あなたがたは、何が正しいかを、

どうして自分で判断しないのか。

ルカ12・57

 

 

わたしの羊はわたしの声を聞き分ける(ヨハネ10・27)

 

これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました(マタイ11・25)

 

 

 

 

ルカ12・57

 

あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。

 

 

 

ヨハネ7・17−18

 

この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。 自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・1・7

 

 他人の噂や推察によらず、自分ですべての物事をありのままに判断する人はほんとうに賢明で、人よりむしろ神に教えられたのである。

 

 

コリント1、10・15

 

わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。

 

 

ペトロ2・1・20−21

 

何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。

 

 

ペトロ2・2・10−11

 

彼らは、厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。天使たちは、力も権能もはるかにまさっているにもかかわらず、主の御前で彼らをそしったり訴え出たりはしません。この者たちは、捕らえられ、殺されるために生まれてきた理性のない動物と同じで、知りもしないことをそしるのです。そういった動物が滅びるように、彼らも滅んでしまいます。

 

 

真の基督教296

 

感覚的な、物質的な人間は、単に自然的であって、実に動物以外の何ものでもなく、獣とは単に話しかつ論ずることが出来るという点に於いてのみ異なっているに過ぎないのである。それ故、彼は凡ゆる種類の獣の居る野獣園に住まっている者に似ており、そこには彼は獅子、熊、虎、豹、あるいは狼のように振る舞い、否、また羊のように振る舞ってみせることも出来るが、その時は心の中で嘲笑しているのである。

 

 

ヨハネ3・27

 

ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」

 

 

ヨハネ10・27

 

わたしの羊はわたしの声を聞き分ける

 

 

ヨハネ18・37

 

真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。

 

 

マタイ11・25−27

 

 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任されています。父のほかに子を知る者はなく、子と子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」

 

 

マタイ5・37

 

あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

新エルサレムの教義135

 

隣人に対する仁慈にいる者たちのもとでは、良心は真理の信仰により形作られているため、それは真理の良心であるが、しかし主に対する愛にいる者たちのもとでは、それは真理の愛[真理を愛する愛]により形作られているため、善の良心である。

これらの者の良心はさらにすぐれた良心であり、善から発した真理認識[善から真理を認識するもの]と呼ばれている。真理の良心を持つ者たちは主の霊的王国にぞくしているが、認識と呼ばれるところの、さらにすぐれた良心を持つ者たちは主の天的王国に属している。

 

 

天界の秘義10290

 

「エホバはモーセに言われた」(出エジプト30・34)。

これは聖言を通して主により明るくされ、認識することを意味していることは以下から明白である、すなわち、『言うこと』の意義は、それがエホバから言われているときは、明るくされて、認識することであり(それが明るくすることを意味していることについては、7019、10215、10234番を、それが認識することを意味していることについては、1791、1815、1819、1822、1898、1919、2080、2862、3509、5877番を参照されたい)、モーセの表象は聖言である(6752、7014、7089番)。聖言の『エホバ』が主を意味していることについては、9373番に引用されたところを参照されたい。ここから『エホバがモーセに言われた』により主により聖言を通して明るくされ、認識することが意味されていることが明らかである。

 

[]このことが意味されていることは主は教会の人間とは聖言以外のいかような方法によっても話されはしないためである、なぜなら主はそのとき人間を、かれが真理を認識するように明るくされ、またかれに、それがそうであることを認める認識を与えられるからであるが、しかしそれはその人間における真理を求める願望の質に応じて行われており、人間における真理を求める願望はその真理を求めるかれの愛に従っているのである。真理のために真理を愛する者たちは明るくされるのであり、善のために真理を求める者たちは認識するのである(認識の何であるかについては、483、495、521、536、597、607、784、1121、1387、1919、2144、2145、2171、2515、2831、5228、5920、7680、7977、8780番を参照)。

 

 

黙示録講解195ロ(14)

 

ヨハネ伝には―

イエスはペテロに言われた、あなたは若かったときは、自分自身に帯をしめ、何処であれ欲する所を歩みましたが、老いると、手を伸ばし、他の者があなたの帯をしめ、あなたのねがわない所であなたをつれて行くでしょう(21・18)

 

これらの語がその霊的意義で意味していることは前(9番)に認めることができよう、すなわち、『ペテロ』により教会の信仰が意味されており、かれが『若くて、自分自身に帯をしめ、何処であれ自分の願う所を歩いた時』は、人間が仁慈の善の中にいる教会の初めにおけるその教会の信仰を意味し、そのときはかれらは霊的な人から教会の諸真理について考えることを意味しており、そのことはかれらの霊から考え、かくて真理に対する霊的な情愛から、すなわち、自由から考えることである。

 

しかし『ペテロは、老いたときは、その手を伸ばして、他の者がかれの帯をしめること』により、教会の終りにおけるその教会の信仰が意味されており、そのときは信仰は仁慈を欠如し、かれらはかれら自身からは教会の諸真理については何一つ考えはしなくなって、他の者らから考え、かくて教義のみから考えて、聖言からは考えなくなり、そうしたことは、相対的には、奴隷の状態である。なぜなら他の者が言うことを信じることは奴隷であるが、自分自身が聖言から考えることを信じることは自由であるからであり、そのことはヨハネ伝の主の御言葉に従っているのである―

 

もしあなたたちがわたしの言葉の中にとどまっているなら、あなたたちは真にわたしの弟子であり、あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にするでしょう(8・31,32)