神は人間の形をもって考えられなくては

考えられることは出来ない

 

 

神的人間性

主のご人性によって主を把握する

見える神

 

 

 

 

新しいエルサレムとその天界の教義305

 

天界では神的な人間的なもの[神的人間性]以外の神的なもの[神性]は認められていない(6475、9303、9356、9571、10067番)。最古代の人々は無限なエッセを崇拝することは出来なかったが、しかし神的人間性である無限なエキシステレを崇拝することが出来た(4687、5321番)。古代人は、神的なもの[神]が人間の形をとって現れ給うたため、それを承認したが、それは神的人間性であった(5110、5663、6846、10737番)。凡ゆる地球に住む人々は人間の形の下に神的なもの[神]を崇拝しており、それで彼らは神が実際人間となられたことを聞くと喜ぶのである(6700、8541−8547、9361、10736−10738番)。また「太陽系と星空の中の諸地球」[宇宙間の諸地球]を取り扱った小著を参照されよ。神は人間の形をもって考えられなくては考えられることは出来ない、また考えられることの出来ないものは、いかような観念[考え]にも形作られることは出来ない(9359、9972番)。人間は多少なりと考えることの出来るものを拝することは出来るが、しかし全く考えることの出来ないものは拝することは出来ない(4733、5110、5663、7211、9356、10067番)。それで神的なもの[神]は地球全体の大半の者から人間の形の下に礼拝され給うているが、このことは天界から来ている流入によっている(10159番)。

 

 

 

天界の秘義10159

 

 私はかの地球の霊たちと目に見えない、また目に見える神について話したので、宇宙の殆ど凡ての者は目に見える形の下で拝しており、事実彼らの観念[思い]の中では人間の形の下に拝しており、このことは彼らの中に植えつけられていると言ってもよいであろう。それが彼らに植えつけられていることは天界からの流入によっているのである、なぜなら、言うも驚嘆すべきことではあるが、第三の天界の領域の中に挙げられる天使たちはこの主題について明白に認識するようになるのである。その理由はかの天界の凡ての者は主を愛する愛の中におり、そこから、謂わば、主の中におり、そこの天使たちに属しているような認識はことごとく天界の秩序と流入から発しているということである、なぜなら多くの章の終りに巨大人としての天界について示したことから認めることが出来るように(10030番に引用したところを参照されたい)、天界の総合体は人間に関連しているからである。天界の総合体が人間に関連していることは主の神的な人間的なものから発しているのである、なぜならこの神的な人間的なものから主は天界へ流入され、御自身に似た形に従って、天界を作り、また形作られているからである。しかしこの秘められたことはこの植えつけられた観念を自己自身の理知を通して己が中に根絶してしまった者らからは容易に把握されることは出来ないのである。

 

 

 

スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP80

 

 ペテロに言われた主の御言葉を提出しよう、そこには主は三度『シモン ペテロよ、あなたはわたしを愛しますか』と言われたものの、彼は主に従わないで、ヨハネが主に従ったのである。これらの事柄が言われたのは、『ペテロ』によりここでは信仰のみの中にいる者らが意味され、『ヨハネ』により仁慈の善が意味されているためである。ペテロに対する御言葉から、信仰のみの教義の中にいる者らは主の人間的なものを承認しないが、仁慈の善の中にいる者のみがそのことを承認することが明らかである。(中略)

 

 キリスト教徒は神的な人間的なもの[神の人間性]を殆ど考えることは出来ないし、認めることも出来ない(このことは多くの者の経験から示されることが出来よう)、なぜなら彼らは普通の人間を考えて、愛であるところの人間の本質については考えないからである。しかし他方、天使たちはそれ以外の方法で考えることは出来ないのであり、実に、理知的である異教徒もそれ以外の方法では考えることは出来ないのである。

 

 

 

天界と地獄3

 

 教会内で主を否定して、父〔神〕のみを承認し、そしてそうした信念を確認した者らは天界の外にいる。そして彼らは、主のみが崇拝されている天界から、いかような流入も受けないため、彼らはいかような主題についても、真のことを考える能力を次第に奪われ、遂には唖のようになるか、または愚劣なことを語って、関節の力が抜けた者のように、腕をだらりとぶら下げながら、当ても無くぶらつき回っている。しかし、ソツニウス主義者のように、主の神的なものを否定して、その人間性のみを承認した者も同じく天界の外にいて、やや右の方へ連れ出されて、深淵の中へ引き下ろされ、かくして基督教世界から来る他の者たちから全く引き離されている。しかし自分たちは目に見えない神的な者〔神〕を信じており、それを凡ての物の存在の起原であった宇宙の実在と呼んでいるとは言うものの、主に対する信仰を斥けている者らは、彼らはいかような神も信じていないことを経験により示される、なぜならその目に見えない神的なもの〔神〕は彼らには自然の第一原理のようなものであって、それは思考の対象とはならないため、信仰と愛との対象ともならないからである。(*2)これらの者は自然主義者と呼ばれる者らの間へ放逐される。教会の外に生れて、異邦人と呼ばれている者たちの場合はそうではない、彼らについては後に更に述べよう。

 

*2

いかような考えによっても認められない神的なものは信仰によっても受けられることは出来ない、4733、5110、5663、6982、6996、7004、7211、9359、9972、10067、10267。