人間
巨大人/
1.神は唯一の完全な人間
2.最古代教会は人間と呼ばれた
3.再生しなければ人間とならない
4.神の人間性
5.人間になる
6.このようにして人間は実に存在するようになり
7.神的秩序は、それが形をもって表象されるときは、人間として現れる
8.人間はその心から人間である
9.聖母から司祭へ
10.主はヨゼフを偲んで泣かれた
11.残りのものによって人間は人間となる
12.神は人間としてアブラハムやその他の者に現れ給うた
13.愛と知恵とは人間
1.神は唯一の完全な人間
天界の秘義49
26節。「神は言われた、わたしたちは人間をわたしたちの像[映像]に、わたしたちの姿に似せて作り、かれらに海の魚、天の鳥、獣、凡ての地、地を這う凡ての物を治めさせよう、と」。
主は最古代教会ではその教会の人々と面と面を会わせて語られたが、その際、主は人間として現れたもうたのである。このことに就いては多くの事を語ることが出来るが、今はその時ではない。そうした理由から彼らは主御自身と主に属したものを除いては誰も『人間』と呼ばず、また彼ら自身さえも『人間』と呼ばないで、ただ彼らが主から得ていると認めたところの―愛の凡ての善と信仰の凡ての真理といった―彼ら自身の中に在るもののみを『人間』と呼んだのである。そうしたものを彼らはそれが主のものであるため、『人間[人]のもの』と呼んだのである。
天界の秘義49[2]
かくて予言者の書の中には、『人間』と『人の子』により、その最高の意義では主が意味され、内なる意義では、智恵と理知が意味され、かくて再生した者各々が意味されているのである。例えば―
わたしは地を見たが、見よ、うつろで空しかった、天を見たが、光はなかった。わたしは見た、見よ、人はおらず、天の鳥は凡て飛び去っていた(エレミヤ4・23、25)
イザヤ書には『人[人間]』により、その内なる意義では再生した人物が意味され、その最高の意義では主御自身がただ一人の人間として意味されている―
イスラエルの聖者、それを形作られた方、エホバがこのように言われた、わたしは地を作り、その上に人間を創造った。わたしはまことにわたしの手をもって諸天をのべひろげ、その凡ての軍勢に命じた(45・11,12)。
天界の秘義49 [3]
それ故主は人間として予言者に現れたもうたのである、例えばエゼキエル書には―
碧玉のように見える広がりの上に、王座のようなものがあり、また王座のようなものの上に人のような方がおられた(1・26)。
そしてかれはダニエルにより眺められた時、『人の子』として、すなわち、それと同一の、人間として呼ばれたもうたのである―
わたしは見た、見よ、人の子のような方が天の霊とともに来られ、日の老いた者のもとへ来られた、かれらはかれをその前に導くと、かれに主権と栄光とと王国とが与えられ、民族、国民、言語のことごとくはかれに仕えた、その主権は永遠の主権であって、過ぎ去りはしない、またその王国は破壊されないものである(7・13,14)
天界の秘義49[4]
主もまたしばしば御自身を『人の子』すなわち、人と呼ばれて、ダニエル書におけるように、栄光をもって来られることを予言されている―
かくて人の子が力と大いなる栄光とをもって天の雲の中に来るのを彼らは見るであろう(マタイ24・30)。
『天の雲』は聖言の文字の意義であり、『力と大いなる栄光』とは聖言の内なる意義であり、それは全般的にも個別的にも凡ての事柄において主とその王国にのみ言及しており、内なる意義がその力と栄光とを得るのはそのことによっているのである。
天界の秘義1414
主の中にのみ身体の凡てのものは神的なものと相応していたのであり―それは極めて完全な相応であり、無限に完全なものであって、形体的なものと神的なものとの結合を、また感覚的なものと神的なものとの結合を生んだのであり、かくて主は完全な人間であられ、またただ一人の人間であられたのである。
天界の秘義1894
エホバである主の内なる人は、たれ一人エホバのみを除いては人間ではないため、人間と呼ばれている、すなわち人間は、その純粋な意義では、人間が存在する源泉であるかのエッセ[存在]を意味するからである。人間が存在する源泉であるエッセそれ自身は神的なものであり、従って天的なものと霊的なものである。神的な天的なものと霊的なものとがないなら、人間の中には人間的なものは何一つなく、たんに獣の中にあるような、一種の動物の性質があるに過ぎないのである。人間各々が人間であるのは、エホバのまたは主のエッセ[存在]から発しており、このことからまた彼は人間と呼ばれている。その人間を作る天的なものとは人間が主を愛し、隣人を愛するということであり、そのようにして彼は人間となるのである、なぜなら彼は主の映像となるからであり、また彼は主からこれを得るからである。もしそうでないなら彼は野獣である。
天界の秘義1894 [2]
エホバまたは主はただ一人の人間であられることは、また人間たちは自分たちが人間と呼ばれていることを主から得ていることは、また一人の人間は他の一人の人間よりもさらに人間となっていることは、前に(49、288、477、565番に)見ることが出来よう、そしてそのことはまた、エホバはまたは主は最古代教会の父祖たちには人間として現われたまい、後にはまたアブラハムと予言者にも人間として現われたもうたという事実からも認めることができよう、こうした理由からまた主は、地上にもはや人間が存在しなくなった後で、または人間の間にもはや天的な霊的なものが存在しなくなった後で、自らを卑しうして、他の人間のように生まれたもうことにより、人間の性質を取られて、その性質を神的なものにすることをよしとされたのであり、このようにして主はまたただ一人の人間であられるのである。さらに、天界全体は、それは主御自身を示しているため、主の前には人間の映像を示しているのである。このことから、天界は巨大人と呼ばれており、しかもそのことは特に主はそこではすべてにおけるすべてのものであられるという事実から発しているのである。
天界の秘義4219
なぜなら主のみが人間であられ、天使と霊は、また地上の人間も、その者たちが主から得ているものに正確に比例して人間となっているからである。
天界と地獄84
古代の人間は神的存在を人間として考えたことは、アブラハム、ロト、ヨシュア、ギデオン、マノアとその妻、また他の者に現れられた神から明白であり、彼らは神を人間として見たものの、依然神を宇宙の神として崇拝して、かれを天と地の神、エホバと呼んだのである。アブラハムの見たものは主であったことを、主御自身ヨハネ伝(8・56)に教えられ、他の者から見られた者も主であったことは、主の御言葉から明らかである、「誰一人父を見ていないし、その御声を聞いてもいないし、その御形も見ていない」(ヨハネ1・18、5・37)
聖書100
いかようにして主は聖言であられるかを理解している者は僅少である、なぜなら彼らは主は実際人間を聖言によって明るくされて、教えられはするが、だからといって聖言とは呼ばれはしないと考えるからである。しかしながら人間は各々その人間自身の愛であり、従ってその人間自身の善とその人間自身の真理であることを知られよ。人間が人間であるのはひとえにこのことから起っていて、他に人間であるものは何一つ彼の中にはないのである。天使と霊とが人間であるのは、人間はその人間自身の善であり、またその人間自身の真理であるという事実から発しているのである、なぜなら主から発している善と真理とはすべてその形では人間であるからである。そして主は神的善と神的真理そのものであるため、主は人間そのものであられ、その人間から人間はすべて人間となっているのである。神的善と神的真理とはすべてその形では人間であることは、「天界と地獄」を扱った著作(460番)に認めることが出来よう、またさらに明らかに「天使の知恵」について今後執筆することになっている幾多の論文の中に認めることが出来よう。
神の愛と知恵18
神は人間であられることを信じる者は凡て、神の中には無限な物が存在することを確信出来よう。なぜなら神は人間であられるゆえ、身体と身体に属する凡ての物を、即ち、額、胸、腹、腰、足を持たれるからである。なぜならこれらの物がなくては、神は人間ではなくなるから。そして神はこれらの物を持ちつつ、また眼、耳、鼻、口、舌を持ち、また人間の内部の物、例えば心臓と肺臓およびそれらに依存するものを―その凡てが合して人間を人間としているが―持たれている。創造された人間にあっては、これらの部分は多く、その構造の微細なものから観察されるならば、無数であるが、しかし神人にあっては、如何ような物も欠けないで無限であり、そのことにより彼は無限の完全を持たれている。この比較は神である創造されない人間と創造された人間の間では適切である。何故なら神は人間であられ、神御自らこの世界の人間は神の像に従って神に似た形として創造されたと言われているからである(創世記1・26、27)。
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P76
(イエズス:)
よく考えてみよ。神がメシア、救い主とするために天使の一人を選ばなかったとすれば、まして人間をその役割りに選んだはずはない。
また人間性を取らない御子が、人間の想像を超える手段と力によってだけ救い主となることができただろうか? さらに神の御子は永遠なる者なのに、親がありえただろうか?
傲慢な考えの者は、真理の国に接触するこのような質問に対して、ただ心が騒ぐばかりである。謙遜で信仰に満ちた心だけが、その返事を得ることができる。このような質問の前に立って、いかに傲慢な者であろうと、ひるまないではいられまい。
キリストはだれか? 天使か? 否、天使以上の者である。人間か? 否、人間というより神である! しかも肉体を合わせた神性である。
人間の罪の償いを果たすには、肉体も必要であった。贖いは罪を犯した者によって行われねばならない。神は堕落した天使の罪を償うために、天使の一人を送ることもできたが、そうはなさらなかった。知っての通り、ルチフェル(サタン)も罪を犯したが、神はそれを贖うために、もう一人の天使を送ることはなさらなかった。堕落した天使は神の御子を礼拝しなかった。神はご自分の愛が生んだ“みことば”に反する罪はおゆるしにならない。しかし神は人間を愛された。
その人間を贖い、神と和睦させるために、唯一の完全な人間をこの世に送られた。“神である人間”だけが人間の贖いを行い、神の怒りを鎮めうる。これこそ理にかなったことである。
2.最古代教会は人間と呼ばれた
天界の秘義2661
主は天的な者を救うために世に来られたのではなく、霊的な者を救うために来られたのである。「人間」と呼ばれた最古代教会は天的なものであった。もしこの教会がそのもとのままに止まったならば、主は人間として生まれたもう必要はなかったのである。
しかし、この教会が衰え始めるや否や、主は天的な教会が全く世から死滅することを予見されたのであり、そうした理由からそのとき主が世に来られることについて予告がなされたのである。(創世記3・15)
その教会の時の後ではもはや天的な教会は存在しなくなって、霊的教会が存在したのである。なぜなら洪水後に存在した古代教会は霊的教会であり、この教会は、すなわち、その霊的教会にぞくした者たちは主が世に来られなかったならば、救われることができなかったからである。このことがマタイ伝の主の御言葉により意味されているのである。―
すこやかな者は医者を要しない。病んだ者がかれを要するのである。わたしは義しい者をまねくためでなく、罪人をまねいて悔改めさせるために来たのである。(9・12,13)
またヨハネ伝にも、
そしてわたしにはこのおりのものでない他の羊がいる。かれらもまたわたしの声を聞くであろう。かくて一つの群と一人の羊飼いがいるであろう。(10・16)
またマタイ伝18・11〜13の百匹の羊のたとえによっても意味されているのである。
3.再生しなければ人間とならない
天界の秘義3860
人間は実際その両親から人間として生まれてはいるが、しかし主から再び生まれるまでは人間とはならないのである。
霊的なまた天界的な生命が人間を作るのである。なぜならそれが彼を獣から区別するからである。
天界の秘義2508
天界的結婚[天界の結婚]それ自身は神的善と神的真理の間にのみ存在している。そこから人間の中に知的なものと合理的なものと知ることに対する能力[知る能力]とがみごもるのである、なぜなら天界的結婚からみごもらなくては人間は到底理解に、理性に、または知識に浸透することはできないのであり、従って人間になることはできないからである。それで人間が天界的結婚から受けるに比例して、益々人間となるのである。
4.神の人間性
天界の秘義3441
主はこの神的な人間的なものにより人類に仕えられるためである、なぜなら人間が主の人間的なものをその心で見上げ、崇拝し、かくて神的なものに近づくことができるために、主がその人間的なものを神的なものに結合されなかったなら、人間は決して救われることはでいなかったからには、人間はこの神的な人間的なものにより救われるからである。人間が『父』と呼ばれている神的なものそれ自体と連結することが、『子』と呼ばれている神的な人間的なもの[神の人間性]を通して、かくて主を通して行われるのであり、主により霊的な人間は人間的なものを理解しているが、しかし天的な人間は神的なものそれ自身を理解しているのである。ここから神的な人間的なものが『僕』と呼ばれている理由が明白である、すなわち、それは、人間が神的なものに近づくことができるために、神的な人間的なもの[神の人間性]が神的なもの[神]に仕えるためであり、また人類の救いのために人類に仕えるためである。
神の愛と知恵13
神について正しい考えを持つことはいかに重要なことであるかは、神についての考えは宗教を持つ凡ての者の思考の最も深いものを構成するという真理により知ることが出来る、なぜなら宗教の凡ての物と礼拝の凡ての物とは神を目指しているから。そして神は宗教と礼拝との凡ての物の中に、全般的にもまた個別的にも存在されるゆえ、神について正当な考えを持たなくては天界と連なる(コミュニケイト)ことは出来ない。ここから霊界では各国人は神を人間として考えるに応じてその位置を定められるということが神いる、なぜならその考えの中にのみ主についての考えが在るからである。死後の人間の生命の状態はその確認した神の考えに順応することは、これと反対のことが、即ち、神の否定と、基督世界では、主の神性の否定とが、地獄を構成しているということから明らかである。
5.人間になる
天界の秘義3913[2]
人間は再生しつつあるときは、内なる人は外なる人に連結されねばならないのであり、従って内なる人の諸善と諸真理とは外なる人の諸善と諸真理とに連結されねばならないのである。なぜなら諸真理と諸善から人間は人間になるからである。これらのものは手段無しには連結されることは出来ないのである。手段はその片方の側から何らかのものを、また他方の側からも何らかのものを得ているといったものであり、その人間がその一方の側に近づくに応じて、他方の側は服従するという結果を伴っているのである。これらの手段が『下婢[女中]』により意味されているものであり、内なる人の側の手段はラケルの下婢により意味され、外なる人の側の手段はレアの下婢により意味されているものである。
天界の秘義3951
それが先見から発していることは、人間における真理の善との連結は、また善と真理との連結は先見から、すなわち、主の摂理[主が供えられること]から行われるためである。なぜならここに取扱われている主題は善が真理と連結することであり、かくて人間のものとされる善であるからである。なぜなら善はそれが真理に連結しない中は人間の中に善とはならないからである。そして善はことごとく、主から来ているため、すなわち、善を己がものとすることは善が真理と連結することを通して来ているため、ここに『先見から』と言われているのである。主の摂理[供えられること]は特にこの連結に関わっている。そのことにより人間は人間になり、獣から区別され、彼はそれを[連結を]受けるに比例し、すなわち、彼は主がそれを遂行されるの許すに比例して、人間となるのである。それでこれが人間のもとに在る善であり霊的なものであって、永遠に存続する善はそれ以外には在り得ないのである。
天界の秘義3957[8]
神に対する愛と隣人に対する愛とは人間を人間であるものとし、獣から区別させるものであり、それが天界的な生命を、または天界を構成しているが、それに対立したものが奈落の生命を、または地獄を構成しているのである。
天界の秘義4220
身体の生命の中で主の神的なものを、すなわち、全人類に対する主の愛を受け入れた者たちは、従って隣人に対する仁慈を受け入れた者たちは、また主に対する相互的な愛を受け入れた者たちは他生では理知と知恵とを与えられ、また表現を絶した幸福を与えられるのである、なぜなら彼らは天使となり、真に人間となるからである。しかし身体の生命の中で主の神的なものを受け入れなかった者は、すなわち、人類に対する愛を受け入れず、まして主に対する相互的な愛を受け入れはしないで、自分自身のみを愛し、実に礼拝もし、従って自己と世のものであるものを自分の目的とした者は、他生では、そこでしばらく生活した後で、理知をことごとく剥奪され、徹底的に愚物となり、そこで愚鈍な奈落の者の仲間となるのである。
天界の秘義4839[2]
神的秩序は天界における主御自身であるからである。神的秩序が形をもって表象されるときは、それは人間として現れるのである、なぜならそれが発生している源泉である主は唯一の人間であられ(49、288、477、565、1871、1894、3638、3639番)、天使と霊と人間とは主から受けるに正比例して、すなわち、彼らが善の中におり、そこから真理の中にいるに正比例して、かくて彼らが主の神的秩序の中にいるに正比例して、人間となるからである。
天界の秘義7424
「人にも獣にもしらみがわいた」。これは欲念の内的な悪と外的な悪とがそこから発生したことを意味していることは以下から明白である、即ち、『しらみ』の意義は悪であり(7419番を参照)、『人』の意義は善であり(4287、5302番)、かくてその対立した意義では悪であり、『獣』の意義は善の情愛〔善に対する情愛〕であり、その対立した意義では悪の情愛〔悪に対する情愛〕であり、または欲念であるが(45、46、142、143、246、714、715、719、776、2179、2180、3218、3519、5198番)、しかし『人と獣』が共に記されている時は、『人』により内的な善が意味され、その対立した意義では内的な悪が意味され、『獣』により外的な善が意味され、その対立した意義では、外的な悪が意味されるのである。『人』により内的な善、または悪が意味される理由は、人間はその内なる人とその性質から人間であって、その外なる人から人間ではないということである、なぜなら外なる人は内なる人が無いなら人間ではないのであり、外なる人もまた人間となるためには、それは全く内なる人に服従し、外なる人自身から行動しないで、内なる人から行動しなくてはならないからである。『獣』により外的な善が意味され、その対立した意義では、外的な悪が意味されている理由は、獣には人間にあるような内なるものがないということであり、その持っている内なるものは外なるものの中に浸されていて、それと一つのものとなり、それと共になって下方を、また地の方を眺め、内的なものへ全く高揚されないということである。悪は凡て欲念に属しているため、『欲念の悪』と言ったのは、欲念は愛に属しているためである。内的な悪は、それが思考と意志に属したものであり、外的な悪は行為に属したものであるという事実により、外的な悪から区別されている。内的な悪ではあるが、外的な悪ではない悪が在り得ることは、人間は悪ではあるものの、外なる形では正しい人間のように見え、信仰と良心のある人間のようにも見えるという事実から明白である。内的には悪魔ではあるものの、天使を装う方法を知っている者もいるのである。霊の形である内なる形は身体の形である外なる形とはこれほどにも相違することが出来るのである。
真の基督教417
人間はその顔と身体の故に人間なのではなく、その理解の智慧とその意志の善との故に人間であり、是らが完成するにつれて、益々彼は人間となる。人間はその生まれた時は如何なる獣よりも愚かであるが、その心が種々の教訓によって形作られる時、人間となる。何故なら、心が人間を造るからである。或る動物は人間のような顔付きをしているが、推理したり、或は合理的に行動したりすることは出来ない。何故なら、彼らはその自然的な愛によって刺激される本能によって行動するからである。又、獣はその感情を不明瞭な音によって現すに反し、人間はその感情を明瞭な言語によって現すという相違がある。更に、獣は地上を見、人間は周囲と上方を見る。是は人間は健全な理性によって語り、天界の己が住居に思いを潜める時は真に人間であるが、歪められた理性から語り、世の己が住居に思いを潜める時は、真の人間ではないことを暗示している。然し、この人々ですらも、実際は、人間ではなくとも、潜在的には人間である。何故なら、凡ゆる人間は真の物を理解し、善い物を欲する能力を持っているからである。然し、彼が善を為し或は真理を理解することを欲しない時は、単に人間の外面的な模写に過ぎないのである。
真の基督教692
人間は教育が無ければ人間でもなく獣でもない。彼は人間を作る物を受けることの出来る形であり、それ故、人間として生れるのではなく、人間に成るのである。人間は神から発する生命を受容する器となる為に、このような形として生れ、かくて彼は凡ゆる善を神から受け、神と結合することによって永遠に祝福されるのである。
真の基督教692
その外来者たちは兄弟たちに、その兄弟たちが仁慈の善のことごとくと信仰の真理のことごとくを主に帰しまつり、自らにこれを帰さないに応じて、人間となり、天界の天使となる途上に在るというこの真理を確信させるために努力しようと語った。
啓示による黙示録解説161
真理により人間は人間となる(3175、3387、8370、10298番)。
天界と地獄80
天使たちは、彼らのいわゆる形のない神的なもの〔神〕である、目に見えない神的なものを認めないで、人間の形を持った目に見える神的なものを認めているため、彼らは、主のみが人間であられ、自分たちは主から人間であり、また各々の者は主を受け入れるに応じて益々人間になると普通言っている。主を受け入れることによって、彼らは、主は主御自身の善と主御自身の真理の中におられるため、主から発している善と真理とを受けることを理解している。このことを彼らは知恵と理知と呼んでいる。
神の愛と知恵289
神から人間は凡てその愛と知恵とを受けるに従って人間になることは前に見ることが出来よう(11−13)。
6.このようにして人間は実に存在するようになり
天界の秘義4223[2]
このことは身体の有機的な形が発生する以前に用が存在し、用が形を生み出して、それをそれ自身に適応させたのであって、その反対は行なわれてはいないことを示している。しかしその形が生み出され、器官が適応させられると、用がそれらのものから発出するのであり、そのときはその形または器官が用よりも先に存在しているかのように見えるが、それでも事実はそうではないのである。なぜなら用は主から流れ入っており、しかもそれは天界を通して秩序に応じて行われ、また天界が主により定められている形に応じて行われ、かくて相応に従って行なわれているのである。このようにして人間は実に存在するようになり、またこのようにして実に生存しているのである。そしてここからまた人間が全般的なものの方面でも個別的なものの方面でも諸天界に相応している理由が明らかである。
7.神的秩序は、それが形をもって表象されるときは、人間として現れる
天界の秘義4839[2]
このことからまた以下のことが生まれている、すなわち天界の天使たちは、凡て人間の形をとって現れるに反し、地獄にいる悪霊らは、幻想から互に人間のように見えるはするものの、天界の光の中にかれらはでは、その陥っている悪に応じてすさまじい、恐るべき怪物として現れており(4533番)、そのことは悪そのものが秩序に反し、かくて人間の形に反しているためである、なぜなら前に言ったように神的秩序は、それが形をもって表象されるときは、人間として現れるからである。
8.人間はその心から人間である
天界の秘義5302
それは自然的な心であるため、その人間そのものである、なぜなら人間はその心から人間であるからである、なぜなら心そのものがその人間を構成しており、『心』のあるがままに、その人間もあるからである。心により人間の知性と意志とが意味され、従って人間の生命そのものが意味されている。愚鈍な者らは人間はその外なる形から、すなわち、かれは人間の顔のような顔を持っているということから人間である、と考え、それほど愚鈍でない者は人間は話すことができるから人間であると言い、さらにその者ほど愚鈍でない者は人間は考えることができるため、人間であると言うのである。しかし人間はそうした事から人間ではなくて、真のものを考え、善いことを欲する[意志する]ことができるという事実から人間なのである。人間が獣から区別されているのはこのことによっているのである。
天界の秘義5302[2]
しかしかれが人間のように見えることが、話したり、考えたりする能力が人間を人間とするのではないのである、なぜならもしかれが誤ったことを考えて、悪いことを意志するなら、そのことはかれを単に獣のようなものにするのみでなく、さらにそれよりも悪くするからである、なぜならかれはこの能力そのものによってかれ自身の中の人間的なものを破壊して、かれ自身を野獣としてしまうからである。このことは他生におけるこのような人物からとくに明白であり、かれらは天界の光の中に見られ、天使たちから眺められると、怪物として現れ、その或る者は野獣として、詐欺漢は蛇として、他は他の形をとって現れるのである。
天界と地獄60
しかし彼らは、人間はこうした地的な物から人間ではなくて、以下により、すなわち、人間は真のものを理解し、善いことを意志する[欲する]ことができるということから人間であることを知らなくてはならない。そうした理解することと意志することとが霊的な天界的な物であって、それが人間を作っているのである。人間としての各人の性質はその理解と意志の性質に依存していることは良く知られているが、人間の地的な身体は世における理解と意志とに仕えるために、また自然の最も外なる領域で理解と意志とに従って用を遂行するために形作られていることも知ることができよう。
天界と地獄60
天界は最も大きな、また最も完全な形を持ったこうした人間である。
天使たちは人間をこのように考えているため、彼らは、人間がその身体で為す事柄を全くかえりみないで、身体がその事柄を為す源泉である意志のみをかえりみている。これを[意志を]彼らは人間自身と呼び、また理解を、それが意志と一つのものとなって活動するかぎり、人間自身と呼んでいる。
9.聖母から司祭へ
聖母から司祭へ1976.3.7
なぜわが子イエズスは、御自分の心を慰める者がいるかどうかを求めるのでしょうか?
イエズスは神でいらっしゃいます。しかしまた人間でもあります。完全な人間! その心は、神と人間との愛で波打っています。彼にはすべての愛が充ち満ちております。彼の心は最も愛した心、最も苦しんだ心、また侮辱や非難にも又、愛情にも非常に感じ易いデリケートな心でした。
10.主はヨゼフを偲んで泣かれた
ヨセフ/
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P274
私たちを見守っていた聖人のそのまなざしを、死が消した時に、私は人間的に苦しまなかったと多くの人は思っている。神として、ヨゼフの幸福の運命を知り、そのためにリンボに短く止まって後、天が開かれて、そこに入ると知っていたので、その出発のために神として苦しんでいなかったとしても、人間として、彼の愛深い現存を失って空になった家でよく泣いた。私は、亡くなった友だちのために泣いたのに、私のこの聖なる養父のために泣かないことがあろうか。幼い時に彼の胸は、私の枕となったし、長い間、彼から多く、多くの愛をもらったのである。
11.残りのものによって人間は人間となる
天界の秘義530
既に述べたように、本章の名により、教会が、またはそれと同一のものである教義が意味されている、なぜなら教会は教義から存在し、教義からその名を得ているからであり、かくて『ノア』により古代教会が、または最古代教会から残った教義が意味されている。教会または教義の実情については既に述べておいた、即ち、それらは信仰の諸々の善と真理の如何ようなものも最早残っていなくなるまでも衰えてしまって、その時は教会は聖言には荒廃してしまったと言われているのである。しかしそれでも依然残りのものが常に保存されており、または信仰の善と真理とがその許に残っている若干の者が、例え少数ではあるが、残っているのである、なぜなら信仰の善と真理とがこの少数の者の中に保存されないならば、天界と人類との連結はなくなるからである。個人的に人間の中に存在している残りのものについて言うならば、それが僅少であればある程、その者が持っている理知と知識の事柄が明らかにされることが出来なくなるのである、なぜなら善と真理の光は主から発して残りのものから、または残りのものを通して流れ入っているからである。人間の中に残りのものが無いならば、彼は人間ではなくなって、獣よりもはるかに卑しいものとなり、残りのものが僅かしか存在しなくなるに応じて、益々彼は人間ではなくなり、残りのものが多く存在しているに応じ、益々彼は人間となるのである。残りのものは空の星に似ており、それが小さければ小さいほど、その放つ光も小さくなり、大きければ大きいほど、益々光は大きくなるのである。最古代教会から残った少数のものはノアと呼ばれる教会を構成した者達の間に在ったが、しかしこれらは認識の残りのものではなくて、完成の残りのものであり、また最古代諸教会の中で認識されたものから由来した教義の残りのものであったのであり、それ故新しい教会が今や主により残されたのであるが、それは最古代諸教会とは全く相違した生来の性格を持っていて、古代教会と呼ばれなくてはならないのである―それはそれが洪水以前の代々の終りに存在し、また洪水以後の第一期の間に存在したという事実から古代と呼ばれなくてはならないのである。この教会については主の神的慈悲の下に、更に今後語るであろう。
天界の秘義660
残りのものに対する道が閉ざされる時は、人間は最早人間ではなくなってしまうが、それは彼は最早天使により守られることは出来なくなって、人間を破壊することのみを究め、欲求している悪霊らに全くとりつかれてしまうためである。ここから洪水以前の人々の死が生まれたのであって、それが洪水により、または全的な氾濫により記されているのである。悪霊から流入する諸々の幻想と欲念とは洪水に似ていなくはなく、それでそれは聖言の色々な所に洪水または氾濫と呼ばれている。
天界の秘義1050
「そして凡ての肉の生きた魂の各々」。これは全人類を意味していることは、『凡ての肉の生きた魂』の意義から明白である。人間はことごとくその内に在る生きたものから生きた魂と呼ばれている。たれでももしその者が自分の中に生きたものを持たないならば、即ち、もし、無垢の、仁慈の、慈悲の何かを持っていないならば、または、そこから発してそれに似ている、またはそれに匹敵している何かを持っていないならば、決して生きることは出来ないのであり、まして人間として生きることは出来ないのである。この無垢の、仁慈の、慈悲の何かを人間は主から幼児と子供の時代の間に受けるのであって、そのことは幼児の状態から、また子供時代の状態から明白である。その人間がその時受けるものは彼の中に保存され、そして保存されたものは聖言では残りのものと呼ばれ、それは人間の中にある主のみのものである。このように保存されているものが人間をその者が成人期に達すると、人間であることが出来るようにさせるものである。(残りのものについては前に言ったことを参照されたい。468、530、560−563、576番)。
天界の秘義1738
「そして彼は彼に凡てのものの十分の一を与えた」(創世記14・20)。これは勝利から派生してくる残りのものを意味していることは、『十分の一』の意義から明白であり、それは(前の576番に語られた)残りのものである。しかし残りのものとは何であるかは前に見ることが出来よう(468、530、560、561、661、1050番)、即ち残りのものとは愛と仁慈との凡ゆる状態であり、従って人間が与えられる無垢と平安との凡ゆる状態である。これらの状態は人間に幼児の頃から与えられるが、しかし人間が成人期に進むにつれて徐々に少なくなる。しかし人間が再生しつつあると、その時彼は前の残りのものの他に、また新しい残りのものを受けるのであり、かくて新しい生命を受けるのである。なぜなら人間が人間となることは残りのものから発しており、または残りのものによっているからである。なぜなら愛と仁慈の状態が無くては、また無垢の状態が無くては―この状態は彼の生命の他の状態へ徐々に入り込んで来るのであるが―人間は人間ではなくなってしまって、いかような野獣よりも悪くなるからである。試練の争闘の中で得られる残りのものがここに意味されているものである。この残りのものがアブラムによりメルキゼデクに与えられた十分の一により意味されているものであり、それらが主が不断の闘争と勝利とにより御自身に得られた愛の凡ゆる天的なものであり、主はその不断の試練と勝利により絶えず主の神的な本質に結合され給いつつあって、遂にはその人間的な本質も同様に愛になられ、または生命の存在、すなわち、エホバになられたのである。
天界の秘義1906 [2]
その後、彼は成長すると、幼児時代のこの善良な、無垢な、平和な状態は徐々に後退して行って、彼が世に入れられるに応じ、その快楽の中へ、欲念の中へ入り、かくて悪の中へ入って行き、幼児時代の天的なまたは善良なものは消滅し始めるが、それでもそれらは残っていて、その人間が着ける、または取得する幾多の状態はそれらのものにより調整される[和らげられる]のである。それらのものがないなら人間は決して人間になることは出来ないのである、なぜなら欲念または悪の状態が善の情愛の状態により緩和されないならば、その状態はいかような動物のそれよりも更に狂悪なものになるからである。この善の状態が残りのものと呼ばれるものであって、主によって与えられて、人間の自然的な性向[気質]の中に植え付けられるものであるが、しかもそれは人間がそれを知らない間に行われるのである。
天界の秘義1906 [3]
後年彼はまた新しい状態を与えられるが、しかしその状態は善の状態であるよりは真理の状態である、なぜなら彼は成長して行くに連れて、幾多の真理に浸透し、この真理も同じく彼の内的な人の中に貯えられるからである。これらの残りのものにより、即ち、霊的なものが流入することにより生まれてくる真理の残りのものにより、人間は公民的な道徳的な生活の善と真理とは何であるかを考え、また理解する能力を、また霊的な真理をまたは信仰を受ける能力を得るが、しかし彼はそのことを幼児時代に受けた善の残りのものによらなくては行うことは出来ないのである。残りのものがあって、それが人間の内的な合理的なものの中に貯えられることは全く人間に知られていないが、これは彼が何一つ流入はしない、全てのものは自分に生来具わっていて、自分と共に生まれていると考え、かくてそれは全て幼児の時にも自分の中にあると考えているためであるが、それでも実情は全く相違しているのである。残りのものは聖言の多くの部分に取り扱われていて、それにより人間が人間になる手段となる状態が意味されているが、しかもそれは主のみから発しているのである。
神の愛と知恵11
神はまた人間としてアブラハムやその他の者に現れ給うた。古代人は、賢明な者から単純な者にさえいたる迄も、神を人間以外のものとしては考えなかった。そして遂に彼らはアテネとローマにおけるように多数の神々を拝し始めたときも、その神々を人間として拝したのである。
神の愛と知恵287
愛と知恵とは人間であることは、天界の天使たちは主から発する愛と知恵とにいるに比例して美しい人間になるという事実から更に明白である。
神の愛と知恵287
この霊は主から発している愛と知恵とを受けるため、人間であり、この愛と知恵が人間の霊または霊魂により受け入れられる限り、その霊または霊魂は、それ自身の周囲に引き寄せた物質的な身体の死滅後には、人間となるが、それが受け入れられない限り、それは受け入れる能力から若干の人間性を得ているに過ぎない怪物となるのである。