神的人間性
神は人間の形をもって考えられなくては考えられることはできない/
主イエス・キリストP134
受肉以前には、神的人間性は、前に述べたように、主エホバがその霊をもって満たされた或る天使による表象的なものを除いては全く存在しなかった。そしてそれは〔主エホバがその霊をもって満たされた天使による表象的な神的人間性〕は表象的なものであったため、当時の教会の凡ゆる物は表象的なものであり、また影のようなものであった。しかし受肉以前は表象的なものは、夕または夜の影が登ってくると消えて行くように止んだのである。主が事実降臨される以前にこの世に当時御自身を示されたその表象的な人間性は霊的に人間を明るくすることが出来るような効果を持っていなかった、それでその時は明るくすることは専ら象徴と表象とにより行われたのである。
.理知的である異教徒もそれ(神的人間性)以外の方法では考えることは出来ない
スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP80
ペテロに言われた主の御言葉を提出しよう、そこには主は三度『シモン ペテロよ、あなたはわたしを愛しますか』と言われたものの、彼は主に従わないで、ヨハネが主に従ったのである。これらの事柄が言われたのは、『ペテロ』によりここでは信仰のみの中にいる者らが意味され、『ヨハネ』により仁慈の善が意味されているためである。ペテロに対する御言葉から、信仰のみの教義の中にいる者らは主の人間的なものを承認しないが、仁慈の善の中にいる者のみがそのことを承認することが明らかである。(中略) キリスト教徒は神的な人間的なもの[神の人間性]を殆ど考えることは出来ないし、認めることも出来ない(このことは多くの者の経験から示されることが出来よう)、なぜなら彼らは普通の人間を考えて、愛であるところの人間の本質については考えないからである。しかし他方、天使たちはそれ以外の方法で考えることは出来ないのであり、実に、理知的である異教徒もそれ以外の方法では考えることは出来ないのである。
天界の秘義3441
主はこの神的な人間的なものにより人類に仕えられるためである、なぜなら人間が主の人間的なものをその心で見上げ、崇拝し、かくて神的なものに近づくことができるために、主がその人間的なものを神的なものに結合されなかったなら、人間は決して救われることはでいなかったからには、人間はこの神的な人間的なものにより救われるからである。人間が『父』と呼ばれている神的なものそれ自体と連結することが、『子』と呼ばれている神的な人間的なもの[神の人間性]を通して、かくて主を通して行われるのであり、主により霊的な人間は人間的なものを理解しているが、しかし天的な人間は神的なものそれ自身を理解しているのである。ここから神的な人間的なものが『僕』と呼ばれている理由が明白である、すなわち、それは、人間が神的なものに近づくことができるために、神的な人間的なもの[神の人間性]が神的なもの[神]に仕えるためであり、また人類の救いのために人類に仕えるためである。
天界の秘義4211[2]
人間が主と連結することは主の神的なものそれ自身と連結することではなくて、主の神的な人間的なものと連結することである、なぜなら人間は主の至高の神的なものについては何であれいかような考えももつことができないからである、なぜならそれらは人間の観念をそれが死滅してしまった無となるほどにも超越しているからであるが、しかし人間は主の神的な人間的なものは考えることができるのである。なぜなら人間はたれでもその者について多少なりと考えることのできる者とは思考と情愛により連結はするが、その者について多少なりと考えることのできる者とは思考と情愛により連結はするが、その者について全く考えることのできない者とは連結しないからである。
天界の秘義4735
天界における聖いものはすべて主の神的な人間的なものから発出しており、それで教会における聖いものもすべてそこから発出している、それで、暴行がそれに加えられないようにと、主により聖餐が定められ、その中に、パンは主の肉であり、ぶどう酒は主の血であると明らかに言われ、かくて聖いものがそのとき発してくる源泉は主の神的な人間的なものであると明らかに言われているのである。古代人のもとでは、人間的なものは肉と血から成っているため、肉と血とは人間自身のものを意味したのであり、かくて主はシモンに『あなたは祝福されている、肉と血がそれをあなたに示したのではなく、天におられるわたしの父が示されたからである』と言われたのである(マタイ16・17)。それで聖餐のパンとぶどう酒により意味されている肉と血とは主の人間的なもの自身を指示しているのである。
天界の秘義4735[3]
このことから以下のことが明らかである、すなわち主の神的な人間的なものにより、その天的な意味では、神的愛そのものが意味されており、それは、全人類を救い、彼らを永遠に祝福された、幸福なものに為し、彼らがその神的なものを受けることが出来る限り、その神的なものを彼ら自身のものに為そうと欲することにおいて、全人類に対する愛である。この愛と主に対する人間の相互的な愛とまた隣人に対する愛が聖餐に意味され、表象されているものであり―神的な天的な愛は肉またはパンにより、神的な霊的な愛は血またはぶどう酒により意味され、また表象されているのである。
天界の秘義4692〔4〕
しかしながら基督教会は、外なる礼拝では主の人間的なものを神的なものとして実際崇拝し、特に聖餐においては、主がその中のパンは主の身体であり、葡萄酒はその血であると言われたため、それを神的なものとして崇拝はしてはいるが、しかしその教義では彼らは主の人間的なものを神的なものにしてはいないのである、なぜなら彼らは神的な性質と人間的な性質との間に区別を設けているからである。このことの理由もまた教会は仁慈から信仰へ、遂には分離した信仰へ離反し去ったということである。そして彼らは主の人間的なものが神的なものであることを承認しないため、多くの者は躓いて、心でかれを否定しているのである(4689番)。にも拘らず真理は主の人間的なものは、前に語られた(4687番)、神的存在から発生した神的なものであり、主は神的存在であられるということである、なぜなら主もまたヨハネ伝に、また他の所に明らかに教えられているように、神的な存在と発出した神的なものとは一つのものであるからである―
イエスはピリポに言われた、わたしはあなたとこんなにも長くいるのに、あなたはわたしを知りませんか。わたしを見た者は父を見たのである。わたしは父の中におり、父がわたしの中におられることをあなたは信じませんか。わたしは父の中におり、父はわたしの中におられるというわたしを信じなさい(ヨハネ14・9−11)。
なぜなら発生した神的なものは神的存在から発出している神的なものそれ自身であり、姿においては人間であるからである、なぜなら天界は―それが〔発出している神的なものが〕天界の凡てのものであるが―前に言ったように(4687番)、また諸章の終りで人間における凡ゆる物は巨大人と相応していることの中に示されているように、巨大人を表象しているからである。
天界の秘義9571
主もまた以下の記事で教えておられるように、神的なものは人間の形の下で見られなくては見られることが出来ないため、主の神的な人間的なものが天界における光の源泉となっているのである―
何人もいかような時にも神を見てはいない、父の胸の中におられる独り児の神のみが神を示された(ヨハネ1・18)。
あなたらはいかような時にも父の御声を聞いたことはなく、その御形を見てもいない(ヨハネ5・37)。
真の基督教98
父と子、即ち神性と人間性とは霊魂と身体とのように主の中に合一していることは、実に信仰箇条として教会により認められ、また聖書に一致しているが、しかし百人の中五人もこれを真理として認めていない。是は信仰のみによる義認の教義のためであり、この教義に、名誉と富とのために学問上の名声を得ようと熱中している者達が自らを非常な熱意を以って捧げ、遂にその心はその教義に取り憑かれるに至るのである。而してそれは、アルコルと呼ばれる酒精のように、彼らの思考を酔わせてしまったため、彼らは教会のこの最も本質的な信条を―エホバなる神が降り、人間性を取り給うたことを理解することが出来ないのである。にも拘らず、これのみが神との交わりによる人間の救いを可能ならしめるものである。
真の基督教111(8)
最後に、質問者達はロマカトリック教徒に向って語った。「恐らく貴方がたは神的人間性を語ることが出来るでしょう。何故なら、貴方がたはその聖餐に於てキリストはパンと葡萄酒の中に、その各部の中に、全的に、在し給うことを信じ、また貴方がたは聖体を示し、之を持ち回る時、彼を最も聖い神として礼拝し、またマリヤをデイパラ即ち神の母と呼び、従って貴方がたは彼女は神を、即ち神的人間性を生んだということを認めておられるからであります」 彼らはそこでその言葉を出そうと試みた。然しキリストの人間性はその神性から分離されており、またそれは実際、法皇にはキリストの神的な力は委譲されておらず単にその人間的権能が委譲されているに過ぎない故、法皇の許では分割されているという信念と共に、キリストの血と身体に関わる物質的な考えがその時生まれて来たために、彼らはその言葉を発することが出来なかった。すると修道僧の一人が立ち上がり、私は最も聖い処女マリヤとまた私の修道院の一人の聖人の神的な人間性を考えることが出来ますと語った。他の一人の修道僧が進み出て語った。「私が今抱いている考えによりますと、私は神的人間性という語をキリストに対して発するよりも、神聖法皇に対して発することが出来ます」 然し法皇派の中には彼を引き戻して「恥を知れ」と叫んだ者があった。この後、天界が開け、其処に、謂わば、火の舌のようなものが、会衆の或る者の上に降り、そこに止まるのが見えた。するとその者らは主の神的人間性を讃え始めて、語った。「三人の神の観念を斥けられよ。而して、主の中には神性の完全性は尽く身体をなして宿り、彼と父とは霊魂と身体とが一つであるように一つであり、神は空気或はエーテルのようなものではなくて人間であり給うことを信ぜられよ。然すれば貴方方は天界に結合せられ、主は貴方方にイエスと呼び、且つ神的人間性と語ることを得させ給うでありましょう」
啓示による黙示録解説
黙示録13・8
『その名を小羊の生命の書に記されていない、地に住む凡ゆる者は彼を崇めるであろう』は、主を信じる者たち以外の凡ての者はその異説の教義を教会の聖いものとして承認したことを意味し、『世の創設から殺された』は、主の神的人間的なものは教会が最初に設立された時からでさえも承認されなかった、を意味している。
天界と地獄78以下
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/6巻上381.2P229
人間性の中から神性が溢れて噴き出し、発散する。