巨大人

 

人間

 

 

天界の秘義3624−3649

人間の器官と各部とはことごとく、その内的なものも外的なものも、天界である巨大人と相応していることについて

 

 

天界の秘義3883−3896

続、巨大人について、また相応について、ここでは心臓と肺臓に対する相応について。

 

 

天界の秘義4218−4228

続、巨大人について、また相応について

 

 

天界の秘義4318−4331

続、巨大人について、また相応について、ここでは感覚全般との相応について。

 

 

天界の秘義4403−4421

続き、巨大人について、また相応について、ここでは目との、また光との相応について

 

 

天界の秘義4622−4633

 

続き、巨大人との相応について、ここではにおいのまた鼻孔の巨大人との相応について

 

 

天界の秘義4652−4660

 

続き、巨大人または天界との相応について、ここでは聴覚と耳との、その巨大人との相応について

 

 

 

天界と地獄59〜67

 

全天界は一つの全体として一人の人間を表象している

 

 

 

天界と地獄553

 

地獄そのものの形は全般的にはいかようなものであるかは私は見ることはできず、ただ以下のように言われたのである、天界全体はその総合体では一人の人間を表象しているように、地獄全体もその総合体においては一人の悪魔を表象しており、同じくまた一人の悪魔の映像をもって表象することができよう、と。

 

 

神の摂理302

 

かくて天界の形は美しい人間の形であり、その霊魂は神的な愛と知恵であり、それ故主であり、地獄の形は醜悪な人間の形であり、その霊魂は自己への愛と自己の理知であり、それ故悪魔である。なぜならそこを只一人で支配する悪魔はいないし、自己愛が悪魔と呼ばれるからである。

 

 

 

天界の秘義1894 []

 

エホバまたは主はただ一人の人間であられることは、また人間たちは自分たちが人間と呼ばれていることを主から得ていることは、また一人の人間は他の一人の人間よりもさらに人間となっていることは、前に(49、288、477、565番に)見ることが出来よう、そしてそのことはまた、エホバはまたは主は最古代教会の父祖たちには人間として現われたまい、後にはまたアブラハムと予言者にも人間として現われたもうたという事実からも認めることができよう、こうした理由からまた主は、地上にもはや人間が存在しなくなった後で、または人間の間にもはや天的な霊的なものが存在しなくなった後で、自らを卑しうして、他の人間のように生まれたもうことにより、人間の性質を取られて、その性質を神的なものにすることをよしとされたのであり、このようにして主はまたただ一人の人間であられるのである。さらに、天界全体は、それは主御自身を示しているため、主の前には人間の映像を示しているのである。このことから、天界は巨大人と呼ばれており、しかもそのことは特に主はそこではすべてにおけるすべてのものであられるという事実から発しているのである。

 

 

 

天界の秘義2996

 

 以下のことは他生では各々の霊には何ものにもまさって良く知られてはいるものの、この世では大いなる秘密である、即ち、人間の身体における凡ゆる物は天界における凡ゆる物に相応しており、実に身体の最小の部分であっても、それに霊的なまた天的なものの何かが相応しており、またはそれと同一のことではあるが、それに天界の社会が相応しているのである、なぜならこれらの天界の社会は霊的な天的なものの凡ゆる種族と種類とに従って存在しており、しかもそれはそれらの天界の社会が共に合して一人の人間を、その人間の凡ゆる部分の方面を、全般的にもまた個別的にも、その内部のみでなくその外部をも表象しているといった秩序をとっているからである。そこから天界全体はまた巨大人と呼ばれており、またそこからこれこれの社会は身体のこれこれの領域に属しているとしばしば言われているのである。その理由は主はただ一人の人間であられて、天界は主を表象しているということであり、主から発している神的な善と真理とは天界を構成するものであり、天使たちはその中にいるため、彼らは主の中にいると言われている。しかし地獄にいる者らはこの巨大人の外側にいて、不潔な物に、また身体の腐敗した部分に相応しているのである。

 

 

 

天界の秘義3624

 

 わたしの知る限りでは、未だたれにも知られておらず、また何人の心にも入ったことすらもない驚嘆すべき事柄を述べ、また記すことが今や許されたのである、すなわち、天界全体は主に、主の神的な人間的なものに相応するように形作られており、人間はその中に在る一切の方面でも天界に相応し、天界を通して主に相応するように形作られているのである。これは今や啓示されなくてはならない大いなる神秘であって、それをここに、また以後の諸章の終りに取扱うことにしよう。

 

 

天界の秘義3625

 

 前に天界と天使の諸々の社会について語った際に、それらは身体の何らかの領域に属していると、例えば頭の領域に、または胸の、または腹の、またはその中の何らかの部分または器官の領域に属していると、時折言ったのはこの根拠からであり、そのことはここに語られる相応のためである。

 

 

天界の秘義3627

 

 何物もそれ自身から存在し存続することが出来ず、他の何ものかから、すなわち、他の何物かを通して存在し、存続することが出来、また何物も、自然界における一切の物から明白であるように、他の何物かから、すなわち、そのものを通して形の中に維持されることが出来ることを除いては、それ自身からは形を維持されることが出来ないことは全般的な規則である。人間の身体は外側では大気により形を維持されていることは知られており、また人間の身体はその内側においても或る働きかけているまたは生きている力により形を維持されていない限り、一瞬にして砕けてしまうであろう、なぜなら凡ゆるものはそのもの自身よりも先在しているものと関連を持たないなら、また潜在している幾多のものを通して最初のもの[神]に関連を持たないなら、忽ち死滅するからである。巨大人またはそこから発している流入は、人間がその自己の中に在る一切の物の方面で最初のものと、すなわち、主と関連づけられている手段となっているかの先在的なものであることは以下の記事から明らかになるであろう。

 

 

天界の秘義3628

 

 この主題についてわたしは多くの経験から教えられたのであり、実に以下のことも教えられもしたのである、すなわち、人間の心に、すなわちその思考と情愛とに属している[関係している]事柄は、主から発して天界のものである霊的な天的な事柄に相応しているのみでなく、人間全体が全般的にも、また個別的にも何であれ人間の中に在るものもことごとくその霊的な天的な事柄に相応していて、実に最小の部分でも、また部分を構成している最小のものでもそれに相応していないものは一つとしてないほどにもなっており、また人間はそこから存在し、絶えず存続しており、さらに人間が天界にこのように相応し、天界を通して主に相応していない限り、かくて人間自身よりも先在しているものに相応し、先在的な物を通して最初の者[神]に相応していない限り、彼は一瞬すらも存続しないで、解体して無になってしまうのである。

 

 

天界の秘義3644

 

 全世界の人間はことごとく、その霊魂については、またはそれと同一のことではあるが、身体の死後も生きることになっているその霊については、巨大人の中にか(すなわち、天界の中にか)、またはその外側の地獄にか、その何れかに位置を持っているのである。人間はこの世に住んでいる間はその愛の善とそこから派生してくる信仰の真理に応じて天界の中におり、その憎悪の愛とそこから派生してくる誤謬に応じて地獄の中にいるのである。

 

 

天界の秘義3645

 

 主の王国全体は目的と用との王国である。わたしはこの目的と用との神的なスフィアを明らかに認め、同時に言い尽くしがたい或る事柄を認めることを許されたのである。一切の物はこのスフィアから流れ出て、それにより導かれている。情愛と思考と行動が心から善を為そうとする目的をその内に持っているに応じて、益々その人間は霊または天使は巨大人の中に、すなわち、天界の中にいるが、しかし人間または霊が心から悪を為そうとする目的を持っているに応じて、益々彼はその巨大人の外に、すなわち、地獄の中にいるのである。

 

 

天界の秘義3883−3896

 

続、巨大人について、またその相応について、ここでは心臓と肺臓に対する相応について

 

 

天界の秘義3883

 

巨大人とは何であるか、またその巨大人と相応することとは何であるかは、すなわち、巨大人は天界全体であり、それは全般的には主に似た形であり、主の映像であり、相応とは主の神的なものが巨大人の中の天的な事柄と霊的な事柄とに相応していることであり、また巨大人の中に在る天的な事柄と霊的な事柄とが世における自然的な物に相応していることであり、主として人間における自然的な物に相応していることであることはすでに示したところである。かくて主の神的なものは天界または巨大人を通して人間に相応しており、人間における凡ゆる物に相応しており、それは人間はそこから発生し、すなわち、存続しているほどにもなっているのである。

 

 

天界の秘義3884

 

四つの作用または働きかけがそのときわたしにより認められたのである。第一のものは頭脳の左のこめかみへ注がれて、それは理性の器官の方面に全般的に働きかけるものであった、なぜなら頭脳の左側は合理的な、または知的な事柄に相応しているが、右側は意志の情愛または事柄に相応しているからである。

 

 

天界の秘義3886

 

天的な者たちの脈搏は音がなくて、おだやかであったが、霊的な者たちのそれは強く波立っていた。霊的な者たちの脈搏の中間時間は天的な者たちのそれに対しては二対五の割合であった、なぜなら天的な者たちの脈搏は霊的な者たちのそれへ流れ入っており、かくて自然の中へ発出し、移行しているからである。しかも驚くべきことは、天的な天使たちの言葉は霊的な天使たちによっては聞かれないで、心臓の脈搏の形の下に認められており、しかもそのことは天的な天使たちの言葉は霊的な天使たちには把握されないためである、なぜならそれは愛のものである情愛により生み出されているに反し、霊的な者たちのそれはは知的な観念により生み出されており(1647、1759、2157、3343番を参照)、前の者たちは心臓の領域にぞくしているが、しかし後の者たちは肺臓の領域にぞくしているからである。

 

 

天界の秘義3887

 

 天界または巨大人の中には二つの王国が存在しており、その一つは天的な王国と呼ばれ、他の一つは霊的な王国と呼ばれている。天的な王国は天的なものと呼ばれている天使たちから成っており、これらの者は主に対する愛の中にいて、そこから知恵そのものの中にいる者たちである、なぜならかれらは主の中にいて、そのことにより他にひときわすぐれて平安と無垢の状態の中にいるからである。かれらは他の者には小さな子供たちのように見えるのである、なぜなら平安と無垢の状態はこうした外観を示すからである。そこの凡ゆるものはかれらの前には恰も生きているかのようなものとなっている、なぜなら何であれ主から直接に来ているものは生きているからである。こうしたものが天的な王国である。他の王国は霊的な王国と呼ばれている。それは霊的なものと呼ばれている天使たちから成っており、これらの者は隣人に対する仁慈の善の中にいた者たちである。かれらは自分たちが他の者に報酬無しに善を為すことができるという事実にかれらの生命の歓喜を成立させており、かれらには他の者たちに善を為すことを許されることが充分な報酬なのである。かれらがこのことを意志し、欲するに比例し、益々理知と幸福を与えられるのである。なぜなら他生ではたれでもその者が意志の情愛から遂行する用に順応して主から理知と幸福とを与えられるからである。こうしたものが霊的な王国である。

 

 

天使たち3887[2]

 

 主の天的な王国の中にいる者たちはすべて心臓の領域にぞくし、霊的な王国にいる者たちはすべて肺臓の領域にぞくしている。天的な王国から霊的な王国へ注がれる流入は肺臓へ注がれる心臓の流入に似ており、また心臓の凡ゆる物が肺臓の凡ゆる物へ注がれる流入に似ている、なぜなら血管により心臓は身体の全体とその凡ゆる部分を支配し、肺臓は呼吸によりその凡ての部分を支配しているからである。そこから身体の凡ゆる所にいわば肺臓へ注がれる心臓の流入のようなものが存在しているが、しかしそれはそこの形に順応しており、また状態に順応しているのである。そこから身体に固有な凡ゆる活動のみでなく凡ゆる知覚が起こっており、そのことは胎児と生まれたばかりの幼児の場合から認めることができるのであり、かれらははその肺臓が開かれない中は、かくてその一方のものが他方のものの中へ注がれる流入が確立されない中は、身体の知覚も、自発的な活動も得ることはできないのである。

 

 

天界の秘義3887

 

 この二つの王国は人間の中に存在している二つの王国、すなわち、意志の王国と理解の王国により人間の中に観察できるように示されており、この二つの王国が人間の心を、すなわち、人間自身を構成しているのである。意志はそれに心臓の脈搏が相応しているものであり、理解はそれに肺臓の呼吸が相応しているものである。こうした理由から人間の身体の中にも同様に二つの王国が、すなわち、心臓と肺臓との王国が存在しているのである。

 

 

天界の秘義3892

 

 わたしは、天的な人間であって、他の凡ての人間にもまさって主に対する愛の中にいた最古代の人々により以下のように告げられた、すなわち、彼らはその子孫が持っていたような外なる呼吸は持たないで、内なる呼吸を持っていたが、しかし彼らはその子孫が持っていたような外なる呼吸は持たないで、内なる呼吸を持っていたが、しかし彼らは天使たちとともに呼吸したのであり、天的な愛のうちにいたため、天使たちと交わったのである。私はさらに彼らの呼吸の状態は全く彼らの愛の状態と愛から派生してくる信仰の状態に順応していたことを知らされたのである(この主題については前に述べられたことを参照されたい、608、805、1118−1120番)。

 

 

天界の秘義3893

 

天使たちの合唱隊

 

歌うことは肺臓の務め

 

わたしはさらに、非自発的な[無意識の]呼吸の務めを任じられている者たちは自発的な意識的な呼吸の務めを任じられている者たちからは明確に区別されていることを教えられ、また非自発的な呼吸の務めを任じられている者たちは人間が眠っている間その者のもとにいると話された、なぜなら人間は眠ると直ぐに、その呼吸の自発性は停止してしまって、かれは非自発的な呼吸を受けるからである。

 

 

天界の秘義3894

 

 前に以下のことを言っておいた、すなわち、天使たちと霊たちの呼吸はかれらの愛の状態とそこから派生してくる信仰の状態に全く順応しているのである(3892番)。そこから一つの社会は他の社会と同じようには呼吸はしないのであり、自己への愛と世への愛の中におり、そのことにより誤ったものの中にいる悪い者らは善い者と共になって住むことはできないで、かれらに近づくと、呼吸ができないで、いわばかれら自身には窒息してしまうかのように思われ、その結果地獄へまでも半死半生の者のようになって、または石のようになって落ち込んでしまい、そこへ落ちると、再び呼吸を受けるが、それはかれらがそこにいる者らと共通してもっているものである。このことからわたくしたちは、悪と誤謬の中にいる者らは巨大人の中に、または天界の中にいることはできないことを認めることができるのである、なぜならかれらはそこに近づくと、その呼吸は停止しはじめ、その観察と思考もまたことごとく停止し、同じように悪いことを行い、誤ったことを説きつけようとするその努力もことごとく停止し、その努力とともにかれらの活動と生命の運動もことごとく消滅し、かくてかれらは自分自身をそこから真逆様に投げ下ろさないわけにはいかないのである。

 

 

天界の秘義3895[2]

 

 人間が悪い生命の中にいるときに真理を確信することは、その者が自分自身に、真理は真理であると説得はするが、それは善を目的としているためではなくて、悪を目的としており、すなわち、その者がそのことによって名誉、名声、富を得ることができるためであるといった性質をもっているのである。凡ての者の中で最悪の者自身でさえもこのような確信の中にいることができ、また真理の中にいない者たちをことごとく、たとえその者たちはいかほど善の中にいようとも、地獄までも弾劾するほどにも外面的な熱意の中にいることができるのである(この確信については、2869、3865番を参照)。このような人物は最初他生へ入って来ると、自分自身が天使であると信じはするが、しかしかれらはいかような天使の社会にも近づくことはできないで、そこへ近づくや否やかれら自身の確信のためにいわば窒息してしまうのである。これらの者が主からマタイ伝に以下のように言われている者たちである―

 

 かの日多くの者は、わたしに向って言うであろう、主よ、主よ、わたしあっちはあなたの御名において予言したではありませんか、あなたの御名において悪鬼を追い出したではありませんか、あなたの御名において多くの驚くべき業を行ったではありませんか、と。しかしそのときわたしはかれらに明らかに告げよう、わたしは決してあなたたちを知らなかった、不法を行う者よ、わたしからはなれて去りなさい(マタイ7・22、23)。

 

 

天界の秘義4223[2]

 

このことは身体の有機的な形が発生する以前に用が存在し、用が形を生み出して、それをそれ自身に適応させたのであって、その反対は行なわれてはいないことを示している。しかしその形が生み出され、器官が適応させられると、用がそれらのものから発出するのであり、そのときはその形または器官が用よりも先に存在しているかのように見えるが、それでも事実はそうではないのである。なぜなら用は主から流れ入っており、しかもそれは天界を通して秩序に応じて行われ、また天界が主により定められている形に応じて行われ、かくて相応に従って行なわれているのである。このようにして人間は実に存在するようになり、またこのようにして実に生存しているのである。そしてここからまた人間が全般的なものの方面でも個別的なものの方面でも諸天界に相応している理由が明らかである。

 

 

天界の秘義4225

 

先ずたれが巨大人の中にいるか、またたれがその外にいるかを述べなくてはならない。主に対する愛と隣人に対する仁慈の中にいて、隣人に対してはその者の中にある善に応じて善を行い、公正で公平なものの良心を持っている者たちはすべて巨大人の中にいるのである。なぜならこれらの者は主の中におり、従って天界にいるからである。しかし自己への愛と世への愛とそこから派生してくる欲念の中におり、たんに法律のために、自分の名誉と世の富とそこから生まれてくる名声のためにのみ善いことを行い、かくて自分自身と世とのために隣人に対しては内的には無慈悲であり、憎悪と復讐の中におり、隣人が自分に与しないときはその危害を歓んでいる者は凡て巨大人の外にいるのである、なぜならこれらの者は地獄にいるからである。これらの者は身体の中のいかような器官にも肢体にも相応しないで、その中に起ってくる種々の腐敗と病気に相応している、そのことについてもまたわたしは主の神的慈悲の下に、以下の頁に経験から語ることにしよう。

 

 

天界の秘義4225[3]

 

 しかし巨大人の内にいる者たちは愛の善の中にいる時は自由に呼吸しているが、それでもその善の質と量とに応じて区別されている。そこから極めて多くの天界が存在していて、それらは聖言で『館』と呼ばれている(ヨハネ14・2)。そして各人は自分自身の天界の中にいる時はその者の生命の中におり、全天界から流入を受けており、そこでは各人が凡ゆる流入の中心となっており、それでかれは最も完全な均衡の中にいるが、しかもそれは主からのみから発している天界の驚くべき形に順応しており、かくて凡ゆる変化を持っているのである。

 

 

天界の秘義4227[3]

 

 これらの霊は動物精神と呼ばれている人間の純粋な血液の腐敗したものに相応しており、その血液の中へ腐敗が無秩序に入ってくるのであり、それがそれ自らを拡げる所では何処であれ、神経と繊維とに悪感と麻痺とを生み出す毒のようなものであり、そこから最もいたましい、致命的な病が突発してくるのである。

 

 

天界の秘義4404

 

感覚の相応については、全般的に言って、触覚は善の情愛[善に対する情愛]に、味覚は知ることの情愛に、嗅覚は認識することの情愛に、聴覚は学ぶことの情愛に、また服従に、視覚は理解し、賢くなることの情愛に相応しているのである。

 

 

 

天界の秘義3747[2]

 

 さらに、学者は単純な者以上に自分自身を獣のようなものであると立証しようと努めており、凡ゆる物を自然に帰し、神的なものには殆ど何ものをも帰していないと言われたのであり、更に、彼らは人間は獣より区別されるものとして、天界について、神について考え、そのことによって自分自身の上に挙げられ、従って愛により主と連結される能力を持っており、かくて人間は死後永遠に生きないわけにはいかないとも言われたのである。また以下のことが附言されたのである、何であれ人間に属している物はことごとく天界を通して主に依存しており、天界は巨大人であり、この巨大人に人間における凡ゆる物は全般的にも個別的にも相応し、また自然における凡ゆる物も相応していることを特に彼らは知ってはおらず、恐らくこうした事柄を聞いたり、読んだりすると、それらのことは彼らには逆理のように思われて、経験によりそれらのことを確認しない限り、彼らはそれらのことをとりとめもない架空な事柄として斥けるのである。

 

 

 

天界と地獄30

 

人間の中にはその内なる人は天界の映像として形作られ、外なる人は世の映像として形作られ、それゆえ人間は古代人により小宇宙と呼ばれた。3628,4523,6013,6057,9279,9796,10156,10472。

 

 

天界の秘義6436

 

天界は巨大人に関連をもっており、主の天的な王国が存在している最も内なる天界はその人間の頭に関連し、霊的な王国が存在している中間の、または第二の天界は身体に関連し、究極の、または第一の天界は足に関連しているのである(4938、4939、5328、6292番)。

 

 

 

天界の秘義6823

 

 主の王国は人間がその中に生まれた教会よりも高度の隣人である、なぜなら主の王国は、地上のみでなく、諸天界の中でも、善の中にいる凡ゆる者から成っており、かくて主の王国は凡ゆる性質を持った善の総合体であり、この善が愛される時、善の中にいる各々の者も愛されるのである。かくて凡ゆる善の総合体である全体は最初の度の隣人であって、それは多くの章の終わりに取扱われたかの巨大人であり、その人間こそ主御自身を表象する映像である。主からその巨大人を通して人間となっており、かくて主の王国がそのもとに宿っている者たちが最も深い情愛から益を与えられる時、この巨大人、即ち、主の王国は愛されるのである。

 

 

 

天界と地獄59

 

天界は一つの全体として一人の人間を表象していることは、世ではまだ知られていないが、諸天界では非常に良く知られているアルカナ[秘義]である。この事実を、特定的に、また個別的に知ることは天界の天使たちの理知における主要な事柄であって、そのことに多くの物がかかっており、そのことがその多くの物の共通の原理とならないならば、その物も明確には彼らの心に考えられないのである。諸天界は凡てその諸々の社会とともに一人の人間を表象していることを彼らは知って、そのため天界を「巨大人」、また「神的人間」と呼んでいる(*1)―神的人間と呼ぶのは、主の神的なものが天界を作っているということから来ている(前の7−12参照)。

 

 

*1。天界の全総合体は人間の形をとって現れ、そこから天界は巨大人と呼ばれている、2996、2998、3624−49、3741−45、4625.