これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、
幼子のような者にお示しになりました
マタイ11・25
ペリシテ/
あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか(ルカ12・57)/
1.聖書
2.スウェーデンボルグ
3.ヴァッスーラ
4.アグレダのマリア
5.マリア・ワルトルタ
1.聖書
イザヤ44・25
むなしいしるしを告げる者を混乱させ
占い師を狂わせ
知者を退けてその知識を愚かなものとする。
マタイ11・25
これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。
ルカ10・21
そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。
2.スウェーデンボルグ
天界の秘義3428
「かれらはさらに他の一つの井戸を掘った、それについてもまた彼らは争った」。これは聖言の内意を、そのようなものが在るか否かについて意味していることは『他の一つの井戸』と『争うこと』の意義から明白であり(それについては前を参照)、かくて連続した事柄からも明白である、なぜなら何事でも否定する者らは、例えば、聖言の内意を否定する者らが、再び争いまたは論争するときは、それは必然的にそれが何らかの存在を得ているか否かに関わるものでなくてはならないからである。現今大半の論争はこれ以上すすまないことは知られている、しかし人間が何かの事が存在しているか否かについて、またそれがそうであるか否かについて論争することに止まっている限り、かれらは決して知恵のいかようなものの中へも進み入ることはできないのである、なぜならかれらの論争の主題となっているその事柄そのものの中に、彼らがそのものを承認しない限り、決して見ることのできない無数の物が存在しているからである、それはそうした場合彼らがそのものを認めない中は、そのものにぞくしている凡ての事柄を知らないからである。
天界の秘義3428[2]
現今の学問は何かのものが何らかの存在を持っているか、否か、それはそのようなものであるか、否かと論争する以上にはほとんど進んでいないのであり、その結果人間は真理の理解から閉め出されているのである。例えば、聖言の内意が在るか否かと論争するに過ぎない者は、内意の内にある無数のものを、いな、無限のものを決して認めることはできないのであり、さらに、仁慈は教会の中で何らかの意義を持っているか否か、仁慈の凡ての物は信仰か生まれないか否かと論争する者は、仁慈の中に在る無数のものを、否、無限の物を到底知ることはできないで、仁慈とは何であるかについては全くの無知の中に止まるのである。
死後の生命、死人の復活、最後の審判、天界と地獄の場合も同じである―これらのものは存在するか否かと単に議論しているにすぎない者は、その間知恵の扉の外側に立っていて、たんにノックするのみで、知恵の壮麗な宮殿の中を覗き込むことは出来ない人物のようなものである。しかも奇妙なことにはこのような人間は自分自身を他の者に較べて賢明な者であると信じており、何かの事柄がそうであるか否かと論じ、特にそれはそうではないと立証することが出来る自分たちの才能に比例して賢明な者であると信じているが、それでも善の中にいて、彼らからは軽蔑されている単純な者たちは、その物が存在し、またその性質のいかようなものであるかを、一瞬にして、何らの議論もなしに、ましてや学問のある論争もなしに認めることが出来るのである。これらの者は真理を認識することについては常識を持っているに反し、前の者はその物が何らかの存在を持っているか否かをとりわけ論じようと欲して、このような方法によりこの常識を消滅させてしまっているのである。主が賢い者と理知ある者から事柄は隠されているが、幼児には示されていると言われるとき、主は前の者についても、後の者についても語られているのである(マタイ11・25、ルカ10・21)。
天界の秘義6053
そしてこのように人間は霊魂について何の観念も持つことが出来なかったため、極めて多くの者は、霊魂は身体が死ぬと消滅してしまう単なる生命的なものに過ぎないという信念を避けることが出来なかったのである。そしてこのことが学者が単純な者よりも死後の生命を信じていない理由であり、彼らはそれを信じていないため、その生命に属して、信仰と愛との天界的な霊的なものであるものも信じることが出来ないのである。このこともマタイ伝の主の御言葉から明らかである―
あなたは賢い者と知的な者とからこれらのことを隠されて、幼児に啓示されました(マタイ11・25)。
更に―
彼らは見ない、聞くけれど、聞かない、また悟りもしない(マタイ13・13)。
なぜなら単純な者たちは霊魂についてはそのような考えは持たないで、自分たちは死後も生きると信じており、その単純な信仰の中に、彼らには知られてはいないものの、自分たちはそこに人間として生き、天使たちを見、天使たちと語り、幸福を得るであろうという信念が隠れているからである。
3.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P16
‘88・8・25
ああ イエス、このすべては遠いことのように思えます、そして主の再臨はますます遠いことのように!
娘よ、私の平和を持ち 喜んで熱心に私を迎えるように、はっきりと言う、時がなくなっている、陰のように消え失せ 我が再臨を現す 最初の兆しの中に あなた方はすでに生きている、産みの苦しみの最初の痛みが すでに始まった、しかし愚かにも、被造物はそれを笑いとばす、我が最初の兆しを拒んで、産みの苦しみがすでに始まったと 信じるのを拒む! そこで私に献身して 私から養われるように、あなたに不足がないように見届ける、左も右も見ないで、まっすぐ私のもとにやって来なさい、私は主であり あなたの師 そして霊的指導者であり続ける、あなたは知恵から学んでいる、私から学んでおり 知恵の鍵を持つのは私である、知者の目を持つ誰にも 知恵を見に入らせない、私は子どもにしか知恵を与えない、単なる子どもだけに 入って行って知恵と出会うのを許す ♡
ありがとうございます わがイエス。
4.アグレダのマリア
アグレダのマリア/神の都市/P16
いと高き御方と天の元后も、私が従順になるようにという命令を繰り返し出されました。神の恩恵のお陰で私が再び執筆を始めたのは、1655年12月8日、原罪の汚れなき御孕りの祝日でした。私は神に告白します(マテオ11・25)。神、いと高き王を崇めます。高揚された荘厳さにより、これらの深遠な神秘を智者や教師には隠し、謙遜により、教会の中で最低で無用の婢である私に啓示して下さいました。
私には偉大で神秘なしるしが天に見えました。一人の女性、最も美しい貴婦人である后が、星々をちりばめた冠をかむり、太陽の衣を着て月の上に立っておられました(黙示録12・1)。
5.マリア・ワルトルタ
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P336
神は霊的なことばで話され、霊魂はこれを聞きます。それに霊魂には年齢がありません。そればかりか幼い霊魂は、悪意を知らないので、神を知る能力として、年寄りの罪人よりも大人であると言えます。シモン、幼い子供が英雄的な愛の知恵を教えることがあるのだと、何時か悟るでしょう。