否定的

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

2.マリア・ワルトルタ

3.サンダー・シング

4.奇蹟には何らの効果もない

5.学者

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

天界の秘義233

 

 以上語られた所から信仰の事柄について感覚的なものと記憶知に訴える者は、自分自身を疑惑の中へ投げこむのみでなく、否定にも、すなわち暗闇の中へも投げ込み、従って凡ゆる欲念に自らを投げ込むことが明白である。なぜなら彼らは誤ったことを信じるように、誤ったことをまた行いもするからである。そして彼らは霊的な天的なものは存在しないと信じるように、身体と世とに属したものを除いては他に何物も存在していないと信じるのである。かくて彼らは自己と世とに属したものをことごとく愛し、またこのようにして諸々の欲念と悪とが誤ったものから迸り出てくるのである。

 

 

新エルサレムの教義51

 

懐疑的な肯定と懐疑的な否定があり、前のものは善良な者のもとに、後のものは悪い者のもとに存在している(天界の秘義2568番)。

 

 

新エルサレムの教義51

 

それ自身においては否定である懐疑的な否定に留まっていて、自分は科学的なものにより説得されないかぎりは、信じはしないと言う者は決して信じはしない(2094、2832番)、

 

このように振舞う者は教会と天界に属した物については狂ってしまう(128―130番)、

 

彼らは悪の誤謬に陥る(232、233、6047番)、

 

 

学者の多くは霊的な事柄では単純な者よりも狂っている、なぜなら彼らは否定し、その否定を確認する科学的なもの(知識)を豊かにもっているから(4760番)。

 

霊的な生命については何ごとも理解できなかった一人の学者の例(8629番)。

 

科学的なものから信仰の諸真理に反抗して論じる者らは感覚の迷妄[妄想]から論じるため、その論理は鋭く、その妄想に他の者は捕らえられて、説得もされる、なぜならそれを払いのけることは容易ではないから(5700番)。

 

 

天界の秘義128

 

世的な形体的な人間は、もし私は感覚に属した物により信仰について、信仰に関わる凡ゆる物について教えられてそれを認めないならば、また記憶に属した物により教えられて、それを理解しないならば信じはしないと心に語り、自然的な物に相反する筈はないと考えて、このことを確認するのである。かくて彼は天的で神的な物を感覚の諸々の物により教えられようとするが、それは駱駝が針の穴を通ることが不可能であるように不可能なことである。なぜなら彼はそうした手段によって賢明になろうとすればするほど、益々自分自身を盲目にしてしまい、ついには何物をも信じなくなり、霊的なものが在ることさえも、または永遠の生命が在ることさえも信じなくなるからである。このことは彼の仮定している原理から生まれている。これが善悪の知識の実を食うことであり、彼はそれを食うに応じて益々死んだものとなってしまうのである。しかし主から賢明になろうとは欲するが、世から賢明になろうとはしない者は、主を信じなくてはならない、すなわち、主が聖言において語られたことは真理であるため、それを信じなくてはならないと心に語り、この原理に従ってその思考を規定するのである。かれは理性、知識、感覚、自然に属した物により確認するが、確認させない物は捨て去ってしまうのである。

 

 

天界の秘義129

 

人間はその仮定した原理が如何に誤ったものであっても、それにより支配され、その者の知識と理性は尽くその原理を支持することを人各々知ることが出来よう、なぜならそれを支持するようになる無数の考察がその心に現れてきて、かくて彼は誤った物を確認するからである。それゆえ、見て理解しない中は何物も信じることは出来ないということを原理として心に確認する者は決して信じることは出来ないのである。それは霊的な天的な物は眼で見たり、想像により考えついたりすることは出来ないからである。しかし真の秩序は人間は主から、すなわち、聖言から賢明になることであり、そのときは凡ての物は続いて起り、かれは理性と記憶知に属した事柄さえも明るくされるのである。

 

 

天界の秘義1072

 

「そして酔ってしまった」(創世記9・21)。これはかれがそのことにより過誤に陥ってしまったことを意味していることは聖言の『酔いどれ』の意義から明白である。自分が把握する事柄を除いては何ごとも信じないでそうした理由から信仰の神秘な事柄を探求する者は酔いどれ[酔っ払い]と呼ばれている。そしてこのことは、その人間の常として、記憶か、哲学か、その何れかの感覚的な事柄により行われるため、そのことにより過誤に陥らないわけにはいかないのである。なぜなら人間の思考は地的な、形体的な、物質的なものから発していて、そうしたものが絶えずその思考にまつわりついており、またそうしたものの中に人間の思考の観念が基礎づけられ、また終結もしているため、それは単に地的な、形体的な、物質的なものであるにすぎないからである。それゆえこうしたものから神的な事柄について考え、論じることは自己を過誤と歪曲とに陥れることであり、このようにして信仰を得ることはらくだが針の穴を通ることが不可能であるように不可能である。こうした源泉から発した過誤と狂気とは聖言では『酔っぱらうこと』と呼ばれている。実に他生では信仰の諸真理についてまたそれに反抗して論じる魂は、または霊は酔いどれのようになり、またそうした者のように振舞いもするのである。彼らについては主の神的慈悲の下に後に述べよう。

 

 

天界の秘義1072[2]

 

霊たちは仁慈の信仰の中にいるか否かについては互に他から完全に区別されている。仁慈の信仰の中にいる者たちは信仰の真理については論じないで、その事柄はそうであると言い、また可能な限りそれを感覚と記憶の事柄により、理性の分析により確認はするが、しかしその真理が彼らから認められない、何か明確でないものが彼らの道に現れるや否や、それを脇に置いて、決してそうしたもののために自分が疑惑に陥るのを許さないで、自分達が把握出来るものは極めて僅かしかない、それで何かが自分達がそれを把握しないからといって真ではないと考えることは狂気の沙汰であると言うのである。これらが仁慈の中にいる者たちである。

しかし―その反対に―仁慈の信仰の中にいない者らは単に何かの事柄がそうであるかないかと論じ、それがいかようになっているかを知ろうとのみ願い、自分たちがそれがいかようになっているかを知らない限り、それがそうであることを信じることは出来ないと言うのである。このことのみからでも彼らは何ら信仰を持っていないことが直ぐ様知られるのであり、彼らは凡ゆる物について疑うのみでなく、心の中でそれを否定し、その実情のいかようなものであるかを、教えられてもなおその不信仰にしがみついて凡ゆる種類の反対意見を述べ始め、例えそれが永遠に続いても決して黙従しようとはしないということが彼らの不信仰の印となっている。このようにその頑迷さにあくまで固執する者らは過誤に過誤を積み重ねるのである。

 

 

 

天界の秘義2338

 

「彼は激しく彼らを促した」。 これは人間が征服する〔打ち勝つ〕時の試練の状態を意味していることは、試練の中におかれた者によらなくては認められることは出来ない。前に言ったように、試練においては主の現存〔臨在〕と慈悲とにかかわる、また救いにかかわる疑惑が伴うのである。そのときその人間と共にいて、試練をもたらしてくる悪霊らは否定の念を強力に吹き込むが、しかし主から来ている善良な霊たちと天使たちとは凡ゆる手段を尽くしてこの疑惑の状態を吹き払って、その人間を希望の状態の中に留め、ついには彼に肯定的なものを確認させるのである。その結果試練の中にいる者は否定的なものと肯定的なものとの間につり下げられるのである。試練において屈服する者は疑惑の状態の中に止まって、否定的なものへ陥ってしまうが、しかし征服する者は実際疑惑の中にはいるが、しかしそれでも、もし彼が自分自身が希望により元気づけられるのを許すなら、肯定的なものの中に堅く立つのである。この争闘の間でその人間は、特に祈りにより、主が臨在されて、憐れみをたれ、助けを与え、堕地獄の状態から救い出して下さるようにと、主に強要する〔強いる、促す〕ように見えるため、それで私たちが今取り扱っている記事におけるように、教会の人間となりつつある者たちの試練が取扱われているところでは、これらの事柄は天使たちが先ず『否、自分たちは夜通し街路に滞在します』と言うことにより、またロトが激しく彼らを強制してそのため彼らは彼の方へ向いて、彼の家へ来たことにより記されているのである。

 

 

天界の秘義2568[4]

 

それで二つの原理が在り、その一つは愚鈍と狂気とに導いて行くが、他は理知と知恵に導いて行くのである。前の原理は凡ゆる物を否定することであり、または自分らは自分らが感覚により把握し、または認識することが出来るものにより確信しない中はそれらを信じることは出来ないと心の中で言うことであり、これは愚鈍と狂気に導いて行く原理であって、否定的原理と呼ばれねばならないのである。

 

 

天界の秘義2568[5]

 

否定的な原理から考える者は合理的なものに諮るに応じ、益々記憶知に諮り、また哲学的なものに諮るに応じ、益々自分自身を暗黒の中へ投げ込み、真逆様に突き落として、ついには凡ゆる物を否定してしまうのである。

 

 

天界の秘義2588[2]

 

 人間の間では信仰の教義的なものはいかようになっているかは前に述べたところであり(2568番)、すなわち、人間が考える源泉には二つの原理が、否定的な原理と肯定的な原理が在り、理性と記憶知とに属したものにより、否、感覚に属したものにより納得しない限りは何ごとも信じない者は、否定的な原理から考えているが、しかし、主が聖言でそのように言われたために事柄は真であると信じる者は、かくて主に対する信仰を持っている者は肯定的な原理から考えているのである。何かの事柄が聖言の中に在るためそれが真であるということについて、否定的な原理にいる者は自分は合理的な物と記憶知とにより説得されるなら信じようと心で言っている。しかし事実はそうした者は決して信じはしないということであって、実際彼らはたとえ視覚と聴覚と触覚の身体の感覚により仮にも納得するにしても信じようとはしないのである。

 

 

天界の秘義2832

 

たれでもこのことを経験から、もし注意もし、反省もするなら、自分はそれがそうであることを感覚または記憶知のいくたの物により把握しない限り、何ごとも信じないと言っている者たちから知ることが出来よう。もしあなた方が彼らの性質を点検するなら、彼らは何ごとをも信じていないことを知られ、さらに彼らにとってはすべての物を自然に帰することにまさって賢明に思われるものは何一つないことを知られるであろう。

 

 

天界の秘義3224[2]

 

 単に世の光に属しているものの中にのみいて、そこから悪から派生している誤謬の中にのみいる霊たちは、他生で天界から発している光を実際得るには得ているが、しかしそれは迷妄の光のような光であり、あるいは火のついた炭または松明から発してくる光のような光であって、天界の光がそれに接近すると、この光は直ぐにも消滅してしまって、暗闇となるのである。この光の中にいる者は幻想の中におり、彼らは幻想の中に見るものを真理であると信じているのであり、またそれ以外のものは一つとして彼らには真理ではないのである。彼らの幻想はまた汚れた、猥褻なものに固く結びつけられており、そうしたものを彼らは特に歓んでおり、かくて彼らは気が狂って、精神が錯乱している人間のように考えるのである。誤謬については、彼らはそれがそうであるか、否かと論じはしないで、すぐさまそれを肯定はするが、しかし善と真理とについては、絶え間なく論じて、結局は否定してしまうのである。

 

 

天界の秘義3833

 

人間が真理へ導き入れられ、真理から善へ導き入れられている間に、かれが学ぶ凡てのものはかれには明確なものではないが、しかし、善がかれに連結されつつあり、かれが真理を善から見つめると、そのときはそれはかれに明らかとなり、しかもそれは継続的に益々明らかとなって行く。なぜなら今やかれは事柄が存在しているか否か、またそれはそうであるか否かについてはもはや疑いを持たないで、それが存在しており、またそれがそうであることを知っているからである。人間がこうした状態の中にいると、そのときかれは無数の事柄を知りはじめるのである。なぜなら今やかれはその信じ、また認めているところの善と真理から、中心から円周へ進むようにも進むのであり、そして進むに比例してかれは周囲に存在している事柄を見、しかも継続的に益々広く見るからである。なぜならかれは絶えず境界を押しすすめて広げつつあるからである。このようにして善から真理の光は無限に増大して連続した透明体のようなものになるのである。なぜならそのときその人間は主から発している天界の光の中にいるからである。しかし、事柄が存在しているか否かについて、それはそのようなものであるか否かについて疑惑を持って、論争している者たちのもとでは、これらの無数の、いな、無限のものはいささかも現れはしないのであり、彼らには凡ゆるものは全般的にも個別的にも全く明確なものではなく、何か真に存在するものとしては殆ど認められはしないで、むしろその存在も疑わしいものとして認められるのである。現今では人間の知恵と理知とはこうした状態の中にあり、事柄が存在しているか否かについて器用に論じることができる者が賢い者と見なされており、それが存在しないと論じることができる者はそれにもまして賢い者であると見なされているのである。

 

 

天界の秘義6015[3]

 

パロに頼る者・・・記憶知に頼るが、聖言にすなわち聖言の主に頼らない者

 

このような者はとくに、「これらの事柄をわたしに目で見させなさい、またはそれがそうであることを科学的にわたしに示しなさい。そうすればわたしは信じよう」ということを慣わしとしているのである。しかしかれらは万が一見るにしても否定的なものが全般的に支配しているため、信じようとはしないのである。

 

 

天界の秘義6479

 

あまり気質の良くない霊どもが、しばらくの間わたしと共にいたが、かれらは凡ゆる物が一つの源泉から流れ出、かくて主から流れ出ることができることに対し感覚の妄想から絶えず疑惑を注ぎだした。しかしかれらは以下のように話された。すなわち、かくも多くの疑惑は感覚の妄想のために―それが先ず消散されなくてはならないが、その妄想のために―また無数の未知の事柄のために―それらは先ず知られなくてはならないが、そうした事柄のために―短時間ではとり除かれることはできないのである、否、否定的なものの中にいる者たちのもとでは、すなわち、否定的なものに遍く支配されている者らのもとでは、疑惑は到底除かれることはできないのである。なぜならかれらのもとでは一つの疑念にも一千の肯定よりも重みがかかっているからである。 なぜなら一つの疑念は瞳孔の間近におかれた一粒の砂のようなものであって、それはただ一つのものであって、小さいものではあるものの、視覚を凡て奪い去ってしまうからである。しかし、肯定的なものの中にいる者たちは、すなわち、肯定的なものに遍く支配されている者たちは、真理に反しているところの妄想から発した疑念を斥けてしまい、もしかれらの理解しない物が何かあるなら、それを傍らに投げやって、自分たちはまだそれを理解してはいないと言いはするものの、依然その真理を信じ続けているのである。しかし右に記した霊たちは否定的なものの中にいたため、これらの事にはほとんど注意はしなかったのである。

 

 

天界の秘義6839

 

このことは聖言の文字の意義はその内意に関連していかようなものであるかを示しており、また文字の意義の内容は、単純な者から理解されるようにそれ自身を彼らに適応させているといった性質を持っていることを示しているのである。単純な者は単にそれが〔文字の意義が〕現れているように信じるのみであって、現れていないものは信じはしないのである、なぜなら彼らは事柄の内部へ入ることが出来ないからである、それで聖言がその文字の中でそうした性質を持っていなかったなら、それは受け入れられはしなかったであろう。感覚的な物の中にいて、世の事柄に心を奪われている者は決して内的なものを把握はしないのである。彼はその信じなくてはならない物を見ようと欲し、その見ない物は謂わば彼には無縁のものであり、それについて彼自身から考えている時は、それを否定に価した、または兎も角疑って見るに価した事柄として斥けてしまうのである。

 

 

 

天界の秘義7012

 

「それをもってしるしを行わなくてはならない」。これは、その結果諸真理を明らかにして、確認することを意味していることは、『しるし』の意義から明白であり、それは真理を確認することであり(6870番を参照)、それがまた明らかにすることを意味しているのは、真理を確認することは人間が真理を知ろうとする目的から聖言を学ぶ時主から明るくされることによって行われるためである。明るくされて、その結果諸真理を確認することについては以下のことを知られたい、即ち、(ユダヤ民族やイスラエル民族のように)内なるものの無い外なるものの中にいる者らは明るくされることは出来ないし、かくてまた真理を確認することも出来ないが、それに反し外なるものの中にいると同時に内なるものの中にいる者たちは聖言を読む時は、明るくされて、その明るくされた状態の中で諸真理を認め、その後その諸真理を益々確認し、そして驚くべきことを言うのではあるが、各々の者はその真理に対する情愛に応じて明るくされ、またその生命の善の性質に応じて真理に対する情愛を持つのである。ここからまた真理のために真理を愛する情愛を持たないで、自分自身の利益のために真理を求める情愛を持っている者は、聖言を読む時も全く明るくされはしないで、単に教義的なものを、それがいかような種類のものであれ、確認するに過ぎないのである、なぜなら彼らは主の王国を求めないで、世を求め、信仰を求めないで、名声を求め、かくて天界の富を求めないで、ただ地の富を求めているに過ぎず、例えたまたま聖言から真理を知ろうとする願望に捕えられるにしても、真理に代って幾多の誤謬が現れてきて、遂には凡ゆる物が否定されてしまうからである。こうした事柄を言ったのは、明るくされることとは何であるか、その結果真理を認識することとは何であるかを明らかにするためである。

 

 

 

2.マリア・ワルトルタ

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P65

 

イエズスは言われる。

「わたしに否定出来ない或種の真理を兄弟たちに納得させるために、一つのしるしを求める神父に言いなさい。わたしは、わたしのたとえ話の中の富めるエプローネに答えた同じ答えを神父にする、『もしモーセや預言者たちに耳を傾けないならば、たとえ誰かが死者のうちから生き返っても、彼らはその言うことを聞かないであろう』と。

 もしわたしによって霊感を吹き込まれた、非の打ち所の無い真実の警告を叫ぶ彼らの良心に耳を傾けないなら、もし、彼らのうちにまだ残存する感受性の欠けらさえも不信仰で押し潰すとすれば、どうして他の事に耳を傾けるというのか? もし、彼らの心を打つ現実の前に頭を垂れないなら、思い出さず、理解せず、何一つ認めないなら、どうして一つのしるしを信じるだろうか?

 たとえ彼らはわたしを否定しないと言っても、わたしをも否定している。彼らは自分を『知者』だと言い、地球ではないものを理解しようとして、地球にどっぷりと漬かり過ぎ、信じるという美しい、聖なる、単純な、純粋な能力を彼らの学問の石と煉瓦の下で窒息死させてしまった。

 ああ、マリアよ! どれほど貴女のイエズスは苦悩し、悲しんでいることか! わたしが、わたしの死を代価に播いたものが死ぬのを見て。

 だが、たとえわたしが出現したとしても、彼らはわたしを信じないだろう。わたしの出現の驚異の重さを測り、列挙し、分析するために科学のすべての道具を始動させ、彼らの文化のありったけの推理、推論をひけらかし、わたし、主、万物の主が出現することはあり得ない、という自分たちの理由に有利なように、預言者たちや聖人たちの言葉をあべこべに引用して彼らに迷惑をかけて、解明しようとするだろう。

 二十世紀の今も、単純な人々、子供たちはわたしについて来るし、わたしを信じるだろう。彼らが単純なのは、合理主義と不信と心の傲慢が手を付けていない赤子と同じ心の持ち主だからだ。いいや。わたしはわたしの教会に、信じる能力のある者を見出さないだろう。言い替えれば、わたしの司祭の大軍団の中に最高の処女性、すなわち『霊魂のそれ』を維持することを知ったいくばくかの霊魂を見出すだろう。

 

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P67

 

 愛する人よ、見てごらん。信仰を陵辱し、それから成聖を奪い、殺す合理主義ほどわたしがきびしく裁くものは少ない。わたしは真の、絶対の王的信仰を大文字で言う。わたしは合理主義をわたしの殺し屋として断罪する。それは人々の心のなかでわたしを殺し、教会と世界にとってまことに悲しむべき時代を準備したし、今も、準備している。

 ほかに幾つかのことをわたしは呪った。しかしわたしはこれほどには誰も呪わないだろう。合理主義はそこからほかの、ほかの、ほかの有害な教説が出てくるいわば種子であった。それは敵に門を開く裏切り者であった。実際、合理主義が統治して以来これほどそれがサタンに対して城門を開いたことはかつてない。

「人のが来るとき、彼は人々の心に信仰を見出さないであろう」と言われている。だから合理主義はその仕事をしている。わたしは自分の仕事をするだろう。

 罪と情念に扉を閉ざすように、否定する学問の顔面に秘密の神殿の扉を閉ざすことをわきまえ、一切である唯一者と共にひとり、最後まで生きる人々は幸いである。

 まことにわたしは言う、人間的な罪を犯してそれを痛悔する不幸な人々を、わたしは胸に抱き占める。わたしにはすべてが出来るということを、彼らが常に認めているかぎり。しかし、人間的な学問の一教義に基いて、わたしが与えるようにとが望んだ顕示における超自然性を否定する人々には裁き主の顔で臨むだろう。

 

 生まれつき耳の遠い人には音は聞こえないだろう? 事故で鼓膜に穴のあいた人も聞くことは出来ないだろう? 手で触れて彼らに聴覚を取りもどさせるのはわたしだけだろう。しかし、耳が閉ざされている霊魂が、わたしに手を触れさせないなら、どうやって霊魂に聴覚を回復させることができようか?

 

 神父が最後の反対者について投げかけた質問については、神秘の陰に包まれた恐怖を残すことにしよう。ある種のことがらは、知ったとてなんの役にも立たない。善良でありなさい。それで充分だ。アダムの子孫を支配するこのおぞましい王国の持続を短縮することを目標に、即座に前もってあなたたちの善意を示すことだ。(中略)

 

 

 彼を『否定』と名づけることが出来る。なぜなら彼はを否定し、生命を否定し、すべてを否定するだろうから。すべてを、すべてを、すべてを。

 あなたたちはそこにいると思うのか?その時にはそれは頭上に轟きわたる雷鳴となるだろう。

 善良でありなさい。わたしの憐みはあなたたちの上にある」。

 

 

3.サンダー・シング

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P279

 

 9.わたしたちは定められた目的地に辿り着く前に痛みと苦しみと誘惑を通らなければならない。このような段階はすべて、霊的成長にとって、未来の幸せにとって必要である。わたしたちがそこを通るよう神が求められているのはそのためである。これが神の計画でなかったら、神はわたしたちにそれを求めることもなかったであろう。だが、神が求めておられるのであれば、誰がそれに対抗できよう。わたしたちは降りかかかる運命はみな喜んで受けとめ、どんな疑いも抱いてはならない。疑いは人と神との間に壁を作り、神の臨在と交わりを楽しむ力を奪ってしまうのである。

 

 

4.奇蹟には何らの効果もない

 

天界の秘義7290[]

 

ましてや、霊界から発している何らかの物が存在していることが承認されてはおらず、起こりはしても、自然に帰せられはしない種類の一切の物が否定されている現今では、その奇蹟の効果はないのである、なぜなら地上における神的なものの流入と統治に対する否定が遍く行き亘っているからである。それでもし教会の人間が現今神の奇蹟そのものを万が一見るにしても、彼は先ずそれを自然の中へ引き降ろし、そこでそれを汚し、後には幻影としてそれを斥け、果てはそれを神に帰して、自然に帰しはしない者を嘲笑するのである。奇蹟には何らの効果も無いことはルカ伝の主の御言葉からもまた明白である―

 

もし彼らがモーセと予言者とに聞かないなら、たとえたれかが死人からよみがえっても納得はしないであろう(ルカ16・31)。

 

 

 

5.学者

 

天界の秘義6316

 

 学者の大部分は感覚的なものであると聞くと、あなた方は驚かれるであろう。その理由は、彼らは名誉を得て、それにより利得を得ようとして、ただ名声のためにのみ知識を得ているのであるが、賢明な者になろうという目的を抱いてはいなかったということである、なぜなら学界の科学は凡て賢明になる手段ともなり、また発狂する手段ともなるからである。学者たちは名誉を与えられると、その後は単純な者よりも更に感覚的に生き、その時は神に何かを帰して、深慮と自然とに帰しはしないことは、また他の凡ゆる物を偶然に帰しはしないことは、愚物の為すところであると信じるのである。