自然的
感覚的/
1.聖書
2.スウェーデンボルグ
3.自然的な人間は思考において狂っている
4.眼から生まれる思考は理解を閉じるが、しかし理解から生まれる思考は眼を開く
5.霊的な度が全く閉じられている自然的な人の性格、異質なもの、収縮する
6.自然的な心は何かが霊的な心から流れ入って、己が状態を乱しはしないかと恐れる
1.聖書
コリント1・2・13
そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられたことばによっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。
「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。」
しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。
2.スウェーデンボルグ
天界の秘義3881
それらのものの中には霊的な意義が在ることは信じられてはいないのである、なぜなら今日では聖言の霊的な意義とは何であるかが知られていないし、また霊的なものとは何であるかさえも知られてはいないからである。そのことの主要な理由は人間は自然的な生活を送っているということであり、自然的な生活は、それが目的として認められると、またはそれが他の凡ての事柄にもまさって愛されると、それは知識と信仰とを抹消してしまって、霊的な生命と霊的な意義とが言われると、それは何か非実在的なものであるかのように思われ、またはそれが自然的な生活に一致していないため、嫌悪の念をかき立てるところの、何か不愉快な、もの悲しいものであるかのようにも思われるほどにもなっているのである。これが今や人類の状態であるため、かれらは聖言における名前により名づけられている事柄そのもの以外のものが何か、例えば国民、民、人物、国、都、山、川以外のものが何か意味されていることを把握はしないし、また把握しようともしないのであるが、それでも名前はその霊的な意義では、主の天的な王国を、その最高の意義では主御自身を意味しているのである。
天界の秘義8325
こうした経験のみからでも自然的な人間が霊的なものを把握することは、従って天界に属した事柄を把握することはいかに困難であるかを結論づけることが出来よう。いかような自然的な人間が、天界には空間と時間は存在しないで、それに代って状態が存在することを、即ち、空間の代りに、善の状態が、または存在の状態が在り、時間に代って、真理の状態が、または発生の状態が在ることを把握することが出来ようか。単に自然的な人間は、時間と空間が存在しない所には絶対的な空と無とが在ると信じないであろうか。このことから、もし自然的な人間が自分の把握するもの以外には何ものも信じることは出来ないと自分自身の中に結論するなら、その時は彼は自分自身を多くの過誤に投げ込むことが明白である。
真の基督教564
単に、自然的な人間は他の人間の中に悪と善とを見ることが出来、また彼らはその欠点の故に咎め立てすることが出来るが、自分の心を一度も点検したことが無いために、自分の中には何らの悪をも見ない。そして、もし、何人かが彼の欠点を指摘するならば、彼は巧みにそれを、丁度蛇がその頭を塵の中に隠し、あるいは大黄蜂が自らを糞の中に埋める様に言いつくろってしまう。彼は沼地が霧に包まれて、光線を吸収し弱めているように自らを包み込んでいる悪の歓喜によってこれに駆り立てられる。悪の歓喜は地獄の歓喜である。それは地獄から吐き出され、足の裏に、背中に、頭の後部に流れ入る。もし、それが頭の前部に胸に流れ入るならば、その人間は地獄の奴隷となるであろう。何故なら、大脳は理解と知恵の宿る所であり、小脳は意志と愛との宿る所であるから。これが二つの脳のある理由である。この地獄的な歓喜は霊的に合理的な、道徳的なものによってのみ矯正され、変えられることが出来る。
真の基督教566
自然的な人の生活はある動物の生活に似ている。それ故、霊界では自然的な人は自らに相応した動物に囲まれて現れる。厳密に言えば、自然的な人は動物に過ぎないが、しかしそれに霊的な要素が附加されているために、彼は人間となる能力を持っているのである。もし彼がこの能力をその意図された目的のために用いないならば、彼は人間のように見えるかもしれないが、単に話をする動物に過ぎない。彼の言葉は合理的であるが、その思考は狂っており、彼の行為は道徳的であるが、その欲望は狂想的である。霊的な人間から見れば彼の行為は所謂ふくろ蜘蛛に噛まれている聖ヴィトスの舞踏のように見える。各人は偽善者が神を讃美し、盗人が正直を讃美し、姦通者が貞操を讃美することが出来ることを知っている。思考と発言との間に、意図と行為との間に、閉じることの出来る扉があって、深慮あるいは狡猾がその扉の番人になっていないならば、彼は如何ような野獣よりもさらに狂暴に憎むべき残酷な行為に向って突進するであろう。しかし、その扉は死後開かれ、その時人間の真の性質が現れるのである。しかし彼は地獄の刑罰と監禁によって抑制される。故に、親愛なる読者よ、諸君は自分自身を点検し、諸君の諸々の悪を探り出し、それらを宗教的な動機によって除去されよ、もし諸君が何か他の動機によってそれを行うならば、単にそれを世から隠すことに成功するに過ぎないであろう。
真の基督教603
再生しない人間は自然的と呼ばれ、再生した者は霊的と呼ばれるのはこの理由による。それ故、再生した人間の心は霊的な領域に挙げられ、そこから、低い即ち自然的な心のうちに起こるものを、高い位置から観察するように観察することは明白である。
神の愛と知恵144
自己への愛から発した支配への愛は主への愛に全く相反しているゆえ、その支配への愛にいる霊は顔を主に背けて後ろ向きにし、それ故霊界の西の方位に眼を注ぎ、かくて身体は反対の位置に在るため、東を背にし、北を右にし、南を左にしている。彼らは主を嫌忌するため、東を背にし、妄想と妄想から発する誤謬を愛するため、北を右にし、知恵の光を軽蔑するため、南を左にしている。彼らはいかほど自分自身を回転させても、その周囲に見る凡ての物は己が愛に類似ているように見える。こうした者は凡て感覚的な自然的なものであり、その或る者は自分のみが生きていると考えるような性質を持ち、他の者を像のようなものに見なしている。彼らは実際気が狂っているものの、自分は他の凡ての者以上に賢明なものであると信じている。
4.眼から生まれる思考は理解を閉じるが、しかし理解から生まれる思考は眼を開く
神の愛と知恵46
自然はそれ自身から発していると主張する者はいかに感覚的に(すなわち身体の感覚と霊的な事物に対する無知からいかに甚しく)考えているかがこの凡てにより認めることが出来よう。彼ら眼から考えて、理解から考えることは出来ない。眼から生まれる思考は理解を閉じるが、しかし理解から生まれる思考は眼を開くのである。こうした人々はエッセとエキジステレそれ自身を、それは永遠のものであり、創造されないものであり、無限なものであることを些かも考えることは出来ない、また彼らは生命を、消滅して無に帰すものとした考えることは出来ず、また愛と知恵もそのようなものとした考えることは出来ず、また自然の凡ての物は愛と知恵から発していることを全く考えることは出来ない。また自然は単に視覚の対象であるその形の或るもののみから観察されて、その形の連続と秩序における用から観察されないならば、自然の凡ての物は愛と知恵から発していることも認められことは出来ない。なぜなら用は生命のみから発し、その連続と秩序とは知恵と愛のみから発するに反し、形は用を中に包んだものに過ぎないからである。従って形のみが認められるなら、生命の何ものも、まして、愛と知恵の如何なるものも、かくて神の何ものも自然の中に認められることは出来ないのである。
5.霊的な度が全く閉じられている自然的な人の性格、異質なもの、収縮する
神の愛と知恵254[4]
「霊的な度が全く閉じられている自然的な人の性格」。生命[生活]の方面で悪にいる者には霊的な度は閉じられており、悪から誤謬にいる者にはそれは更に閉じられている。神経の小繊維の場合も同じであって、それは質の異なった何ものかが些かでも触れると収縮してしまい、同じく筋肉の凡ゆる運動繊維も、実に、筋肉それ自身も、全身体さえも、何か固い冷たいものに触れると収縮してしまう。そのように人間の中の霊的な度の原質または形もまた、悪と悪の誤謬のために収縮してしまうのである、なぜならこれらは異質のものであるから。それは霊的な度は天界の形をとっていて、善と善から発する真理以外には何物も許容せず、その善と真理はそれと同質のものであるが、しかし悪と悪から発する誤謬はそれとは異質のものであるためである。自己への愛から発する支配への愛は主に対する愛に反しているため、世でこの愛にいる者にあっては特にその度は収縮し、収縮により閉じられている。それは世への愛から他人の財産を求めて狂っている者の中にもまた閉じられているが、しかし前の者におけるほど閉じられていない。これらの愛は悪の起原であるため、霊的な度を閉じるのである。この度の収縮または閉鎖は螺旋形の物が反対の方向に巻き返るのに似ており、その理由から、その度は、それが閉じられた後は、天界の光を斥け、従ってそこには天界の光に代わって深い暗闇が生まれ、天界の光の中に在る真理は嫌忌すべきものとなる。こうした人物の中には、霊的な度は閉じられるのみでなく、合理的な領域と呼ばれる自然的な度の高い領域もまた閉じられ、遂には感覚的な領域と呼ばれる自然的な度の最低の領域のみが開かれる、これは世と身体の外的な感覚とに最も接近しており、そこからそうした人間はその後考え、語り、推理する。悪とその誤謬とを通して感覚的なものとなった自然的な人間は、天界の光の中に在る霊界では人間として現れず、実に鼻を引っ込めた怪物として現れ(鼻は真理の認識に相応するため、その鼻は引っ込められている)、更に彼は天界の光の一光線にも堪えることは出来ない。こうした者はその洞窟の中で燃えている石炭または焼けた木炭から発する光以外の光を持たない。この凡てから霊的な度の閉じられている者は如何ようなものであり、如何ような性格を持っているかが明白である。
6.自然的な心は何かが霊的な心から流れ入って、己が状態を乱しはしないかと恐れる
神の愛と知恵261
このことから、霊的な心が閉じられている時は、自然的な心は何かが霊的な心から流れ入って、己が状態を乱しはしないかと恐れ、絶えずその霊的な心に属する物に逆らって活動することが明らかである。