救う信仰

 

 

信仰内なる礼拝外なる礼拝

生活によってのみ行われる

小さな仕事も愛をもって行う

わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。(ヨハネ20・29)/

主のご人性によって主を把握する

 

 

 

 

1.仁慈

2.感覚的な信仰、奇蹟による信仰

3.信仰の霊的なものは仁慈の情愛〔仁慈に対する情愛〕であり、そこから善い用を求め、生活を求める真理の情愛〔真理に対する情愛〕

4.救うものはこの信仰、形をとった仁慈

5.これのみが神との交わりによる人間の救いを可能ならしめるもの

6.救う信仰は主なる神 救い主 イエス キリストに対する信仰

7.神的なものは彼らが何らかの考えを持って把握する形を持たれない限り、たれ一人信仰と愛との中に神的なものと連結することが出来ない

8.見える神に対する信仰

9.信仰の要点は良く生活し、正しく信ずる者は、主によって救われること

10.人は主に近づき、聖言から真理を学び、それに従って生活することによって、信仰を得る

11.信仰は、諸真理の数とその組織ある排列に応じて完全にされる

12.主は再三『わたしがこのことを行なうことができることをあなたたちは信じますか』、『あなたの信仰に従ってそれが行なわれるように』と言われた

13.教会内で主を否定して、父〔神〕のみを承認し、そうした信念を確認した者らは天界の外にいる

14.救う信仰は歴史的な信仰が先行しない限り与えられることは出来ない

15.ベルナルド

16.グリニョン・ド・モンフォール

17.マーリン・キャロザース

18.仁慈にいない者らは偽善からでなくては主を承認し、拝することは出来ない

19.真理を承認することが救う信仰であると人々が言っていることについては、仁慈に反した事柄の中に生きている者らのもとにはいかような承認も決してあり得ない

20.主に対する愛と隣人に対する愛とが信仰そのものであることを知っておらず、かれらが信仰と呼んでいる知識は、その知識によって人間が主から主に対する愛と隣人に対する愛とを受けることができるという目的以外のためには存在していないことを知っておらず、またそれが救う信仰であることを知っていない

 

 

 

 

1.仁慈

 

 

天界の秘義1843[]

 

 しかし最後の時に死滅してしまう信仰により仁慈以外には何ごとも意味されてはいないのである、なぜなら仁慈の信仰以外にはいかような信仰も決して有り得ないからである。仁慈を持たない者は信仰を些かも持つことは出来ない、なぜなら仁慈は信仰がその中に植え付けられる土壌そのものであり、それは信仰の心臓であり、信仰はその心臓から存続し、また生きるからである。それで古代人は愛と仁慈とを心臓に、信仰を肺臓に譬えたのであり、この二つとも胸の中に存在しているのである。この譬えには真に似たものが含まれているのである、なぜならもし人間が仮にも仁慈無しに信仰の生命を得ようとするなら、それは心臓もないのに肺臓のみから生命を持つようなものであって、これは明らかに不可能であるからである、それで古代人は仁慈に属したものをことごとく、心臓(ハート)の事柄と呼び、仁慈を欠いた信仰に属したものをことごとく口先のみのものであると言い、または息が言葉へ流れ入って生まれる肺臓のものであるとも言ったのである。ここから善と真理とにかかわる古代の言葉の形式が生まれたのである、すなわちそれらは心臓(ハート)から生まれなくてはならない。

 

 

 

天界の秘義2228

 

 全地球の中の凡ゆる人間が『地の凡ゆる国民』により意味されていないことはたれにでも明白である、なぜなら彼らの中には救われない者が非常に多くいて、ただ仁慈の中にいる者のみが、即ち、仁慈の生命に達した者のみが救われるからである。

 

 

 

天界の秘義2228[]

 

このすべては信仰の何であるかを、即ち、それは仁慈であることを示している、なぜなら信仰の教義のものであると言われているものはことごとく仁慈に導くのであって、仁慈の中にそれらのものはすべて含まれており、仁慈からそれらのものはすべて派生しているからである。霊魂は、身体の生命の後では、その霊魂の愛のあるがままに止まるのである。

 

 

 

 

2.感覚的な信仰、奇蹟による信仰

 

 

天界の秘義8078〔3〕

 

 単に自然的な信仰は内なる方法によらないで外なる方法により入り込んで来る信仰であり、例えばある事柄を目がそれを見たために、手がそれに触れたためにそうであると信じることから成っている感覚的な信仰といったものである。これは主がトマスに言われた信仰である、『トマスよ、おまえは見たために、信じたのである、見ないが、信じる者はいかに幸であろう』(ヨハネ20・29)、また単に或る事柄を単に奇蹟からそうであると信じることから成っている奇蹟の信仰といったものである―この信仰について前を参照されたい(7290番)―また自分が信頼している他の者が何かの事柄がそのように言っているという理由からそうであると信じる権威による信仰といったものである。

 

 

 

 

3.信仰の霊的なものは仁慈の情愛〔仁慈に対する情愛〕であり、そこから善い用を求め、生活を求める真理の情愛〔真理に対する情愛〕

 

 

天界の秘義8078〔4〕

 

 しかし霊的な信仰は内なる道と同時に外なる道によっても入ってくるものであり、それは内なる道により入ってくることによって信じられるようになり、かくて外なる道により入ってくるものにより確認されるようになるのである。信仰の霊的なものは仁慈の情愛〔仁慈に対する情愛〕であり、そこから善い用を求め、生活を求める真理の情愛〔真理に対する情愛〕であり、これらのものが信仰を霊的なものにするのである。内なる道により信仰が入ってくるのは、聖言を読むことにより、またその時主から明るくされることにより行われ、それはその情愛の性質に応じて与えられ、即ち、真理を知ることの中に求められている目的に応じて与えられるのである。

 

 

 

 

4.救うものはこの信仰、形をとった仁慈

 

 

天界の秘義9274[4]

 

これらの状態は互いに他から区別されていることはモーセの書の以下の言葉の中にも含まれている―

 

あなたは新しい家を作るときは、屋根に垣を作らなくてはならない。あなたはぶどう畠に、また畠にも、種の入り混じったものを蒔いてはならない。あなたは雄牛とろばとを組合わせて耕してはならない。あなたは羊毛とリンネルとが入り混じった上着を着てはならない(申命記22・8−11、レビ記19・19)。

 

これらの言葉により、真理の状態の中に、すなわち、最初の状態の中にいる者は善の状態の中に、すなわち、第二の状態の中にいることは出来ないし、またその逆に、善の状態にいる者は真理の状態にいることは出来ないことが意味されているのである。

その理由はその一方の状態は他方の状態の反転したものであるということである、なぜなら最初の状態ではその人間は世から天界を見つめるが、しかし第二の状態では天界から世を見つめるからである、それは最初の状態では真理が世から知性を通して意志へ入ってそこで愛のものとなるため、善となるが、第二の状態では善が天界から意志を通して知性へ入り、そこで信仰の形をとって現れるためである。救うものはこの信仰である、それはその信仰が愛の善から発しており、即ち、主から愛の善を通して発しているためである、なぜならこの信仰は形をとった仁慈に属しているからである。

 

 

 

 

5.これのみが神との交わりによる人間の救いを可能ならしめるもの

 

 

真の基督教98

 

父と子、すなわち神性と人間性とは霊魂と身体とのように主の中に合一していることは、実に信仰箇条として教会により認められ、また聖書に一致しているが、しかし百人の中五人もこれを真理として認めていない。是は信仰のみによる義認の教義のためであり、この教義に、名誉と富とのために学問上の名声を得ようと熱中している者達が自らを非常な熱意を以って捧げ、遂にその心はその教義に取り憑かれるに至るのである。而してそれは、アルコルと呼ばれる酒精のように、彼らの思考を酔わせてしまったため、彼らは教会のこの最も本質的な信条を―エホバなる神が降り、人間性を取り給うたことを理解することが出来ないのである。にも拘らず、これのみが神との交わりによる人間の救いを可能ならしめるものである。

 

 

 

 

6.救う信仰は主なる神 救い主 イエス キリストに対する信仰

 

 

真の基督教337

 

「救う信仰は主なる神 救い主 イエス キリストに対する信仰である」

救う信仰は救い主なる神に対する信仰であるのは、彼は神と人にて在し、また彼は父の中に在し、父は彼の中に在し、かくして両者は一人であり、それ故彼に近づく者はまた父に近づき、かくて只一人の神に近づき、そしてこれ以外の如何なる信仰も救うことが出来ないからである。我々はエホバによって懐妊し、処女マリアから生まれ、イエス キリストと呼ばれる贖罪者にして救い主である神の子を信じ、あるいは、これを信仰しなければならぬことは、彼と彼の使徒達とにより、しばしば繰り返された誡命によって明白である。

 

「イエス言い給う、われを遣わし給いし者の御意はすべて子を見てこれを信ずる者の永遠の生命を得る是なり。われ終の日にこれをよみがえらすべし」(ヨハネ6・40)。「御子を信ずる者は永遠の生命をもち、御子に従わぬ者は生命を見ず、反って神の怒その上に止まるなり」(ヨハネ3・36)。「すべて信ずる者の彼によりて永遠の生命を得んためなり。それ神はその独子を賜うほどに世を愛し給えり。すべて彼を信ずる者の亡びずして永遠の生命を得んためなり」(ヨハネ3・15,16)。イエス語り給う「我は復活なり、生命なり。我を信ずる者は死ぬとも生きん。凡そ生きて我を信ずるものは永遠に死なざるべし」(ヨハネ11・25,26)。「誠に誠に汝らに告ぐ、我を信ずる者は永遠の生命を持つ。我は生命のパンなり」(ヨハネ6・47、48)。「我は生命のパンなり。我に来る者は飢えず、我を信ずる者はいつまでも渇くことなからん(ヨハネ6・35)。「イエス呼ばはりて言ひ給ふ、人もし渇かば我に来りて飲め、我を信ずる者は、聖書に言へるごとく、その腹より活ける水、川となりて流れ生づべし」(ヨハネ7・37、38)。彼ら言ふ、「我ら神の業を行はんには何を為すべきか。イエス答へて言ひ給ふ。神の業はその遣し給へる者を信ずる是なり」(ヨハネ6・28、29)。「光の子とならんために光のある間に光を信ぜよ」(ヨハネ12・36)。「神の子を信ずる者は審かれず、信ぜぬ者は既に審かれたり。神の独子の名を信ぜざりしが故なり」(ヨハネ3・17、18)。「これらの事を録ししは、汝等をしてイエスの神の子キリストたることを信ぜしめ、信じて御名により生命を得しめんがためなり」(ヨハネ20・31)。「汝らもしわが在ることを信ぜずば、罪のうちに死ぬべし」(ヨハネ8・14)。「イエス言ひ給ふ、助け主来たらんとき世をして罪につき、義につき、審判につき過てるを認めしめん。罪に就きてとは、彼ら我を信ぜぬに因りてなり」(ヨハネ16・8)。

 

 

 

真の基督教338

 

使徒たちの信仰は主イエス・キリストに対する信仰であったことは、彼らの書簡の多くの記事によって明白である。その中から私は以下のもののみを引用しよう。

 

「最早我生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり。今我肉体にありて生くるは我を愛して我がために己が身を捨て給いし神の子を信ずるに由りて生くるなり」(ガラテヤ2・20)。

 

パウロは「ユダヤ人にもギリシャ人にも、神に対する悔改めと我らの主イエス・キリストに対する信仰を」証した(使徒20・21)。

 

「彼パウロを連れ出して言う、君らよ我救われん為に何をなすべきか。彼言う、主イエスを信ぜよ、然らば汝も汝の家族も救われん」(使徒16・30、31)。

 

「御子を持つ者は生命を持ち、神の子を持たぬ者は生命を持たず。我神の子を信ずる汝らにこれ等のことを書贈るは、汝らの永遠の生命を持つことを知り、神の子の御名を信ぜんが為なり」(ヨハネ第一書5・12、13)。

 

「我らは生来のユダヤ人にして罪人なる異邦人にあらざれども、人の義とせらるるは律法の行為によらず、唯キリスト イエスを信ずる信仰に由るを知りて、キリスト イエスを信じたり」(ガラテヤ2・15、16)。

 

彼等の信仰はイエス・キリストに対するものであり、且つ彼によって鼓吹された故、彼等は上述の如く(ガラ2・16)また以下の記事におけるが如く、これをイエス・キリストの信仰と呼んだのである。

 

「イエス・キリストを信ずるによりて、凡て信ずる者に与えたまう神の義なり。これイエスを信ずる者を義としたまわんためなり」(ロマ3・22,26)。

 

「キリストを信ずる信仰による義すなわち信仰に基づきて神より賜る義を保ち」(ピリピ3・9)。

 

「これは神の誡命とイエスを信ずる信仰とを守る者なり」(黙示録14・12)。

 

「キリスト・イエスを信ずる信仰によりて」(テモテ後書3・15)。

 

「キリスト・イエスにありては、ただ愛によりて働く信仰のみ益あり」(ガラテヤ5・6)。

 

これらの記事はパウロのかのしばしば繰返される記事、「されば我らは思う。人の義とせらるゝは律法の行為によらず、信仰に由るなり」(ロマ3・28)の信仰の意味を示している。即ち、それは父なる神に対する信仰ではなくその御子に対する信仰であり、ましてそれは三人の神―その中の一人からその中の他の一人のために、而してその中の第三の者を通して救いが来る―に対する信仰でないことを示している。教会はその三人格的信仰がパウロによりこの記事に意味されていると信ずるのは、ニカヤ会議以来、これが真の信仰、唯一可能の信仰として認められ、それ故、「信仰」なる語が新約聖書に用いられる時は常に、三人格的な信仰が理解され凡ゆるものがこれに一致させられているからである。その結果、救い主なる神に対する信仰である唯一の救う信仰は滅び、多くの虚偽と荒唐無稽な逆理が教会の教義に忍び入ったのである。何故なら、天界または救いに至る道を教え、これを指示する教会の教義は凡て信仰に依存するからであり、凡てこれらの虚偽と逆理が信仰に入り込んだために、理解は信仰に従属しなくてはならないという教理が布告された。しかし上述のパウロの引用文(ロマ3・28)の「信仰」はその書簡の後続の部分から、またガラテヤ書の類似の記事(2・14,15)から明白であるように、父なる神に対する信仰ではなく、子なる神に対する信仰を意味し、「律法の行為」は十誡の行為ではなく、ユダヤ人に与えられたモーゼの律法の行為を意味しているのである。かくして現今の信仰の基礎は崩壊し、その上に建てられた神殿は屋根のみが表面に現れている家の如く地に沈んでしまったのである。

 

 

 

 

7.神的なものは彼らが何らかの考えを持って把握する形を持たれない限り、たれ一人信仰と愛との中に神的なものと連結することが出来ない

 

 

天界の秘義6700

 

彼らはまた、神的なものは彼らが何らかの考えを持って把握する形を持たれない限り、たれ一人信仰と愛との中に神的なものと連結することが出来ないのであり、形を持たれないなら、その考えは、視覚が宇宙に消散してしまうように、消滅してしまうことを知っているのである。

 

 

 

 

8.見える神に対する信仰

 

 

真の基督教339

 

人々は救い主イエス キリストなる神を信じなければならない、即ち、彼に対する信仰を持たなければならないのは、これは見えない神がその中に在すところの見える神に対する信仰であるからである。何故なら、人でありまた神である見える神に対する信仰は人の受け入れ得るものであるからである。信仰の本質は霊的なものであるが、その形は自然的であり、それ故信仰は人間の中に霊的かつ自然的なものになるのである。何故なら、霊的なものは凡て、人間がこれを現実のものとして所有するためには、自然的なものの中に受け入れられねばならぬからである。純粋に霊的なものは実際人間に入りはするが、受け入れられない。

 

それはエーテルの如きものであり、人間を感動さすことなくして彼に流れ入り、また流れ去って行く。人間を感動さすためにはそれは人間の心に認められ、かつ受容されねばならず、これは彼の自然的な心の中にのみ可能である。他方単に自然的な信仰または霊的本質を欠いた信仰は信仰ではなく単なる確信あるいは知識に過ぎない。確信は外的には信仰のように見えるけれど、内的には霊性を欠いている故、その内には救うものは少しも存在しない。これがアリウス派、ソツヌス派のように、主の人間性の神性を否定する凡ての者の信仰である。信仰はその対象無くして何であろうか。それは空間を凝視し、視覚がそれ自らを虚空に失うようなものである。それは鳥が大気を越えてエーテルの中へ飛び入り、真空内にあるように、息絶えてしまうに似ている。かかる信仰はイオラスの翼の風のように、流星の光のように、人間の心に止まることは出来ず、長く尾を曳く彗星のように現れると間もなく過ぎ去り、消え去ってしまうのである。約言すれば、見えない神に対する信仰は盲目である。それは人間の心はその神を見ないからである。而して、このような信仰の光は霊的自然的なものでない為、蛍のそれのような或は沼地、硫黄を含んだ土、或は腐敗した木材から発する光のような、偽りの光である。この光によって見られる物は凡て錯覚に過ぎず、外面的なものが真実なものとして誤認されるのである。

 

これが見えない神に対する信仰の光であり、特に神がエーテルのような霊として考えられる時の光である。何故なら、そのとき人間は神をエーテルのように見、彼を物質的な宇宙に探し求め、そこに見出さないところから、自然が宇宙の神であると信ずるからである。これが現在流布している唯物論の源泉である。主は未だ嘗て父の御声を聞き、その御形を見た者はないと宣べ(ヨハネ5・37)、また如何なる時にも神を見た者はなく、ただ父の懐に在す独子のみがこれを現し給うた(1・18)と述べ、神とともなる者が父を見た以外には何人も彼を見ない(6・46)と述べ、同様に何人も彼に由らなくては父に往くことが出来ない(14・6)、更に、彼を見、且つ認める者が父を見且つ認める者であると述べ給うた。

 しかし、救い主に在す主なる神に対する信仰はこれと異なっている。彼は神と人である故、思考によってこれに近付き、これを見ることが出来るのである。かかる信仰は不確定なものではなく、一定の対象を持ち、一度受け入れられた時、止まるのは、人はその一度眺めた皇帝或は主の姿を思い浮かべることが出来る様に似ている。その信仰の幻は、輝ける雲の真中に一人の天使がいて人間に来たって天界に行くことを勧めているのを見るに似ている。主は彼を信ずる者にこのように現れ給うが、人間が主を知り、主を認める限り、即ち各人が主の誡命を知り、悪を避け、善を為すことによってその誡命に服従する限り、その人間に近づき給うのである。かくて彼は遂に、ヨハネ伝の以下の言にあるように、彼の中に在し給う父と共に人間の家に来り、その許に住み給うのである。イエスは語り給うた。「我が誡命を保ちて之を守る者は、即ち我を愛する者なり。我を愛する者は我が父に愛せられん。我も之を愛し、之に己を顕すべし。かつ我等その許に来りて住処を之と共にせん」(ヨハネ14・21、23)。上述したことは、私が筆を執っている間に、主から私の許に遣わされた主の十二人の使徒達の眼前に在って記されたものである。

 

 

 

霊的な生命・神の聖言P31

 

 人間が、悪が罪であるため、それを避け、そこから離れる時、彼は神はおられ、神は一人であられることを天界の光から認めるのみでなく、また神は人間であられることを認めるのである。なぜなら彼は彼の神を見ようと願い、神を人間としてしか見ることが出来ないからである。(黙示録講解955番)。

 

 

 

 

9.信仰の要点は良く生活し、正しく信ずる者は、主によって救われること

 

 

〔U〕「信仰の要点は良く生活し、正しく信ずる者は、主によって救われることである。」

真の基督教340

 

 各基督教徒は人間は永遠の生命を受け継ぐために造られ、若し彼が聖言に定められている救いの手段を用うるならば、之を受け継ぐことを信じているが、同様の信念が宗教を持つ知的な異教徒の各々により抱かれているのである。救いの手段は多く、また多様であるが、それらはことごとく、良く生活することと、正しく信ずることに関わり、従って仁慈と信仰とに関わっている。何故なら、良く生活することは仁慈であり、正しく信ずることは信仰であるからである。この二つの全般的な救いの方法は、聖言に述べられているのみでなく、また命ぜられている。それ故、人間は神により価なくして、与えられている力によって永遠の生命を獲得することが出来、この力を用いると同時に、神を見上げる限り、神はこの力を増大し、自然的な仁慈を霊的な仁慈に、自然的な信仰を霊的な信仰に変え給うのである。かくして、神は死んだ仁慈と信仰に、また人間その者に生命を与え給う。

 人間が正しく生活し、正しく信じていると言われ得る以前に二つのものが結合されねばならない。この二つは教会によって内なる人と外なる人と呼ばれている。内なる人が善いものを欲し、外なる人が善いものを行なう時、外なる人は内なる人によって、内なる人は外なる人によって行動し、または人間が神によって行動し、神が人間を通して行動し給い、内なる人と外なる人とは結合するのである。然し、外なる人が善いことを行なっても、内なる人が悪いことを欲するならば、両者は共に地獄によって行動するのである。それはこの人間の意志は地獄から発し、その行為は偽善であり、凡ゆる偽善には蛇が草の中に、或は蟲が蕾の中に隠れているように地獄的な意図が隠れている故である。

 内なる人と外なる人があり、両者は事実上一つのものとして行動することが出来、また外観的に一つのものとして行動することが出来、外なる人は葬られるが、内なる人は死後も生きることを知る者は凡て、天界とこの世との知識を豊かに持つ者である。而してこの二つを善の中に結合する者は永遠に幸福になるが、この二つを切り離し、或は、もっと悪いことは、二つを悪の中に結合する者は、永遠に悲惨となる。

 

 

 

真の基督教341

 

 良く生活し、正しく信ずる人間が救われず、神はその自由意志によってその欲する者を救い、罪に定めることが出来ると想像することは、神を無慈悲、残忍、残酷な者として非難することであり、否、それはまた神の存在を否定するに等しいのである。かかる信仰は、神はその聖言の中に無意味な言葉を語り給い何等重要でない命令を発し、自らシナイ山に立てて、二枚の石板に書き録し給うた契約を犯し給うことを暗示する。神はその誡命に従って生き、彼に対する信仰を持つ者を救わざるを得ないことは、ヨハネ伝の主の言(14・21−24)によって明白である。宗教を持つ理知的な人間は凡て是と同一の結論に到達するであろう。何故なら、神は絶えず人間と共に在し、これに理解し、愛する生命と力を与え給うからである。それ故神は良く生活し正しく信ずる人間に御自らを愛に於いて結合させ給わざるを得ないのである。この事は神によって凡ての人間と凡ての動物に刻み付けられていないだろうか。父と母はその子を、鳥はその雛を、獣はその仔を斥ける事が出来ようか。虎、豹、蛇ですらその子を愛している。神がそれ以外のことを為すことはその存在の秩序に反し、また神が由って以って人類を創造し給うた秩序に反している。それ故良く生活し、正しく信ずる人間を罪に定めることは神に不可能であるが、誤った物を信ずる人間を救うこともまた不可能である。何故ならこれは再び秩序に反し、また公正の道に添わない限り発することが出来ない神の全能にも反するからである。公正の律法は変更することの出来ない真理である。何故なら、主は「律法の一画の落つるよりも天地の過ぎ行くは易し」(ルカ16・17)と語り給うからである。

 前に述べた事は、神の本質と人間の自由意志について多少知っている者には明白であるに相違ない。例えば、彼はアダムは生命の木の実とまた善悪を知る木の実を食う自由を持っていたことを知っている。若し、彼が只生命の木、或は生命の木々の実のみを食ったならば、神は彼を楽園から放逐することだ出来たであろうか。確かに不可能である。然し、彼が善悪を知るの木の実を食った後も、神はこれを長く庭園に留め置くことが出来たであろうか。これも確かに不可能である。同様に、神は地獄に天界の如何なる天使をも投げ込むことは出来ないし、また天界に如何なる地獄の悪魔をも入れることは出来ない。神はその神的全能によるもその何れをも為すことが出来ないことは上述した所(49−70番)から明らかである。

 

 

 

 

10.人は主に近づき、聖言から真理を学び、それに従って生活することによって、信仰を得る

 

 

真の基督教347

 

 人は主に近づき、聖言から真理を学び、それに従って生活することによって、信仰を得るのである。

「信仰は主に近づくことによって形作られる。」 救いに導く故、正当に信仰と呼ばれる信仰は主から来り、主の中に在る。それが主から発することは、主のその弟子達に対する言によって明白である。「我に居れ、さらば我汝等に居らん。汝等我を離るれば、何事をも為し能はず」(ヨハネ15・4、5)。それは主に対する信仰であることは、人は御子を信じなければならぬという意味の上に引用した記事(337、338番参照)によって明白である。さて信仰は主から来り、主の中にある以上、主は信仰そのものであると言うことが出来よう。何故なら、信仰の生命と本質とは主の中にあり、従って主から発しているからである。

「信仰は聖言から諸真理を学ぶことによって形作られる。」何故なら信仰はその本質に於いて真理でありまた信仰の全要素は真理であるからである。それ故、信仰は心を照らす諸真理の一体系以外の何物でもない。何故なら、真理は、我々は信じなければならないということばかりでなく、誰を信じなければならないか、また何を信じなければならないかを教えるからである。真理は聖言から得られねばならないのは、救いに導く凡ゆる真理は聖言の内に含まれており、またそれは主によって与えられる故に、有効であり、それ故全天使的天界に印刻されており、かくて人は聖言から真理を学ぶ時は、識らずして天使と交わり、連なるからである。真理のない信仰は糠以外の何物をも生まない殻のようなものであるに反し、諸真理によって形作られる信仰は粉を造る良い穀物のようなものである。約言すれば、真理は信仰の要素であり、真理は信仰の中に存し、信仰を構成しなければ、それは汽笛の鋭い音の様なものに外ならないが、真理が信仰の中に存し、信仰を構成するときは、良い音づれの声のようなものである。

「信仰は真理に従って生活することにより形作られる。」何故なら霊的生活は諸真理に従う生活であり、真理は行為の中に示されない限り、真に生きていないからである。行為のない諸真理は、単に思考の問題に過ぎない。もし、それが意志の問題とならないならば、単に人間の内にあるに過ぎず、内的に存在しない。何故なら、意志が真の人間であり、思考はそれが意志と結合するに応じて人間であるから。真理を学び、而もそれに従って生活しない者は、畠に種を播くが、これを杷(さらい)でかいて地に埋める者に似、そのときその種子は雨によって生気を与えられ、熟れて滋養のある穀物になるのである、主は語り給う。「汝らこれらの事を知りて、之を行はば幸福なり」(ヨハネ13・17)。また他の個所には「良き地に播かれしとは、御言を聞きて悟り、また実を結び、行ふ者なり」(マタイ13・23)。更に、「凡て我がこれらの言を聞きて行ふ者を岩の上に家を建てたる慧き人に擬へん。凡て我がこれらの言を聞きて行はぬ者を、沙の上に家を建てたる愚かな人に擬へん」(マタイ7・24、26)。主の御言は凡て真理である。

 

 

 

真の基督教348

 

 今や人の信仰を形作るには三つの手段があること、即ちそれは主に近づくこと、聖言より真理を学ぶこと、而してその真理に従って生活することであるということが明白である。この三つは区別される故それらは分離され得ることが推論される。例えば、人は主に近づいても神と主とに関し歴史的な真理以外には何物をも知らないかもしれない。また他の者は聖言から豊富に真理を知るかもしれないが、しかもそれに従って生活しないかもしれない。然し、この三つの物が分離している人には、即ち一つが他のものなしに存在している人には、救う信仰は存在しない。救う信仰はこの三つが結合する時生まれ、而して、それは結合の性質に従って変化する。効果の無い信仰と、救う信仰との間には、地面に播かれはしたが腐敗して塵になって了う無益な種子と成長して果を結ぶ木になる種子との間のような、或は不妊の卵と美しい鳥を生む卵との間のような、或は、煮られた魚または蟹の眼と澄明な眼との間のような、或は、黒い石の上に黒色で描かれた絵と透明な水晶の上に美しい色で描かれた絵との間のような相違がある。効果の無い信仰の光は夜間の旅人の手に在る燃木のそれに似ているが、然し、救う信仰の光は途の一歩一歩を照らす燃ゆる松明のそれに似ている。真理のない信仰は野生の実を結ぶ葡萄に似、真理を持った信仰は美味な葡萄酒を作る実を結ぶ葡萄に似ている。主に対する信仰は、真理を伴わないならば、大空から徐々に色褪せてゆく新しい星に譬えることが出来ようが、真理とともなる主に対する信仰は永久に存続する恒星に譬えることが出来よう。真理は信仰の本質である。それ故真理の如何が信仰の如何である。真理のない信仰は不安定な信仰であるが然し真理を持った信仰は不変であり、天界ではこのような信仰は星の如く輝くのである。

 

 

 

 

11.信仰は、諸真理の数とその組織ある排列に応じて完全にされる

 

 

真の基督教352

 

(3)「信仰は、諸真理の数とその組織ある排列に応じて完全にされる。」

これは上述したところから推論され、また、その主題を合理的に考え、而して幾多の連続が組織的に排列されるときに、如何なる働きをするかを観察する者各々に明らかであるに相違ない。何故ならその時一つの連続は他の連続を強め、確実にし、全体は一つのものとして活動する形を以て排列されるからである。信仰はその本質に於て真理である故に、真理の数と関連性に応じて益々霊的に完全となり、従って益々非感覚的、非自然的なものとなる。何故なら、それはかくして心の更に高い領域へ高められ、そこからその下なる自然界の中に自らを確認する幾多の事実を見るからである。真の信仰はこのような組織的に排列された幾多の真理により益々透明に、合理的に、分明になり、また仁慈の善と結合し、悪を駆逐することが更に可能となり、かくして眼の誘惑と肉の欲から益々遠ざかり、それ故に益々幸福になる。特にそれは悪と虚偽とに対して更に力強いものとなり、かくして益々生ける、救の信仰となる。

 

 

 

 

12.主は再三『わたしがこのことを行なうことができることをあなたたちは信じますか』、『あなたの信仰に従ってそれが行なわれるように』と言われた

 

 

スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP79

 

これがそのようになっており、これが教会の主要な事柄であるからには、またたれ一人、主の人間的なものにおける神性を承認しなくては、受け入れられて、救われることができないため、それで主は再三『わたしがこのことを行なうことができることをあなたたちは信じますか』、『あなたの信仰に従ってそれが行なわれるように』と言われたのであり、即ち、主は全能であられ、神であられることを言われたのである。主は、自分が行なう業は父から行なうのであると再三言われたのは、彼らが主の神的なものそれ自体を信じるためであったのであり、または主の人間的なものは神的なものであることを信じるためであったのであり、それで主はまた御自身について、それと同じことを言われたのである。

 

 

 

 

13.教会内で主を否定して、父〔神〕のみを承認し、そうした信念を確認した者らは天界の外にいる

 

 

天界と地獄3

 

 教会内で主を否定して、父〔神〕のみを承認し、そしてそうした信念を確認した者らは天界の外にいる。そして彼らは、主のみが崇拝されている天界から、いかような流入も受けないため、彼らはいかような主題についても、真のことを考える能力を次第に奪われ、遂には唖のようになるか、または愚劣なことを語って、関節の力が抜けた者のように、腕をだらりとぶら下げながら、当ても無くぶらつき回っている。しかし、ソツニウス主義者のように、主の神的なものを否定して、その人間性のみを承認した者も同じく天界の外にいて、やや右の方へ連れ出されて、深淵の中へ引き下ろされ、かくして基督教世界から来る他の者たちから全く引き離されている。しかし自分たちは目に見えない神的な者〔神〕を信じており、それを凡ての物の存在の起原であった宇宙の実在と呼んでいるとは言うものの、主に対する信仰を斥けている者らは、彼らはいかような神も信じていないことを経験により示される、なぜならその目に見えない神的なもの〔神〕は彼らには自然の第一原理のようなものであって、それは思考の対象とはならないため、信仰と愛との対象ともならないからである。(*2)これらの者は自然主義者と呼ばれる者らの間へ放逐される。教会の外に生れて、異邦人と呼ばれている者たちの場合はそうではない、彼らについては後に更に述べよう。

 

*2

いかような考えによっても認められない神的なものは信仰によっても受けられることは出来ない、4733、5110、5663、6982、6996、7004、7211、9359、9972、10067、10267。

 

 

 

14.救う信仰は歴史的な信仰が先行しない限り与えられることは出来ない

 

 

黙示録講解427イ

 

アベル・・・仁慈の善

カイン・・・信仰の真理

 

『エホバはカインの上に、彼が殺されてしまわないように、ある印を付けられた』

エホバは彼を他の者らから区別されて保持されたことを意味しているのは、救う信仰は歴史的な信仰が先行しない限り与えられることは出来ないためであり、そのこと[歴史的な信仰]は他の者たちから教会と天界との事柄を知ることであり、約言すると、それは信仰を後になって構成するような事柄に関わる知識である、なぜなら人間は幼時から聖言から、または教会の教義から、または説教から真理を吸引しない限り、彼は空虚なものとなってしまい、空虚な人間の中へはいかような働きかけも行われることは出来ず、主から天界を経ていかような流入も注がれることは出来ないからである、なぜなら主は人間のもとに在る真理の中へ善を通して働きかけ、流れ入られ、真理と善とを連結され、かくて仁慈と信仰とを一つのものとされるからである。

 このことから『エホバはカインの上に、たれも彼を殺さないように、またたれであれ彼を殺す者はことごとく七倍の復しゅうを受けなくてはならない』の意義を認めることが出来よう。さらに、単なる歴史的な信仰の中にいる者らは、即ち、信仰を構成しているような事柄に関わる知識の中にいる者らは ― かれらは『カイン』により意味されている人物または信仰であるが ― これらの者はまた聖言から真理を他の者たちに教えるために ― そのことを彼らは記憶から行うのであるが ― 保持されるのである。

 

 

 

 

15.ベルナルド

 

 

あかし書房/聖母の歌手/P232

 

 人間の頭で理解できない神、人間が近づくことのできない神、人間が見ることのできない神、人間が想像することのできない神 ― この神が、御言葉の受肉によって、わたしたち人間にとって、理解できる神、近づくことのできる神、見ることのできる神、想像することのできる神と成られたのです。御言葉の受肉以来、神は人間に理解されたいのです。人間に見られたいのです。人間の思考の対象になりたいのです。どんなお姿のもとで、神は人間にそうしてもらいたいのでしょうか。それは例えば、飼い葉桶に寝かされているお姿です。聖母のふところに眠っておいでになるお姿です。山の上で説教しておいでになるお姿です。終夜祈っておいでになるお姿です。こういうお姿のものに、ご自分を神として観想してもらいたいのです。または、十字架にはりつけになっているお姿、死に悶えているお姿、完全に死体となっているお姿、古聖所にお下りになっているお姿、さらにまた三日目に復活したお姿、勝利のしるしに使徒に手足の釘跡をお示しになるお姿、使徒たちの見ている前で栄光の昇天をなさるお姿 ― こういうお姿のご自分を、人間に観想してもらいたいのです。このような出来事を通して、真実に、敬虔に、神性な感激のうちに、神を観想することのできない人間が一人でもいるのでしょうか。これらの神秘のどの一つを観想しても、その中にわたしは、神を見ることができ、神についての適正な考えを持つことができます。これらの神秘のすべてを通して、神ご自身が、わたしの神が、そこに姿を現しておいでになるからです。

 人と成った御言葉の、これらすべての出来事についての観想を、わたしは知恵と呼びました。これらの観想の、感性における甘美さを、賢慮と呼びました。この甘美さを永遠の大祭司キリストは、新約の人々の心にお注ぎになるのです。

 

 

 

 

16.グリニョン・ド・モンフォール

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳P77

 

「このかた以外には、誰によっても救いはありません。世界中でイエズスの御名のほかには、わたしたちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」

 

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳P43

 

「わたしは救われる人にとっては、父であり弁護者ですが」

 

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳50

 

Dマリアは、わたしたちがイエズス・キリストにいたるための、またイエズス・キリストを見いだすための確実な手段、まちがいのない真っ直ぐな道ですから、高次元の聖性に召された人はみな、マリアという道をとおってこそ、イエズス・キリストを見いださねばならないのです。

 マリアを見いだす人は、生命を見出す(格言8・35)。すなわち、「わたしは道であり、真理であり、生命です」(ヨハネ14・6)と言われたイエズス・キリストを見出すのです。しかし、マリアを探し求めなければ、マリアを見出すことは出来ません。マリアのことをよく知らなければ、マリアを探し求める気にはなりません。人はだれでも、自分が知っていないものを、望むこともできねば、さがし求めることもできないからです。

だからこそ、どの時代よりも特に、世の終りの直前、マリアは世の人に、もっとよく知られねばならぬというのです。それは、いとも聖なる三位一体が、最高に知られ、最高に栄光を着せられるためなのです。

 

 

 

 

17.マーリン・キャロザース

 

 

マーリン・キャロザース/この世に天国を/P103

 

私たちの礼拝が空しいとき、それは、私たちが神のことをよく理解できないか、わからないからであり、自分が知らないものを愛せないからなのです。

 

 

 

 

18.仁慈にいない者らは偽善からでなくては主を承認し、拝することは出来ない

 

 

新エルサレムの教義106

 

仁慈にいない者らは偽善からでなくては主を承認し、拝することは出来ない(天界の秘義2132、4424、9832番)。憎悪の形と仁慈の形は共存することは出来ない(1860番)。

 

 

 

 

19.真理を承認することが救う信仰であると人々が言っていることについては、仁慈に反した事柄の中に生きている者らのもとにはいかような承認も決してあり得ない

 

 

天界の秘義2261[]

(2231に示されたように)信仰そのものは、その内意では、仁慈以外の何ものでもないのである。真理を承認することが救う信仰であると人々が言っていることについては、仁慈に反した事柄の中に生きている者らのもとにはいかような承認も決してあり得ないのであって、そのもとにはたんに説得されたものがあるのみであり、この説得されたものに自己または世への愛の生命が接合しているのである、かくてかれらが言及しているその承認の中には仁慈の生命である信仰の生命は存在していないのである。すべての者の中で最悪の者でさえも―自己または世に対する愛から、すなわち、理知と知恵と呼ばれている事柄において他の者に卓越し、かくて名誉と名声と利得を獲得するためには―信仰の諸真理を学んで、それを多くのものにより確認することができるが、しかし依然かれらのもとにはこれらの真理は死んでしまっているのである。

 

 

 

 

20.主に対する愛と隣人に対する愛とが信仰そのものであることを知っておらず、かれらが信仰と呼んでいる知識は、その知識によって人間が主から主に対する愛と隣人に対する愛とを受けることができるという目的以外のためには存在していないことを知っておらず、またそれが救う信仰であることを知っていない

 

 

天界の秘義1176

 

内的な事柄にかかわる知識とはかれらが教義的なものと呼んでいるものであって、かれらはまたそれを祭儀から区別しているのである。たとえば、かれらの主要な教義は信仰のみが救うということであるが、しかしかれらは主に対する愛と隣人に対する愛とが信仰そのものであることを知っておらず、かれらが信仰と呼んでいる知識は、その知識によって人間が主から主に対する愛と隣人に対する愛とを受けることができるという目的以外のためには存在していないことを知っておらず、またそれが救う信仰であることを知っていないのである。前に述べたような礼拝を生み出し設立する者らは信仰を知識にのみ成立させる者である。