偶然はない
1.聖書
2.スウェーデンボルグ
3.サンダー・シング
4.トマス・ア・ケンピス
5.マリア・ワルトルタ
6.デボラ
7.ヴァッスーラ
8.聖母から司祭へ
1.聖書
マタイ10・26−31
人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。
2.スウェーデンボルグ
天界の秘義5179
私はかつて胃下部に不安な感情を認めたが、そのことからそのような霊が近くにいることが私に明白となった。 私は彼らと語って、あなた方のスフィアは不安を生み出し、私のもとにいる霊たちのスフィアとは一致しないから、あなた方は去らなくてはならないと言った。そのとき私は彼らとスフィアについて語って、以下のように言った、人間の周りには非常に多くの霊的なスフィアがあるが、人間は、凡て霊的なものと呼ばれているものを否定し、また或る者は、凡て目に見えず、触れないものはことごとく否定しているため、それが事実であることを知らないし、また知ろうともしない、かくて霊界から発して、人間の生命に一致したスフィアが人間を包囲しており、そのスフィアにより人間は情愛の類似した霊たちと交わっている、またそのことによって多くの事柄が起るが、凡ゆる物を自然に帰している人間はそれを否定するか、またはさらに不可思議な自然に例えば運に帰しているのである、なぜなら或る人々はその経験によって、運と呼ばれるものが秘かに働いていることは充分納得はしてはいるが、その源泉の何であるかは知らないからである。この隠れたものは霊的なスフィアから発していて、摂理の究極的なものであることは、他の所に主の神的慈悲の下に経験により証明されたものから示すことにしよう。
天界の秘義5508[2]
彼らにふりかかった事柄は摂理の事柄であり、または供えられた事柄であるということは、ふりかかったり、または不意に起きたりする事柄は凡て―それは他の言葉では偶然的なものと呼ばれて、偶然、または運に帰せられてはいるが―摂理に属したものであるためである。神の摂理がこのように目に見えず、また不可解なままに働いているのは、人間が事件を自由に摂理から、または偶然か、その何れかに帰すためである、なぜならもし摂理が目に見えて、把握出来るように働くなら、人間はその見て、把握するものから、それは摂理から来ていると信じ、後になってその反対の考えに移る危険が在るためである。かくて真理と誤謬とは内的な人の中に連結して、真理は冒涜され、その冒涜には永遠の堕地獄が伴うのである。それでこのような人間は、信仰について、その後で信仰から後退するよりは、不信仰の中に留めおかれる方がまさっているのである。
天界の秘義5508[3]
これがイザヤ書に意味されている事柄である―
この民に言いなさい、あなたらは聞いて聞くがよい、しかし理解してはならない、見て見るがよい、が、知ってはならない。この民の心を鈍くし、その耳を(聞くに)ものうくし、その目に塗りつけなさい。かれらがその目で見、耳で聞き、心で理解し、再び向きなおって、いやされないためである(イザヤ6・9、10、ヨハネ12・40)。
奇蹟が現今行われないのもまたこうした理由のためである、なぜなら奇蹟は、凡て目に見えて、把握される事柄のように、人間を強制して信じさせはするが、何であれ強制するものはことごとくと自由を奪い去ってしまいはするものの、人間の改良と再生とはすべてその自由の中に行なわれるからである。自由の中に植え付けられないものは存続はしないのである。それはその人間が善と真理の情愛の中にいるとき自由の中に植え付けられるのである(1937、1947、2744、2870−2893、3145、3146、3158、4031番を参照)。
天界の秘義5508[5]
現今の人間はその見ないものを信じなくてはならないということは、ヨハネ伝の、トマスに対する主の御言葉から明白である―
トマスよ、あなたはわたしを見たため、信じた、幸なるかな、見ないが、信じる者たちよ(ヨハネ20・29)。
不意に起きる事柄は、換言すると、偶然または運に帰せられる事柄は神の摂理から起っていることを教会は実際承認はしているものの、それでも信じてはいないのである、なぜならたれが、その者が外観的には[明らかに]偶然に何かの非常な危険から逃れると、自分は神により守られたのであると言って、神にまた感謝をささげないであろうか。また同じくかれが名誉を与えられるとき、また富むときも、かれはそれを神から与えられた祝福と呼ぶのである。このように教会の人間は不意の出来事も摂理から起っていることを承認はしているものの、それでも信じてはいないのである。しかしこの主題については、主の神的慈悲の下にさらに多くのことを他の所で述べよう。
天界の秘義6485
彼らは人間自身の明敏[利口]は神的摂理に比較するなら、一片の塵芥を大気全体と比較するようなものであって、それは無であり、空しいものであると言った。彼らは、凡ゆる物を己が明敏[利口、賢明]に帰する者は暗い森の中を出口を知らぬままに彷徨って、出口を見つけると、それを自分の利口なことに、または幸運に帰するかする者のようなものであると言い加えた。天使たちは更に、偶然も凡て摂理から発しており、多くの理由から摂理は黙したまま秘かに働いており、もしそれが公然と働くなら、人間は到底改良されることは出来ないと言ったのである。
天界の秘義6493
凡ゆる物は、否、凡ゆる物の中でも最小のものでも、最小のものの中でも最小のものでさえも、その一歩みそのものでさえも、主の摂理により左右されており、それに反したスフィアが支配するときは、不運なことが起こるのである。彼らはまた以下の事実を確認した。すなわち、偶然というようなものはない。偶然、または幸運と見えるものも、凡ゆる物が比較的不定なままに存在している秩序の究極的なものにおける摂理である。
天界の秘義6494
ゲームにおいてさえ、幸運に帰せられているものは霊界から来ており、まして人間の生活のコースの変遷に関連して人間に起こるものはさらにそこから来ているのであり、幸運と呼ばれるものは秩序の究極的なものにおける摂理の流入から発していて、そこにそれがそのように現れるのであり、かくて摂理は、髪の毛一筋でさえも神の意志がなくては頭から落ちはしないという主の御言葉に従って、凡ゆる物の中で最も個別的なものの中にすら存在していることを私は知ることが出来たのである。
天界の秘義7007
偶然的なことがらも摂理から発している。
天界の秘義7761
霊的な善と自然的な善とを明らかに区別しなくてはならない。前に言ったように、霊的な善はその性質を信仰の諸真理とその豊かさとその関連性から得ているが、しかし自然的な善は人間と共に生れており、また不幸、病気、そういったものにより起っていると同じく、偶然に生れてくるのである。自然的な善は何人をも救いはしないが、霊的な善は凡ての者を救うのである。その理由は以下のごとくである、即ち、信仰の諸真理を通して形作られる善は天界が、即ち、主が天界を通して流れ入られ、人間を悪から遠ざけ、後に彼を天界へ挙げられることが出来る面であるが、自然的な善はそうしたものではないのである。それで自然的な善の中にいる者らは、誤謬が真理の形をとって現れてさえいるなら、その誤謬によっても容易に、(ちょうど)真理により拉し去られるようにも拉し去られることが出来るのであり、また悪が善として示されさえするなら、その悪によっても容易に(ちょうど)善により導かれるようにも導かれることも出来るのである。彼らは風の中の羽毛のようなものである。
天界の秘義9010
天界の秘義9244
天界的愛[天界の愛]の中にいる者は凡て、自分たちは主により救われるであろうという信頼をもっている、なぜなら彼らは主は、信じ、主が教えられた戒めに従って生きる者たちに永遠の生命を与えるために世に来られ、主はその者たちを再生させ、かくしてその者たちを天界に適わしいものとし、主はそのことを、人間の助けなしに、純粋な慈悲から、主御自身のみで行なわれることを信じるからである。このことが『主を信じること』により意味されているのである。
天界の秘義10227
主に凡てを帰している者たちは他の者よりも賢明であるが、それは知恵を構成している真理と善との凡ゆるものは天界から、すなわち、天界の主から流入しているためである。主に凡ゆるものを帰することにより人間の内部は天界に向かって開かれるのである、なぜなら真理と善とは一つとして人間自身からは発していないことがそのことにより承認され、このことが承認されるに比例して、自己への愛が去り、自己への愛とともに誤謬と悪から発した暗闇も去ってしまうからである。またそれに比例してその人間は無垢へ、主に対する愛と信仰へ入り、そこから神的なものとの連結が生まれ、神的なものとの連結から流入と照示[明るくされること]とが生まれてくるのである。この凡てから或る者は賢明になり、また或る者はそれほど賢明でなくなることが何処から生まれてくるかが明白であり、また富んだ者はさらに多く捧げてはならないし、貧しい者もさらに少なく捧げてはならない理由も明白である―すなわち、凡ての者は同じく賢明になる能力を持っているのであり、実に賢明になる等しい能力を持っているのではないが、何れも賢明になることが出来るため、賢明になる能力を持っていることにおいては似ているのである。
神の摂理212
偶然を口にしない者があろうか。(中略)しかし我々が漠然と偶然と呼ぶものの原因は知られていない。
運について、流入について
霊界日記4562
極めて再三私は運について霊たちと天使たちと話したが、運は、世では、恰も偶発的なものであるかのように思われている、なぜなら人間はそれが何処から発しているかを知らないからであり、運の一切のものは偶発的なものであるかのように思われるからであり、また、更に、人間はそれを自分自身に、自分自身の熟慮に帰し―それにまた彼はそれを向けてしまい―何一つ神的なものに帰しはしないからである。極めて再三恰もそれが運から起こっているかのように思われるような経験が私に起ったのであり―例えば、些末な不運なことが起ったのであるが、後で天使たちから、不運をもたらしてくるような種類の霊らがその場にいたため、またその霊らのスフィアが、天界から発し、かくて神的なものから発しているスフィアを制圧したために、そのことが起ったことを示されたのである。そのことがそのあるがままに示された。更に、悪霊らはその術策により、何らかのスフィアを取得し、そのことを遂行してしまった際、ちょうど偶然の出来事または災難のような不運なことが起ったのである。そのことからまた以下のことが認められた、即ち、凡ゆるものは、凡ゆるものの中でも最小の部分さえもが、最も些末な一歩み、また最も些末な黙礼にさえ至るまでも、神の摂理により支配されており、神的なもの[神]から発しているスフィアに反しているような状態が行きわたる際、不運が起ってくるのである。しかし真の不運は人間の永遠の幸福と浄福とに関わるものであって、世に在るようなものに関わるものではない、なぜならそうしたものは人間には有害なものであるときでさえも幸福なものに思われるからである。運の、また偶然の事柄はそこから発しており、厳密に偶発的な出来事と呼ばれるものは何一つ、存在しないことを、私は多くの経験から教えられたが、その経験は私はここに引照することは出来ない。
霊界日記4567
かつて私は或る一人の人物と勝負が全く偶然にかかっているゲームを行った、その際私の周囲で霊たちはチャンスまたは不意の[偶発的な]状況について考え、幸運は自分らには輝いた雲により、不運は黒い雲により表象されている、と言い、また、その際、自分らは、その黒い雲がそのもとに在る者は決してそのゲームに勝つことは出来ないが、その輝いた雲がそのもとに在る者は必ずそのゲームに勝つことが出来ることを認めたのである、とも言い、そのこともまた起ったのである。彼らはそのことを主張し、偶発的な状況は何処から起ってくるかを把握したのである、即ち、それは主の摂理から、また秩序の究極的なものへ注がれる主の流入から発しており、こうしたことは、主の摂理が凡ゆるものの最も微細なものの中にも働いていない限り、決して存在はしないのである。
3.サンダー・シング
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P417
「偶然」という語は、原因のわからぬ現象を説明するのに使われる言葉だが、現実には原因なき結果など、この世に一つもない。
4.トマス・ア・ケンピス
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・50・4
主のご計画とみ摂理とがなく、原因なくして地上に行われることは一つもありません。
5.マリア・ワルトルタ
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々1/P261
そうです。皆がそう考えれば互いに憎しみはなくなります。さっき、あなたは、あの人たちの“宗教”は何でしょう、と言ったけれど、それに私が答えます。
第一の掟は、神と隣人への愛を命ずる聖なる宗教です。敵国であっても、法律への従順を教える宗教です。イスラエルの兄弟たちよ、聞きなさい。神のゆるしなしにこの世で起こることは何もない。自国にとって比類もなく不幸な、敵の侵入にしてもそうです。しかし、そこの人々が率直に自分の行動を調べるならば、そのような不幸はほとんどいつも神にそむく己の生き方によるものだと告白すべきです。
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P136
「今日、偶然あなたに会えるとは!」
「偶然? なぜ神のおかげと言わないのですか」
「ヘブライ人の神が真の神であるというわけですか。だれからも愛されていないヘブライ人のような神だったら、負傷者もあわれんでくださらないでしょう」
「真の神はヘブライ人と同時にローマ人、ギリシャ人などすべての人たちの神です。存在するのは唯一の神だけなのに、多くの人はそれを知らないし、知ろうともしません。それを知っていれば、互いに兄弟のようになれるから、憎みも、ざん言も、仇討ちも、淫乱も、盗みも、人殺しも、姦通も、詐欺もあるはずはありません。真の神を知っている私は、その神を知らせるために来たのです」
「いろんなことが言われていますね。我々はよく耳を立て、人の噂を聞き、百夫長と総督に伝えるのですが、あなたについては、神であると言われています。本当ですか?」
下士官はこう言いながら、かなり当惑している様子である。
「その通りです」
「はあ、すると、神々が人間と話を交わすために下って来ることは本当なのですか? 私はローマの旗を守って全世界を巡って来ましたが、この年になって神の一人に出会うとは思ってもみませんでした」
「神はひとりです。神々の一人ではありません」とイエズスは彼のことばを訂正する。しかし下士官は一人の神と一緒に歩いているという考えに呆然自失の態で、もう口をきかず、ただ考え込んでいる。
6.デボラ
デボラ/生ける神よりあかされた英知/1巻上P135
デボラ:「先生、もしもご迷惑すぎるようでなければ、一つの質問をさせていただきたいのですが・・・」
(ここで主は私をさえぎられます)。
イエズス:「学びなさい、小さな子よ、『あなたは私にお知らせになりました、あなたは私にお見せになりました・・・』という風に言うことを。なぜなら人のために全てをもくろむのは常に私であり、決して何ごとも偶然ではないのだから!」。
7.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P269
87・7・10
被造物よ! 我が被造物よ! 今日のあなた方は私が神であることを否定しているが 明日は私を讃美し、礼拝して 私を望むようになろう! ♡ さあ ヴァッスーラ 私が誰であるか決して忘れないで、しっかりつかまっていなさい、昨日のように呼びかけるなら(*)馳せて来よう、愛している、私を望み愛することによって 私を尊びなさい ♡
*それは夕べのことでした。私どもの新しい住まいの守衛人は玄関入口を夜の十時には閉めます。私どもは、鍵を持って出るのを忘れていました。扉が閉じているのを見た途端、閉め出されたことが分かったのです。私はドアの所に行って懇願しました。「ああ 神さま まさかドアが閉まっていようとは、どうか開けて下さい!お願いです!」鍵はかかっていたのですがまさにその時、ちょうど近所の一人もそこに到着して、開けてくれたのでした。
このような状況の時 あなた方の殆どは運がよかったと言って、私のことを忘れている! 私の語彙の中に「運」という言葉はない! あなた方を助けるのは私です、被造物よ ♡
8.聖母から司祭へ
聖母から司祭へ1978.4.10
それで、私は、あなたがたひとりびとりを、小さく、ますます小さなものにしていきます。さらに、まったく自我が消えてしまうところまで小さくします。私には、あなたがたのその拙さが大切です。それは、あなたがたのみじめさは、私の汚れなき心のあわれみ深い愛を引きつけるからです。
私は、あなたがたのうちからも、まわりからも、たのみとすることの出来るものを、すべて亡ぼしてしまいます。それは、あなたがたを、素直と信頼へみちびき、子どもとしての依託の道に進ませてあげるためです。
聖母から司祭へ1979.3.25
主が、今日、あなたがたの天の母の汚れなき心からほとばしり出る声によって、あなたがたに願われることに承知してください。その承諾を私の承諾にならいなさい。もうけっして、疑ってはなりません。
よそにさがしてはなりません。そうです、あなたがたは、もう乞食のように、保障や、励ましなどを探す必要はありません。
私の業をおこなうために、ただ、私の汚れなき心だけが、あなたがたの支えとなるように、計画されています。あなたがたのまわりにある支えは、全部私が、くつがえします。それは、あなたがたに、人の励ましとか、ただの保障に身をゆだねさせたくないからです。