無垢
子供/
1.聖書
2.幼児・・・無垢の善
3.無垢の三つの度
4.知恵
5.連結の手段
6.善の本質的なもの
7.彫像崇拝者の無垢
8.主は無垢な霊魂を高く評価する
9.善の中に無垢が存在している度に応じて心を動かされる
10.真理に対する情愛はその中に無垢が存在しない限り真理に対する情愛ではない
11.エホバまたは主は、その現れられる相手の者が無垢の状態の中にいない限り、いかような者にも、実に天使にも現れ給うことは出来ない
12.多少なりと無垢を持たない限り、天界に入ることは出来ない
13.悪を何一つ為さないことは無垢の要素
14.仁慈はその本質と生命とを無垢から取得しなくてはならない
15.無垢は天界の凡ゆる善における最も内なるものであるため、それを感じる者は非常な感動を受ける
16.あなたをよく調べると、我が聖なる名にたいする 高貴な火花が見えた
17.無垢は連結の手段
18.主に対する愛の善
19.無垢の血を流すことは極めて憎むべき犯罪
20.それを感じる者は非常な感動を受ける
21.無垢にいる者は裸身の幼児のように現れる
22.主により導かれようとする天界の天使
1.聖書
詩篇25・19−21
御覧ください、敵は増えて行くばかりです。
わたしを憎み、不法を仕掛けます。
御もとに身を寄せます。
わたしの魂を守り、わたしを助け出し
恥を受けることのないようにしてください。
あなたに望みをおき、無垢でまっすぐなら
そのことがわたしを守ってくれるでしょう。
詩篇37・18
無垢な人の生涯を
主は知っていてくださる。
彼らはとこしえに嗣業を持つであろう。
詩篇37・37
無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとせよ。
平和な人には未来がある。
2.幼児・・・無垢の善
天界の秘義3183[3]
聖言には『乳飲み児』は無垢を意味していることはまた他の記事からも明白である、例えばダビデの書には―
みどり児と乳飲み児の口からあなたは強さを基として据えられた(詩篇8・2、マタイ21・16)。
ここに『みどり児』は天的な愛を、『乳飲み児』は無垢を意味している。エレミア記には―
なぜおまえたちはおまえたちの魂に向って大いなる罪を犯し、おまえたちから男と女とを絶ち去り、ユダの真中から幼児と乳飲み児とを絶ち去り、かくてわたしはおまえたちを一人も残らないままにすておくのであるか(エレミア44・7)。
ここには『幼児と乳飲み児』も同じように天的な愛とその愛の無垢とを意味しており、これらのものが全く無くなると、もはや『残りのもの』は全く存在しなくなるのである、即ち、主により内なる人の中に貯えられて残っていた善と真理とは全く存在しなくなるのである(これらは残りのものであることは、前の1906、2284番に見ることが出来よう)。なぜなら無垢は神的なものそのものから直接に発しており、かくて凡ゆる善と真理の本質そのものであるからには、善と真理はことごとく無垢とともに死滅してしまうからである。
天界の秘義3183[4]
さらに―
幼児と乳飲み児とは都の街に息絶えようとしている(哀歌・11)。
ここでも意義は同一である。さらに―
くじらは胸を引き出し、その子供たちに乳を飲ませる、わたしの民の娘は残酷になり、乳飲み児の舌は渇いて上あごに密着している、小さな子供たちはパンを求めるが、たれもこれにそれを差し出しはしない(哀歌4・3、4)。
『乳飲み児』はさらに無垢を意味し、『小さな子供』は善に対する情愛を意味している。モーセの書には
外には剣が、部屋からは恐怖が、若者も、処女も、乳飲み児も、老人と共に奪い去るであろう(申命記32・25)。
『老人と共に若者も処女も乳飲み児も奪い去る剣』は誤謬が真理に対する情愛と善の情愛とを破壊し、無垢をまた知恵と共に破壊するであろうということを意味している。イザヤ書には―
かれらはあなたの息子たちをその胸に入れて連れて来るであろう、あなたの娘たちは彼らの肩に乗せて運ばれて来るであろう、王たちはあなたを養う者となり、その王妃たちはあなたに乳を飲ませる者となるであろう(イザヤ49・22、23)。
ここには『あなたを養う者である王』は理知を、『あなたに乳を飲ませる者である王妃』は、知恵を意味し、これは無垢のものであることは前に述べたところである。
天界の秘義6107
「幼児」の意義は無垢の善
430,2126,3183、5608
無垢は最も内なるものから発して、仁慈の、また愛の凡ゆる善を変化させるものである。なぜなら主は無垢を通して仁慈へ流れ入られ、無垢に応じて仁慈は受け入れられるからである(2780,3111,3183,3994,4797,6013)。無垢の性質は小さな子供たちから以下のことにより鏡中におけるように認められることが出来よう。即ち、彼らはその両親を愛し、両親のみに信頼し、両親を喜ばせる以外には何の思い煩いも持たないのであり、従って彼らは単に彼らの必要のためのみでなく、またその歓喜のためにも食物と衣服を得ているのであり、彼らはその両親を愛するため、情愛の歓喜をもって、何であれ凡て彼らの[両親の]心に叶うことを為し、かくて両親の命じることのみでなく、また両親が命じようと願っていると彼らの考えることも為し、さらに何ら自己を求める思いも持たないのであり、その他幼児の多くの特徴は言わずもがなのことである。しかし小さな子供たちの無垢は無垢ではなくて、単にそれに類似したものに過ぎないことを知られたい。真の無垢はただ知恵の中にのみ宿っており(2305,2306,3494,4797)、知恵は小さな子供たちがその両親に向かって、今し方述べた方法で尽くすように、愛の、また仁慈の善から主に向かって自らを振舞うことに在るのである。
3.無垢の三つの度
天界の秘義5236
『若者』が罪のないこと[無罪性]を意味している理由は、内意では『小さな子供』は無垢なものを意味しているということである、なぜなら聖言に『乳のみ児[乳児]』『小さな子供』、『若者』(または子供)と記されているが、彼らにより三つの度の無垢が意味されており、『乳のみ児』により第一の度のものが、『小さな子供』により第二の度のものが、『子供[若者]』により第三の度のものが意味されるからである。しかし『子供[若者]』のもとに無垢が脱ぎ捨てられ初めるため、彼により『罪がないこと[無罪性]』と呼ばれるかの度の無垢が意味されている。この三つにより三つの度の無垢が意味されているため、天的な愛と霊的な愛とは、即ち、主に対する愛と隣人に対する仁慈とは無垢の中にのみしか存在しえない(中略)、しかし乳のみ児、小さな子供、子供の無垢は単に外なるものに過ぎないのであり、内なる無垢は人間が新しく生まれる後までは、即ち、再び、いわば、乳のみ児、小さな子供、子供になる後までは彼の中に在り得ないことを知らなくてはならない。聖言にこの三つのものにより意味されているものはこの状態である。
イエスは一人の子供を取られて、これを彼らの真中に置かれた。かれは彼を腕にかかえられると、彼らに言われた。わたしの名においてこのような子供たちの一人を受ける者はすべてわたしを受けるのである(マルコ9・36,37、ルカ9・47,48)。
ここの『子供』により無垢が表象されており、これを受ける者は、主は無垢のすべての源泉であられるため、主を受けるのである。たれでも『主の名において子供を受けること』は文字通りに子供を受けることではないことを認め、かくて天界的なものがそれにより表象されているに違いないことを認めることが出来るのである。
子供たちは神殿の中で叫んだ。ホサナ、ダビデの子に。祭司らは怒った。それでイエスはかれらにいわれた。あなたらは、あなたはみどり児、乳のみ児の口から賛美を全うされた(という聖言)を、一度も読みませんでしたか(マタイ21・15,16、詩篇8・2)。
子供たちが『ホサナ、ダビデの子に』と叫んだことは、無垢のみが、すなわち無垢の宿っている者のみが主を承認して受け入れることを表象することであった。『みどり児と乳のみ児の口からあなたは讃美を全うされた』により讃美は無垢を通してのみ主のもとにたっすることが意味されているのである、なぜならそれによってのみ交流のすべてが、また流入のすべてが行なわれ、従って接近が行われるからである。
主が以下のように言われているのはこうした理由によっている―
あなた方は回心して、子供のようにならないかぎり、天国に入りはしない(マタイ18・3)。
[5]以下の記事においてもまた『若者』または『子供』により無垢が意味されているのである。ゼカリア書には―
都の街路はその街路に遊んでいる若者と娘たちで満ちるであろう(8・5)。
これは新しいエルサレム、または主の王国を語っている。
4.知恵
天界の秘義2305
聖言に「幼児」と呼ばれている無垢そのものは知恵以外のものには存在しない、また宿ってもいないのであり、人間は賢明になればなるほど益々無垢になるほどにもなり、そうした理由から主は知恵そのものであられるため、無垢そのものであられるのである。
5.連結の手段
天界の秘義6765
人間が再生しつつある時は、彼は誤謬との争闘へ入れられ、その時主により真理の中に留め置かれるが、しかしそれは彼が真理であると自分自身に説きつけた真理の中に留め置かれるのであり、この真理から彼は誤謬と戦うのである。彼はまた純正なものではない真理からも―もしその真理が何らかの方法で善と連結されることの出来るようなものでありさえするなら―戦うことが出来るのであり、それは無垢により善と連結するのである。なぜなら無垢は連結の手段であるからである。ここから人間は何らかの教義から教会の中で再生することが出来るが、しかし純正な真理の中にいる者たちは特に顕著に再生することが出来るのである。
6.善の本質的なもの
天界の秘義2526
善は無垢から善となり、真理は善から真理となり、これらのものがその秩序をもって存在すると、その時その能力[才能]そのものが存在するためである。こうした事柄がその言葉の中に含まれていることは明らかである、なぜなら今し方言ったように、善の中に無垢が存在しない限り、(善を意味しているところの)正しい、健全な、または完全な心[心情]は存在しないのであって、無垢からそれは単純な善となるからである。そしてまた今し方言ったように、善が諸真理の中に存在しない限り、即ち、真理に対する情愛が存在しない限り、(真理について述べられているところの)潔い、清い、または純潔な手は存在しないのである。その思考[考え]がこれらのもの[この真理]から発する時、それはまた能力[才能]そのものから、または力そのものから発しており、そのことが同じく『手』により意味されているのである(878番)。
天界の秘義3994
善が善であるためには、その善の凡ての中に無垢が存在しなくてはならない。無垢のない仁慈は仁慈ではなく、まして無垢がないなら主に対する愛はあり得ないのである。そうした理由から無垢は愛と仁慈の本質的なものそのものであり、従って善の本質的なものである。無垢である自分自身のものとは、悪以外には何ものも自分の自己からは発していない、善はすべて主から発している、それで人間自身のものは悪いもの以外の何ものでもないことを、即ち、悪であるところの自分の意志の自分自身のもののみでなく、誤謬であるところの自分の理解の自分自身のものを、口ではなくて心で知り、承認し、信じることである。人間が心からそのことを告白し、信じる時、主は善と真理とをもって流れ入られて、彼の中へ、白い、光り輝いている天界の自分自身のものを(徐々に秘かに)注ぎ入れられるのである。
たれ一人心からそのことを承認し、信じない限り、決して真の卑下の中にいることは出来ない。なぜなら人間は心からそれを承認し信じる時、自己を絶滅させ、否、自己を嫌悪し、かくして自己から遠ざかり、そうした方法によりその時主の神的なものを受け入れることが出来る状態の中にいるからである。主がへり下った、砕かれた心の中へ善をもって流れ入られるのはこうした手段によっているのである。
天界の秘義3994 [3]
こうしたものが無垢である自分自身のものであって、それがヤコブが自分自身のために選んだ「子羊の間の黒いもの」によりここに意味されているのであるが、しかし子羊の白いものは善に置かれている自己功績である。(「白い」は功績であることは前の3993に示されたところである。)それは無垢に反しているため、それはヤコブは選ばなかったのである。なぜなら善に自己功績を置く者は善はすべて自分自身から発していることを承認し、信じているからであるが、それは彼はその行う善の中に自分自身を顧慮していて、主を顧慮していない。従ってその功績のために報酬を要求するためである。それでこのような者は自分自身に較べて他の者を軽蔑し、彼らを非難さえもし、従ってそれに正比例して天界的な秩序から即ち善と真理から遠ざかるのである。この凡てから、隣人に対する仁慈と主に対する愛とは、その中に無垢が存在しない限りあり得ないのであり、従ってたれ一人その者の中に無垢が存在しない限り、天界へ入れないことが今や明白である。そのことは主の御言葉に従っている―
まことにわたしはあなたたちに言う、たれでも小さな子供となって神の国を受け入れない者はことごとく神の国に入りはしない(マルコ10・15、ルカ18・17)
聖言のここと他の所の「小さな子供」により無垢が意味されているのである。
天界の秘義3994 [4]
善の凡ての中には善を善とするために無垢が存在しなくてはならないのであり、従って真理の中にもその無垢が存在しなくてはならないからである。
天界の秘義3994 [6]
主はその王国の中に在る無垢そのものであられ、無垢の凡ては主から発しているため、主は『小羊』と呼ばれたもうている。(中略)
過越節の小羊はその最高の意義では主であることは良く知られている、なぜなら過越節は主の栄化を、すなわち、人間的なものの方面で神的なものを着けることを意味したからであり、その表象的な意義ではそれは人間の再生を意味しており、過越節の羊は再生の本質的なものを、すなわち、無垢を意味している、なぜならたれ一人無垢を宿している仁慈によらなくては再生することができないからである。
天界の秘義5608[3]
これは主に対する愛と一つのものとなっており、それが仁慈の中にないかぎり、それは仁慈ではない。従って無垢を宿した仁慈が仁慈の業の中にないかぎりそれは仁慈の業ではない。ここから無垢は諸天界にいる凡ゆる者たちの中に存在しなくてはならない。
天界の秘義5608[4]
それがそうであることは、また無垢が『小さな子供たち』により意味されていることは、マルコ伝に明白である―
イエスは弟子たちに言われた、小さな子供たちをわたしのもとへ来るままにさせて、とどめてはならない、神の王国はこのような者の王国であるから。まことにわたしはあなたたちに言います。たれでも小さな子供のように神の王国を受けない者はことごとく、その中へ入りはしない、かくてかれはかれらをその腕にとり上げられて手をその上におき、かれらを祝福された(10.14―16、ルカ18・15―17、マタイ18・3)。
『小さな子供』によりここでは無垢が意味されていることは明白である、なぜなら小さな子供には無垢が宿るからであり、また無垢な者たちは天界では小さな子供として現れるからである。
天界の秘義5608[9]
しかしながら小さな子供たちの無垢については、それはたんに外なるものであって、内なるものではない、それは内なるものではないため、いかような知恵とも連結されることはできないのである。しかし天使たちの、とくに第三の天界の天使たちの無垢は内なる無垢であり、かくて知恵と連結している(2305、2306、3494、4563番)。人間は年をとり、小さな子供のようになると、幼児の頃に持っていた無知の無垢に知恵の無垢が連結され、かくてかれは真の幼児として他生へ入って行くように創造されているのである。
天界の秘義868
「水が地から乾ききるまで。」これはいくたの誤謬が明らかに消散したことを意味することは人間が再生しつつある間のその状態から明白である。現今だれでもいくたの悪と誤謬とは再生の間に全く分離されて廃棄され、かくて人間は再生すると、悪も誤謬も何ら止まっていないで、水に現れ清められた者のように清潔になり、義しいものになると信じている。しかしながらこの考えは全く誤っている、なぜなら悪はまたは誤謬は一つとして廃棄される程に振り落とされることはできないで、幼い頃から遺伝的に取得されて、行為と業により獲得されたものは何であれことごとく残っており、かくて人間は再生しているにもかかわらず―死後の霊魂たちにありのままに示されているように―悪と誤謬以外の何ものでもないからである。このことの真理は以下のことを考察することから充分に明白となるであろう、すなわち主から発しなくては人間の中には善は何一つ無く、真理も何一つ無く、悪と誤謬はことごとく人間自身のものから発して人間のものであり、人間は、霊は、また天使でさえも、もしいささかでもその者自身に委ねられるならば、自分自身から地獄へ突入してしまい、それ故また聖言には天界も純潔でないと言われているのである。このことは天使たちによっても承認されており、それを承認しない者は天使たちの間にいることはできない。かれらを地獄から解放し、かれらを地獄から引き出しさえもし、かれらをかれら自身からそこに突入させないものは主の慈悲のみである。かれらは主により地獄へ突入しないように止められていることは天使たちにより明白に認められており、ある程度良い霊たちによってすら認められている。しかしながら悪霊らは、人間のように、そのことを信じていないが、しかしそのことはしばしばかれらに示されているのである。このことについては今後経験から主の神的慈悲の下に述べよう。
天界の秘義868[2]
それ故人間に固有な生命は悪と誤謬とが廃棄される程に決して振り落とされることはできない底のものであるからには、主は人間を再生させられつつも、神的慈悲から、試練を通して人間のいくたの悪と誤謬とを征服され、かくてそれらのものは死んではいないけれど、死んでいるかのように見えるが、しかしそれらは主から発している善と真理とに反抗して戦うことができない程に征服されているに過ぎないのである。主はまた同時に試練を通して人間に、いくたの善と真理とを受ける新しい能力を与えられるが、それはかれに善と真理のいくたの観念とまた善と真理とを求める情愛とを与えられてそれに悪と誤謬とがたわめられることにより行われるのであり、またかれの全般的なものの中に(この全般的なものについては前を参照されたい)個別的なものを挿入し、その個別的なものの中に単一的なものを挿入されることにより為されるのである、これらのものは人間の中に貯えられるが、人間はそれらのもについては何事も知っていないのである、なぜならそれらのものは人間に把握され、認識される領域の内部の深い所に存在しているからである。これらのものは容器または器として役立つ性質のものであり、かくて仁慈は主によりそれらのものの中へ植えつけられることができ、また仁慈の中へ無垢が植えつけられることができるのである。それらのものが人間と霊と天使とのもとで驚くべき方法で調合されていることにより一種の虹が表わされることができるのであって、こうした理由から虹は契約のしるしとなされたのである(9章12節から17節まで)、このことについては主の神的慈悲の下にその章の下で話すことにしよう。人間がこのようにして形作られたとき、かれは再生したと言われる、かれのいくたの悪と誤謬とは依然残ってはいるもののそれでも同時にかれのいくたの善と真理はことごとく保存されているのである。悪い人間のもとでは、その凡ての悪と誤謬とは、丁度その者がそれらのものを身体の生命の中で持っていたままに、他生でも帰ってきて、奈落の幻想と刑罰とに変化するのである。しかし善い人間のもとでは、友情の、仁慈の、また無垢の状態といったかれの善と真理の状態はことごとく他生で思い出され、その状態の歓喜と幸福とともに合して、そこに無限に拡大し、増大するのである。それ故これらの事が水が乾くことにより意味されており、それはいくたの誤謬が明らかに消散することである。
天界の秘義845
自然的な仁慈と慈悲の中に生活した異邦人と単純な心から信じた基督教徒の場合がそれである。かれらの無知と単純とがかれらをゆるすのである、それはこれらの中には無垢が在りうるからである。
7.彫像崇拝者の無垢
天界の秘義2598
私がミカについて、ダンの息子たちがいかようにして彼の彫像を、テラピムとレビ人を取り去ったことについて、士師記の第17章と第18章とを読んだとき、異邦人の中から来ている一人の霊がそこにいたが、彼は身体の生命の中では彫像を拝していたのである。彼はミカに為されたことや、またミカがダンの息子たちにより奪い去られた彫像のために如何程の悲哀に陥ったかを注意深く聞いているうちに、彼もまた悲しみにうちひしがれて内なる悲哀のあまり何を考えてよいかわからなくなるほどにも心を動かされたのである。私は彼の悲哀を認めると同時にその情愛の各々の中に無垢を認めもしたのである。基督教徒の霊たちもまたその場にいて、それを認めたが、彫像を拝していた者がかくも強い慈悲と無垢の情愛のために心を動かされることに驚いたのである。その後で善良な霊たちが彼に話しかけて、彫像を拝してはなりません、あなたは人間であるから、このことは理解出来るでしょう。あなたは彫像を超えて全天地の創造者で、支配者であられる神のことを考えなくてはなりません。その神は主であります、と言った。こうしたことが言われると、私は彼の内的な崇拝の情緒を認めることを許され、それが私に伝えられたが、それは基督教徒におけるものよりは遥かに聖いものであったのである。このことから(ルカ伝13・29,30における主の御言葉に従って)異教徒はそれほどに感動を覚えない現今の基督教徒よりは容易に天界に入ることが出来ることが認められることが出来たのである。なぜなら彼はその置かれていた状態の中で信仰の凡ゆるものを与えられ、それを内的な情愛をもって受けることが出来たからである。彼の中には愛のものである慈悲が在ったし、また無垢には無知が在ったのであり、これらのものが存在すると、信仰の凡ゆるものはいわば自発的に喜びをもって受け入れられるのである。彼はその後天使たちの間に迎えられたのである。
8.主は無垢な霊魂を高く評価する
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P12
‘99・1・20
その霊魂がどれほどみじめであろうと、私は笏や玉座よりも、無垢な霊魂を高く評価する。 先日あなたはこう言わなかったか 私にたいして母親のように感じていると? 子どもがたえず傷つけられ、ひやかされいじめられるのを なんとしてでも防ごうとする母親のように? 私へのその愛は 我が心を感動させた、それはあなたのみじめさを超えるもの・・・
9.善の中に無垢が存在している度に応じて心を動かされる
天界の秘義3080
「その乙女は見るに非常に善かった[美しかった]」。これは真理の情愛の美[真理に対する情愛の美]を意味していることは、『乙女』の意義から明白であり、それは無垢がその中に宿っている情愛である(3067番)。『見るに非常に善い[美しい]』は美しさを(ここではそれがその乙女について言われているため、真理の情愛の美を)意味していることは、美はことごとく無垢を宿している善から発しているという事実から発している。善そのものはそれが内なる人から外なる人の中へ流れ入るとき、美を作り、ここから人間の美がことごとく発しているのである。このことは同様に以下の事実から認めることができよう、すなわち、たれ一人他の者の顔により心を動かされはしないで、その顔から輝き出ている情愛により心を動かされるのであり、善の中にいる者たちはそこに存在している善の情愛により心を動かされ、しかもその善の中に無垢が存在している度に応じて心を動かされるのである。かくて心を動かすものは自然的なものの中に在る霊的なものであって、霊的なものを欠いた自然的なものではない。同様に善の中にいる者たちは小さな子供たちにより心を動かされるのである、なぜならその子供たちはその顔、動作、言葉の中にある仁慈の無垢に比例してかれらには美しく見えるからである。(善良さと仁慈とが美を作り、それを生むものであることは前の553番に見ることができよう)。それ故『その乙女は見るに非常に善かった』が善を宿している真理の情愛の美しさを意味していることはここから発している。
10.真理に対する情愛はその中に無垢が存在しない限り真理に対する情愛ではない
天界の秘義3183
「彼女の乳母」。これはそれに属している仁慈からも(分離すること)を意味していることは(かれらはまたこれをも去らせたことを、すなわち、かれらはそれをかれら自身から分離したことを意味していることは)、『乳母』または乳を与える者の意義が無垢であることから明らかである。聖言には吸う者と吸わせる者がくり返し言われており、前の者により幼児の最初の状態が意味されていて、その状態は無垢の状態であるにちがいないことは明白である、なぜなら人間は最初生まれると、人間は無垢の状態へ導入されるからであるが、それはその状態がそれに続いて起る凡ゆる状態に対する面となって、それらのいくたの状態における最も内なるものとなるためであり、この状態は聖言では『乳呑み児』により意味されているのである。次にかれは天的な善に対する情愛の状態へ、すなわち、その両親に対する愛の状態へ導き入れられるが、それはこのような幼児にあっては主に対する愛に代わって存在しており、この状態は『幼児』により意味されている。その後かれは霊的な善に対する情愛の状態へ、または相互愛の状態へ、すなわちその遊び友達に対する仁慈の状態へ導き入れられるが、その状態は『少年』により意味されており、それにつづいてくるいくたの状態は『大人』により意味され、最後には『老人』により意味されている。『老人』により意味されているこの最後の状態は知恵の状態であって、その中には幼児時代の無垢が宿っており、かくて最初の状態と最後の状態とは結合しており、人間は老いると、再び小さな子供となり、しかし賢い子供となって、主の王国に導き入れられるのである。
天界の秘義3183[2]
このすべてから無垢は最初の状態であって、乳飲み児の状態であることが明らかである。ここからまた乳を飲ませる者も無垢を意味しており、与える者と受ける者については働きかける者と働きかけられる者の場合のように、類似した状態が認められるからである。ここには、真理に対する情愛が記される意図のために、すなわち、それが無垢から発していたことが記される意図のために、かれらはまた乳母を(また乳を与えた者を)去らせたといわれている、なぜなら真理に対する情愛はその中に無垢が存在しない限り真理に対する情愛ではないからである(2526、2780、3111番を参照)。なぜなら無垢により主はこの情愛の中へ流れ入れられ、実に真の無垢は知恵そのものであるからには、知恵のもとへ流れ入られるからであり(2305、2306番)、天使たちの目には無垢にいる者たちは幼児として現れているのである(154、2306番)。
11.エホバまたは主は、その現れられる相手の者が無垢の状態の中にいない限り、いかような者にも、実に天使にも現れ給うことは出来ない
天界の秘義3519[6]
エホバが天使を通してたれかに現れ給うた時、その人間が死なないように、山羊の子山羊が生贄とされたのである、例えばかれがキデオンに現れ(士師記6・19)、マノアに現れた時がそうであった(13・15、16、19)。その理由はエホバまたは主は、その現れられる相手の者が無垢の状態の中にいない限り、いかような者にも、実に天使にも現れ給うことは出来ないということであった、それで主がたれかのもとに臨在されるとすぐに、その者は無垢の状態に入れられるのである、なぜなら主は天界の天使のもとでさえも、無垢を通して入られるからである。このためたれ一人、マタイ伝の18・3、マルコ10・15、ルカ18・17の主の御言葉に従って、多少なりと無垢を持たない限り、天界に入ることは出来ないのである。人々は燔祭を献げない限り、エホバが現れ給うた時死ぬであろうと信じたことは士師記13・22、23に見ることが出来よう。
12.多少なりと無垢を持たない限り、天界に入ることは出来ない
天界の秘義164
人間自身のもの[人間の固有性]は、前に述べたように、悪そのものであり、それが目に見えるように示されると、極めて醜悪なものであるが、しかし主から仁慈と無垢とがその自分自身のものの中へ秘かに注ぎ込まれると、(前の154番に述べたように)善いものとして美しいものとして現れるのである。仁慈と無垢とは自分自身のもの(即ち、人間の悪いまた誤ったもの)を恕すのみでなく、いわばそれを廃棄してしまうのである。例えばそれは小児の中に認めることが出来よう、彼らにあっては悪い、誤ったものは、彼らが両親を愛し、また互いに愛し合い、その幼児の無垢が現れている限り、隠れているのみでなく、快いものでありさえするのである。ここからたれでも或る程度の無垢を持たない限り、天界に入れられることは出来ないことを知ることが出来よう―
小さな子供たちがわたしのもとへ来るままにさせておきなさい、とどめてはならない、神の国はこのような者の国であるからである。まことにわたしはあなたたちに告げる、たれであれ、小さな子供のように神の国を受けない者はそこへは入らない。かれは幼児を抱いて、手をその上に置かれ、彼らを祝福された(マルコ10・14−16)。
天界の秘義3111[2](太字は当方による)
教会の中では、或る程度の無垢と隣人に対する仁慈とを持っていない者たちは、いかほど真理を熟知していて、それを口先で告白しているにしても、それでも決してそれを心から承認はしていないのである。教会の外では、信仰の真理へ招かれ、または他生でそれを教えられる異邦人たちの中で、無垢の中にいて、相互愛に生きている者以外の者はそれを受け入れはしないのである、なぜなら無垢と仁慈とが、その中に信仰の種子が根を張って、生長することの出来る土地を生み出すからである。
天界の秘義4797[2]
なぜなら幼児の中には外なる形における無垢そのものが在り、無垢は人間的なものそのものであるからである、なぜならその中へ、主から愛と仁慈とが面の中へ流れ入るように流れ入るからである。人間が再生し、賢くなりつつある時は、外なるものであった幼少期の無垢は内なるものとなるのである。純粋な知恵は無垢以外のいかような住居にも住みはしないのであり(2305、2306、3183、3994番を参照)、またたれ一人『あなたたちは小さな子供たちのようにならない限り、天国に入ることは出来ない』という主のみ言葉に従って(マタイ18・3、マルコ10・15)、多少なりと無垢を持たない限り、天界に入ることは出来ないのはこうした理由によっているのである。
天界の秘義5608[5]
たれ一人無垢を多少なりと持たない限り天界へ入ることは出来ないのであり(4797番を参照)、さらに小さな子供たちは無垢の形である天使たちにより支配されるままになっていて、自分自身を自分自身の判断と意志とにより支配する大人の場合とは異なって、未だ自分自身のものにより支配されるままにはならないのである。小さな子供たちは天使たちにより支配されるままになっていることはマタイ伝の主の御言葉から明白である―
あなたらは気をつけてこの小さい者たちの一人を侮らないようにしなさい、わたしはあなたらに言います、天にいる彼らの天使たちはわたしの父の御顔を常に見ているのである(マタイ18・10)。
たれ一人無垢によらなくては神の『御顔を見る』ことは出来ないのである。
13.悪を何一つ為さないことは無垢の要素
天界の秘義5137
『ここでもまたわたしは何もしていません』。これは無垢を意味していることは、解説の要もなく明白である、なぜなら悪を何一つ為さないことは無垢の要素であるからである。
14.仁慈はその本質と生命とを無垢から取得しなくてはならない
天界の秘義6013
『無垢のものである』また『仁慈のものであるものとともに』と言われているのは、無垢と仁慈がないなら自然的な真理は霊的な諸真理により前進させられることができないという理由からである、なぜなら真理が純粋なものとなるためには、それはその本質と生命とを仁慈から取得し、仁慈はその本質と生命とを無垢から取得しなくてはならないからである。なぜなら真理を生かす内的なものは以下の秩序をもって互に他の後を追うているからである。すなわち、最も内なるものは無垢であり、その次に低いものは仁慈であり、最も低いものは真理から発した、または真理に従った仁慈の業である。それらがこの秩序をもって互に他に従っている理由はそれらは諸天界でそのように互に他に従っているということである。なぜなら最も内なる、または第三の天界は無垢の天界であり、真中の、または第二の天界は仁慈の天界であって、その中に最も内なる天界から発している無垢が宿っており、最も外なる、または第一の天界は真理の天界であって、その中に第二の天界から発している仁慈が宿り、その仁慈の中に第三の天界から発している無垢が宿っているのである。
15.無垢は天界の凡ゆる善における最も内なるものであるため、それを感じる者は非常な感動を受ける
天界と地獄282
無垢は天界の凡ゆる善における最も内なるものであるため、それを感じる者は非常な感動を受け―それは最内部の天界の天使が近づいてくるとき起ることではあるが―自分がもはや自分自身のものではないように自分に思われ、そこから、世のいかような歓喜もそれに較べるとき、取るに足らぬもののようにも思われる歓喜を感じ、その歓喜に恰も我と我が身を忘れるようにも思われるのである。
天界と地獄283
無垢の善にいる者は凡て無垢に感動し、たれでもその善にいるに応じて、感動するが、無垢の善にいない者らは感動はしない。
天界の秘義2231 [4]
このことはまた、愛と仁慈とは天的な焔であり、信仰はそこから発している光であるという事実からも知ることができよう。そのようにまたそれらは他生で認識されもし、見られもしているのである、なぜならそこでは主の天的なものは太陽の焔となって燃えている輝きのようなものによりそれ自身を天使たちの前に明らかにしており、主の霊的なものはその輝きから発している光によりそれ自らを明らかにしていて、それによりまた天使たちと霊たちはその者たちにぞくした愛と仁慈との生命に順応して、その内部に感動を受けているのである。これがそのあらゆる多様性をもった喜びと幸福との他生における源泉である。そしてこのすべては信仰のみが救うという見解はいかなるものであるかを示しているのである。
「肝臓を形作っている者たちはだれであるか。」
霊界日記368
無垢を多少宿している霊たちは肝臓を形作っている、それで、また肝臓は幼児の中では身体の最も大きな器官となっていて、幼児はそれにより栄養を与えられている。それはまた多くの内臓の代役をしている。1747年〔59歳〕12月20日。
16.あなたをよく調べると、我が聖なる名にたいする 高貴な火花が見えた
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P129
‘00・10・16
あなたが無に等しくみじめであったゆえ 我が被造物の花婿なる、私は、はるばるあなたのもとに身を屈めた、我が言葉にたいして 無学な(*3)子どもであったにもかかわらず。 どんな神聖な言葉にたいしても 何ら教育を受けてはおらず無頓着であったが、それでもなおこの一切の泥濘(ぬかるみ)の下に、あなたをよく調べると、我が聖なる名にたいする 高貴な火花が見えた。
*3主はそう望まれて、英語の代わりに「analphabet」というフランス語を使われました。
17.無垢は連結の手段
天界の秘義6765
人間が再生しつつある時は、彼は誤謬との争闘へ入れられ、その時主により真理の中に留めおかれるが、しかしそれは彼が真理であると自分自身に説きつけた真理の中に留め置かれるのであり、この真理から彼は誤謬と戦うのである。彼はまた純正なものではない真理からも―もしその真理が何らかの方法で善と連結されることの出来るようなものでありさえするなら―戦うことが出来るのであり、それは無垢により善と連結するのである。なぜなら無垢は連結の手段であるからである。ここから人間は何らかの教義から教会の中で再生することが出来るが、しかし純正な真理の中にいる者たちは特に顕著に再生することが出来るのである。
18.主に対する愛の善
天界の秘義9262
「無垢な者と義しい者とを殺してはならない」。これは内的な、また外的な善を破壊することに対する反感を意味していることは以下から明白である、即ち、『無垢な者』の意義は内的な善の中にいる者であり、かくて抽象的な意義では、内的な善であり、(そのことについては以下に述べよう)、『義しい者』の意義は外的な善の中にいる者であり、抽象的な意義では、外的な善である、なぜなら『義しい』は隣人に対する愛の善について述べられ、『無垢』は主に対する愛の善について述べられているからである。隣人に対する愛の善は外的な善であり、主に対する愛の善は内的な善である。そして『殺すこと』の意義は破壊することである。『義しい』は隣人に対する愛の善を意味していることは以下に見られるであろう。しかし『無垢』が主に対する愛の善を意味していることは主を愛する者たちは無垢であるためである。なぜなら無垢は私たちは私たち自身では悪以外には何ごとも欲しないし、誤謬以外には何ごとも認めはしないし、また愛に属した善の凡てと信仰に属した真理の凡てとは主のみから発していることを心で承認することであるからである。愛により主と連結している者たちを除いてはたれ一人これらの事を心で承認することは出来ないのである。
19.無垢の血を流すことは極めて憎むべき犯罪
天界の秘義9262〔3〕
主から発した神的な善が『無垢な者』により、または『無垢』により意味されているため、無垢の血を流すことは極めて憎むべき犯罪であり、それが犯されると、全地は償いがなされるまでは罪に定められたのである、そのことはもしたれかがその地に(刀に)刺されているのが発見されたなら、究明と償いとの処置が取られたことから認めることが出来よう、
20.それを感じる者は非常な感動を受ける
天界と地獄282
無垢は天界の凡ゆる善における最も内なるものであるため、それを感じる者は非常な感動を受け―それは最内部の天界の天使が近づいてくるとき起ることではあるが―自分が最早自分自身のものではないように自分に思われ、そこから、世のいかような歓喜もそれに較べるとき、取るに足らぬもののようにも思われる歓喜を感じ、その歓喜に恰も我と我が身を忘れるようにも思われるのである。
天界の秘義154
人間自身のものでない、また人間自身のものから発していない悪いまた誤った物は決して在り得ないのである。なぜなら人間自身のものは悪それ自身であって、従って人間は悪と誤謬以外の何ものでもないからである。このことは以下の事実から私に明白にされたのである。即ち、人間自身のものに属したものが霊達の世界に明らかに示されると、それはその自分自身のものの性質に応じて相違はあるが、それ以上醜悪な物を描くことは不可能である程にも奇形に見えて、それでその自分自身のものの幾多の物を明らかに示された者らは恐怖に襲われて、自分自身からは丁度悪魔から逃れようとでもするかのように逃れようとするのである。しかし主によって生かされている人間自身のものの幾多の物は真に、主の天的なものが適用されることが出来る生命に応じた変化を伴って、美しく、可憐に見えるのである。実に仁慈を与えられ、またはそれによって生かされている者達は容貌の極めて美しい少年少女のように現れ、無垢にいる者は裸身の幼児のように現れ、胸をめぐる花環で色々に身を飾って、頭には頭飾りをつけ、金剛石のような気流の中に生活し、戯れ、心の底から幸福を感じているのである。
神の摂理208
「人間の深慮と神的摂理とを承認する者の性質と性格」。神とその神的摂理を承認する者は自分自身を導こうとは欲しないで、主により導かれようとする天界の天使に似ている。彼らが主により導かれるという証明は彼らはその隣人を愛するということである。しかし自然と人間自身の深慮を承認する者は主により導かれることを嫌って、自分自身を導こうとする地獄の霊に似ている。もし彼らが或る王国で偉大な人間であったなら、霊界では凡ゆる物を支配しようと欲する。もし彼らが教会の顕官であったなら、同じようにまた凡ての物を支配しようとする。もし裁判官であったら、判決を歪め、任意に法律を犯し、もし学者であったならその知識を用いて人間の自己性と自然に組みした信念を確認し、もし商人であったら、強盗として行動し、農夫であったなら、盗人として行動する。彼らは凡て神の敵であって、神的摂理を嘲笑する。