蛇
反発/
1.聖書
2.エバとアダムを欺いた蛇・・・支配を求める愛
3.凡ゆる種類の悪
4.感覚的な人間
5.悪意の方面の地獄
6.用意周到さ
7.かかとを傷つける
8.蛇の裔
9.青銅の蛇
10.川を遡るのを妨げる
11.ヴァッスーラ
12.詐欺を企んだ者
13.ルイザ・ピッカレータ
14.火の傍に置かれた蛇のように、のたうちまわって
15.霊界日記
16.マリア・ワルトルタ
17.鯨、竜
18.サンダー・シング
19.感覚的な人間の明敏さ
1.聖書
お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に
わたしは敵意を置く。
彼はお前の頭を砕き
お前は彼のかかとを砕く。
創世記49・17
ダンは、道端の蛇
小道のほとりに潜む蝮。
馬のかかとをかむと
乗り手はあおむけに落ちる。
民数記21・4−9
彼らはホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回し、葦の海の道を通って行った。しかし、民は途中で耐えきれなくなって、神とモーセに逆らって言った。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。民はモーセのもとに来て言った。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。
マタイ10・16
わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。
黙示録12・17
竜は女に対して激しく怒り、その子孫の残りの者たち、すなわち、神の掟を守り、イエスの証しを守りとおしている者たちと戦おうとして出て行った。
2.エバとアダムを欺いた蛇・・・支配を求める愛
天界の秘義257
『蛇の頭』により全般的に悪の主権[支配]が、とくに自己愛の主権[支配]が意味されていることはその性質から明白である、それは単に主権を求めるのみでなく、地上の凡ゆるものを治める主権をさえ求める程にも恐るべきものであり、それはそれにもまた満足しないで、天界の凡ゆるものを支配しようとさえ渇望し、さらに、それにも満足しないで、主御自身をさえ支配しようと渇望し、しかもその時でさえも満足しないのである。これは自己愛の一閃光の中にさえそのことごとくに潜んでいるのである。もしそれがほしいままにされて、拘束から解放されるならば、それはすぐにも爆発して、その渇望している高きにさえも成長することを我々は認めるであろう。かくて『蛇』はまたは自己愛の悪は主権を行使しようといかに望んでいるか、その支配を拒む者を凡ていかに憎悪するかが明らかである。これがそれ自身を高める『蛇の頭』であり、直ぐ前の節に記されているように、主から地にまでも『踏みにじられ』かくて『腹ばって行って塵を食う』蛇の頭である。イザヤ書に『ルシファ』と呼ばれている『蛇』または竜もまたそのように記されている ―
ああルシファよ、おまえは心の中で言った、わたしは天にのぼり、わたしの王座を神の星の上にも上げ、北側の集会の山の上に坐り、雲の頂きの上にも登り、至高者に等しいものともされよう、と。しかしおまえは地獄へ、坑の側へ落とされるであろう(イザヤ14・12−15)。
『蛇』または『竜』がその頭を高くする方法もまた黙示録に記されている―
大きな赤い竜。彼は七つの頭と十の角を持ち、その頭には七つの冠をつけていた。しかし彼は地に投げ落とされた(黙示録12・3、9)。
ダビデの書には―
エホバはわたしの主に言われた、わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右手に坐りなさい、とエホバはあなたの強い棒をシオンから送り出されるであろう。かれは諸々の国民を審判かれるであろう、かれは屍を満たされた、かれは多くの地を治める頭を害われた、かれは途すがら小川から飲まれるであろう、それでかれは頭をもたげられるであろう(詩編110・、,2、6、7)。
真の基督教324
人を欺こうとして、または故意に虚偽を語り、しかもこれを霊的な情愛に似せた語調を以って語る者は、特にその虚偽に聖言から来る真理を混入させて、これを虚偽化するならば古代人達によって妖術者と呼ばれ(「黙示録の啓示」462番参照)、また時折怪蛇、善悪を知るの木の蛇と呼ばれた。
スウェーデンボルグ/続 最後の審判61/(静思社/最後の審判とバビロンの滅亡P127)
人間はその両親から植えつけられた悪を、または遺伝的な悪を持っていることは知られているが、しかしそれは何から成っているかを知る者は少ない。それは支配を求める愛から成り、これに自由が許されるに従って、それはほとばしり出て、遂には凡ての者を支配し、終いには神として祈られ、拝まれようとする欲念で燃え上がりさえするものである。この愛がエバとアダムとを欺いた蛇である。なぜならそれは女に次のようなことを言ったからである。
あなた方がその木の実を食う日には、あなた方の眼は開いて、あなた方は神のようになることを神は知っておられる(創世記3・4,5)。
それゆえ人間が手綱を緩められてこの愛に突入するに従って、彼は神に背を向けて、彼自身に向き、無神論者となる。そのとき聖言に属する神的真理は手段として仕えるかもしれないが、支配が目的であるゆえ、その手段は単に彼に役立つためにその心に在るに過ぎない。これが支配愛の中間度と究極度に在る者が凡て地獄にいる理由であり、地獄にはこのような性質を持っていて、人が神について語るのを聞くに我慢の出来ない者がいるのである。
3.凡ゆる種類の悪
神の摂理211
神的摂理は何人もその存在を殆ど知らない程に秘かに働く理由は人間が滅びないためである。なぜなら人間の意志である人間の自己性は神的摂理とは決して協力せず、人間の自己性はそれに対して生れ乍らの敵意を持っているからである、なぜならこれが最初の両親を誘惑した蛇であって、それについては、『私はおまえと女との間に、おまえの裔と女の裔との間に敵意をおこう、彼はおまえの頭を砕くであろう』(創世記3・15)と言われているから。蛇は凡ゆる種類の悪を意味し、その頭は自己愛であり、女の裔は主であり、人間の自己性と主の間には、それ故また人間の深慮と主の神的摂理の間には敵意が置かれている、なぜなら人間自身の深慮は絶えずその頭をもたげ神的摂理は絶えずそれを押さえつけられているからである。もし人間はそれを感じるなら、彼は神に向かって怒り、憤激し、滅びるであろう、しかし彼はそれを感じないため、人間に対し、自分自身に対し、運命に対し怒り、憤激することは出来るが、しかしそのために滅びはしないのである。この理由から主はその神的摂理により絶えず人間を自由の中に導かれ、この自由は人間には全く人間自身のものとして見えている。
天界の秘義251
『蛇』が全般的に悪の凡てを、特に自己への愛を意味している理由は悪はことごとく心の感覚的な部分から、またかの記憶知から発していて、それらが最初蛇により意味されたということであり、それゆえそれはここでは凡ゆる種類の悪を、特に自己への愛を、またそれと同一の、隣人と主に対する憎悪を意味している。聖言ではいろいろな蛇として、例えば憎悪である毒の相違に応じて、『スネーク』、『コカトリス』、『アスプ』、『毒蛇』、『火蛇』、『飛ぶ蛇』、『這う蛇』、『蝮』として記されている。イザヤ書には以下のように記されている―
ペリシテの全地よ、おまえを打つ杖が折れたからといって喜ぶな、蛇の根からコカトリス[毒蛇]が出て、その果は飛びかける火蛇となるからである(イザヤ・ベンダサン・29)。
『蛇の根』は感覚と記憶知とに関連した心の部分または原理を意味し、『毒蛇』はそこから派生する誤謬から始まる悪を意味し、『飛びかける火蛇』は自己への愛から発する欲念を意味している。同じ予言者によりまた同じような事柄が他の所に以下のように記されている―
彼らはコカトリス[毒蛇]の卵をかえし、くもの巣を織る。その卵を食う者は死ぬ。それが押しつぶされると、蝮が出て来る(イザヤ59・5)。
創世記のここに記されている蛇は黙示録では『大きな赤い竜』、『年をとった蛇』また『全世界を欺く悪魔、悪鬼』と呼ばれており(黙示録12・3、9、20・2)、そこにはまた他の所の『悪魔』により他の者に君臨するたれか特殊な悪魔が意味されているのでなく、悪霊の一味全部と悪そのものとが意味されているのである。
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/第2巻P113
<従順について。>
1899年8月17日
私は、ご聖体拝領のあとイエズスに言った。「いったいどうして従順という徳は、これほど情け容赦なく、時としては気まぐれなほど強いものなの。」主は答えてくれた。
「この従順という婦人は、なぜそうなのか知っていますか?それは他のすべての悪癖に死を与えるからです。他のものに死を受容させるためには、それはどうしても強く勇敢でなくてはならない。またもしそれだけで足りなければ容赦なく、気まぐれとさえ思うときもあります。とてもか弱い身体を殺すためにも力と勇気がいるのだから、悪癖や情熱に死の一撃を与えるためには、もっとそれが必要になる。でもそれはとてもむつかしいのです。時には死んだと思っても、再び生き返ることがあるから。この勤勉な婦人は常に動いて様子をうかがっているので、もし人が命令を実行するのにちょっとでもためらっていると、その心にもう一度悪癖が甦ってくる恐れがあるので、その人が彼女の足元にひれ伏し、沈黙のうちに、彼女の望みを礼拝するまで、魂に戦いをいどみ、平和を与えないのです。
さあ、これがあなたの言う、彼女がなぜこれほど情け容赦なく気まぐれかという理由です。ああ、そうなのです。従順なしには、真の平和はない。もしも従順なしに平和を味わっているように感じるなら、それは偽の平和です。それは自分の情熱には合致するが、決して徳と一致はしない。魂は自滅します。なぜなら、従順から離れるのは、この気高い徳の王である私から離れることだから。
従順は自己の意志を殺し、神のそれを溢れるほどに注ぐ。従順な霊魂は、もはや自分自身の意志で生きるのではなく、神のそれで生きているとさえ言える。神の意志そのものをもって生きること以上に美しく、聖なる人生が得られるでしょうか。他の徳の場合、たとえそれがもっとも崇高なものだとしても、そこには自己愛が混じることがあるけれど、従順にはけっしてそれがないのです。」
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/6巻P171
‘92・11・10
あなたに平安 ♡ 今日の大地はすっかり汚染され 私以外は すべてがある。 この世にとって正しいと思えることも私の目にはおぞましく すでに私の裁きを受けている。 この世に憎まれるとしても それは私を愛しているがゆえ。 あなたの証しを私の目に妥当なものとさせなさい そして言っておく、救霊のためにすっかり身を捧げ 友達およびあなたが敵と呼ぶ者たちのために いのちを捨てて愛を示した時はじめて その証しは妥当となる、そして私の日が訪れても 恥じを感じないですむ。 私、自身が、我が力をもってあなたを養う、その間与えてある仕事をつづけながら 歓喜の叫びを上げなさい、私の力で彼らの壁を打ち壊し 覆われていたすべてを明るみにだすがゆえ 歓びなさい。 あなたの前にあらゆる動物やへびが這いまわっているのを 目の当たりにしよう、しかしからだを殺せる者たちは怖れなくてよい、霊魂は殺せないと言っておく、むしろ地獄でからだも霊魂も滅ぼせる者を 怖れなさい! 我が足跡をたどり 名誉も名声も求めないように。 世にペテン師と見なされても 自分は本物だと知りなさい、まずはじめに世は私をペテン師と見なした。 愛しなさい! そして許しなさい! 聖霊にたいして驚くべき企てをたくらむ者たちのために祈りなさい そして裁いてはならない 彼らにとって死に連なるものが、あなたにとっても致命的とならないように。 私が彼らを正すにまかせなさい。 あなたのなすすべては 愛に根づいたものであるように。 私があなたを養い 慰めで満たす。 最後には 私のからだの刺すべてが取り除かれよう。 愛が 勝利する。
4.感覚的な人間
黙示録講解581[2]
「蛇」・・・感覚的な人間、感覚的なものそのもの。それに噛まれることは致死的な損害を意味。
天界の秘義194
人間が信頼しているその感覚的な部分
天界の秘義195
最古代の人々は人間の中の凡ての物を獣と鳥にたとえたのみでなく、それをそのように名づけもしたが、こうした話し方の慣わしは洪水の後の古代教会の中にすら残り、予言者の間に保存されたのである。人間の感覚的なものをかれらは『蛇』と呼んだのは、蛇は地に密着して生活しているように感覚的な物は身体に最も近接している物であるからである。ここからまた感覚の証明に基礎づけられているところの、信仰の諸々の秘義に関わる理論は彼らにより『蛇の毒』と呼ばれ、その理論家自身は『蛇』と呼ばれたのであり、そしてこうした人物は感覚的なものから、すなわち、(地的な、形体的な、世俗的な、自然的な物といった)目に見える物から大いに論じるため、『蛇は畠の凡ての野生の動物の中最も鋭敏であった』と言われている。
天界の秘義195[2]
同じく詩篇の中にも、理論により人間をたぶらかす[欺く]者を語って―
彼らは蛇のようにその舌を鋭くする、その唇の中には蝮の毒がある(詩篇140・3)
さらに―
彼らは母胎から道に迷い、いつわりを言う。その毒は蛇の毒に似ている、彼らは口ごもる者の声を、呪文を唱える賢い者の声を聞くまいとして耳をふさいでいるつんぼの毒蛇に似ている(詩篇58・3−6)。
その人々は賢い人の語るところを、または賢い者の声を聞こうとさえもしない性格をもっているが、そうした性格の理論はここでは『蛇の毒』と呼ばれている。ここから古代人の間に、『蛇はその耳をふさぐ』ということが諺となったのであった。アモス書には―
人が家に入って、その手を壁にもたせかけて、蛇にかまれるのに似ている。エホバの日は暗黒であって、光はなく、闇でさえあって、その中に輝きはないのではないか(5・19、20)。
『壁の上の手』は自己から由来した力と感覚的な物に対する信頼とを意味しており、そこからここに記されている盲目が発している。
天界の秘義195[3]
エレミヤ記には―
エジプトの声は蛇のようにすすむであろう、なぜなら彼らは木を切る者のように斧をもって彼女のもとへくるからである。エホバは言われる、彼らはその森を、それが探られないために、切り倒すであろう、なぜなら彼らは蝗よりも増し加わって、数えることもできないからである。エジプトの娘は恥じを受け、北の民の手に渡されるであろう(46・22−24)。
『エジプト』は感覚的な物と記憶知から神的な事柄について論じることを意味している。このような議論は『蛇の声』と呼ばれ、そこから起ってくる盲目は北の民と呼ばれている。ヨブ記に―
彼は毒蛇の毒を吸い、蝮の舌に殺されるであろう。彼は蜂蜜と牛酪の流れる川を、小川を見ないであろう(20・16,17)
『蜂蜜と牛酪の流れる川』は単なる理論家によっては見ることのできない霊的な天的なものであり、理論は『毒蛇の毒』『蝮の舌』と呼ばれている。下記の14、15節の蛇について更に参照されるように。
天界の秘義196
古代では啓示された事柄よりも感覚的な事柄を更に信頼した者は『蛇』と呼ばれたのである。しかし現今は更に悪くなっている、なぜなら今は見たり感じたりできない物をことごとく信じないのみでなく、古代人の知らなかった知識によりこのような不信仰を確認し、かくして更に甚だしい度の盲目を自分自身の中に生み出している人々がいるからである。感覚に、記憶知に、哲学に属した物により天界の事柄について結論を下している者は、また『つんぼの蛇』であるのみでなく、また『飛びかける蛇』でもある者らは―この蛇はさらに破壊的であり、同じく聖言に記されているが―如何に自らを盲目にし、後には何物をも見もしないし、聞きもしなくなるかを明らかにするために、私たちは彼らが霊について信じていることを一例として考えてみよう。
天界の秘義196[2]
感覚的な人間は、または単に感覚の証明によってのみ信じる者は、霊を見ることが出来ないために、その存在を否定して、『私はそれを感じないから、それは存在していないが、私が見て触れる物は存在していることを私は知っている』と言うのである。記憶知の人間は、または記憶知により結論を下す者も以下のように言う、霊とは恐らく蒸発気、または熱、または空中にまもなく消えて行く科学の何か他の実体でなくて何であろうか、動物もまた身体を、感覚を、理性に類似した物を持っていないか、それなのに人間の霊は生きるが、これらは死ぬと主張されている、と。かくして彼らは霊の存在を否定してしまうのである。
天界の秘義196[3]
他の人類よりも鋭利になろうとしている哲学者もまた、その者自身でも理解していない言葉を使って霊について語っている、なぜなら彼らはその言葉について議論して、物質的な、有機的な、またはひろがりをもった物から何かを取得している表現は一つとして霊には適用されないと主張し、かくて霊をそれが彼らの観念から消滅して無となるほどにも、そこから抽象してしまうからである。しかしこうした者よりは正気のある者は霊は思考であると主張しているが、しかし彼らが思考について論じるさい、その思考から実体性を凡て分離してしまう結果、ついにはそれは身体が息絶える時消え去ってしまうに違いないと結論するのである。かくて感覚に、記憶知に、哲学に属した物から論じる者は凡て霊の存在を否定してしまい、そのため霊と霊的なものとについて言われていることを一つとして信じない。心の単純な者はそうでない。もしこれらの者が霊の存在についてたずねられるならば、かれらは主が自分達は死後生きると語られたから、自分達はそれが存在していることを知っていると言い、かくてその合理的なものを消滅させないで、それを主の聖言によって生かすのである。
天界の秘義6949
「するとそれは蛇になった」。これは内なる人から分離した感覚的な形体的な人を意味していることは、『蛇』の意義から明白であって、それは感覚的な物から論じる人間であり(195−197、6398、6399番を参照)、かくて人間の感覚的なものである、そして『蛇』により感覚的なものが意味されているため、それはまた形体的なものを意味している、なぜなら感覚的なものは、その持っているものを身体の感覚から持っているからである。そして感覚的なものは、それ自身において観察されるなら、すぐ前に86984番)記されたようなものであるため、(感覚的なものであるところの)『蛇』もまた悪をことごとく全般的に意味しているのである(251、254、257番)。『蛇』によりここでは「内なる人」または合理的な人から「分離した」感覚的な、形体的な人が意味されていることは、モーセがその前から逃れたという事実から明白であり―そのことによりそのために戦慄したことが意味されているのである―またこのしるしにより、霊的な教会の者たちがもし信仰を持たないなら、その陥る状態が示されているという事実からも明白である―なぜなら(もし彼らが信仰を持たないなら)その時は彼らの内なるものは閉じられて、彼らに分離された感覚的なものから考えさせ、そこから話させるだけの天界の光しか流れ入らないからである。真理に反抗して誤謬を弁護し、善に反抗して悪を弁護する者はことごとく、約言すると、生命の悪の中にいて、そこから何ら信仰の中にいない者は凡て分離された感覚的なものから考えているのである、なぜなら悪い生活をしている者は何事も信じはしないからである。こうした人物は議論をしたり、また特に単純な者を説得する才能において他の者に優ってはいるが、それは彼らが感覚の妄想から、また世の外観から話すという理由によっているのである。彼らはまた真理を妄想により消滅させたり、また真理に妄想のヴェールをかけたりする方法を知っており、そこからまた『蛇』により狡猾と狡知とが意味されているのである。しかし感覚的なものが内なるものに連結している時は、または合理的なものに正当に従属している時は、その時は『蛇』により深重と用意の周到なことが意味されているのである(197、4211、6398番)。
啓示による黙示録解説455
聖言の『蛇』により、前のように(424番)、人間の生命の究極的なもの[最も外なるもの]である感覚的なものが意味されているが、その理由は、動物は凡て人間の情愛を意味し、それでまた、霊界では、天使たちと霊たちの情愛は遠方では動物として現れ、単に感覚的な情愛は『蛇』として現れているが、これは蛇は地面を這って、ちりをなめているためであり、感覚的なものは理解と意志との最低のものであって、世に密接に接触し、身体の物質的な感覚にのみ影響を与える世の対象と歓喜で養われるためである。種類の多い毒蛇は、悪の誤謬のために発狂した者らの心の内部を構成している悪い情愛に依存した感覚的なものを意味し、無害な蛇は、善の真理から賢明である者たちの心の内部を構成している善い情愛に依存した感覚的なものを意味している。
5.悪意の方面の地獄
黙示録講解706[14]
「蛇」は悪意の方面の地獄を意味し、かくて彼らはそれにとりつかれて悩まされることから安全になるのであり、
黙示録講解581[6]
奈落の霊らの狡知と悪意とは主から庇護されている者たちには些かも危害を加えることはできないこともまた主の以下の言葉により意味されている―
弟子たちは蛇とさそりとをふみつける力を、敵の凡ゆる力を治める力を持つであろう(ルカ10・19)。
またかれらは蛇を取り上げ、何か死をもたらす物を飲む力をもつであろう、それはかれらを害いはしないであろう(マルコ16・18)。
「蛇をふみつける」は奈落の一味の者らの詐欺、狡知、邪悪な術策を軽べつし、軽視することを意味し、それ故「敵の凡ゆる力を治める」と附言されており、「敵」はその一味の者であり、「その力」はその狡知である。
6.用意周到さ
天界の秘義197
天的な人であった最古代の人々の間では、蛇により用意の周到さが意味され、また感覚的な部分が―彼らは危害を免れるため、その部分を通して用意周到にふるまったのであるが、その部分が―意味されたのである。『蛇』のこうした意義は主がその弟子達に言われた御言葉から明白である―
見よ、わたしはあなたたちを、羊を狼の中に送り出すように送り出します。それであなたたちは蛇のように慎重であって、鳩のように単純でありなさい(マタイ10・16)。
また荒野に立てられた『青銅の蛇』からも明らかであり、それにより主の感覚的な部分が意味されたのであって、主のみが天的な人であり、主のみが凡ての者に配慮され、凡ての者に(その必要なものを)供えられるのであり、それ故凡てそれを眺めた者は守られたのである。
7.かかとを傷つける
天界の秘義259
『かかと[くびす]』により最低の自然的なものが、または形体的なものが意味されていることは、最古代の人々が人間の種々なものを考えた方法が知られない限り、知ることはできない。かれらは人間の天的な霊的なものを頭と顔に帰し、(仁慈と慈悲のような)そこから生まれてくるものを胸に、自然的なものを足に、最低の自然的な形体的なものをかかと[くびす]に帰したが、単にそれらをそこに帰したのみでなく、それらをそのように呼びもしたのである。理性の最低のもの、すなわち、記憶知もまたヤコブがダンについて予言したものにより意味されたのである―
ダンは道の上の蛇、小道の上の毒蛇となり、馬のかかとを噛むと、それに乗った者は後へ倒れる(創世記49・3)。
またダビデの書に―
わたしのかかとの不法はわたしを取りかこんだ(詩篇49・5)。
同様にヤコブが母胎から出て来た時かれについて述べられていることによっても意味されている―
かれの天界の秘義はエソウのかかとをつかんだ、そこからかれはヤコブと名づけられた(創世記25・26)。
『ヤコブ』により意味されているユダヤ教会はかかとを傷つけるため、ヤコブの名は『かかと』から来ているのである。蛇は単に最低の自然的なものを害うことができるのみである、しかしそれは蝮の種類でない限り、人間の内的な自然的なものを害うことはできないし、ましてかれの霊的なものは害うことはできないし、その天的なものは些も害うことはできないのであり、主はそれらを人間に知られぬままに人間の中に保存され、貯えておかれるのである。主によりこのように貯えられたものは聖言では残ったものと呼ばれている。蛇が洪水以前の人々の中の最低の自然的なものを感覚的な原理と自己への愛により破壊し、ユダヤ人の間では、感覚的なものと伝承と些末事と自己と世を求める愛により破壊してしまった方法は、また蛇が今日もいかようにして、感覚に、記憶知に、哲学に属したものにより、同時にその同じ愛によりその最低の自然的なものを破壊してしまったか、また破壊し続けているかは、主の神的慈悲の下に今後述べよう。
8.蛇の裔
天界の秘義254
『蛇の裔』により不誠実[不信仰]そのものが意味されていることは『蛇』の意義が悪そのものであることから明白である、『裔[種、精]』は生み出し、生み出されたもの、または生み、生まされたものであり、ここでは教会が語られているため、これは不誠実[不信仰]である。イザヤ書には、ユダヤ教会の歪められた状態に言及し、それは『悪を行う者の裔』『不義の[姦淫の]』『虚偽の裔』と呼ばれている―
禍いなるかな、罪に満ちた国民、不法を負うた民、悪を行う者の裔、破り害う息子ら。彼らはエホバをすて去った、彼らはイスラエルの聖者を怒らせた、彼らは自らを引きはなして、後へ退いた(1・4)。
さらに―
女魔法使いの子らよ、姦淫を行う者の裔よ、ここへ近よりなさい、おまえらは咎を行う子ら、虚偽の裔ではないか(57・3,4)。
さらにそこにはルシファと呼ばれている『蛇』または竜が語られている―
おまえはおまえの地を腐敗させ、おまえの民を殺してしまったため、忌みきらわれる枝のようにおまえの墓の外に投げすてられた、悪を行う者の裔はとこしえに呼ばれはしない(14・19、20)。
9.青銅の蛇
民数記2・8−9
主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇に噛まれた者がそれを見上げれば、命を得る。」モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人を噛んでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。
ヨハネ3・11−15
はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
天界の秘義197
天的な人であった最古代の人々の間では、蛇により用意の周到さが意味され、また感覚的な部分が―彼らは危害を免れるため、その部分を通して用意周到に振る舞ったのであるが、その部分が―意味されたのである。『蛇』のこうした意義は主がその弟子達に言われた御言葉から明白である―
見よ、わたしはあなたたちを、羊を狼の中に送り出すように送り出します。それであなたたちは蛇のように慎重であって、鳩のように単純でありなさい(マタイ10・16)。
また荒野に立てられた『青銅の蛇』からも明らかであり、それにより主の感覚的な部分が意味されたのであって、主のみが天的な人であり、主のみが凡ての者に配慮され、凡ての者に(その必要なものを)供えられるのであり、それ故凡てそれを眺めた者は守られたのである。
天界の秘義897
『見ること』は信仰を持つことを意味していることは、主を荒野の青銅の蛇により表象し、これを見て凡ての者が癒されたことから明らかである、例えば、モーセの書には―
火の蛇をあなたのために作り、それを竿の上に置きなさい、たれでも噛まれた者が、それを見ると、生きるようになるでしょう、そして蛇がたれかを噛んだならば、その者は真鍮の蛇を眺めると、生きるようになった(民数記21・8,9)。
天界の秘義3863[5]
『見ること』は―それに因んでルベンが名前をつけられたが、その『見ること』は―その内意では主から発している信仰を意味していることは、聖言の極めて多くの記事から明らかであり、その中から以下のものを引用してよいであろう―
エホバはモーセに言われた、火の蛇を作り、それを柱の上に置きなさい、たれでも噛まれて、それを見る者は生きるようになるでしょう。モーセは銅で蛇を作り、それを柱の上に置いた、蛇がたれかを噛んで、その噛まれた者が銅の蛇を見たなら、その者は再び生きるようになった(民数記21・8、9)。
銅の蛇は主を外なる感覚的なものまたは自然的なものの方面で表象したことは前に見ることが出来(197番)、『銅』は自然的なものを意味している(425、1551番)。主に対する信仰は、それを見、または仰ぎ見た者が再び生きたことにより表象されたことを、主御自身がヨハネの書の中で教えられている―
モーセが荒野に蛇を挙げたように、人の子もそのように挙げられねばならない、かれを信じる者はたれでもことごとく滅びないで、永遠の生命を得るためである(3・14、15)。
天界の秘義4211[3]
それよりもさらに粗雑な種類の聖さをもっている者たちは主とは主の神的な感覚的なものの方面で連結しており、この連結が銅の蛇により、すなわちそれを眺めた者たちは蛇に噛まれた傷から癒されたということの中に表象されているものである。
天界の秘義6398
「ダンは道の上の蛇のようになるであろう」。これは、善が未だ導かないため彼らが真理について論じることを意味していることは以下から明白である。すなわち、ダンの表象は、真理の中にはいるが、未だ善の中にはいない者たちたちであり(6396番を参照)、『蛇』の意義は感覚的なものから論じることであり(そのことについては以下に述べよう)、『道』の意義は真理である(627、2333番)。かくて『ダンは道の蛇であること』により、善が未だ導かないため、彼らが真理について論じることが意味されているのである。この論じることとそこから生まれてくる真理との性質は以下の記事に述べよう。
天界の秘義6398[2]
『蛇』が感覚的なものから論じることを意味していることは、人間の内部は天界では色々な種類の動物により表象されているためであり、そこから聖言ではそれに似たことがその同じ動物により意味されているのである。人間の感覚的なものが蛇により表象されたのは、感覚的なものは人間の中の最低のものであって相対的には地的なものであり、いわば這っているからであり、そのことはまた感覚的なものが流れ通って行く形からも認めることができよう、そのことについては、主の神的慈悲の下に他の所に述べよう。ここからこれらの感覚的なものは蛇により表象され、主の神的な感覚的なものでさえも荒野の真鍮の蛇により表象され(4211番)、外なるものにおける、深慮と用心深さとは、マタイ伝の『蛇』により意味されているのである―
あなたらは蛇のように賢く、鳩のようにすなおでありなさい(10・16)。
しかし人間が、真理の中にはいるが、未だ善の中にはいない者たちのように、内なるものから遠ざかって、感覚的なものの中にいて、感覚的なものから話すと、そのときは『蛇』により論じる[推理する]ことが意味されており、それで、ダンが取扱われているここでは、善が未だ導かないため、真理について論じることが意味されているのである。他の場合では『蛇』により悪意、狡猾、詐欺が意味されているが、しかし毒蛇によっては、例えば『蝮』といったようなものによっては、その論じることは毒である。(『蛇』は感覚的なものから論じることを意味していることは前の195−197番に見ることが出来、また『蛇』は全般的に悪の凡てを意味し、いくたの悪は色々な種類の蛇により区別されている、251、254、257番)。
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩 上/P143
挙げられるとは? 彼は子羊と言われています。そのために、私が考えるのは、過越祭の子羊、モーセの子羊、そして、モーセが十字架の上に挙げた蛇のことをどうしても連想してしまいます。エリザベト、エリザベト! 私の子が、どうされるのでしょうか。この世を救うために、どのように苦しむのでしょうか?
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P35
モーセの時代から今にいたるまで、そして今から最後の審判の日に至るまで、十字架は一つであろう。すなわちわたしのそれのような十字架、最初に、永遠の生命の象徴である『蛇』が掲げられたそれ、わたしが運んだそれ、わたしが万人を裁くために、審判主、王として現れる時、わたしが持つであろうそれだ。
10.川を遡るのを妨げる
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P322
人間は楽園の安全な岸から、春になると水の溢れる地上の川に投げ捨てられました。けれども神は追い出した二人の心に、永遠の思い出を記されました。神の御声を聞き、愛を感じていた美しい楽園、神のことを味わった天の国にいたことの思い出を残されました。(中略)
今、楽園ではなく、地上にいるあの蛇は、霊魂を迷わせようとしています。永遠の天国に行こうとする霊魂が、命と救いの木々を養う大いなる川へ遡るのを妨げようとしています。流れを遡って神に行き着いた人々だけは、天使たちと一緒に住み、もう苦しむことがないでしょう。
11.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P49
‘88・10・11
この啓示が初まって以来 伝えているが、我が教会は廃墟と化し この廃墟のさ中にマムシが巣喰い その深みに居座っている、ああ ヴァッスーラ!!(*) 苦しい・・・ 私はやって来て 我が最も神聖な秘跡にからみつき はいずり回るへびどもを解いて 教会の外に放り出さねばならない、そして始めから教会を造り直さなければ・・・ 我が子よ、この荒涼とした荒野で暮らし それに囲まれているのは 本当に困難で 恐怖に満ちている、しかし私を愛し 愛をもって我が名を 礼拝する人びと皆のそばにいる。
*神は苦悩と痛みに満ちて、大声で叫ばれました。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P111
♡ その考え方は 私のとは違う。 我が都市の略奪と 破壊を目指している ♡ ああ カイン! カイン? あなたに与えた霊はどうしたか? 再び自らの破滅に向ってはいないか? 生まれた日から乱暴だった、それに私にとって初めてでないと知っていて、ここに大祭司として仮装し 着飾ってやって来た、金銀の、我が祭服で身を纏い、暗黒の野獣に与えられた、暗い衣装を隠して着ている、あなたのうちには光がない、そして身の毛もよだつ顔を隠すために、仮面をつけ、忌むべき顔を隠した、その外観は我が正しい者たちでさえ、すっかり騙し通せるが、その仮面で 私は騙せない、仔羊の仮面の裏に、広大な破壊を覆い隠しているのが、私の眼には分かる、あなたは悪のよろいに すっかり身を固めた! そして今は 世界を征服し、わずかに残る光を かき消そうと、企てている。 その意図は不法状態を広げ 聖なるもの全てを根絶し、力ある人びとを排斥し 我が聖所を独占すること。この人びとが 我が子よ 幻視によって示した毒蛇で、我が聖なる秘跡と 聖櫃の周りを這い回っている ♡ 彼は多くを欺き 人びとは眼をくらまされる、詐欺師の衣装にまどわされて。 この気の毒な霊魂たちは まさに彼らの時代に 目の当りにしているのが、大祭司そのものだと思い込むであろう! 栄えある変装によって、我が教会全体に 大いなる背教をもたらし、荒廃を招くが、全ては奇跡や、大空に現れる 前兆と印によって覆われ 見えなくさせられよう。 我が永遠の生けにえを 彼は踏みつけ 廃止するが、全ては覆い隠されたまま、悪意をもって行われ、我が聖なる都は カインの力に屈する、私の警告を拒んだからだ、私は思いがけない時に、素足で、訪れた、しかし彼らは私を 嘲笑した。祈りながら 自らを犠牲にして、贖う 我が愛する霊魂たちにより、 カインの力はほんのわずかな期間で終わる。 この全てを、私は考慮し あなた方の犠牲は無駄とはならなかった ♡ あなた方の祈りによって 罪と悪を押しとどめることができよう。
主よ、あなたの聖なる方がたはどうなるでしょう?
大変悲しいかな、仔羊の仮面をつけた、その外観ゆえに、多くは騙され、彼に組みしよう、しかし彼の中身の実態がどうであるかを、あなたが見るのを許した、それは毒蛇であり、死にいたらしめる・・・ヴァッスーラ、私は大いなる雷鳴 そして我が火によって この反逆者と手下どもを打ち倒す、偽りで造り上げられたその隠れ家を踏みつけ、基礎が虚偽で出来ている その避難所は塵の山となろう。 そして大いなる愛をもって 我がアベルたちを呼び寄せ 抱きしめる。 我が聖心に匿(かくま)って、彼らは鳩のように清くなり 我が聖心は鳩の巣のように その住まいとなる。 見回しなさい、見えないか? 気がつかないか、我が兄弟の多くが 陰謀をめぐらしているのが? 私自身の者たちによって 我が子よ 私は裏切られている、
主よ、どうしてそのようなことをあなたにするのでしょう、もしかしたらあまりよく分かっていないのかも知れません!
我が子よ、虚栄心と不従順に眼が覆われてしまっている
正しいことをしてると心から思っておられるのでしょう!
我が掟を破っていながら どうして正しいことをしていると考えようか! 私に従ってはいない、そして不従順は 私からのものではない! 敵の掟に従い、その足跡に自らを従わせ 破滅と転びに向っている! 私は東風のように この反逆者たちを散らす、見ているがよい ♡ 彼らのために嘆願し、私を愛して我が義をなだめなさい、救いが必要な霊魂たちを 連れて来て 私に栄光を帰しなさい、この暗やみの中にいる 若者たちの上に 我が眼は特に注がれている。 来なさい、御父に祈りを捧げよう ♡
「ああ お父さま、あなたの子どもたち、特に若者たちを、哀れんで下さい、
この霊魂たちをとらえ み翼のかげにおいて下さい、
悪霊から救い出し、無気力な周囲から贖い、
真理の聖霊で満たして下さい
そして永遠にいたるまで、あなたの光のうちに
引き入れて下さい、アーメン、」
さあ、憩いなさい 子よ、決して見捨てない、あなたに与えた光を取り上げることに 彼らは(*)成功しないであろう、恐れないように、あなたとともにいる、来なさい、「私たち」? 私の現存を感じているか?
はい 主よ、死ぬほどお愛ししています。
*私の迫害者たち。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P148
‘89・3・29
コーテテル(JU)(スイスの北)の集会に際して与えられたメッセージ
あなた方に平和 ♡ 私は主、我が現存を感じなさい、今日は我が僕を通して、語っている。 私はいつもともにいる、人生の一瞬一瞬に ♡ 我が聖心は あなた方の愛を感じて歓喜している― 我が仔羊たち、私はいつも皆を 腕の中に集め 悪魔から匿(かくま)いたいと願っていた! 愛している ♡ 永遠の愛をもって愛している、天国に来て 初めて理解するであろう 嫉妬深い愛をもって。 しかし、その途方もない愛にもかかわらず、我が子たちのほとんどは 私に背を向けてしまった・・・我が受難を忘れて。 そして進化という名のもとに 我が名は彼らにとって 無意味となった。 偶像を与えるなら 飛びついて礼拝する、だが聖なるものは 与えても唾するであろう ♡ 私、あなたの聖なる者は、苦しみを負い からだは この暗やみの世の 不従順、不潔と罪によって 引き裂かれている! ああ 被造物よ! 我が苦しみの叫びは、天使たちが打ちふるえて ひれ伏し、天全体を揺れ動かす。 私の声はまだ 届いていないか、我が娘息子たちよ? 天からの我が叫びに対し あなた方の聞こえない耳に 悪魔たちでさえ 唖然としている・・・血の涙に 目は溢れ、夜昼と、何時間も、あなたを待ち続けている、我が霊を 永遠に拒むのか? 憩う牧場が一つもなく、走って行って生き返らせてくれる泉も 一つとない、この荒れ果てた荒野に 我が声はこだまする。 私はいにしえの牧場に 天の玉座から降って来たが そこは粗末にされ 不毛と化していた、愛を込め 手ずから植えた花は、一つまた一つと 枯れていき、花床は荒れ果て 干からびている、泉はもう空の、ほこりっぽい、暗い穴に過ぎず、毒蛇の巣となった ♡
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち8巻P150
我が−聖心−の−ヴァッスーラ:毒蛇、あなた方皆の間を這いまわっているのは 死をもたらす毒蛇。それは誘惑し、隙を見て、転ぶのをねらっている。その後はすかさず 死が訪れる。ああ・・・我が聖心は 痛む・・・
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P162
‘00・・・(日付を思い出せません)
我が心のうちには一切の 幸せへと導く小道がある。 希望という宝を見いだすなら 自分の笑い声が全身にさざ波のように広がるのが聞こえてこよう、その笑い声を聞いて 天はこぞって歓ぶ もはやあなたの眼差しはこの世の汚れた富には注がれず 天の麗しさをまとった王の上に注がれるであろうから。 そう、かつては偶像とした銀や金を、不浄と見なすようになる。 そのとき、あなたの希望 護り手でもある聖霊があなたのうちにしっかりと住まい あなたも聖霊のうちに住まうがゆえ あなたを囚人としていた大蛇は二度と決してあなたのうちに巣喰うことはない。 気がつくとあなたは 歓びの叫びをあげている、永久に及ぶ歓びが その顔に刻まれて。 歓びと楽しみがあなたにつき従い 悲しみと嘆きは終わりを告げる。そう希望という宝は 霊を慰め励ます。
12.詐欺を企んだ者
天界と地獄578
自己への愛から悪にいると同時に心の内部から詐欺を企んだ者は全ての者の中でも最悪の者である、なぜなら詐欺は思考と意図の中へさらに深く入って、人間の霊的生命の凡てを破壊するからである。これらの者の大半は地獄の背後にいて、魔鬼と呼ばれ、自分自身を他から見られぬようにして、妖怪のように他の者の周囲を飛びまわり、秘かに悪を注ぎ込み、それを蝮が毒を撒き散らすように、撒き散らすことを楽しんでいる。こうした者は他の者よりも更に凄まじい刑罰を受ける。しかし詐欺漢ではなく、また悪意をもった狡知にはそれほど満たされてはいないものの、自己への愛から生まれる悪にいる者らもまた地獄の方にはいるが、それは前のものほど奥深くはない。一方世への愛から悪にいる者らは地獄の前方にいて、[悪]霊と呼ばれている。これらの霊は自己への愛から悪にいる者らほど、悪の形をしていない。すなわち憎悪と復しゅうの形をしていない。従って彼らはまたそうした悪意と狡猾さを持っていない。それでその地獄は前のものよりは穏やかである。
13.ルイザ・ピッカレータ
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P252
すると、頭に冠をつけ、彼らの皆より背が高い一人の男性が出てきて言いました。
「教会は破壊されるだろう。もうおおやけの式典は存在しなくなり、ただ隠れて行なう何かの式があるだけとなり、聖母はもう認められないだろう。」
私はこのようなことを聞いて言いました。「そのようなことをあえて言うあなたは、いったい誰なのですか? もしかしたら、地面を這い回るようにと神から宣告された、あの蛇ではありませんか? 今では、人々をだまして自分を信じさせるほど大胆になったのですか? 私はあなたに、自分は何者であるかを見せるように命令します。」
私がこう言いますと、彼は背が高かったのに、どんどん低くなって蛇の形を取り、閃光を放ちながら地の下にのめり込んでしまいました。この後、私は自分の中に戻りました。
14.火の傍に置かれた蛇のように、のたうちまわって
天界の秘義3894
前に以下のことを言っておいた、即ち、天使たちと霊たちの呼吸は彼らの愛の状態とそこから派生してくる信仰の状態に全く順応しているのである(3892番)。そこから一つの社会は他の社会と同じようには呼吸はしないのであり、自己への愛と世への愛の中におり、そのことにより誤ったものの中にいる悪い者らは善い者と共になって住むことは出来ないで、彼らに近づくと、呼吸が出来ないで、いわば彼ら自身には窒息してしまうかのように思われ、その結果地獄へまでも半死半生の者のようになって、または石のようになって落ち込んでしまい、そこへ落ちると、再び呼吸を受けるが、それは彼らがそこにいる者らと共通して持っているものである。このことから私たちは、悪と誤謬の中にいる者らは巨大人の中に、または天界の中にいることは出来ないことを認めることが出来るのである、なぜなら彼らはそこに近づくと、その呼吸は停止しはじめ、その観察と思考もまたことごとく停止し、同じように悪いことを行い、誤ったことを説きつけようとするその努力もことごとく停止し、その努力と共に彼らの活動と生命の運動もことごとく消滅し、かくて彼らは自分自身をそこから真逆様に投げ下ろさないわけにはいかないのである。
天界の秘義6677
「もしそれが娘であるなら、彼女を生かしておかなくてはならない」(出エジプト記1・16)。これは、彼らはもしそれが善であるなら、そのようなことをしてはならないことを意味していることは以下から明白である、即ち、『娘』の意義は善であり(489−491、2362番)、『生きること』の意義は破壊されないことである。エジプトの王が息子は殺さなくてはならないが、娘は殺してはならないと言った理由は、内意から明らかであり、その内意は、彼らは真理を破壊しようと企てはするが、しかし善を破壊しようと企てはしないということである、なぜなら奈落の者は取り憑いて悩ます時は、真理を攻撃することは許されるが、善を攻撃することは許されはしないからである。その理由は真理は攻撃されることの出来るものではあるが、善は攻撃されることの出来ないものであり、善は主により守られており、奈落の者が善を攻撃しようと企てると、地獄に深く投げ込まれるということである、なぜなら善の一切には主が現存されているため、彼らは善の現存に耐えることは出来ないからである。そこから天使たちは善の中にいるため、一人の天使でも数千の奈落の霊どもを支配することが出来る程の権能を彼らに対しては持っているのである。善の中には生命が在ることを知られたい、なぜなら善は愛のものであり、愛は人間の生命であるからである。自己と世を求める愛のものであって、そうした愛の中にいる者らには善として現れている悪が、天界の愛のものである善を攻撃するなら、その一方の生命が他方の生命と戦うことになり、そして天界の愛の善から発している生命は神的なものから発しているため、自己と世を求める愛から発している生命が前の生命と衝突するなら、それは消滅し始めるのである、なぜならそれは窒息してしまうからである。かくて彼らは死の苦悶にある者のように苦しみ、そのため真逆様に自らを地獄に投げ込み、そこに着くと再び生命を回復するのである(3938、4225、4226、5057、5058番)。このことがまた善は魔鬼と悪霊によって攻撃されることが出来ず、かくて彼らは敢えて善を破壊しようとはしない理由となっている。真理にあってはそうではない、なぜなら真理はそれ自身の中に生命を持たないで、善から、即ち、主から善を通して生命を持っているからである。
天界の秘義9281[2]
人間は外なる呼吸と内なる呼吸とを持っている。外なる呼吸は世から発しているが、内なる呼吸は天界から発している。人間は死ぬと、外なる呼吸は止むが、しかし内なる呼吸は―それは人間が世で生きている間は無音であり、知覚されはしないが―継続しているのである。この呼吸は全く真理に対する情愛に順応しており、かくてその信仰の生命に順応している。しかし地獄にいる者らのように、何ら信仰の中にいない者らは内から呼吸しないで、外から呼吸し、かくて反対の方法で呼吸しており、それで彼らは内から呼吸している天使たちの社会へ近づくと、窒息し初めて、死の像のようになってしまうのである(3894番)。
神の摂理324(ハ)
「かくて人間は各々天界に入るように創造されている」。 これは創造の目的であるが、凡ての者が天界に入るのではない、何故なら彼らは天界の祝福に相反した地獄の歓喜に取りつかれ、天界の祝福に調和していない心の者は天界に入ることは出来ないからである、何故なら彼らはそれに耐えることは出来ないから。霊界に入る者は一人として天界に昇ることを禁じられていない、しかし地獄の歓びを持つ者がそれに近づくと、その心臓は動悸し、息切れがし気力がなくなり始め、苦悶し、責め苛まれ、火のそばに置かれた蛇のように身もだえする。これは相反したものは相反したものに反撥するからである。しかし凡ての者は人間として生まれ、そのことにより考え意志する能力を持ち、このことから語り行動する能力を得ているため、彼らは死ぬことは出来ない、そして彼らは自分自身の生命の歓喜に類似した生命の歓喜を持つ者以外の者とは生活することは出来ないため、その者たちの許へ送られ、従って悪を歓ぶ者はその者自身の許へ、善を歓ぶ者もその者自身の者の許へ送られる。凡ての者は善を歓ぶ者を悩まさないなら実にその者の悪の歓喜に生きることを許されているが、しかし悪は善を悩まさざるを得ないため―なぜなら悪には善に対する憎悪があるから―彼らは他の者に危害を加えないように、地獄の彼ら自身の場所へ移され、投げ込まれそこでその歓喜は苦痛に変るのである。
神の摂理338(ロ)
「この信念は自然的な状態とは全然異なった霊的状態の無知から生まれている」。 霊的な状態または人間の死後の状態については既に多くの箇所に記しておいた。そして人間は凡てその人間自身の愛であり、彼処では何人も自分と愛を同じくしている者以外の者とは共に生活することができず、もし他の者の間に入るならば、自分の生命を息づくことが出来ないことが示された。これが人間はすべて死後自分に似た者たちまたは愛を同じくしている者たちと交わり、その者たちを恰も隣人、友達であるかのように認める理由である。さらに驚くべきことは彼は彼らに会って、彼らを見ると、彼らを幼時の頃から知っていたかのように思われるのである。こうしたことが起るのは霊的な血縁と友情によっている。さらに如何ような共同体の者であっても、自分の家以外のどのような家にも住むことは出来ない。凡ての者は自分の家を持ち、彼が始めてその共同体に加わると、それが自分のために供えられているのを知るのである。彼は自分の家の外で他の者と交わることは出来るが、その家以外の何処にも止まることは出来ない。さらに何人も、他人の部屋にいるときは、自分の場所以外の場所に坐ることは出来ない。もしその場所以外の場所に坐るなら、愚鈍になって、口がきけなくなり、しかも妙なことには、人は凡て、部屋に入ると、自分の場所を知っているのである。彼らが礼拝所または公の集会に共に集まるときも同じである。それゆえ霊的状態は自然的状態とは全く相違し、それは人間はすべて自分を支配している愛の在る所にいなくてはならない性質を持っていることが明白である。なぜならその愛は彼の生命の歓喜であり、凡ての者は自分の生命の歓喜の中にいることを欲するからである。さらに人間の霊はそれ以外の所にいることは出来ないのである、なぜならこの歓喜は彼の生命を構成し、実に、それは彼の鼻孔の息であり、心臓の鼓動であるから。自然界ではそうでない。この世では人間はその心の中で抱いている歓喜を顔、言葉、態度に外面的に佯り装うことを幼年時代から教えられている。それゆえ自然界の人間の状態からその死後の状態については如何ような結論も下すことは出来ない。なぜなら凡ての人間の死後の状態は霊的なものであって、そのため彼は自然界の生活により自分自身のために得たところのその愛の歓喜以外の何処にもいることは出来ないからである。このことから、地獄的な歓喜にいる者は何人も、一般に天界的歓喜と呼ばれている天界の歓喜に入れられることは出来ず、または、それと同じように、悪の歓喜にいる者は何人も善の歓喜へ入れられることが出来ないことが明白であるに違いない。それは以下の事実からさらに明らかに認めることができよう、即ち、何人も死後天界に登ることを禁じられてはおらず、その道が示され、機会が与えられ、入ることを許されているが、しかし天界に入って、その歓喜の中で息づくと、胸が痛み、心臓が苦しくなり、意識が混濁し、ために彼は火の傍に置かれた蛇のように、のたうちまわって、天界に面をそむけ、地獄に面を向け、真逆様になって逃げ去り、その者自身の愛の支配している共同体に着くまでは止まりはしない。
天界と地獄400
そこで蛇のようにとぐろを巻いてのた打ち回るのが見られたが、これは内的な呵責によって起ったのである。
天界と地獄518
天界と地獄525
真の基督教224
その後地獄と天界との間に如何なる悪魔も横切り得ない大いなる深淵を置き給うたからである。若しも、何人かがこれを横切ろうと試みるならば、彼は焼けた鉄、或は蟻塚の上の蛇のように、入口そのものの所で責めさいなまれるであろう。何故なら、悪魔と悪鬼は神的真理の香りを嗅ぐや否や、自らを深淵に向かって、また洞窟に向かって真逆様に投げつけ、その入口を一つの割れ目も見えぬまでに閉じ込めるからである。これは彼らの意志と理解とは神的善と真理とは正反対の悪と虚偽とに取り憑かれているためであり、かくてその人間全体はこの二つの生命的な原理から成り立っている故、彼らは神的善と真理に正反対のものを経験し得る所に向かって真逆様に投げ落とされるのである。これは神的真理の言い尽くし難い力を示している。そして基督教会の持つ聖言は三つの度における神的真理を包含する故、これは、明白にヨハネ伝一章三節、十節に意味されている所のものである。この力は筆舌に表現することは出来ないことを、私は霊界の多くの経験から証することが出来るが、しかしこのような証明は全然信じ難いものであろうから、私は上述したこと(209番)以外には何ごとも語らないであろう。前述した所から、主がペテロに向かって語りたまうた所の「我この岩の上に我が教会を建てん、地獄の門はこれに勝たざるべし」(マタイ16・18)の言に従って、主より発する神的真理を持つ教会は、地獄を征服する力を持つという重要な真理を引き出すことが出来よう。主はこれを、基督は活ける神の子であるというペテロの告白(十六節)の後に語り給うた。この真理はその記事の岩により意味されている、何故なら、岩は聖言では何処でも神的真理の方面の主を意味するからである。
真の基督教569
或る悪魔がその狡知によって光の天使の外観を帯びることが出来、最低の天界の或る天使たちの間に現れた。その後ニ、三日して、私は彼を見た。遠方からは彼は豹のように見えた。彼は中間の深淵を越えて、ニ本の橄欖の木の間に立ったが、その木の芳香も彼には何の影響も与えなかった。これは、如何なる天使もその場に居合わせなかった為である。然し、天使たちが近づくや否や、彼は痙攣を起こして倒れ、その時の有様は大きな大蛇が身悶えしているようであった。遂に、彼は地面の割れ目から逃れ、その朋輩達によって洞窟の中へ運ばれ、そこに間もなく彼自身の歓喜の忌まわしい匂いによって生き返ったのである。
真の基督教622
諸々の悪と誤謬との中に在る者はこれと異なっている。彼らは欲するならば、天界に昇ることを許される。しかし彼らはその入口そのものの所で呼吸が困難になり始める。間もなく彼らの視覚は曇り、その理解は鈍り、考えることが出来なくなり、死がその面を凝視し、彼らを麻痺させるように思われる。その時、彼らの心臓は激しく鼓動し、その胸は締め付けられて痛み、精神的な苦悶は絶えず増し加わって行く。この状態に於いて、彼らは火に焼かれる蛇のように身悶えし、その時彼らに現れる険しい道をまっしぐらに駆け降る。彼らは止まらないで、遂に地獄の彼らに似た者たちの間に達する。何故なら、その時彼らの心臓は以前のように鼓動し、彼らは再び呼吸することが出来るからである。彼らはその後天界を嫌忌し、真理を斥ける。而してその心に於て主を涜し、彼らが天界で嘗めた苦悶と苛責とを加えた者こそ彼であると信ずる。
真の基督教739
しかし、私は天界に入るや否や、頭と身体に死ぬような苦痛を感じ、自らを地に投げつけ、火に焼かれる蛇のように身悶えし、縁に這って行き、自らを下に投げ付けたのです。
啓示による黙示録解説611
火の前に置かれた蛇のようにものたうちまわり、それで我と我が身をころがして行き、その時見えてくる断崖から真逆様に我が身を下へ投げつけ、地獄の、彼らと同類の者の間に来るまでは休みもしないが、そこへ来てようやく息づくことが出来、心臓も自由に鼓動することが出来るのである。この後では彼らは天界を憎悪し、真理を斥けて、心では主を冒涜し、天界で舐めたかの苦痛と拷問とは主から発したのだと信じる。
天界の秘義6353[2]
が、事実は、天界は主によりたれにも拒まれてはいないのであり、生命と生命の伝達とのために(それはそこでは香りが地上でそれを嗅ぐ者により認められるように認められるのであるが)邪悪な者はそこに住むことが不可能となるのである、なぜなら彼らはそこではその生活の悪により、最も深い地獄の中で苦しむ以上にも苦しむからである。
15.霊界日記
霊界日記2492
「或る種の蛇について」
蛇である者ら
16.マリア・ワルトルタ
マリア・ワルトルタ/復活/P197
最後の時のキリスト者は司祭以上でなければならない、反キリストの蛮族の迫害は残酷であろうから。主の傍らにいられる人は、聖なる麻を着ている人々で、彼らは苦労をいとわない。自分たちの完全さで残った僅かの信者の霊魂にタウをしるす。地獄の炎がそのしるしを消せないように、司祭たちか、否、天使たちであるべきである。空気をサタンの悪臭から清めるため、自分たちの徳の香であふれている香炉を振る天使たち、そして私であるべきです。最後の時の信者たちが最後まで、徳の道を続けられるように。以上の事を、私はあなたたちに話したかった。だが未来の善と悪とは現在に根を張っており、雪崩は雪の一粒の結晶から始まる。信仰のない、誠実のない、味わいのない、相応しくない、異端者の司祭は、同じような罪を犯している一般の信者の十倍の悪をする。それに多くの人を悪に引っ張る司祭職での堕落の不浄の教えは、利己心、貪欲を生む。司祭職においての貪欲は、どこに達するかと言えば、神殺しに達する。未来においては、神の子はもう殺される事はないが、神に対しての信仰はそのようになると考えている。そのために、尚更ただされない神殺しが行なわれるであろう。それには復活はない。おお! それは行い得る。私は見ている。未来の世紀のあまりにも多いケリオットのユダのために行われ得る恐ろしい事! 私の教会の司祭たちは根こそぎにされる。神の教会では、悪魔の誘いによって、あるいは人間の弱さにより、世紀にわたって、イエズスの裏切り者の使徒ユダに従う司祭たちや修道者が無くなる事はない。彼らが作る悪は、権力とスキャンダルの理由で、非常に重いものである。だが、神と信者の前で、私に忠実な司祭たち、修道者たちによって補われる事であろう。私の生贄によって救われ支えられているにもかかわらず、彼らは司祭の心がなく、司祭の服しか持たない地獄の蛇によって動かされ、波のうねりを煽り立てる。
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P137
イエズスは更に言われる。
「現世はわたしの言葉を守らず、それを疎かにし、蔑んだために、滅びる。世には、また世の力には、救うものが欠けているので人間のどんな力も、深遠に向う現世のレースを止めることは出来ない。救うものとはわたしの律法である。
あなたたちが、わたしの摂理的な愛の木陰に住めるようにとわたしが耕した神秘の森には一つの空き地が出来た。あなたたちの罪がそれをつくり、そこを永遠の蛇が陣取り、その息であなたたちを毒殺し、かみ殺し、わたしの律法があなたたちのなかで善の代理人となることを妨げている。
あなたたちの内側にも外側にも煙と毒と恐怖と絶望が充満している。だがあなたたちは光と平和と希望とよろこびを持つことが出来たはずだ。あなたたちがわたしの言葉に従って歩んでいればそれは可能だった。というのもわたしが、あなたたちを恐怖から守るために、人生のすべての恐怖を舐め尽くしたからだ。あなたたちのために耐えしのんだ、あの無惨な死の苦悶のなかで、わたしはそれを果したのだ。
ところがあなたたちはわたしの贈物を捨て、サタンを師と呼び王と呼んだ。そしてサタンはあなたたちの上に君臨し、あなたたちを彼の地獄にふさわしくするために、あなたたちを教化し、塩づけにし、懲らしめている」。
17.鯨、竜
天界の秘義7293
「それは水蛇になるであろう」。これは、そのことにより迷妄〔妄想〕とそこから派生する誤謬のみが彼らを支配するであろう、を意味していることは、『蛇』の意義から明白であり、それは感覚的な身体的なものであり(6949番を参照)、そこから妄想である、なぜなら感覚的な、身体的なものは、合理的なものから分離すると、即ち、それに服従しないと、妄想に満ち、そのためそれは殆ど妄想以外の何ものでもなくなるからである(6948、6949番)。ここに意味されているものは水蛇である、なぜなら原語では、『蛇』はここでは海の最大の魚である『鯨』と同じ言葉により表現され、『鯨』は全般的な記憶知を意味しているからである。それで『エジプト人』により妄想から発した誤謬が意味されているため、この言葉は蛇を、即ち、水蛇を意味するのである、なぜならそれは水の中にいる鯨を意味しているからであり、またエジプトの水は誤謬であるからである。
天界の秘義7293〔2〕
パロまたはエジプトは『鯨』と呼ばれていることはエゼキエル書に明白である―
主エホビはこのように言われた、話して、言いなさい、見よ、わたしはエジプトの王パロ、その川の真中に臥している大きな鯨であるあなたの敵となる、と(エゼキエル29・3)。
海の中の鯨のようなものである、あなたはあなたの流れをもって出て来た、あなたはあなたの流れを乱した、と(エゼキエル32・2)。
これらの記事では、『鯨』により全般的な記憶知が意味されており、その記憶知により、それが感覚的な人間から発しているため、信仰に属した事柄は歪められるのである。『鯨』が全般的に記憶知を意味していることは、『魚』が個別的な記憶知を意味しているためである(40、991番を参照)。『鯨』は信仰の諸真理を歪める記憶知を意味しているため、それによってまた、誤謬を生み出すところの、妄想から発した理論が意味されている。
天界の秘義7293〔3〕
こうしたものがダビデの書の『鯨』により意味されているのである―
あなたはあなたの力により海を切り裂かれた、あなたは水の上で鯨の頭を砕かれた(詩篇74・13)。
それに似た事がイザヤ書の『レビアタン』によっても意味されている―
その日エホバはその固い、大きな、強い剣をもって長い蛇レビアタンに報われ、海にいる鯨を殺されるであろう(イザヤ27・1)。
ダビデの書には―
あなたはレビアタンの頭を粉砕され、彼を与えてズイイムの民の食物とされた(詩篇74・14)。
『レビアタン』は善い意味では、ヨブ記41章に真理から発した理論を意味し、真理から発した理論は誤謬から発した理論に対立するのである。
天界の秘義7293〔4〕
『鯨』により真理を歪める妄想から発した理論が意味されるため、原語ではそれと同じ言葉により表現されている『水蛇』により、理論を生み出し、歪曲の手段ともなるところの、妄想から発した誤謬そのものが意味されているのである。後は以下の記事でそうした蛇により意味されているのである―
イイムはその宮殿に、蛇は歓喜の宮殿に答えるであろう(イザヤ13・22)。
とげはその宮殿に、あざみと茨はその砦の中に生え、蛇の住居、ふくろうの娘の館となるであろう(イザヤ34・13)。
蛇の住居、その寝椅子に、葦とい(井草)に代って草が生えるであろう(イザヤ35・7)。
わたしはエルサレムを荒塚とし、蛇の住居となそう(エレミヤ9・11)。
わたしはエソウの山々を荒涼〔荒れすさんだ所〕となり、その嗣業を荒野の蛇のものとした(マラキ1・3)。
天界の秘義7293〔5〕
これらの記憶では『蛇』は理論を生み出す誤謬を意味している。そのことはまた『竜』によっても意味されているが、しかし『竜』は自己と世への愛から、かくて悪の欲念から発した理論を意味し、これは真理のみでなく、善をも歪めるものである。こうした理論は、信仰の諸真理と諸善とを心では否定しているが、口では支配欲と利得欲からそれらを告白している者らから発生しており、かくてまた諸真理と諸善とを冒涜している者らから発生しているのである。両方のものが『全世界をたぶらかすところの、悪魔と悪鬼と呼ばれている竜、古い蛇』により意味され(黙示録12・9)、また男の子を生んだ女を迫害し―その子は神とその王座のもとへ取り上げられたのであるが(黙示録12・5)―口から水を川のように吐き出して、その女を飲み込もうとしたその同じ竜によっても意味されているのである(15節)。
天界の秘義7293〔6〕
その女が生んだ『男の子〔息子〕』は現今明らかにされた神的真理〔神の真理〕であり、その『女』は教会であり、『竜、蛇』は迫害する者らであり、『その竜が吐き出そうとした川のような水』は、悪から発した誤謬とそこから生まれてくる理論を意味し、これにより彼らはその女を、即ち、教会を破壊しようと企てるのであるが、しかし彼らは何事も遂行しないことは、『地はその女を助けた、地はその口を開き、その竜が吐き出した洪水を飲み込んでしまった』により記されているのである(16節)。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P245/神との対話
信ずる者とそうでない者の生活は、初めのうちは大差なくみえるが、最後は蛇と芋虫ほどの差が生じる。蛇は幾度脱皮しようとやはり蛇である。だが、芋虫は醜いサナギを脱皮して新しい生物となり、美しい蝶となって空を舞う。同じように、信じる者は肉体を脱して霊的栄光の域に入り、天をいつまでも駆けるようになるが、罪人は死んでもやはり罪人である。
芋虫はまた、十字架に括り付けられたかのように、木に張りついたサナギの中でもがき苦しむが、この苦しみが翼に力を与えて新生命に備えさせる。同じように、わが子らも地上にあって霊的戦いに苦しみ解放のときを溜息とともに待ちこがれるが、十字架を負う中でわたしから力を与えられ、終りなき生命に対して完全に準備する。
スウェーデンボルグ/聖書23
古代に、諸国民の偶像崇拝が相応の知識から発した理由は、地上の目に見える物はすべてそれに相応したものをもっているということであり、たんに木のみでなく、凡ゆる種類の獣と鳥も、また同じく魚も他の凡ての物も(それに相応したものをもっているということであった。)古代人は、相応の知識を持っていたため、天界の事物に相応した像を自分のために作り、その像が、天界に属し、それで教会に属している事柄を意味しているために、それを歓んだのである。それでかれらはそれを神殿のみでなく、家にもおいたのであるが、それはそれを拝するためではなく、そこに意味されている天界の物を思い出すためであったのである。従ってエジプトその他には子牛、雄牛、蛇、また子供、老人、乙女たちの像があったのであるが、それは子牛と雄牛とは自然的な人の情愛と力とを意味し、蛇は感覚的な人間の明敏さを、子供は無垢と仁慈を、老人は知恵を、乙女は真理に対する情愛をというふうに意味したためである。(しかし)相応の知識が記憶から抹殺されたとき、かれらの子孫は、古代人の立てた像と象徴とを、それが神殿の内に、またその周りに立っていたということから、聖いものとして、ついには神々として礼拝しはじめたのである。