学者

 

 

偶然はない感覚的自然的他生を信じない

単純聖言が閉じられている認識

 

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.サンダー・シング

4.ヴァッスーラ

5.マリア・ワルトルタ

6.トマス・ア・ケンピス

7.デボラ

8.学問上の名声に有害

 

 

 

 

1.    聖書

 

 

マタイ11・25−26

 

 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よこれは御心に適うことでした。」

 

 

 

ルカ10・21−22

 

 そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任されています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義1911[]

 

天的な人は主から善と真理との認識を得ていることは知的な真理であるが、しかし最初の合理的なものは認識の存在を全然否定してしまうか、またはもし人間が仮にも他の者から認識して、自分自身から認識するのでないとするなら、人間は恰も生気のないものであるか、または生命を欠如したものになるであろうと考えるのである。事実合理的なものが、感覚的なものから発した記憶知から、また哲学的な理論から考えれば考えるほど、益々前に述べたところの、また他の凡ゆる知的な真理を把握しなくなるのである、なぜならそこから発している迷妄[妄想]はそれだけ暗くなった蔭の中に包み込まれてしまうからである。ここから学者は他の者以上に信じはしないのである。

 

 

 

新エルサレムの教義255

 

多くの者は、とりわけ学者らは聖言が在る教会で生まれて、聖言により神的真理について教えられてはいるけれど、それを信じていないことから明らかとなるであろう(天界の秘義10319番)。

 

 

静思社/スウェーデンボルグ/霊界日記2682

 

世の学者らは人間の知性を鈍くすることについて

 

 

天界の秘義3747

 

 わたしは現代の学者について霊たちと時々以下のことを話し合ったのである。

 

 

 

天界の秘義3747[2]

 

 さらに、学者は単純な者以上に自分自身を獣のようなものであると立証しようと努めており、凡ゆる物を自然に帰し、神的なものには殆ど何ものをも帰していないと言われたのであり、更に、彼らは人間は獣より区別されるものとして、天界について、神について考え、そのことによって自分自身の上に挙げられ、従って愛により主と連結される能力を持っており、かくて人間は死後永遠に生きないわけにはいかないとも言われたのである。また以下のことが附言されたのである、何であれ人間に属している物はことごとく天界を通して主に依存しており、天界は巨大人であり、この巨大人に人間における凡ゆる物は全般的にも個別的にも相応し、また自然における凡ゆる物も相応していることを特に彼らは知ってはおらず、恐らくこうした事柄を聞いたり、読んだりすると、それらのことは彼らには逆理のように思われて、経験によりそれらのことを確認しない限り、彼らはそれらのことをとりとめもない架空な事柄として斥けるのである。

 

 

 

天界の秘義3749

 

 或る一人の霊が秘かに私のもとへ来て私の頭へ流れ入った。霊たちは彼らが身体の色々な部分へ流れ入ることに応じて区別されている。わたしは彼はたれであり、何処から来たのであろうかと怪しんだが、しかし彼がしばらくの間沈黙していた後、私と共にいた天使たちは、彼は世に今も尚生きている或る学者のもとにいる霊たちの間から連れて来られたのであり、その学者はその学問のために非常な名声を得ているのであると言った。

 

 

 

天界の秘儀3677

 

このような事柄の性質について論じるのではなく、そのような事柄が存在しているか、否かと論じることを愛しており、かれらがそうした状態の中にいる限り、これらの無数の種類の善と真理についてはいかような事柄をも知ろうとは欲しないからである。

 

 

 

天界の秘義3833

 

人間が真理へ導き入れられ、真理から善へ導き入れられている間に、彼が学ぶ凡てのものは彼には明確なものではないが、しかし、善が彼に連結されつつあり、彼が真理を善から見つめると、そのときはそれは彼に明らかとなり、しかもそれは継続的に益々明らかとなって行く。なぜなら今や彼は事柄が存在しているか否か、またそれはそうであるか否かについてはもはや疑いを持たないで、それが存在しており、またそれがそうであることを知っているからである。

 

 

 

天界の秘義3833[2]

 

人間がこうした状態の中にいると、そのとき彼は無数の事柄を知り始めるのである、なぜなら今や彼はその信じ、また認めているところの善と真理から、中心から円周へ進むようにも進むのであり、そして進むに比例して彼は周囲に存在している事柄を見、しかも継続的に益々広く見るからである。なぜなら彼は絶えず境界を押し進めて広げつつあるからである。以後また彼はその境界内の区域の中の凡ゆる主体から始め、そこから、新しい円周を新しい中心から広げるように拡げるのである。このようにして善から真理の光は無限に増大して連続した透明体のようなものになるのである、なぜならそのときその人間は主から発している天界の光の中にいるからである。しかし、事柄が存在しているか否かについて、それはそのようなものであるか否かについて疑惑を持って、論争している者たちのもとでは、これらの無数の、否、無限のものは些かも現れはしないのであり、彼らには凡ゆるものは全般的にも個別的にも全く明確なものではなく、何か真に存在するものとしては殆ど認められはしないで、むしろその存在も疑わしいものとして認められるのである。現今では人間の知恵と理知とはこうした状態の中にあり、事柄が存在しているか否かについて器用に論じることが出来る者が賢い者と見なされており、それが存在しないと論じることが出来る者はそれにもまして賢い者であると見なされているのである。

 

 

 

天界の秘義3833[3]

 

例えば、神秘的なものであると言われている聖言の内意が存在しているという命題を考えてみられよ―そのことが信じられない中は、内意の中に在り、天界全体を無限の多様なもので満たしているほどにも多い無数の事柄の最小のものさえも人間は知ることは出来ないのである。他の例は以下のものである、即ち、神的摂理[神の摂理]について、それは単に全般的なものにすぎないで、個別的なものの中には存在しないか、否かについて議論している人間は摂理の無数の秘義を到底知ることは出来ないのであり、その秘義は数においては人間各々の生命の最初から最後に至るまでの偶発的な出来事のようにも、世の創造からその最後にも至る、否、永遠にさえも至る偶発的な出来事のようにも多いのである。更に、人間の意志は極度に腐敗しているからには、人間は善の中にいることが出来るか否かについて論じている者は、再生にかかわる凡ゆるアルカナを決して知ることは出来ないのであり、また新しい意志が主により植え付けられることすらも知ることは出来ず、また、それが植え付けられることに関わるアルカナを知ることは出来ないのであり、そのことは他の凡ての事についても言われるのである。このことからこのような人物はいかような明確でないものの中にいるかを、彼らは知恵の最初の入口さえも見はしないし、ましてやそれに触れはしないことを知ることが出来よう。

 

 

 

 

真の基督教333

 

暫くして私は再び下界から「嗚呼、如何に学ばれたことよ!嗚呼、如何に学ばれたことよ!」の叫びを聞き、誰がいるのであろうかと辺りを見まわした。と見よ!その叫ぶ者らの直接上に在る天界から天使達が来た。私は彼らにその叫び声について尋ねると、彼らは言った。

 

「この学問のある霊たちは只単に物事について論ずるのみであって、結論に到達することは稀です。それ故、彼らは空しく過ぎ去って行く風に、中が空ろな木の周りの皮に、核の無い扁桃の殻に、また果肉の少しもない果物の皮に似ております。何故なら、彼らの心は内的な判断に欠け、身体的な感覚に隷属しており、感覚自身が決定しない限り、彼らは何らの結論も作ることが出来ません。

彼らは何事についても何ら一定した結論に到達しない。その聞くところのものを何事に限らず、論議の材料とし、果てしもなくこれについては討論し、また争論するからです。彼らは真理を攻撃し、これについて討論することによってこれを千々に砕くことを何ものにも勝って愛し、しかもこれらの者は世にあっては学者たるの尊称を特に要求していたのです。」

 

(学者が)不断に討論し続けることは、帽子或は靴を一度も試してみないで、それが良く合うかどうかと議論するようなものであります。

 

 

 

天界の秘儀3483

 

かく学問上の名声にも有害なのである。

 

 

 

天界の秘儀3820

 

善の中にいる者たち

 

 

 

霊界日記1462

 

かくて彼らは文字の表現を主張し、それを彼ら自身の偏見に従って説明し、時には外的な事柄を、時には内的な事柄を取り上げ、かくてその両方の意義を歪め、利用して、それを彼ら自身の見解にたわめてしまうのである。ここに理解されているように見える人物らは聖言の内的な、またさらに内的な意義を迫害する者らであり、特に自分自身は他の者たちよりも学問がある、と考えている者らである。彼らは他の者たちを彼ら自身に較べて軽蔑すると同時に誇り、身体と世の物を求めるのである。こうした霊らが内的な意義を表象している彼を迫害したことが意味されているように見えるものである。何かこうした迫害がその(内意に根差した)教義にふりかかるか否かは私には未だ分からない、少なくとも無学な者たちはそのようなことは行いはしない。1748年〔60歳〕3月16、17日。

 

 

 

霊界日記2370

 

言葉に執着する者は、物質的な形体的な物に執着して、内部に通じる道を閉じてしまうのである。言葉の哲学的な定義に執着しなかった者たちのように言葉を無意味なものとしてみとめ、その中に何ら物質的な原理を認めはしない者たちには、道はさらに開かれており、またさらに速やかに開かれることができるのである。

学者の盲目について

 

 

 

霊界日記4734小

 

<現代の学のある者[学者]について>

 

わたしが聖書の内意にかかわるそうした事柄を書いたさい、学のある者[学者]らがその場にいることがいく度も許されたが、そのさい、たちまち、漠然としたものが起り、また以下のことを除いては、何事も理解することが困難になることが起ったのである、すなわち、何一つ全く理解されることができないというスフィアが彼らから起ったのである、なぜなら彼らのスフィアはその中にそうした特性をもっているからである。しかし、学はないものの、物事を把握する力では強く、善の中に生き、権威の座におかれた者たちがその場に現れると、そのときは、たちまち、光がさして来て、一つ一つの事柄もことごとく理解されたのである。

 

それで、その学のある者らに―彼らはその際私に書かせようとしたのであるが、その者らに―

 

 

 

霊界日記5245(第8巻)

 

「私は復活についてマホメット教徒と話して、以下のように言った、即ち、復活は世界の凡ゆる物がまさに死滅するばかりにならない中は起りはしないのであり、その時になると〔死滅するばかりになると〕身体と霊魂とは結合すると、キリスト教国に信じられており、また、学者たちの中では僅かな者しか―一千人の中殆ど一人位しか―人間は死後も生きることを、即ち、人間の形をとって生きることを信じてはいないのである、と。こうした事柄に彼らは驚いて、言った、自分たちは、自分たちが死後も生き、その際人間となることを知っており、自分たちは、世で、かの粗悪なスフィアの中で―自分たちに役立ったその着物をただ脱ぎ去ったに過ぎないのである、と。彼らはキリスト教徒がこうしたことを、それが最大に重要な意義を持っているものであるにも拘らず、知りはしないことを怪しんだのである。

 

 

 

神の愛と知恵361

 

 この理由から多く考え、特に多く書いた学者の多くは、その普通の認識を弱め、曖昧にし、実に、破壊してしまっているに反し、単純な者は、自らを知恵では単純な者よりも勝っている者であると考える者よりもさらに明らかに、善い真のものを認めているのである。

 

 

 

真の基督教402

 

(10)自ら深く虚偽を確認した博学の学者は、特に若し、聖書の真理を否認するならば、外面的にはそのように見えないけれど、他に勝って感覚的である。異端は概してかかる人間から発した。

 

 

 

 

天界の秘義3677〔2〕

 

これらの最も全般的な事柄ですらも知られていないため、度と類似性について記してみてもそれは単なる陰の中へ落ち込んでしまうのであり、それは現今の学者たちはこのような事柄を知ろうとは欲していないため、更に甚だしくなっているのである。なぜなら彼らは単なる殻の中にのみさ迷っていて、このような事柄の性質について論じるのではなく、そのような事柄が存在しているか、否かと論じることを愛しており、彼らがそうした状態の中にいる限り、これらの無数の種類の善と真理についてはいかような事柄をも知ろうとは欲しないからである。

 

 

 

 

天界の秘義3812[10]

 

 『骨』は誤謬を意味し、『墓』は誤謬をその中に宿している悪を意味しているため、また偽善は外面では善として現れているが、しかし内面では誤った冒涜的なもので汚れているため、主はマタイ伝に言われている―

 

 偽善者よ、禍いなるかな、学者、パリサイ人よ、あなたらはあなたら自身を白く塗った墓のようなものにしている、それは外では実際美しく見えるが、内では死人の骨と凡ゆる不潔なものとに満ちている、まことにそのようにあなたらもまた外では人に義しいものに見えはするが、しかし内は偽善と不法とに満ちている(マタイ23・27、28)。

 

 これらの記事から『骨』により理解の自分自身のものが、真理の方面でも、誤謬の方面でも意味されていることが今や明白である。

 

 

 

天界の秘義4733[2]

 

 自分は最高の存在を承認していると言ってはいるが、その存在については何ら認識の観念[考え]を持ってはいない者らの大半は神を全く承認してはおらず、その代わりに自然を承認している、なぜなら彼らは自然を把握するからである。基督教徒の間の学者たちの非常に多くの者はこのようなものであるが、そのこともまた彼らが主の人間的なものが神的なものであることを信じないためである。それで人間が神的なものから自らを甚だしく遠ざけてしまい、形体的なものになってしまって、木や石を拝さないように、また人間をたれかその死後拝し、かくてその人間の下に悪魔をたれか拝し、神をいかような方法によっても認めることが出来ないため、神自身を拝しはしないことのないように、かくて教会の凡ゆる物が滅んで、教会と共に人類も滅んでしまわないように、神的なものそれ自身が人間的なものを取って、それを神的なものにしようとされたのである。それで学者たちは主の人間的なものを考えると同時に、それが神的なものではないと信じないように注意されたい、なぜならそのようなことを為すことにより彼らは自ら躓くものを作って、遂には何ごとも信じなくなってしまうからである。

 

 

 

天界の秘義5089[2]

 

これが学者らは単純な者よりも信じることが出来ず、天界の事柄では単純な者よりも賢明でさえなくなっている理由である、なぜなら単純な者は術語を超え、また単なる知識をも超え、かくて感覚的な物をも超えて事柄を眺めることが出来るに反し、学者はそれを為すことが出来ず、凡ゆる事柄を術語と知識とから眺め、その心は術語と知識の中に固着して、牢獄または牢に縛られているようになるからである。

 

 

 

天界の秘義6316

 

 学者の大部分は感覚的なものであると聞くと、あなた方は驚かれるであろう。その理由は、彼らは名誉を得て、それにより利得を得ようとして、ただ名声のためにのみ知識を得ているのであるが、賢明な者になろうという目的を抱いてはいなかったということである、なぜなら学界の科学は凡て賢明になる手段ともなり、また発狂する手段ともなるからである。学者たちは名誉を与えられると、その後は単純な者よりも更に感覚的に生き、その時は神に何かを帰して、深慮と自然とに帰しはしないことは、また他の凡ゆる物を偶然に帰しはしないことは、愚物の為すところであると信じるのである。

 

 

 

天界の秘義9394

 

このことは他生で現今のヨーロッパの学問のある者らから良く認められている、そこでは莫大な数にのぼる彼らは心では無神論者である、なぜなら他生では心が語って、唇は語りはしないからである。この凡てから自己への愛と世への愛との歓喜から考える者らにとり知識はいかようなものであるかが今や明白である。

 

 

 

天界の秘儀10201

 

自己愛にいる世の学者連は誤謬を確認する才知を他よりも多く持ってはいるものの、単純な者たちよりは更に盲目になっている。人間における真理の光は全くそのものの愛に順応しており、すなわち愛が点火されるに比例して、真理は輝くためである。なぜなら愛の善は生命の火のものであり、信仰の真理は理知と知恵である知的な光のものであるからである。この二つのものは歩みを等しくして前進しているのである。

 

 

 

天界の秘義10227

 

主に凡てを帰している者たちは他の者よりも賢明であるが、それは知恵を構成している真理と善との凡ゆるものは天界から、すなわち、天界の主から流入しているためである。主に凡ゆるものを帰することにより人間の内部は天界に向かって開かれるのである、なぜなら真理と善とは一つとして人間自身からは発していないことがそのことにより承認され、このことが承認されるに比例して、自己への愛が去り、自己への愛とともに誤謬と悪から発した暗闇も去ってしまうからである。またそれに比例してその人間は無垢へ、主に対する愛と信仰へ入り、そこから神的なものとの連結が生まれ、神的なものとの連結から流入と照示[明るくされること]が生まれてくるのである。

 

 

 

天界の秘義10227[3]

 

賢明になる能力により記憶知から真理と善とについて論じる能力が意味されているのではなく、また自分の好むことを何なりと確認する能力も意味されてはおらず、真で善いものを識別し、適当なものを選んで、それを生命の用に適用する[用いる]能力が意味されているのである。主に凡ゆるものを帰している者たちは識別し、選び、適用するに反し、主に帰しはしないで、自分自身に帰する者らは単に真理と善とについて論じる方法を知っているにすぎないのである、かれらはまた他の者から発しているものを除いては何ごとも認めもしないが、そのことも理性から発しているのではなくて、記憶の活動から発しているのである。

 

彼らは真理そのものを認めることができないため、外側に立って、何なりとその受け入れるものをそれが真であれ、誤りであれ、確認するのである。記憶知から学者流にこうしたことをすることのできる者らは世から他の者以上に賢明なものであると信じられているが、しかし彼らが凡ゆるものを彼ら自身に帰すれば帰するほど、かくて自分自身から考えることを愛すれば愛するほど、益々発狂してしまうのである、なぜなら彼らは真理よりもむしろ誤謬を、善よりはむしろ悪を確認し、しかもそれは彼らが世の妄想と外観以外のいかような源泉からも光を得ておらず、従って彼らは天界の光から分離した、自然的な光と呼ばれる彼ら自身から光を得ており、その光は、そのように分離すると天界の諸真理と諸善については暗闇そのものとなるためであるからである。

 

 

 

天界と地獄354

 

私は学者たちの多くの者と彼らが世から去った後話すことを許された、その或る者はすぐれた名声の持主であって、文学界ではその作品のために知れ渡っており、また或る者はそれほど有名ではなかったものの、しかしそれでも非凡な才能を持っていたのである。心で神的なもの[神]を否定した者らは、いかほど口では神を告白しても、非常に愚劣なものとなって、社会的な真理を殆ど何一つ理解出来ず、まして霊的な真理は何一つ理解出来なかったのである。彼らの心の内部は黒く見えるほどにも閉じられ―なぜなら霊界ではこうした物は目に示されるからである―それで彼らは天界の光には全く堪えることはできず、また天界からのいかような流入も許容することが出来ないことが認められ、また見られもしたのである。その内部に見られたその黒さは、科学と学問によって神的なものを強固に否認した者のもとではさらに甚だしく、またその範囲も広かった。こうした者は他生では誤ったものを凡て歓喜をもって受け入れ、それをスポンジが水を吸い込むようにも吸い込むが、真理はバネのきいた骨質の物がその上に落ちてくるものをはね返すように、はね返すのである。神を強く否認して、自然を確認した者の内部は骨のようになり、その頭もまた、鼻までも、象牙のように固く見えるとまた言われているが、それは彼らはもはや認識を何ら持っていないことを示しているのである。こうした種類の者は沼のように見える泥の中にひたされ、そこでその誤謬から変化してきた妄想のため絶えず不安の状態におかれている。彼らの奈落の火は栄誉と名声を求める欲念であり、その欲念から彼らは互に罵り合い、奈落の熱意から、そこで自分を神として拝まない者を責め苛み、これを交互に繰返している。神的なものを承認することによって天界から光をそれ自らの中に受け入れなかった世の学問は凡てこのような物に変化する。

 

 

 

天界の秘義353

 

誤った理知と知恵とは神的なものを承認しない凡てのものである、なぜなら神的なものを承認しないで、神的なものの代わりに自然を承認する者は凡て、世では如何ほど教育があり、学問があると信じられていても、形体的な感覚的な面から考えていて、単に感覚的な者にすぎず、彼らの学問は、世で目から見られる物を超えて昇らず、その目で見る物を記憶にしまい込んで、殆ど物質的に眺めているが、しかしその同じ科学は真に理知的な者には理解を形作るのに役立っているのである。

 

 

 

天界と地獄464

 

 外なる、または自然的な記憶は死後も人間の中にはあるものの、その中の単に自然的な物は他生では再現はしないで、相応により自然的なものに接合している霊的な物が再現する、が、それが目に示されるときは、自然界における形に全く似た形をとって現れるのである、なぜなら天界で見られる物は凡て、その本質では自然的なものではなくて、霊的なものではるが―そのことは天界の表象的なものと外観とを取扱った章に示されているのを見ることが出来よう(170−176)―世と全く同じように現われているからである。しかし外なる、または自然的な記憶は、物質的なものから、時間と空間から、その他自然に属したものから来ているところの、その記憶の内容となっているものの方面では、世で人間の霊に役立ったようには霊界ではその霊には役立たない、なぜなら人間は世で外なる感覚から考えたが、同時に内なる、または理知的な感覚から考えなかったときは、自然的に考えはしたが、霊的に考えはしなかったからである。しかし他生で霊が霊界にいるときは、霊は自然的には考えないで、霊的に考えるのであって、霊的に考えることは理知的に、または合理的に考えることである。従って外なる、または自然的な記憶はその物質的な物の方面ではそのとき静止し、人間が物質的な物によって世で吸収して、合理的なものとした物のみが役立つのである。外なる記憶が物質的な物の方面では静止する理由はその物質的な物は再現されることが出来ないためである、なぜなら霊と天使とはその心に属した情愛と情愛から発する思考から語るからである。そうした理由から、天使たちの言葉と人間に語る天使たちの言葉について述べたことから明白となるように(234−257)、彼らはそれに[情愛とそこから生まれる思考に]一致しない物は語ることは出来ない。従って人間は死後は、世で言語と科学とに通じていた度に応じて合理的になるのではなく、その言語と科学により合理的になった度に応じて合理的となるのである。世ではヘブル語、ギリシャ語、ラテン語のような古代言語に精通しているために学者であると信じられはしたが、そこに書かれていることによって、己が合理的な能力を培わなかった多くの者と私は話したことがある。彼らの中にはそうした言語を何一つ知らない者のように単純な者もおり、愚鈍な者さえもいたが、しかも彼らには自分は他の者よりも賢明であるかのような誇りが残っていたのである。人間はその記憶の量に応じて賢明であると世で信じ、多くの事をその記憶に詰め込み、殆ど記憶のみから話し、従って自分自身から話さないで、他人から話し、その記憶している物によって合理性を何ら得なかった幾人からの者とも私は話したことがある。彼らの中には愚劣な者がおり、頓馬で何かの真理が真であるかないかを全く把握せず、自称学者連から真理として掴まされる誤謬をことごとく真理として掴み取り、従って他人の言葉を聞いているときでも何一つ合理的に認めることの出来ない者もいた。私はまた、世で多くの著述をし、実に各種の科学的な問題について大いに書きまくって、非常な学者としての名声を勝ち得た幾人かの者とも話した。実際彼らの中には真理についてそれが真であるか、否かを論じることの出来る者がおり、真理の光の中にいる者たちに向くと、その真理であることを把握した者もいたが、しかも彼らはそれを理解しようとは願わず、それで自分自身の誤謬におり、引いては自分自身の中にいると、それを否定したのである。ある者は教育を何ら受けなかった者の知恵くらいのものしか持っていなかった。かくて各々はその記した、または書き写した科学の内容によりその合理的な能力を培った度に応じて互いに他から異なっていたのである。しかし教会の諸真理に反対して、科学から考え、そこから誤謬を確認した者らはその合理性を培わないで、ただ世では合理性があると信じられているところの論じる能力のみを培ったのである。しかしそれは合理性から分離した能力であり、その好むものを何であれ確認し、しかもそれを誤謬は認めるが、真理は認めない偏った主義[原理]と妄想とから確認する能力である。こうした人物は真理を決して承認することは出来ない、なぜなら真理は誤謬からは認められることは出来ないが、誤謬は真理から認められることが出来るからである。人間の合理的な能力は庭園と灌木の林のようなものであり、また新鮮な土地のようなものであり、記憶は土壌であり、科学の真理と知識とは種子であり、天の光と熱とがそれを成長させるのであって、光と熱とがなくては発芽はしない。人間の心も、神の真理である天の光と神の愛である天の熱がそこに容認されないなら、同じであり、神の真理と愛のみから合理的な能力が発している。天使たちは、学者の大半が凡ゆる物を自然に帰し、そのことによって自分自身の心の内部を自ら閉じ込め、かくして天界の光である真理の光からは真理を何一つ認めることが出来ないことを非常に悲しんでいる。それで他生では彼らは、その理論によって単純な善良な者たちの間に誤謬を撒き散らして、彼らを迷わせないように、その論じる能力を奪われて、荒野へ放逐されている。

 

 

 

3.サンダー・シングより

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P93

 

求道者:「このようなかけがえのない機会は、この世の合理主義者たちのよくいう主観作用でしかないのでしょうか。わたしは、この啓示は客観的で現実のものと、心から信じています」

 

メルキゼデク:「子よ、この世の識者のいうことに心悩ましてはならない。彼らのほとんどは神なき利己主義者である。彼らがこれほどまで誤った考えをし、愚者を手引きする愚者と化しているのはこのためなのだ。神のお造りになられた世界はすべて、神の中に、神を通して存在するとはいえ、被造物そのものは神ではなく、神の一部でもない。だが、それは神の存在を離れては存在しえない。これは、被造物が客観的形をもたず、ただの主観にすぎないことを意味するものであろうか。断じて、そのようなことはない。事実、わが民の経験する神との出会い、霊的経験はみな、主観でも想像の所産でもなく、客観的で真実のものである。それは、疑いもなく、彼らがわたしと交わった所産なのだ」

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P144

 

子供は、そこに隠された真理について何も知らずに、「神」という言葉をただ言葉をただ言葉として発音するだけかもしれないが、心が成長してゆくにつれ、その言葉の意味について、少なくとも何かを考え理解し始める。同じように、どれほど学識があろうと、霊的生活において初心者にすぎない者は、「肉となったことば」つまりキリストを、ただの歴史上の偉人か預言者の類(たぐい)ぐらいにしか考えず、神についてそれ以上思い巡らすことはない。だが、霊的経験の中で成長し、主の臨在を楽しむにつれて、キリストは神の化肉であり、「神のご性質が余すことなく完璧に体に宿られている」(コロサイ2・9)こと、「主の中に生命がありその生命は人の光であった」(ヨハネ1・4)ことを悟るのである。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P197

 

2.世には、わたしについて知ってはいても、わたし自身を知らぬ者が大勢いる。それは、彼らがわたしと個人的つながりをもたないからである。このため、彼らはわたしを真に理解することも信じることもなく、自分の救い主、主としてわたしを受け入れることもしない。人はいかに学識があろうとも、霊眼が開かれるまではわたしを知ることができない。わたしの栄光をみることも、わたしが神の受肉であることも理解できないのである。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P426

 

 現代における批評家たちの攻撃は、高層批評あるいは近代主義と呼ばれているが、それは霊的体験と生命をまったくもたない、名ばかりのクリスチャン信仰を崩すことはできても、実在に対して、あるいは実在を信じる者に対しては、まったく力がない。一方、それは真の信仰者が力を強め成長するための手段となる。一時の流行病が感染者をさらって消えてゆくのと同じく、合理主義という病をまき散らす批評家たちも、いずれは姿を消し、彼らとともに病も死滅する。

 

二、学者の批評や反論は、真実よりも個人の憶測に頼っていることが多い。批評家が学者だからといって、批評が学問的とは限らず、仮説や推測に基づくため、受け入れるに値しないことの方が多いものである。彼らの説の中には天の光を反映するものもあるかもしれないが、同時に地獄の火を反射するものも多いのである。そこで、学識ある批評家すら、自分自身の誤りと幻想のとりこになる場合が少なくない。彼らの地上的知恵と哲学そのものが、霊感を受けた聖書記者たちの深い霊的意味を知るのを難しくしているのである。彼らは、文体や年代、記者の特長といった外側の殻ばかりをつつき、「実在」という核は調べずにいる。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P379

 

中には、学問があり人を教育することはできても、救いのメッセージを持たない人々もいます。彼らは、多くのことを教育できても、霊魂を救う霊的なメッセージを持ってはいません。

 

 

 

 

4.ヴァッスーラより

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち8巻P39

‘95・4・28

 

破滅の立て役者たちは、学位に輝くが汚れており その悪臭は今や地球全体を覆っている。彼らは聖書でこう書かれている者たち:不思議も行え、世界の十の塔を そしてやがては地上のあらゆる国たみをその能力で惑わす。あらゆる人がその魔力に落ちていく・・・その軍勢がととのったあかつきにはしるしを掲げ 三匹の汚れた霊の軍団と相まって 我が永遠の生けにえに対する戦いをいどもう、これを聖書では:「万物の支配者である神の大いなる日の戦い・・」(黙示録16・14)と呼んでいる。

(中略)

彼らの築いた塔―すなわち学者という名を持って 二人の野獣を信奉する者たちは皆 崩れ去ろう!

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/7巻P160

 

 ああ・・・ヴァッスーラ、どれほどこの時代を深くうれいているか。 荒野にいる彼らに手を伸ばし、そのしおれた霊魂を生き返らせようと やって来た、だが私の救いの手が 全く見えないようだ・・・来なさい、心やさしい娘よ、私の名によって預言し 新しい契約について私の民に伝えなさい、私ども二つの心が槍でつらぬかれる日が再び来ると。 敵は我が聖所、祭壇と聖櫃を荒らし 彼らの死にいたる忌むべきものを打ち立てよう。 国ぐにが存在しはじめて以来 比類ないほど大きな悲嘆の時代が来る。 彼らは力と陰謀によって我が家を襲う。 反逆はすでに進行しているが、おもて立ってはいない、そして反逆者が おおやけに我が聖所を冒涜するには、それを抑えている人をまず取り除くしかない。 ああ 反逆者のおだてに乗って なんと多くの人が倒れよう!しかし私自身の者たちは足場をゆずらず、むしろ、私のためにいのちを投げ出す。目に涙して、言っておく:「あなた方は、我が民よ、火によってこの侵入者に試されよう・・・」彼の包囲網はすでに世界を包囲しかかっている。

 

 ライオンはねぐらを離れた・・・このたびは聴いて理解しなさい:侵入者は学者、この学者たちは野獣につき従い 私の神性、復活と我が伝統を否定する。 彼らは聖書でこう言われている者たち:「お前の心は高慢になり、そして言った。<私は神だ。私は海のまん中にある神々の住み家に住まう>と。しかし、お前は人であって神ではない。ただ自分が神の心のようだ、と思い込んでいるだけだ・・・」(エゼキエル書28・1−2)今日、娘よ、私は封印されていたこれらの秘密を 書きおろすことのできる心、二心ない心を見いだした、その秘密は今や必ず成就するがゆえ。

 

 

5.マリア・ワルトルタより

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P244

 

私はこの世が偶像崇拝とならないように、何時までも話し続ける。そのために選んだ人々に、私のことばを繰り返せと言い残す。神の霊が話されるから、知恵ある者は、人間に理解できないことをも理解する。また学者は私のことば、構文、場所、道具などを研究するだろうが、“選ばれた人々”は、このような研究に時を費やさず、ただ愛に満たされて、みことばを聞く。

 

そして彼らは、話すのが愛であると理解するであろう。彼らは学者たちの美辞麗句、あるいは偽予言者、または自分で実行してもいない教えを教える偽教師の教えを、私から与えられる単純な真理のことばと区別できるだろう。世間は愛を行う彼らを憎むだろう。世間は光である私を憎み、光の子らを憎み、同時に自分の罪を受け入れてくれる闇を好んでいるからである。

 

私の羊たちは私を知る。未来の羊も私を知る。私が先達として歩む血と苦しみにも従い、私の後を歩む。それは人間の霊魂を知恵へ導く道である。それは正義を教え、世間とサタンの闇を照らし、探し求める人を道と、真理と、命へ導く血と涙の道である。霊魂は何よりも自分たちを命、真理、正しい道へ導いてくれる人を必要とする。

 

 

マリア・ワルトルタ/天使館第1巻P369

 

学者たちの女王であるマリアへの教えをもって、学者たちへの教えを終わります。

 

 

マリア・ワルトルタ/天使館第3巻上P138 /171・3

 

偽預言者や間違ったことを教える学者たちを警戒しなさい。彼らは羊の皮を被ってあなたたちのもとに来るが獰猛な狼であり、聖者を装ってやって来るが神を嘲笑する者たちであり、真理を愛すると言いながら嘘を常食としています。彼らについて行く前に、彼らを仔細に観察しなさい。

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P244

 

私の羊は愛を知り、私の声を聞き分ける。私の声を知るとは、どんなことか。天から来る真理の声を、偽りの預言者のいろいろな声の中から聞き分けられることだ。今だけではなく、何時までもそうだ。知恵に富むと言われる人々の中でも、神について話す声の中から、私の声を聞き分けられる人は少ないだろう。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/3卷上P138/171・3

 

 

偽預言者や間違ったことを教える学者たちを警戒しなさい。彼らは羊の皮を被ってあなたたちのもとに来るが獰猛な狼であり、聖者を装ってやって来るが神を嘲笑する者たちであり、真理を愛すると言いながら嘘を常食としています。彼らについて行く前に、彼らを仔細に観察しなさい。

 

(中略)しかし人間の行為、真の行為、すなわち家庭で、市場で、隣人に対してしもべたちに対してなされるその振る舞いこそ『彼は主のしもべである』ことを証言するのです。なぜなら聖なる行動こそ真の宗教の結実だからです。

 良い木は悪しき実を結ばず、悪い木は良い実を結びません。

 

 

6.トマス・ア・ケンピスより

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・1・3

 あなたがもし謙遜でなくて聖三位のおぼしめしにかなわぬならば、聖三位に ついて深い議論をすることができても、なんの役に立とう。
 まことに人を聖人義人にするのは高尚な言葉ではない。私たちを神に愛される 者とするのは、ただ徳の高い生涯だけである。
 私は痛悔の定義を知るよりも、むしろ痛悔を心に深く感じたい。
 あなたがたとい聖書全部とあらゆる学者の言葉とをことごとく暗記したところで 神を愛する心とその恩恵とがなければなんの役に立とうか。
「空の空なるかな、すべて空である」(伝道書1・2)しかし神を愛し、これに のみお仕えすることは別である。
 この世を軽んじて天国にはいろうと努めるのこそ最高の知恵である。」

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・2・1

 

人は生まれつき、知りたいと望む。けれども多く知ったところで、神を畏れる心がなければ何の役に立とう。

まことに神に仕える謙遜な百姓は、自分という者をお留守にして、天体の運行を観測する高慢な学者より、はるかにましである。

本当に自分を知る人は、必ず自分をつまらぬ者と考えて、他人にほめられることを喜ばない。

たとい私が世の中のことをことごとく知ったところで、もし愛がなかったとしたら、神のおん目から見てなんの役に立とう。神は私の行いによって私をお裁きになるからである。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストにならいて/1・2・2

 

 むやみに物事を知りたいと望む心を捨てよ。なんとなれば、それは心の乱れと迷いとを引き起こすに過ぎないからである。

 いろいろなことを知っている者は、とかく他人に博学と思われ賢い人と言われたがる。しかし、知ったところで霊魂に利益の少ないことや、あるいは全く利益のないことが多いのである。

 だから自分の救霊に有益なことを除き、その他のことを考えるのは、ほんとうに愚かである。

おしゃべりは霊魂を満足させぬ。ただ善良な生活だけが心をさわやかにし、潔白な良心が神に対する深い信頼を起こさせるのである。

 

 

 

キリストに倣いて1・3・2

 

 私たちには物の種類や区別を論ずる学者の説など、何の関係があろうか! 永遠のみ言葉を聴く人は、さまざまの説に惑わされずにすむのである。

 万物は一つのみ言葉によって成り、すべてこの唯一(ひとつ)の創造主(もの)を語っている。これこそ万物の本源(みなもと)であって、いまも私たちにお語りになるのである。

 このみ言葉がなければ、だれひとり明らかに悟ることも正しく判断することもできない。

 この一つをすべてとし、すべてをこの一つに帰し、またすべてをこの一つのうちに見る人は、決して心を動かされず、神の平安を失わないだろう。

ああ真理である神よ、私を永遠(とこしえ)の愛のうちに、主と一つにして下さい。

多く読んだり聞いたりすることは、しばしば私をウンザリさせます。しかし私の願うもの望むものはみなあなたの中にあるのです。

すべての学者は口を閉じよ、あらゆる被造物はみ前に黙せよ、ただ主だけ私にお語り下さい!

 

 

 

 

7.デボラ

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知第1巻下P3

 

それで主よ、あなたは、ご誕生のとき、ヘロデや、エルザレムの司祭長たちではなく、普通の羊飼いを・・・問題をおこさず、すなおに信じるものをお呼びになりました。

そうです、イエズスさま、あなたは、あなたを学問する人たちにお現れにならないで、あなたを愛する者に現れてくださいます。

 

 

 

 

8.学問上の名声に有害

 

 

天界の秘義3483

 

 学者は存続は絶えず発生することであることを知ってはいるが、依然、自然は主の神的なものから最初存在するにいたったように、その神的なものから絶えず存続していると言うことは誤謬の情愛に反し、かくて学問上の名声にも有害なのである。それで各々のまた凡ゆる物は神的なものから存続し、即ち、絶えず発生しており、そこから派生している各々のまた凡ゆる物も、それらの物が存在するようになった手段であるそれらのものを必然的に表象しないわけにはいかないからには、目に見える宇宙は主の王国を表象する劇場以外の何ものでもなく、またこの王国も主を表象する劇場であることが推論されるのである。