感覚的

 

 

 

自然的

毒蛇知識の木の蛇

見えない

 

 

 

 

コリント1・1・21

 

世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。

 

 

 

コリント1・2・12−14

 

わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、““霊””に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。

 

 

 

真の基督教402

 

(六)単に自然的な、感覚的な人間

 感覚的な人間の性質と、性格とを理解する者は僅少であるが、是は重要であり、それ故その人々のことを記さねばならない。(1)感覚的な人間は、凡ゆる物をその身体的な感覚によって判断し、眼を以て見、手を以て触れ得るものを除いては何事をも信じない。かかる物のみを、彼は真実なものと呼ぶが然しそれ以外のものは何一つ真実であるとは呼ばない、それ故、感覚的な人間は最低に於ける自然的な人間である。 (2)彼の内的な心は天界の光に対し閉ざされ、それ故、彼は天界と教会については何事も知らない。何故なら、彼の思考は皮相的であり、霊的な光を欠くからである。 (3)彼は粗雑な自然的な光の中にある故、内的には天界と教会に相反しているが、之等を弁護することによって自らの権威を増大することが出来るならば、それを行うであろう。 (4)感覚的な人間はその思考は殆ど言葉の中にある程言葉に近く謂わば唇の上に在る程であり又そのすべての理智を記憶のみから発する言語に置く故に、鋭く且つ巧妙に論ずることが出来る。 (5)彼らの或る者はその欲するままに極めて巧妙に虚偽をも含めて、凡ゆるものを論証し、遂には虚偽をも真理であると信ずるが、彼らの論旨と、証明とは感覚の迷妄に依存し、これによって人類の大半は欺かれ、説得されるのである。感覚的な人間は他の凡ての者に勝って敏捷であり、狡猾である。 (7)彼らの内的な心は地獄と交わっている故、腐敗し、穢れている。 (8)悪魔はその住む地獄の深さに比例して感覚的である。地獄のスフィアは背後から人間の感覚的な物と結合する。 (9)感覚的な人間は何ものをも真理の真理の光の中に見ず、凡ゆる物に関して論議し、討論する。これらの討論は、遠くで歯噛みのように聞え、これが「歯噛み」なる表現が聖言の中に真理と虚偽との衝突を或は虚偽と虚偽との衝突を意味するために用いられる理由である。 (10)自ら深く虚偽を確認した博学の学者は、特に若し、聖書の真理を否認するならば、外面的にはそのように見えないけれど、他に勝って感覚的である。異端は概してかかる人間から発した。 (11)偽善者、欺く者、肉欲に耽る者、姦淫をなす者、貪欲な者の大半は感覚的である。 (12)聖言と教会との純粋な真理に反抗し、感覚によって推論し、論議した者を古代人は善悪を知る樹の蛇と呼んだ。

 下記の提言は感覚的な物を感覚に訴えるものとして定義づけることから生まれる。 (13)人間は感覚的な物によって世に連なり、合理的な物によって天界に連なっている。 (14)感覚的な物は霊界に在る内なる心に役立つ物を自然界から提併する。 (15)理解に役立つ感覚的な物、即ち種々の自然現象がある。また意志に役立つ感覚的な物、即ち身体的感覚の快楽がある。 (16)人間はその思考が感覚的な物の上に挙げられない限り、その持つ智慧は極めて僅少である。賢明な人間は感覚的なものを超えて考え、その時、彼は明らかな光に入り、遂には天界の光に入り、これによって真の理知を構成するところの真理を認識する。 (17)この心を感覚的なものの上に高揚し、感覚的なものから遠ざけることは古代人に知られていた。 (18)感覚的な物が最後の位置にあるならば、そのことによって理解への道は開かれ、そこから真理が引き出されるが、若し、感覚的な物が第一の位置に置かれるならば、それはその道を閉じ、その人間は諸真理を霧の中に或は夜間見るように見る。賢明な人間にあっては、感覚的な物は最後の位置にあり、高い物に従属するが、然し賢明でない人にあっては、それらは最初の地位にあり、支配的な影響力を持っている。是らの者は、元来、感覚的な人間と呼ばれる。或る感覚的な物は人間と獣とに共通しているが、他は共通しない。人間は感覚的な物を超えて考える限り、人間である。然し、何人も神を認め、神の誡命に従って生活しない限り、このように考えて、教会の諸真理を認めることは出来ない、何故なら、高め、照示する者こそ神にて在すからである。

 

 

 

天界と地獄353

 

 誤った理知と知恵とは神的なものを承認しない凡てのものである、なぜなら神的なものを承認しないで、神的なものの代わりに自然を承認する者は凡て、世では如何ほど教育があり、学問があると信じられていても、形体的な感覚的な面から考えていて、単に感覚的な者に過ぎず、彼らの学問は、世で目から見られる物を超えて昇らず、その目で見る物を記憶にしまい込んで、殆ど物質的に眺めているが、しかしその同じ科学は真に理知的な者には理解を形作るのに役立っているのである。科学により、物理学、天文学、化学、機械学、幾何学、解剖学、心理学、哲学、歴史、文学、言語学のような色々な種類の実験的な知識が意味されている。神的なものを否定して思考を外なる人の感覚的な物の上に高揚しない聖職者らは聖言の事柄を他の者らが科学を扱うようにしか扱わず、それを高揚された合理的な心により思考の問題または直覚の問題ともしていない、なぜなら彼らの内部は閉じられていると同時に、その内部の真近にある外部も閉じられているからである。これが閉じられているのは、彼らは天界に自分自身を背けて、前に言ったように、人間の心の内部であるところの、天界の方を眺めることが出来る能力を転倒させてしまったからである。そうした理由から彼らは真で善いものを見ることは出来ないか、それは真で善いものは彼らには暗闇の中にあるが、誤った悪いものは光の中にあるためである。しかしそれでも感覚的な人間は論じることが出来、その中には他の者以上に狡猾に、また鋭く論じることが出来る者もいるが、しかしそれは彼らの科学により確認された感覚の妄想から行われているのであり、彼らはこのように論じることが出来るため、自分自身をまた他の者以上に賢明なものであると信じている。その理論を情愛をもって燃やしている火は自己と世への愛である。これらが誤った理知と知恵にいる者であり、またマタイ伝で主の以下の語に意味されている者である、「彼らは見るが見ない、聞くが聞かない、理解もしない」(マタイ13・13−15)。また他の所には、「これらの事は理知ある者と賢明な者からは隠れており、幼児に示されている」(マタイ11・25、26)。

 

 

 

天界と地獄461

 

死後の人間の状態はこのようなものであることは、感覚的な人間は把握しないため、それを全く信じることは出来ない、なぜなら感覚的な人間は霊的な事柄についてさえも自然的にしか考えることが出来ないからである、それで彼がその感覚で認めないものは、即ちトマスについて記されているように(ヨハネ20・25、27、29)、その肉眼で見、その手で触れないものは、存在しないと彼は言うのである。感覚的な人間のいかようなものであるかは前に見ることが出来よう(267と注)。

 

 

 

天界と地獄582

 

感覚的な人間とは肉眼で見たり、手で触れたりするものを除いては、すなわち、視覚や触覚で取り入れるものを除いては何ごとも信じない者のことであって、彼はそうした物から考えるため、その思考は物質的なものであって、霊的なものではない。

 

 

 

啓示による黙示録解説424

 

現今では感覚的なものにより意味されているものを、また感覚的な人間の性質のいかようなものであるかを僅かな者しか知っていないため、また『いなご』がそれを意味しているため、それでそれについて「天界の秘義」から以下のものを引用しよう。

 

 

感覚的なものは人間の心の生命の最も外なるもの[究極的なもの]であって、その身体の五官に密着し、結合している(5077,5767、9212、9216、9331、9730番)。

 

 

凡ゆる物を身体の感覚から判断して、その目で見、その手で触れることのできるもの以外のものは何ものも信じないし、それらは意味があるとは言うが、他のものは斥けてしまう者は感覚的な人間と呼ばれる(5094、7693番)。

 

 

その心の内部は―それは天界の光から見るが―閉じられてしまっているため、彼はそこに天界と教会とに属した真理を何一つ見はしない(6564、6844、6845番)。

 

 

こうした人間は最も外なる物の中で考え、霊的な光から内的には考えない(5089、5094、6564、7693番)。

 

 

約言すると、彼らは粗雑な自然的な光(ルーメン)の中にいる(6201、6310、6564、7693番)。

 

 

そこから内的には彼らは天界と教会に属した事柄には反抗してはいるが、外的には、それらの事柄により行使する主権に応じて、それらを支持して、しかも熱烈に話すことが出来る(6201、6316、6844、6845、6948、6949番)。

 

 

誤謬を深く確認した学者と博学な者は、特に聖言の諸真理に反したことを確認した者は、他の者以上に感覚的である(6316番)。

 

 

感覚的な人間は鋭く、しかも巧妙に論じる、なぜならその思考は殆どその言葉の中に在り、謂わばその唇の中に在るほどにもその言葉の近くに在るからであり、また彼らは記憶のみから来ている言葉の中に理知の凡てを置いているからであり、その中には誤謬を器用に確認することが出来、確認した後ではそれが真理であると信じる者もいる(195、196、5700、10236番)。

 

 

しかし彼らは感覚の迷妄から事柄を論じ、確認しており、それに一般の人々は捕らえられて、説得される(5084、6948、6949、7693番)。

 

 

感覚的な人間は他の者以上に狡猾で悪意を抱いている(7693、10236番)。

 

 

貪欲な者、姦通者、酒色に耽る者、詐欺師は特に感覚的なものであるが、世の目にはそのようには見えない(6310番)。

 

 

彼らの心の内部は醜悪で、汚れている(6201番)

 

 

その内部によって彼らは地獄に連なっている(コミュニケイト)(6311番)。

 

 

地獄にいる者らは感覚的であり、感覚的であるに応じて益々深く地獄にいる(4623、6311番)。

 

 

奈落の霊らのスフィアは背後から人間の感覚的なものに連結している(6312番)。

 

 

感覚的な物のみから論じて、引いては教会の純粋な諸真理に反抗した者らは、古代人から知識の木の蛇と呼ばれた(195、196、197、6398、6399、10313番)。

 

 

さらに人間の感覚的なものと感覚的な人間とが記され(10236番)、

人間における感覚的な物の拡がりも記されている(9731番)。

 

 

感覚的な物は最後の位置に在って、最初の位置に在ってはならない。賢明な理知的な人間にあってはそれは最後の位置に在って、内部に服従しているが、賢明でない人間のもとでは、最初の位置に在って、支配しており、これらが元来感覚的なものと呼ばれている者らである(5077、5125、5128、7645番)。

 

 

もし感覚的な物が最後の位置に在るなら、それにより理解へ道が開かれて、真理は一種の抽出作用により完全なものにされる(5580番)。

 

 

その感覚的な物は世と密接に接触しており、世から流れ入ってくる物をとり入れて、それをいわばふるいにかけている(9726番)。

 

 

人間はその感覚的な物によって世と連なり[交流し]、合理的な物によって、天界と連なっている[交流している](4009番)。

 

 

感覚的な物は心の内部に役立つものを供給する(5077、5081番)。

 

 

知的な部分に仕える感覚的な物が在り、また意志的な部分に仕えるものが在る(5077番)。

 

 

思考が感覚的な物の上に高揚されなくては、人間はほとんど知恵を受けない(5089番)。

 

 

賢明な人間は感覚的な物について考える(5089、5094番)。

 

 

人間は、その思考が感覚的な物の上へ高揚されると、さらに明澄な光の中へ入り、ついには、天界の光の中へ入る(6183、6313、6315、9407、9730、9922番)。

 

感覚的な物の上に高揚されることと感覚的な物から引き出されることとは古代人に知られていた(6313番)。

 

人間は、感覚的な物から引き出されて、主により天幕の光の中へ高揚されることができるなら、霊界に行われている事柄を、その霊により、認識することができよう(4622番)。

 

 

その理由は、身体が考えるのではなくて、身体の中の人間の霊[精神]が考えるためであり、それが身体の中で考えるに正比例して、あいまいに、暗がりの中で考えるが、身体の中で考えないに正比例して、明らかに、光の中で考えるが、しかし霊的な事柄の中で考えている(4622、6614、6622番)。

 

 

感覚的な科学的なものは理解の究極的なものであり、感覚的な歓喜は意志の究極的なものである(9996番)。

 

 

獣に共通している感覚的な物と獣に共通していない感覚的な物との間の相違は何であるか(10236番)。

 

 

その内部はそれほど閉じられてはいないという理由から、悪ではない感覚的な人間がいる(他生におけるその者たちの状態については、6311番を参照)。

 

 

 

天界の秘義6971

 

なぜなら感覚的で、形体的な人間は合理的ではなく、かくて霊的にでもないからである、なぜなら彼は誤謬を考えて、悪を欲するからである。こうしたことを行う者は合理的ではなく、まして霊的ではない、なぜなら真理を承認して、それを信じることと善に生きることとが合理的なものにおける霊的なものそれ自身であるからであり、それはそうした事柄は神的なものから発しているためであるが、それに反し誤謬を承認してそれを信じ、悪に生きることはそれに相反したものである。(単に感覚的な形体的な人間はこうしたものであることについては、6844、6845、6948、6949番を参照)。

 

 

 

天界の秘義6971〔2〕

 

霊界の事柄を最初知りはしたが、後になってそれを斥けてしまい、真理に反した誤った原理を吸引し、生活の方面では専ら世的な、身体的な、地的な物のみを求め、そこから生命を快楽をつくして

 

 

 

天界の秘義8325

 

 こうした経験のみからでも自然的な人間が霊的なものを把握することは、従って天界に属した事柄を把握することはいかに困難であるかを結論づけることが出来よう。いかような自然的な人間が、天界には空間と時間は存在しないで、それに代って状態が存在することを、即ち、空間の代りに、善の状態が、または存在の状態が在り、時間に代って、真理の状態が、または発生の状態が在ることを把握することが出来ようか。単に自然的な人間は、時間と空間が存在しない所には絶対的な空と無とが在ると信じないであろうか。このことから、もし自然的な人間が自分の把握するもの以外には何ものも信じることは出来ないと自分自身の中に結論するなら、その時は彼は自分自身を多くの過誤に投げ込むことが明白である。

 

 

 

天界の秘義10181[4]

 

これらの度を認識しない者は諸天界の間の相違を、また人間の内的な能力と外的な能力との間の相違を到底知ることは出来ないし、かくてまた霊魂と身体との間の相違も知ることは出来ない。彼は聖言の内意の何であるかを、またその内意と外意との相違を些かも把握することは出来ないし、霊界と自然界との相違さえも把握することは出来はしない。彼は相応したものと表象するものとの何であるかを、それらが何処から発生しているかを理解することさえ出来ないし、流入の何であるかも殆ど理解することは出来ない。感覚的な人間はこれらの相違を把握しないのである、なぜなら彼らはこれらの度に従った増大または減少を連続したものとして認め、かくてこれらの度を長さと幅の度に似たものとして認めており、それで彼らは外に立って、理知からは遥かに遠ざかっているのである。

 

 

 

天界の秘義231

 

 洪水以前に存在した最古代教会の悪のみでなく洪水以後の古代教会の悪は、またユダヤ教会の悪は、それに続いて、主が来られた以後の新しい教会の悪は、または異邦人の教会の悪は、また現今の教会の悪は、彼らが主または聖言を信じないで、自分自身と自分自身の感覚とを信じているということであったし、また現在もそうである。かくて信仰は存在しておらず、また信仰の存在しない所には隣人への愛も存在しておらず、従って凡ては誤った、悪いものである。

 

 

 

天界の秘義232

 

 しかし現在は前の時代よりも更に悪いのは、人間は今やその感覚の不信性を古代人に知られていない記憶知により確認しており、そのことが言語を絶したほどの暗闇を生んでいるためである。もし人がこうした原因のための暗黒がいかに大きなものであるかを知るならば、驚きあきれるであろう。

 

 

 

天界の秘義233

 

 以上語られた所から信仰の事柄について感覚的なものと記憶知に訴える者は、自分自身を疑惑の中へ投げ込むのみでなく、否定にも、すなわち暗闇の中へも投げ込み、従って凡ゆる欲念に自らを投げ込むことが明白である。なぜなら彼らは誤ったことを信じるように、誤ったことをまた行いもするからである。そして彼らは霊的な天的なものは存在しないと信じるように、身体と世とに属したものを除いては他に何物も存在していないと信じるのである。かくて彼らは自己と世とに属したものをことごとく愛し、またこのようにして諸々の欲念と悪とが誤ったものから迸り出てくるのである。

 

 

 

天界の秘義241

 

最古代の人々は天的な人々であって、彼らは世にまたは地の面に見たものを実際見はしたものの、その物が意味している、または表象している天界的な神的なものについて考えるといった素質を持っていたのである。彼らの視覚は手段として働いたに過ぎず、従ってその言葉もそうしたものに過ぎなかった。たれでも自分自身の経験からいかようにしてそうしたことが起きるかを知ることが出来よう、なぜならもし彼が話している人の言葉の意味に入念に注意するなら、彼は実際その言葉を聞きはするが、単にその意味のみを酌み取って、恰もそれを聞いていないかのようであり、更に深く考える者はその言葉の意義にさえも注意しないで、更に普遍的な意義に注意するからである。しかしここに取扱われている子孫はその父祖たちに似ていなかった。なぜなら彼らは世と地の面のものを眺めた時、それを愛したため、その心はこれにあっては感覚的なものが主要なものになり始めて、彼らの父祖たちにおける手段的なものでなくなり始めたのである。しかし世と地とに属した物が主要なものとなると、人間はそこから天界の事柄について論じ、かくて自分自身を盲目にしてしまうのである。どうしてこうしたことが起るかもまたたれでも自分自身の経験から知ることが出来よう、なぜなら話す人の言葉に注意して、その言葉の意味に注意しない者は、意義を殆ど汲み取りはしないし、ましてやその意義に含まれている普遍的なものを汲み取りはしないで、時として人の語る凡てをただ一つの言葉から、または文法上の特異なものからさえ判断するからである。

 

 

 

天界の秘義353

 

誤った理知と知恵とは神的なものを承認しない凡てのものである、なぜなら神的なものを承認しないで、神的なものの代わりに自然を承認する者は凡て、世では如何ほど教育があり、学問があると信じられていても、形体的な感覚的な面から考えていて、単に感覚的な者にすぎず、彼らの学問は、世で目から見られる物を超えて昇らず、その目で見る物を記憶にしまい込んで、殆ど物質的に眺めているが、しかしその同じ科学は真に理知的な者には理解を形作るのに役立っているのである。

 

 

 

天界の秘義5128[2]

 

 感覚的な物が服従している人間は合理的な人と呼ばれるが、それが服従していない人間は感覚的な人と呼ばれている、しかし人間が合理的なものであるか、または感覚的なものであるかは他の者によっては殆ど見分けられることは出来ないが、それはその者自身によって、もしその者が自分の内部を、即ち、自分の意志と思考とを点検するなら、見分けられることが出来るのである。人間が感覚的なものであるか、または合理的なものであるかは他の者たちによりその言葉から、またはその行為から知られることは出来ないのである、なぜなら言葉の中に在る思考の生命と行為の中に在る意志の生命とはいかような身体の感覚にも現れはしないからである。ただ音声と身振りとがその情愛とともに聞かれ、見られるにすぎないが、その情愛が佯ったものであるか、真のものであるかは見分けられはしないのである。しかし他生ではこれは、その言葉の中に在るものも、その行為の中に在るものも、善の中にいる者たちによっては明確に認められ、かくて、その生命の性質はいかようなものであるか、またその中の生命はいかような源泉から生まれているかも明確に認められている。この世にもまた何かのしるしがあり、そのしるしから感覚的なものが合理的なものに服従しているか、または合理的なものが感覚的なものに服従しているか、または、それと同一のことではあるが、人間が合理的なものであるか、または単に感覚的なものにすぎないかが、或る程度推測されることが出来るのである。そのしるしとは以下のようなものである。人間が誤った原理の中にいて、明るくされようとはしないで、真理を全く斥け、理由もなく頑強に誤謬を弁護するなら、これは、彼が感覚的な人間であって、合理的な人間ではなく、合理的なものは彼の中に閉じられていて、天界の光を許容しないというしるしとなっている。

 

 

 

天界の秘義5128[3]

 

誤謬を確信している者らは更に感覚的なものである、なぜなら誤謬を確信すると合理的なものは全く閉じられてしまうからである。

 

 

 

天界の秘義6310

 

この光の中にいる人間は「感覚的な者」と呼ばれなくてはならないのである、なぜなら彼らは身体の感覚的なものを越えては考えはしないからである。彼らはその感覚的なものを越えたものは認めもしないし、信じもしないで、ただその見て触れるもののみを信じるにすぎないのである。この光の中に、合理的なものと霊的なものとをことごとくなおざりにし、軽蔑して生き、内的なものを全く培いはしなかった者らがいるのであり、またその光の中に、特に貪欲な者らと姦通者らがおり、またただ快楽の中に、恥ずべき怠惰の中に生き、従って教会の聖い事柄については汚れたことを考え、ときには恥ずべき事を考える者らがいるのである。

 

 

天界の秘義6844[2]

 

 自然的なものの外なるものである感覚的なものは神的なものを受けることが出来ないといった性質を持っていることは、その感覚的なものは世的な、身体的な、実に地的なものでさえある物の中に在るためである、なぜなら感覚的なものはそうした物を最も間近に受けており、それで感覚的なものから記憶の中に在る物は、世の光と熱から、それらのものに属しているものを凡て取得していて、天界の光と熱からは僅少なものしか取得しておらず、それでそれらは、再生することの出来る、即ち、天界の光の何ものかを受けることの出来る最後の物であるからである。従って人間はこうした感覚的なものの中にいて、そこから考えている時は、彼は神的なものを地的なものを考えるようにしか考えないのであり、もし彼が悪の中にいるなら、彼はこうした感覚的なものから神的なものには全く反抗したことを考えるのである。それでもし人間が神に対する信仰と愛とに属した事柄について考えている時、その人間が善の中にいるなら、彼は自然的なものの外なるものである感覚的なものから、内的なものに向って高揚され、従って地的な、世的なものから天界的な、霊的なものへ更に近く高揚されるのである。

 

 

天界の秘義6844[3]

 

 人間がこうしたことを知らないのは、彼は自分の中の内部は外部とは明確に区別されており、思考は益々内的なものになってもいるし、また益々外的なものにもなっていることを知ってはおらず、これらの事を知らないため、それらについて反省することは出来ないためである。しかし感覚的なものから生れる考えについて前に言われたことを参照されたい、即ち、そこから考える者は殆ど知恵を持ってはいないのであり(5089、5094、6201、6310−6312、6314、6316、6318、6598、6612、6614、6622、6624番)、人間は感覚的なものから高揚されるのであり、そのように高揚されると、彼は更に穏やかな光の中へ入って来るのであり、そのことは再生しつつある者たちに特によく言われるのである(6183、6313、6315番)。この凡てから『足の上から靴を脱ぐこと』により意味していることは今や明らかである。人間の自然的なものは、外なるもの、中間のもの、内なるものとなっていることについては、4570、5118、5126、5497、5649番を参照)。内なる自然的なものは『足』により、中間の自然的なものは『足の裏』により、外なる自然的なものは『靴』により意味されているのである。

 

 

天界の秘義6971〔2〕

 

 霊界の事柄を最初知りはしたが、後になったそれを斥けてしまい、真理に反した誤った原理を吸引し、生活の方面では専ら世的な、身体的な、知的な物のみを求め、そこから生命を快楽を尽くして享楽しなくてはならないと信じ込み、『人間には生きている間にはそれ以上の何があるのか、我々は死ぬ時は、死ぬのだ、誰がこれまでに他生からやって来て、そのことについて我々に話したか、生命が人間から去った時に生きることの何であるかは我々は知ってはいない』と言う者は単に感覚的な、形体的なものになるのである。

 

 

 

天界の秘義7352

 

「川は蛙を這い出させるでしょう」。これは、これらの誤謬から幾多の理論が発生するであろう、を意味していることは以下から明白である、即ち、『エジプトの川』の意義は誤謬であり(6693、7307番)、『蛙』の意義は(前の7351番のように)理論である。『蛙』が理論を意味していることは、彼らは水の中にいて、盛んに騒がしい音を立て、鳴き、また不潔な物の中にいるためである。単なる誤謬そのものから発した理論のいかようなものであるかを若干の例により説明しよう。凡ゆる物は神的なもの[]から発生しており、自然は神的なものが働く媒介的な手段であるのに、凡ゆる物を自然に帰して、殆ど何ごとも神的なものに帰しはしない人間は単なる誤謬そのものから論じるのである。人間は獣のようなものであって、単に考えることが出来るため、獣よりは完全であるに過ぎない、それで獣のように死んでしまうと信じ、かくして信仰に属した思考と愛に属した情愛とを通して人間が神的なものと連結していることを否定し、そこから人間の復活と永遠の生命を否定する者、こうした人間は単なる誤謬そのものから論じており、こうした人間は誤謬そのものから語っているのである。地獄は存在しないと信じている者も同様である。そしてまた人間の得る一切はこの世の生命の歓喜であり、それで人間はこれを楽しまなくてはならない、なぜなら人間は死ぬときは、全く死んでしまうのだから、と信じている者も同じである。一切の物は自分自身の才智に、また運にかかっていて、神の摂理には―その全般的なものを除いては―かかってはいないと信じている者は単なる誤謬そのものから論じているのである。また宗教は単純な者を拘束する以外には無用の長物であると信じている者もまた同じである。聖言は神的なものではないと信じる者らは特に誤謬そのものから論じているのである。約言すると、真理の神的なものを全く否定してしまう者らは誤謬そのものから論じるのである。

 

 

 

 

 

 

啓示による黙示録解説435

 

 感覚的な人間はいかような真理自身の光によっても見ないで、凡ゆる事柄について、それがそうであるか、そうでないか、と推論し、討論するからには、また地獄のこれらの討論は、それ自身では誤謬と真理との衝突であって、外では歯がみとして聞こえるからには、(マタイ8・12、13・42、50、22・13、24・51、25・30、ルカ13・28の)『歯がみ』の意義は明白であり、また(ヨブ16・9、詩篇35・15、16、37・12、112・10、ミカ3・5、哀歌2・16の)『歯を噛み鳴らすこと』の意義も或る程度明白である。

 

 

新エルサレムの教義50

 

感覚的な人間は、その思考は殆どその言葉の中に在るほどにもその近くに在るため、また彼らは記憶のみから発した言葉に理知の凡てを置いているため、鋭く、また小賢しく論じる(195、196、5700、10236番)。しかし彼らは感覚の迷妄[妄想]から論じており、これに普通の人々は捕らえられる(5084、6948、6949、7693番)。

 

 

新エルサレムの教義50

 

 思考が感覚的な物から高揚されない限り、人間は殆ど知恵を持たない(5089番)。賢明な人間は感覚的なものを超越して考える(5089、5094番)。人間は、その思考が感覚的な物から高揚されると、さらに澄明な光(ルーメン)に入り、遂には天界の光(ルックス)に入って行く(6183、6313、6315、9407、9730、9922番)。感覚的な物から高揚され、そこから引き出されることは古代人に知られていた(6313番)。

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P276

 

元后の御言葉

 人々が騙され、傷つくことの最大の原因は、感覚で感知したことに動かされ、直ちに決意し、理性による思考と判断をないがしろにすることです。感覚的に私たちを動かすものは、動物的な情欲や傾向です。傷つけられ、痛いと感じればすぐに復讐しに出かけます。他人の所有物が欲しくなると、不正な手段を取ります。目の色欲、体の情欲や名誉欲にかられて行動する人々が多いのですが、これらの欲は、世の中と悪魔の提供できる全てです。人々が盲目になり、騙されると、暗黒を光と思い、辛さを甘さと感じ、致死毒を霊魂の薬として服用し、悪魔的現世的無知そのものを智恵として尊びます。このような性質の悪い過誤に対して自分を守り、感覚により支配されないように。神から頂く内的知識と光にまず相談しなさい。神はいつも案内して下さいます。上司や先生に忠告を求めなさい。目上の人が居合わせなければ、目下の人に相談しなさい。情欲により盲目になっている自分の決意に従うよりももっと安全です。内緒で事を運ぶとか、状況や同僚に対する愛徳に動かされて公にものを決める時の規則です。人々との付き合いで危ない海を渡る時、内なる光の北極星を見失うことのないように。

 

 

 

 

天界の秘義9726

 

この感覚的なものは、それが、人間に入って来て、理解と意志とに提示される事柄を、即ち、諸々の真理と善とを先ず、謂わば、ふるいにかけて、分離するため、『格子』により表象されたのである。もしその感覚的なものが善から発しているなら、それは善から来ている諸々の善と真理以外には何ものをも容認しないで、悪から来ている悪と誤謬とを斥けるのである、なぜなら感覚的なものは究極部における知的な、また意思的なものを認識し、知覚する能力そのものであり、その知的な、また意志的なものの情愛に従って正確に形作られるからである。(中略)しかし人間にあってはこの感覚的なものはそれが世の間近に位置しているという理由から完全に破壊されてしまっており、それで最後に再生出来るものとなっていって、現今では殆どたれ一人そこまでは再生出来ないのであり、その結果そうした人物におけるそうした感覚的なものの性質はいかようなものになっているかはそれについてすでに示したことから認めることが出来よう。

 

 

 

 

新エルサレムの教義45

 

 その内なるものが、目で見、手で触れることの出来る物を除いては何物をも信じないほどに外なるものになっている者は、感覚的な人間と呼ばれている。これは最も低級な自然的な人間であって、教会の信仰に属した凡ての物について誤っている。

 

 

 

眼から生まれる思考は理解を閉じるが、しかし理解から生まれる思考は眼を開く

 

神の愛と知恵46

 

 自然はそれ自身から発していると主張する者はいかに感覚的に(すなわち身体の感覚と霊的な事物に対する無知からいかに甚しく)考えているかがこの凡てにより認めることが出来よう。彼ら眼から考えて、理解から考えることは出来ない。眼から生まれる思考は理解を閉じるが、しかし理解から生まれる思考は眼を開くのである。こうした人々はエッセとエキジステレそれ自身を、それは永遠のものであり、創造されないものであり、無限なものであることを些かも考えることは出来ない、また彼らは生命を、消滅して無に帰すものとした考えることは出来ず、また愛と知恵もそのようなものとした考えることは出来ず、また自然の凡ての物は愛と知恵から発していることを全く考えることは出来ない。また自然は単に視覚の対象であるその形の或るもののみから観察されて、その形の連続と秩序における用から観察されないならば、自然の凡ての物は愛と知恵から発していることも認められことは出来ない。なぜなら用は生命のみから発し、その連続と秩序とは知恵と愛のみから発するに反し、形は用を中に包んだものに過ぎないからである。従って形のみが認められるなら、生命の何ものも、まして、愛と知恵の如何なるものも、かくて神の何ものも自然の中に認められることは出来ないのである。

 

 

 

神の愛と知恵144

 

 自己への愛から発した支配への愛は主への愛に全く相反しているゆえ、その支配への愛にいる霊は顔を主に背けて後ろ向きにし、それ故霊界の西の方位に眼を注ぎ、かくて身体は反対の位置に在るため、東を背にし、北を右にし、南を左にしている。彼らは主を嫌忌するため、東を背にし、妄想と妄想から発する誤謬を愛するため、北を右にし、知恵の光を軽蔑するため、南を左にしている。彼らはいかほど自分自身を回転させても、その周囲に見る凡ての物は己が愛に類似ているように見える。こうした者は凡て感覚的な自然的なものであり、その或る者は自分のみが生きていると考えるような性質を持ち、他の者を像のようなものに見なしている。彼らは実際気が狂っているものの、自分は他の凡ての者以上に賢明なものであると信じている。

 

 

 

神の愛と知恵162

 

 凡てこのことから凡ての物を自然に帰している者の愚かさを認めることが出来よう。自然を支持する見解を確認した者は、もはやその心を自然の上に挙げようとは欲しないような状態を自分自身に招き、従ってその心は上が閉じられて、下が開かれるのである。かくて人間は感覚的な自然的なものになり、即ち霊的には死ぬようになり、次いでその身体の感覚から、または世から感覚を経て吸収した物のみから考えるため、心に神を否定さえする。かくて天界との連結が破壊されるゆえ、地獄との連結が起こり、考え、意志する能力のみが、すなわち合理性から考える能力と自由から意志する能力のみが残る、この二つの能力を各人は主から得ており、それはまた取り去られはしない。この二つの能力を悪魔も天使と等しく得ているが、しかし悪魔はこれを狂った考えと悪い行為とに捧げ、天使は賢明になり、善を為すことに捧げている。

 

 

 

神の愛と知恵249

 

神の教えを嘲り、これを否定する第三の部類の人々は自然的なままに止まるのみでなく、その軽蔑と否定に応じて感覚的になる。感覚的な人間は身体の感覚の外観と妄想とを超越して考えることの出来ない最低の自然的な人間である。死後彼らは地獄に行く。

 

 

 

 

神の摂理311

 

彼らがこうした種類の映像であるのは、悪と誤謬とは死んでいるが、善と真理とは生きているからであり、また彼らはそのことをその合理性から知っているため(なぜならもし彼らはそれを知らないなら善と真理とを装いはしないからである)人間的な生命に類似したものを持っているのである。人間的はその内部の自分と同一であり、従って彼が他から見られようと願っている外部の自分がそのまま内部の自分となっている者が真に人間であって、外面的にのみ人間ではあるが、内面的には人間ではない者は、単なる彫像にすぎないことを誰が知らないであろう。

 

 

 

霊界日記6110(41)

 

悪の凡ゆる淫欲は姦淫から発している、なぜなら姦淫がその淫欲の形そのものであるからである。姦通者はそれが許されていることにより確認を与えられており、そのことは、また、以下のことを生み出すのである、すなわち、かれは心の中に神を承認することはできず、主と連結することもできず、従って、天界とも連結することはできないのである、なぜならかれの歓喜は全く霊的な歓喜に対立しているからである。しまいにはかれは最高度に感覚的なものに、形体的なものに、物質的なものになってしまい、目に見え、耳に聞こえる物から―そうしたもののみをかれは記憶の中に貯えているのであるが、そうしたもののみから―考えもし、話しもするのである。