愚鈍
わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。(ヨハネ20・29)/
1.聖書
2.愚鈍
3.愚劣の化身
1.聖書
民数記14・11
主はモーセに言われた。「この民は、いつまでわたしを侮るのか。彼らの間で行ったすべてのしるしを無視し、いつまでわたしを信じないのか。」
詩篇78・17−22
彼らは重ねて罪を犯し
砂漠でいと高き方に反抗した。
心のうちに神を試み
欲望のままに食べ物を得ようとし
神に対してつぶやいて言った。
「荒れ野で食卓を整えることが神にできるのだろうか。
神が岩を打てば水がほとばしり出て
川となり、溢れ流れるが民にパンを与えることができるだろうか
肉を用意することができるだろうか。」
主はこれを聞いて憤られた。火はヤコブの中に燃え上がり
怒りはイスラエルの中に燃えさかった。
彼らは神を信じようとせず
御救いに依り頼まなかった。
詩篇92・6,7
主よ、御業はいかに大きく
御はからいはいかに深いことでしょう。
愚かな者はそれを知ることなく
無知な者はそれを悟ろうとしません。
シラ書〔集会の書〕27・11−15
信仰深い人の話には、常に知恵がある。
愚か者は、月の形のように変わる。
良識を欠く者たちとは時を過ごすな。
思慮に富む人たちとは、長くいるようにせよ。
愚か者の無駄口は不快感を与え、
彼らは、罰当たりなことを笑い楽しむ。
みだりに呪う人の話には、身の毛がよだち、
彼らの言い争いには耳を覆いたくなる。
高慢な者たちの争いは流血ざたとなり、
彼らのののしり合いは耳に不快だ。
マルコ16・14
その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。
ルカ24・25−27
そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
ヨハネ3・12
わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。
ヨハネ4・48
イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。
ヨハネ20・27−29
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」
2.愚鈍
天界の秘義2568[4]
それで二つの原理が在り、その一つは愚鈍と狂気とに導いて行くが、他は理知と知恵に導いて行くのである。前の原理は凡ゆる物を否定することであり、または自分らは自分らが感覚により把握し、または認識することが出来るものにより確信しない中はそれらを信じることは出来ないと心の中で言うことであり、これは愚鈍と狂気に導いて行く原理であって、否定的原理と呼ばれねばならないのである。
天界の秘義3938[5]
しかし誤謬と悪とはこれらの歓喜を受け、窒息させ、歪曲し、そこから愚鈍と狂気とが発生してくるのである。
天界の秘義4198
主の現存を善と真理との中に受け入れる者たちは理知と智慧の生命の中にいるが、しかしその現存を善と真理との中に受け入れないで、悪と誤謬の中に受け入れる者は狂喜と愚鈍の生命の中にいるが、それでも理解して、賢明になる能力の中にいるのである
天界の秘義4220
身体の生命の中で主の神的なものを、すなわち、全人類に対する主の愛を受け入れた者たちは、従って隣人に対する仁慈を受け入れた者たちは、また主に対する相互的な愛を受け入れた者たちは他生では理知と知恵とを与えられ、また表現を絶した幸福を与えられるのである、なぜなら彼らは天使となり、真に人間となるからである。しかし身体の生命の中で主の神的なものを受け入れなかった者は、すなわち、人類に対する愛を受け入れず、まして主に対する相互的な愛を受け入れはしないで、自分自身のみを愛し、実に礼拝もし、従って自己と世のものであるものを自分の目的とした者は、他生では、そこでしばらく生活した後で、理知をことごとく剥奪され、徹底的に愚物となり、そこで愚鈍な奈落の者の仲間となるのである。
天界の秘義6865〔2〕
霊的な教会の者たちを主として悩ますものは誤った記憶知である、なぜなら彼らは善から真理を認めることは出来ないで、ただ教義から真理の記憶知を得ているに過ぎず、このような者は記憶知に取り憑かれて非常に悩まされるからである。なぜなら記憶知は最も全般的な容器であって、真理がその中へ入れられてそれを透明なものとなし、かくてそれを気づかれないものにする迄は、時には真理に反しているように見えるからである。更に記憶知は感覚の迷妄〔妄想〕に満ちていて、その迷妄は、教義から単なる知識の中にはいるが、善から真理を認識していない者らによっては消散されることが出来ないのであり、そのことは主として、世の光が彼らを支配しているためであり、その光は天界の光がその中へ流れ入らない限り、澄明に見えるが、天界の光が流れ入るや否や、光に代って不明確なものになるのである。ここからこれらの人物は世の事柄には明るくされて、利口でもあるが、天界の事柄では暗く、また鈍いのである。
天界の秘義7298
『水蛇』の意義は妄想から発した誤謬であり(7293番を参照)、ここでは真理を知覚する点で鈍くなることである、なぜなら妄想により真理が知覚されなくなるに応じて、愚鈍になるからである。
3.愚劣の化身
天界の秘義4221
わたしはそれが事実であることを知るために、わたしはそのように生きた者たちと語り、また同じくわたしが身体の生命の中で親しくしていた者とも語ることを許されたのである。この人間が地上で生きている間に、その者が隣人に行なった善はことごとくその者自身のために、すなわち、その者自身の名誉と利得のために行われたのである。こうした目的に仕えるようにされることのできなかった者たちを凡てかれはさげすみ、憎みさえもしたのである。かれは実に口では神を告白したものの、心では神を承認しなかったのである、わたしがかれに語ることを許されると、恰も形体的なものであるかのようなスフィアがかれから発散したのである。(中略)かれはそこでは下劣な者らの間に現れたが、わたしはこうした性格の人物はその思考と情愛の方面ではこの世の者はたれ一人それ以上には粗雑で、愚鈍にはならないほどにも益々粗雑に愚鈍になってゆくと話されたのである。かれらは尻の下に住まっており、そこにかれらの地獄が存在しているのである。その同じ場所から以前ある一人の人物が(霊としてではなく、甚だしく形体的な人間として現れるように)現れたが、その中には愚劣の化身と言ってよいほどに、人間固有のものである理知の生命はほとんどなかったのである。これらの例から隣人に対する愛をもたない、また国家に対する愛も持たない、ましてや主や王国に対する愛を持たない、ただ自己を愛するのみで、凡ゆる物の中に自分自身のみを顧慮し、自分自身を神として崇拝さえもし、また他の者からもそのように拝されることを欲し、そうした意図をその行なっている凡ゆるものの中に抱いている者はいかような種類の霊になるかが明白となったのである。