『然り、然り』『否、否』とのみ言いなさい

マタイ5・37

 

誓ってはならない(マタイ5・34)

賢明肯定的否定的第三天界の天使

あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか(ルカ12・57)

説得された信仰

 

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.聖母から司祭へ

4.マリア・ワルトルタ

5.肯定的

6.普遍的真理は凡て、それが聞かれると同時に承認される

 

 

 

 

1.聖書

 

 

マタイ5・37

 

あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義202

 

 天的な人であった最古代教会は『知識の木の実を食うこと』を、即ち、信仰に属したものを感覚的なものと記憶知から学ぶことを慎んだのみでなく、天的な生命から霊的な生命へ沈み、引いては更に下に沈みはしないかと恐れて、その木に触れることを、すなわち、信仰の事柄であるものを凡て感覚的なものと記憶知から考えることを許されもしないという性格を持っていたのである。それがまた天的な天使達の生命であり、彼らの中更に内的な天的な者は信仰が語られることをさえ潔しとしないで、また何であれ霊的なものに与ったものが語られることをさえ潔しとしないで、もしそれが他の者により語られるならば信仰の代りに愛を認め、それに彼ら自身にのみ知られている相違を持たせて認め、かくて凡て信仰に属したものをことごとく愛と仁慈から得ており、まして信仰についての議論など聞くに堪えることは出来ないのであり、ことにそうしたことに関わる記憶知の事柄はそのいかようなものは些かも聞くに堪えることは出来ないのである。なぜなら愛を通して、彼らは主から善で真のものを認識しており、この認識から物事が然うであるか、然うでないかを直ぐに知っているからである。それで信仰について何かが語られると、彼らはそれが真であるか否かを主から認めているため、それが然うである、または然うでないと答えるに過ぎないのである。このことがマタイ伝の主の御言葉により意味されているところである―

 

ただ然うである、然うである、然うではない、然うではない、とのみ言いなさい、それを過ぎたものは凡て悪からきています(マタイ5・37)。

 

 それでこのことが彼らが知識の木の果に触れることを許されなかったことにより意味されたところである。なぜならもし彼らがそれに触れるなら、彼らは悪の中にいて、即ち、その結果『死んでしまう』からである。にも拘わらず天的な天使は他の天使のように色々な問題について共に語っているが、しかしそれは愛により形作られ、愛から発していて、霊的な天使たちの言語よりも更に表現し難い天的な言語を用いて語っているのである。

 

 

 

天界の秘義1072[2]

 

霊たちは仁慈の信仰の中にいるか否かについては互に他から完全に区別されている。仁慈の信仰の中にいる者たちは信仰の真理については論じないで、その事柄はそうであると言い、また可能な限りそれを感覚と記憶の事柄により、理性の分析により確認はするが、しかしその真理が彼らから認められない、何か明確でないものが彼らの道に現れるや否や、それを脇に置いて、決してそうしたもののために自分が疑惑に陥るのを許さないで、自分達が把握出来るものは極めて僅かしかない、それで何かが自分達がそれを把握しないからといって真ではないと考えることは狂気の沙汰であると言うのである。これらが仁慈の中にいる者たちである。

しかし―その反対に―仁慈の信仰の中にいない者らは単に何かの事柄がそうであるかないかと論じ、それがいかようになっているかを知ろうとのみ願い、自分たちがそれがいかようになっているかを知らない限り、それがそうであることを信じることは出来ないと言うのである。このことのみからでも彼らは何ら信仰を持っていないことが直ぐ様知られるのであり、彼らは凡ゆる物について疑うのみでなく、心の中でそれを否定し、その実情のいかようなものであるかを、教えられてもなおその不信仰にしがみついて凡ゆる種類の反対意見を述べ始め、例えそれが永遠に続いても決して黙従しようとはしないということが彼らの不信仰の印となっている。このようにその頑迷さにあくまで固執する者らは過誤に過誤を積み重ねるのである。

 

 

 

天界の秘義1384

 

 主に対する愛の中にいる天的な天使たちのもとには、善の認識[善を認識すること]が在り、そこから真理の凡ゆるものの認識[真理の凡ゆるものを認識すること]が在り、彼らは善から真理を認識しているため、真理について語ることは全く容認しないし、ましてやそれについて論じることは容認しておらず、単にそれはそうである、またはそれはそうではないとしか言わないのである。それに反し、例え天的な天使達が持っているような認識ではなくても同様に認識を持っている霊的天使たちも、真理と善について語るものの、善と真理とを認識してはいるが、そこには相違があるのである。なぜならこの認識には無数の多様なもの[種類]があり、その多様なもの[種類]は事柄が主の意志のものであるか、否かに関わる、それが主に許されているか、否かに関わる、またはそれは主に容認されているか、否かに関わる彼らの認識に関連しており、その凡ては互いに他から完全に区別されているからである。

 

 

 

天界の秘義1385

 

 皮膚の領域に、特に垢のついた皮膚の領域に属して、凡ゆる事柄について論じようと欲する霊どもがおり、彼らは善で真のものを何ら認識しておらず、実に論じれば論じるほど益々認識しなくなり、彼らは知恵を理論から成立させ、その上に立って賢い者として見られることを要求しているのである。彼らは物事が善であり真であるか否かを論じないで認識することが天使の知恵であると告げられているが、そうした認識が可能であることを悟ってはいない。こうした者らは身体の生命の中で知識と哲学に属した事柄によって真理と善とを混乱させ、そのことによって自分自身に自分はこの上もなく学があるものであると思われている者であるが、しかし彼らは以前聖言から真理の如何ような原理をも取り入れていなかったため、たれにもまさって常識を欠いているのである。

 

 

 

天界の秘義2715[]

 

 このことから同じように以下のことが明白である。即ち、聖言全体の中には主に対する愛と隣人に対する愛の善以外には殆どいかようなものも取り扱われていないものの、それでも霊的な人間は善が信仰の本質であることを知ってはおらず、愛と仁慈とはその本質においてはいかようなものであるかさえも知ってはいないのであり、また彼が本質的なものとしている信仰について学んだことについても、人生の多くの経験により確認しない限り、それが果たしてそうであるか、否かと論じるのである。このようなことは天的な者たちは決して為しはしないのである。なぜなら彼らはそれがそうであることを知り、また認めもしているからである。ここからマタイ伝には主により以下のように言われている―

 

 あなたたちは、然り、然り、否、否とのみ言いなさい。それを過ぎたものは悪から出ている(マタイ5・37)。

 

なぜなら天的な者たちは、霊的な者たちからそれがそうであるか、否かと論じられている真理そのものの中におり、そこから天的な者たちは真理それ自身の中にいるため、その真理に属している無限のものをその真理から見、かくて光から謂わば全天界を見ることが出来るからである。しかし霊的な者たちはそれがそうであるか否かと論じているため、彼らがそうしたことを行っている限り、天的な者の光の最初の境界にさえも来ることが出来ないのであり、ましてや彼らの光からはいかようなものをも眺めることは出来ないのである。

 

 

 

天界の秘義2718[]

 

真理の情愛の中にいることはいかようなことであるか、善の情愛の中にいることはいかようなことであるかを明らかにするため、私たちは簡単に以下のように述べて良いであろう。すなわち、真理の情愛の中にいる者は何かの事柄が真であるか、否か、またはそれがそうであるか否かを、考え、探求し、議論し、それが真であることを、またはそれがそのようなものであることを確認した時でも、それが何であるかと考え、探求し、論じ、かくして最初の入口のところに固くしがみついており、疑惑が晴れない中は知恵に入れられることも出来ないのである。しかし善の情愛の中にいる者たちは、その者たちがその中にいる善そのものから、その事柄がそのようなものであることを知り、また認めもしており、かくて最初の入口にいないで、内の部屋におり、知恵の中へ入れられるのである。

 

 

 

天界の秘義2842[9]

 

 このことから、彼らはエホバの御名により、またはエホバにより誓うことを許されたことが明白であるが、それでもこれは内なる人の確認[内なる人が確認すること]を表象するもの以外の何ものでもなかったことが明白である。しかし内なる人たちは、即ち、良心を持っている者たちは誓言により何ごとをも確認する必要を持ってはおらず、またそのように確認はしないことが知られている。彼らには誓言は恥辱の原因となっている。彼らは実際何かの事柄がそのようなものであると多少断言して言うことが出来、また真理を色々な理由をもって確認することが出来るが、しかしそれがそうであることを誓うことは(そうしたことは)出来はしない。彼らは彼らを拘束している内なる拘束を、すなわち、良心の拘束を持っている。それに誓言である外なる拘束を更に付け加えることは、彼らは心では正しいものではないという非難を自らに負わせるようなものである。内なる人もまた、自由から語り、行動することを愛しはするが、しかし強制されて語り、行動することは愛しはしないといった性格を持っている。なぜなら彼らのもとでは内なるものが外なるものを強制はするが、しかしその反対は行われないからである。そうした理由から良心を持っている者たちは誓わないし、ましてや善と真理とを認識している者たちは、即ち、天的な人たちは誓いはしないのである。これらの者は自分自身をまたは互いに他を理論により確認させさえもしないで、単に事柄は然うである、または然うではないと言うに過ぎないのであり(202、337、2718番)、それで彼らは誓うことからは更に遠ざかっているのである。

 

 

 

天界の秘義2842[10]

 

こうした理由から、また誓言は廃止されなくてはならない表象的なものの一つであったため、主はマタイ伝に以下の御言葉で私たちは些かも誓ってはならないと教えられたのである―

 

 あなたたちは、あなたは偽りの誓いをしてはならない、あなたは誓いを主に向って果さなくてはならないと言われているのを聞いている。しかしわたしはあなたたちに言う。一切誓ってはならない、天によって誓ってはならない。それは神の王座であるからである。また地によっても誓ってはならない。それは神の足台であるからである。エルサレムによっても誓ってはならない。それは大いなる王の都であるからである。またあなたの頭によっても誓ってはならない。あなたは髪の毛一本も白くしたり、黒くしたりすることはできないからである。ただ然うである。然うである。然うではない、然うではないとのみ言いなさい、それを過ぎているものは、何であれことごとく悪から出ている(マタイ5・33−37)

 

 これらの言葉により、私たちはエホバにより一切誓ってはならないし、またエホバまたは主に属しているいかようなものによっても誓ってはならないことが意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義3246[]

 

主の霊的王国を構成していて、霊的な者と呼ばれている者たちについて幾多の所に(例えば3235番その他)すでに示されたことから以下のことを認めることが出来よう、即ち、彼らは善と真理との結婚そのものから生まれた息子たちではなくて、それほど婚姻的なものではない一種の契約から生まれた者であり、彼らは実に同一の父から生まれてはいるが、しかし同一の母からは生まれていないのであり、すなわち、彼らは同一の神的善から生まれているが、同一の神的真理からは生まれていないのである。なぜなら天的な者たちは善と真理との結婚そのものから生まれているため、善を得ており、そして善から真理を得ており、それで真であるものを決して尋ねはしないで、それを善から認識しており、真理についてはそれがそうであると肯定することを超えては真理について話しはしないからであり、このことは主がマタイ伝に―

 

 あなたたちは然り、然りと話しなさい、何であれそれらのものより以上のものは悪から来ています(5・37)

 

と教えられていることに従っているのであるが、これに反し霊的な者は、それ程婚姻的なものでない契約から生まれているため、真理の何であるかを、いかような認識からも知らないで、両親や教師から真理であると話されているものを真理と呼んでおり、それで彼らの中には善と真理との結婚は存在していないが、それでも、彼らがこのように信じている真理は、彼らが生命の善の中にいる時は、主により真理として採用されるのである(そのことについては1832番を参照されたい)。それで霊的なものである者たちはここに『妾たちの息子たち』と呼ばれており、これらの者によりこれまで列挙されたケトラの凡ての息子たちと、また直ぐ以下に、すなわち、12節から18節までにその名を記されているハガルの息子たちとが意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義8694〔3〕

 

 しかし善の中にいて、そこから真理を求める情愛の中にいる者たちにおける啓示の性質は記すことは出来ない。それは明らかではないが、全く隠れているわけでもなく、何かが真理であることに内部から同意し、またそれに好感を持つことであって、もしそれが真理でないなら好感を持たないのである。好感が持たれると、心は休まって、穏やかになり、この状態の中では信仰に属した承認があるのである。それがそうであることの原因は主から発している天界の流入から来ているのである、なぜなら主から天界を通して光が発しており、それが内なる視覚の目である知性を取り巻き、それを明るくしているからである。その時その光の中で見られるものは真理である、なぜならこの光そのものは主から発出している神的真理であるからである。この神的真理は天界の光であることは再三示したところである。

 

 

 

天界の秘義9818

 

「わたしが知恵の霊をもって満たしたところの」これは、その中に神的な真理[神の真理]が印刻されている、を意味していることは『知恵の霊』の意義から明白であり、それは、それが天的な善の中にいる者たちについて言われている時は、神的な真理であり(そのことについては以下に述べよう)、彼らは印刻されたものが存続する時は『それに満たされている』と言われている。この間の実情は以下の如くである、即ち、主の天的な王国にいる者たちは記憶知から、また記憶知から生まれる信仰から真理を知るのではなく、内なる認識からそれを知るということである、なぜなら彼らは主から発した愛の善の中におり、真理はことごとくこの善の中に接木されているからである。善そのものは彼の意志の部分に植え付けられており、その善から派生している真理はその知的な部分に植え付けられているのである。彼らのもとでは、霊的な王国にいる者たちとは異なって、意志の部分と知的な部分とは絶対に一つのものとして活動しているのである。ここから主の天的な王国にいる者たちはその知的な部分から真理を知るのではなく、真理を認識するのである、なぜなら意志に植え付けられている善は理解の中にその性質と形とを示され、そこに恰も焔を上げて燃えているような光となって存在しているからである。彼らのもとでは、真理は善の形であり、その性質は、見られはしないで、認められ、善から発しているのである。ここから彼らは真理については決して論じはしないで、真理について論じる時は、それはそうであり、またはそうではないと言うのみで、それ以上は何ごとも言いはしないのである、なぜならそれ以上のものは何であれ善から発しはしないからである。これらの者がマタイ伝に意味されている者たちである―

 

 あなた方は、然り、然り、否、否と言いなさい、何であれそれ以上のものは悪から発しています(5・37)。

 

(主の天的な王国の中にいる者たちはこうした性格をもっていることについては、2715、2718、3246、4448、5113、6367、7877、9166、943番を参照されたい。天的な王国にいる者たちと霊的な王国にいる者たちとの間の相違のいかようなものであるかは、9276番に引用された所に見ることができよう)。

 

 

 

天界の秘義9942[11]

 

この凡てから今やマタイ伝の『下着[肌着]』により意味されていることを認めることが出来よう―

 

イエスは言われた、些かも誓ってはなりません、天によっても、地によっても、エルサレムによっても、頭によっても[誓ってはなりません]。あなたたちは、そうです、そうです、そうではない、そうではない、と話しなさい。何であれそれを越えるものは悪から出ています。

 

もしたれかがあなたを律法[法律]に引きずって行き、律法[法律]に訴え、あなたの下着を取り去ろうとするなら、その者にあなたの上着をもまた与えなさい(5・34−37、40)。

 

 

 主の天的な王国における天使たちの状態のいかようなものであるかを知らない者は主のこの御言葉に含まれていることを到底知ることは出来ない、なぜならここに取り扱われている主題は主の天的な王国の中にいて、真理をことごとく心に印刻されている者たちにおける善と真理との状態であるからである。なぜなら彼らは主に対する愛の善から真理をことごとく知っており、霊的な王国で行われているように、真理については決して議論はしないのであり、それで真理が話されている時は、ただそうです、そうです、そうではない、そうではないとしか言わないのであり、そこでは信仰を口にさえもしないからである。(その状態については9277番に引用した所を参照されたい)。それでこのことから『些かも誓ってはなりません』という命令により意味されていることが明白である、なぜなら『誓うこと』により真理を確認することが意味されており(3375,9166番)、その確認は霊的な王国では合理的なものにより、また聖言から発している記憶知により行われるからである。

 

『法律[律法]へ引きずって行き、下着を取り去ろうとすること』により、真理について討論し、それが真でないと説きつけようとすることが意味されており、『下着』は天的なものから発した真理を意味しているのである、なぜなら天的な者は各々の者のもとにその者の真理をあまり論じることなしに残しておくからである。

 

 

 

天界の秘義10786

 

星天の第六の地球について

 

彼らは更に以下のように言った、その人物らはまた自分たちを、自分たちは信仰を持たなくてはならない、その人物らの言うことをことごとく信じなくてはならないと自分たちに言って混乱させるのです、自分たちはその人物らに、自分たちは信仰とは何であるかを、または信じることの何であるかを知りません、なぜなら自分たちはその事がそうであることを自分たちの中に認めているからです、と答えます、と。なぜなら彼らは主の天的な王国に属した者であって、天的な王国では凡ての者は私たちのもとでは信仰の真理と呼ばれている真理を内的な認識から知っているからであるが、それは彼らが主の霊的な王国にいる者たちとは異なっており、主から明るくされているためである。彼らがこうした性質の者であったことはまた彼らの観念の焔のような源泉から認めることが出来たのである。真理について話される時、主の天的な王国に属している者たちは、そうです、そうです、そうではありません、そうではありません、としか言わないで、それがそうであるか、そうではないかと、それについて決して論じはしないのである。これらの者が主から『あなたたちはただ、然り、然り、否、否とのみ言って、あなたの思いを伝えなさい、それ以上のことは悪から発しています』と言われている者たちである。

ここから彼らの霊は自分たちは信仰を持つこと、または信じることの何であるかを知ってはいません、と言ったのである。彼らはそのことを、たれかがその仲間に向かって、その仲間がその者自身の目で家または木を見ていて、それが家または木であることを明らかに見ているのに、あなたはそれが家であり、木であるという信仰を持たなくてはならない、またそのことを信じなくてはならないと言うようなものであると考えているのである。主の天的な王国に属している者たちはこうしたものであり、またその天使的な霊たちもそうしたものであったのである。わたしたちは彼らに、私たちの地球では内的な認識を僅かな者しか得ていません、それは彼らはその青春時代に真理を学びはしますが、それを実践しないためです、と話した。なぜなら人間には理解と意志と呼ばれる二つの能力かあり、真理を記憶より先へは許容しない、かくて理解へ若干許容はするが、生命へは、即ち、意志へは許容しない者らは主から全く明るくされることは出来ないからであり、または主から内的に見ることは出来ないため、彼らは事柄が信じられなくてはならない、または人は信仰を持たなくてはならないと言うのである。そして彼らはまたこれらの事柄についてそれらは真であるか、否かについて論じ、実に、彼らはそれらが内的な視覚または理解により認められることを望まないのである。彼らがそのように言うのは、彼らのもとでは真理が天界からの光を欠いており、天界から発している光なしに見る者らには、誤謬は真理として、真理は誤謬として現れることが出来るためである。ここから、人間は真理を実践しなくても、すなわち、真理に従って生きなくても、信仰のみで救われることが出来ると言うほどにも甚だしい盲目がそこの多数の者を捕らえてしまっているのである。

 

 

 

真の基督教354

 

 人間はこの世の職業の故に、信仰の真理を僅かしか得ることが出来ないが、若し、彼が主に近づき、主のみを礼拝するならば、凡ゆる真理を知る力を得るのである。かくして、主を真に礼拝する者は凡て、以前知らなかった信仰の真理を聞くや、直ちに之を悟り、認め、受入れるのである。何故なら主は彼の内にあり、彼は主の中にあるからである。従って、真理の光は彼の中にあり、彼は真理の光の中にあるのである。何故なら上述したように、主は光そのもの、真理そのものにて在すから。是は以下の如くに証明されたのである。私に或る一人の霊が示された。彼は心の単純な社会の一員であるように思われた。何故なら、彼は主のみを天地の神として認め、且つ、この信仰を聖言の僅かな真理によって確認したからである。彼は彼よりも賢明な天使たちの間に取り上げられ、そこで以前、それについては何事も知らなかった智恵を示して彼らと同様に賢明になったことを私は告げられたのである。主の新しい教会へ来る者は同様の経験を持つであろう。彼らの状態はエレミヤ記に次のように録されている。「我がイスラエルの家に立てんところの契約はこれなり、即ち我律法を彼らのうちに置き、その心の上に録さん。人各々その隣とその兄弟に教えて汝エホバを識れと復(また)いはじ。そは少より大に至るまで悉く我を知るべければなり」(31・33、34)。更にイザヤ書に、「エッサイの株より一つの芽出でん。真理はその腰の帯とならん。その時狼は子羊とともに宿り、豹は小山羊とともに臥さん。乳児は毒蛇の洞に戯れ、乳離れの子は手を蝮の穴に入れん。そは水の海を覆えるごとくエホバを知るの知識地に満つべければなり。その日エッサイの根たちて、諸々の邦人はこれに服(まつら)ひきたり、栄光はその留まる所にあらん」(11・1、5、6、8、10)

 

 

 

天界と地獄25

 

 主の天的王国の天使たちは、主の神的なものを更に内的に受け入れているため、知恵と栄光とにおいては霊的王国にいる天使たちよりも遥にまさっている。なぜなら彼らは主に対する愛にいて、そのため主に更に近く、また更に密接に連結しているからである。彼らはそのようなものであるのは、神的諸真理をその生命[生活]の中に直ちに受け入れたからであり、それを先ず記憶と思考との中に受け入れる霊的天使たちとは異なっているためである。かくて彼らはその諸真理を己が心の中に書き記されて、それらを認め、謂わばそれらを自分自身の中に見、その真理は真理であるか、否かと、それについては決して論じはしないのである。彼らはエレミア記に記されているような者である。「わたしは彼らの心の中にわたしの律法を置き、それを彼らの情(ハート)の中に書き記そう。彼らは各々その隣人に、また各々その兄弟に教えて、あなたらはエホバを知りなさいとは言わないであろう。彼らは、その中のいと小さい者からその中のいと大いなる者にいたるまでも、わたしを知るであろう」(31・33,34)。彼らはイザヤ書では『エホバに教えられた者』と呼ばれている(54・13)。エホバに教えられる者は主から教えられる者であることを、主御自身ヨハネ伝(6・45、46)に教えられている。

 

 

 

真の基督教361

 

 かくて、主に対する信仰を持ち、隣人に仁慈を行なう者は自然的なものの中に霊的なものを持ち、かくして、彼らの自然的な心は透明になり、それに応じて彼らは霊的な物と自然的な物に於て賢明となり、何事かを考察し、聞き、或は読む時、直覚的にそれが真理であるか否かを知るのである。これは、彼らの理解の高いスフィアに霊的な光と熱とを注ぎ入れ給う主によって生ずる。人間の信仰と仁慈とが霊的なものになるに従って、彼は己が自己性から引き出され、己自身をまた如何なる報酬をも償いをも考えなくなる。何故なら、彼は信仰の真理を見、且つ仁慈の業を為すことのみを喜び、彼の霊性は増大するにつれて、彼の喜びは救いと永遠の生命の祝福となるからである。この人間の状態は聖言には地上の最も美しい、また最も愉しい物に、例えば、果樹に、果樹の生える庭園に、花に満ちた野に、宝石に、美味に、結婚に、祝祭に、慶事に譬えられている。然し、自然的なものが霊的なものの中にある時、人間は外面的には天使ではあるけれども内面的には悪魔である。

 

 

 

啓示による黙示録解説85

 

「でないと、悔改めないなら、わたしはあなたのもとへ来て、あなたの燭台をその所から取りのけよう」は、でないと、彼らは最早明るくされて真理を見ることが出来なくなるであろう、を意味している。『速やかに』により必ずが意味され(947番)、『燭台』により教会が明るくされることが意味され(43、66番)、ここから、『それをその所から取りのけること』により、明るくすることを取り除いて、彼らは真理をその光の中に見なくなり、遂には、最早それを見なくなることが意味されている。これは前に言われたことから生まれている(82番)、即ち、教義の諸真理が第一次的に、または第一位的に顧慮されるなら、それらは実際知ることは出来ようが、内的には認められないし、また霊的な情愛から愛されもしない、それでそれらは次々と死滅して行くのである、なぜなら真理を真理自身の光から見ることは、霊的な心と呼ばれる人間の内的な心から真理を見ることであって、この心は仁慈により開かれ、それが開かれると、光と真理を理解することの情愛とが主から天界を通して流れ入るからである。そこから明るくされることが発している。明るくされている人間は、真理を読んだり、聞いたりすると直ぐにそれを承認するが、しかしその霊的な心を開かれていない者は承認はしない、霊的な心を開かれていない者は、いかほど教義の諸真理にいようとも、仁慈の善にはいない者である。

 

 

 

神の愛と知恵427[22]

 

「意志と理解とその二つのものの連結について言われることは仁慈と信仰とその二つのものの連結にも言われる」。天的な愛と霊的な愛の二つの愛があり、諸天界はそれに応じて区別されている。天的愛は主に対する愛であり、霊的愛は隣人に対する愛である。これらの愛は天的愛は善への愛であり、霊的愛は真理への愛であるということによって区別されている、何故なら天的愛にいる者は善への愛から用を遂行し、霊的愛に在る者は真理への愛から用を遂行することだからである。天的愛の結婚は知恵との結婚であり、霊的愛の結婚は理知との結婚である、何故なら善から善を為すことは知恵に属し、真理から善を為すことは理知に属し、従って天的愛は善いものを為し、霊的愛は真のものを為すからである。この二つの愛の相違はただ以下のようにのみ定義づけることが出来よう。即ち、天的愛にいる者はその生命に知恵を刻みつけられていて、それを記憶に刻みつけられておらず、その理由から神的真理について語らないで、それを行うのであるが、他方霊的愛にいる者は知恵をその記憶に刻みつけられており、それ故神的真理について語り、それを記憶の内の原理から行っている。天的愛に在る者は知恵をその生命に刻みつけられているため、その聞くところは真であるか、否かを直ちに認め、またそれが真であるか否かと尋ねられると、ただ真である、真でないと答えるに過ぎない。これらの者が主の「あなたたちはただ然うである、然うである、然うでない、然うでない、と言いなさい」(マタイ5・37)という言葉により意味される者たちである。

 そして彼らはこのようなものであるため、信仰については如何ようなことも聞こうとは欲しないで、信仰とは何か、それは知恵ではないか、仁慈とは何か、それは行うことではないかと言うのである。そして信仰は理解されないことを信じることであると告げられると、面を背けて、その人間は狂っていると言う。これらの者は第三の天界にいて、凡ての者の中最も賢明な者である。世でその聞いた神的真理を、悪を地獄のものとしてそこから離れ、主のみを拝することによって、生活に直接に応用した者はこうした者になっている。これらの者は無邪気であるから、他の者には幼児として現れる、彼らは知恵の諸真理については決して語らず、その言葉には些かも誇りはない故、また単純にも見える。にも拘らず彼らは誰かが話しているのを聞くと、その語調からその者の愛の凡ての物を認め、その言葉からはその者の理知の凡ての物を認める。これらの者は主から愛と知恵との結婚におり、前に述べた天界の心臓の領域を表象する者たちである。

 

 

 

3.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1976.2.2

 

 あなたがたの話すことばは、「はい」は、「はい」、「いいえ」は、「いいえ」だけでよいのです。

 それ以上は悪魔から来るものです。それ故、いつも教会から素直に導かれるようにしてください。

 

 

 

 

4.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音2巻P553

130アックヮ・スペツィオーザでの説教。

『あなたは偽証してはならない』。小さなアスラエル。

 

わたしは言う。『あなたたちは常に一つの言語だけを遣いなさい。はいは常にはいであり、否は常に否であるように。たとえ権力者たちや君主たちの面前でさえも。そうすれば、においてあなたたちは大いなる報いを受けるだろう』と。

 

 

 

5.肯定的

 

 

天界の秘義3913[5]

 

 最初の手段は内なる真理を、すなわち、それがそうであると肯定し、または肯定出来るものである。この肯定するものが来ると、その人間は再生の初まりの中にいるのであり、善が内なるものから働いて、その肯定を生み出すのである。この善は否定的なものの中へは流れ入ることは出来ないし、また疑惑に満ちているものへさえも、それが肯定的なものとならない中は、流れ入ることは出来ないのである。しかし後になってそれはそれ自身を情愛により、すなわち、その人間が真理に感動することにより、またはそれを歓び始めることにより明らかにするのであり、先ずそれを知ることの中に、次にそれに従って行動することの中に明らかにするのである。例えば主は人類に対する救いであられるという真理を考えてみられよ。このことがその人間に肯定されない限り、その者が主について聖言からまたは教会で学んで、その者の自然的な人の記憶の中のいくたの知識の間に貯えた凡ゆるものはその者の内なる人と連結されることは出来ないのであり、すなわち、そこに信仰のものとなって存在することの出来るものとは連結されることは出来ないのである。かくて情愛もまた流れ入ることは出来ないし、人間の救いに資するところのその真理の全般的なものの中へすらも流れ入ることは出来ないのである。しかしそれが肯定されると、無数のものが附加され、その無数のものは流れ入ってくる善に満たされるのである、なぜなら善は絶えず主から流れ入っているが、しかし肯定するものが無いところには、それは受け入れられはしないからである。それで肯定するものが最初の手段であって、いわば主から流れ入ってくる善の最初の住居である。このことは信仰の真理と呼ばれている他の凡ゆる真理にも言われるのである。

 

 

 

 

6.普遍的真理は凡て、それが聞かれると同時に承認される

 

 

結婚愛62

 

なぜならそれは普遍的な真理であって、普遍的真理は凡て、それが聞かれると同時に承認されるからであり、そのことは主から発している流入から来ていると同時に、天界による確認からも来ているのである。さて、教会は主から発している以上、主のものであるため、結婚愛は主と教会との結婚に相応しているため、この愛は主から発していることが生まれている。