284[]

 

信仰の何らかの真理について何らかの意見を持った者らが、他の者を、あなたらは自分たちが信じているように信じない限り、救われることは出来ないと言って審判くことは極めて普通なことであるが、しかしこれは主が禁じたもうた審判である(マタイ7・1、2)。それでも他方で私は多くの経験から、いかような宗教の者でも、もしその者が仁慈の生活により善の残りのものを、また外観的な真理の残りのものを受け入れてさえいるならば救われることを学んでいるのである。このことが、もし十人が見出されるならば、彼らはその住人のために滅ぼされはしないと言われていることにより意味されていることであり、そのことにより、若し残りのものがあるなら、彼らは救われるであろうということが意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義2284[]

 

仁慈の生命は他の人のことを親切に考えて、その者に良かれと願うことに在り、また他の人もまた救われるという事実から自分の中に喜びを認めることに在るのである。しかし自分が信じているように信じる者以外にはたれ一人救われないことを欲する者らは仁慈の生命を持ってはいないのであって、特にそれがそうではないことに激怒する者らは仁慈の生命は持ってはいないのである。このことは、基督教徒よりも異邦人が多く救われているという事実のみからでも認めることが出来よう、なぜなら自分の隣人のことを親切に考えて、これに善かれと願った異邦人は、他生では基督教徒と呼ばれる者よりも良く信仰の諸真理を受け入れて、主を基督教徒よりも良く承認するからである。なぜなら天使たちには地上から他生に入って来る者に教えることに優って歓ばしい、また祝福されたものは一つとして無いからである。

 

 

 

 

30.人がどれほど悪く曲がった生き方をしていようとも、人の性質の中には、決して罪に傾かない聖なる火花、聖なる要素が存在する

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P296

 

人がどれほど悪く曲がった生き方をしていようとも、人の性質の中には、決して罪に傾かない聖なる火花、聖なる要素が存在する。良心と霊的感覚が曇り働かなくなったとしても、この聖なる火花は決して消えることはない。どんな極悪人にも多少の善がみられるのはこのためである。残虐極まりないやり方で殺人を重ねた人間でさえ、貧乏人や虐げられている者たちに援助の手をさしのべるといったことが、よく起こる。この聖なる火花が不滅のものであれば、どんな罪人にも絶望することはない。それが滅ぼしうるものであるとすれば、罪によって神から離れたときの悲しみ、地獄の苦しみといったものは決して感じられることはないだろう。悲しみや後悔の念を感じるというのは、ほかならぬこの火花が人間の中にあるからである。この感覚がなければ、地獄は地獄たり得ない。人がそのような痛みを感じるのであれば、その苦しみがいずれは人を神の御元へ回復させることになる。

 

 

 

 

31.善の情愛

 

 

天界の秘義3336[3]

 

 真理の教義的な事柄もまた同じように記憶へ入ってくるのであり、最初それを導入するものは、前に言ったように(3330番)、色々な愛の情愛である。仁慈の善に属している純粋は情愛は、その時認められはしないが、しかしそれでもそれはそこに現存しているのであり、そしてそれがそこに現存していることが出来る限り、それは主により真理の教義的な事柄に接合され、また接合されて止まるのである。それでその人間が再生することが出来る時が来ると、主は善の情愛を吹き込まれ、それを通して、主によりこの情愛に接合されていた事柄をも掻き立てられるのであり[喚起されるのであり]―この事柄は聖言に『残りのもの』と呼ばれている―次に、この情愛により(即ち、善の情愛により)、継続的な段階によって主は他の愛の情愛を遠ざけられ、従ってまたその情愛に関連しているものをも遠ざけられるのである。かくして善の情愛が、または生命の善が主権を持ち始めるのである。それは実際前には主権を持っていたのであるが、しかしそのことは人間に明らかになることは出来なかったのである。なぜなら人間は自己への、また世への愛の中にいる限り、純粋な愛に属している善は現れないからである。このことからエソウとヤコブについて歴史的に述べられている事柄によりその内意に意味されていることが今や認められよう。

 

 

 

 

32.無垢と仁慈との善

 

 

天界の秘義3793

 

即ちヤコブにより表象されている自然的なものは善と真理から成っており、この自然的なものの中にも、全般的にもまた個別的にも人間の凡ゆるものの中に、また自然全体の凡ゆるものの中に善と真理との結婚が存在しなければならないように、それが存在しなくてはならないのである。この結婚無しには何ものも生み出さないのであり、即ち、生産と結果とはことごとくそこから発しているのである。しかしながら善と真理とのこの結婚は、人間のみが神的秩序の中へ生まれてきていないため、人間が生まれた時には、人間の自然的なものの中には存在していないのである、彼は実際無垢と仁慈との善を持ってはいるが―それは彼の最初期の幼少期に主から流れ入っているのであるが―しかしこの善が対になって結合されることが出来る真理は存在していないのである。彼は年が進むにつれ、幼少の項主から彼の中へ注がれていたこの善は内部の方へ引き入れられてそこに主により留めておかれるが、それは彼が後になって身に着ける生命の幾多の状態を和らげるためである。このことが人間はその幼少期と最初の子供時代との善が無いならいかような野獣よりも悪くなり、また凶暴にもなる理由である。幼少期のこの善が引き込められつつある時、悪がその代わりに現れ、人間の自然的なものの中へ入り、この悪に誤謬がそれ自身を結合して対になり、かくてその人間の中に悪と誤謬との連結が、いわば悪と誤謬との結婚のようなものが生まれるのである。それ故人間が救われるためには、彼は再生しなくてはならないのであり、悪が遠ざけられて、主から善が注がれなくてはならないのであり、善と真理とが対になって結合することを、いわば、善と真理とが結婚することを遂行するために、人間が受け入れる善に応じて、真理が彼の中へ注ぎ込まれるのである。

 

 

 

 

33.最初の時代に主から無垢が流入しないなら、人間に特有な知的な、または合理的な能力がその上に据えられる基礎は決して存在しない

 

 

天界の秘義5126

 

外的な無垢によって主は感覚から入ってくるものを秩序づけられ、そしてその最初の時代に主から無垢が流入しないなら、人間に特有な知的な、または合理的な能力がその上に据えられる基礎は決して存在しないのである。

 

 

 

天界の秘義5126[2]

 

 子供時代から、青年期の初期にかけて、両親と教師から教えられるのみでなく、また学ぶことにより、似つかわしいことや、民法の要求することや、尊いことを学ぶことにより、内的な自然的なものとの交流が開かれるのである。そして青年期から成人期の初期にかけて、社会的な、道徳的な生活の諸真理と諸善とを学ぶことにより、特に聖言を聞き、また読むことを通して、霊的な生命の諸真理と諸善とを学ぶことにより、自然的なものと合理的なものとの間に交流が開かれるが、しかしその青年がその時真理によって善に沁み込むに応じて、即ち、その学ぶ真理を行うに応じて、合理的なものが開かれるに反し、諸真理によって諸善に沁み込まないに応じて、または諸真理を行わないに応じて、合理的なものは開かれはしないものの、それでもその知識は依然自然的なものの中に、即ち、その記憶の中に残っており、かくていわば家の外側の入口に残っているのである。

 

 

 

天界の秘義5126[3]

 

しかしながら彼がその時、またその後の年月の中で善と真理とを無視し、それらを否定し、それに反したことを行うに応じて、即ち、善と真理に代って、誤謬を信じ、悪を為すに応じて、合理的なものは閉じられ、また内的な自然的なものも閉じられてしまうのであるが、にも拘らず、彼に諸善と諸真理とをある程度の理解をもって把握させるだけの交流は主の神的摂理により依然残ってはいるが、それでもそれはもし彼が心から悔改めて、その後長い間誤謬と悪と闘わない限り、その善と真理とを彼自身のものとはなさないのである、なぜなら徐々にまたは連続的に合理的なものが彼らの中に開かれ、これに内的な自然的なものが服従し、内的な自然的なものに外的な自然的なものが服従するからである。このことは特に青年期の中に成人期に至るまで起り、続いてその生命の晩年にまでも起り、その後天界で永遠に起こるのである。この凡てから人間の内的な自然的なものとは何であるか、外的な自然的なものとは何であるかを知ることが出来よう。

 

 

 

 

34.『都の中に食物を貯えて、守ること』

 

 

天界の秘義5297[2]

 

それでここでは『都の中に食物を貯えて、守ること』により、善と連結した真理が自然的な心の内部に貯えられねばならなかったことが意味しており、これらの真理と善とがそこに貯えられた時、それらは『残りのもの』と呼ばれるのであり、人間の霊的な生命そのものはそのものから成っており、またそのものから彼は必要と欠乏の場合毎に、即ち、凡ゆる霊的な飢饉の中にあって霊的に養われるのである。

 

 

 

 

35.残りのものの充分なものがまたマルコ伝の『三十』、『六十』、『百』により意味されている

 

 

天界の秘義5335[2]

 

 残りのものの充分なものがまたマルコ伝の『三十』、『六十』、『百』により意味されている

 

 良い地に落ちた種子は実を結んだ、それは生え出て、増大し、一つは三十を、他の一つは六十を、また他の一つは百を生み出した(マルコ4・8、20)。

 

 この数字の凡ては十の倍数から起っているため、それは残りのものが満ちている状態を意味している。人間は残りのものを十分に受け入れない中は、再生することは出来ないため、即ち、再生が遂行される手段である霊的な闘争へ入れられることが出来ないため、レビ人は三十年を完全に終えない中は集会の天幕の中で仕事を全く行ってはならないと定められたのであり、その仕事または務めは、モーセの書に記されているように、『戦い』と呼ばれているのである―

 

 レビの息子たちのうちからコハテの息子たちの総数を、三十歳以上の息子から五十歳の息子まで、戦いに来て、集会の天幕の中で仕事を為す者を凡て調べよ(民数記4・2、3)。

 

 これに似たことがゲルションの息子たちとメラリの息子たちにも言われているのである(22、23、29、30節、さらに、35、39、43節)。同じようなことがダビデが支配しはじめた時三十才であったことにも含まれているのである(サムエル記後5・4)。

 

 

 

天界の秘義5335[3]

 

 この凡てから主は三十才になられない中は御自身を現わされなかった理由が今や明らかである(ルカ3・23)、なぜならその時[三十才の時]主は残りのものが満ちた状態におられたからである。

 

 

 

 

36.骨に関連した者たちには霊的な生命はいかに僅かしかないかが私に示された

 

 

天界の秘義5561

 

骨に関連した者たちには霊的な生命はいかに僅かしかないかが私に示された。他の霊たちは彼らを通して語りはするが、彼ら自身はその語ることを殆ど知らないのであり、それでも彼らは語り、語ることにのみ歓喜を覚えている。悪い生活を送りはしたが、多少の善い残りのものを己が中に貯えた者たちはこのような状態へ入れられるのである。この残りのものは多くの時代の剥奪の後で、かの霊的な生命の僅かなものを作っているのである(残りのものの何であるかは前の468,530、560、561、660、1050、1738、1906、2284、5135、5342、5344番に見ることが出来よう)。

 

 

 

 

37.信仰と仁慈の凡ゆるものが主から発していることを承認する時、“門”すなわち主から入る、なぜならその時これらのものが主から流れ入るからである

 

 

野葉:“律法と預言者はヨハネの時までである”(16節)とは、主と主が来られることに関する預言は主が世に来られたときに終わった、という意味です(天界の秘義9372)。

“それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、誰もが力ずくでそこに入ろうとしている”(同16節)は、“羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である”(ヨハネ10・1)というのと同じだと思います。そこに関するスウェーデンボルグの解説によると、“羊”は仁慈の中におり、そこから信仰の中に入る者であり、彼らは信仰と仁慈の凡ゆるものが主から発していることを承認する時、“門”すなわち主から入る、なぜならその時これらのものが主から流れ入るからである、しかし、それらを他の者に、特に自分自身に帰することは、それらを取り去ることであり、かくて“殺し、破壊すること”であると言っています。主のものであるものを自分自身に帰す者らはまた業に功績をおいて、自分自身を義とするのだ、と(天界の秘義8906)。