狂気

 

良心を持たない者はこのようにとりつかれてしまっている愚鈍

 

 

1.スウェーデンボルグ

2.デボラ

3.マリア・ワルトルタ

4.現代の狂気

5.アグレダのマリア

7.誇大妄想狂

8.発狂

9.ベルナデッタ

10.彼自身が神であると想像し

11.自然的な人は人間となる能力を持っている、この能力を使わないなら思考は狂っている

 

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義775

 

 もし霊的なものが自然的なものから万が一にも後退してしまうならば、自然的なものは無くなるであろう。凡ゆる物の起原は以下のようになっている、すなわち、すべての物は、全般的にも、個別的にも、主から発している。主から天的なものが発し、主から天的なものを通して霊的なものが発し、霊的なものを通して自然的なものが発し、自然的なものを通して形体的なものと感覚的なものとが発しているのである。そして、それらは凡てこのようにして主から発しているように、また主から存続している、なぜなら良く知られているように、存続は絶えず存在するようになることであるから。自然を拝し、そこから事物の起原を引き出してくる者のように、事物が存在し、生起するに至ることについてこれとは異なった考えを抱いている者らは、森の野獣の幻想でも彼らよりは遥かに健全であると言ってもよいほどにも狂った原理に立っているのである。自分は知恵では他の者に勝っていると自分自身に思われている極めて多くの者はこうした者である。

 

 

 

天界の秘義1630

 

 しかし経験は感覚の事柄ではあるが、しかし内的な感覚のものであるため、彼らは以下のようにもまた言われた、即ち、それでもあなたたちはあなたたちが把握しないからといって疑ってはならない、なぜなら把握されるもの以外には何ごとも信じられないなら、内的な性質のものについては何ごとも信じられないし、ましてや永遠の生命に属したものについては何ごとも信じられはしないのである、と。ここから私たちの時代の狂気が発しているのである。

 

 

 

 

天界の秘義1675[7]

 

 自己への愛から発した誤謬の信念と世への愛から発した誤謬の信念があり、自己への愛から発した信念は極めて醜悪であるが、世への愛から発した信念はそれ程醜悪ではない。自己への愛から発した誤謬の信念は愛の天的なものに対立しているが、世への愛から発した誤謬の信念は愛の霊的なものに対立している。自己愛から発した信念は凡ゆるものを支配しようとする欲望を伴っていて、抑制が緩和されるに応じて、示されたことではあるが、宇宙を、実にエホバ御自身をさえ支配しようとすら欲するほどにも突進して行くのである。それでこうした種類の信念は他生では容赦されはしない。しかし世への愛から発した信念はそれ程には突進しないで、単に自分の分に満足しないという狂気に至るに過ぎないのである。それは天界の喜びを空しく装って、他の者の財産を自分のものにしようと望みはするが、主権を行使しようという気質はさほど持ってはいない。しかしこれらの信念の間に存在している相違は無限である。

 

 

 

天界の秘義1680

 

それが人類に絶えずとりついて、これを悩ませたのである。奈落の者らは人間各々を破壊する以外には何ごとも欲求してはいないのであり、彼らは他の者を責め苛む快楽にまさった快楽は何ら認めはしないのである。

 

 

 

天界の秘義1680[2]

 

他生における霊たちはすべて以下のように区別されている、即ち、他の者に対して悪を欲している者らは奈落のまたは悪魔的な霊であるが、しかし他の者に善を欲している者たちは善良な、天使的な霊である。人間は自分がどちらの者の間にいるかを、奈落の者の間にいるか、または天使的な者の間にいるかを知ることが出来るのである、即ち、もし彼が隣人に悪を意図し、彼について悪のみしか考えず、また実際にそれを行うことが出来る時、それを行って、そのことに歓びを感じるならば、彼はその奈落の者の間にいるのであり、他生ではまた奈落の者となるが、それに反して隣人に善を意図し、隣人について善以外には何ごとも考えず、また実際にそれを行うことが出来るとき、それを行う人間は天使的な霊たちの間にいるのであり、他生ではまた天使となるのである。これが両者を区別する特質である。各自このことにより自分自身を点検して、自分はいかようなものであるかを知られよ。

 

 

 

天界の秘義1914[]

 

認識を持っていた最古代教会の父祖たちは外的なまたは自然的な合理的なものから考えたのである。認識を持たないで、良心をもっていた古代教会の父祖たちは外的なまたは自然的な合理的なものから考えたのである。しかし良心を持たない者はすべて、合理的なものを持っているように見えるけれど、それを持っていないからには、合理的なものからは些かも考えはしないで、感覚的な、形体的な自然的なものから考えるのである。良心を持たない者は合理的なものから考えることが出来ない理由は、彼らは、今し方言ったように、良心を持っていないということである。合理的な人間とは信仰の善と真理を考える者であり、それに反して考える者では決してない。悪と誤謬とを考える者らはその思考[考え]において狂っており、それで合理的なものは決して彼らには述べることは出来ないのである。

 

 

 

天界の秘義1936[]

 

たれでも知恵は些かも自分自身から発してはいないと信じるに比例して、その者は賢明になるということ、知恵が自分自身から発していると信じ、かくして深慮を自分自身に帰するに比例して、その者は益々発狂するということもまた神的な真理である。この事をまた合理的なものは、それ自身から発していないものは無意味なものであると考えているため、否定してしまうのである。こうした無数のものが存在している。これらの僅かな例からでさえも合理的なものは信じてはならないことを認めることが出来よう、なぜなら合理的なものは迷妄[妄想]と外観の中にあり、それでそれは迷妄と外観とを剥ぎ取られた真理を斥けてしまい、それがそうしたことを行えば行うほど、益々自己愛とその幾多の欲念に陥り、益々理論に陥り、また信仰については誤った原理に陥るのである(前の1911番に引用した例を参照されたい)。

 

 

 

天界の秘義1944[2]

 

善と真理とが心で否定され、またその善と真理とがそれについて聞くことによって知られているに過ぎないのに、その善と真理とに反抗して論じることは、合理的なものを持っていることではない、なぜなら何らの抑制もなしに凡ゆる邪悪に向って公然と突入する多くの者でもそれを行うことが出来るからである。唯一の相違は、自分は合理的なものを持っていると想像はしているが、それを持っていない者らは、その談話の中に一種の礼儀を守っていて、尊さを装って行動はするが、しかし彼らは法律を恐れる恐怖、財産、名誉、名声、生命を失いはしないかとの恐怖といった、外なる束縛により、そうしたものの中に縛りつけられているということである。もし外なるものであるこれらの束縛が仮にも取り去られるとするなら、これらの人間のある者は、何の抑制も持たないで邪悪な行為に突入する者よりも更に狂ってたわ言をまき散らしており、それで単にその者が論じることが出来るということで合理的なものを持っているとは言われることは出来ないのである。事実は合理性を持たない者らは、それを持っている者たちよりもはるかに巧妙に感覚と記憶知の色々なものから普通論じているということである。

 

 

 

天界の秘義1944[3]

 

このことは他生における悪霊らから極めて明白である、彼らはその身体の中に生きていた間はひときわ合理的なものであるとして考えられたものの、他生ではすべての者に普通起こってくるように、彼らに端正に論じさせ、生命の尊さを偽装させた外なる束縛が取り去られると、彼らはこの世で明らかに狂っている者よりも更に狂うのである、なぜなら彼らは戦慄も恐怖も、恥辱も無しに凡ゆる邪悪へ突入するからである。この世に生きている間に合理的なものであった者たちはそうではない、なぜなら外なる束縛が彼らから除かれると、彼らは内なる束縛を―良心の束縛を―持っていて、その束縛により主は彼らの思考を彼らの合理的な原理であった真理と善との法則に結びつけられていたため、彼らはさらに健全なものとなるからである。

 

 

 

天界の秘義2568[4]

 

それで二つの原理が在り、その一つは愚鈍と狂気とに導いて行くが、他は理知と知恵に導いて行くのである。前の原理は凡ゆる物を否定することであり、または自分らは自分らが感覚により把握し、または認識することが出来るものにより確信しない中はそれらを信じることは出来ないと心の中で言うことであり、これは愚鈍と狂気に導いて行く原理であって、否定的原理と呼ばれねばならないのである。

 

 

 

天界の秘義2584

 

信仰の教義が神的真理から、即ち、聖言から顧慮されると、その時は理性と記憶との一切のものはそれを確認するが、しかしそれが人間的なものから、即ち、理性と記憶知から顧慮される時は、それはそうしたものからは確認されはしないのである。なぜならその時は善は一つとして、また真理も一つとしてみごもりはしないからである。なぜなら聖言からそれを顧慮することはそれを主から顧慮することであるが、それに反し理性と記憶知からそれを顧慮することは人間からそれを顧慮することであるから。前のものからは理知と知恵がことごとく発し、後のものからは狂気と愚鈍とがことごとく発している。

 

 

 

天界の秘義2588[9]

 

 感覚により把握しない物を何一つとして信じようとしないで、遂には何物をも信じなくなり、自らを盲目にしてしまった者らは、古代『知識の木の蛇』と呼ばれたのである。なぜならこうした者らは感覚的な物とその迷妄[妄想]から大いに論じ―そうしたものは容易に人間に把握されて、信じられもするのであるが―かくして多くの者をたぶらかしたからである(195、196番参照)。他生ではこのような者は以下の事実により他の霊たちから即座に区別されている。即ち、彼らは信仰の凡ゆる事柄についてそれがそうであるか否かと論じ、それがそうであることを数限りがないほど幾度も示されるにしても、依然提供されている凡ての証明に対し否定的な疑惑をもち出して、しかもそれを未来永劫に至るまでもやり続けようとするのである。そうした理由から彼らは常識を持っていない程にも、即ち、善と真理の何であるかを把握することが出来ない程に盲目になっているが、それでも彼ら各々は自分が宇宙のいかような者よりも賢明なものであると考え、知恵は神的なものを空しい空ろなものにして、それを合理的なものから引き出すことが出来ることに在るとしているのである。この世で賢明なものであると尊重されている多くの者はとりわけこうした性格を持っている。なぜならたれでも才能と知識を与えられて、否定的なものの中におればおるほど益々その者は他の凡ての者にもまさって発狂するからである。それに反したれでも才能と知識とを与えられて、肯定的なものの中におればおるほど益々その者は賢いものになることが出来るのである。記憶知により合理的な能力を培うことは人間には決して拒まれてはいないが、しかし禁じられていることは聖言に属している信仰の諸真理に反抗して自らを頑なにすることである。

 

 

 

天界の秘義3643

 

前に言ったように他生では光はその中に理知を持ち、熱はその中に愛を持ち、暗闇は狂気を、冷寒は憎悪を持っているのである。

 

 

 

天界の秘義3646

 

なぜなら人間の霊魂は更に高い度の中に、更に完全な状態の中に在って、上を見上げ、かくて天界と主とを見上げることが出来、それで主は彼らを御自身に接合させて、彼らに永遠の生命を与えられることが出来るのであるが、しかし獣の魂は下を見、かくて地の物のみを見ることしか出来ず、それで専らそのような物に接合されることが出来るといったものであり、それ故また彼らはその身体とともに死滅してしまうのである。

 

 

 

天界の秘義3646[3]

 

 極めて多くの人間が自分の生命と獣の生命とを区別する方法を知っていない理由は、彼らも獣と同じように外なる物の中におり、心では専ら地的な、身体的な、世的な物についてのみ関心を持っているということであり、このような人物は、自分自身が生命の方面でもまた獣のようなものであると信じていて、自分も死後は獣のように消えてなくなると考えているのである、なぜなら彼らは霊的な天的なものとは何であるかについては、そうしたことを顧みないため、知らないからである。ここから現代の狂気が生まれ、人間は自分自身を獣にたとえて、内なる区別を認めていないが、しかし天的な霊的な事柄を信じ、または霊的な光が流れ入って働くのに甘んじる者は全く異なったことを見ており、同じく自分はいか程獣にまさっているかを見てもいるのである。しかし獣の生命は主の神的慈悲の下に切り離して取扱うことにしよう。

 

 

 

天界の秘義3938[5]

 

しかし誤謬と悪とはこれらの歓喜を受け、窒息させ、歪曲し、そこから愚鈍と狂気とが発生してくるのである。

 

 

 

天界の秘義4198

 

主の現存を善と真理との中に受け入れる者たちは理知と智慧の生命の中にいるが、しかしその現存を善と真理との中に受け入れないで、悪と誤謬の中に受け入れる者は狂喜と愚鈍の生命の中にいるが、それでも理解して、賢明になる能力の中にいるのである

 

 

 

天界の秘義5070

 

 義しい者に与えられる永遠の生命は善から発している生命である。善は、生命そのものであられる主から発しているため、それ自身の中に生命を持っている。主から発している生命の中には知恵と理知が存在している、なぜなら主から善を受けて、そこから善を意志することは知恵であり、主から真理を受け入れて、そこから真理を信じることは理知であり、この知恵と理知とを持っている者は生命を持ち、そしてこのような生命には幸福が結合しているため、永遠の幸福もまた『生命』により意味されているからである。

悪の中にいる者らの場合はそれに反している。これらの者も生命を持っているかのように―特にこれらの者自身には―実際見えはするものの、しかしそれは聖言では『死』と呼ばれているような生命であり、また霊的な死である、なぜなら彼らはいかような善からも賢いのではなく、またいかような真理からも理知的なものではないからである。このことはたれであれその事柄を考察する者から認められることが出来よう、なぜなら善とその真理の中に生命が在るため、悪とその誤謬の中には、それらは対立したものであって、生命を消滅してしまうため、生命は在りえないからである。それで問題の人物は狂人に属しているような生命以外の生命は持たないのである。

 

 

 

天界の秘義7324〔4〕

 

『水の池』は、その対立した意義では、誤謬から発した悪を意味し、またそこから必然的に生まれてくる狂気を意味していることは、イザヤ書に明らかである―

 

 わたしはバベルから名と残りのものとを、息子と息子の息子を断ち去ろう、わたしはそれをさんかのごいの嗣業、水の池となそう(イザヤ書4・22、23)。

 

『池』はその対立した意義では誤謬から発した悪を、そこから必然的に生まれてくる狂気を意味しているため、それはまたそうしたものに支配されている地獄を意味しているが、しかしその場合はその池は黙示録19・20、20・10、14、15、21・8におけるように、『火の湖』、『火と硫黄との燃えている池』と呼ばれている。『火と硫黄』は自己への愛とそこから派生して来る欲念とを意味している、なぜなら自己への愛とその欲念とは火以外の何ものでもなく―元素的な火ではなくて、霊的な火から発している火であり、その霊的な火が人間を生かしているからである。愛が生命の火であることはそのことを考察する者には明らかである。この火が諸天界に在る聖い火と地獄の火により意味されているものであり、元素的な火はそこには存在しないのである。

 

 

天界の秘義9105

 

土星の霊たちは、私たちの地球の霊らと話した後で、そのいる所から来ている媒介の霊を通して私と話したが、以下のように言った。自分たちはあなたたちの地球から霊たちが再三自分たちのもとへ来て、自分たちはいかような神を拝していますかと自分たちに尋ねます。自分たちはあなたの地球の霊たちがこうした詮索をするのを認めると、あなたらは気が狂っていると答えます。なぜなら宇宙の凡てのものに対してはただ一人の神しかおられない以上、たれかがいかような神を拝するかと尋ねる以上に狂ったことは在り得ないからです。彼らはまた以下のようにも言った。あなたらは主がただ一人の神であられ天界全体を支配され、従って世界全体を支配しておられることを知っていないということで、更に狂っています、なぜなら世界は天界を通して支配されているため、天界を支配される方は世界もまた支配されるからです、と。

 

 

 

天界の秘義10227

 

主に凡てを帰している者たちは他の者よりも賢明であるが、それは知恵を構成している真理と善との凡ゆるものは天界から、即ち、天界の主から流入しているためである。主に凡ゆるものを帰することにより人間の内部は天界に向かって開かれるのである、なぜなら真理と善とは一つとして人間自身からは発していないことがそのことにより承認され、このことが承認されるに比例して、自己への愛が去り、自己への愛とともに誤謬と悪から発した暗闇も去ってしまうからである。またそれに比例してその人間は無垢へ、主に対する愛と信仰へ入り、そこから神的なものとの連結が生まれ、神的なものとの連結から流入と照示[明るくされること]が生まれてくるのである。

 

 

 

天界の秘義10227[3]

 

賢明になる能力により記憶知から真理と善とについて論じる能力が意味されているのではなく、また自分の好むことを何なりと確認する能力も意味されてはおらず、真で善いものを識別し、適当なものを選んで、それを生命の用に適用する[用いる]能力が意味されているのである。主に凡ゆるものを帰している者たちは識別し、選び、適用するに反し、主に帰しはしないで、自分自身に帰する者らは単に真理と善とについて論じる方法を知っているに過ぎないのである、彼らはまた他の者から発しているものを除いては何ごとも認めもしないが、そのことも理性から発しているのではなくて、記憶の活動から発しているのである。

彼らは真理そのものを認めることが出来ないため、外側に立って、何なりとその受け入れるものをそれが真であれ、誤りであれ、確認するのである。記憶知から学者流にこうしたことをすることの出来る者らは世から他の者以上に賢明なものであると信じられているが、しかし彼らが凡ゆるものを彼ら自身に帰すれば帰する程、かくて自分自身から考えることを愛すれば愛する程、益々発狂してしまうのである、なぜなら彼らは真理よりもむしろ誤謬を、善よりはむしろ悪を確認し、しかもそれは彼らが世の妄想と外観以外のいかような源泉からも光を得ておらず、従って彼らは天界の光から分離した、自然的な光と呼ばれる彼ら自身から光を得ており、その光は、そのように分離すると天界の諸真理と諸善については暗闇そのものとなるためであるからである。

 

 

 

真の基督教208

 

彼はその霊的な意義を破壊する惧れがあるのは、彼はその知っている僅かな相応によって霊的な意義を歪め、それに強いて誤ったものを確認させ、かくして彼は真理に暴行を加え、従ってその神的真理の住む天界に暴行を加えるからである。それ故、もし何人でも主の助けを得ないで、その意義を発見しようと欲するならば、天界は彼に閉ざされ、彼はその時真理を一つとして認めなくなるか、或いは霊的狂気に陥るかするのである。

 

 

 

霊界日記1752

 

地上で或る人物たちにより経験される幻が在り、彼らは自分らは多くの驚くべき光景を見ていると言いもし、そのことを誇ってもおり、彼らはまた幻視者とも呼ばれている。こうした種類の幻は以下のようなものである、即ち、何であろうと、何らかの物体[対象]が示されると、或る霊共はそれに幻想[妄想]により何らかの外観を生みつけるのであり、例えば、一条の雲が、または何らかの月光が夜間見られると、その際霊共は動物であれ、幼児であれ、または何か奇怪なものであれ、何か特殊なものを表象してみせ、その表象されたものの中に彼の心を集中させておき、かくて彼の想念を集中させておき、その想念がそうした種類のものの中に集中されていると、彼は自分は実際そうした物を見ている、と思い込んでしまうのである。このようにして非常に多くの幻が言いふらされはするが、しかしそれらは迷妄[妄想]以外の何ものでもないのである、しかしこうした物が幻想に大いにふけり、かくて心の病気の下で苦しんでいる者たちにしばしば起こるのであり、その心の病のためにそうした物を信じるようにもなるのである。

 

 

 

霊界日記5936

 

宗教問題について男が考えるように考え、そのことについて大いに話す女たちは、ましてや集会で説教する女たちは、情愛的なものである女としての性質を破棄してしまうのであり―そのため女たちは結婚した男と共にいなくてはならないのであるが―彼らはまた物質的なものとなり、かくて情愛は死滅し、その内部は閉じられてしまうのである。彼らはまた、その思考の方面で、発狂する傾向を助長させはじめるが、そのことは、情愛がその際破壊されてしまって、そのため知的なものが狂うようになるため、起るのである。実に外なる形では、依然彼らは他の女のように現れることが出来るのではあるが。約言すると、彼らは最後の度における感覚的なものとなるのである。「女は家庭に属しており」、説教に携るところでは異なった性質のものとなってしまうのである。

 

 

 

天界と地獄581

 

 地獄で拷問が主から許されている理由は、もし許されないと悪は抑制されて、征服されることが出来ないということである。彼らを抑制し、征服し、かくて奈落の輩を拘束させておく唯一の方法は刑罰の恐怖である。それ以外に方法はない。なぜなら刑罰と拷問との恐怖がないなら、悪は爆発して狂気となり、丁度法律や刑罰のない地上の王国のように、すべては破滅してしまうからである。

 

 

 

遺稿 神学論文集P108

 

ベイエル博士に宛てたイマヌエル・スエデンボルグの第十番目の手紙から

 

霊界の霊たちの間には自然的な病気は在りませぬため、いかような病院も在りません、しかしそうしたものに代って霊的な発狂者の家が在り、その中に理論的に神を否定している者らがおり、他の家には現実に神を否定した者らがおります。世では白痴であった者らは、他生へ入って来ると、同様に愚物であり、白痴でありますが、彼らの外なるものが除かれ、その内なるものが開かれる時―このことはすべての者に起りますが―その際はその者らの資質とその者らの前の生活とに一致した理解が与えられます、なぜなら真実の発狂と狂気とは外なるもの、または自然的なものの中に宿ってはいますが、内なる、または霊的な人の中には宿っていないからです。

 

 

 

啓示による黙示録解説387

 

悪魔の国は自己愛から発した主権[統治]への愛にいて、そこから愚劣な者となっている者らから成っている。なぜならこの愛は天的な愛に対立し、その愚劣さは天的な知恵に対立しているからである。しかし悪鬼の国は自分自身の理知を誇って、そこから主権[支配]を求める愛の中におり、かくて狂っている者らから成っている、なぜならこの愛は霊的な愛に対立し、その狂気は霊的な理知に対立しているからである。愚劣と狂気とにより天的な、霊的な事柄における愚劣と狂気とが意味されている。

 

 

 

啓示による黙示録解説538

 

『七つの頭を持ち』は、誤謬化され、冒涜された聖言の諸真理から発した狂気を意味している。『頭』により知恵と理知とが意味され、その対立した意義では、狂気が意味されるが、ここの『七つの頭』により、それらは竜のものであったため、元来、誤謬化され、冒涜された聖言の諸真理から発した狂気が意味されている、なぜなら『七』は聖い事柄について述べられ、その対立した意義では、汚れた事柄について述べられているからであり(10番)、それで、彼の頭には『七つの冠りもの』が見られ、『冠りもの』により聖言の諸真理が意味され、ここでは誤謬化され、冒涜された聖言の諸真理が意味されていることが生まれている。

 

 

 

神の摂理281

 

もし人間はその生命の愛の諸々の歓喜に従って考えることを許されないなら、いかようになるかを今述べよう。彼は最早人間ではなくなるのである。なぜなら彼は人間性を構成する自主性と合理性の二つの能力を失い、その悪の歓喜は彼の内なる心に満ちて戸をこじ開け、かくて彼はそうした性質の事柄を語ったり、為したりせざるを得なくなり、かくて彼はただ独りいる時のみでなく、全世界の前でも、狂人のように振舞って、遂にはその裸身を隠す分別もなくなるからである。これを防ぐため、彼はその遺伝悪を考え、意志することを許されてはいるが、しかしそれを言葉または行為により表現することは許されておらず、またその間に彼は社会的な、道徳的な、霊的な事柄を学び、これらの物もまた彼の思いへ入って狂気を取り除き、彼はこの知識により主により癒されはするが、しかし神をまた承認してい、その狂気に反抗することが出来るようにその助けを願わない限り、ただ口を警戒する方法を知る以上には癒されないのである。

 

 

 

霊界日記148

 

 

霊界日記2225

 

霊的な観念の中ではその事実は更に良く認めることが出来るのである、彼らは彼ら自身から論じ、考えはするものの、それでも彼らの一切のものは主の許しから、または譲歩から発しており、彼らは彼ら自身では何一つ決して学んではいない幼児よりも愚鈍で発狂しているのである。1748年〔60歳〕6月6日

 

 

 

新エルサレムの教義51

 

それ自身においては否定である懐疑的な否定に留まっていて、自分は科学的なものにより説得されない限りは、信じはしないと言う者は決して信じはしない(2094、2832番)、

 

このように振舞う者は教会と天界に属した物については狂ってしまう(128―130番)、

 

 

 

2.デボラ

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/1巻上P160

 

世界は精神的に病気ですので、その肉体も病んでいます。(中略)

エイズの病人たち皆に向かって言います。主なる神様は非常に遺憾に思っておられますので、あなた方の罪の武器そのものによってあなた方を罰されているのです。これはおん父の正義のもっとも明らかな代表となるしるしです。我が子の杯はすでに溢れるばかりで、その果てしない憐れみは終わりをつげようとしています。

 

 

 

3.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P36

 

 だがわたしは誓って言う。わたしはこの血と呻きを、あなたたちの永遠の責め苦にするだろう。あなたたちは血を食らい、吐き出し、その血のなかに溺れ、あなたたちの霊魂は発狂するに至るまでにあの喘ぎ、あの呻きに耳をつんざかれるだろうし、あなたたちの犯した数知れぬ罪をあなたたちに対して叫び、あなたたちを呪う数知れぬ亡霊に執念深く取り憑かれるだろう。あなたたちはこれを、虚偽と残忍さの王であるあなたたちの父が待ち受ける所で受けるだろう。

 ではあなたたちのあいだのどこに、祭儀を執り行なう教皇、司祭はいるのか? あなたたちは死刑執行人であって、司祭ではない。そこにあるのは祭壇ではない。死刑台だ。それは生贄ではない。冒涜だ。それは信仰ではない。涜聖だ。

 

 

 

4.現代の狂気

 

 

天界の秘義5116[5]

 

 彼らの中でたれが、木や他の植物が花を咲かせているのを見て、それが今果実または種子を生み出しつつあることが、いわば、そのものの歓びとなっていることを考えるであろうか。彼らは、花が先ず咲き、それがその胸の中に果実または種子の最初のものを持つまでは咲き続け、そのことによってその最初のものの中へその液汁を運び入れていることを認めるが、もし彼らが人間が再び生まれることまたは再生について多少なりと知っているなら(或はむしろ、知ろうと願うなら)、彼らはそのように似ていることからその花の中に再生以前の人間の状態を表象するものを認めるであろう、即ち、人間はその時理知と知恵との諸善を生命の中に植えつけようとする、即ち、実をつけようとする努力の中にいるため、人間もその時同じように理知と知恵との善から花を咲かせることを、即ち、内的な歓びと美との中に在ることを認めるであろう。この状態はこうした性質のものであることは知られることさえも出来ない、なぜならこのように表象されている内的な歓びと美との性質は専ら世への愛の喜びと自己への愛の歓喜の中にいる者らには全く知られていないからである。こうした喜びと歓喜のため内的なものであるその喜びと歓喜とはこのような人物には全く喜ばしくない、不愉快なものとなっているため、彼らはそれを嫌悪し、その結果それを無意味なもの、または無価値なものとして斥け、それでそれを否定すると同時に、霊的なものと天的なものとが有意義なものであることも否定してしまうのである。ここから、知恵であると信じられている現代の狂気が生まれているのである。

 

 

 

5.アグレダのマリア

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P118

 

 手仕事の間も心の中で主にお願いし続けました。偉大なる女王は、先駆者聖ヨハネの産着や布団を縫いました。母である聖エリザベトは、この幸運を我が子のために謙遜に頼んだのです。聖マリアは驚くべき愛と謙遜で従姉妹の聖エリザベトに従いました。謙遜さに於て聖マリアは誰にも負けませんでした。永遠の御言葉の教えを実践したのです。御子は真の神でありながら僕になり(フィリッピ2・6)、聖マリアは神の御母、全被造物の女王でありながら、最も低い人間の召し使いになり、生涯、召し使いで居続けました。この天の物語は、我々の誇りに対する戒めです。私たちは世間の評判を気遣い、理性をほとんど全部なくします。世間から名誉を受けなくなると、理性を完全に失い、気違いになります。

 

 

 

7.誇大妄想狂

 

 

真の基督教661

 

「君は誇大妄想狂に罹っていることを悟らないか」 彼は答えた。「我々は凡て我々の偉大さを確信しているのに、君は如何してそのようなことを語り得るのか。」 我々はこれを聞くと、繰返し彼を非難することの無益であることを認めた。

 

 

 

8.発狂

 

 

天界と地獄481

 

遂に彼らは発狂さえする、それで彼らはそれを避けて、洞くつやほら穴に、悪から発した誤謬に比例して奥深く身を隠している。

 

 

 

天界と地獄482

 

そうした理由から彼らの確信している信仰の光に天界の光線が輝くや否や、その光は消滅するのみでなく、暗黒となって、その中では誰も自分自身が見えなくなり、それと同時に内部も暗くなって全く何事も理解せず、遂には誤謬から発狂してしまうのである。

 

 

 

霊界日記5936

 

宗教問題について男が考えるように考え、そのことについて大いに話す女たちは、ましてや集会で説教する女たちは、情愛的なものである女としての性質を破棄してしまうのであり―そのため女たちは結婚した男と共にいなくてはならないのであるが―彼らはまた物質的なものとなり、かくて情愛は死滅し、その内部は閉じられてしまうのである。彼らはまた、その思考の方面で、発狂する傾向を助長させ始めるが、そのことは、情愛がその際破壊されてしまって、そのため知的なものが狂うようになるため、起るのである。実に外なる形では、依然彼らは他の女のように現れることが出来るのではあるが。約言すると、彼らは最後の度における感覚的なものとなるのである。「女は家庭に属しており」、説教に携るところでは異なった性質のものとなってしまうのである。

 

 

 

9.ベルナデッタ

 

 

ベルナデッタ/魂の日記P24

 

聖なる浄配イエズスは、目立たない、隠れた生活を愛する心を与えてくださいました。主はしばしば、主にすべてを犠牲としてささげ尽くすまで、わたしの心は決して安らぎを知らないであろうといわれました。また、私自身、自分の生き方をはっきりとさせることができるために、死を迎えるときには、イエズス、しかも十字架に釘づけられたイエズス以外に慰め主はないということを、たびたび思い起こさせてくださいました。主だけが忠実な友。冷たくなった指で主の十字架を握りしめて、お墓までもって行くのです。おお、主以外の何ものかに執着すること、それこそ狂気中の狂気です。

 

 

 

10.彼自身が神であると想像し

 

 

神の摂理298(イ)

 

「人間自身の理知は、その者の意志が悪である時は、誤謬以外には何物も見ず、それ以外の物は何一つ見ようとは欲しないし、また見ることも出来ない」。 これは霊界にしばしば証明された所である。凡ての人間は霊となると―それは死後彼が物質的な身体を脱ぎ捨てて、霊的な身体を着ける時起こるが―彼の生命の二つの状態、即ち外なる状態と内なる状態へ交互に入れられる。彼は外なる状態にいる時は、丁度合理的な賢明な人間が世で行うように、合理的に、賢明に語り、行動し、また道徳的な社会的な生活に関わる多くの事柄を他の者に教えることも出来、もし説教家であったなら、霊的な生活に関わる教訓も与えることが出来る。しかし彼がこの外なる状態から引き出されて、その内なる状態へ入れられ、外なるものが眠って、内なるものが目覚めると、もしその当人が悪であるなら、光景は一変する、彼は合理的なものでなくなって、感覚的になり、賢明でなくなって気違いになる、なぜなら彼はその時自分の意志の悪とその歓喜から、即ち自分自身の理解から考えて、誤謬以外には何物も見ず悪以外には何物も為さず、邪悪は知恵であり、狡猾は深慮であると信じ、彼自身の理解に導かれ、彼自身が神であると想像し、その心のすべては邪悪な術策で満たされる。こうした狂気を私は再三眺めたのである。私はまた霊たちが一時間内に二度も三度も交互にこれらの状態に入れられるのを見たが、その時彼らは自分の狂気を見、それを承認する気持ちになったものの、合理的な、道徳的な状態に止まろうとはしないで、自分から進んでその感覚的な、狂った内なる状態へ帰ったのである、なぜならそれが彼らの生命の歓喜であったため、彼らは、それを他よりも愛したからである。邪悪な人間はその外観の下にこうした性格を持ち、その内なる状態が明らかにされると、このように変形することを誰が信じよう。この経験は人間がその意志の悪から考え、行動する際の彼自身の理解の性質を示すに充分である。善良な者の実情は異なり、彼らはその外なる状態からその内なる状態へ入れられると、更に賢明に、更に道徳的になるのである。

 

 

 

天界と地獄82

 

諸天界には神的なものについてはこうした認識があるため、天界から何らかの流入を受けている人間各々の中にも神を人間の形の下に考えることが植え付けられている。古代の人間たちはそのように考えたのである。教会の内外を問わず、現今の人間もそのように考えている。単純な者は思考の中で神を輝く光の中におられる故老として見ている。しかしこの植え付けられている原理は、自分自身の理知により、また悪い生活によって天界からの流入を斥けてしまった者凡てにより消滅している。自分自身の理知によりそれを消滅させてしまった者らは目に見えない神を持とうとするが、悪い生活によりそれを消滅させた者らは、何ら神を持とうとはしない。前の部類の者も、後の部類の者も、こうした思考の原理が自分たちのもとにないため、それが何人にも植え付けられていることを知っていないが、しかもそれは天界から人間のもとへ流れ入る神的な天界の原理そのものである。なぜなら人間は天界のために生まれていて、何人もその神的存在を考えなくては天界には入らないからである。

 

 

 

天界と地獄354

 

私は学者たちの多くの者と彼らが世から去った後話すことを許された、その或る者はすぐれた名声の持主であって、文学界ではその作品のために知れ渡っており、また或る者はそれほど有名ではなかったものの、しかしそれでも非凡な才能を持っていたのである。心で神的なもの[神]を否定した者らは、いかほど口では神を告白しても、非常に愚劣なものとなって、社会的な真理を殆ど何一つ理解出来ず、まして霊的な真理は何一つ理解出来なかったのである。彼らの心の内部は黒く見えるほどにも閉じられ―なぜなら霊界ではこうした物は目に示されるからである―それで彼らは天界の光には全く堪えることは出来ず、また天界からのいかような流入も許容することが出来ないことが認められ、また見られもしたのである。その内部に見られたその黒さは、科学と学問によって神的なものを強固に否認した者のもとでは更に甚だしく、またその範囲も広かった。こうした者は他生では誤ったものを凡て歓喜をもって受け入れ、それをスポンジが水を吸い込むようにも吸い込むが、真理はバネのきいた骨質の物がその上に落ちてくるものを跳ね返すように、跳ね返すのである。神を強く否認して、自然を確認した者の内部は骨のようになり、その頭もまた、鼻までも、象牙のように固く見えるとまた言われているが、それは彼らは最早認識を何ら持っていないことを示しているのである。こうした種類の者は沼のように見える泥の中に浸され、そこでその誤謬から変化してきた妄想のため絶えず不安の状態に置かれている。彼らの奈落の火は栄誉と名声を求める欲念であり、その欲念から彼らは互に罵り合い、奈落の熱意から、そこで自分を神として拝まない者を責め苛み、これを交互に繰返している。神的なものを承認することによって天界から光をそれ自らの中に受け入れなかった世の学問は凡てこのような物に変化する。

 

 

 

真の基督教661

 

 自己への愛から支配することは、生来悪であって主とは正反対である自我性から行動することである。それ故、人間はその悪に深く沈むに従い、益々神をまた教会の諸々の聖なる物を否定し、自らと自然を礼拝するのである。この愛に溺れている者は自らを点検されよ。然すれば、その人たちは認めるであろう。この愛は抑制されない限りは、更に高く登ろうとの野望を生み、最早遠くへ行くことの出来ない時にのみ嘆くのである。政治家にあっては、それは全世界を支配し、王の王、主の主と呼ばれようとの欲望を作り出し、教職者にあっては神となり、天界を支配しようとの欲望を作り出すのである。このような人間は、以下に見られるように、無神論者である。

 

 

 

 

11.自然的な人は人間となる能力を持っている、この能力を使わないなら思考は狂っている

 

 

真の基督教566

 

 自然的な人の生活はある動物の生活に似ている。それ故、霊界では自然的な人は自らに相応した動物に囲まれて現れる。厳密に言えば、自然的な人は動物に過ぎないが、しかしそれに霊的な要素が附加されているために、彼は人間となる能力を持っているのである。もし彼がこの能力をその意図された目的のために用いないならば、彼は人間のように見えるかもしれないが、単に話をする動物に過ぎない。彼の言葉は合理的であるが、その思考は狂っており、彼の行為は道徳的であるが、その欲望は狂想的である。霊的な人間から見れば彼の行為は所謂ふくろ蜘蛛に噛まれている聖ヴィトスの舞踏のように見える。各人は偽善者が神を讃美し、盗人が正直を讃美し、姦通者が貞操を讃美することが出来ることを知っている。思考と発言との間に、意図と行為との間に、閉じることの出来る扉があって、深慮あるいは狡猾がその扉の番人になっていないならば、彼は如何ような野獣よりもさらに狂暴に憎むべき残酷な行為に向って突進するであろう。しかし、その扉は死後開かれ、その時人間の真の性質が現れるのである。しかし彼は地獄の刑罰と監禁によって抑制される。故に、親愛なる読者よ、諸君は自分自身を点検し、諸君の諸々の悪を探り出し、それらを宗教的な動機によって除去されよ、もし諸君が何か他の動機によってそれを行うならば、単にそれを世から隠すことに成功するに過ぎないであろう。

 

 

 

神の愛と知恵144

 

 自己への愛から発した支配への愛は主への愛に全く相反しているゆえ、その支配への愛にいる霊は顔を主に背けて後ろ向きにし、それ故霊界の西の方位に眼を注ぎ、かくて身体は反対の位置に在るため、東を背にし、北を右にし、南を左にしている。彼らは主を嫌忌するため、東を背にし、妄想と妄想から発する誤謬を愛するため、北を右にし、知恵の光を軽蔑するため、南を左にしている。彼らはいかほど自分自身を回転させても、その周囲に見る凡ての物は己が愛に類似ているように見える。こうした者は凡て感覚的な自然的なものであり、その或る者は自分のみが生きていると考えるような性質を持ち、他の者を像のようなものに見なしている。彼らは実際気が狂っているものの、自分は他の凡ての者以上に賢明なものであると信じている。