主のご人性によって主を把握する

 

救う信仰神的人間性

神は人間の形をもって考えられなくては考えられることはできない

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

2.サンダー・シング

3.アヴィラのテレサ

4.神を人間として考えることが植えつけられている

5.ルイザ・ピッカレータ

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

見えない神とは如何なる交わりもない・・・主のご人性を通して

 

ヨハネ8・56−59

 

あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」 ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。

 

 

真の基督教339

 

人々は救い主イエス・キリストなる神を信じなければならない、即ち、彼に対する信仰を持たなければならないのは、これは見えない神がその中に在すところの見える神に対する信仰であるからである。何故なら、人であり、また神である見える神に対する信仰は人の受け入れ得るものであるからである。信仰の本質は霊的なものであるが、その形は自然的であり、それ故信仰は人間の中に霊的且つ自然的なものになるのである。何故なら、霊的なものは凡て、人間がこれを現実のものとして所有するためには、自然的なものの中に受け入れられねばならぬからである。純粋に霊的なものは実際人間に入りはするが、受け入れられない。それはエーテルの如きものであり、人間を感動さすことなくして彼に流れ入り、また流れ去って行く。人間を感動さすためにはそれは人間の心に認められ、且つ受容されねばならず、これは彼の自然的な心の中にのみ可能である。

 

他方単に自然的な信仰または霊的本質を欠いた信仰は信仰ではなく単なる確信あるいは知識に過ぎない。確信は外的には信仰のように見えるけれど、内的には霊性を欠いている故、その内には救うものは少しも存在しない。これがアリウス派、ソツヌス派のように、主の人間性の神性を否定する凡ての者の信仰である。信仰はその対象無くして何であろうか。それは空間を凝視し、視覚がそれ自らを虚空に失うようなものである。それは鳥が大気を越えてエーテルの中に飛び入り、真空内にあるように、息絶えてしまうに似ている。かかる信仰はイオラスの翼の風のように、流星の光のように、人間の心に止まることは出来ず、長く尾を曳く彗星のように現れると間もなく過ぎ去り、消え去ってしまうのである。約言すれば、見えない神に対する信仰は盲目である。それは人間の心はその神を見ないからである。而して、このような信仰の光は霊的自然的なものでないため、蛍のそれのような或いは沼地、硫黄を含んだ土、或いは腐敗した木材から発する光のような、偽りの光である。この光によって見られる物は凡て錯覚に過ぎず、外面的なものが真実なものとして誤認されるのである。

 

これが見えない神に対する信仰の光であり、特に神がエーテルのような霊として考えられる時の光である。何故なら、そのとき人間は神をエーテルのように見、彼を物質的な宇宙に探し求め、そこに見出さないところから、自然が宇宙の神であると信ずるからである。これが現今流布している唯物論の源泉である。主は未だ嘗て父の御声を聞き、その御形を見た者はないと宣べ(ヨハネ5・37)また如何なる時にも神を見た者はなく、ただ父の懐に在す独子のみがこれを現し給うた(1・18)と述べ、神とともなる者が父を見た以外には何人も彼を見ない(6・46)と述べ、同様に何人も彼に由らなくては父に往くことが出来ない(14・6)更に、彼を見、且つ認める者が父を見且つ認める者であると述べ給うた。

 

しかし、救い主に在す主なる神に対する信仰はこれと異なっている。彼は神と人である故、思考によってこれに近付き、これを見ることが出来るのである。かかる信仰は不確定なものではなく、一定の対象をもち、一度受け入れられた時、止まるのは、人はその一度眺めた皇帝或いは主の姿を思い浮かべることが出来るさまに似ている。その信仰の幻は、輝ける雲の真中に一人の天使がいて人間に来って天界に行くことを勧めているのを見るに似ている。主は彼を信ずるものにこのように現れ給うが、人間が主を知り、主を認める限り、即ち各人が主の誡命を知り、悪を避け、善を為すことによってその誡命に服従する限り、その人間に近づき給うのである。かくて彼は遂に、ヨハネ伝の以下の言にあるように、彼の中に在し給う父と共に人間の家に来り、その許に住み給うのである。イエスは語り給うた。「わが誡命を保ちて之を守るものは、即ち我を愛する者なり。我を愛する者は我が父に愛せられん。我も之を愛し、之に己を顕すべし。かつわれ等その許に来りて住処を之とともにせん」(14・21、23)。上述したことは、私が筆を執っている間に、主から私の許に遣わされた主の十二人の使徒達の眼前に在って記されたものである。

 

 

 

真の基督教538

 

神を一人の人間として考え、これに近づかない限り、彼に関する凡ゆる観念は消滅する。何故なら、その時、その思いは空虚な空間の瞑想に陥るか、或いは、自然とその対象とに向けられるかするからである。永遠から一人にて在す神自らが、救い主なる主の誕生によって明白であるように、世に来り給うたのである。

 

 

 

真の基督教647

 

新しい教会の信仰は永遠より只一人の神的な人格があるに過ぎず、従って只一人の神があるに過ぎず、彼の他に神は一人もないということである。それ故、前の教会の信仰は三人格に分割された神的三一性を教えたが、新しい教会の信仰は一人の人格の中に結合されている神的三一性を教えるのである。前の教会は見えない、近づくことの出来ない神を、即ち、これとは如何なる交わりもあり得ない神を信じ、彼らはこれを風のような、またはエーテルのような霊として考えた。しかし新しい教会は見える、近づくことの出来る神を信じ、その神とは交わることが出来、その中には霊魂が身体の中に在るように、見えない、近づくことの出来ない神が在すことを信じ、而してこの神は、永遠から存在する唯一の神が時間的に人間となり給うた故、人間として考えられている。

 

 

 

真の基督教786

 

 しかし上述したように、見えない神とは如何なる交わりも在り得ない。而して見えない神が単に人間を贖うのみではなく、また見ゆる神になり給うために、世に来り、人間性を取り給うた、何故ならかくしてのみ神との交わりが在り得るからであるうということは未だ知られていない。

 

 

 

真の基督教787

 

 この教会は前の凡ゆる教会の冠である、それは一人の見える神を―この神の中に霊魂が身体の中に在るように見えない神が在し給う―礼拝するからである。かくしてのみ神と人との間に交わりが在り得るのである、それは人間は自然的であり、従って自然的に考え、交わりは思考と情愛の交わりでなくてはならず是は人間が神を人間として考える時にのみこれは可能となるからである。 見えない神との交わりは宇宙の涯しの無い拡がりを見るようなものであり、または太洋の真中に在って涯しなく拡がっている空と水とを見るようなものである。然し見える神との交わりは空の中にまたは水の上に一人の人間が、歓迎の印に手を差し伸べているのを見るに似ている。何故なら神との凡ゆる交わりは相互的でなくてはならず、人間の側の応答は見える神とのみ可能であるからである。 神は人間性を取り給わなかった前は見られ給わなかったことは主御自ら教え給う。「汝らは未だ父の御声を聞きし事なく、その御形を見し事なし」(ヨハネ5・37)。「何人も我を見て生くる能わず」(出エジプト33・20)。然し父はその人間性によって見られることを彼はまた教え給う。「未だ神を見し者なし。ただ父の胸に在す独子の神のみこれを顕し給へり」(ヨハネ1・18)。更に「イエス言い給う、我は道なり、真理なり、生命なり。我に由らで誰にても父の御許にいたる者なし。我を知る者は我が父を知るなり。我を見し者は父を見しなり」(14・6、7、9)。見えない神との交わりは見える彼によって、即ち、主によって生ずることを彼御自ら以下の語に於いて教え給う。「我に居れ、さらば我なんじらに居らん。人もし我に居り、我また彼に居らば、多くの果を結ぶべし」(ヨハネ15・4、5)。「その日には我わが父に居りなんじら我に居り、われ汝らに居ることを汝ら知らん」(14・20)。「我は汝の我に賜ひし栄光を彼らに与えたり、是、我かれらに居り、汝われに在し、われらの一なる如く、彼らも一となり、我を愛し給ひたる愛の、彼らに在りて、我も彼らに居らんためなり」(17・22、23、26、及び6・56)。彼はまた父と彼とは一であり、人々は永遠の生命に到達するためには彼を信じなくてはならぬと教え給う。救は神との交わりに懸かるとのことは上に屡々示されたところである。

 

 

 

真の基督教538

 

救い主に在す主なる神に近づかなくてはならぬ。それは彼は天地の神、贖罪者、救い主にて在し、彼に全能、全智、偏在、慈悲、義が属し、人間は彼の被造物であり、教会は彼の羊の檻であり、且つ彼は新約聖書に幾度も、人間は彼に近づき、彼を礼拝し、彼を崇めなくてはならないと宣言し給うたからである。

 

彼のみに近づかねばならぬことは、ヨハネ伝の以下の語によって宣言されている。

「まことに誠に我汝らに告ぐ、羊の檻に門より入らずして、他の道より越ゆる者は盗人なり強盗なり。門より入る者は羊の牧者なり。我は門なり、我によりて、入る者は救われ、草を得べし。盗人のきたるは、盗み、殺し、亡ぼさんとするの他なし、我が来るは羊に生命を得しめ、かつ豊かに得しめんためなり。我は善き牧者なり。」(10・1,2,9−11)

 

人間は他の道より越ゆるべきでないということは彼は父なる神に近づくべきでないことを意味する。それは彼は目に見えず、近づき得ず、また彼との結合も在り得ないからである、それ故彼御自ら単に人間が救われんがために、世に来り、自らを目に見ゆる者となし、これに近づき得る者となし、これと交わることの出来る者と為し給うたのである。

 

神を一人の人間として考え、これに近づかない限り、彼に関する凡ゆる観念は消滅する。何故なら、その時、その思いは空虚な空間の瞑想に陥るか、或いは、自然とその対象とに向けられるかするからである。永遠から一人にて在す神自らが、救い主なる主の誕生によって明白であるように、世に来り給うたのである。

 

何故なら、彼は聖霊により至高者の力によって懐胎せられ、かくして彼の人間性は処女マリアから生まれたからである。

 

 

 

天界と地獄3

 

 教会内で主を否定して、父〔神〕のみを承認し、そしてそうした信念を確認した者らは天界の外にいる。そして彼らは、主のみが崇拝されている天界から、いかような流入も受けないため、彼らはいかような主題についても、真のことを考える能力を次第に奪われ、遂には唖のようになるか、または愚劣なことを語って、関節の力が抜けた者のように、腕をだらりとぶら下げながら、当ても無くぶらつき回っている。しかし、ソツニウス主義者のように、主の神的なものを否定して、その人間性のみを承認した者も同じく天界の外にいて、やや右の方へ連れ出されて、深淵の中へ引き下ろされ、かくして基督教世界から来る他の者たちから全く引き離されている。しかし自分たちは目に見えない神的な者〔神〕を信じており、それを凡ての物の存在の起原であった宇宙の実在と呼んでいるとは言うものの、主に対する信仰を斥けている者らは、彼らはいかような神も信じていないことを経験により示される、なぜならその目に見えない神的なもの〔神〕は彼らには自然の第一原理のようなものであって、それは思考の対象とはならないため、信仰と愛との対象ともならないからである。(*2)これらの者は自然主義者と呼ばれる者らの間へ放逐される。教会の外に生れて、異邦人と呼ばれている者たちの場合はそうではない、彼らについては後に更に述べよう。

 

*2

いかような考えによっても認められない神的なものは信仰によっても受けられることは出来ない、4733、5110、5663、6982、6996、7004、7211、9359、9972、10067、10267。

 

 

 

天界と地獄84

 

古代の人間は神的存在を人間として考えたことは、アブラハム、ロト、ヨシュア、ギデオン、マノアとその妻、また他の者に現れられた神から明白であり、彼らは神を人間として見たものの、依然神を宇宙の神として崇拝して、かれを天と地の神、エホバと呼んだのである。アブラハムの見たものは主であったことを、主御自身ヨハネ伝(8・56)に教えられ、他の者から見られた者も主であったことは、主の御言葉から明らかである、「誰一人父を見ていないし、その御声を聞いてもいないし、その御形も見ていない」(ヨハネ1・18、5・37)。

 

 

 

天界の秘義3441

 

主はこの神的な人間的なものにより人類に仕えられるためである、なぜなら人間が主の人間的なものをその心で見上げ、崇拝し、かくて神的なものに近づくことができるために、主がその人間的なものを神的なものに結合されなかったなら、人間は決して救われることは出来なかったからには、人間はこの神的な人間的なものにより救われるからである。人間が『父』と呼ばれている神的なものそれ自体と連結することが、『子』と呼ばれている神的な人間的なもの[神の人間性]を通して、かくて主を通して行われるのであり、主により霊的な人間は人間的なものを理解しているが、しかし天的な人間は神的なものそれ自身を理解しているのである。ここから神的な人間的なものが『僕』と呼ばれている理由が明白である、すなわち、それは、人間が神的なものに近づくことができるために、神的な人間的なもの[神の人間性]が神的なもの[神]に仕えるためであり、また人類の救いのために人類に仕えるためである。

 

 

 

天界の秘義7211

 

神的な人間的なもの〔神の人間性〕が天界の凡てのものである理由は、そこではたれ一人、最内部の、または第三の天界の天使でさえも、ヨハネ伝の『これまでにたれ一人神を見た者はない』(ヨハネ1・18)、『あなたらはいかような時にも父の御声を聞いたこともなく、またその御形を見たこともない』(ヨハネ5・37)という主の御言葉に従って、神的なものそれ自身についてはいかような考えも抱くことが出来ないということである。なぜなら天使たちは有限なものであり、有限なものは無限なものを考えることは出来ないからであり、それで天界では彼らは神については人間の形を考えない限り、何の考えも持たないか、または不当な考えを抱くかし、かくて信仰によっても、愛によっても神的なもの〔神〕と連結することは出来ず、それが実相であるため、天界では彼らは人間の形を取られた神的なものを認めているのである、そこから諸天界における神的な人間的なもの〔神の人間性〕が彼らの注視する凡てのものであり、かくて彼らの信仰と愛との凡てのものとなっており、そこから連結が生まれ、連結を通して救いが生まれているのである(6700番)。

 

 

 

天界の秘義9303[5]

 

このことは天界の天使たちについて抱かれている観念から考えることが出来るのである。天使はそこでは人間の形を取って現れているが、それでも彼の中には三つのものが在って、それが一つのものとなっているのである。眼前には現れていない内なるものが在り、実際現れている外なるものが在り、その天使から遠方までも注ぎ出されているところのその情愛と思考とのスフィアが在るのである(1048、1053、1316、1504−1519、1695、2489、4464、5179、6206、7454、8063、8630番を参照)。この三つのものが一人の天使を作っているのである。しかし天使たちは有限で、創造されたものであるに反し、主は無限で、創造されない方である。そして人間は、または天使でさえも、有限なものによらなくては無限な方を何ら考えることが出来ないため、それで一人の神における三一性とはいかようなものであるかを、一人の神がおられ、その神は主であって、他の何ものでもないことを明らかにするため、こうした例を述べてもよいであろう。(この主題について9194、9199番に引用した記事の中に示されたことをさらに参照されたい。)

 

 

 

天界の秘義9315

 

「わたしの天使があなたの前に行き」(出エジプト23・23)。

これは主の戒めに従った生命を意味していることは以下から明白である。すなわち、『あなたの前に行くこと』の意義は、それがここでは『エホバの天使』である主について言われているときは、信仰と生命との戒めを教えることであり、かくてまたそうした戒めに従った生命であり(『行くこと』と『旅すること』は生活することを意味していることについては、1293、3335、4882、5493、5605、5417、8420、8557、8559番を参照)、

 

『エホバの天使』の意義は神的な人間的なものの方面の主である(そのことについては、前の9303、9306番を参照)。神的な人間的なものの方面の主が『天使』により意味されていることは、主が世に来られる前に現れた多くの天使は人間の形をとった、すなわち、天使の形をとったエホバ御自身であったためである。このことは以下の事実から極めて明白である、すなわち、例えばアブラハムに現れて、『エホバ』と呼ばれた天使のように(創世記18・1、13、14、17、20、26、33)、またギデオンに現れた天使のように―この天使は士師記に記され、『エホバ』ともまた呼ばれている(6・12、14、16、22−24)―また他の記事の他の天使のように、現れた天使たちは『エホバ』と呼ばれたのである。人間の形をとられたエホバ御自身は、またはそれと同一のことではあるが、天使の形をとられたエホバ御自身は主であられたのである。

 

[]当時その神的な人間的なものは天使として現われたのであり、そのことについては主御自身がヨハネ伝に話されているのである―

 

イエスは言われた、アブラハムはわたしの日を見て楽しんだ、かれはそれを見て喜んだ。まことに、まことに、わたしはあなたに言います、アブラハムがいる前からわたしはいるのです(8・56、58)。

 

父よ、世が存在しない中にわたしがあなたとともに持った栄光をもって、あなた御自身の自己をもってわたしを栄化してください(17・5)。

 

エホバにはそれ以外の方法をもって現れたもうことが不可能であったことはヨハネ伝の主の御言葉からもまた明白である―

 

  あなたらはいかような時にも父の御声を聞いたことはなく、その御形も見たことはない(5・37)。

 

  たれかが父を見たということではない、ただ父と共にいる者、その者が父を見ているのである(6・46)。

 

 これらの事実から永遠から存在される主により意味されていることを知ることができよう。

 

[]主が人間として生まれることをよしとされた理由は、主は人類を救うために、人間的なものを現実に着けられて、それを神的なものとするためであった。それゆえ主は人間の形をとられたエホバ御自身であられ、または父であられることを知られたい、このことをまた主御自身ヨハネ伝に教えておられるのである―

 

わたしと父とは一つである(10・30)。

 

  イエスは言われた、これから後は、あなたらは父を知り、また見ている、わたしを見た者は父を見たのである。わたしは父の中におり、父はわたしの中におられるというわたしの信じなさい(14・7、9,11)。

 

  わたしのものであるものはことごとくあなたのものであり、あなたのものはことごとくわたしのものであります(17・10)。

 

[]この大いなる秘義はヨハネ伝に以下の言葉で述べられている―

 

 初めに聖言が在った、聖言は神とともに在った、神は聖言であった。聖言は初めに神とともに在った。凡ゆる物はかれにより作られ、かれなしでは作られた物は一つとして作られはしなかった。そして聖言は肉となり、わたしたちの中に住まわれた、わたしたちはその栄光を、父の独り児の栄光としての栄光を見まつった。いかような時にも人間は一人として神を見なかった、父の胸の中に在す独り児のみが神を示されたのである(1・1−3、14,18)。

 

『聖言』は人間に啓示された神的真理を意味しており、この神的真理は人間としてのエホバによらなくては、すなわち、人間の形をとられたエホバによらなくては、かくて主によらなくては啓示されることはできなかったため、それで『初めに聖言が在った、聖言は神とともに在った、神は聖言であった』と言われている。『聖言』により主が意味されていることは教会に知られている。なぜならそのことは明らかに言われているからである、すなわち、『聖言は肉となられて、わたしたちの間に住まわれた、わたしたちはその栄光を、父の独り児の栄光としての栄光を見まつった』と明らかに言われているからである。神的真理は人間の形をとられたエホバによらなくては人間に啓示されることができなかったこともまた明らかに述べられている、『たれ一人人間はいかような時にも神を見てはいない、父の胸の中におられる独り児のみが神を示された』。

 

[]この凡てから永遠から主は人間の形をとられたエホバ、または父であられたが、しかし未だ肉をとられなかったエホバであられたことが明白である、なぜなら天使は『肉』をもたないからである。そしてエホバまたは父は人類の救いのために、人間的なものをすべて着けることを欲しられたため、それで彼はまた肉を着けられたのである。それで『神は聖言であられ、聖言は肉となられた』と言われているのである。ルカ伝には―

 

 わたしの手と足とを見なさい、それはわたし自身である、わたしに触れ、見なさい、霊には、あなたたちがわたしに見るような肉と骨とはないからである(24・39)。

 

これらの言葉により主は御自分はもはや天使の形をとったエホバではなく、人間エホバであられることを教えられたのであり、そのことがまた主の以下の御言葉によっても意味されているのである―

 

 わたしは父から出て来て、世に来ました、再びわたしは世を去って、父のもとへ行きます(ヨハネ16・28)。

 

 (主は世におられたときその人間的なものを神的なものとされたことについては、1616、1725、1813、1921、2925、2926、2033、2034、2083、2523、2751、2798、3038、3043、3212、3241、3318、3637、4065、4180、4211、4237、4286、4585,4687、4692、4724、4738、4766、5005、5045、5078、5110、5256、6373、6700、6716、6849、6864、6872、7014、7211、7499、8547、8864、8865、8878番を参照されたい。また主は母から来ている人間的なものをことごとく斥けられ、ついにはマリアの子ではあられなかったことについては、2159、2649、2776、4963、5157番を、とくに3704、4727、9303、9306番を、また9194、9199番に引用した記事の中にこれらの事柄について示されたことを参照されたい。)

 

 

 

ヨハネ12・45

 

 わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。

 

 

 

天界の秘義10067

 

 父である神的なものそれ自身は主の中にその神的な人間的なものを通して把握できる。

 

 

 

スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP80

 

 ペテロに言われた主の御言葉を提出しよう、そこには主は三度『シモン ペテロよ、あなたはわたしを愛しますか』と言われたものの、彼は主に従わないで、ヨハネが主に従ったのである。これらの事柄が言われたのは、『ペテロ』によりここでは信仰のみの中にいる者らが意味され、『ヨハネ』により仁慈の善が意味されているためである。ペテロに対する御言葉から、信仰のみの教義の中にいる者らは主の人間的なものを承認しないが、仁慈の善の中にいる者のみがそのことを承認することが明らかである。(中略)

 キリスト教徒は神的な人間的なもの[神の人間性]をほとんど考えることはできないし、認めることもできない(このことは多くの者の経験から示されることができよう)、なぜなら彼らは普通の人間を考えて、愛であるところの人間の本質については考えないからである。しかし他方、天使たちはそれ以外の方法で考えることはできないのであり、実に、理知的である異教徒もそれ以外の方法では考えることは出来ないのである。

 

 

 

 

2.サンダー・シング

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P145

 

 人間の霊においてもそうなら、まして、永遠の言葉が体を通してその神性を十分に表現することなど不可能である。主は人間の救いにとって可能な、必要な範囲においてのみ、ご自分を現されたのであり、その真の栄光は天界においてのみ完全に現されるのである。

 

三、ここで、「それを完全に見も知りもせずに、どうやって実在(リアリティー)を信じられるのか」との疑問も起こるかもしれない。ここで述べたいのは、実在を信じるのにそれについての完全な知識は必ずしも必要ではないとうことである。例えば、われわれの生命がこれほどまで頼っている身体の器官の多くは目で見ることはできない。自分の脳や心臓をみた者は誰もいないが、その存在を否定する者もまたいないであろう。われわれの生命がかくまで大きく頼っている脳や心臓がみることのできないものであれば、生命全体が頼りきっているその創造者をみることは、さらに不可能である。

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P186

 

「かつて、ヒマラヤ山中にいたとき、わたしはサトレジュ河を渡ろうとしたが、橋がなかった。とても泳いで渡れる所ではなかった。どうしたものかと考えていたときに、一人の男を見つけたので、彼に声をかけた。『向こう岸に行きたいのだが、橋もなければ船もないのです』。すると、彼は『心配ない。空気が向こう岸に連れてってくれるさ』と答えたので、わたしはびっくりした。空気を吸うことはできるが、吸った空気で体が持ち上がり、対岸に行けるわけではない。すると、相手は獣皮を取り出して空気をそこに吹き込み、ゴムボートにして、それに乗れと命じたのである。こうして、わたしは安全に向こう岸に辿り着けた。空気は、皮の中に閉じ込められることによってのみ、わたしを運ぶことができた。同じく、神もまた、人を救うためには受肉しなければならなかったのである。生命の言葉は肉となった。その方は、この世の河を渡りたいと願う人々を、安全に天国に運んでくださる。『わたしを見た者は、すなわち父を見たのである』。われわれは、イエス・キリストの化肉の中に、生ける父を見ることができる。

 

 カシミールで起きたことを思い出す。その地方に、数百頭の羊を所有する男がいた。使用人たちが羊を放牧する仕事についていたが、夕に羊を戻す度に、二頭か三頭がいなくなった。主は、使用人たちに失せた羊を探すよう命じたが、野獣に襲われるのを恐れて、誰も探しに出ようとはしなかった。だが、主は羊に愛情を持っていたので、助けてやりたいと思った。『自分が行っても、羊にはわかるまい。わたしを見たことがないのだから。使用人なら見分けるだろうが、彼らは行きたがらない。自分が羊に変装するしかない』。彼は羊の毛皮を被って羊に変装した。探しに出てゆくと、迷子になった羊数頭、それに怪我を負った羊も見つけた。羊たちは、彼を仲間だと思い込み、後についてきた。こうして、彼は羊を一匹残らず救い、家に連れ帰ることができた。同じように、神は人ではない。人を救うため、あえて人となってくださったのだ」

 

 

3.アヴィラのテレサ

 

イエズスの聖テレジア(アヴィラのテレサ)自叙伝9章・6(P100)

 

私は、ただ聖主をそのご人性において考えることだけができました。

 

 

イエズスの聖テレジア(アヴィラのテレサ)自叙伝12章・2(P130)

 

私たちは精神的にキリストの尊前(みまえ)に身をおき、その聖なるご人性に対する最大の愛に少しずつ燃え立ち、常に彼のおそばに侍(はべ)り、彼に語り、私たちの必要とすることをお願いし、悲しみにあっては彼に向かって嘆き、慰めにあっては彼とともに喜び、幸運にあっては彼を忘れないよう警戒し、複雑な祈祷文など求めず、自分の望みや、必要を打ち明ける単純な言葉でお話するようにしましょう。これこそ短時日で進歩させるすぐれた方法です。

このように、とうとい伴侶とともに生活することに専心し、そこから最大の利益を引きだすべくつとめ、私たちがこれほどご恩をこうむっているこの聖主に対する真剣な愛を、そこからくみだす者こそ、念祷の道に進歩した者であると私は断言します。

 

 

イエズスの聖テレジア(アヴィラのテレサ)自叙伝22章・1(P253)

 

神父様、もしあなたがよいとお思いになれば、私にはたいへん重要と思われる一つのことについてお話したいと思います。それは参考になりますし、またあなたのために必要となることもあり得ますから。なぜなら念祷について書いてあるある種の書物のなかに、次のようなことが説いてあります。(中略)

こういう著者たちは、物体的なすべての形象を遠ざけて、神性の観想に上るようにしきりに勧めています。なぜならこういう形象は、たとえ聖主のご人性のそれであろうとも、このように高い状態に達した者にとっては、最も完全な観想のためにじゃまであり、妨害であるからと、彼らは申します。そして自分たちの考えのよりどころとして、救い主が天にふたたびのぼられるにあたって、聖霊のご降臨を使徒たちにお告げになった時おっしゃったお言葉を引き合いにだします。(ヨハネ16・7参照)

私の考えではもし使徒たちが、キリストは人であると同時に神であるということを、聖霊降臨後と同じように、その時かたく信じていたのでしたら、主の聖なるご人性は彼らにとって妨げとはならなかったことでしょう。ですから、御母は使徒たちのだれよりも、もっと多くの愛を主に対していだいていらしたにもかかわらず、主はこの言葉を御母にはおおせられませんでした。こういう著者たちにとっては、観想はまったく霊的なわざであるので、物体的形象は、どんなものでもこれを乱し、あるいは妨げることができると思うのです。

こういう方法は、私にも時としてはよいもののように思われます。しかし、キリストからすっかり離れ、その神聖なご肉体を、私たちのみじめさ、あるいは、被造物のいずれかと同一視するということは、私にはがまんできません。どうか主のお助けによって、私の言うことをわかっていただけますように!

 

 

イエズスの聖テレジア(アヴィラのテレサ)自叙伝22・2(P255)

 

 私はこういう著者たちに反対するわけではありません。彼らは学識もあり、霊的な人々で、自分たちの言うところを知っていますから。それに神は人々の霊魂をいろいろ異なった道や手段によってお導きになります。私はここではただ神が、私の霊魂をお導きになった道についてお話し(他のことに口だしはいたしません)本のなかで読んだことに従おうとしたために陥った危険を示そうと思うのです。

一致の念祷に達し、それ以上には行かない人、つまり、恍惚、幻視、そのほか神が与えられる、この種の恩寵に達しない者は私自身もそうでありましたように、これらの著者たちの言うことがいちばんよいと思うでしょう。しかし、もしも私がいつもこういう考えに従っておりましたなら、ただいまいる状態に、私は決して達しなかったと思います。なぜなら私の考えでは、それは一つの誤謬ですから。誤っているのは私かもしれませんが、とにかく私に起ったことを申しましょう。

 

 

同上・6(P259)

 

 私たちはただ聖主の聖なるご人性によってしか神のみ心に適うことができず、このご人性を通じてのみ、神は私どもに著しいお恵みをくださろうとなさるのです。神は御自らおおせられたように、そのうちに楽しみをおいていらっしゃいます。私は非常にたびたびそれについて経験をいたしましたし、聖主御自らも私にそうおっしゃいました。もしもいと高き御者に大いなる秘密を打ち明けていただきたいなら、私たちが通るべき門はこれだということを私ははっきりわかりました。

 

 

同上・8(P260)

 

たぶん物体的なものをすべて捨て去るのはよいことに違いありません、このように霊的な人々がそう断言するのですから。しかしそれは非常に進歩した霊魂の場合でなければならないと思います。なぜなら、それまでは霊魂は明らかに、被造物によって造物主を求めるべきですから。それにこういうことはすべて主が各々の霊魂にお与えになるお恵みによります。そしてこれは私が口だししたくない問題です。

私がわからせたいこと、それはキリストのいと聖なるご人性は、遠ざけるべきものの数に、はいるべきではないということです。この点をよく理解していただきたいので、私ははっきり説明したいと思います。

 

 

同上・9(P261)

 

(前略)

しかし私たちのほうからこの聖なるご人性の現存を常に保つことを(どうか私たちがこのご現存をいつも保ったのでありますように!)避けようとしてくふうしたり、気をつかったり、努力したりすること、それが、繰り返して申しますが、私にはよいとは思えないのです。

こういう道を歩む霊魂は、いわゆる空を歩んでいるのです。なぜなら、どんなに神に満たされていると自分では信じていても、支えを欠いているように見えますから。この地上に生活している間、そして人間である私たちにとって、聖主のご人性について考えることはたいへんたいせつなことで、私が言ったもう一つの不都合とは、この点をないがしろにすることです。

 

 

 

4.神を人間として考えることが植えつけられている

 

黙示録講解1118[2](神・摂理・創造22)

 

人間であるか、または人間として自分らに現れていた神々を多くの民と国民とが拝したのは、各々の者の中に神を人間として考えることが植えつけられているためである。

 

(中略)

神を人間として考えることは―それは天界から流れ入っているが―

 

 

天界と地獄82

 

諸天界には神的なものについてはこうした認識があるため、天界から何らかの流入を受けている人間各々の中にも神を人間の形の下に考えることが植え付けられている。古代の人間たちはそのように考えたのである。教会の内外を問わず、現今の人間もそのように考えている。単純な者は思考の中で神を輝く光の中におられる故老として見ている。しかしこの植え付けられている原理は、自分自身の理知により、また悪い生活によって天界からの流入を斥けてしまった者凡てにより消滅している。自分自身の理知によりそれを消滅させてしまった者らは目に見えない神を持とうとするが、悪い生活によりそれを消滅させた者らは、何ら神を持とうとはしない。前の部類の者も、後の部類の者も、こうした思考の原理が自分たちのもとにないため、それが何人にも植え付けられていることを知っていないが、しかもそれは天界から人間のもとへ流れ入る神的な天界の原理そのものである。なぜなら人間は天界のために生まれていて、何人もその神的存在を考えなくては天界には入らないからである。

 

 

天界と地獄83

 

 ここから天界を考えない者は、すなわち、天界を存在させている神的なもの[神]を考えない者は、天界の最初の入口へも挙げられることは出来ない。彼は初めそこへ来ると、抵抗とまた強い反撥を感じる。その理由は、天界を受けなくてはならない彼の内部は、天界の形を持たず、閉じられているということであり、実に、彼は天界に近づいて行くに応じて益々その内部はきつく閉じられるのである。これが教会内で主を否定する者と、ソツニウス派の者のように、主の神性を否定する者との運命である。しかし教会の外に生まれて、聖言を持っていないため、主を知っていない者たちの運命はいかようになるかは、後に述べよう。

 

 

天界と地獄86

 

 天使たちは、神を考えるときに、見えないものを、すなわち、いかような形の下にも把握出来ないものを考える人間が自分自身を理知的なものと信じており、そのように考えない者を―その反対が真理であるのに―非理知的で、単純な者と呼んでいることを不思議がったのである。彼らはそれに付け加えて[以下のように]言っている、「このようにして自分自身を理知的なものと信じている者らに自分自身に向って、自分たちは自然を神として見てはいないか、どうかと訊ねさせなさい。その中のある者は自分の目の前に在るものを、ある者は自分の目の前にないものを神として見てはいないか、どうか。また自分たちは、神とは何であるか、天使とは何か、霊とは何か、死後生きるに違いない彼らの霊魂とは何か、人間における天界の生命とは何か、その他理知に属した多くの物を知らないほどにも盲目ではないかどうか[訊ねさせなさい]。が、彼らが単純な者と呼ばれている者たちは、彼らなりに、凡てこれらの事柄を知っていて、神については、神は人間の形を持った神的なものであり、天使については、天使は天界の人間であり、死後生きるに違いない彼らの霊魂については、それは天使であり、人間のもとにある天使の生活については、それは神の教えに従って生きることであると考えているのである」。それゆえ、これらの者を、天使たちは理知的な、天界に適わしい者と呼んでいるが、これに反し、他の者を理知的でない者と呼んでいる。

 

 

天界の秘義9256

 

教会の外にいて「異邦人」と呼ばれている者たちについては、かれらは実際教義の誤謬の中にはいるが、しかし聖言を持たないため、無知からその中にいるのであって、それでも教えられると、人間のもとにある天界の生活については、基督教徒よりもさらに明白に認識し、従ってさらに内的に認識しているのである。その理由は彼らは、非常に多くの基督教徒のように信仰の諸真理に反したことを確認していないということであり、それでその内なる人は閉じられていないで、小さな子供たちのように、それは即座に開かれて、真理を受け入れるのである。こうした人物の内なるものはもしこの世でないなら他生で上方へ開かれる。これが己が宗教に順応して善に生きた凡ての者の運命であり、それで主の教会は全世界に遍く広がっているのである。しかし地上の主の教会そのものは諸天界の巨大人に似ており、その心臓と肺臓から生きているところのその肢体と内臓の爾余の部分は聖言が存在していない所に存在しているのである。こうした理由から教会はユダヤ民族から異邦人へ移されたのであり、また現代の教会もまた今や異邦人のもとへ移されつつあるのである(2986、4747)。

 

驚くべきことには異邦人たちは唯一の神を人間の形の下に拝するのである。それで彼らは主について聞くと主を受け入れ、承認するのであり、その教会はこうした者たちのもとに再び設立される。マタイ伝の主の御言葉から明白である。

 

あなたたちは建てる者らが斥けた石が隅の親石となったことを聖書に読みませんでしたか。それでわたしはあなたらに言う、神の王国はあなたらから取り去られて実を結ぶ国民に与えられるでしょう。(21・42、43)

 

「石」は主。(6426)

 

「建てる者たち」は教会に属した者たち。これらの者は最後の者となり、異邦人が最初の者となることはルカ13・29、30に

 

彼らは東と西から、北と南から来て、神の王国の食卓にもたれるであろう。見よ、最初の者となる最後の者があり、最後の者となる最初の者がいるであろう。

 

 

5.ルイザ・ピッカレータ

 

聖なる三位一体の神秘

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P66

 

 以上のことを三人の方たちが話しているあいだ、私は愛するイエスを非常によく区別していました。その方の中に人間性の姿を認めていたからです。イエスのおかげでのみ、私は彼ら三人の存在のみ前に留まる勇気を保っていました。そうでなければ、いったい誰があえてそれをしたでしょうか? 被造物を神性の玉座にまで昇らせ、私たちに三位一体との会話を許すことによって、恩恵という賜物を獲得することができるようにするためにイエスがお取りになった人間性こそが、我ら被造物との接触の可能性を開いてくださったのです。なんと幸せなひとときを味わい、なんと多くの事を私は理解したことでしょう! それを書き表すためには、いつか私の魂が身体から解放されて、イエスのもとにいるときに書く必要があります。事実、身体の中に閉じ込められているときには、牢獄の暗闇、神秘的太陽からの遠距離、主を見ることができない苦しみなどが、何も書けないようにしてしまいます。とにかく私はこの惨めな身体に閉じ込められ、つながれて、苦しみのうちに生きることを余儀なくされています。弱く、牢屋に入れられた者として生きているこの惨めな罪人を、主よ、同情してください。あなたの元に飛んでゆき、もう帰ることがないように、どうかこの牢獄の壁を早く打ち壊してください。