不正な管理人
1.聖書
2.マリア・ワルトルタ
3.慎重・・・狡猾
4.天界へ迎え入れてくれる友
5.富んだ者
6.紅の衣
7.目のつんだリンネル
8.入口の投げ出されていた貧しい人間
9.不正なマンモン
10.五十
11.家の執事、管理人
12.ローマ信徒への手紙より
13.ヴァッスーラ
14.ツロの商品
15.不正な者
16.掘る
17.アブラハムの懐
1.聖書
ルカ12・35−48
「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸を叩くとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのためですか」と言うと、主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。
しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」
ルカ16・1−31
イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口する者があった。そこで主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』
また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』
主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。
そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。
ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。
だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。
また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。
どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。
そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。
律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。
しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。
妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」
「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、
その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」
2.マリア・ワルトルタより
天使館/マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/6巻上/381/P230
不忠実で抜け目のない管理人の譬え。ファリサイ派の偽善。一人のエッセネ派の回心。
1946年2月10日
そして、イエズスは話し始める。
「もしも人間が、天におられる父が望まれるように、完全であったら、どんなによいでしょう。思考、感情、行動のすべてにおいて完全でいられるなら。けれども、人間は完全になる方法を知らず、神から贈られた数々の賜物を乱用します。神は、人間に行動の自由を与えられましたが、人間が『知りませんでした』と言わないよう、善を命じ、完全を勧められました。
人間は神にもらった自由をどのように使っているでしょうか? 大部分の人がまるで子供のように、あるいは愚か者のように使い、その他の人は犯罪者として使います。すると、死の時が来て、審判者から、厳しく問われるでしょう、『私があなたに与えたものを、どのように使いましたか?』。なんと恐ろしい質問! 人間をしばしば罪に陥らせたこの世の善が、なんと小さなものに見えるでしょう! 永遠の貧困の中で哀れに、一枚しかない衣を脱がされ、主の威光の前に震えながら、落胆して立つでしょう。哀れな人間を欺いて自分を弁護することは簡単です。けれども天においてそれはあり得ません。神を欺くことはできないのです。決して。そして、神は、いかなる妥協にも甘んじません。決して。
それでは、人間はどのようにすれば救われるでしょう? 人間はどのようにしたら、自分の救いに役立つものをすべて利用できるでしょう? たとえば、最初は堕落から発したとしても、人間に富の道具としての金属と宝石の使用を教え、権力と肉体的喜びへの欲求を育んだものについては、どうでしょう? そう、人間は、どんなに貧しい人間でも、金や、地位や、女をやたらに望んで罪を犯すことがあり得ます―金持ちが持っているそうしたものを望んで、泥棒になることもあります―すると、人は富んでいても貧しくても、自分を救うことはできないのでしょうか? そんなことはありません。どうしたらよいでしょう?
善のために富を役立て、善のために貧困を役立てるのです。貧しい人は、羨まず、呪わず、他人のものを自分のものにしようとせず、自分の持っているもので満足し、貧しい状況を将来の聖性のために役立てようとすればよいのです。実際、ほとんどの貧乏人は、そのすべを知っています。けれども、金持ちはそれほど簡単ではありません。富というのは、サタンが次々と仕掛ける三大欲の罠だからです。
けれども、これからする譬え話を聞きなさい。そうすれば、金持ちが金持ちであっても、自身を救えることが分かるでしょう。あるいは、過去の富、それが不正に得られたものであっても、それを有効に利用することによって、過去の過ちを償うことができるということを。なぜなら、神は、最も善なる神であり、常に子らが救われるためのたくさんの手段をお認めになるからです。
さて、ある金持ちのところに、一人の管理人がいた。その金持ちの男と非常に仲が良い者たちが、その富のことを気にかけ、また、この管理人が優遇されていることを羨んで、主人に告げ口をした。
「あなたの管理人は、あなたの財産を無駄遣いしていますよ。あなたの物を使い込んでいます。あるいは、増やそうとしていません。気をつけなさい。自分を守らなければ!」
金持ちはそんな告発を何度も耳にすると、管理人を呼び出して言った、「おまえの噂を色いろと耳にしたが、いったいどういうことだ? 管理の明細を提出してもらおう。もうおまえに管理させるわけにはいかない。もうおまえを信用できない。他の使用人がおまえの真似をするといけないから、不正を卑屈に赦すわけにはいかない。明日、証文を全部持って来なさい。ほかの者に管理を任せる前に、調査して、私の財産の状況を確認しておきたい」。そして、管理人を帰らせた。管理人は、帰りがてら、心配して独り言を言った、「さて、どうしたものだろう? 主人は私から管理の職を取り上げようとしている。私には蓄えがない。なんとかなると思っていたから、掠め取ったものは全部遊びに使ってしまった。小作人として働くのも、人に使われるのも気が進まない。もう土を掘る力もないし、飲み食いのし過ぎで太ってしまった。物乞いをするのはなおさらいやだ。あまりに恥ずかしい! だが、どうしたらよいだろう?」
彼はさんざん考えて、苦境を脱する方法を思いついた。彼は言った、『そうだ、こうしよう! 私は今まで楽しい生活を送ってきたのだから、管理の職を辞めさせられた後も、友だちが感謝の気持ちで私を家に迎えてくれるよう、手を打っておこう。親切にする人には、友がいる。さあ、皆を助けに行こう。助けておけば、助けてくれるだろう。噂が広まらないうちに、すぐに行こう』。
そして、管理人は、主人に負債のある人たちのところへ行った。最初の人に、『三年前の春、私の主人にどれだけ借りたのか?』と尋ねた。相手は、『利息を含めて、油百バトスです』と答えた。
『おお、気の毒に! その大家族で、病気の子を抱えて、なぜそんなにたくさん返さなければならないのだ?! 主人は油三十バトス分の金をくれなかったのか?』
『ええ、でも、ものすごく困っていたものですから。それに言われたのです、「三年後に、これを元手にしておまえが得たものを返してくれればよいから、これをおまえに渡す」と。ちょうど百バトスになりましたから、百バトス返さなければなりません』。
『それは高い! やめなさい! 主人は金持ちだ。おまえは飢え死にしそうではないか。主人は家族が少ないが、おまえは大家族だ。ここに、五十バトスと書いて、忘れなさい。私がその通りだと誓う。そうすれば、おまえの儲けになる』。
『でも、私を裏切らないでしょうね? もしも見つかったら?』
『そんなことがあり得るか? 私は管理人で、私がそうだと言えばそれが尊重される。私の言ったとおりにしなさい、心配はいらない』。
男は証文に署名し、管理人に渡して言った、『ありがたい! あなたは私の友、救い主です。どうやってお礼したらよいでしょう?』
『なんのなんの! でも、もしもこのことで私が辞めさせられたら、そのときはよろしく頼みますよ』。
『もちろんです! 絶対に! 任せてください!』
管理人は別の債務者のところに行き、同じようなことを言った。この男は、小麦を百コロス返さなければならないことになっていた。干魃(かんばつ)で、三年間収穫がなく、家族を養うために借りなければならなかったのだ。
『主人からもらった分の倍加は忘れなさい! 一方の家族は飢えていて、もう一方では、納屋の小麦を虫に食わせているというのに、どうして二倍の小麦を与えないのだ。納屋には有り余っているのだから! 八十コロスと書きなさい』。『でも、もし主人が、最初に二十コロス、次に二十コロス、そして十コロスくれたことを覚えていたら?』。
『どうして覚えていられる? 私がおまえに渡したのだ。そして、私は覚えていたくない。私が言ったとおりにしなさい。そうすれば、全部うまく行く。金持ちと貧乏人の間には、正義がなければならない! もしも私が主人だったら、五十コロスしか受け取らない。そして、それも免除するだろう』。
『あなたは善い人です! 皆があなたのようだったらよいのに! 私の家はいつでもあなたに開かれているということを覚えていてください』。
管理人はそのようにして、別の債務者たちを訪ね、物事を正義に従って処理するために、喜んで労を取ろうと申し出た。そして、困ったときには力になるというありがたい申し出を浴びるほどもらった。
管理人は自分の将来が確約されると、主人のところへ行った。主人の方では、管理人のあとをつけて、からくりを見破っていた。しかし、主人は管理人をほめて言った、『おまえのしたことは不正であり、それをほめるわけではない。けれども、おまえの抜け目なさはほめなければならない。この世の子らは、光の子らよりも、実に抜け目がないものだ』と。
そこで、私は金持ちが言った言葉をあなたたちに言います、『不正はよくない。私はだれにも推奨しない。けれども、少なくともこの世の子らがこの世を生きるときに用いる抜け目なさだけは、見習いなさい。光の王国に入るための手段として、抜け目なさを金のように役立てなさい』と。つまり、この世の富を役立てなさいということです。それは不正に配分された手段で、はかない幸福を買うために用いられ、永遠の王国では、何の役にも立ちません。それらがあなたがたに扉を開けてくれるようにしなさい。あなたが持っている財産で貧しい人を援助しなさい。あなたやあなたの家族が不正に得たものを返し、富への邪悪な愛着を捨てなさい。そうすれば、あなたが死んだとき、こうしたすべてのことが、あなたを友人のように永遠の門に招き入れ、幸せな住まいにあなたを受け入れるでしょう。
あなたがたが、地上の恵みさえうまく仕えないことを神に見られたら、どうして神が天の恵みを与えてくださると望めるでしょう? 神が天のエルサレムに浪費家を受け入れてくださるなどと、想像できますか? 決して、あり得ません。天のエルサレムで、人は愛と寛容と正義とともに生きるのです。だれもがお一方のために、だれもが皆のために生きるのです。諸聖人の通功は、活動的で誠実な交わりです。それは聖なる交わりです。不正で不実な人と証明された人は、だれもそこに入ることができません。
あかし書房/マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3・P68
「天におられる父が望むように、人間が完全であるとしたら何と美しいものでしょう。しかし、人間は思考、愛情、行動において完全さを守らず、神の賜物を善く使うことを知りません。神は行動の自由を人間に与えたが、善い行いを命令し、完全な行いを命令し、完全な行いを勧めています。人間が『私は知らなかった』と言わないように、人間は神にもらった自由をどのように使っているか。子供のように、愚かな者のように、もっと悪いことには悪人であるかのように使います。それから死がやってくると、最高の審判者から、人間は“私があなたに与えた恵みをどのように使い、またどのように悪用したか”と聞かれるに違いない。何と恐ろしい質問でしょう。人間は恵みを手にするために、しばしば罪を犯したが、死の時にはこの世の恵みがわら屑以下に見えるはずです。惨めで、主の御稜威(みいつ)の前に裸でいるように震え、弁解のことばも見つからないはずです。なぜなら、この世において、あわれな他の人間をだましておいて自己弁護するのは、実にたやすいことです。だが、神はだまされない、いついかなる時も。また、神が妥協することもない。では、人間はいかにして自己を救いえるでしょうか。やたらに金、地位、女を望み、それのためにはいつでも罪を犯す人間は― 時として、それらを手に入れるために泥棒にも犯罪者にもなりえる ―金持ちであれ、貧乏人であれ、救いはないのだろうか。財産を善のために用い、貧しさを善のために捧げるをもって救われる。他人をねたまず、呪わず、他人のものに手を出さず、己の持てるもので満足する人は、己の貧しい身分を永遠の聖徳のために用いる。幸いにもそうする貧乏人はいるが、大抵の金持ちにはそれができない。それは、金持ちにとってもろもろの邪欲のもとである富に、サタンの罠が仕掛けられるからです。今から話すたとえを聞けば、金持ちは金持ちであっても救われるし、また、不正に手に入れた富であっても、これまでの過ちは直せると分かるはずです。なぜなら、いとも善き神は、救われるようにと我が子たちに多くの手段を残すからです。
ある金持ちに言った言葉をここで繰り返します。
詐欺をするのは善いことではないので、それをしただれかを私が褒めたりするわけがないが、少なくともこの世に生きる子供としてこの世の手段に精通しており、それを光の国へ入る金として使うように勧めます。つまり、多くの場合、不正な手段を使って手に入れた財産で施しをしなさい。自分もしくは家族の一員が何の権利もなく奪ったものなら、それを返し、富に抱く病的に邪悪な執着を捨てなさい。
おまえたちがこの世の恵みを善く使えなくて、どうして神に天の恵みをくれるように要求できますか。邪悪な人間が、天のエルサレムに入れる可能性が少しでもあると思うのですか。絶対にない。そこでは、愛徳と寛大さと正義をもって生きるのです。皆は一人のため、そして一人は皆のために。諸聖人の通功は正直で活発な会であり、聖なる会です。不正で不実だった人は、だれであれその会には入れない。
“でも、天においては、皆、忠実で正しくなるでしょう。なぜなら、あの世にはどんな恐れもなく、何でも手にしているでしょうから”と言ってはなりません。小さなことに不正な人は、すべてを所有していても不正です。小さなことに不正な人は、多くのことにも不正に違いない。この世の財産を善く使えないと見える人に、神がまことの財産を委託するわけがない。
地上に残る兄弟たちを支える霊として、神は守ってくださるが、他人のものを奪ったり詐欺をしたり、自分の特権に執着した人は守ってもらえない。その代わりに、この世で利にさとく、不正で得たものでも、それを正義のために使う人は、神の恵みをもらうのに値します。どんな下僕も二人の主人に仕えることはできず、人間が選びえる二人の主人は、神もしくはマンモンです。前者のものでありたいならば、後者の旗印のもとに寄り集まり、その声を聞き、その手段を使うことはできません。」
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3・P314
(ケリオットのユダの独り言)
・・・考えてみると、私はイエズスのたとえ話のうちの不正をする管理人みたいだ・・・私が友人に頼るのは、私のためでもあるし、イエズスのためでもあるのだから。善い目的のために不正な手段を使っているだけさ・・・いや、いけない。イエズスを納得させるためには練り直した方がいい。こんなごまかしはいいとは言えない・・・
天使館/マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/7巻上/442・2/P85
結局のところ・・・わたしはイエズスの譬えの不誠実な管理人の行動をしている・・・わたしが友人に頼るのは自分のためだが、イエズスのためでもある。だから、不正な手段を用いて・・・いや、だめだ! もう一度イエズスを説得しよう。この口実で大丈夫かな・・・そして・・・おお! イエズスを納得させられたら! そうしたら素敵だ! そう・・・とても!
3.慎重・・・狡猾
詩篇64
神よ、悩み訴えるわたしの声をお聞きください。
敵の脅威からわたしの命をお守りください。
わたしを隠してください。
さいなむ者の集いから、悪を行う者の騒ぎから。
彼らは舌を鋭い剣とし
毒を含む言葉を矢としてつがえ
隠れた所から無垢な人を射ようと構え
突然射かけて、恐れもしません。
彼らは悪事にたけ、共謀して罠を仕掛け
「見抜かれることはない」と言います。
巧妙に悪を謀り
「我らの謀は巧妙で完全だ。
人は胸に深慮を隠す」と言います。
神は彼らに矢を射かけ
突然、彼らは討たれるでしょう。
自分の舌がつまずきのもとになり
見る人は皆、頭を振って侮るでしょう。
人は皆、恐れて神の働きを認め
御業に目覚めるでしょう。
主に従う人は主を避けどころとし、喜び祝い
心のまっすぐな人は皆、主によって誇ります。
天界の秘義3900[5]
「見よ、わたしは前以てあなたたちに話したのである」(マタイ24・25)。
これは慎重であるように、すなわち、警戒するようにとの勧告を意味している、なぜならかれらは、羊の装いをして現れてはいるが、内はどん欲な狼である偽予言者の間にいるからである(マタイ7・15)。『偽予言者』は(ルカ伝16・8に記されているように)光の子たちよりもその世代ではさらに慎重であるところの(すなわち、さらに狡猾であるところの)時代の子である。そうした理由から主は以下の言葉でかれらに勧告されている、『見よわたしはあなたたちを狼の中に送り出すように送り出すのである。だから蛇のように慎重であり、また鳩のように単純でありなさい』(マタイ10・16)。
天界の秘義3993[12]
さらに善いものを、たとえそれが隣人の善であれ、わたしたちの国の善であれ、または教会の善であれ、その目的としているところの擬装と狡猾[狡知]とは熟慮[深慮、用心深いこと]であって、そうしたものが混入している悪はその目的からまたその目的のために、善と混合することができるのである。しかし悪をその目的としている擬装と狡猾とは熟慮ではなく、策謀と詐欺であって、それとは善は決して連結することはできないのである、なぜなら悪の目的となっている詐欺は人間の凡ゆる事柄の上にその全般的なものにも個別的なものにも奈落的なものを生み出しており、悪を真中におき、善を周辺に放逐してしまい、そうした秩序は奈落の秩序そのものであるからである。他の無数の場合も同じである。
天界の秘義6655
「さあ、わたしたちはそれを慎重に取り扱おう」(出エジプト記1・10)
これは狡猾を意味していることは、「慎重」の意義から明白であり、それは真理と善から遠ざかっている悪い者について言われているときは、狡猾である。なぜなら悪い者がその狡猾から、また詐欺から行うものをかれらは慎重(なこと)と呼んでいるからである。「慎重(なこと)」により意味されている狡猾について、ここに若干述べて良いであろう。悪にいる者は凡て狡猾を「慎重」と呼び、理知と知恵をそれ以外のものから成立させはしないのである。世でこうした性格を持った者らは他生ではさらに悪くなり、そこで善い真のものに反したことを狡猾から絶えず行い、真理を誤謬によって、いかような技巧を、またはいかような邪悪な議論を弄してでも、無価値なものとし、破壊できるように自分自身に思われる者らは、かれらの間では理知があって、賢明な者であると認められているのである。このことから教会の内で慎重を狡猾から成立させる折のその人間の性質のいかようなものであるかを認めることができよう。すなわち、かれらは(そのとき)地獄と交流しているのである。真の教会の人間である者たちは狡猾を嫌悪するほどにもそこから遠ざかっており、かれらの中で天使のような者である者たちは得べくば自分の心が開かれて、その思うことが何人にも明らかになるように願っているのである。なぜならかれらはその隣人に対しては善以外には何ごともねがってはいないし、もしたれかの中に悪を見ても、それをゆるすからである。悪にいる者らはそうではない。かれらはその考え、欲することが何であれ明らかになりはしないかと恐れているのである。なぜならかれらは隣人に対しては悪以外には何ごとも意図してはいないし、たとえ善を意図しても、それは自己のためであり、何か良いことを行っても、それはただうわべのみのことであって、利得と名誉を得るために善い者として見られるためである。なぜならかれらは、善で、真で、公正で、公平なものは、また尊いものは、(人の)心を、たとえ悪い者の心であっても、それをひきつける強い、かくれた力を持っていることを知っているからである。
天界の秘義6666[3]
こうした霊どもから地獄は現在無限に増大し、しかも驚嘆すべきことは、とくに教会内にいる者らから増大しているが、それは狡猾、詐欺、憎悪、復讐、姦淫のためであり、そうした悪は教会内では他の所よりもはびこっているのである、なぜなら教会内では狡猾は今や利口なこととして、姦淫は尊いこととして考えられ、それに異議をさしはさむ者は嘲笑されてしまうからである。現今教会内でそのようなことが行われていることはその最後の時が切迫しているというしるしとなっている、なぜならマタイ伝24・22の主の御言葉に従って、『終りがないなら、たれ一人救われない』からである、なぜなら悪はことごとく丁度酒のおりが塊りにしみこみ、かくて遂に凡てのものにしみこむように、伝染し、しみこむからである。
天界の秘義8250
人間のもとに誠実と正直[公正]とがあるかぎり、こうした言葉もまた存続したのであるが、しかし心の考えることと話すこととが相違しはじめるや否や―それは人間が自分自身を愛して、隣人を愛さなかったとき起ったのであるが―そのとき語による言葉が成長しはじめて、顔は沈黙するか、または同じようにいつわったのである。ここから顔の内なる形は変化し、それはそれ自身を抑えつけ、こわばり、ほとんど生命を欠きはじめたが、これに反し、その外なる形は、自己への愛の火に燃やされて、生きているようにも見えたのであるが、しかし下に在って、内部に面となっている生命が欠けていることは、人間の眼前には現れないものの、天使たちの眼前には現れているのである、なぜなら天使たちは内なる物を見るからである。これが考えることと話すことの異なっている者らの顔である、なぜなら現今叡智とされている口実、偽善、狡猾、詐欺はこうしたものへ導くからである。
真の基督教566
自然的な人の生活はある動物の生活に似ている。それ故、霊界では自然的な人は自らに相応した動物に囲まれて現れる。厳密に言えば、自然的な人は動物に過ぎないが、しかしそれに霊的な要素が附加されているために、彼は人間となる能力を持っているのである。もし彼がこの能力をその意図された目的のために用いないならば、彼は人間のように見えるかもしれないが、単に話をする動物に過ぎない。彼の言葉は合理的であるが、その思考は狂っており、彼の行為は道徳的であるが、その欲望は狂想的である。霊的な人間から見れば彼の行為は所謂ふくろ蜘蛛に噛まれている聖ヴィトスの舞踏のように見える。各人は偽善者が神を讃美し、盗人が正直を讃美し、姦通者が貞操を讃美することが出来ることを知っている。思考と発言との間に、意図と行為との間に、閉じることの出来る扉があって、深慮あるいは狡猾がその扉の番人になっていないならば、彼は如何ような野獣よりもさらに狂暴に憎むべき残酷な行為に向って突進するであろう。しかし、その扉は死後開かれ、その時人間の真の性質が現れるのである。しかし彼は地獄の刑罰と監禁によって抑制される。故に、親愛なる読者よ、諸君は自分自身を点検し、諸君の諸々の悪を探り出し、それらを宗教的な動機によって除去されよ、もし諸君が何か他の動機によってそれを行うならば、単にそれを世から隠すことに成功するに過ぎないであろう。
4.天界へ迎え入れてくれる友・・・諸真理と諸善、理知と知恵
天界の秘義10230
「あなたはそれを会見の天幕の業のために捧げなくてはならない」。
これは諸真理と諸善とはすべて主から発していることを承認することを通して天界と連結することを意味していることは『会見の天幕の業』の意義から明白であり、それは天界を生じさせ、作り出すものである、なぜなら『業』は生じさせ、作り出すものを意味し、『会見の天幕』は主がいます天界を意味しているからである。『会見の天幕』が主がいます天界を意味していることについては、9457,9481、9485、9784、9963番を参照されたい。
かくてそれはまた人間を天界と連結させるものを意味している、なぜなら人間のもとに天界を生じさせ、作り出すものはまた人間を天界に連結させるからである。諸善と諸真理とはことごとく主から発していることを承認することを通して天界と連結することが意味されていることは、会見の天幕の業のために捧げられたものは、民を数えるために『償いの銀』と呼ばれた一シケルの半分であって、『一シケルの半分を捧げること』により信仰と愛の凡ゆるものを主に帰することが意味され(10220、10221番)、『数えること』により凡ゆるものが主により秩序づけられ、処理されることが意味されているためである(10218番)。
黙示録講解242ハ
かの信仰(本質においては仁慈である信仰)は絶えず確認するようなものにより絶えず完全なものにされるのである、なぜなら霊的な光からさらに多くの真理が絶えず見られ、その凡てのものが仁慈の善へ向かって自らを結合させて、されを完成するからである。ここから人間は理知と知恵とを得、それは[理知と知恵は]遂には天使的なものとなるのである。
霊界日記5663イ
私は彼らに以下のように話した、すなわち、あなたらは邪悪の中に知恵を置いてはいるものの、邪悪は知恵ではない、なぜなら邪悪はあなたらを地獄へ、または永遠の不幸へ連れ去って行くからであるが、しかし真の知恵は―それは邪悪の外側に在るが―天界へ連れて行き、従って永遠の幸福へ連れ去って行くのである、と。
天界と地獄349
世で理知と知恵を得た者は凡て、各々その理知と知恵の質と度とに従って、天界に迎えられて、天使となる。なぜなら人間が世で受ける理知は何であれ、死後も存続して、彼と共に、携えられて行き、更に増大して完全なものとなるからであるが、しかしそれは真理とその善に対する彼の情愛と願望の度の内で行われ、その度を越えては行われない。情愛と願望を僅かしか持たない者は僅かしか受けないが、しかもその度の中で受け得るだけのものは受けるのである。それで情愛と願望を多く持つ者は多く受ける、即ち、情愛と願望の度そのものは一杯になるまで中を満たされる升のようなものであり、それで大きな升を持っている者は多くのものを受け、升の小さな者は少ししか受けない。それがそうであるのは、情愛と願望とを持っている人間の愛は、その愛にそのものに和合したものを凡て受け、従って人間はその愛に応じただけのものを受けるためである。これが主の以下の御言葉により意味されている、「持っている者は与えられ、更に豊かに得るであろう」(マタイ13・12、25・29)。「彼の胸の中へ升目を充分にし、押さえつけ、揺すぶり、こぼれるほどにして与えられるであろう」(ルカ6・38)。
5.富んだ者
天界の秘義4314[2]
富んだ人間とラザロとの譬(ルカ16・19−31)
天界の秘義10227
聖言をもっていたユダヤ国民
黙示録講解717ハ〔16〕
『その富んだ人間』はユダヤ国民を意味しており、それは神的真理が内在してる聖言を持っていたため、それは『紫と目のつんだリンネル』を着ていると言われており、『乞食のラザロ』は聖言を持たず、かくて真理を何一つ持たなかった異邦人を意味しており、このことがその富んだ人間は、悪い者であり、後には地獄へ投げ込まれたものの、『紫と目のつんだリンネルの上着』を持っていた理由である。
6.紅の衣
天界の秘義10227
純粋な善
7.目のつんだリンネル
天界の秘義10227
純粋な真理
8.入口の投げ出されていた貧しい人間
天界の秘義10227
教会の外にいて、聖言をもってはいないものの、天界と教会との諸真理と諸善とを渇望している者たち
9.不正なマンモン
黙示録講解242ホ(20)
なぜこうしたことが行われ、それはいかようなことを意味しているかは、「天界の秘義」(6914、6917番)に見ることができよう、すなわち、悪い者らが持っている物は彼らから取り去られて、善い者たちに与えられることを表象するためであり、そのことはマタイ25・28、29、ルカ19・24,26の主の御言葉に従っており、(ルカ16・9における主の御言葉に従って)、彼らは自らに不正のマンモンにより友を作らねばならないことを表象するためである。『不正なマンモン』は、真理と善とにかかわる知識を正当に持っていない者らにおける、その知識を生命に適用しない者らにおけるその知識を意味している。
神の摂理250ロ
それ故神を愛する者は極めて少数であり、自己と世とを愛する者は極めて多いため、そして後者はその熱意から用を遂行することが、前者がその熱意から用を遂行するにまさっているため、邪悪な者が善良な者よりも名誉と富とをさらに得るという事実により如何にして神的摂理に対する不信仰を強めることができようか。この立場は主の以下の語により支持されている、『それで主人は不正な支配人を深重に行動したことでほめた、なぜならこの世の子らはその代では光の子らよりも深重であるから。それで私はあなた方に言う、不義の富(マンモン)で自分のために友を作りなさい、富が失せたとき、その友はあなた方を永遠の住居に迎え入れるであろう』(ルカ6・8、9)。これらの言葉の自然的な意義は明らかである。しかし霊的意義では、不義の富は悪い者が自分に名誉と富とを得ようとしてのみ、所有し、用いる真理と善の諸々の知識を意味する。この知識から善良な者、または光の子供たちは自分自身の友を作らねばならず、これが彼らを永遠の住居へ迎え入れるものである。多くの者は自己と世を愛し、僅かな者しか神を拝しないことを主は以下の語で教えられている、『破滅に通じる門は大きく、その道は広く、そこから入る者は多い。しかし生命に通じる道は細く狭く、それを見出す者は僅かしかいない』(マタイ7・13、14)。名誉と富とは或る人間には呪いとなり、他の者には祝福となることは前に見ることができよう(217)。
アルカナ出版/せまい門から/P389/G・デチャーム司教/『不正の富』
才能とか経験それ自身は良くも悪くもありません。それ自身として中立的なものです。何かの目的のために使うべきものです。良くも悪くも使えます。このことを「不正の富」と言いますが、それがなければ良いことが出来ないのです。だから主は『不正の富を使って、自分のために友達をつくりなさい。そうすれば富がなくなった場合、あなたがたを永遠の住いに迎えてくれるであろう』と言われます。
10.五十
天界の秘義2252[5]
そして同じく『五十』は充分なものを意味しているため、またこの数字は―すでに言ったように―表象的なものであったため、それと同じことが執事にかかわる主の譬え話の中にもその数字により意味されているのである、すなわち、その執事は油の負債を持っていた者に言った―
あなたはわたしの主人にいかほど負債をもっていますか。するとかれは言った、百バテの油です。かれはかれに言った、あなたの証書を取り、はやく坐って、五十と書きなさい(ルカ16・6)。
『五十』は充分に支払うことを意味している。五十は数字であるため、それは実際数字以上のものを何ら含んではいないかのように思われるが、それに反しその内意ではそれにより充分なものが至る所で意味されているのである、たとえばハガイ書には―
一人の者がぶどうのしぼり器のもとへ来て、そのぶどうのしぼり器から五十を汲み出そうとしたが、二十しかなかった(2・16)。
すなわち、充分なものがなく、多くはなかったのである。『五十』はもしそれが表意的なものでなかったなら、それは予言者の書のここには記されなかったであろう。
11.家の執事、管理人
天界の秘義1795
「わたしの家の執事[支配人]」。これは外なる教会を意味していることは『家の執事[支配人]』の、内意における、すなわち、教会の方面の意義から明白である。内なる教会そのものが家であり、家族の父が主であられるときは、外なる教会は『家の執事』と呼ばれている。外なる教会はそのような境遇にしかおかれていない、なぜならすべて執事の仕事は教会の外なるものにぞくしているからである、たとえば祭儀の管理、礼拝の場所と教会そのものに、すなわちエホバの家または主の家に関わる多くのものの管理は外なる教会にぞくしているからである。
[2]教会の外なるものは内なるものがないなら無意味なものであり、それは内なるものからその存在を得ており、内なるもののいかんに応じている。そのかんの実情は人間の場合と同一である、すなわち人間の外なるものは、または形体的なものは、それに魂と生命とを与える内なるものが存在しなくてはそれ自身では無価値なものである。それで内なるもののあるがままに、外なるものもそれに応じており、または心(animus et mens)のあるがままに、外なるものまたは形体的なものにより生まれてくるあらゆるものの価値も応じている。心情にぞくした事柄がその人間を作っており、口と身振りにぞくしたものがそれを作っているのではない、教会の内なるものの場合も同じである。しかしそれでも教会の外なるものは、それが管理し、司っているという点で、人間の外なるものに似ており、またはそれと同一のことではあるが、外なる、または形体的な人も同様に、その家が内部を意味しているときは、その家の執事または管理者と呼ぶことができよう。このことから『子供がない』ということが意味していることが明白であり、すなわち、その中に教会の内なるものが何ら存在していないで外なるもののみしか存在していない状態が意味されており、それが主が訴えられたときの実情であったのである。
天界の秘義1796
「ダマスコ人のこのエリエゼルです」。今しがた言われたことからこれらの言葉は外なる教会を意味していることは今や明白であり、そのことがまた『ダマスコ人』の意義からも現れている。ダマスコはシリアの主要な都会であって、そこには古代教会の礼拝の残りのものがあったのであり、そこからエベルまたはヘブル民族が起ったのであって、その民族のもとには(前の1238、1241番に言ったように)教会の外なるもの以外には何ものもなかったのであり、かくて家の執事の仕事以外には何ものもなかったのである。これらの言葉の中には多少絶望があり、したがって、多少主の試練があったことはその言葉そのものから明白であり、また内なる教会について以下に記されている慰めからも明白である。
神の摂理210[7]
「凡てこれらの事は人間は自己から生まれた力により考え行動するように人間に見えるということに依存している。」
人間は自分自身から生き、かくて自分自身から考え、意志し、語り、行動するように見えない限り、人間でないことは前の頁に充分に示された。人間はその職業と生活に関連した凡ての物を恰も自分自身の深慮により左右するかのように左右しない限り、神的摂理により導かれ、左右されることは出来ないことが推論される、なぜならもしそうでないと彼は手をだらりと下げて、口を開け、眼を閉じ、流入を期待して息を殺して立っている人間のようになり、かくて彼は、自分は自分自身から生き、考え、意志し、語り、行動しているという認識と知覚から彼に生まれている人間的な特質を失うと同時に人間を獣から区別する自主性と合理性の二つの能力を失うからである。この外観なしには人間は受容し、働き返す力を持つことは出来ず、かくて不滅でなくなることは既に本書とまた「神の愛と知恵」を取扱った著作に示されている。それゆえもし諸君が神的摂理により導かれようとするならば、諸君の深慮を主人の財産を忠実に処理する僕、部下として用いられよ。この深慮は、商売の資本として僕たちに与えられて、僕たちはその清算をしなければならなかったタラントである(ルカ19・13−25、マタイ25・14−30)。
人間には人間自身の深慮は深慮そのものであるかのように見える。彼は自分の中に自己愛という、神と神的摂理の最も恐るべき敵を抱いている限り、そのことを信じている。これは生来凡ての人間の内なる心に住んでいる。もし諸君がそれを摘発することが出来ないなら―それは摘発されまいとしているが―それは安全に住んで、扉を人間により開かれないように、また人間がそれを開いた後で自分が主により追い出されないようにと守っている。人間は悪を罪として、恰も自分自身の力により避けるかのように避けることにより、しかし自分は主から与えられている力によりそれを避けることを承認しつつ避けることにより戸を開くのである。これが神的摂理が共になって働く深慮である。
12.ローマ信徒への手紙より
ローマ信徒への手紙3・1−4
では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。
13.ヴァッスーラ
「悲しまないように、友よ 私を愛する者たちよ、 私の堪え忍んでいるものを忍びなさい、しかし、私を慰め 信じるように。私の名のもとに 大いなるわざをなし遂げるであろう。 私が寛容であるように寛容でありなさい。 私は飢え、渇き しばしば餓死しそうであったが あなたは助けに来てくれた。善いわざを続けなさい 報いよう。まことに言う あなたは独りではない、私がともにいる。 私と一致し 平和のうちに生きるように。あなたは私の血の子孫 王国の跡継ぎです。主の心が愛であり 掟の心は愛に基いていることを伝えなさい。私の家に管財人は不要だと 私の者たちに伝えるように。この者たちは私の日に正当化されることはない 我が家を一つの事業としてしまったのはまさにこの者たち。 あなた方の心に住むように 私は、我が霊を送った、このため 私の教会があなた方の心のうちに再建され、心のうちで互いを兄弟と認め合うようになるのを あなた方のうちに住む霊が 指し示して下さるであろう。」(ノート55、‘91・9・9)
14.ツロの商品
天界の秘義2588[16]
合理的なものと記憶知とは賢明になる手段として肯定的なものの中にいる者たちに仕えることが、イスラエルの子孫がエジプト人からの金の器を、銀の器を、上着を借りるように命じられたことにより表象され、また意味されもしたのである(出エジプト記3・22、11・2、12・35、36)。それと同じようなことが、聖言の色々な記事の中にかれらは諸国民の財産、家、ぶどう園、かんらん畠とかいったものを所有しなくてはならないと言われていることにより、また諸国民から取ってきた金と銀は聖いものとしなくてはならないと言われていることによっても意味されているのである。例えば―
エホバはツロに報いられるであろう、彼女はその娼婦の賃金に帰り、土地の面[顔]の上で地の凡ての王国と淫行を犯すであろう、その商品と娼婦の賃金とはエホバに聖いものとなるである、それは貯えられず、またとりよけられもしないであろう。なぜならエホバの前に住む者たちにはその商品は満ち足りるまでも食べられるものとなり、古の蔽いとなるからである(23・17、18)。
『ツロの商品』は知識を意味しており(1201番)、それは否定的なものの中にいる者たちには娼婦の賃金のようなものではあるが、しかし肯定的なものの中にいる者たちには聖いもののようなものとなるのである。同じようなことがまた主の御言葉によっても意味されている―
不義のマンモン[富、財]によりあなたたち自身に友だちを作りなさい、あなたたちが乏しくなったとき、彼らがあなたたちを永遠の住居に迎えるためである。もしあなたたちが不義のマンモンに忠実にならなかったら、たれがあなたたちに真のものを任せようか(ルカ16・9,11)。
15.不正な者
最後の審判とバビロンの滅亡70注P
聖言では、主の義と功績とを帰せられる者は、『正しい者』と呼ばれ、自分自身の義と功績とを帰せられる者は、『不正な者』と呼ばれている(3686、5069、9263)。
16.掘る
天界の秘義7343
「エジプト人はすべて飲み水を求めて川の周りを掘った」。これは、彼らが誤謬に適用出来る真理を徹底的に探求したことを意味していることは以下から明白である、即ち、『掘ること』の意義は徹底的な探求であり(そのことについては以下に述べよう)、『川の周囲の水』の意義は諸真理であり
天界の秘義6960[3]
ルカ伝には―
与えなさい、そのときは与えられるでしょう、升一杯にしておしつけ、揺すぶり、溢れ出て、あなたらの胸の中へ与えられるでしょう(ルカ6・38)。
『胸に与えられること』は、彼ら自身のものとして彼ら自身のために、を意味している。同書に―
そしてラザロは死に、天使によりアブラハムの胸の中へ連れて行かれるようになった(ルカ16・22)。
『アブラハムの胸の中へ連れて行かれること』は、愛による連結から、(『アブラハム』により意味されている)主のもとへ、を意味している。
18.サンダー・シング
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P359
蒔くことも刈ることも、倉に納めることもせず、雛のために巣作りをする空の鳥を見習った方がいい。蒔いては刈り、集めては倉に納め、それでいて自分のためにも子供のためにも、来世への備えをしないでいる人間は、倉に納めたこの世の宝とともに滅びる他ない。心を富の上に置き、神の栄光のためにも、人の福祉のためにもそれを使わなかったからである。この世の金/銀/財宝は、われわれの飢えも渇きも満たすことはなく、満たすための媒介として使えるにすぎない。しかし、富も正しく使えば「永遠の住まい」に友を迎える手段ともなる。