肯定的

 

『然り、然り』『否、否』とのみ言いなさい(マタイ5・37)

否定的

 

 

1.肯定的

2.単純に聖言を信じている者たちはすべてのことを知る必要は無い

3.尊崇の念をもって主について考え

 

 

 

 

新エルサレムの教義51

 

懐疑的な肯定と懐疑的な否定があり、前のものは善良な者のもとに、後のものは悪い者のもとに存在している(天界の秘義2568番)。

 

 

天界の秘義1072

 

「そして酔ってしまった」(創世記9・21)。

 

これはかれがそのことにより過誤に陥ってしまったことを意味していることは聖言の『酔いどれ』の意義から明白である。自分が把握する事柄を除いては何ごとも信じないでそうした理由から信仰の神秘な事柄を探求する者は酔いどれ[酔っ払い]と呼ばれている。

 

そしてこのことは、その人間の常として、記憶か、哲学か、その何れかの感覚的な事柄により行われるため、そのことにより過誤に陥らないわけにはいかないのである。なぜなら人間の思考は地的な、形体的な、物質的なものから発していて、そうしたものが絶えずその思考にまつわりついており、またそうしたものの中に人間の思考の観念が基礎づけられ、また終結もしているため、それは単に地的な、形体的な、物質的なものであるにすぎないからである。

 

それゆえこうしたものから神的な事柄について考え、論じることは自己を過誤と歪曲とに陥れることであり、このようにして信仰を得ることはらくだが針の穴を通ることが不可能であるように不可能である。こうした源泉から発した過誤と狂気とは聖言では『酔っぱらうこと』と呼ばれている。実に他生では信仰の諸真理についてまたそれに反抗して論じる魂は、または霊は酔いどれのようになり、またそうした者のように振舞いもするのである。彼らについては主の神的慈悲の下に後に述べよう。

 

 

天界の秘義1072[2]

 

霊たちは仁慈の信仰の中にいるか否かについては互に他から完全に区別されている。仁慈の信仰の中にいる者たちは信仰の真理については論じないで、その事柄はそうであると言い、また可能な限りそれを感覚と記憶の事柄により、理性の分析により確認はするが、しかしその真理が彼らから認められない、何か明確でないものが彼らの道に現れるや否や、それをわきにおいて、決してそうしたもののために自分が疑惑に陥るのを許さないで、自分達が把握出来るものは極めて僅かしかない、それで何かが自分達がそれを把握しないからといって真ではないと考えることは狂気の沙汰であると言うのである。これらが仁慈の中にいる者たちである。

 

しかし―その反対に―仁慈の信仰の中にいない者らは単に何かの事柄がそうであるかないかと論じ、それがいかようになっているかを知ろうとのみ願い、自分たちがそれがいかようになっているかを知らない限り、それがそうであることを信じることは出来ないと言うのである。このことのみからでも彼らは何ら信仰を持っていないことがすぐさま知られるのであり、彼らは凡ゆる物について疑うのみでなく、心の中でそれを否定し、その実情のいかようなものであるかを、教えられてもなおその不信仰にしがみついて凡ゆる種類の反対意見を述べはじめ、たとえそれが永遠につづいても決して黙従しようとはしないということが彼らの不信仰のしるしとなっている。このようにその頑迷さにあくまで固執する者らは過誤に過誤をつみ重ねるのである。

 

 

天界の秘義2338

 

「彼は激しく彼らをうながした」。 これは人間が征服する〔打ち勝つ〕時の試練の状態を意味していることは、試練の中におかれた者によらなくては認められることは出来ない。前に言ったように、試練においては主の現存〔臨在〕と慈悲とにかかわる、また救いにかかわる疑惑が伴うのである。そのときその人間と共にいて、試練をもたらしてくる悪霊らは否定の念を強力に吹き込むが、しかし主から来ている善良な霊たちと天使たちとは凡ゆる手段を尽くしてこの疑惑の状態を吹き払って、その人間を希望の状態の中に留め、ついには彼に肯定的なものを確認させるのである。その結果試練の中にいる者は否定的なものと肯定的なものとの間につり下げられるのである。試練において屈服する者は疑惑の状態の中に止まって、否定的なものへ陥ってしまうが、しかし征服する者は実際疑惑の中にはいるが、しかしそれでも、もし彼が自分自身が希望により元気づけられるのを許すなら、肯定的なものの中に堅く立つのである。この争闘の間でその人間は、特に祈りにより、主が臨在されて、憐れみをたれ、助けを与え、堕地獄の状態から救い出して下さるようにと、主に強要する〔強いる、促す〕ように見えるため、それで私たちが今取り扱っている記事におけるように、教会の人間となりつつある者たちの試練が取扱われているところでは、これらの事柄は天使たちが先ず『いな、自分たちは夜通し街路に滞在します』と言うことにより、またロトが激しく彼らを強制してそのため彼らは彼の方へ向いて、彼の家へ来たことにより記されているのである。

 

 

天界の秘義2568[2]

 

他の原理は聖言から発している教義に属した事柄を肯定することであり、また、それらのことは主がそれらのことを言われたため真理であると自分自身の中で考え、信じることであり、これは理知と知恵そのものとに導いて行く原理であって、肯定的原理と呼ばれねばならないのである。

 

 

天界の秘義2588

 

 主が聖言でそのように言われたために事柄は真であると信じる者は、かくて主に対する信仰を持っている者は肯定的な原理から考えているのである。何かの事柄が聖言の中に在るためそれが真であるということについて、否定的な原理にいる者は自分は合理的な物と記憶知とにより説得されるなら信じようと心で言っている。しかし事実はそうした者は決して信じはしないということであって、実際彼らはたとえ視覚と聴覚と触覚の身体の感覚により仮にも納得するにしても信じようとはしないのである。

 

 

天界の秘義2588[]

 

主に対する愛と隣人に対する仁慈の中にいる者は教義の諸真理を受け、聖言に対する信仰を持つことが出来るが、しかし自己と世に対する愛の生命の中にいる者らにはそれは不可能である。またはそれと同じことではあるが、善の中にいる者たちは信じることが出来るが、しかし悪の中にいる者は信じることは出来ないという真理を考えてみられよ。肯定的なものの中にいる者たちは理性と記憶知の無数のものにより、それを確認することが出来るのである。すなわち、真理と善とは一致するが、しかし真理と悪とは一致しない。誤謬はことごとく悪の中に在るように、それは悪から発している、もしたれかが悪の中にいながらも真理を持っているにしても、それはただ唇の上に在るのであって、心の中にはないのである(という根拠からそれを確認することができるのである)。また記憶知からは彼らは真理が悪を避け、悪が真理を吐き出すという多くの事柄により確認することができるのである。

 

 

天界の秘義2689

 

 たれでも子供時代に、善と真理とに初めて滲透しつつある間は、彼は両親や教師から話され、教えられるものは真であるという肯定的な観念の中に主により留めおかれているのである。霊的な人間になることが出来る者たちにあっては、この肯定的なものはいくたの知識により確認されるのである。なぜなら彼らが後になって学んで、その肯定的なものに一致しているものは何であれこの肯定的なものに徐々に入り込んできて、それを確実なものにし、しかもそのことがますます行われて、ついには情愛にさえも至るのである。これらの者がその信じている真理の本質に順応して霊的な人間になり、試練において征服する者たちである。

 

 

天界の秘義3833

 

人間が真理へ導き入れられ、真理から善へ導き入れられている間に、彼が学ぶ凡てのものは彼には明確なものではないが、しかし、善が彼に連結されつつあり、彼が真理を善から見つめると、そのときはそれは彼に明らかとなり、しかもそれは継続的に益々明らかとなって行く。なぜなら今や彼は事柄が存在しているか否か、またそれはそうであるか否かについてはもはや疑いを持たないで、それが存在しており、またそれがそうであることを知っているからである。人間がこうした状態の中にいると、そのとき彼は無数の事柄を知り始めるのである。なぜなら今や彼はその信じ、また認めているところの善と真理から、中心から円周へ進むようにも進むのであり、そして進むに比例して彼は周囲に存在している事柄を見、しかも継続的に益々広く見るからである。なぜなら彼は絶えず境界を押し進めて広げつつあるからである。このようにして善から真理の光は無限に増大して連続した透明体のようなものになるのである。なぜならそのときその人間は主から発している天界の光の中にいるからである。しかし、事柄が存在しているか否かについて、それはそのようなものであるか否かについて疑惑を持って、論争している者たちのもとでは、これらの無数の、いな、無限のものはいささかも現れはしないのであり、彼らには凡ゆるものは全般的にも個別的にも全く明確なものではなく、何か真に存在するものとしては殆ど認められはしないで、むしろその存在も疑わしいものとして認められるのである。現今では人間の知恵と理知とはこうした状態の中にあり、事柄が存在しているか否かについて器用に論じることが出来る者が賢い者と見なされており、それが存在しないと論じることが出来る者はそれにもまして賢い者であると見なされているのである。

 

 

天界の秘義3913[5]

 

 最初の手段は内なる真理を、すなわち、それがそうであると肯定し、または肯定出来るものである。この肯定するものが来ると、その人間は再生の初まりの中にいるのであり、善が内なるものから働いて、その肯定を生み出すのである。この善は否定的なものの中へは流れ入ることは出来ないし、また疑惑に満ちているものへさえも、それが肯定的なものとならない中は、流れ入ることは出来ないのである。しかし後になってそれはそれ自身を情愛により、すなわち、その人間が真理に感動することにより、またはそれを歓び始めることにより明らかにするのであり、先ずそれを知ることの中に、次にそれに従って行動することの中に明らかにするのである。例えば主は人類に対する救いであられるという真理を考えてみられよ。このことがその人間に肯定されない限り、その者が主について聖言からまたは教会で学んで、その者の自然的な人の記憶の中のいくたの知識の間に貯えた凡ゆるものはその者の内なる人と連結されることは出来ないのであり、すなわち、そこに信仰のものとなって存在することの出来るものとは連結されることは出来ないのである。かくて情愛もまた流れ入ることは出来ないし、人間の救いに資するところのその真理の全般的なものの中へすらも流れ入ることは出来ないのである。しかしそれが肯定されると、無数のものが附加され、その無数のものは流れ入ってくる善に満たされるのである、なぜなら善は絶えず主から流れ入っているが、しかし肯定するものが無いところには、それは受け入れられはしないからである。それで肯定するものが最初の手段であって、いわば主から流れ入ってくる善の最初の住居である。このことは信仰の真理と呼ばれている他の凡ゆる真理にも言われるのである。

 

 

天界の秘義3914

 

 肯定的なものにおける連結に対する能力

 

なぜなら連結の最初のものは肯定的なもののもとに、すなわちそれはそうであるという肯定的なもののもとに存在しなくてはならないからである。

 

 

天界の秘義3915

 

 情愛から発しているところの第二の度の肯定または承認

 

なぜならその連結が生まれるためにはその承認または肯定の中に情愛が存在しなくてはならないからである。なぜなら情愛がないなら真理には生命はないため、連結はすべて情愛により行われるからである。例えば、隣人を愛さなくてはならない、仁慈はそのことにあり、仁慈の中に霊的な生命があるという真理を知ることは、それに情愛が伴わないかぎり、すなわち、その真理が心から意志されないかぎり、単なる記憶知に過ぎないのである。情愛がないなら、これらの真理は生きていないのであり、たれであれそれらをいかほど良く知ってはいても、それでもその者は自分の隣人を愛しはしないで、彼よりも自分自身を愛しており、自然的な生命の中にいて、霊的な生命の中にはいないのである。

 

 

天界の秘義4760

 

神的な真理について記憶知に諮る際、

 

肯定的な者・・・いくたの確証させるものを認める

 

否定的な者・・・自らをさらなる誤謬に投げ込む

 

 

天界の秘義4760

 

さらにこれは人間各々の知的能力に応じている。高い、すなわち、内的な洞察を持っていない者らが記憶知に諮るなら、彼らはその記憶知の中に真理が確認されるのを認めはしないで、そのためその記憶知により否定的なものの中へ拉し去られてしまうが、しかし、高い、すなわち、内的な視覚を持っている者たちはいくたの確証するものを認めるのであり、たとえ他の方法で認めないにしても、それでも相応により認めるのである。

 

 

天界の秘義4760[]

 

例えば人間は死後も生きるという真理を考えられよ。このことが真であることについて否定的なものの中にいる者らは記憶知に諮ると、彼らはそれを無数のことを考えることにより否定して、その否定を確認するのである、

 

 

天界の秘義4760[]

 

 しかし人間は死後も生きるという真理について肯定的なものの中にいる者たちが記憶知に諮るときは、かれらはそのことをその記憶知により確認し、しかもそのこともまた無数の事柄によりなされるのである、

 

 

天界の秘義4760[]

 

 周知のように学問のある者が単純な者よりも死後の生命を信じないし、全般的に単純な者よりも神的真理を明らかに見ないことが普通である。そのことの理由は、彼らは否定的な立場から(他の者以上におびただしく持っているところの)記憶知に諮ってそのことにより自分自身の中に、高いまたは内的なものから発している洞察を破壊してしまい、それが破壊されると、彼らはもはや何ごとも天界の光からは認めないで、ただ世の光のみから認めるということである、なぜなら記憶知は世の光の中に在って、もしそれが天界の光により明るくされない[照示されない]なら、それは暗黒を生み出すからである、たとえその暗黒はその当人自身にはいかほどそれとは異なったものとして見えるにしても。そうした理由からヨハネ伝の以下の言葉から明白であるように、単純な者は主を信じたが、ユダヤ民族の中で学問のあった律法学者と、パリサイ人は主を信じはしなかったのである―

 

 群集の多くの者たちはこれらの言葉を聞いたとき言った、これはまことに予言者である。他の者たちは言った、これはキリスト(メシア)である。パリサイ人たちは彼らに答えた、支配者たちの中で、またはパリサイ人の中でたれが彼を信じたか(ヨハネ7・40、41、47、48)。

 

 

天界の秘義6479

 

あまり気質の良くない霊どもが、しばらくの間私と共にいたが、彼らは凡ゆる物が一つの源泉から流れ出、かくて主から流れ出ることが出来ることに対し感覚の妄想から絶えず疑惑を注ぎ出した。しかし彼らは以下のように話された。すなわち、かくも多くの疑惑は感覚の妄想のために―それが先ず消散されなくてはならないが、その妄想のために―また無数の未知の事柄のために―それらは先ず知られなくてはならないが、そうした事柄のために―短時間ではとり除かれることは出来ないのである、否、否定的なものの中にいる者たちのもとでは、すなわち、否定的なものに遍く支配されている者らのもとでは、疑惑は到底除かれることは出来ないのである。なぜなら彼らのもとでは一つの疑念にも一千の肯定よりも重みがかかっているからである。なぜなら一つの疑念は瞳孔の間近におかれた一粒の砂のようなものであって、それはただ一つのものであって、小さいものではあるものの、視覚を凡て奪い去ってしまうからである。しかし、肯定的なものの中にいる者たちは、すなわち、肯定的なものに遍く支配されている者たちは、真理に反しているところの妄想から発した疑念を斥けてしまい、もし彼らの理解しない物が何かあるなら、それを傍らに投げやって、自分たちはまだそれを理解してはいないと言いはするものの、依然その真理を信じ続けているのである。しかし右に記した霊たちは否定的なものの中にいたため、これらの事にはほとんど注意はしなかったのである。

 

 

2.単純に聖言を信じている者たちはすべてのことを知る必要は無い

 

天界の秘義2094

 

すなわち単純にこれがそのようなものであることを信じている者たちはそれがいかようにして行われたかを知る必要はないのである、なぜならそれがいかようにして遂行されたかを知ることはたんにその者たちがそれはそのようなものであることを信じるという目的のためにのみあるからである。

 

[2]しかし現今ではそれがそのようなものであることを理論から知らない限り何ごとをも信じはしない者が多くいるのであって、そのことは、唇をもって主を告白しているものの―それは信仰の教義にしたがっているからであるが―主を信じている者は僅かしかいないという事実から明らかに認めることができよう。それでもかれらはもし自分たちがそれがそのようなものでありうることを知るならば自分たちは信じるであろうとかれら自身に言いもし、また互いにそのように言い合っているのである。かれらがそのことを信じてはいないのに、しかもそのことを言っている理由は、主は他の人間のように生まれ、その外なる形では他の者のようであられたということである。これらの人物は、それがいかようにしてそのようなものであり得るかをある程度先ず把握しない限り、いかような信仰も決して受けることができないのであって、そのことがこうした事柄が説明された理由である。単純に聖言を信じている者たちはこうしたすべてのことを知る必要はない、なぜならかれらは、今し方記した他の者たちがこうした事柄に対する知識によらなくては到達することができない目的の中にすでにいるからである。

 

 

3.尊崇の念をもって主について考え

 

天界の秘義3753

 

 尊崇の念をもって主について考え、主の中に神的なものが在り、主は神的なものから話されたことを信じている者はことごとく、右に述べた言葉は、主が教えられ、また話された他の言葉のように、ただ一つの国民についてのみ話されたものではなくて、全人類について話されたものであり、その世の状態について話されたのではなく、その霊的な状態について話されたものであり、また主の言葉は主の王国と教会とに属している事柄を包含していることを知り、また信じることが出来るのである。なぜならそれらの事柄は神的な永遠のものであるからである。たれでもこのように信じている者は、『その日に[その時代に]身篭っている者と乳を飲ませている者は禍いなるかな』という言葉は身篭っており、乳を飲ませている者たちを意味しているのではなく、『あなたたちは冬逃げないように、また安息日に逃げないように祈りなさい』という言葉もこの世の敵のために逃げることを何ら意味しているのではなく、そのことはその他の言葉にも言われると結論するのである。