タラントンのたとえ

 

 

残りのもの不正な管理人(ルカ16章)

手をだらりと下げて

 

 

 

1.聖書

2.主より受ける仁慈と信仰

3.分離

4.ヴァッスーラ

5.凡ての者は同じく賢明になる能力を持っている

 

 

 

1.聖書

 

マタイ25・14−30

 

主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

 

 

 

マタイ13・12

 

持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。

 

 

 

 

 

2.主より受ける仁慈と信仰

 

天界の秘義685

 

他生には地上の血縁関係に譬えてもよい驚くべき交際が在る、すなわち彼らは互に他を血縁と結婚により両親、子供、兄弟、親類として認め合っていて、その愛はこうした多様な血縁関係に応じているのである。この多様性は無限であって、伝達できる認識はそれを記すことが出来ぬ程に精妙である。その血縁関係はそこにいる者たちが地上の血縁と結婚により両親であり、子供であり、または親類であったという事情には些かも関わりもなく、また人柄にも、たれがどのようなものであったにしても、何の関わりも持っていないのである。かくてそれは位階にも、富にも、またそれに類したいかようなものにも関わりがなく、もっぱら相互的な愛と信仰との多様性にのみ関わっていて、その相互的な愛と信仰とを受け入れる能力を彼らが世に生きていた間に主から得たのである。

 

 

天界の秘義2967

 

「商人のもとに通用している」。

 

これは、彼らの状態に適応した、を意味していることは、『商人』の意義から、引いては『商人に通用している』の意義から明白である。聖言における『商人』は善と真理とに関わる知識を持っている者たちを意味し、その『商品』は知識そのものを意味し、そこから『商人に通用している銀』は真理を、それが受け入れられることが出来るだけのものを意味し、またはそれと同一のことではあるが、各々の者の状態と能力とに適応した真理を意味している。この付加された言葉には或るアルカナが含まれていることは、たれでも認めることができよう。

 

 

天界の秘義2967 []

 

『商人』と『商品』の意義については、間もなく少しく述べるが、しかしその事柄そのものについては実情は以下のようである。改良され、再生しつつある者たちはことごとく主により仁慈と信仰とを与えられるが、しかし各々の者はその能力と状態とに応じて与えられるのである、なぜなら人間が幼児時代から自分自身に沁み込ませた幾多の悪と誤謬とが在り、そのため人各々他の者と同じ賜物を受けるのを妨げられており、これらの悪と誤謬とは人間が再生することが出来る以前に剥奪されなくてはならないのであり、そして剥奪された後天界的な霊的な生命の残りのものが在る限り、それは真理をもって明るくされ、善をもって富まされることが出来るからである。そのとき生命を受けるものは、残りのものであり、それは主から発して人間のもとに貯えられている善と真理である。これらの善と真理とは幼児の時代から改良の時に至るまですらも或る者には多く、或る者には少なく得られている。これらのものは彼の内なる人の中に保有されていて、彼の外なる人がそれに相応しないうちは、前面に出て来ることは出来ないのであり、相応することは主として試練により、また多くの種類の剥奪により遂行されるのである、なぜならそれらのものに反している形体的なものが(自己と世を求める愛に属しているようなものが)静止しない中は、善と真理とを求める情愛に属している天的なものと霊的なものは流れ入ることは出来ないからである、これが各々の者がその者の状態と能力とに応じて改良される理由である。このことをまた主は外に出て行った人間について言われた譬の中で教えられている―

 

 彼は自分の僕たちを呼んで、彼らにその財産をゆだね、或る者には五タラント、或る者には二タラント、或る者には一タラント与えた、すなわち各々の能力に応じて与えた。五タラントを受けた者はそれで商いをして、他に五タラントを得、同じく二タラントを受けた者も他に二タラントを得た(マタイ25・14−17等)

 

十人の僕についてもまた同じことを教えられている、すなわち、彼らに商いの資金として十ポンドが与えられたのである(ルカ19・12.13等)。

 

 

天界の秘義5291

 

マタイ25・14〜

「五タラントを受けた僕」・・主から善と真理とを容認し、かくて残りのものを受け入れた者たち。

「二タラントを受けた者」・・非常に年老いてから信仰に仁慈を結合させた者。

「一タラントを受けた者」・・仁慈のない信仰のみを受けた者。

 

 

天界の秘義5291[]

 

例えばその中に『五』が言われている以下の記事を考えてみられよ、すなわち、他国に行くに当り、その僕たちにその才能に応じて、一人には五タラント、他の一人の者には二タラント、第三の者には一タラントを与えた人間について話された主のたとえの中には―

 

で、その五タラントを受けた者はそれで商売をして、他に五タラントを得、同じく二タラントを受けた者も他に二タラントをえた、が、一タラントを受けた者はその主人の銀を地にかくした(マタイ25・14以下)。

 

文字の意義以上のことを考えない者は、五、二、一という数字そのものは単にそのたとえの物語りを作り上げるためにのみ用いられたのであって、それ以上の意味はないとしか考えないが、事実はその数字そのものに秘義があるのである、なぜなら『五タラントを受けた僕』により主から善と真理とを容認し、かくて残りのものを受け入れた者たちが意味され、『二タラントを受けた者』により、非常に年老いてから信仰に仁慈を結合させた者が意味され、『一タラント』を受けた者により仁慈のない信仰のみを受けた者が意味されているからである。この最後のものについてはかれは『その主人の銀を地に隠した』と言われている、なぜなら彼の得た『銀』により内意では信仰のものである真理が意味され(1551,2954番を参照)、仁慈のない信仰は利を得たり、または果を結んだりすることは出来ないからである。これらの数字の事柄はこのようなものである。

 

 

天界の秘義5291[]

 

他の譬えでも同様である、例えば、自分自身に王国を受けるために、遠国に行くに当って、その僕たちに十タラントを与えて、自分が帰るまでそれで商いをするようにと言いつけた者について話された譬えも同様である。彼が帰ってくると、最初の者は言った―

主よ、あなたの一ポンドは十ポンドを儲けました。で、彼は彼に言った、良い僕よ、良くやった、あなたは非常に小さいことにも忠実であったから、十の都を支配しなさい、第二の者は言った、主よ、あなたの一ポンドは五ポンドを得ました。で、彼はまた彼にも言った、あなたもまた五つの都を支配しなさい、第三の者はその一ポンドをナプキンに包んでいた。しかしその主人は言った、彼からその一ポンドを取り去り、十ポンドを持っている者に与えなさい(ルカ19・12以下)。

ここにも同じように『十』と『五』は残りのものを意味している。ナプキンの中にその一ポンドを包んだ者は、信仰の諸真理を自分のために得はするが、それに仁慈の諸善を連結させはしないで、そこから何の利得もまたは実も得ない者を意味している。

 

 

神の摂理210[]

 

「凡てこれらの事は人間は自己から生まれた力により考え行動するように人間に見えるということに依存している。」

人間は自分自身から生き、かくて自分自身から考え、意志し、語り、行動するように見えない限り、人間でないことは前の頁に充分に示された。人間はその職業と生活に関連した凡ての物を恰も自分自身の深慮により左右するかのように左右しない限り、神的摂理により導かれ、左右されることは出来ないことが推論される、なぜならもしそうでないと彼は手をだらりと下げて、口を開け、眼を閉じ、流入を期待して息を殺して立っている人間のようになり、かくて彼は、自分は自分自身から生き、考え、意志し、語り、行動しているという認識と知覚から彼に生まれている人間的な特質を失うと同時に人間を獣から区別する自主性と合理性の二つの能力を失うからである。この外観なしには人間は受容し、働き返す力を持つことは出来ず、かくて不滅でなくなることは既に本書とまた「神の愛と知恵」を取扱った著作に示されている。それゆえもし諸君が神的摂理により導かれようとするならば、諸君の深慮を主人の財産を忠実に処理する僕、部下として用いられよ。この深慮は、商売の資本として僕たちに与えられて、僕たちはその清算をしなければならなかったタラントである(ルカ19・13−25、マタイ25・14−30)

人間には人間自身の深慮は深慮そのものであるかのように見える。彼は自分の中に自己愛という、神と神的摂理の最も恐るべき敵を抱いている限り、そのことを信じている。これは生来凡ての人間の内なる心に住んでいる。もし諸君がそれを摘発することが出来ないなら―それは摘発されまいとしているが―それは安全に住んで、扉を人間により開かれないように、また人間がそれを開いた後で自分が主により追い出されないようにと守っている。人間は悪を罪として、恰も自分自身の力により避けるかのように避けることにより、しかし自分は主から与えられている力によりそれを避けることを承認しつつ避けることにより戸を開くのである。これが神的摂理が共になって働く深慮である。

 

 

3.分離

 

天界の秘義4424

 

前に引用した主の御言葉がその内意に含んでいることは解説の要もなく認めることが出来よう。なぜなら主はその言葉を表象的なものと表意的なものとによって語られるよりも譬えによって語られたからである。ただ最後の節の言葉により意味されていることのみを述べよう。すなわち、『彼は彼を切り離し、その分を偽善者と同じくしよう。そこに彼は嘆き、歯がみするであろう』(マタイ24・51)。

は、善と真理から分離され、遠ざけられることを意味している、なぜなら教会の中にはいるが、悪い生活のなかにいる者のように、善と真理に関わる知識の中にいる人たちは、その知識から遠ざけられるときは『切り離たれる』と言われるからである。なぜなら善と真理の知識は他生で彼らから分離し、彼らは悪の中に留め置かれ、それゆえまた誤謬の中に留め置かれるからであり、そうしたことが行われるのは彼らを真理の知識によって天界と交流し、悪とそこから派生してくる誤謬とにより地獄と交流し、かくしてその両者の間にぶらさがらせないために行われるのであり、また彼らに善と真理とを冒涜させないために行われるのである。なぜなら善と真理とに誤謬と悪とが混入すると、その冒涜が行われるからである。そのことはまた地にタラントを隠した者に言われた主の御言葉によっても意味されているのである。『それで彼からそのタラントを取り去って、十タラントを持っている者に与えなさい、持っている者はたれでも与えられるが、持たない者からは、その持っているものでさえ、取り去られるからである』(マタイ25・28,29)、またそのことは主がマタイ伝の13章12節、マルコ伝4章25節、ルカ伝8章18節に言われていることによって意味されているのである。

 

 

天界の秘義2449[]

 

他生に入ってくる者はことごとくその者らが身体の中で送っていた生活に類似した生活へ再び入れられ、かくて善良な者にあっては、その者たちが善と真理とにより主により天界へ挙げられるために、悪と誤謬とは分離されてしまうが、しかし悪い者にあっては、その者が悪と誤謬により地獄へ連れ去られて行くために、善と真理とが分離されてしまうのであり(2119番参照)、そのことはマタイ伝における主の御言葉に正確に従っているのである―

 

 たれでも持っている者はさらに豊かに持つために、与えられるが、しかし持たないものはその持っているものさえもその者から取り去られるであろう(13・12)。

 

同書には他の所に―

 

 持っている者は、豊かに持つために、与えられるであろう、しかし持っていない者からは、その持っているものすらも取り去られるであろう(25・29、ルカ8・18、19・24−26、マルコ4・24,25)。

 

同じ事がマタイ伝の以下の言葉によりまた意味されている―

 

 二つとも収穫までともに生やしておきなさい、収穫の時わたしは刈る者に言いましょう、先ず毒麦を集め、それをつかねてたばにし、焼いてしまいなさい、しかし小麦は集めて、納屋に入れなさい、と。収穫は代の終りである、それで毒麦が集められて、火に焼かれるように、代の終りにもそのようになるでしょう(13・30,39,40)。

 

これと同じことがまた、あみが海に投げられて、種々の魚がとられたが、善いものは集められて器の中へ入れられ、悪いものは棄て去られたことについて、代の終りにもそのようになることについて言われていることにより意味されている(47−50節)。

 

 『終り[終結、完結]』とは何であるか、それは教会にかかわるこれらのことに類した事柄を意味していることは、前の1857、2243番に見ることができよう)。

 

 悪と誤謬とが善良な者たちから分離されてしまう理由は、善良な者たちが悪と善との間に垂れ下がらないで、善により天界へ挙げられるためであり、善と真理とが悪い者から分離してしまう理由は、悪い者がその者にぞくしている何らかの善により正しい者をたぶらかさないためであり、またその悪によりその者らが地獄にいる悪い者の間へ去ってしまうためである。なぜなら思考のあらゆる観念とあらゆる情愛とは他生では、善が善良な者の間に、悪が悪い者の間に伝達されるように伝達され(1388−1390)、かくて善[善良な者]と悪[悪い者]が分離されないかぎり、その結果無数の害悪が生まれてきて、さらにともに交わることはことごとく不可能となってしまうからであるが、事実は、あらゆるものは諸天界では主に対する愛と相互愛のあらゆる相違に応じ、またそこから派生してくる信仰のあらゆる相違に応じて(685、1394番)地獄ではいくたの欲念のあらゆる相違に応じて、そこから派生してくる幻想のあらゆる相違に応じて、極めて精妙に交わっているのである(695、1322番)。しかしながら分離は完全な除去ではないのである、なぜなら何人からもその者の得たものはことごとくは取り去られはしないからである。

 

 

黙示録講解112[]

 

 霊的な起原から真理に対する情愛の中にいる人間は、前に知っていた事柄よりもさらに多くの事柄を知るのである、なぜならかれが得ているその全般的な知識は、多くのものを満たされることができる容器のようなものであり、それは現実にかれが天界へ入ってくるとき満たされるのである。それがそうであることは単に以下のことのみからでも認められることができるのである、すなわち、天界の凡ゆる天使は人類から来てはいるものの、充分に知られているように、かれらは単に表現することもできない、また把握することもできないものによってのみ記されることができるような知恵をもっているのである。(天界の天使たちは人類以外のいかような源泉からも来てはいないことについては、「天界と地獄」、311−317番、「最後の審判」、14−22番を参照されたい。)

この満ち満ちた理知と知恵とはルカ伝の主の御言葉により意味されているものである―

 

 おさえつけ、揺すぶられ、こぼれおちている充分な升目のものが、あなたらの胸の中へ与えられるでしょう(6・38)。

 

またマタイ伝には―

 

 たれでも持っている者は、与えられ、さらに多くのものを豊かに得るでしょう(13・12,25・29)。

ルカ伝には―

 

 主人は、与えられた一パウンドから十パウンドを得たその僕に言った、あなたは非常に僅かなものにおいても忠実であったため、十の都を治める主権を得なくてはならない(19・16,17)。

 

『十』によりここでは多くのものと充分なものとが意味され、『都』により理知と知恵とが意味されている。(『十』は多くのものと充分なものとを意味していることについては、「秘義」、1988、3107、4638番を、都は理知と知恵とに属している事柄を意味していることについては、2449、2712、2943、3216、3584、4492、4493、5297番を参照されたい)。

 

 

黙示録講解193ロ(10)

 

 聖言から得られた真理と善とにかかわる知識は己がために霊的な知識を得てはいない者らからとり去られてしまうことは、僕らに、その者らが商いをして利益を上げるようにと与えられたタラントとポンドにかかわる、また商いをしないで、何一つ得はしなかった僕にかかわる主の譬え話の中にもまた意味されており、その者についてはその譬えの中に以下のように記されているのである―

 

    ・・(マタイ25・14−30)

 

また他の所には―

 

    ・・(ルカ19・13−26)

 

ここでは『タラント』、『ポンド』、『金』は聖言から発した真理と善とにかかわる知識を意味し、『商いをする』、『利益を得る』、『銀行家に委ねる』、または『銀行に預ける』は、それにより己がために[自ら]霊的な生命と理知とを得ることを意味し、『それを地の中に』または『ナプキンの中にかくすこと』は、自然的な人の記憶の中にのみ、を意味し、それでそうした者らについては、この項目の初めの中に説明されたことに従って、かれからはそのもっているものも取り去られなくてはならないと言われているのである。

 

(11)そうしたことは、聖言から知識を己がために得はしたものの、それを生命[生活]に委ねはしないで、たんに記憶にのみ委ねた凡ての者のもとで他生で起るのである。聖言から得られる知識を記憶の中にのみ貯える者は、たとえその知識は数千にたっしていても、それを生命[生活]に委ねなかったなら、前のように自然的なものとしてとどまるのである。聖言から得られる知識を生命[生活]に委ねることは、人が、自分自身の自由に委ねられたとき、その霊[精神]から考えるとき、その知識から考え、またその知識を意志し[欲し]、それを行うことである、なぜならそのことは真理を、それが真理であるために愛することであり、そのことを行う者たちは聖言から得られた知識により霊的なものとなる者たちであるからである。

 

 

黙示録講解242ホ(20)

 

 なぜこうしたことが行われ、それはいかようなことを意味しているかは、「天界の秘義」(6914、6917番)に見ることができよう、すなわち、悪い者らが持っている物はかれらから取り去られて、善い者たちに与えられることを表象するためであり、そのことはマタイ25・28、29、ルカ19・24,26の主の御言葉に従っており、(ルカ16・9における主の御言葉に従って)、かれらは自らに不正のマンモンにより友を作らねばならないことを表象するためである。『不正なマンモン』は、真理と善とにかかわる知識を正当に持っていない者らにおける、その知識を生命に適用しない者らにおけるその知識を意味している。

 

 

黙示録講解675イ(7)

 

『十』は凡てのものを、同じくまた多くのものを意味しているため―

 

    ・・・(ルカ19・12−14,16・20,24)。

 

ここにもまた『十』と『五』とが用いられているのは『十』は凡ゆる人物と凡ゆる物とを意味し、『五』は若干の人物と若干の物とを意味しているためである。貴族が遠い国へ出かけるにあたって手許に呼んだ『十人の僕』は、世にいる凡ての者を意味し、とくに教会に属している凡ての者を意味している、なぜなら『貴族』は主を意味し、『遠い国へ出かけること』は、主が世から去られて、そのさい不在であるように見えることを意味するからであり、『商売の資本として十人の僕たちに与えた十パウンド』は、聖言から発している真理と善との凡ゆる知識を―その知識を認める才能とともに―意味している、なぜなら銀であり、金であった『パウンド(ミナ)』は真理にかかわる知識と認識する能力とを意味し、『資本とする』は、それらのものにより理知と知恵とを得ることを意味するからであり、多くのものを得る者たちは一パウンドから十パウンドを得た者により意味され、いくばくかのものを得る者たちは一パウンドから五パウンドを得た者により意味されている、『かれらに与えられると言われる都』は教義の真理を意味し、『それらを得ること』は、理知と知恵を、そこから発する生命と幸福とを意味している。そこから『十の都』と『五つの都』により意味されていることが明白である。理知を何一つ得ない者らは『愚かな処女』に似ているため(その者らについてはすぐ前を参照)、これらの者は記憶の中にのみ真理を得、生命の中には得ていないため、この世から去った後は、真理を剥奪されるが、真理を記憶の中にも生命の中にも得る者たちは永遠に理知において豊かになり、それで『かれらは一パウンドで何一つ得なかった者からそのパウンドを取り去り、十パウンドをもっていた者に与えなくてはならない』と言われている。

 

(8)以下の者たちの場合も同じである―

 

    ・・(マタイ25・14−30)。

 

ここにもまた『五』と『十』は同じく多少のものと多くのものとを意味しており、かくて、最初の者は真理と善とにかかわる多少の知識から多くの知恵を得るのである。理知を何一つ得ていない者からはそれは取り去られて、多くのものを得ている者に与えられるのは、人間は死後霊となるとき、かれは凡ゆるものを携えて行き、また聖言から、教会の教義から引き出した凡ゆる個々のものを携えて行くためである。しかしそれらのものを通して、理知を何一つ得ていない者らは内的には悪であり、それゆえ天界と教会との諸真理と諸善とを濫用して、それらを単に記憶の中にのみ得ており、最低の天界にいる単純な善良な者たちに主権を行使し、かれらに悪を行うのである。このことがそれらの真理と善とがかれらから取り去られて、多くのものを持っている者たちに与えられる理由であり、そのことは後の者たちはそれらのものを誤って用いはしないで、それらのものからいくたの用を遂行するためである。

 

(9)世において聖言から真理と善とにかかわる知識を通して霊的な理知を入手しない者らは、悪い者らであり、そのことは以下から認めることができよう、すなわち、凡ての者は凡ゆる種類の悪の中に生まれていて、それらの悪は聖言から神的諸真理によってのみ除かれ、すなわち、真理を用に適用し、かくて諸真理を生命の中に受け入れることによってのみ除かれるのである。それで(霊的な生命を)得た者には以下のように言われている―

 

 善良で忠実である僕たちよ、あなたらは僅かな事柄について忠実であった。わたしはあなたたちに多くのものをつかさどらせよう。あなたらは主の楽しさの中へ入りなさい(21、23節)。

 

 何一つ得なかった者に対しては―

 

 その益を何ら生まない僕を外の暗黒へ投げ出しなさい、そこで泣き叫び、歯がみするであろう(30節)

 

 

神の摂理17

 

 人間は世の生活の間に、善と真理、または悪と誤謬の結合或いは一致に到達することは殆どできない。なぜなら彼は世に住む限り、改良または再生の状態におかれているからである。しかし凡ての人間は死後何れかの結合に入って行く。なぜなら彼はその時もはや改良されることも、再生することもできないからである。その時彼は世のその生活のままに、すなわち、彼を支配していた愛のままになる。それ故もしその生活が悪を愛した生活であったならば、かれが世で教師、説教、または聖言から得た真理はすべて彼から取り去られ、彼はスポンヂが水を吸収するように、彼の悪に一致した誤謬を吸い込むのである。これに反し、もしその生活が善を愛した生活であったなら、彼が世で聞きまた読んで得たものの、確認はしなかった誤謬はすべて、そのとき彼から取り去られ、代って彼の善に一致した真理が与えられる。これは主の以下の語により意味されている、「その者からそのタラントを取って、十タラントを持った者に与えよ、持つ者は凡て与えられて、豊かになるが、持たない者からはその持っている物も取られるのである」(マタイ25・28,29,13・12、マルコ4・25、ルカ8・18,19・24−26)

 

 

4.ヴァッスーラ

 

ヴァッスーラ・神のうちの真のいのち・10巻P173

‘01・5・5・

 

タラントの譬え話を聞いたことがあろう(*)? 我が家(*1)が神の家を富ませるよう あなた方皆を呼び集めていると 気づいたであろう? この時が清算のとき あなたの忠誠を証しするときだとは 気づかないか?

 

この聖別された日々に私は 成聖の恵みを皆に授けてきた。 貧しい者も 富んでいる者たちと同じようにそれを受けた。 私は 誰をも拒まなかった。 しかし今、家の主人は、進み出て自らの忠誠を証しするよう、あなた方に求めておられる、あなたにこう言えるよう、「よくやった、善良で忠実な霊魂よ、小さなものに忠実であったから、もっと大きなものを任せよう。 さあ、あなたの主人と喜びをともにしなさい!」

 

あなたの主人をがっかりさせて こうは言わせないように、「何を私にしてくれたか? 善いわざをあなたは 何も見せてくれてはいない。」真に悔い改めて私に心を開くなら 私は癒しの香油を注ぎ入れ、あなたも善良な者となれる。 私から自らを切り離さないように、あなたの思いを 私の現存で満たすのを許しなさい そうするなら私の嗣業は あなたのもの。 象牙の塔のように高く強い者となって 私を歓びで溢れさせてほしい。

 

*マタイ福音25・14−30。   *1同時に:「家の主人が・・・」と言われているのも聞こえました。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P243

‘02・8・7

 

ヴァッスーラ、私と共にあなたは 暗い谷間を照らすために黙々と(*)仕事をしていく。 聖霊があなたに書かせるすべてが この世代とほかの世代を教え導こう そして与えた使命を妨害する者は誰であろうと、我が霊のわざを妨げている。 それを耳にする者すべてを新しい存在へと導く我が言葉は すべて宣べ伝えなさい、そしてこのように言う人たちを 気に留めないように(*1)、「もし神に遣わされ あなたの言う言葉が神に由来するなら、自分自身とこうした言葉を全部隠して 自らの謙遜を証明しなさい。 世界中を巡って 自分とその言葉を見せびらかすのはやめなさい」と。

 

こう言う人たちには このように答えるがよい、「私は自分のタレントをしまい込んで 何もしなかったと非難される悪い僕のようにはなりません。 その逆に、お任せ下さったお方に栄光を帰して 私のタレントを倍にふやします。 この驚くべき不思議(*2)を今の世代に、私が伝えるだけではなく、将来の世代に向っても 天使たちが神のみ言葉を運んで 上から雨あられと播かれた種子のようにひろめ続けるでしょう、神の被造界を新たにし 教会を美しく飾るために。 神の子どもたちの口を喜ばせ その口を開いて神を讃美させるために。 ご自分の子どもたちの目を開き 心を吟味できるようにさせて。 私は全身を主の聖なる名によって封印されているので 恐れません。 私は 主が伝えて下さったと同じ真理を宣言する 主の声高に話す書物です。 従って、何も新しいものはなく、私自身に由来する何か新しいものもありません、兄弟たちよ、私に言われたことは全て 聖なる知識に由来し 三位一体の神の口より発せられたものです。」彼らには 私の名によってこう述べなさい。

 

私を 深く観想しなさい、まこと愛する者よ、そして我が心に安らぎを見いだすように・・・

 

 

5.凡ての者は同じく賢明になる能力を持っている

 

天界の秘義10227

 

 主に凡てを帰している者たちは他の者よりも賢明であるが、それは知恵を構成している真理と善との凡ゆるものは天界から、すなわち、天界の主から流入しているためである。主に凡ゆるものを帰することにより人間の内部は天界に向かって開かれるのである、なぜなら真理と善とは一つとして人間自身からは発していないことがそのことにより承認され、このことが承認されるに比例して、自己への愛が去り、自己への愛とともに誤謬と悪から発した暗闇も去ってしまうからである。またそれに比例してその人間は無垢へ、主に対する愛と信仰へ入り、そこから神的なものとの連結が生まれ、神的なものとの連結から流入と照示[明るくされること]とが生まれてくるのである。この凡てから或る者は賢明になり、また或る者はそれほど賢明でなくなることが何処から生まれてくるかが明白であり、また富んだ者はさらに多く捧げてはならないし、貧しい者もさらに少なく捧げてはならない理由も明白である―すなわち、凡ての者は同じく賢明になる能力を持っているのであり、実に賢明になる等しい能力を持っているのではないが、何れも賢明になることが出来るため、賢明になる能力を持っていることにおいては似ているのである。