良心を持たない者はこのように
とりつかれてしまっている
天界の秘義1914
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認識を持っていた最古代教会の父祖たちは外的なまたは自然的な合理的なものから考えたのである。認識を持たないで、良心を持っていた古代教会の父祖たちは外的なまたは自然的な合理的なものから考えたのである。しかし良心を持たない者はすべて、合理的なものを持っているように見えるけれど、それを持っていないからには、合理的なものからは些かも考えはしないで、感覚的な、形体的な自然的なものから考えるのである。良心を持たない者は合理的なものから考えることが出来ない理由は、彼らは、今し方言ったように、良心を持っていないということである。合理的な人間とは信仰の善と真理を考える者であり、それに反して考える者では決してない。悪と誤謬とを考える者らはその思考[考え]に於て狂っており、それで合理的なものは決して彼らには述べることは出来ないのである。
天界の秘義1936[5]
たれでも知恵は些かも自分自身から発してはいないと信じるに比例して、その者は賢明になるということ、知恵が自分自身から発していると信じ、かくして深慮を自分自身に帰するに比例して、その者は益々発狂するということもまた神的な真理である。この事をまた合理的なものは、それ自身から発していないものは無意味なものであると考えているため、否定してしまうのである。こうした無数のものが存在している。これらの僅かな例からでさえも合理的なものは信じてはならないことを認めることが出来よう、なぜなら合理的なものは迷妄[妄想]と外観の中にあり、それでそれは迷妄と外観とを剥ぎとられた真理を斥けてしまい、それがそうしたことを行えば行うほど、益々自己愛とその幾多の欲念に陥り、益々理論に陥り、また信仰については誤った原理に陥るのである(前の1911番に引用した例を参照されたい)。
天界の秘義1983[4]
彼らに関連してはいかような理論も現われはしないが、しかし彼らはその人物の悪い幾多の情愛に吹き込まれるところの、一種の同時に殺到している幾多の理論を利用し、かくして彼らは彼ら自身をその生来の傾向に適応させることによって働き、かくして他の者らの低い心の中に入り込んで、それを引きづって行き、説得により彼らを圧倒するかまたは捕えてしまうか、してしまうのである。彼らは良心を破壊することにまさって何ごとも研究はしない、彼らはそれが破壊されると人間の内部を自分のものとしてしまい、例えその人間はそのことについては何ごとも知ってはいないものの、その人間にとりついてしまうのである。現今は以前のようにこうした部類の霊により外なるものがとりつかれることはないが、しかし内なるものが取り扱われているのである。良心を持たない者はこのようにとりつかれてしまっているのである。彼の思考の内部はそれに似ていなくはないように狂ってはいるが、しかしそれは彼ら自身の名誉と利得と名声のために、外なる礼儀と上辺の尊さにより隠され、覆われている。そしてこのことをこうした人間には、もしその者が自分の思いに注意を払うなら、知ることが出来るのである。
天界の秘義2183[2]
否、合理的な人は自然的な人の中にある悪を見、認めることさえも出来、そしてもしそれが純粋な合理的なものであるならば、それはそれを懲らしめることも在り得るのである(1904番を参照)。この二つのものが連結しない中は、人間は人間そのもの(または完全な人間)では在り得ないのであり、また平安の静謐の中にも在ることは出来ないのである、なぜならその一方のものは他方のものと戦うからである。なぜならその人間のもとにいる天使たちは彼の合理的なものを支配しているが、しかし彼のもとにいる悪霊らは彼の自然的なものを支配し、ここから争闘が発してくるからである。
天界の秘義2183[3]
もしその時合理的なものが征服するならば、自然的なものは征服され、かくてその人間は良心を与えられるが、しかしもし自然的なものが征服するなら、その時は彼は良心の如何ようなものをも受けることは出来ないのである。もし合理的なものが征服するならばその時は彼の自然的なものは、それもまた合理的なものであるかのようになるが、しかし自然的なものが征服するならば、合理的なものはそれもまた自然的なものであるかのようになるのである。更に、もし合理的なものが征服するならば、その時は天使たちはその人間のもとへ更に近づいて来て、彼に主から天使たちを経て来る天的なものであるところの仁慈を秘かに注ぎ入れ、悪霊らは遠くへ退いてしまうが、しかしもし自然的なものが征服するならば、その時は天使たちは更に遠くの方へ(即ち、更にその人間の内部の方へ)退いてしまうが、これに反し悪霊らは合理的なものの方へ更に近づいて、絶えずそれを攻撃し、彼の心の低い部分を憎悪、復讐、詐欺といったもので満たすのである。もし合理的なものが支配するなら、その時はその人間は平安の静謐に入り、他生では天界の平安の中へ入って行くが、しかし自然的なものが征服するなら、その時は、その人間は、生きている間は、恰も静謐の中にいるかのように見えはするものの、しかし他生では地獄の不安と呵責[拷問]の中へ入って行くのである。
天界の秘義2183[4]
このようにして人間の状態の合理的なものの方面の性質は、またその自然的なものの方面の性質はいかようなものであるかを知ることが出来よう、それでその自然的なものが合理的なものに順応して、その二つのものが共に連結する以外には人間を祝福された、幸なものにすることの出来るものは一つとしてないのである。このことは専ら仁慈により遂行されるのであって、仁慈は専ら主から発しているのである。