見える神

 

 

神は人間の形をもって考えられなくては考えられることはできない

主のご人性によって主を把握する

 

 

 

真の基督教786

 

イスラエル教会は本質的には見えない神であるエホバを礼拝したが(出エジプト記33・18−23)、然し人間の形の下に礼拝した。実に神の臨在に満たされた天使の形であったこの形がアブラハム、サラ、モーゼ、ハガル、ギデオン、ヨシュア及び予言者の或る者に現れたのである。この人間的な形は来るべき主を表し、それ故かの教会に於ける物は尽く表象的であった。実に、彼らの犠牲及びその他彼らの礼拝にかかわりを持つ物は凡て来るべき主を表象し、而して是等の儀式は主が来り給うた時廃止されたことは良く知られている。

 

 

 しかし上述したように、見えない神とは如何なる交わりも在り得ない。而して見えない神が単に人間を贖うのみではなく、また見ゆる神になり給うために、世に来り、人間性を取り給うた、何故ならかくしてのみ神との交わりが在り得るからであるということは未だ知られていない。

 

 

 

真の基督教787

 

 この教会は前の凡ゆる教会の冠である、それは一人の見える神を―この神の中に霊魂が身体の中に在るように見えない神が在し給う―礼拝するからである。かくしてのみ神と人との間に交わりが在り得るのである、それは人間は自然的であり、従って自然的に考え、交わりは思考と情愛の交わりでなくてはならず是は人間が神を人間として考える時にのみこれは可能となるからである。 見えない神との交わりは宇宙の涯しの無い拡がりを見るようなものであり、または太洋の真中に在って涯しなく拡がっている空と水とを見るようなものである。然し見える神との交わりは空の中にまたは水の上に一人の人間が、歓迎の印に手を差し伸べているのを見るに似ている。何故なら神との凡ゆる交わりは相互的でなくてはならず、人間の側の応答は見える神とのみ可能であるからである。 神は人間性を取り給わなかった前は見られ給わなかったことは主御自ら教え給う。「汝らは未だ父の御声を聞きし事なく、その御形を見し事なし」(ヨハネ5・37)。「何人も我を見て生くる能わず」(出エジプト33・20)。然し父はその人間性によって見られることを彼はまた教え給う。「未だ神を見し者なし。ただ父の胸に在す独子の神のみこれを顕し給へり」(ヨハネ1・18)。更に「イエス言い給う、我は道なり、真理なり、生命なり。我に由らで誰にても父の御許にいたる者なし。我を知る者は我が父を知るなり。我を見し者は父を見しなり」(14・6、7、9)。見えない神との交わりは見える彼によって、即ち、主によって生ずることを彼御自ら以下の語に於いて教え給う。「我に居れ、さらば我なんじらに居らん。人もし我に居り、我また彼に居らば、多くの果を結ぶべし」(ヨハネ15・4、5)。「その日には我わが父に居りなんじら我に居り、われ汝らに居ることを汝ら知らん」(14・20)。「我は汝の我に賜ひし栄光を彼らに与えたり、是、我かれらに居り、汝われに在し、われらの一なる如く、彼らも一となり、我を愛し給ひたる愛の、彼らに在りて、我も彼らに居らんためなり」(17・22、23、26、及び6・56)。彼はまた父と彼とは一であり、人々は永遠の生命に到達するためには彼を信じなくてはならぬと教え給う。救は神との交わりに懸かるとのことは上に屡々示されたところである。

 

 

 

真の基督教789

 

彼らは神を知ることが出来ず、神はまた彼らの最中に律法を置き給うことは出来ず、またはこれを彼らの心に録し給うことが出来なかった、何故なら彼らは自らが聖言でありまたは律法であり給う見える神に近づかなかったからである。

 

 

 

天界と地獄3

 

 教会内で主を否定して、父〔神〕のみを承認し、そしてそうした信念を確認した者らは天界の外にいる。そして彼らは、主のみが崇拝されている天界から、いかような流入も受けないため、彼らはいかような主題についても、真のことを考える能力を次第に奪われ、遂には唖のようになるか、または愚劣なことを語って、関節の力が抜けた者のように、腕をだらりとぶら下げながら、当ても無くぶらつき回っている。しかし、ソツニウス主義者のように、主の神的なものを否定して、その人間性のみを承認した者も同じく天界の外にいて、やや右の方へ連れ出されて、深淵の中へ引き下ろされ、かくして基督教世界から来る他の者たちから全く引き離されている。しかし自分たちは目に見えない神的な者〔神〕を信じており、それを凡ての物の存在の起原であった宇宙の実在と呼んでいるとは言うものの、主に対する信仰を斥けている者らは、彼らはいかような神も信じていないことを経験により示される、なぜならその目に見えない神的なもの〔神〕は彼らには自然の第一原理のようなものであって、それは思考の対象とはならないため、信仰と愛との対象ともならないからである。(*2)これらの者は自然主義者と呼ばれる者らの間へ放逐される。教会の外に生れて、異邦人と呼ばれている者たちの場合はそうではない、彼らについては後に更に述べよう。

 

*2

いかような考えによっても認められない神的なものは信仰によっても受けられることは出来ない、4733、5110、5663、6982、6996、7004、7211、9359、9972、10067、10267。