賢明
天界の秘義1936[5]
たれでも知恵は些かも自分自身から発してはいないと信じるに比例して、その者は賢明になるということ、知恵が自分自身から発していると信じ、かくして深慮を自分自身に帰するに比例して、その者は益々発狂するということもまた神的な真理である。この事をまた合理的なものは、それ自身から発していないものは無意味なものであると考えているため、否定してしまうのである。こうした無数のものが存在している。これらの僅かな例からでさえも合理的なものは信じてはならないことを認めることができよう、なぜなら合理的なものは迷妄[妄想]と外観の中にあり、それでそれは迷妄と外観とを剥ぎとられた真理を斥けてしまい、それがそうしたことを行えば行うほど、益々自己愛とその幾多の欲念に陥り、益々理論に陥り、また信仰については誤った原理に陥るのである(前の1911番に引用した例を参照されたい)。
天界の秘義7296
『賢人』の意義は霊的な事柄を知り、また霊的な物と自然的な物との相応を知っている者たちであり、そうしたものを探求し、また教えた者たちは彼らの間では『賢人』と呼ばれたのである、なぜならそれらは神秘的なものであったからである。
天界の秘義7950〔2〕
『エジプトの地の初児』が誤謬化された信仰の真理を意味していることは、『エジプトの初児』は仁慈から分離した信仰を意味しているためである(7948番)。この信仰の中にいる者らは信仰の諸真理については暗黒と暗闇そのものの中にいるのである、なぜなら彼らはいかような光の中にもいることは出来ず、かくて真理の何であるかを、それが真理であるか、否かを全く認識することは出来ないからである。なぜなら霊的な光はすべて主から善を通して、かくて仁慈を通して来ているからである、なぜなら仁慈の善は焔のようなものであり、そこから光が発しているからである、なぜなら善は愛に属し、愛は霊的な火であって、その火から明るくされることが発するからである。悪の中にいる者らもまた信仰の諸真理については明るくされることが出来ると信じる者は非常に誤っているのである。彼らは確認する状態にあることは出来る、即ち、己が教会の教義的な事柄を確認することは出来、しかもそれを時には巧妙に、また器用にもやってのけることは出来るものの、自分の確認しているものが真であるか、否かを認めることは出来ないのである。(誤謬もまた真理のように見えるまでも確認されることが出来るが、確認することは賢人の務めではなく、それはその事がそうであるか、否かを認めることであることについては、4741、5033、6865、7012、7680番を参照されたい)。
天界の秘義10227[3]
賢明になる能力により記憶知から真理と善とについて論じる能力が意味されているのではなく、また自分の好むことを何なりと確認する能力も意味されてはおらず、真で善いものを識別し、適当なものを選んで、それを生命の用に適用する[用いる]能力が意味されているのである。主に凡ゆるものを帰している者たちは識別し、選び、適用するに反し、主に帰しはしないで、自分自身に帰する者らは単に真理と善とについて論じる方法を知っているに過ぎないのである、彼らはまた他の者から発しているものを除いては何ごとも認めもしないが、そのことも理性から発しているのではなくて、記憶の活動から発しているのである。
彼らは真理そのものを認めることが出来ないため、外側に立って、何なりとその受け入れるものをそれが真であれ、誤りであれ、確認するのである。記憶知から学者流にこうしたことをすることの出来る者らは世から他の者以上に賢明なものであると信じられているが、しかし彼らが凡ゆるものを彼ら自身に帰すれば帰するほど、かくて自分自身から考えることを愛すれば愛するほど、益々発狂してしまうのである、なぜなら彼らは真理よりもむしろ誤謬を、善よりはむしろ悪を確認し、しかもそれは彼らが世の妄想と外観以外のいかような源泉からも光を得ておらず、従って彼らは天界の光から分離した、自然的な光と呼ばれる彼ら自身から光を得ており、その光は、そのように分離すると天界の諸真理と諸善については暗闇そのものとなるためであるからである。
白馬8
教義を確認することが賢い人間のしるしではなくて、それが確認される以前に、それが真であるか、否かを見ることがそのしるしであって、そのことが明るくされている者に言われる(1017、4741、7012、7680、7950)。
天界の秘義6524[3]
第三の、または最も内なる天界にいる者たちは、かくて主に最も近い者たちは、『賢い者』と呼ばれているが、しかし真中の、または第二の天界にいる者は、かくて主にそれほど近くいない者たちは『理知的な者』と呼ばれている。
天界と地獄86
天使たちは、神を考えるときに、見えないものを、すなわち、いかような形の下にも把握出来ないものを考える人間が自分自身を理知的なものと信じており、そのように考えない者を―その反対が真理であるのに―非理知的で、単純な者と呼んでいることを不思議がったのである。彼らはそれに付け加えて[以下のように]言っている、「このようにして自分自身を理知的なものと信じている者らに自分自身に向って、自分たちは自然を神として見てはいないか、どうかと訊ねさせなさい。その中のある者は自分の目の前に在るものを、ある者は自分の目の前にないものを神として見てはいないか、どうか。また自分たちは、神とは何であるか、天使とは何か、霊とは何か、死後生きるに違いない彼らの霊魂とは何か、人間における天界の生命とは何か、その他理知に属した多くの物を知らないほどにも盲目ではないかどうか[訊ねさせなさい]。が、彼らが単純な者と呼ばれている者たちは、彼らなりに、凡てこれらの事柄を知っていて、神については、神は人間の形を持った神的なものであり、天使については、天使は天界の人間であり、死後生きるに違いない彼らの霊魂については、それは天使であり、人間のもとにある天使の生活については、それは神の教えに従って生きることであると考えているのである」。それゆえ、これらの者を、天使たちは理知的な、天界に適わしい者と呼んでいるが、これに反し、他の者を理知的でない者と呼んでいる。
天界と地獄350
真理と善とのために真理と善とを愛して者は凡て天界に受け入れられ、それゆえ賢明な者と呼ばれる者は多く愛した者であるが、単純な者と呼ばれる者は僅かしか愛さなかった者である。
新しいエルサレムの教義27
合理的なものは善から発した諸真理により開かれ、形作られ、悪から発した誤謬により閉じられ、破壊される(3108、5126番)。人間はいかような主題についても論じることが出来るということによって合理的なものであるのではなく、何かが真であるか、否かを見、また認めることが出来るということによって合理的なものである(1944番)。人間は善の中へ生まれていないため、いかような真理の中へも生まれていない。彼はその二つを学び、吸収しなくてはならない(3175番)。人間は感覚に迷わされ、誤謬を確信し、そこから推理し、疑うために、純粋な真理を受け入れて、賢明になるのは容易なことではない(3175番)。人間は真理に反した推理に反抗し、疑いを斥け始める時、初めて賢明になり始める(3175番)。明るくされていない人間の合理的なものは内的な真理を嘲笑する、(そのことが)例から(説明されている)(2654番)。人間のもとに真理がその生命に植え付けられる時、内的な真理と呼ばれるが、単に内的な真理と呼ばれている真理であっても、それが知っているということのみでは、内的な真理とはならない(10199番)。
善には賢明になる能力があり、かくて世で善に生きた者たちは世を去った後は天使の知恵に入って行く(5527、5859、8321番)。
1.ベルナルド
ベルナルド/雅歌について/第二巻P56
イエズス・キリストこそ神の善徳だということを知らない者が、どうして世のいわゆる徳と関わり合いを持つことができるのでしょうか。枢要徳である本当の“賢徳”は、イエズス・キリストの教えの中にこそあるのです。本当の“義徳”は、イエズス・キリストのあわれみの中にこそあるのです。本当の“節制”は、イエズス・キリストの生活の中にこそあるのです。本当の“勇気”は、イエズス・キリストの受難の中にこそあるのです。
そんな訳で、キリストの教えに精通している者だけが、賢者と呼ばれる資格があるのです。キリストのあわれみによって、自分の罪の赦しをいただいた者だけが、義人と呼ばれる資格があるのです。キリストの生き方をまねようと努力している者だけが、禁欲者と呼ばれる資格があるのです。逆境にあってキリストの忍耐のひな型をいつも実行している者だけが、勇者と呼ばれる資格があるのです。だから、善徳の主キリスト以外の所に善徳があると信じて、主キリスト以外の所に善徳を探し求めている者は、無駄な努力をしているのです。なぜなら、キリストの教えこそ、賢徳の源だからです。キリストのあわれみこそ、義徳の泉だからです。キリストの生活こそ、節制の鏡だからです。キリストの死こそ、あらゆる勇気の手本だからです。このキリストにこそ誉れと栄光が世々にありますように。アーメン。