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1.聖書
2.スウェーデンボルグ
3.ヴァッスーラ
1.聖書
ルカ12・37
主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。
ルカ12・42
主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。」
ルカ12・41−48
そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」
2.スウェーデンボルグ
天界の秘義3020
「かれがもっている凡ゆるものを管理したところの」。これは自然的な人の任務[務め]を意味していることは、『管理すること』の意義から、実に凡ゆるものを管理することの意義から明白であり、それは任務または義務を遂行することである。(自然的な人は合理的な人に対しては、またはそれと同一のことではあるが、外なる人は内なる人に対しては、家における管理人のようなものであることは、前の1795番に見ることができよう)。人間の中に存在している凡ゆるものは以下の点で一つの家のようなもの(すなわち、一つの家族のようなもの)であり、すなわち、その家の主人の務めを果す者と僕たちの務めを果す者たちとがいるのである。合理的な心それ自身はその家の主人として凡ゆるものを処理し、自然的な心へ流入することによってその凡ゆるものを秩序をもって排列するものであるが、しかし仕えて管理するものは自然的な心である。
天界の秘義3020[2]
自然的な心は合理的な心から明確に区別され、度ではその下に在るため、またそれは恰もそれ自身のものであるものから働いているかのように働いているため、それは相対的に『家の長老である僕』と呼ばれており、それに属しているところのそれ自身の中に在る凡ゆるものを管理していると言われている。自然的な心は合理的な心からは明確に区別されていて、それよりは低い度の中に在り、恰もそれ自身のものであるものの中に在るかのように存在していることは、その中に存在しているいくたのものからまたその任務から認めることができよう。その中に存在しているものは凡ゆる記憶知であり、かくてまたいかような種類のものであれ、凡ゆる種類の知識であり、約言すると、外なるまたは形体的な記憶に属しているところの、全般的にも個別的にも凡ゆるものである(そのことについては、2471、2480番を参照)。この心にはまた、人間における内的な感覚的なものであって、子供たちのもとでは最も活発に働いていて、青春時代の第一期の中に存在している想像能力の凡てのものが属しており、またその同じ心には、人間が獣と共有している自然的な情愛のすべてのものが属しており、この凡てはその任務がいかようなものであるかを示している。
神の摂理210[7]
「凡てこれらの事は人間は自己から生まれた力により考え行動するように人間に見えるということに依存している。」
人間は自分自身から生き、かくて自分自身から考え、意志し、語り、行動するように見えない限り、人間でないことは前の頁に充分に示された。人間はその職業と生活に関連した凡ての物を恰も自分自身の深慮により左右するかのように左右しない限り、神的摂理により導かれ、左右されることは出来ないことが推論される、なぜならもしそうでないと彼は手をだらりと下げて、口を開け、眼を閉じ、流入を期待して息を殺して立っている人間のようになり、かくて彼は、自分は自分自身から生き、考え、意志し、語り、行動しているという認識と知覚から彼に生まれている人間的な特質を失うと同時に人間を獣から区別する自主性と合理性の二つの能力を失うからである。この外観なしには人間は受容し、働き返す力を持つことは出来ず、かくて不滅でなくなることは既に本書とまた「神の愛と知恵」を取扱った著作に示されている。それゆえもし諸君が神的摂理により導かれようとするならば、諸君の深慮を主人の財産を忠実に処理する僕、部下として用いられよ。この深慮は、商売の資本として僕たちに与えられて、僕たちはその清算をしなければならなかったタラントである(ルカ19・13−25、マタイ25・14−30)。
人間には人間自身の深慮は深慮そのものであるかのように見える。彼は自分の中に自己愛という、神と神的摂理の最も恐るべき敵を抱いている限り、そのことを信じている。これは生来凡ての人間の内なる心に住んでいる。もし諸君がそれを摘発することが出来ないなら―それは摘発されまいとしているが―それは安全に住んで、扉を人間により開かれないように、また人間がそれを開いた後で自分が主により追い出されないようにと守っている。人間は悪を罪として、恰も自分自身の力により避けるかのように避けることにより、しかし自分は主から与えられている力によりそれを避けることを承認しつつ避けることにより戸を開くのである。これが神的摂理が共になって働く深慮である。
神の愛と知恵333
すべてこれらの物は以下のことを承認するに応じて、即ち、身体的な物も凡て主から発しており、人間はその主の財産の管理を委ねられた僕、家令のようなものにすぎないことを承認することに応じて、主により与えられている。
3.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻Pxvii
「悲しまないように、友よ 私を愛する者たちよ、 私の堪え忍んでいるものを忍びなさい、しかし、私を慰め 信じるように。私の名のもとに 大いなるわざをなし遂げるであろう。 私が寛容であるように寛容でありなさい。 私は飢え、渇き しばしば餓死しそうであったが あなたは助けに来てくれた。善いわざを続けなさい 報いよう。まことに言う あなたは独りではない、私がともにいる。 私と一致し 平和のうちに生きるように。あなたは私の血の子孫 王国の跡継ぎです。主の心が愛であり 掟の心は愛に基いていることを伝えなさい。私の家に管財人は不要だと 私の者たちに伝えるように。この者たちは私の日に正当化されることはない 我が家を一つの事業としてしまったのはまさにこの者たち。 あなた方の心に住むように 私は、我が霊を送った、このため 私の教会があなた方の心のうちに再建され、心のうちで互いを兄弟と認め合うようになるのを あなた方のうちに住む霊が 指し示して下さるであろう。」(ノート55、‘91・9・9)