知識の木の蛇
天界の秘義206
自分の目は開いており、自分は神のように何が善であり、何が悪であるかを知っていると、自分自身を愛すると同時に世の学問にすぐれている者にもまさって強く信じる者があろうか。しかもその者ら以上に盲目の者がいようか。彼らに尋ねてみるのみで、彼らは霊の存在を知りさえもしておらず、ましてや、そのことを信じていないことが明らかとなるであろう。彼らは霊的な天的な生活の性質を全く知っておらず永遠の生命を認めてはいない、なぜなら彼らは自分が死んでしまう獣のようなものであると信じており、また主を認めないで、只自分自身と自然のみを拝しているからである。彼らの中で、そうした表現を警戒しようとする者らは、その者らの知りもしない自然の何か最高の存在が凡ての物を支配していると言っている。それは原理であって、彼らはそれを感覚と記憶知の物により多くの方法で、確認しているが、敢えてそれと同じことを全宇宙の前にもやってのけようと試みるであろう。こうした人間は神としてまたは人間の中最も賢明な者として認められようと願ってはいるものの、もし自分自身のものを何ら持たないことは如何ようなことであるかを知っておられるかと尋ねられるならば、それは単に想像の作り事であって、無知な物を抑えつけておくのに役立つであろうと言うであろう。もし認識とは何であるかを知っておられるかと尋ねられるならば、彼らはただそれを嘲笑するのみで、それを狂的なたわごとであると呼ぶであろう。これが彼らの知恵であり、こうした『開いた目』を彼らは持っており、こうした神々が彼らなのである。こうした原理は昼よりも明らかであると彼らは考えて、それを出発点とし、歩み続け、そうした方法で信仰の諸々の秘義について論じるが、その結果は暗黒の深淵でなくて何であろう。これらが他の凡てに勝って世をまどわす『蛇』である。しかし最古代教会のこの子孫は未だこのような性格を持っていなかったのである。このようなものになったものは本章の14節から19節に取扱われている。
天界の秘義229
11−13節「かれは言われた、たれがあなたにあなたが裸であることを告げましたか。あなたはわたしがあなたに食べてはならないと命じた木の実を食べましたか。その人は言った、あなたが私と共にいるように与えられた女が、その木の実を私に与えました。それで私は食べました。神エホバは女に言われた、なぜあなたはこうしたことをしましたか。すると女は言った、蛇が私を欺きました、それで私は食べました。」この言葉の意義は前に説明したことから明白である、即ち、人間の合理的なものはそれ自身がその合理的なもの自身のものにより欺かれるのに甘んじたのは、その合理的なもの自身のものが人間には愛しいものであったためである(即ち自己愛により愛しいものであったためであり)、かくて彼はその見たり、聞いたりすることの出来る物を除いては何物をも信じなかったということが明白である。たれでも以下のことは認めることが出来よう、即ち、神エホバは蛇に語りかけられはしなかったのであり、実に『蛇』はいなかったのであり、また神は蛇により意味されている感覚的な部分に語りかけられはしなかったのであって、これらの言葉にはそれとは異なった意味が含まれており、即ち、彼らは彼ら自身が感覚により欺かれたのを認めつつも、なお自己への愛の結果、彼らが主について、主に対する信仰について聞いたものの真理を信じる以前にそれを確かめようと願ったという意味が含まれているのである。
感覚により把握しない物を何一つとして信じようとしないで、遂には何物をも信じなくなり、自らを盲目にしてしまった者らは、古代『知識の木の蛇』と呼ばれたのである。なぜならこうした者らは感覚的な物とその迷妄[妄想]から大いに論じ―そうしたものは容易に人間に把握されて、信じられもするのであるが―かくして多くの者をたぶらかしたからである(195、196番参照)。他生ではこのような者は以下の事実により他の霊たちから即座に区別されている。即ち、彼らは信仰の凡ゆる事柄についてそれがそうであるか否かと論じ、それがそうであることを数限りがない程幾度も示されるにしても、依然提供されている凡ての証明に対し否定的な疑惑を持ち出して、しかもそれを未来永劫に至るまでもやり続けようとするのである。そうした理由から彼らは常識を持っていない程にも、即ち、善と真理の何であるかを把握することが出来ない程に盲目になっているが、それでも彼ら各々は自分が宇宙のいかような者よりも賢明なものであると考え、知恵は神的なものを空しい空ろなものにして、それを合理的なものから引き出すことが出来ることに在るとしているのである。この世で賢明な者であると尊重されている多くの者はとりわけこうした性格を持っている。なぜならたれでも才能と知識を与えられて、否定的なものの中におればおるほど益々その者は他の凡ての者にもまさって発狂するからである。それに反したれでも才能と知識とを与えられて、肯定的なものの中におればおるほど益々その者は賢いものになることが出来るのである。記憶知により合理的な能力を培うことは人間には決して拒まれてはいないが、しかし禁じられていることは聖言に属している信仰の諸真理に反抗して自らを頑なにすることである。
天界の秘義4802[4]
以下のことも附言されたのである、前にはこのような人物は、その生命から論じる時は、真理に反したこおを語るため、ひときわ知識の木の蛇と呼ばれたのである。更に彼らは顔は愛らしいが不快な匂いを発散させているため、行く先々でそのためつまはじきされてしまう女のようなものであるとも言われたのである。更に他生ではこのような人物は天使たちの社会へ近づくと、実際悪臭を発散させるのであり、それを彼ら自身さえもその社会に近づくとすぐに認めるのである。このことからもまた信仰は信仰の生命がないならいかようなものになるかが明らかである。
天界の秘義5128[3]
古代人の間ではこのような人間は知識の木の蛇と呼ばれたが(195−197番を参照)、現今では彼らは合理的なものを何ら持たない内的な感覚的な人間と呼ばれることが出来よう。
天界の秘義10236[6]
感覚的な人間の何であるかを簡単に述べよう。世から入って記憶の中に在るような物からのみ考えて、内的なものへ引き挙げられることが出来ない者は感覚的な人間と呼ばれており、天界と神的なものを見ないため、それらについては何ごとも信じない者らは特にこうした者である、なぜなら彼らは専ら感覚のみに頼り、感覚の前に現れないものは無であると信じているからである。こうした者らは獣の性質に接近しているものの ― 獣もまた専ら外なる感覚により導かれているからであるが、― それでも行動し、論じることは狡猾で、巧妙であるが、しかし真理を真理の光からは認めはしないのである。こうした者らは昔知識の木の蛇と呼ばれたが、そうした者の大半は奈落の一味である。(しかし感覚的な人間の何であるか、また感覚的なものそのものは何であるかは、9331、9726、9730、9731、9922、9996番に見ることが出来よう、感覚的なものの上に高揚されること、またはそこから引き出されることの何であるかは、9922番に引用された所に見ることが出来よう)。
神の摂理211
神的摂理は何人もその存在を殆ど知らない程に秘かに働く理由は人間が滅びないためである。なぜなら人間の意志である人間の自己性は神的摂理とは決して協力せず、人間の自己性はそれに対して生れ乍らの敵意を持っているからである、なぜならこれが最初の両親を誘惑した蛇であって、それについては、『私はおまえと女との間に、おまえの裔と女の裔との間に敵意を置こう、彼はおまえの頭を砕くであろう』(創世記3・15)と言われているから。
蛇は凡ゆる種類の悪を意味し、その頭は自己愛であり、女の裔は主であり、人間の自己性と主の間には、それ故また人間の深慮と主の神的摂理の間には敵意が置かれている、なぜなら人間自身の深慮は絶えずその頭をもたげ神的摂理は絶えずそれを押さえつけられているからである。もし人間はそれを感じるなら、彼は神に向かって怒り、憤激し、滅びるであろう、しかし彼はそれを感じないため、人間に対し、自分自身に対し、運命に対し怒り、憤激することは出来るが、しかしそのために滅びはしないのである。この理由から主はその神的摂理により絶えず人間を自由の中に導かれ、この自由は人間には全く人間自身のものとして見えている。
神の摂理310[1]
「自分自身の深慮と自分自身のものでない深慮との性質」。
外観を真実なものとして考え、それを真理としてみなし、特に自分自身の深慮は凡ての物であって、神的摂理は、もしそれが単に普遍的な物でない限り、無であるという外観を真理としてみなしている者はただ自分自身の深慮を信じているに過ぎない―単に普遍的なものはそれを構成する個別的なものが無いなら存在することは出来ないことは前述したところである。彼らはまた迷妄に取り付かれている、なぜなら真理であると信じられる外観は凡て迷妄となり、彼らは迷妄を確認するに応じて唯物主義者となり、或る身体感覚により、特に視覚により認めることの出来る物を除いては何ものも信じないからである ― それはこの感覚は特に思考と一つのものとして働くためである ― 彼らは遂には感覚的となり、そしてもし神よりも自然を信じて、その信念を確認するなら、その内的な心を閉じて、その上にいわばヴェールをかけ、後にはそのヴェールの下に在るものを考えて、その上に在るものを何一つ考えない。これらの感覚的な人間は古代人により『知識の木の蛇』と呼ばれ、霊界では彼らにつき、彼らはその信念を確認する度に応じてその内的な心を鼻までも閉じていると言われている。なぜなら鼻は真理の認識を意味し、彼らはそれを些かも持たないからである。今彼らの性格を説明しよう。彼らは他の者以上に狡猾で陰険であり、巧妙な理論家であり、狡猾と陰険を理知、知恵と呼んで、それ以上のことを知らない。彼らは他の凡ての者を、特に神を拝し、神的摂理を承認する者を単純で愚劣なものと考える。彼らに殆ど知られていないその心の内的原理について言うならば、彼らは殺害、姦淫、盗み、偽証を本質的には意に介するに足りないものとして考え、所謂マカベリ主義者のようなものであり、もし彼らがこれらの悪を非難して論じるなら、それは全く自分の真の性格を明るみに出すまいとする慮りから発している。世の人間の生命については、彼らはそれを獣の生命に似ているとしか考えず、死後の人間の生命については、それはいわば生命的な蒸発気であって、死体または墓場から立ち上がって、再び沈み、かくて消滅すると考えている。ここから霊と天使とは空気以外の何物でもないという狂った考えが生まれ、未来の生命を信じるように教えられた者の中には、人間の霊魂もそのような性質を持っていて、見たり、聞いたり、または話したりすることは出来ず、それ故盲目であり、聾であり、唖であって、その霊魂を構成している空気の一部分内でのみしか考えることが出来ないという考えが生まれている。彼らは『どうして霊魂はそれ以外の物で在り得よう。外なる感覚は身体と共に死滅したのではないか』と言う。彼らは、霊魂が再び身体に結合しない中は、これらの感覚を再び得ることが出来ないと信じており、死後の霊魂の状態については単に感覚的な考えを抱くのみで、霊的な考えを抱いていないため、そうした状態に対する信念を確立したのである、もしそうでなかったなら永遠の生命に対する信念は死滅したであろう。彼らは特に自己愛を確認して、それを生命の火また公けの奉仕に対する刺激と呼んでいる。彼らはこうした性格を持っている故、自分自身を拝し、その思いは迷妄であり、即ち悪念を確認する者は悪鬼と呼ばれ、悪念に生きる者は悪魔と呼ばれている。私はまた最も狡猾な感覚的な人間の性格についても教えられた。彼らの地獄は背後の深い下に在り、彼らは他から見られないように願っているため、そこにその幻想の形である妖怪のように飛び回りつつ現れ、魔鬼(ヂエニ)と呼ばれている。私が彼らの性格を知るため、その中でかつて許されてその地獄から出て来た者があった、彼らは直ぐに私の後頭部の下の顎の辺に身を向け、こうして私の情愛へ入り込んだが、私の思考へ入ろうとはしないで、これを巧みに避けた、彼らは私の情愛をその反対のものに、または悪念に私の知らぬ間に変えてしまおうとの意図を以てそれを次から次へと変えて行った、彼らは直接に私の思考に働きかけなかったので、もし主が止められなかったなら、私の知らぬ間に私の思いをも変更してしまったであろう。かくの如きが、神的摂理のような物が在ることを世で信じないで、他の者の中に自分の欲念、欲望以外の物を何ら求めず、彼らを完全に支配する迄はこれを導き続ける者の将来の状態である。彼らはこれを他の者に些かも気づかれないように秘かに狡猾に行い、死後その真の性格を明らかにされるため、霊界に入るや否や、彼ら自身の地獄へ投げ込まれる。彼らは天界の光の中で見られると、鼻を持たないように見え、そして注目すべきは、彼らは非常に狡猾であるものの、他の者以上に感覚的なことである。古代人は感覚的な人間を蛇と呼んだため、またこのような人間は抜目がなく、狡猾であり、理論家としては他の者以上に巧妙であるため『さて蛇は野の如何なる獣よりも敏かった(創世記3・1)と記され、主は『それ故あなたたちは蛇のように用心深く、鳩のように柔和でありなさい』(マタイ10・16)と言われ、同じ老いた蛇、悪魔、悪鬼と呼ばれている竜は『七つの頭と十の角とその頭に七つの冠』を持つ者として記されている(黙2・3、9)。七つの頭により狡猾が意味され、十の角により誤った理論による説得力が意味され、七つの冠により聖言と教会の聖い物を冒涜することが意味されている。
続 最後の審判61/(静思社/最後の審判とバビロンの滅亡P127)
人間はその両親から植え付けられた悪を、または遺伝的な悪を持っていることは知られているが、しかしそれは何から成っているかを知る者は少ない。それは支配を求める愛から成り、これに自由が許されるに従って、それはほとばしり出て、遂には凡ての者を支配し、しまいには神として祈られ、拝まれようとする欲念で燃え上がりさえするものである。この愛がエバとアダムとを欺いた蛇である。なぜならそれは女に次のようなことを言ったからである。
あなた方がその木の実を食う日には、あなた方の眼は開いて、あなた方は神のようになることを神は知っておられる(創世記3・4,5)。
それゆえ人間が手綱を緩められてこの愛に突入するに従って、彼は神に背を向けて、彼自身に向き、無神論者となる。そのとき聖言に属する神的真理は手段として仕えるかもしれないが、支配が目的であるゆえ、その手段は単に彼に役立つためにその心に在るに過ぎない。これが支配愛の中間度と究極度に在る者が凡て地獄にいる理由であり、地獄にはこのような性質を持っていて、人が神について語るのを聞くに我慢の出来ない者がいるのである。
結婚愛353
そして男は各々生来自分自身を愛する性向があるため、自分自身に対する愛と自分自身の理知を誇る自負心のために滅びることのないように、この男の愛が妻に書き写され、それが彼女の中に生来植え付けられ、彼女はその夫の理知と知恵を愛し、それでその夫を愛し、そのことによって妻は夫の自分自身の理知を誇る誇りを妻自身に吸引して、夫のもとではそれを消滅させ、妻自身のもとではそれを活かし、かくしてそれを結婚愛に変え、それに測り知れない悦ばしさを満たすように創造から定められたのである。このことは以下の理由から定められたのである、即ち、自分自身の理知に対する愛である蛇から言われ、説得されたように、男が自分自身の理知を誇って、自分は自分自身から理知的になり、賢明になるのであって、それは主からではないと信じ、かくて善と悪とを知る知識の木の実を食べて、それにより自分が神のようなものであり、実に神であると信じる程にも狂わないためである、そうした理由から、そのため人間はそれを食べた後では楽園から追放されて、生命の木への道は天使により警戒されたのである』。楽園は、霊的には、理知であり、生命の木の実を食うことは、霊的には、主から理解し、知恵を得ることであり、善悪を知る知識の木の実を食うことは自己から理解し、賢明になることである。