知恵・理知

 

神を畏れる・聖い恐れ

 

 

1.知恵・・・善を意志すること

理知・・・真理を信じること

2.知恵・・・論じることなしに認めること

3.結果を知ろうとする・・知識

原因を知ろうとする・・理知

目的を知ろうとする・・知恵

4.主に凡ゆるものを帰することにより人間の内部は天界に向かって開かれる

5.イエズスがマリア・ワルトルタに言われる

6.主を畏れることは知恵の初め

7.知恵には聖という名がある

8.愛それ自身の中には知恵と理知があって、これらは愛の如何に応じている

9.理知は神的真理である聖言によって得られて、人間自身の知的なものから発した記憶知によって得られてはならない

10.善への情愛から善を為すことは知恵に属するが、他方真理への情愛から善を為すことは理知に属する

 

 

 

詩篇111・10

 

主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。

 

 

 

 

1.知恵・・・善を意志すること

理知・・・真理を信じること

 

 

天界の秘義1555

 

信仰の諸真理と諸善とにかかわるいくたの知識により得られるものは理知の光と呼ばれているが、しかし知恵の光はそこから得られる生命の光である。理知の光は知的な部分または理解に関わっているが、知恵の光は意志の部分または生命にかかわっている。

 

 

 

天界の秘義1555[2]

 

いかようにして人間は真の知恵に至るかを知っている者は、たとえいるにしても、僅かしかいない。理知は知恵ではなく、知恵に導くのである。なぜなら真で善いことを理解することは真で善いものであることではなく、賢いことが真で善いことであるからである。知恵は生命にのみ述べられるのである、すなわちその人間はそうした者であると言われるのである。人間は知ることを手段として、すなわち知識(scientae et cognitiones)を手段として知恵に、または生命に導入されるのである。人間各々の中に意志と理解の二つの部分があり、意志は第一次的な部分であり、理解は第二次的な部分である。死後の人間の生命はその意志の部分に順応していて、その知的な部分には順応していない。意志は人間の中に幼少期から子供時代にかけ主により形成されつつあり、それは密かに注ぎ入れられる無垢により、また両親、乳母、同じ年頃の子供たちに対する仁慈により、また人間には全く知られていないが、天的なものである他の多くのものにより行われるのである。こうした天的なものが先ず人間の中へ幼少期と子供時代に徐々に(秘かに)注がれない限り、かれは決して人間となることはできないのである。このようにして最初の面が形成されるのである。

 

 

 

天界の秘義1555[3]

 

しかし人間はまた理解を与えられない限り、人間ではないため、意志のみが人間を作るのでなく、理解が意志とともになって人間を作るのであり、そして理解は知識によらなくては決して得られることはできないのであり、それでかれは子供時代から、徐々にこれらの知識に浸透されなくてはならない。このようにして第二の面が形成されるのである。知的な部分が知識を、とくに真理と善とにかかわるいくたの知識を教えられると、そのとき初めて人間は再生されることができるのであり、そしてかれが再生しつつあるとき、いくたの真理といくたの善とは、かれが子供時代から主により与えられていた天的なものの中に知識を手段として、主により植えつけられ、かくてかれの知的なものはかれの天的なものと一つになるのであり、そして主がこのようにこれらのものを連結されたとき、その人間は仁慈を与えられて、かれはその仁慈から行動しはじめるのであり、この仁慈は良心にぞくしている。このようにしてかれは初めて新しい生命を受けるのであって、これは徐々に行われるのである。この生命の光が知恵と呼ばれており、それはそのとき第一位を占めて、理知の上におかれているのである。このようにして第三の面が形成されるのである。人間がその身体の生命の間にこのようになると、そのときはかれは他生で絶えず完成されつづけるのである。こうした考察により理知の光とは何であるか、知恵の光とは何であるかが示されるであろう。

 

 

 

天界の秘義5070

 

 義しい者に与えられる永遠の生命は善から発している生命である。善は、生命そのものであられる主から発しているため、それ自身の中に生命を持っている。主から発している生命の中には知恵と理知が存在している、なぜなら主から善を受けて、そこから善を意志することは知恵であり、主から真理を受け入れて、そこから真理を信じることは理知であり、この知恵と理知とを持っている者は生命を持ち、そしてこのような生命には幸福が結合しているため、永遠の幸福もまた『生命』により意味されているからである。

悪の中にいる者らの場合はそれに反している。これらの者も生命を持っているかのように―特にこれらの者自身には―実さい見えはするものの、しかしそれは聖言では『死』と呼ばれているような生命であり、また霊的な死である、なぜならかれらはいかような善からも賢いのではなく、またいかような真理からも理知的なものではないからである。このことはたれであれその事柄を考察する者から認められることができよう、なぜなら善とその真理の中に生命が在るため、悪とその誤謬の中には、それらは対立したものであって、生命を消滅してしまうため、生命は在りえないからである。それで問題の人物は狂人にぞくしているような生命以外の生命は持たないのである。

 

 

 

天界の秘義6524

 

『長老たちの集まり』は、知恵に属した善にいる者たちを意味している、なぜなら知恵は生命に属し、かくて善に属しているが、理知は知識の属し、かくて真理に属しているからである(1555番)。

 

 

 

天界の秘義9943

 

理知とは神的な諸真理を知り、理解し、後にそれらを信仰することであり、知恵とはこの諸真理を意志し〔欲し〕愛し、そこからそれに従って生きることである。

 

 

 

黙示録講解14

 

知恵は認め、意志し[欲し]、行うことであり、理知は知り、認めることである。

 

 

 

2.知恵・・・論じることなしに認めること

 

 

天界の秘義5556

 

爪の根の皮膚を構成している者

 

この皮膚は他のどの皮膚よりも感覚が鈍いのである、なぜならそれは殆ど薄い軟骨のようなものである薄片で一面に覆われているからである。それを構成している社会は、凡ゆる事柄についてそれはそうであるか、そうでないかと論じるのみで、それ以上進まない者らである、私は彼らと語った時、彼らは何が真であるか、また何が真でないかを些かも悟らないで、論じれば論じるほど、益々悟らなくなることを認めることが出来たのである。それでも彼らは彼ら自身には他の者らよりも賢明であるように見えるのである、なぜなら彼らは知恵を論じる能力に置いているからである。彼らは、知恵の主要な事柄は物事がそうであるか、またはそうでないかを論じること無しに認めることであることを全く知らないのである。このような多くの者は世では哲学的に細かい区別立てをして善と真理とを混乱させてこのような者となり、そのため常識に劣るものとなってしまった者らから来ているのである。

 

 

 

天界と地獄351

 

真の理知と知恵とは真で善いものを見、認め、それによって誤った、悪いものを見、認め、それらを良く識別し、しかもこれを内的な直覚と認識から行うことである。

 

 

 

 

3.結果を知ろうとする・・知識、原因を知ろうとする・・理知、目的を知ろうとする・・知恵

 

 

真の基督教570

 

(ある天使的な霊:)

「結果を問い質している人々は知識の霊と呼ばれ、または、抽象的に諸々の知識と呼ばれ、原因を調査する人々は理知の霊と呼ばれ、抽象的に理知と呼ばれ、目的を点検する人々は知恵の霊と呼ばれ、抽象的には知恵と呼ばれています。彼らの直接上の天界には天使たちが居ります。その三つの集会の人々はこれらの天使達から照示を受けます。」

 

 

 

4.主に凡ゆるものを帰することにより人間の内部は天界に向かって開かれる

 

 

天界の秘義10227

 

主に凡てを帰している者たちは他の者よりも賢明であるが、それは知恵を構成している真理と善との凡ゆるものは天界から、すなわち、天界の主から流入しているためである。主に凡ゆるものを帰することにより人間の内部は天界に向かって開かれるのである、なぜなら真理と善とは一つとして人間自身からは発していないことがそのことにより承認され、このことが承認されるに比例して、自己への愛が去り、自己への愛とともに誤謬と悪から発した暗闇も去ってしまうからである。またそれに比例してその人間は無垢へ、主に対する愛と信仰へ入り、そこから神的なものとの連結が生まれ、神的なものとの連結から流入と照示[明るくされること]が生まれてくるのである。

 

 

 

天界の秘義10227[3]

 

賢明になる能力により記憶知から真理と善とについて論じる能力が意味されているのではなく、また自分の好むことを何なりと確認する能力も意味されてはおらず、真で善いものを識別し、適当なものを選んで、それを生命の用に適用する[用いる]能力が意味されているのである。主に凡ゆるものを帰している者たちは識別し、選び、適用するに反し、主に帰しはしないで、自分自身に帰する者らは単に真理と善とについて論じる方法を知っているに過ぎないのである、彼らはまた他の者から発しているものを除いては何ごとも認めもしないが、そのことも理性から発しているのではなくて、記憶の活動から発しているのである。

彼らは真理そのものを認めることが出来ないため、外側に立って、何なりとその受け入れるものをそれが真であれ、誤りであれ、確認するのである。記憶知から学者流にこうしたことをすることの出来る者らは世から他の者以上に賢明なものであると信じられているが、しかし彼らが凡ゆるものを彼ら自身に帰すれば帰する程、かくて自分自身から考えることを愛すれば愛するほど、益々発狂してしまうのである、なぜなら彼らは真理よりもむしろ誤謬を、善よりはむしろ悪を確認し、しかもそれは彼らが世の妄想と外観以外のいかような源泉からも光を得ておらず、従って彼らは天界の光から分離した、自然的な光と呼ばれる彼ら自身から光を得ており、その光は、そのように分離すると天界の諸真理と諸善については暗闇そのものとなるためであるからである。

 

 

 

5.イエズスがマリア・ワルトルタに言われる

 

 

マリア・ワルトルタ9・2/天使館1巻P74

 

だが、『知恵は自分を探し求める子らに命を吹き込み・・・知恵を愛する者は命を愛し、知恵に注意を払う者はその安らぎを享受するだろう。知恵を有する者は命を相続するだろう・・・知恵に仕える者は聖なる御方に従順し、神から深く愛される・・・知恵を信じるなら知恵を相続し、試練において知恵を同伴するから、子々孫々にその財産は引き継がれるだろう。

 

何よりも知恵はまず彼を選び、それから彼に畏れと恐怖と試練を送り、その規律の鞭で彼を苦悩の坩堝に投げ入れるだろう。それは彼の思考を鍛錬し、信頼に足る人とするためである。だがその後、知恵は彼を安泰にし、まっすぐな歩みに戻らせ、満ち足りた者にするだろう。知恵は彼にその神秘を知らせ、正義において、知識と聡明の財宝を彼に投入するだろう』(*)と、言われていないだろうか?

 

 

(*)『シラ書』4・11−18

 

 

 

6.主を畏れることは知恵の初め

 

 

詩篇111・10

 

主を畏れることは知恵の初め。

これを行う人はすぐれた思慮を得る。

主の賛美は永遠に続く。

 

 

 

箴言1・7

 

主を畏れることは知恵の初め。

無知な者は知恵をも諭しをも侮る。

 

 

 

箴言9・10

 

主を畏れることは知恵の初め。

聖なる方を知ることは分別の初め。

 

 

 

ヨブ記28・27−28

 

神は知恵を見、それを計り

それを確かめ、吟味し

そして、人間に言われた。

「主を畏れ敬うこと、それが知恵

悪を遠ざけること、それが分別。」

 

 

 

天界の秘義353

 

誤った理知と知恵とは神的なものを承認しない凡てのものである、なぜなら神的なものを承認しないで、神的なものの代わりに自然を承認する者は凡て、世では如何ほど教育があり、学問があると信じられていても、形体的な感覚的な面から考えていて、たんに感覚的な者にすぎず、彼らの学問は、世で目から見られる物をこえて昇らず、その目で見る物を記憶にしまいこんで、ほとんど物質的に眺めているが、しかしその同じ科学は真に理知的な者には理解を形作るのに役立っているのである。

 

 

 

神の愛と知恵23

 

 人間の知恵のすべては宇宙の創造者である一人の神がおられるということに一致し、いわば、そこに集中している。従って理性のある者はその理解の全般的な性質から、それ以外のことを考えないし、また考えることも出来ない。健全な理性を持つ者に宇宙に二人の創造者がいると語るなら、その反感を買うが、それは恐らく彼の耳の中のその言葉の音から生まれてくるのである。このことから人間の理性の凡ての物は神は一人であられることに一致し、そこに集中していることが明らかである。これには二つの理由が在る。「先ず」、合理的に考える能力そのものは、それ自身において観察されるならば、人間のものでなく、人間の中の神のものである。この能力に人間の理性の全般的な性質が依存し、理性のこの全般的な性質は人間に神は一人であられることを人間自身から認めるように認めさせている。「第二に」、その能力により人間は天界の光の中に在るか、またはその思考の全般的なものをそこから得るかしており、そして神は一人であられることは天界の光の全般的な概念である。が、人間がその能力により理解の低い部分を歪める時は、それは異なって来て、こうした人間は実際その能力を与えられてはいるが、その低い部分に加えられた歪曲により、それを反対に向け、かくてその理性は不健全なものになるのである。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P151

 

あなた方はこう尋ねよう、「では神を理解するとは どういうことでしょう?」と。 私を理解することは英知の第一原理。 それは私をあなたの神として認め 私を畏れること、私を畏れるとは あらゆる悪を避けること。 地上にいながら 霊的な目で私を見ることが望ましい。地上にいる間に私を味わっておくのは本来あなた方一人ひとりがすべきこと。 どの霊魂にとっても このヴィジョンを探し求めることが肝要であり もし私の高みに霊魂がまだ達し得ていないなら、観想をもって自らの霊を引き上げるように 忍耐強く努力し続けなさい。ほかにどうやって あなたの神を知り得ようか? 私を見たことがないとすれば、三たび聖なる我が光をまとう私の息子 娘たちの一人に どうしてなれようか?

 

 

7.知恵には聖という名がある

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P266

‘88・8・4

 

パパさまとの公的な謁見の翌日:イエスは周り中にいらして、四六時中にっこりと笑顔を向けて下さっているのが見えました。

 

イエス?

 

♡ 私です、花よ、私のやり方を理解しようと求めないように、単純に私から来るもの全てを受け入れなさい、私、主はあなたを導き入れた、あなたを導いて 非常に愛する我が僕ヨハネ・パウロ二世に会わせた、最愛の霊魂たちよ、あなた方は私に従った、私を信頼し、私に寄りかかっていた、霊魂よ 歓びなさい! 私、あなたの神が 歓びを感じている! 素朴さは私を夢中にさせ、従順は私の聖心を喜びで跳ね上がらせる これこそ悪魔と戦う武器、

主よ、あなたのお手紙をパパさまの帯に差し込むのは正しいことでしたか?

 

私に従ったのだ、他の者たちにとっても従順の手本となろう、どのように状況が困難に映ろうと、信頼して従いなさい、私に従い 我が意思を行うのを見出したなら いつでも助けを与える。 これを私おために行うよう なぜあなたに頼んだかを理解しようと求めないように  ♡ 覚えておきなさい、私の名のもとに一致させるのは主なる私であると、そして私の望みがすべて達成されるのは我が力による、私の指を置かせたまま 我が子よ あなたをこうして用いさせ、あなたの上に覆いをしておくのを許してもらいたい 私の注ぐ全ての恵みに有頂天となってしまう悪から護る、私、神はあなたを愛おしむ そして最も危機的状況にあっても決して見放さない ♡ 愛があなたに霊感を与える、聞くように、僕ジェームズ神父の献身にたいし私の聖心とあなたの母の汚れなき御心がどのようにこころ動かされたかを伝えてほしい ♡ 彼は 与えられた全てのものの上にしっかりと立ち 他の者たちにも 謙遜をもって従うように教えるとよい、謙遜に従うなら 悪と戦うことになると私の子どもたちに伝えるがよい ♡ 知恵はいのちを愛する、知恵には聖という名があり 私に従うすべての者に与えられる、全ての指示は知恵から降る、私に信頼し 聖(*)という種を蒔きなさい

 *知恵という意味

あなた方の上に平和、おいでなさい、私の聖なる現存を忘れないように、微笑みかけなさい ♡

 

 

 

 

8.愛それ自身の中には知恵と理知があって、これらは愛の如何に応じている

 

 

天界の秘義2500[3]

 

愛それ自身の中には知恵と理知があって、これらは愛の如何に応じていることは、未だほとんどたれにも知られていないアルカナである。知恵と理知は愛の中に在るということは、流入はことごとく愛に向って起っており、または、それと同一のことではあるが、善に向って起っており、かくて人間の生命そのものに向って起っているという事実から来ている。これが表現を絶した天使たちの知恵と理知の源泉である。それはまた主に対する愛と隣人に対する仁慈の中にいる人間の知恵と理知の源泉であり、たとえかれらは身体の中に生きている間はかれら自身の中にそれを何ら認識はしていないものの、それがこの愛と仁慈そのものの中に存在しているというりゆうのため、死後その中へ入ってくるのである(2494参照)。

 

 

 

 

9.理知は神的真理である聖言によって得られて、人間自身の知的なものから発した記憶知によって得られてはならない

 

 

天界の秘義6125[6]

 

 これに似た記憶知がまたイスラエルを治める王のためにモーセの書に定められたことにより意味されているのである―

 

 もしかれらが王を求めるなら、兄弟たちの中から王をかれらを治める者としておかなくてはならない、ただかれはかれ自らのために馬をふやしてはならない、また馬をふやすためにエジプトへ民を連れ帰ってもならない(申命記17・15、16)。

 

王は主の神的な真理[神の真理]を表象し(1672、1728、2015、2069、3009、3670、4575、4581、4789、4966、5044、5068番)、かくて主の理知を表象したのである、なぜなら理知は、それが純粋なものであるときは、神的真理から発しているからである。理知は神的真理である聖言によって得られて、人間自身の知的なものから発した記憶知によって得られてはならないことが、王は『馬をふやしてはならない、また馬をふやすためにエジプトにその民を連れ帰ってはならない』という命令により意味されているのである。

 

 

 

 

10.善への情愛から善を為すことは知恵に属するが、他方真理への情愛から善を為すことは理知に属する

 

 

神の愛と知恵428

 

 しかしながら隣人に対する愛である霊的愛にいる者たちは、その生命に知恵を刻みつけられていないで、理知を刻みつけられている、なぜなら(前述したように)善への情愛から善を為すことは知恵に属するが、他方真理への情愛から善を為すことは理知に属するから。これらの者もまた信仰とは何であるかを知らない。信仰が語られると、彼らは真理を理解し、仁慈が語られると、真理を行うことを理解し、そして信じなくてはならないと言われると、それを無意味な言葉と呼んで、誰が真のものを信じないかと尋ねる。このように彼らが言うのは、彼らは真理を彼ら自身の光の中に見るからであり、それ故彼らの見ないものを信じることを単純と呼ぶか、または愚鈍と呼ぶかする。これらは前に記した肺臓の領域を構成する者である。

 

 

 

 

11.知恵は真理への愛から生まれる真理の認識であり、特に霊的な真理の認識

 

 

神の摂理36

 

人間が意識する知恵は真理への愛から生まれる真理の認識であり、特に霊的な真理の認識である―なぜなら真理には社会的なものと道徳的なものと霊的なものとがあるから。霊的な真理への愛からその真理を認める者はまた道徳的な社会的な真理を認める。なぜなら霊的真理への愛がその認識の霊魂であるからである。私は知恵について天使たちと時々語ったが、彼らは、主は知恵それ自身であられるゆえ、知恵は主と結合することであり、人間は地獄を斥け、これに反抗することによりその結合へ入れられると語った。彼らは知恵を宏壮な見事に装飾された宮殿として心に画いて十二の階段からこれに登るが、何人も、主と結合して主により連れて行かれないならば、その第一の階段にも達することは出来ない、人は凡てこの結合の完成に応じて登るのであり、また登るとき、何人も自分により賢くなるのでなく、ただ主のみにより賢くなることを認めており、また自分の知る物はその知らないものに較べるならば、大湖に対する一、ニ滴の水のようなものであることを知っていると彼らは語った。知恵の宮殿にいたる十二の階段は真理に結合した善と善に結合した真理を意味する。