わたしを見たから信じたのか。

見ないのに信じる人は幸いである。

(ヨハネ20・29)

 

愚鈍

聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えない(コリント1・12・3)

 

 

 

 

1.主をその眼で見はしないものの、それでも主の存在を信じる者たちは祝福されている

2.奇蹟は有害であり、現今では奇蹟は行われない

3.奇蹟には何らの効果もない

4.現今の人間はその見ないものを信じなくてはならない

5.単に自然的な信仰

6.見ないものは信じない

7.サンダー・シング

 

 

 

 

ヨハネ20・27−29

 

「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」

 

 

 

 

1.主をその眼で見はしないものの、それでも主の存在を信じる者たちは祝福されている

 

スウェーデンボルグ/信仰10

 

 主はトマスに以下のように言われた。

 

あなたはわたしを見たから、信じた、見はしないが、それでも信じる者は祝福されている(ヨハネ20・29)。

 

このことは真理の内的承認から分離した信仰を意味してはおらず、トマスのように主をその眼で見はしないものの、それでも主の存在を信じる者たちは祝福されていることを意味している。なぜなら、主の存在は聖言から発している真理の光の中に認められるからである。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P322

 

‘87・9・7

 

怖れないように、あなたとともにいます、我が子イエスはあなたがくれるようにと頼んでいた証拠や印をはっきりと制限なさいました ♡ けれど我が子にはその理由があるのです ♡ イエスはそれでもあなたに信じる恵みを与え、知恵をもって指示されてきました、ヴァッスーラ、あなたは本当に見えないまま信じたのです。

 

そうでしょうか?

 

♡ そうしましたよ、そうでなければ私どものもとに来て書くという、この熱意を持たなかったでしょう、主の望まれるままに 自分を使ってもいただかなかったでしょう。

このようにしたことは 愛する者よ、あなたが盲目的に信じたことを証しています そして神はそれを喜んでおられるのです、あなたの信仰は偉大ですよ ♡ イエスはそれによって ほかの人たちにも主の神聖な御わざにたいして信仰を持って見えないまま信ずるようにと望んでおられるのです、純朴でいらっしゃい、神の悦ばれる子どもたちらしくなさい

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P340

‘87・9・23

 

♡ 配偶者よ、深く眠りこんだ人たちの声を聞いてはいけない、彼らは何も知らない、何も感じていない、何も見えていない、何も聞こえていない、この人たちは眠りこみ、完全に自覚が失せているので、当然です!

 

イエスは、この世について私に理解させなさいました。物質的で肉体的な世の中のことを。そして、もう一つの世界は目に見えなく、霊的なものなのです。

 

来なさい、私は、イエス・キリスト、神の愛する子。 もしそう望んだなら、もっと多くの証拠を与えることもできよう、しかし私なりの理由によってそれを差し控えている、あなたに見えないまま道を案内することを 私は喜んでいる、それは私に栄光を与える ♡ それに、知恵が眼を眩ませている人たちにとっても教訓になることを望んでいる あなたに無心、素朴で、あってもらいたい ♡ この特別な方法で道を案内しているのは 私、主が豊かに与えることを 我が宗教的な霊魂たちが理解するためです ♡ 娘よ、私の超自然的なわざは 信じ難くはないとこの人たちに伝えなさい、どうして、私は神であり霊ではないか? 子どものように 信じなさい ♡ あなたが子どもたちに私のわざを見せたなら、こうして書きながら道を案内しているのが私であることを疑うだろうか? 無心でありなさい!

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P72

‘88・11・16

 

♡ ヴァッスーラ、このたびは この啓示にたいする我が印を限った、このようにして与えたため もっと大きな栄光を受けている、その理由を説明した、信仰が優先するように望んでいるからだ、それでこの啓示には余り多くの特別な印がなく、平易であってほしい。 すでに述べたが、与える唯一の印はあなた自身と その果実、おもに改心の数々だ ♡

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P74

‘88・11・16

 

このようにしてサタンはあなたに指を触れることが許されていない(*)、あなたにこう約束する ♡ 私のほうからは、決して見捨てたり、なおざりにはしない、何一つ不足しないであろう。 あなたに平安を与え 小さな霊魂にたいして特別に抱く愛を示した、我が聖心を しめした。 そこで 我がヴァッスーラ、あなたは私を測り知れないほどに愛し 我が霊を悦ばせるようにと造られている、私を常に望み、従うことによって喜ばせなさい、我が怒りを和らげ、慰め 憩わせてほしい、私を礼拝し、私のうちに希望し、完全に盲目的に信じなさい、これらが我が心の指針。 私を尊び、我が反射となるように。 そして与える全てを受け取り 我が誉れとなりなさい。 花よ、私の利益と栄光のためにだけ生きるように、与えるすべてを いつも喜んで受け入れなさい。

  病いや死をもたらし。

 

はい、わが主よ。そう努力しています。

 

私はどのような時でも現存している、覚えておくように、あなたを救いに来なかったなら、今私を そして私だけを望んでいたであろうか?

 

いいえ、主よ。

 

私のうちの真のいのちが何を意味するかを教えた。 しばしば祈り、毎日聖なるロザリオを唱えるように、この小さな鎖はサタンが鎖でつながれ 征服されるべき鎖だからだ! 平和を与える、決して疑わないように、「私たち」?

 

永遠に、アーメン。

聖書の中で「サタンは鎖でつながれるであろう」(黙示録20・2)とありますが、それは全人類がロザリオを唱える時だと思います。地球全体が。この日が来る時、サタンは征服されて、踏みつぶされるでしょう。ロザリオの「鎖」によって。

 

2.奇蹟は有害であり、現今では奇蹟は行われない

 

天界の秘義7290[]

 

 しかし内なる礼拝の中に、すなわち、仁慈と信仰との中にいる者たちの間には奇蹟は行われない、それはこれらの者たちには奇蹟は有害であるためである、なぜなら奇蹟は信念を強要し、強要されたものはとどまらないで消散してしまうからである。信仰と仁慈である礼拝の内なるものは自由の中に植えつけられねばならないのである、なぜならそうしたときにそれらは己がものとされ、またそのようにして己がものとされたものは止まるに反し、強制的に植えつけられたものは内なる人の外側に外なる人の中に止まるからである、それは何一つ内なる人の中へは、理論である知的観念によらなくては入らないためである、なぜならそこで[内なる人の中で](入ってくるものを)受ける基底は明るくされた合理的なものであるからである。ここから現今では奇蹟は行われないのである。それが有害であることは今までに述べたことから認めることができよう。なぜなら奇蹟は人間を強制して信じさせ、それはそうであるという考えを外なる人の中に固定させはするが、もし内なる人が後になってその奇蹟から確認したものを否定するなら、内なる人と外なる人との対立、衝突が生まれ、ついには奇蹟から派生している観念[考え]が消散すると、そこに誤謬と真理との連結が生まれ、かくて冒涜が生まれるからである。ここから礼拝の内なる物が明らかに示されている教会の中では奇蹟は現今いかに有害なものであるかが明白である。さらにこうしたことがトマスに対する主の御言葉により意味されている事柄である、

 

「トマスよ、あなたは見たので信じた、見ないで信じる者は幸いである」(ヨハネ20・29)。

 

かくて奇蹟を通して信じない者たちは祝福されているのである。

 

奇蹟は何の効果もない。

「もしかれらがモーセと預言者に聞かないなら、たとえたれかが死人からよみがえっても納得はしないであろう」(ルカ16・31)。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P340

 

‘87・9・23

 

♡ 配偶者よ、深く眠りこんだ人たちの声を聞いてはいけない、彼らは何も知らない、何も感じていない、何も見えていない、何も聞こえていない、この人たちは眠りこみ、完全に自覚が失せているので、当然です!

 

イエスは、この世について私に理解させなさいました。物質的で肉体的な世の中のことを。そして、もう一つの世界は目に見えなく、霊的なものなのです。

 

来なさい、私はイエス・キリスト、神の愛する子。 もしそう望んだなら、もっと多くの証拠を与えることもできよう、しかし私なりの理由によってそれを差し控えている、あなたに見えないまま道を案内することを 私は喜んでいる、それは私に栄光を与える ♡ それに、知恵が眼を眩ませている人たちにとっても教訓になることを望んでいる あなたに無心、素朴であってもらいたい ♡ この特別な方法で道を案内しているのは 私、主が豊かに与えることを 我が宗教的な霊魂たちが理解するためです ♡ 娘よ、私の超自然的なまざは 信じ難くはないとこの人たちに伝えなさい、どうして、私は神であり霊ではないか? 子どものように 信じなさい ♡ あなたが子どもたちに私のわざを見せたなら、こうして書きながら道を案内しているのが私であることを疑うだろうか? 無心でありなさい!

 

3.奇蹟には何らの効果もない

 

天界の秘義7290[]

 

ましてや、霊界から発している何らかの物が存在していることが承認されてはおらず、起こりはしても、自然に帰せられはしない種類の一切の物が否定されている現今では、その奇蹟の効果はないのである、なぜなら地上における神的なものの流入と統治に対する否定が遍く行き亘っているからである。それでもし教会の人間が現今神の奇蹟そのものを万が一見るにしても、かれは先ずそれを自然の中へ引き降ろし、そこでそれを汚し、後には幻影としてそれを斥け、果てはそれを神に帰して、自然に帰しはしない者を嘲笑するのである。奇蹟には何らの効果もないことはルカ伝の主の御言葉からもまた明白である―

 

もしかれらがモーセと予言者とに聞かないなら、たとえたれかが死人からよみがえっても納得はしないであろう(16・31)。

 

 

4.現今の人間はその見ないものを信じなくてはならない

 

天界の秘義5508[5]

 

 現今の人間はその見ないものを信じなくてはならないということは、ヨハネ伝の、トマスに対する主の御言葉から明白である―

 

 トマスよ、あなたはわたしを見たため、信じた、幸なるかな、見ないが、信じる者たちよ(ヨハネ20・29)。

 

 不意に起きる事柄は、換言すると、偶然または運に帰せられる事柄は神の摂理から起っていることを教会は実際承認はしているものの、それでも信じてはいないのである、なぜならたれが、その者が外観的には[明らかに]偶然に何かの非常な危険から逃れると、自分は神により守られたのであると言って、神にまた感謝をささげないであろうか。また同じくかれが名誉を与えられるとき、また富むときも、かれはそれを神から与えられた祝福と呼ぶのである。このように教会の人間は不意の出来事も摂理から起っていることを承認はしているものの、それでも信じてはいないのである。しかしこの主題については、主の神的慈悲の下にさらに多くのことを他の所で述べよう。

 

 

5.単に自然的な信仰

 

天界の秘義8078〔3〕

 

 単に自然的な信仰は内なる方法によらないで外なる方法により入り込んで来る信仰であり、例えばある事柄を目がそれを見たために、手がそれに触れたためにそうであると信じることから成っている感覚的な信仰といったものである。これは主がトマスに言われた信仰である、『トマスよ、おまえは見たために、信じたのである、見ないが、信じる者はいかに幸であろう』(ヨハネ20・29)、また単に或る事柄を単に奇蹟からそうであると信じることから成っている奇蹟の信仰といったものである―この信仰について前を参照されたい(7290番)―また自分が信頼している他の者が何かの事柄がそのように言っているという理由からそであると信じる権威による信仰といったものである。

 

 

天界の秘義8078〔4〕

 

 しかし霊的な信仰は内なる道と同時に外なる道によっても入ってくるものであり、それは内なる道により入ってくることによって信じられるようになり、かくて外なる道により入ってくるものにより確認されるようになるのである。信仰の霊的なものは仁慈の情愛〔仁慈に対する情愛〕であり、そこから善い用を求め、生活を求める真理の情愛〔真理に対する情愛〕であり、これらのものが信仰を霊的なものにするのである。内なる道により信仰が入ってくるのは、聖言を読むことにより、またその時主から明るくされることにより行われ、それはその情愛の性質に応じて与えられ、即ち、真理を知ることの中に求められている目的に応じて与えられるのである。

 

 

天界の秘義8078〔5〕

 

 この凡てから今単に自然的な信仰のいかようなものであるかを認めることが出来よう、またこの信仰は、霊的なものでないため、主に帰せられることは出来ないことを、即ち、主から発していると承認されることは出来ず、信じられることも出来ないことを認めることが出来よう、なぜなら主は真理と善の情愛〔真理と善に対する情愛〕を通して流れ入られるからである。(信仰は内なる情愛であることについては8034番を参照)。この信仰の中に在って、主から受け入れられることの出来る無垢の真理は無垢からそうであると信じられるものである。この凡てから、単に自然的な信仰は主に帰してはならず、その中にある無垢の真理を帰さなくではならないということをいかように理解しなくてはならないかが今や明白である。

 

 

 

6.見ないものは信じない

 

天界の秘義6839

 

このことは聖言の文字の意義はその内意に関連していかようなものであるかを示しており、また文字の意義の内容は、単純な者から理解されるようにそれ自身を彼らに適応させているといった性質を持っていることを示しているのである。単純な者は単にそれが〔文字の意義が〕現れているように信じるのみであって、現れていないものは信じはしないのである、なぜなら彼らは事柄の内部へ入ることが出来ないからである、それで聖言がその文字の中でそうした性質を持っていなかったなら、それは受け入れられはしなかったであろう。感覚的な物の中にいて、世の事柄に心を奪われている者は決して内的なものを把握はしないのである。彼はその信じなくてはならない物を見ようと欲し、その見ない物は謂わば彼には無縁のものであり、それについて彼自身から考えている時は、それを否定に価した、または兎も角疑って見るに価した事柄として斥けてしまうのである。

 

 

 

 

7.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P143

 

誰もがキリストをその目で見る必要はない。キリストは、必要に応じてご自身を示される。キリストはわれわれの霊魂の中でご自身を現わすことをお求めである。目を楽しませるのではなく、霊魂を楽しませることを願っておられる。主は、祈りを通してわれわれの霊魂に対して御姿をお示しになると繰り返し申し上げてきた理由はここにある。